ささやかな想い

ささやかな想い

ささやかな想い


 僕がそれに気付いたのは、もう誰が見ても分かるくらいに彼女のお腹が大きくなっている時だった。毎日同じ交差点で、同じ時間にすれ違う、もちろん彼女の名前など知らないし、どういった人なのかも知らない。趣向も、仕事も、その人となりは全て知らないと言ったっていい。
 ただ唯一知っているのは、彼女が――いや、彼女に限ったことじゃないが――その前面に表現され、誰かれ構わずに振りまいているその顔くらいだった。あくまで一般的には、お世辞にも美しい顔だとは言えないけれど、なんの意味もなしに毎日すれ違っているとただそれだけで小さな親近感みたいなものが生まれた。そして、もちろん声を掛けるとかそんな大それたことなどないのだけど、なんとなく僕は毎朝彼女を目で追ってしまう。
  例えば、そこに愛なるものの感情があればもっと容易く物事は理解できたのかもしれない。だけど、僕は別に彼女をそういった対象として見ていた訳じゃない。彼女は僕のその感情――理想なんてものは当てにならないのだが――とはどうしたって相容れないように見えた。あくまで表面的には。
 もしくはその好意の反対だったとしても、僕は理解出来たに違いない。嫌よ、嫌よ、なんて感情さえ感じられることが出来れば、毎日目で追ってしまう感情も分からなくない。
 だけど、僕が彼女に抱いているものは、それこそ無心に近かった。無心で目がつられてしまうなんてことはあるのかと僕は考えてみたことだってある(ただそれは、別に多くの時間を費やした訳じゃない)。もちろんそれは大きな疑問に変わりはなかった。ましてやそんな風に考えている時点で、好意、もしくはその反対の、感情を持っているのではないかと言われれば僕は何も言い返せないかもしれない。
 ただやはり、そこに何かしらの感情を見つけることは出来なかった。感情をベースとして考えなければ、〝毎日同じ時間、同じ場所ですれ違う女性〟という、その理由だけで十分にも思えて、僕はそれを勝手に〝無心〟としたのだ。
 きっとそんなに簡単に〝無心〟としてしまうところがまた、それを無心と思わせる一つなのかもしれない。

 その人のお腹が大きくなっていたのだ。朝の決まった時間、決まった場所ですれ違うのだから、おそらくそれは彼女の出勤の道のりの一コマなのだと思うのだけれど、スーツを着用している訳ではなかった。まあ、それはいい。スーツを着ずにする仕事なんていくらでもある。彼女はいつもゆったりとしたワンピースを着用し、蛍光色のパンプスを履いていた。彼女は靴を選ぶセンスに欠けているのかもしれないと思ったのは、そのパンプスを毎日見ているからだろうか。
 タイトな服装じゃないから、僕は彼女が妊娠していることに気付かなかったのだろう。いくらゆったりした服装であろうとも、彼女にしてみれば限界を迎えたのだと思う。僕がその妊娠に気付いたのは、彼女があからさまなマタニティウェアを着用していたからだ。そしてあからさまに腹を突き出していたからだ。そう、誰が見たって彼女が妊娠していることは分かるだろう。もし彼女が「妊娠してないわ」と言っても、誰もが嘘だと思うだろう。
 そうなのだ。僕と彼女の関係性の距離はそれくらい離れているのだ。当たり前だ。僕たちは毎朝すれ違っているだけで、それ以上のことなど何もない。
 だけど彼女は今でも僕とすれ違う。同じ時間、同じ場所で。その大きなお腹を大事そうに抱え、僕たちは一瞬だけ同じ空気を吸う。
 それだけなのだ。
 それだけ。
 それだけなのに、僕は彼女が大きなお腹を抱えているその姿を見て幸福な気持ちになったんだ。僕たちは随分と遠く離れた関係性なのに、なぜだか、とても嬉しかったのだ。彼女が一つの命を大事に抱えているその姿が。
 随分と迷って、迷って、迷って。――いろいろな感情が体中を駆け巡った。失礼じゃないだろうか。変な目で見られないだろうか。悲鳴をあげられないだろうか。とか。――結果として僕は、その日、すれ違い様に一言声を掛けた。
「おめでとうございます」
彼女は困惑の表情を見せ、一瞬体を震わせた。あまりここに留まっていると、彼女を余計に不安にさせてしまうと思い、僕はそのまま無言ですぐに立ち去ろうとした。僕としても、とても居心地が悪かった。
 彼女に背を向けて歩き出したところに、
「ありがとうございます」
と小さな声が聞こえた。初めて聞く、彼女の声だった。ゆったりとして、温かみのある声だ。
 僕は振り返り彼女の顔を見ると、彼女はほんの少しの笑みを顔に表していた。そして
「お仕事頑張ってください」
と付け加えた。
 僕は簡単に頭を下げ、早足でその場を立ち去ってしまった。反応を求めていた訳じゃない、僕はただ自分のこの感情を表現したかったためにそう言っただけだった。だけど、彼女はそれを優しく受け止め、少しの言葉を返してくれた。そして僕はまた幸福な気持ちになる。
 
 彼女がどういう人なのかなんて知らない。彼女は何が好きで、何が嫌いなのかも分からない。だけど、生まれてくるその子供が幸せになったらいいと、僕はその通勤途中に密かに願ってみた。大きなお世話かもしれないけれど、ほんの少しだけ、とても謙虚に、願ってみた。ささやかな想いとして。

ささやかな想い

ささやかな想い

心の端の方で、少しだけ願ってみる。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-05-03

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