湯に知れ、道後 ~前編~

【湯に知れ、道後】
〜湯な旅は奥ゆかしき縁を持つ〜
・目次
『湯な旅に物語はつきものだ』
『湯な旅に憂愁はつきものだ』

・以降続刊予定
『湯な旅に馬鹿はつきものだ』
『湯な旅に美学はつきものだ』
『湯な旅に苦労はつきものだ』
『湯な旅に相棒はかかせない』


『湯な旅に物語はつきものだ』
【帰路編】
東雲の空に朝日が昇っていた。古賀裕翔(こが ゆうと)の頬に紅く陽が射す。和らげに肌寒い風が吹き、隣に立つ親友もそちらへ顔を上げた。どれくらいその場に立っていたのだろうと考える。少し朧げな記憶を辿ると、その旅は今まさに満開に咲き誇ろうとしているのだろう。ああこれが旅かと親友が呟く。ふっと鼻で笑う裕翔がそれでもと空を仰ぎ見る。あわやその旅はまだまだ終わりを見せていないと、そう言いたいだけだったはずだが、改札口を前にしてみればそんな気分はなおさら高まるようで、久しく遠ざかっていた感慨深いことを考えては笑い気味な溜め息を吐いてしまっていた。わかっている。そんなこと、これでもかってくらいにな。だから物語にならずにはいられなかったんだ。裕翔は切符を取り出した。

【旅館編】
「ご予約されていた古賀さま2名さまでよろしかったでしょうか?」
フロント受付でチェックインを済ませた親友の裕翔は昔から変わらぬ透明な棒のついた部屋の鍵を手にはっちゃけた様子だ。旅に不幸はつきものだと上木貴史(かみき たかし)は自分に言い聞かせる。チェックインといってもここに来るまでが想定以上に長い道のりだったわけで、貴史にとってはなんだかようやくな気分なのである。そんな貴史に構わず夜明けからテンションを一向に下げようとしない隣の親友にはやはりと言っていいか、まぁ呆れざるをえないわけで、もはやここまでくると尊敬の眼差しさえ持ってしまうほどになっていた。貴史は旅館を見渡す。初っ端から旅疲れ全開の身体が自然と落ち着いてきた。ネットで調べてはいたものの実際にやって来てみると温泉街は割と大きな街並みでそれこそ今回泊まるこの旅館を生で見たときにも小柄な割に老舗漂う雰囲気がまさしく内々に貴史の気分を向上させるそれだった。若干に元気になってきた貴史は裕翔とたわいも無い話にふけりながら部屋に入る前に旅館内を見回してみることにしてみた。旅目的は日頃学生離れした学生生活をこなす貴史と裕翔が穏やかに暮らしたいと久しく会っていなかった高校の親友同士意気投合したことによる。予算までも学生離れせぬよう慎重にアクセス方法やら食費などに気を遣いながら選択肢を間違わないようにここまでやってきた2人だったが、ここまでこればなんだかそんな気分でもなくなってきたわけである。と言うのも旅にはつきもののようだが、見知らぬ土地へ足を伸ばして顔を出してみると案外絶好調な旅気分になってしまう旅人は、ここまでこればもうなんでもありだと高笑いしてしまう、そんな感覚に旅の早々何か不安を漂わせる余裕が出てきていたためであった。貴史は財布を確認してはいたがまぁ楽しもうと心のうちに決めていた。裕翔が、たったそれだけと聞きたいほどに軽いバックを手に持つと部屋へ歩き始めた。貴史は先陣を切る親友に苦笑いしながらついていった。なんだか、面白い出会いがありそうな気がしてならなかったからだ。無論それも言わずにはいた。

【船旅編】
潮風が、降り続ける雨の中ひっそり港からやってきていた。大都会から少し離れたところにある港に、雨傘を指す2人の影。真夜中であるにも関わらず、煌煌と電灯があちらこちらで輝き続け、ある意味では寂しさを実感させまいと設置させられているようにも感じられる。裕翔と貴史は閉店ギリギリのファミレスで安めの夜食をすませると誰もいない真夜中の道を歩き続けて港へやって来たのであった。雨ってのは嫌いだ。隣で歩く貴史がふとぼやいている。親友が大の雨嫌いなことくらいここ数年よく理解していた。裕翔は皮肉に雨傘の破れた隙間から闇から落ちてくる雨粒を見つめながら、知ってんよとぼやき返した。梅雨の時期に学校をサボっていたのが、そんなありふれた理由であることも含めて。静かに降り注ぐ真夜中の雨に背中を半分を濡らしながら裕翔は時計に目をやる。日曜日だったその時刻は今ちょうど日付が変わった時刻に進んでいた。もう少しでカーフェリーが出港する。あとちょいな、と裕翔は貴史に促した。おうと答えた貴史はハンカチで肩についた雨粒を振り払うのを止めて歩くことに専念した。闇夜と霧の向こうでフェリーターミナルが煌々と明かりをともしている姿が見え始めていた。

【和室編】
口を揃え2人はおおおと感嘆の声をあげていた。3泊で学生向けな安い和室を食事抜きのプランで予約したわけだったが、それは予想していたよりも割と望んでいた通りの部屋だったわけで、2人はなかなかの期待を胸に部屋を覗いたことを後悔しなかったのである。それぞれで荷物の置き場を決めあうと個々にスマホの充電器の位置などを把握し始めた。貴史は窓を開けるとふんわりと入ってきた風に吹かれて心地よく窓から夕暮れの温泉街に顔を出した。そんなことに気づくはずもなかったのであろう。近くで日向ぼっこに明け暮れていたつがいの鳩が驚きのあまりにその場で羽ばたいたのである。驚愕したのは貴史の方も同様であり、支離滅裂な声を控えめにあげると窓から一歩退いた。部屋の玄関側で裕翔が高らかにこっちを指差して笑っている。馬鹿にしやがって。貴史は溜め息とともに笑い出すと綺麗に傷なく敷かれた畳の上に寝っ転がった。貴史は暫くぶりに安堵な気分に浸る。船旅を経て真夜中を2人でぐだりながら夜明けとともに港から電車で様々な場所へ寄り道しつつゆっくりとこの松山は道後温泉にやってきた。それなりに覚悟はしていたが、そんな始まりの旅はあまりに想定外なことで包まれていて笑って吹き飛ばすにはもったい無いことこの上なかった。貴史は色々な気分が順繰りに巡り巡って、結果的に今を穏やかに過ごしていた。向こうでせっせと浴衣へ着替え始めた親友にはなんとなく申し訳ない気分があとを絶たない。今でこそ笑える話だったが、多少なり迷惑をかけてようやくここまでこれたのだから、そんなあやふやにできるほど上木貴史という小太りな男は適当な人間ではなかった。意を決して貴史は親友を呼び止めた。パンツ一丁に浴衣を羽織っただけの状態の親友に半ばせめてシャツを着ろよと内心突っ込みながら貴史は正座になり裕翔の前に居住まいを正した。すっと息を吸うと貴史は口をゆっくりと開く。全開の窓から鳩がゆっくりと夕暮れの街へ飛んでいった。

【帰路編】
ありがとな、と隣で街並みを眺める親友からそんな声が聞こえた気がした。裕翔は疑問符をいくつか掲げながら、なんとなく聞こえたかもしれない声に、うなづいた。松山の街を路面電車が特有の擦り切れるようなレールの音を立てながら走り続けていた。路面電車にはこの旅でよくお世話になったと思う。裕翔は温泉街から松山の駅へ向かうこの路面電車に乗りながら割と荒いレールの上を実感しつつ、いつも通りのそれとは違う居心地をなんとなく理解したのであった。若者賑わうレトロな商店街を過ぎ去ろうと信号を確認した車掌が合図を出して発車する。過ぎ去るその光景をのんびりと眺めながら2人は商店街を見て同時に鼻で笑った。

【城下編】
「俺らさ、多分間違えてないか?」
言ってはならない禁忌とも言うべきその言葉に冷や汗をひた隠しにしてきた貴史はスマホで現在の位置を確認し直した。何度も何度も通ったはずなのだが、そこはやはり先ほども通った商店街だった。一体いくつあるのだろうか。晴れ晴れとした松山城が見下ろすこの城下町で2人の異国人は路頭に迷っていた。旅館での一泊後翌朝から巷で有名な500円定食を食べに路面電車に揺られ、知りもしない駅から街を散策し始めたわけであったが、どうにも道行く道が全て罠に嵌められたかのような作りだ。貴史はわかっていてもわかったふりはしていなかった。だが手前の親友は何の気遣いもせずにこの場で最も言ってはならないことを言ってしまったのだ。いやこの際もう認めようじゃないか。迷ったんだ俺たちは。街並みはかつての城下町としての名残があるせいかやけにレトロな情緒溢れる古めかしいそれだった。そんな街を歩いていると不思議と出会いは多いもので手当たり次第に話しかける親友とは違って貴史はやけにのんびりとそんな風景を眺める方が好みだった。日本なんてどこも一緒だと思っていたものだが、行って見てみないとわからないものが多いことは、世の常であろう。そんな大それた自身の考察結果に明け暮れる間もなく、裕翔の切り出した500円定食を食べに行く計画が間もなく完遂しようとしていたのであった。この曲がり角だと貴史は裕翔に言った。提案しておきながら一切確認もせずに親友は前を突っ切る。2人で何かをすることは何分幾年と続けてきたことだ。今更どうだとかああだとか言う気はないが、まぁそんな肩で跳ねながら歩く親友の後ろ姿を、貴史は苦笑しながら眺めたのであった。何はともあれようやく朝を抜いた分、500円定食とやらで腹を収めようじゃないか。そうして曲がり角を曲がり切った2人は足を止めた。昼真っ只中の城下町に、2人の影がしばらく静止した。500円定食の店に、本日の定食が完売となる立て看板が玄関横に置かれてあったことは今更思い出す必要もないオチである。

【船旅編】
おいと声をかけられた裕翔はようやく目を覚ました。ぼやける視界に小太りな親友が映る。そろそろだと言う親友の言葉で裕翔は目をこすりながら起き上がると時計に目をやった。時刻は真夜中の1時を指している。フェリーターミナルでしばらくのあいだ乗船ベルが鳴るのを待っていた裕翔たちは待機室で他の客と共に並べられた長い椅子の列にそれぞれが寝転んでその時を待っていたのであった。ベルが鳴ると同時にゆっくりと起き始めた人影は先ほどまでの数人ではなく男女を問わぬ数十人の規模に増大していた。裕翔は荷物を持つと、既に並び始めていた親友の元へ歩き出した。ぞろぞろと起き始めた人々のそれはまるで浮浪者さながらあるいは死者の復活ともいうべき奇抜な光景だった。外のフェリーに乗船する連絡橋を渡り始めた裕翔は眠さのあまり前を進む親友の肩に重心を傾けた。雨がひとしきり降り続けている。2人の旅はひっそりと雨雲と霧雨のなかで始まりを迎えたのであった。

【女中編】
「こちらの地図をお渡ししておきますね」
それは多分、商売がいくらうまい者でも出せない優しさ溢れる笑顔そのものだった。貴史は裕翔に負けず劣らずのニヤケっぷりでその地図を手にすると礼を言いながら旅館を出た。浴衣というものは不慣れなものだが案外着てみるとその着心地の良さは伊達じゃなさそうだった。旅館を出て歩き始めた2人を後ろからずっと見守るかのように先ほどの女中が立って見送っていた。
「おい見送られてるぞ俺ら」
裕翔が案の定はしゃぎだしていた。だが人のことも言えず貴史もめっさ美人やったなぁと返す。あれがいわゆる道後美人ってやつですかと笑い出した親友に貴史も何故だかテンションが上がり、おうよ!と笑い返す。2人の歩くテンポが速くなり、しまいにはからんからんと下駄を鳴らして早歩きになってきていた。始め出会った時からわかっていたが、あの旅館には1人だけ半端ではない美人の女中がいることを2人は気づいてはいた。だが話しかけるほどの勇気が無く、あえて2人とも口には出してはいなかったが、まだ若者ということもあり熱心に道後の街の歩き方を教え、手に触れて地図を渡してくれたがために、今の2人の頭にはあの美人の女中さんしかなかったのであった。2人は笑いながら駆け出していた。控えめに化粧を身につけ、身だしなみを笑えないほど正しており、かつ着物が似合い、うなじが細く妖艶にのぞかせ、艶のある唇が若さとは裏腹に大人びた雰囲気を出していた。ただの礼儀作法だとしても、もはやこの馬鹿2人の心の暴走は止められなかったのである。道後温泉への切符は既にその心にあったのである。貴史は久しぶりに心から笑っていた。旅なのだ。これが旅なのだと言わんばかりに。2人の足は軽やかに温泉街へ走り始めていた。湯な旅に、物語がつきものであることくらい、誰もがお見通しなのだと、心から歌わんばかりに。
『湯な旅に物語はつきものだ』完。

『湯な旅に憂愁はつきものだ』
【琴平編】
雨傘をさして、裕翔は貴史を数段上の階段で待っていた。そこは、フェリーから夜明けに港に着いたその足で電車に乗り、一時間ほど揺られてやってきたとある有名な観光名所の神社だった。だが日本でも有数なほどにその神社への道のりは何百段もの階段が待ち構えており、まだ降り続けていた雨の中そこを登ることはいささか困難だったのである。雨の中を2人は雨傘をさして半ば強引に湿気をかき分けながら進む。苦労して何かをすることを躊躇なく選ぶ者ほど、苦労し得られるずにまたも無気力さを感じる者の考えていることはわからないものではあるが、この時までまだ裕翔は気づいてはないかったのである。2人はそれなりに夢がありそのためにも日々運動は欠かすことなく行っていた。だが、やはりと言うべきか、元より余分な肉を持ち合わせていない裕翔よりも、少々太り気味の貴史にはかなりの覚悟が必要なもので、その必死さはわかっていても、当人は自身の親友を比べてひどく落ち込むことがここ最近のよくある事情だった。無論それに気づかない裕翔でもなかったが、かと言ってここで余計な励ましを入れたところで、それはより貴史の尊厳を否定しているような、そんなことを考えてしまうのであった。
「俺ってよ、ほんと体力に関しては未熟すぎるっつうか、何やってんだろうな」
貴史の言葉からわかっていたかのように漏れた弱音を裕翔は聞き捨ててはいなかった。正直なところ、裕翔は自分と比べてほしくなんかなかった。そんなことでモチベーションを下げたところで、貴史本人にはプラスではないからだ。雨が降り続けるほど、貴史からは元気が失われていく。あえてその言葉に裕翔は何も返さなかった。旅館への道のりはまだ遠そうだと、裕翔は感じ始めたのであった。

【夕暮編】
絵に描いたような夕暮れは松山の街を、貴史はややうつむきに歩いていた。街といっても散々徘徊した商店街のある中心部とはだいぶ離れた民家あふれるどこにでもあるような、日本風景のそれだった。今時こんな夕日をのんびり歩くことはなかったなぁと貴史はゆっくり歩きながら、橙にこちらを眺める陽に照らされて、公園にいる子供に帰宅を促す親たちの風景をただ見つめていた。どこかで6時の鐘が鳴っていた。松山もその端くれにある道後の温泉街も少しはなれば辺りは田舎町だった。となりで焼き鳥を食い終えた裕翔がビニール袋から更におにぎりを取り出している。いろんなことがあった。そんな風に2人は考えていたのだろうか。帰りを明日に控え、2人は温泉街から少し歩いた先にある大きな公園の中の小山を登り始めた。木の葉が風に吹かれて足元を転がっていく。どこかのベンチで恋人たちが愛を囁く。鴉の鳴き声が陽の入りを静かに夕闇へとはこんでいく。たわいもない話を貴史は裕翔と語りながら、頂上へとやってきた。高い樹々が揺れるたびに夕陽の光が燦々んこちらへ注ぎ込んできていた。不思議な時間だった。地上の方では騒がしかったはずの公園からちらほらと子供が家に帰って行ったようだ。貴史はしんみりとした気分に浸っていた。親友は向こうで夕陽を眺める一組のカップルに小石を投げようとしていたが、そんなことはどうでもよかった。ただ、今ある時間に得体の知れない価値を見つけた気がしただけだった。遠い空に向かって貴史は、馬鹿野郎と呟いた。

【船旅編】
時折、船窓の向こうで波の音が聞こえてくる。カーフェリー内では、真夜中の2時頃までの記憶はあったがそれ以降はもはやまぶたの重力に逆らうことは不可能と判断し、気がつくと2人は共同の寝間でぐっすりと寝ていた。雨の中を歩き続けたのだ。その心身共にくる疲れは馬鹿にはできなかったのである。ハッと起きると同時に裕翔は横でスマホを手に眠る親友を揺すりながら辺りを見回した。寝息を荒く立てる者もいれば、音漏れも気にせずゲームに熱中する者も、自分だけのスペースに壁のように荷物を立てて眠る者もいた。他人に対してここまでも用心の無いのは日本くらいのものであろう。淡い紺色の空を窓から確認した裕翔は、目覚めの悪さに目を睨ませる親友にもう着くぞと告げた。貴史があれほどまでに他人の前で寝るわけがないと豪語していた時間が懐かしく思える。空と海の色が等しく色を合わせようとする時刻の、水平線上には既に香川県は高松港が姿を現していた。フェリー内に着港のアナウンスが入る。気のせいか連絡を告げる放送者の声にも眠気を感じられた。裕翔は広げっぱなしだった食べ物を片付け始めた。いよいよだ。どことなしに湧き起こる向上感があった。そもそも親友との旅なんて早々あるものではない。だからと言って行けるほどの額が財布にあるかと問われれば、それもまた難色を示す他なかった。それだけに今回は思い切った感があった。久しく会っていなかった高校の親友と初の2人旅なんて、そうあることではないだろう。裕翔はようやく目を覚まし始めた親友を横目に日々の疲れを癒す良い旅になることを願った。

【湯町編】
「お待たせしました」
ハンバーガーがやたらお洒落したかのようにお盆にのせられて運ばれてきた。貴史は唖然とする。親友の向かうがままに温泉街の入り口から始まるカラホリ商店街を歩いていたのだが、昭和感溢れるこの商店街でふと一軒だけログハウスのような小洒落た店があったのだ。とにかく不思議なものに目がない親友が目を輝かせながらここへ行くぞ的なオーラを貴史に送りつけてきたことは言うまでもなかった。夕食がてら貴史は頷くと親友を先頭にその店へ入ったわけであるが、結果的に言うとそこは道後美人しかいないハンバーガー屋だったのであるが。飛び跳ねる気持ちをあえて隠した貴史は、裕翔が店員に禁煙席を選ぶ姿を待ち遠しく見ていた。意外な事に、この店では禁煙席のほうが場所を離れるようで、2人が向かった席は別の部屋だった。そのハンバーガー屋には更に奥へ突き進むと野外へ出て日本庭園を抜けた先に、もうひとつの大きな縁側付きの和室があったのである。畳の上には洋式のテーブル一式が置かれていたり、端では布団が普段通りに添えられていたりなど、明治の始まりを漂わせる和室と洋式のミスマッチはもはや言葉がなかった。だが貴史にとってそれは驚きの序盤でしかなかったようで、ハンバーガーを頼むと和膳の如く登場した暁には度肝を抜かれたのであった。そんな貴史は、美味しそうだとはしゃぎ立てる親友を見てなんとなくだが、少し安心したのであった。

【琴平編】
「お前にわかるわけねーだろうが」
ついたように口から出てしまった悪態に親友は相も変わらずヘラヘラとしながら、そうだよなぁと返してきた。雨が静かに参道の石段を降りてゆく。こいつ俺の気持ちわかってんのかよと貴史は苛だちまぎれに舌打ちをした。心の中で。親友なる裕翔はというとこの一年でだいぶ変わったように感じれた。限りなく遠い道のりのような夢であるはずなのに、奴はあれほどまでに安穏とした高校生活から一変し、冷めていた性格もガラリと熱い青年に変わったのである。情に深い者同士、なぜか貴史はそんな親友に感心し、そして妬んでいた。特別なものを持っているわけではない。だが、その感情は多分妬みとしか表現のしようが無いのだと思う。雨傘に時折大きな雨粒がパラパラと打ち付けてくる。石段の横に先ほどまであった屋台が通り過ぎていき、いつしかどこまでも高い杉の木で囲まれていた。裕翔があと半分だぞと励ましを入れてくる。いやそれは励ましにはなれねえんだと貴史は自分の無様な疲れ様を見てうなだれた。何なんだろうな。雨傘の端から淀んだ空を眺めると、雨粒の冷たさがよくわかる気がした。貴史は悔しくてならなかった。同じように俺だって頑張ってきたはずだ。それなのに。多分、それはまだ俺が未熟なだけなのだろう。貴史はなんだか苛だちから反転して、憂鬱になっていた。親友は時折こっちを待ちながらも徐々に先を登っていた。親友ですら妬んでしまう自分が無様で仕方なかった。貴史は雨傘に隠れて唇を噛んだ。妙にそれは苦く、まるで口の中に積もり積もった悔しさが出たようなものだった。

【神社編】
なんとなく懐かしい気もする鳥の声が森の向こうで、どこからともなく聞こえていた。階段とは縁が悪いぜ、と親友がタオルで首まわりを拭いている。裕翔は近くのベンチに腰をかけるとそれまで登ってきた急な石段を眺めた。快晴にして澄み渡るほどに透き通った青空の下、2人は道後の温泉街から少しだけ離れた所にある小山の頂に登ってきていた。風通りがいいせいか、遠くの山脈から流れるように風の波が次第にこちらへやってくる景色が見える。裕翔は深呼吸すると、自分のリュックから水を取り出して貴史に渡した。すでに自分の水を飲み干していた貴史は荒い息を返事にそれを受け取る。裕翔は横目でそんな親友を見ながら幾度となく笑うことにしていた。しんどいことばかりの人生も、見方によってはそうでもなくなることがある。そんな都合のいい話など御伽の国にしかないと言うのなら、それもまた御伽話だ。一昨日の昼までの陰鬱な姿とは打って変わり、今の親友には、どこか自身を理解した上で再び前を向こうとする不屈の勇気がある。自分が傷つかない世界などない。あったとしても、それは死んだ先にある無の骨頂ぐらいだろう。ならば、今ある辛さも弱さも、悪いものじゃないと考えられる。
「そうでもないだろ?」
裕翔の言葉に、貴史は落ち着いて鳥居の前にあるそのベンチに座りなおしながら、ただ肯定するわけでも、否定するわけでもない顔で、少しだけだが、笑った気がした。そんな親友の姿を見ながら、裕翔は鳥居の前に立ち上がると、ゆっくりとお辞儀をした。

【車窓編】
水平線上にはぽつんぽつんと小さな島がいくつも浮かんでいる。どことなしに入り込んできた潮の香りが、車内を優しく包み込んでいた。がたんごとんと列車に揺られながら、貴史は横でイヤホンを耳につけたまま眠る親友の頭をどけて座りなおした。雨雲の絶えない1日だ。夜明け前に着いた高松港からは、送迎バスで高松駅まで向かった。日が昇り始める前に高松駅から列車に乗り込み、時折歯切れの悪いナンパをする親友を無視しながら始発列車で1時間かけてやってきた琴平では、雨が降りしきる中、何百段もの石段を登って琴平神社への参道を登った。帰りには名所たるうどん屋へ寄り、ようやく道後温泉への電車に乗り込んだわけである。これが瀬戸の海か、と貴史は安穏としたその風景を眺めながら窓際に立ち寄った。遠くでカモメが一羽を中心に矢印型に列をなして飛んでいる。気のせいか、列車の速度にも負けていないようだ。貴史は後ろで盛大ないびきをかきながら眠る親友に振り返り、あれを見ろよと言いかけて、呆れ気味にため息をついた。昼下がりの午後、2人の乗った列車は、ゆっくりと、西へ走り続けていった。ほぼ半白目で爆睡する親友を見て見ぬ振りをした貴史は、どこまでも広がる海と潮の香りと、空飛ぶカモメの陰に、僅かながらに、謝ってしまっていた。目をつむると、列車の揺れは、なんとなしに頷いているようだった。

【銭湯編】
湯煙の中に、大きなあくびが響いた。うるせーと叱る親友を放って、裕翔は爪先を湯の中で伸ばし切りながら、天井を仰ぐ。日の始まりから、今に至るまで、かなりの時間を呈してきた。フェリーから降りると、高松駅までの送迎バスでは、故郷に帰る若い女性に出会った。琴平神社に至る道では、親友の新たな一面も知ることができた。苦悩し今も悩み続ける彼の本当の意志を、しっかりと感じ取れた。老舗のうどん屋では思う存分にうどんを食べ尽くし、風変わりな町内バスの運転手と出会った。行く先々で様々な事を知り、多くの人々と出会った。ここに来るまでがひとつの壮大な旅だったように。裕翔はそんな事を思い返しながら、名所たる道後の湯を肩に注いだ。そんな裕翔を見てから、貴史はいろいろ迷惑かけたなぁとボヤいた。それこそうるせーんだよ、と手のひらを水鉄砲に変えてお湯をかけた裕翔は、楽しいじゃねーかと笑って返した。コンタクトを外したせいで何も見えなかった貴史は、いきなり飛んできたお湯にかなり驚いていた。初めに向かった温泉はかの有名な道後温泉本館とは違い、少し離れにある小さな銭湯だった。夜も遅いせいか、銭湯内には人気があまりない。旅館にチェックインしてからというもの、2人はどこか浮ついていた。らしくもなく浴衣を着こなし、らしくもなく洒落たハンバーガ屋へ寄り、らしくもなく、下駄を鳴らして商店街を歩いた。そこにはいささか高揚感に近いものがあったわけで、裕翔はそんな雰囲気を楽しみ、親友はというと、浮れるどころか、その表情に隠しきれぬものが出ていた。笑えることに、つい十数時間前の出来事が遠い過去のように、雨は止み、雲は日が沈むと同時に吹かれていった。たわいもないようで、案外に遠回りだったこの旅は、今ようやくその1日目を終えることができた。いや、まさしくこれからが旅なのであるが、そんな途方も無いことを考えていくうちに、裕翔と貴史は顔を見合わせると、自然と笑ってしまっていた。辛いことも、旅の味。それはまさに、湯な旅だからこそ、憂愁がつきものであるかと言わんばかりに、抑えきれんばかりに、物語っているのであった。湯気がひとしきりゆらゆらと水面下を漂い、その上では、天井を賑わすほどに、2人の男の笑い声が響き続けていたのであった。
『湯な旅に憂愁はつきものだ』完。

湯に知れ、道後 ~前編~

湯に知れ、道後 ~前編~

  • 自由詩
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-22

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