深い森のなかで

深い森のなかで

　どうしてここまで来てしまったのだろう。
　深く、それを考えようとしている自分はまだこの世界に未練があるということなのだろうか。いや、未練、なんてもんはずっと前に捨てたはずだ。未練は私をこの世界に縛りつけようとするくせに、何の力にもなってくれないただの重しのようなものでしかない。あまりにも苦痛で、あまりにも無駄な惰性。溜まっていくばかりの借金や悪情、そして悲しみ。それらのものが俺をこの場所まで追いやったのだ。自分の意思で臨んでここまで来た訳じゃない。それらはとても自然の成り行きだった。
　そういった感情が前からなかったという訳じゃない。だけど、いざ行動に起こそうとすればいつだって足は左右に大きく震えていた。自分の気持ちとは裏腹に体が言うことを聞かない。どうしようもないのだ、俺の心も、体も。既に自分でコントロールできるものではなくなっている。悲しくも、それが今ある俺の現実だ。
　そんな俺に付加される借金や悪の塊を、結局どこにも向ける場所がなかった。狭い部屋でただ一人苦しんでいくしかなかった。
「なぜ、そうなってしまったのか」
そんな疑問、俺にだって分からないんだ。それが分かるのなら、俺は今こんな状況に立たされてなどいないんじゃないだろうか。なあ、そう思わないか？

　とにかくだ。俺はもう死ぬ。そのためにこの森深くまで来た。一本のロープを持って。普段、こんな夜の森に来ていたら、その深い闇の恐怖に怯えていたに違いない。その森はあまりにも深く、全てを吸い込んでしまいそうな圧力を持っていた。ただその場所にいるだけで、そこへ簡単に吸い込まれてしまいそうだ。
　だけど、今は違った。死ぬ、という覚悟が自分にもやっと備わった証なのだろうか。今は、この深く、真っ暗闇の森だって俺は恐怖を感じていなかった。どうにでもなったらいい。そう思った。
　死ぬことほど怖いものはないのだ。

　……。
　……。
　覚悟は出来ていたはずだった。
　この奥深くへ到着したのは深夜一時くらいだったと思う。時計がないから正確な時間は分からない。一つ言えるのは、今空はうっすらと明るくなり始めてきたということだ。
　まだ辺りが暗闇に包まれていた頃に、ロープを枝に縛り付け、その準備をした。俺はロープの先の輪っかに頭を入れる。あとは、この俺が乗っかっている大きな石から足を離すだけだった。
　それだけのはずだった。本当に、あとそれだけのはずだった。

　それなのに、夜は明け、それはうっすらと明るみだす。
　どこからか遠くの方からチュンチュンと鳥の鳴く声が聞こえ、風が吹くと木々の葉が一斉に揺れた。それはまるで恐怖を煽るようなものではなく、新しい一日の始まりを祝福しているようなざわめきだった。
「何をしているのだろうか」
ふと、そう思った。自分はこの場所まで何をしにきたのだろうか。いや、もちろん忘れてなどいない。俺はここに、命を置きに来たのだ。
　次第に明るくなる空は、あまりにも綺麗で、静かな森の中で、自分の吐く息が白くうつった。
〝どうにでもなったらいい〟
そう、それこそが確信であり、答えだったのかもしれない。その気持ちさえあれば、俺はどこまでも行けるような気がしたからこの場所に来た。
「ああーー！！」
訳も分からずに走りだす。嫌なことはまだまだたくさんあった。あまりにも多過ぎた。だけど今は、ただこうして森の中を駆け回っていたかった。いくら大声を出そうが誰の迷惑にもならない、何度転んだとしても誰にも見られてなんかいない。俺は森の中でただ一人、極端に自由だった。どこまでも自由だった。
「戻ろう」
立ち止まった俺の元にまた、大きく風が吹き、木々が揺れた。深く、静かな森の中で、俺の人生はちょっとだけ動いた。