乱歩への暗号

森山智仁

 郵便受けを開けるのは隆太郎の役目だ。
 不要なものがたくさん届く。住宅の広告、パチンコ屋のビラ、保険の案内、宗教の小冊子。はじかなければならないのは、それら明らかなちり紙ばかりではない。
 ファンレターに注意しなければならない。本来は編集部に送られてくるはずのものだが、直接届くこともある。好意的な内容ならば無論「お通し」して構わない。しかし時にさりげなく批判が埋め込まれていたり、ひどいものでは全文が批判だったりする。そういった「熱心な」ファンからの便りを、父は嫌う。誇りを傷つけられたくないのではない。自分の小説の何が悪いか、充分過ぎるほど理解しているからだ。褒められれば、喜びはする。けれども、基本的に父は自分の小説をつまらないと思っている。全集が出た時などは、それぞれの作品の解説に、駄作だの失敗作だのと、ここぞとばかりに書き殴っていた(よく編集が許したものだと隆太郎は思う)。どこがくだらないのか、何故愚かしいのか、嫌というほどわかっている。わざわざ人様から言われたくはない。
 また、いま現在やりとりをしていない出版社からの手紙も「お通し」してはならない。日本の探偵小説の開祖、江戸川乱歩の原稿は誰もが欲しがる。執筆依頼は次々に届く。しかし当人にはそのラブ・コールにいちいち応える余裕がない。目の前の原稿で手一杯なのだ。なまじ上手い口説き文句だったり、待遇が良かったりすれば、大作家も人間であるから、心が揺れ、雑念に支配されないとも限らない。
 ――というのは戦前の話で、近頃は執筆依頼もぷつりと途絶えていた。来ればはじくが、来ない。頼まれていないものは断りようがない。
「そもそもつまらないのだから当たり前だ。戦前は皆ただ珍しがっていただけだ」
 父はきっとそんな風に考えているだろうが、同時に淋しがってもいるだろう。自信がない。自分の小説を悪く言うのは決してポーズではない。だからこそ世間の評価が重要なのだ。他人に認めてもらえないと、自分が何者だかわからなくなってしまう。未熟な精神。だが、少なくとも確かに戦前は、誰もが父に夢中だった。新作が出れば、人が群がった。さながら浅草寺の鳩のように。
 戦時中、厳しい検閲のため父は執筆活動を中断せざるを得なかったが、あまりそれを苦にしているとは見えなかった。以前の父は近所づきあいを面倒くさがっていた。ところが、隣組の制度によって強制されると、これが案外しっくりきたらしく、張り切って防火訓練などをやっていた。庭に畑や防火用の池や作り、それを満足げに眺めるなど、不謹慎ではあるが、父は戦時下の暮らしを結構楽しんでいたのかも知れない。
 そんな「休暇」が勘を鈍らせたのか、あるいは、いわゆる「才能の泉」が枯れ果ててしまったのか、原因はわからない。いずれにせよ戦後、父の筆はぴたりと止まってしまった。夏の終わり、涼しい日が何日かあって、蝉時雨が聞こえなくなるように。空虚な秋が訪れていた。やがて鈴虫や松虫が鳴き始めてくれるのか、今はまだわからない。静かなまま冬が来てしまうのではないかと、父は焦っている。
 だから、絶対に邪魔をしてはいけない。文壇は既に父の復活を期待してはおらず、「後進の育成や探偵小説の普及に力を注ぐ大先生」という扱いだが、父はまだ何かを書こうとしている。書けると信じているわけではない。けれど書くことでしか生きられないのだ。たとえ泳ぎを忘れても、魚は水の中でしか息ができない。
 父の書斎は土蔵の二階にある。一階は本で埋め尽くされている。国内外の探偵小説や、江戸時代の版本・写本。きちんと数えたことはないが、恐らく一万冊以上あるだろう。黴の匂い、床の軋み、背表紙の彩り。父はこの空間を愛し、「幻影城」と、いささか大仰な名を与えた。天守閣で孤軍奮闘する城主のもとへ、隆太郎は本当に必要な書状だけを届けなければならない。
 隆太郎もいい歳である。大学教授という立派な仕事に就き、妻も子もある。大の男が子供のお使いのようなことをさせられているのを、他人が見たら奇異に思うかも知れないが、ひよこのオス・メスの判別が専門家の仕事であるように、「お通し」すべきか否かの区別は隆太郎にしかつかないのだ。
 しかし、その隆太郎の目をも惑わす手紙が届いた。九月のとある水曜日、よく晴れた朝のことだった。

 バ ゴ ゴ ジ サ リ ン ス ク
 ム ジ ゲ キ ン ホ ウ ッ ヨ
 サ ウ キ コ コ ク シ ュ ウ
 シ ハ ュ ル
 お宝頂戴つかまつる。

 自分の書いた小説を読んでくれと送りつけてくるものはたまにある。そういったものも隆太郎が読む。物書きでこそないが、江戸川乱歩の息子である。二、三枚読めば芽が出そうかそうでないかぐらいはわかる。見込みのないものは丸めて捨てる。稀に「将来性があると言えるかも知れない」ぐらいのものもある。そういう時は、乱歩の名で返事を書いてやる。そうしていいことになっている。即刻父にも読ませねばならない、と思えるような小説が届いたことは、今まで一度もない。
 今回のように暗号だけが来ることも、決して珍しくはない。はじめの頃は父も面白がって、「お通し」すべきものとしていた。作家とファンの知恵比べ。清らかな交流。それだけなら良かったのだが、ある日難問が届いた。知る限りの解法を試し、さんざこねくりまわしても、さっぱり解けない。ああでもない、こうでもない。父はすっかりとりつかれてしまい、本業に手がつかないのは勿論のこと、食事さえ喉を通らなくなった。ひと月たって、苛立ちの限界を迎えつつある父に、出題者から答えが届いた。
「解なし」
 いやがらせだったのである(そうと知らせてくれただけ、まだ親切だったと言えよう)。それ以来、暗号は一切「お通し」してはならないものとなった。
 が、その日届いた暗号は何故か隆太郎の心に引っかかった。奇妙なことに、茹でる前のそうめんが一本、同封されていた。まさか誤って混入したのではあるまい。昼食の支度をしながら暗号をしたためる者はいない。解読のヒント、ということなのだろう。
 隆太郎の心をとらえたのはそのそうめんばかりではない。言うなれば、気配であった。文字はタイプされたものだったが、不思議と書き手の息づかいを感じる。どこがどのようにと訊かれても説明は難しい。とにかく、少なくとも「解なし」ではなさそうだ。
 さて、果たして父に見せるべきだろうか? いやがらせではないにしろ、手間は取らせる。原稿用紙との戦いを中断させて良いものか? 気分転換になるなら何よりだが、もし解読が難航すれば余計に苛立ちを募らせてしまう。そもそも、暗号は持ってくるなという取り決めを破るのだから、父は怒るだろう。何となく引っかかるものがあったと言って、理解してもらえるだろうか。
 隆太郎は頭を抱えた。甘露か、毒か、はたまたその両方か。
 いや、待て。父よりも、これは警察に届けるべきか? 暗号にばかり気を取られていたが、はっきり「頂戴つかまつる」とある。探偵小説風に言うなら予告状、現実的に言えば脅迫状である。犯人が本当に何かを奪うつもりなら、警察に相談して、しかるべき保護を受けねばならないのでは?
 いやいや、駄目だ。「何を」奪うかが書かれていない! 「お宝」だけではわからない。もしかしたらそれも暗号の内容に含まれているのかも知れないが、やはりこの手紙だけではまともに取り合ってもらえないだろう。まして宛先は江戸川乱歩である。ファンのいたずらと見なされるのがオチだ。
 隆太郎は考えた。考えに考えた。
「ひたすら考える。諦めなければ、必ず何かが見つかる」
 雑誌のインタヴューで、「行き詰った時はどうするか」との問いに、父はそう答えていた。
 その時、勝手口から声がした。
「おはようございます」
 酒屋が配達に来たのだ。今日は母も妻も朝市に出かけている。隆太郎は自分で勝手口へ行き、日本酒とみりんを受け取って、伝票に判子を捺した。そしてあることに気付き、つぶやいた。
「あ、そうか」
「何です?」
「ああ、いえ、こちらの話です。どうもごくろう様」
「まいど!」
 酒屋はバイクにまたがり、颯爽と去っていった。隆太郎は再び暗号とにらみ合った。
 簡単なことだった。自分で解けばいいのだ。他愛もない内容ならば、父に見せていい。父が解読に手こずった時は、仕事に支障が出る前にヒントを出す。深刻な内容だったら、警察に届ける。これでいい。
 解読に取りかかる前に、隆太郎は暗号以外の郵便物を父のもとへ「お通し」することにした。

 土蔵に入り、急な階段を上がった。書斎のドアの前に朝食が置きっ放しになっていた。
にぎりめしは海苔が濡れ、味噌汁は冷めてしまっていた。りんご(うさぎの形に剥いてある)に蠅が止まっていた。
 近頃の父は食事も書斎で取っている。毎朝と昼と夜、母は食事を盆に載せ、書斎のドアの前に置く。その際、声をかけてはいけない。執筆中か充電中(睡眠中ともいう)か、何にせよ邪魔をしてはいけないのだ。父は腹が減ればドアを開け、食べ、食べ終わった食器はドアの外に置く。その食器は次の食事を運んできた時、母が下げる。今のようにまったく手がつけられていないこともしばしばある。もちろん文句を言ってはいけない。母は本当に何も言わないので、隆太郎は感心している。ごく稀に、軽い口調で言うことはあるが。
 部屋の中から、机で原稿用紙を揃える音と、声が聞こえてきた。
「君は、肥った女は好きかね」
 父の声だった。村山の原稿の評定をしているところらしい。
 戦前の一時期、一家で下宿屋を営んでいたことがある。それを商売にする前も後も、父は好んで部屋を他人に貸していた。趣味なのだろう。
 村山健次郎は現在この家にいる唯一の間借り人で、小説家を志している。若くはない。隆太郎より六つも上だ。定職には就かず、日雇いで金を稼ぎ、ひたすら小説を書いている。うしろ指をさす人もいたが、隆太郎は好感を抱いていた。温厚。誠実。父とも母とも仲が良い。原稿を読ませてもらったことはないけれども、父が目をかけているのだから、才能はあるのだろう。
「特に好きでも嫌いでもありませんが」
「僕は嫌いだね。肥満は怠慢の結果だ。過剰に食い、充分に動かないから肥る」
「体質もあると思いますが」
「そういうこともあるだろう。とにかく僕は肥った女は嫌いなんだ」
「はぁ」
「いいか、村山君。この作品はまるで肥った女だ。贅肉がつき過ぎている」
「余計なことを書き過ぎている、と」
「そうだ。『雨が降ったら雨が降ったと書きなさい』。誰の言葉かわかるかい?」
「いえ」
 チェーホフだ。
「チェーホフだよ。常識じゃないか。少しは海外の文学にも目を向けた方がいい」
「はい」
「無駄な描写は文章の価値を下げる」
「はい」
「原稿の束が厚くなるほど、中身は薄くなる。一般的に必ずしもそうとは言い切れないが、君の場合はそのぐらいの覚悟で装飾をそぎ落とした方がいい」
「わかりました」
「君が目指しているのは本格派の探偵小説だろう?」
「はい」
「だとしたら、なおさらだ。読者が読みたがっているのは情緒じゃない。出来事だ。君は詩人になってはいけない」
 今朝の父は饒舌だった。少し酒が入っているのかも知れない。医者からは止められているのだが。
「僕は『本格派』じゃあないからね。少々情景にこだわることはあるが、それでもここまではしないよ」
「はい」
「何から何まで説明してしまったら、文学じゃない。それこそただの説明書きだ。読者には想像力というものがある」
「読者の想像が働くように、書かなければいけない」
「そうだ。読者はいつだって想像をしながら読んでいる。読む、いや、生きること自体、想像することとは切り離せない」
 飛躍した。これはいよいよ酒が入っていると見える。
「先生はいつも、想像を?」
「君はしないのか?」
「どうでしょう。あまり意識したことはありませんが」
「じゃあ気付いていないだけだろう。そして人間の想像は大体当たる」
「当たる?」
「想像というか、予想とか想定、かな。当たるものなんだ。だからこそ『意外』という言葉がある」
 それから、少しばかり間があった。妙な間だった。単に村山が相づちを打たなかっただけ、か? いや、どうもこの「想像」は外れている気がする。
「一から書き直さなくていい。まずこの原稿の、無駄と思える部分に赤線を引いてみなさい。何が無駄か、気付くことが第一歩だ」
「わかりました。ありがとうございました」
 ドアが開き、村山が出てきた。顔色は悪くない。父の評定はもっと辛辣になることもあるが、どんな時でも村山はそれを過不足なく受け止めているらしく、その態度もまた父が村山を買う理由になっていると思われた。
「ああ、すみません。お待たせして」
「いえ、こちらこそすみません。立ち聞きするつもりはなかったんですが」
「聞かれて恥ずかしいことは何もありませんよ。それじゃ」
 村山は足取り軽く階段を下りていった。父に言われたことをすぐ実行するのだろう。人並みの運があるなら、村山がデビューする日もきっとそう遠くはない。父の復活と同じぐらい、彼の萌芽についても、隆太郎は本心で願っていた。
「父さん、郵便です」
 父はもう机に向かっていた。
「そこに置いといてくれ」
 部屋に入ってすぐの、本が積まれた上の小箱が「室内の郵便受け」だ。昨日置いたものがそのままになっている。必要なものだけ選って持ってきているわけだが、それでも実際に読まれるのはいつになるかわからない。
 少しためらいながら、隆太郎は父の背中に言った。
「あの、あまり、お酒は」
「すまん。わかっている」
 素直な返事だった。昨夜か今朝か(父は決まった時間に眠らない)、どうしても飲まずにはいられない状態に陥ってしまったのだろう。決してアルコール中毒者ではない。隆太郎が注意すれば、しばらくは控えてくれる。
「じゃあ、失礼します」
 そして、そっとドアを閉めた。

 自室の引き出しからノートと鉛筆を取り出し、台所で茶を淹れ、縁側に腰を下ろした。今日は仕事も予定もない。一見したところ、それほど複雑な暗号でもなさそうだ。多少手間取ったとしても、今日中に解けるだろう。隆太郎は手紙の端を指ではじいて鳴らし、茶を一口すすった。
 将棋や囲碁の戦型に定石があるように、暗号の作り方にもいくつかの基本形がある。ヒントと思しき一本のそうめんについては、とりあえず考えないことにした。基本形に当てはめていく中で、何か思い当たることがあったら、改めて注目すればいい。
 まず、置き換え。例えば、全ての文字を五十音順に三つずらす。その場合、「あ」は「え」となり、「け」は「し」となる。濁音や半濁音、拗音にも法則を定める。隆太郎は最初の五文字「バゴゴジサ」に対して、何パターンかの置き換えを試みたが、意味の通る言葉にはならなかった。
 次に、並び替え。一般にアナグラムと呼ばれる。例えば「やすみじかん」は「みかんじすや」と並び替えることができる。この手が用いられている場合、暗号を何度も声に出して読むことで、音の響きから解答を類推できることが多い。隆太郎は様々に抑揚をつけて繰り返し音読してみたが、これといった閃きは訪れなかった。
 続いて、冗字。特定の「無駄な言葉」をランダムに紛れ込ませる方法である。例えば「あたりがせんとうたたごせんざせんいたますた」という文章には「た」と「せん」が紛れ込んでおり、これを抜き出せば「ありがとうございます」と読める。この手法の場合は文章全体を俯瞰することで「不自然に頻出する語」に気付くことが多い。けれど問題の暗号にはそれらしきものは見当たらない。
 暗号と呼ばれるものは概ねこの三つに分類される。先の大戦で猛威を振るったドイツ軍の「エニグマ」も、仕組みこそ複雑だが、置き換えの一種である。恐らく最も多いのが置き換えだろう。並び替えや冗字は、単独では看破されやすいが、置き換えた上で並び替えるなど、組み合わせることで威力を発揮する。隆太郎はその「組み合わせ」の可能性も考慮し、たびたび声に出したり、紙から顔を離して眺めたりしながら、さらに色々な置き換えを試していった。
「何してるの」
 妻の静子が隆太郎の肩越しに手紙を覗きこんでいた。いつの間にか随分と時間が経っている。
「驚かすなよ。帰ってきてたのか」
「気付かなかったの?」
「ああ」
「不用心じゃないの。家に誰か入ってきても気付かないなんて」
 まったくその通りだ。これでは予告も何も、盗みたいものがあるなら、勝手に入って持って行けてしまう。
「で、それ何?」
「暗号だよ。父さん宛に」
「もう相手にしないんじゃなかったの? この前、ひどかったじゃない」
「そうなんだが、ちょっと気になってな」
「ふうん」
 静子は暗号の内容に一切興味を示さない。探偵小説作家の義娘として嘆かわしい知的好奇心の欠如だ。
「解けたの?」
「まだだよ。見ればわかるだろう」
 観察力にも深刻な欠損が見られる。
「でも、お義父さん宛の暗号なのに、あなたが解いちゃっていいの?」
「いやがらせじゃないかどうか確かめているんだ」
「ああ、なるほどね」
 いや……待てよ。
「父さん宛?」
「え?」
「あ、そうか」
 宛先は父なのだ。差出人は十中八九、父の読者だろう。となれば、父がかつて作中で用いた暗号の手法に影響を受けているかも知れない。
「何? どうしたの?」
「何でもない」

 隆太郎は本棚から父の全集を取り出してきて、縁側にどさっと置き、自身はどかっと腰を下ろした。柱時計が十一時を告げた。正午までに解いてやる。
 デビュー作『二銭銅貨』に早速、暗号が登場する。元の文を点字にし、さらにその点字を「南無阿弥陀仏」の六文字で表すという、二重の置き換えである。
 『黒手組』の暗号はもっと複雑だ。漢字の配列の不自然さに気付いた上で、その漢字を「へん」と「つくり」に分割し、画数に着目して、仮名に置き換えねばならない。
 一方『日記帳』や『算盤が恋を語る話』は比較的単純である。一定の法則に基づき、数字を仮名に置き換える。手元の暗号に数字は使われていないが、『黒手組』の例を考えれば、数字に置き換えてから再び仮名に置き換える、というのも考えられる。
 父の作品を手掛かりにするはずが、ますます混乱してきた。いろんな可能性がある。あり過ぎる。樹海で道に迷い、やっと標識を見つけたと思ったら、無記名の矢印が四方八方に伸びているだけのしろものだった。そんな気分である。
 『二銭銅貨』が点字を知らなければ解けないように、もしやこれも何か特別な知識を必要とするものなのだろうか? だとしたら試行錯誤はまったくの徒労である。
 それとも、最初に感じた「気配」は単なる思い込みで、これもまた「解なし」のいやがらせなのだろうか? 絶対にないとは言い切れない。いやがらせかも知れないという疑いがいったん浮上すると、疑心暗鬼にとらわれ、同時にあの時の怒りが込み上げてきた。あれで父は一ヶ月間牢獄にいたようなものだ。
 しかし、解きたい。どうにか解きたい。解けるものであってほしい。最早そこには祈りが込められていた。ここまで時間をかけたのだから(と言っても休日の午前中いっぱいだが)、きちんと対価を得たい。
 諦めかけ、奮起し、憤慨し、ため息をつき、爪を噛んだ。完全に能率は落ちていた。
 寝転んで『黒手組』を全文読み返した。名探偵明智小五郎の洞察力には目を見張るものがある。けれども、これは作者が解を知った上で彼に解かせたものである。果たして刊行当時、自力で正解に辿り着いた読者は一人でもいたのだろうか? 本職の探偵ならば可能なのか?
 悔しいけれど、見なかったことにしてしまおうか。そう思い始めたところで、来客があった。
「あいつ、病気でもしたのかい」
 甲賀三郎。父と同じ探偵小説作家である。近所に住んでいて、時々ひょっこり訪ねてくる。
 良きライバルではない。天敵と呼ぶに相応しい。二人の作風は対照的である。人間の心理に(しばしば異常なものに)注目する父に対し、甲賀は謎解きそのものを重視する。各々が志すものを勝手に書いていればいいのに、毒舌家の甲賀は父に論戦をふっかけ、父もついついそれに応じてしまうのだ。
 隆太郎の中では、無用な郵便物以上に「お通し」してはならない存在だった。適当に世間話をして、丁重にお帰り願おう。
「病気? どうしてです?」
「今頃あいつの全集なんか引っ張り出してきて、難しい顔して読んでるからさ」
「嫌だな、違いますよ。これはただの読書で、父はピンピンしてます」
 肝臓は少々弱っているが。
「ただの読書とは見えないね。その紙は?」
「何でもありませんよ」
「何でもないってことはないだろう」
 この男は遠慮というものを知らない。
「今日は何か御用ですか」
 甲賀はそれに答えず、言った。
「ははあ、読めたぞ。その紙は江戸川君の読者から届いた暗号だろう。ただの手紙を読むのに、わざわざ鉛筆を持ってくる奴はいないからね。そしてその本の山は、江戸川君の作品を解読の参考にしようというわけだ」
 ご明察。こうなっては、下手に否定しても長引くだけだ。
「流石ですね、甲賀先生」
「どうだろう隆太郎君、その暗号、ひとつ僕にも見せてくれないかい? 解読の手助けができるかも知れない」
 気は進まないが、仕方ない。
「どうぞ」
「では失敬」
 甲賀は隆太郎の手からひったくるように手紙を取った。焦っていたのではない。ただただ不遜なのだ。
 甲賀はしばらくの間、手紙をためつすがめつしていた。目を近づけたり、遠ざけたり、音読したり、太陽に透かしてみたり。一枚の紙きれに翻弄される様は滑稽だった。今の今まで自分もああしていたわけで、通りかかった人に見られていたかも知れないと思うと、隆太郎は恥ずかしかった。やがて、甲賀が口を開いた。
「駄作だね、これは」
 隆太郎は自然と口が開いてしまった。自分本位もここまでくると見上げたものだ。解けないのを暗号のせいにするとは。
「隆太郎君、暗号にはどんな種類があるか知ってるかい?」
「置き換えと、並び替えと、冗字です」
「違う違う。もっと本質的な問題だよ」
「本質?」
「暗号には二種類しかない。すなわち、読ませないための暗号と、読ませるための暗号だ。軍隊なんかが通信に使う暗号は?」
「前者、ですか」
「そう。敵に読ませないためのものだ。読み方は味方だけで共有する。一方、読ませるための暗号と言えば、どんなものがある?」
「そんなものがあるんでしょうか」
「こいつがそうじゃないか」
 甲賀は手紙の端をつまんでひらひらと揺らして見せた。
「読んでもらいたいからわざわざ送ってきた。そうだろう?」
「そう言われてみれば、確かにそうですが」
「単に複雑なだけの暗号を作るのはむしろ簡単だ。そんなものは自慢にならない。読み手の興味を引き、きちんと解かせることの方が遥かに難しい」
 正論だが、だからといってその暗号を駄作と言い切れるのだろうか。
「だからといってこれを駄作と言い切れるのか、という顔だね」
 つくづく嫌な言い方をする。もし自分が小説の世界で犯人役を演じるなら、この男にだけは探偵役をやってほしくない。
「ひたすら時間をかければ解けるかも知れないが、それは推理じゃない。ただの作業だ。解き甲斐のない暗号と格闘するぐらいなら、素人が弾くヴァイオリンのレコードでも聴いていた方がまだましだよ。こちらに推理をしてほしいなら、何かしらヒントを示すべきなんだ」
「ああ、すみません。ヒントならあります」
「何だって?」
 すっかり忘れていた。隆太郎は封筒からそうめんを取り出し、甲賀に渡した。
「これが同封されていました」
「そうめん、だね」
「ええ」
「なあんだ、こういうものがあるなら最初から出してくれよ。ふむ、そうめんね。そうめん、そうめん……」
 甲賀は『ソーラン節』のメロディを口ずさみつつ、右手でそうめんを指揮棒のように振り回しながら、左手に持った手紙を再び凝視した。そして、歌が止まったかと思うと、甲賀の口もとが不気味に微笑んだ。
「解けた」
 馬鹿な!
「わかったわかった。なるほど、そういうことか」
 甲賀は気取った手つきで隆太郎に手紙を返した。そうめんはまだ彼の右手にある。
「ちょいと簡単過ぎるが、駄作ではなかったね」
「本当に解けたんですか」
「どうして疑うんだ。答えを言ってやろうか?」
「いえ、それは」
 聞きたくない、この男の口からだけは。
「いいかい、隆太郎君。君が苦労しているのはヒントから離れ過ぎてしまったせいだ。灯台の灯かりを無視して夜の海を航行するようなものさ。そりゃ遭難もする」
 甲賀はそうめんを隆太郎の鼻先に突きつけ、ぐるぐると回しながら言った。力いっぱい手で払ってやりたかったが、大切なヒントを折ってしまっては事だ。
「考え方が固いんだよ。直感に身を委ねるんだ。もっともそういうものが備わっているなら、だがね」
 それから甲賀は、貴婦人に一輪の花でも差し出すように、隆太郎にそうめんを返した。隆太郎も貴婦人のように受け取らざるを得なかった。
「それじゃ、行こうか」
「どこへです?」
「決まっているだろう」
 と、甲賀は父の土蔵を顎で指した。
「僕はその手紙とそうめんを見て一分とかけずに解読した。あいつが果たしてどのぐらいの時間で解けるか、試してみようじゃないか」
「父は執筆中です」
「充電中とか言って寝ているだけかも知れんだろう」
 だとしてもだ。
「時間を取らせやしないさ。いや、すぐに済むかどうかはあいつ次第ってわけだがね」
「しかし……」
「君は毒見役だったんだろう? そいつが正解を持たないいやがらせじゃないかどうか確かめてたんだ」
 隆太郎は歯噛みした。まるで手のひらで転がされているようだ。
「そしてその目的は達せられた。正解は存在する。そうだろう? どうしても自力で解きたいというなら、別に止めはしないが」
 この男は一人でもずかずかと父の書斎に入っていくだろう。ここはせめてついていって、被害を最小限に食い止めなければならない。
「一つお尋ねしますが、この暗号、警察に届けないといけないようなものではありませんでしたか?」
「確かに『頂戴する』とあるね。だが心配ない。物騒な内容じゃなかったよ」
 ならば、早いところ済ませてしまおう。
「わかりました。行きましょう。でも甲賀さん、そもそも御用は何だったんです?」
「何でもいいじゃないか。さっさと行こう」
 用事などなかったのだろう。ちょっかいを出しに来ただけなのだ。いつものことだ。

「わからん」
 父はそう言って、手紙をくしゃくしゃに丸め、床に捨てた。さらに、生のそうめんをぽりぽりとかじりながら、こちらに背を向けてしまった。隆太郎は声も出なかった。
「おいおい、江戸川君。それはないだろう。一分も見ていなかったじゃないか」
「興味がない」
「だから、君が今かじっているそのそうめんがヒントだ。難しい暗号じゃない。僕はすぐに解けた」
「ヒントも難易度も関係ない。とにかく興味が湧かないんだ」
 妙だ、と隆太郎は思った。あのいやがらせの一件までは、父は読者から届く暗号を割合楽しみにしていた。
「探偵小説を書く身として、その態度はどうかね」
「何故だい?」
 父が椅子を回してこちらを向いた。火がついてしまったようだ。まったくこの甲賀という男、人の神経を逆撫ですることにかけては天才的だ。
「甲賀君、勘違いしちゃいけないよ。僕たちの仕事は暗号を解くことじゃない。小説を書くことだ」
「君だって自分で暗号をこしらえることがあるだろう。たまには解く方の身になってみることも大事だとは思わないか?」
「思わないね。君や他の作家がどうかは知らんが、僕にとって小説の中の謎というものは、暗号も含め、読者が自力で解くことを想定していない。何故なら、優れた探偵が登場するからだ。事件は彼が解決してくれる。鮮やかにね。その鮮やかさが大切なんだ。探偵の思考の軌跡を辿ったり、言葉を聞いたりすることで、読者は労せずして自分が賢くなったような気分に浸ることができる」
「ご高説ありがとう。となれば、江戸川君、その『優れた探偵』とやらは君の頭の中に住んでいるというわけだ。彼に尋ねればその程度の暗号はちょいちょいっと解けるはずじゃないのかい?」
「残念ながら、僕の中にいる探偵には秘密がある」
「何だいそれは」
「わかっていて訊いているんだろう?」
「さぁね」
「犯人も同居しているということだ。タネがわかっているから解ける。当たり前じゃないか。あっさり解いてしまったんじゃつまらないから、回り道はさせるがね」
「じゃあ、タネがわからなければ挑みもしないってわけか? 手前勝手な探偵だな」
 手前勝手。この男の口からそんな言葉が出るとは。彼は自分の心を鏡に映して見たことはないのだろうか。
「何とでも言いたまえ。時間を無駄にしたくないんだ」
「この議論こそが時間の無駄だよ。江戸川君、悪いことは言わない。五分、いや三分もあれば、君なら必ず解ける」
「だが自分は一分で解いた、と勝ち誇りたいんだろう? 僕は投げたんだ。君の勝ちだ。それでいいじゃないか」
「強情な奴だな」
「君の方こそ」
 甲賀に共鳴するわけではないが、隆太郎は違和感を拭い去れなかった。何故父はこうまで拒絶するのだろう? 甲賀は鉛筆も使わずに一分で解いたのだから、この暗号は閃きだけで解ける類のものということだ。感覚的なものについて、父が甲賀に劣るとは思えない。誰より父自身がそうは思わないだろう。だいいち、こんな紙きれ一枚で頭の優劣を競えるはずもない。相手をしてやった方が早く済む。
「僕からヒントを出してやろう。いいか、そのそうめんを……もう食べてしまったようだが」
「くどいぞ。やらないと言ったらやらない」
 本当に時間を無駄にしたくないだけなのだろうか? だったら甲賀の話に付き合ってやっているのはおかしい。本当に集中したい時、父は誰であろうと徹底的に無視する。我が子や妻であろうと。身内なればこそ、かも知れないが。
「江戸川君、君はもしかして……」
「何だ」
「いや、いい。これにて退散するよ」
「そうしてくれるとありがたいな」
「最後に一つだけ」
「本当に最後だろうね」
「君はその暗号に一切興味がないらしい。ならば、その暗号を解いた結果に対して、僕がどんな行動を取ろうと、君には関係ないということだね?」
 隆太郎の甲賀の言わんとしていることが飲み込めず、その顔を見た。甲賀の目つきはやけに真剣だった。
 父は少し考えて、答えた。
「おせっかいが過ぎる。そいつはご遠慮願いたい」
「わかった。余計なことはしないよ。邪魔して悪かったね」
 そう言って、甲賀は部屋を出ていった。父はもう机に向かっていた。
 隆太郎は床に転がされた暗号を拾った。それから父の背中に一礼して、ドアを閉め、甲賀の後を追った。

 土蔵を出ると、ちょうど母と村山が連れ立って出かけていくところだった。文芸坐へ映画を観に行くのだという。父が冷淡な分、村山はよく母の話し相手になってくれている。ありがたいことだ。
「さて隆太郎君、これからどうする?」
「どうって、もう済んだじゃないですか」
「君も兜を脱いでしまうのか?」
 隆太郎は丸められた暗号のしわを伸ばしながら考えた。父の態度に疑問は残るが、暗号を見せるという当初の目的を果たした今、その内容への興味は失われつつあった。
「そうですね。降参します。やっぱり甲賀さんにはかないませんよ」
「下手くそなヨイショはしなくていい。そうだ、一つ訊こう。江戸川君は読者から来た暗号に対して、いつもあんな感じなのかい?」
 隆太郎はいやがらせのいきさつを話して聞かせた。
「ふむ、ありそうなことだ。それはあちらも考えるだろう。となれば……だ」
 甲賀はぶつぶつ言いながら煙草を取り出し、マッチで火をつけた。
「明日か、遅くとも数日のうちに、同じような暗号がまた届くだろう」
「何故そんなことがわかるんです?」
「推測だ。外れても責任は持たない」
「何か根拠は?」
「ある。そいつの差出人は江戸川君に解読されることを求めている。その点はさっきも言った通りだが、その人物は知恵比べがしたいわけじゃない。別の目的でメッセージを送ってきている」
「どういうことです?」
「詳しく話すには、暗号の答えを言わなきゃならん。それは君もお望みじゃないだろう」
「ええ、まぁ」
「メッセージを送っても、無視されたり、解読してもらえなかったりする可能性がある。君ならどうする?」
「どうしても読んでもらいたいものなら、僕は暗号になんかしませんが」
「何か事情があるんだろう。そこは置いといて、さぁ、どうする」
「そう言われても、せいぜい繰り返し送るぐらいしか……あ、そうか」
「そういうことだ」
 甲賀が煙を吐き出した。よく晴れた空に、突如不吉な雲が現れたようだった。
「また同じものが来たら、差出人には何か特別な意思があるということですね」
「同じかも知れないし、同じではないかも知れない」
「というのは?」
「ああ、いや、どうも話しづらいな。もう答えを言ってしまってもいいかい?」
「いえ、聞きたくありません」
「僕だって言いたくない。江戸川君から止められているからね」
「え?」
「君に答えを教えることだって『行動を起こす』ことに含まれるからだ」
 ではこうして話をしていることはどうなのだろう。
「そこはギリギリセーフということにさせてもらっている」
 心を読まれている。何とも薄気味悪い。だが、今はとにかくこの男の話を聞かねばならない。
「僕も男だ。約束は守る。その暗号について手出しはしない。しかしこれはどうも、本当にまるっきり放っておいてしまったら、後味の悪い結果になってしまうような気がするんだ」
 要領を得ないが、仕方ない。
「隆太郎君、君は江戸川君にとって他人じゃない。君にはこの事件に携わる権利がある。少なくとも僕はそう考える」
「事件?」
「そんな大袈裟なものでなければいいんだがね」
「事件なんていう可能性があるなら、やはり警察に」
「気付かなかったのか?」
「何にです?」
「江戸川君は既にその暗号を解いている」
 隆太郎は思わず暗号を見た。確かに、そうだとしたら、先ほどの父の態度にも合点が行く。
「答えを口に出したくないから、あれほど突っぱねたんだ」
「何故なんでしょうか」
「解けば、わかるかも知れないね」
 甲賀は煙草を石畳に投げ捨て、下駄で踏み消した。腹は立ったが、今はそんなことを咎めている場合ではない。
「そうだな。これぐらいは言ってもいいだろう」
 隆太郎は甲賀の目を見た。からかっているわけではなさそうだ。
「今後、それと同様の暗号が届いたら、その時点で古い方がまだ解けていなくても、すぐさま新しい方の解読に取りかかった方がいい。それも、なるべく急いで。手遅れになる可能性がある」
 手遅れ? どういう意味だ?
「何故とは聞かないでくれよ。理由は言えないが、とにかくこれは忠告であり、ヒントでもある」
「念のため確認しますが、警察に届ける必要は」
「あるなら、江戸川君がするだろう」
 甲賀の言う通りだった。
 解くしかない。けれども、自信はなかった。自分より年長の、正確に言えば「年寄りの」二人が、揃いも揃って一瞬で解いてしまったことで(彼らがプロであるとは言え)、隆太郎は戦意を喪失しつつあった。自分には父や甲賀のような感性が備わっていない。どれほどにらめっこを続けても、相手が微笑んでくれる予感はしなかった。

 横溝龍介は憂鬱だった。午後は江戸川乱歩の家へ、原稿を取りに行かねばならない。書けていないかも知れない。いや、恐らく書けていないだろう。それでも行くしかない。
 光文社の正面口を出た時、強い日差しに横溝は目を細めた。暦の上では秋とは言え、まだ太陽の力は残っている。立ち食いのよく冷えたざるそばを一杯、飲み込むように平らげ、池袋行きのバスに乗った。会社から近いのがせめてもの救いだ。
 少年探偵団シリーズは月刊誌『少年』にとって非常に重要な作品である。近頃勢いを増しつつある『少年画報』に対抗する意味でも、乱歩には頑張ってもらわねばならない。編集部では『画報』にならって漫画を載せるのはどうかという声もあったが、横溝は反対だった。漫画には漫画の良さもある。が、いかんせん、想像力を奪う。少年たちには活字を読ませるべきである。
 名探偵明智小五郎の活躍は『D坂の殺人事件』に始まる。トレードマークはモジャモジャの髪。頭が切れるだけでなく、柔道は達人の腕前、さらに怪人二十面相とはりあうほどの変装術まで備えている。当初木綿の着物によれよれの兵児帯という服装だったのが、いくつかの作品を経て、少年探偵団シリーズでは背広を着こなす紳士となった。
 有能な助手、小林少年に自分自身を投影して、『少年』の読者たちは明智小五郎に憧れる。しかしその名コンビの生みの親、乱歩はシリーズの執筆に対して、あまり精力的ではなかった。惰性で書いているのだ。
 戦前、乱歩が初めて少年向けに書いた『怪人二十面相』は大いにヒットし、つづく『少年探偵団』と『妖怪博士』も少年たちの心をがっちりとつかんだ。戦時中は官憲によって中断させられていただけに、戦後、シリーズ復活を望む声は多かった。需要はある。なのに、供給する側に覇気がない。
 乱歩に少年向けミステリーを書く才能があることを横溝は確信している。このまま景気が回復していけば、少年探偵団シリーズはきっとラジオドラマや映画になるだろう。そして、後世は恐らく、江戸川乱歩の代表作と言えば少年探偵団シリーズということになるはずだ。
 しかし、乱歩自身が欲しているのは少年向けの才能ではない、ということも横溝は理解している。「子供だまし」という言葉がある。少年向けの作品を子供だましと揶揄するのは的はずれだが、子供だましが上手いということは、その逆は言わずもがな、というわけだ。乱暴な意見だけれども、本人がそう言っていた。
 池袋駅前でバスを降りた。乱歩の家は駅の反対側だ。
 乱歩が本当に書きたがっているのは「本格的な」探偵小説なのである。が、そのつもりで書いたものは比較的評価されていない。支持されているのは、今は少年探偵団シリーズであり、戦前はいわゆるエログロであった。『怪人二十面相』の出る少し前、本格物として書き始めた『悪霊』は、連載わずか三回で終了した。
 文才はある。それも極上の。しかしその中身が、本人の希求するものとは微妙にずれている。乱歩はそれを自覚した上で、日々の糧を得るために、また、全国の少年たちのために、明智小五郎と小林少年の活躍を書き続けている。そして、不得手と知りながら、今でも本格的な探偵小説を書こうとしている。決して豊かではない土地を懸命に耕す農夫のように。
 仮に本格物の作品が完成しても、それが売れるかどうかはわからない。世間は江戸川乱歩にそんなものを期待していない。それでも横溝は、乱歩が本格物を書くのを応援していた。書きたいものを書くのが本当は一番いい。本を売るのは編集者の仕事だ。

 ハンカチで汗を拭いながら家の前まで来ると、甲賀三郎が門を出てくるところだった。近所に住んでいて、ちょくちょく妨害をしに来るのだ。才能はあるのに性根が曲がっている。編集者仲間も皆敬遠していた。
「やぁ、横溝君。無駄足ご苦労さん」
 開口一番、これである。作家でなければ張り倒しているところだ。
「こんにちは、甲賀先生。どうして無駄足だとわかるんです」
 乱歩が甲賀に真っ白な原稿用紙を見せるはずはない。
「直接見たり聞いたりしたわけじゃないがね。あいつは調子のいい時、インクの瓶を身体の近くに置く。今日は随分遠かったから、それで察したというわけさ」
「なるほど、流石」
 観察眼は優れている。いや、そんな上品な表現はこの男に相応しくない。鼻が利くのだ、犬のように。
「甲賀先生、江戸川先生はお忙しいんですから」
「わかっている。しばらくは控えるよ」
 甲賀らしからぬ返答に、横溝は面食らった。
「あいつも大変そうだからな、色々と」
「甲賀先生の方こそ、調子はどうなんです」
「僕はいつも通りだ」
「そうでもないでしょう。筆が進まない時の気晴らしにこちらへいらっしゃるんじゃないんですか?」
「ばれていたか。ま、その通りだ」
「甲賀先生」
「しばらくは控えると言っただろう」
「本当ですか?」
「男に二言はない」
 甲賀は何故か男気を重んじる。また、愛妻家であることを誇りにしている。それ自体は立派なことだが、しばしばのろけ話を聞かされる方はたまったものではない。横溝はいま現在甲賀の担当についている編集者を憐れんだ。誰か知らないが、頑張れ。それも仕事のうちだ。
「あいつの大変さは仕事ばかりじゃなさそうだからな」
「江戸川先生に何かあったんですか?」
「今どき子供だって知っているぞ」
「何をです?」
「生きていれば色々あるってことをね」
「ですから、江戸川先生の身に、具体的に何かがあったんですか? 甲賀先生が邪魔を控えようと思うほどの何かが」
「失礼な言い方だな」
「何かご存知なら教えてください」
「どうするかな」
 一体何なんだ。言いたいことがあるなら、はっきりと言え。お前のどこが「男」なんだ。
「では、正直に言おう。何かがあったのか、また、それが何なのか、僕にはよくわかっていない。つまり何も知らないのと同じということなんだ」
「意味がわかりません」
「君は何だ?」
「何とは何です?」
「どういう人間だ?」
「横溝龍介です」
「名前は知っている。職業は?」
「江戸川先生の担当の編集者です」
「そうか」
 何が「そうか」だ。
「編集者か。微妙な線だな」
「微妙?」
「作家と編集者の関係は実に様々だからな。僕と僕の担当は相当理解し合っている方なんだが」
 そう思っているのはきっとお前だけだろう。横溝は名も知らぬ編集者がますます気の毒になった。
「やっぱり何かご存知なんでしょう。少なくとも、何かあるのかも知れないということはご存知のはずです」
「奇怪な一文だね。常に何かあるのが人生だ。故に、何かあるかも知れないということだけなら誰だって知っている。ああ、となれば、その質問の答えは『はい』だ」
「いい加減にしてください」
「すまんすまん。怒らないでくれ。怒りは人体に有害なんだ、お互いにね」
「だったらはぐらかすようなことばかり言わないでください」
「許してくれ。さっき江戸川君とは満足に話ができないまま追い出されてしまってね、鬱憤が溜まっていたんだ」
「それで、僕が気晴らしのお相手ですか」
「ああ、悪かったよ。この通りだ」
 どうもまだ釈然としないが、追求しても仕方がない。
「それじゃ」
 そう言って甲賀は駅と反対の方向へ歩き出した。
「どちらへ行かれるんです?」
「なに、ちょっとコーヒーでも飲みにね」
「喫茶店なら駅前にもあるでしょう」
「どこでコーヒーを飲もうと僕の勝手じゃないか」
「良からぬことをたくらんでいるんじゃないでしょうね」
「横溝君、君は何が何でも僕を悪人にしたいらしいな」
「そうではありませんが」
「知っての通り、今、僕は不調なんだ。それも、かなり厄介な不調の渦の中にいる。ついつい江戸川君や君に毒気を当ててしまうほどのね」
 少しは遠慮してほしい。「毒気」とまでの自覚があるなら。
「だから気晴らしに、いつもと違う店でコーヒーを飲んでみようというわけだ」
「でしたら、止めはしませんが」
「止められちゃたまらないよ」
「ご回復をお祈りします」
「どうもありがとう。期待にこたえてみせるよ」
 期待しているとは一言も言っていない。
「ちなみにこの方法はね……」
「どの方法です?」
「いつもと違う場所に身を置いてみるという方法だ。これは村山君から聞いたんだ」
「村山さんから?」
 間借り人で小説家志望の村山は、作品を書くにあたり、主に乱歩の指導を受けているが、この甲賀とも交流がある。というより甲賀の方からぐいぐいと関わっていっているのだが。とは言え、甲賀も一応プロだ。村山は幸福な環境にいると言えるだろう……一般的に見れば。本人がどう思っているかはわからない。
「彼の作品はまだ日の目を見てはいないが、彼自身の身体はもうだいぶ物を書くことに慣れている。こちらが勉強させてもらうこともあるよ」
「なるほど」
「乱歩の奴もあんな黴臭い土蔵にこもっていないで、たまには外出すべきなんだよな」
「ええ、それはそうでしょうね」
「そう、外に出るべきなんだ。色んな意味でね……」
 また何やら意味ありげなことを言っている。だが、ここで相手にしてしまっては堂々巡りだ。どうせ肝心なことは何ひとつ言いはしまい。
「それでは甲賀先生、お仕事がんばってください」

 幻影城はいつも埃が舞っている。時たま鼠が走り抜ける。城主が掃除は自分ですると言って、他の人間に手を入れさせないのだ。きれい好きの横溝には二階までの短い道のりが随分長く感じられる。けれど、作家は日々、深い霧の中をさまよっているのだ。編集者が埃ぐらいで弱音を吐くわけにはいかない。
 ドアをノックして書斎に入った。乱歩の髪はボサボサで、着物はもう何日も着っ放しと思われる。帯はだらしなく腰のあたりにただぶらさがっている。初期の明智小五郎のようだ、と横溝は思った。けれども乱歩は現実の世界の人間である。明智小五郎のように四六時中頭が冴えているわけがない。
 案の定、原稿はできていなかった。
「すまないね、横溝君」
「いえ」
「けど大丈夫だ。今、筆が乗ってきたところでね」
 嘘だ。インクの瓶が遠い。気を遣わせてしまっている。
「甲賀君には会ったかい?」
「ええ、入れ違いに」
「あいつもたまには役に立つ。無駄話のおかげで気持ちが切り替わった。時間はあるかい?」
「はい。二時間ほどなら」
 乱歩は腕時計に目をやった。
「三時までか。ちょうどいい」
「三時から何かあるんですか?」
「いや、こちらの話だ。下で茶でも飲みながら待っていてくれ」
「わかりました」
 横溝は去りかけて、思い直し、口を開いた。
「いつまで、続けられそうですか?」
「何をだい」
「少年探偵団シリーズです」
「何を言っているんだ。まだ復活したばかりじゃないか」
「それはそうですが」
「心配ご無用。確かにここのところ遅れ気味だが、当分の間書き続けることはできる。何しろ複雑な筋立てや巧妙なトリックはいらないからね」
 自嘲は先生の悪い癖だ、と横溝は思っている。口には出さない。
「批評家連中にワンパターンだ何だとそしられたところで、痛くもかゆくもない。子供たちが喜んでくれればそれでいいんだ」
「『少年』の編集者としては大変ありがたく思っております。しかし、先生、本格物を書きたいとは?」
 乱歩は少し間を空けて、言った。
「書いているよ。誰に頼まれたわけでもなく、ただ書いている。実はそちらの方に気を取られてしまって、こっちが進まないというわけなんだ。目の前の仕事を優先すべきだと、頭ではわかっているんだが」
「そういうことでしたか」
 無論、横溝はとうに勘付いていた。
「書きたいことがあるのでしたら、無理に少年物をお続けにならなくても」
「よせ、横溝君。責任ある編集者としてあるまじき発言だ」
「はい」
「確かに、本当に書きたいものは別にある。けれど僕は少年物を書くのも嫌いじゃないんだ。『実は二十面相の変装でした』、『実は明智小五郎の変装でした』、『実は小林少年の……』、いいじゃないか。読者の予想はただ裏切ればいいというものじゃない。期待に応えることも作家の仕事だよ」
 乱歩の表情は穏やかだった。どうやら本心を言っている。惰性というのは横溝の思い込みだったようだ。
「人間は想像をする生き物だ。少年たちもきっと『こいつは誰かの変装じゃないか』と想像しながら読んでいるだろう。当てられていいんだ。お見事、と手拍子を打ってやりたいぐらいだ。現実が想像通りだった時の快感はね、横溝君、なかなかどうして、やみつきになるものなんだ……」
 穏やかと思われた顔が、言葉の終わりの方で、一瞬だけ不気味に歪んだ。横溝の背に鳥肌が立った。摘んだシロツメクサの茎から真っ赤な血がしたたり落ちるかのようだった。直に見たことはないけれど、猟奇物を書いていた時の乱歩はこんな顔をしていたのかも知れない。
「先生が今のお仕事を楽しんでくださるなら、私にとっても喜ばしいことです」
「楽しんでいるよ。お心遣いありがとう」
 横溝は素早く頭を巡らせた。作家が二つの仕事を同時進行する時、いずれかが捗れば、もう一方にも良い影響を与える。本格物の調子が上がることによって少年物の供給が安定することは、充分に期待できる。
「先生。お時間を取らせて申し訳ないのですが……」
「何だい?」
「今お書きになっている本格物は、どういった作品なんですか? いち読者として興味があるんです」
「嬉しい質問だね」
 それは横溝の本音でもあり、作戦でもあった。声に出して他人に話すことで、考えがまとまったり、新しいアイディアが閃いたりすることはよくある。それは作家とて例外ではない。
「筋書きの方はまだなんだが、テーマは決まっているんだ」
「テーマ、ですか」
「僕の主張、あるいは読者へのメッセージと言い換えてもいいだろう」
 意外だった。探偵小説と言えばまず謎ありきではないのか。少なくとも横溝の知る作家はほとんどそうだ。
「どんなテーマなんですか?」
「なに、ことさら斬新なものではないよ。僕が以前、エログロと呼ばれるものを書いていた時、無意識にテーマとしていたことについて、今度は意識的に掘り下げてみたいというだけなんだ」
「心の闇、とか、人間の本性、といったものでしょうか」
「ああ、そんなようなものだね」
 エログロには根強いファンがいる。それなら今出しても売り上げに期待できる。……いや、そんな計算はよそう。
「是非拝読したいです。でも先生、その作品はまた、いわゆるエログロなのでしょうか?」
 本格物を書きたいのではなかったのだろうか?
「どうだろうね。書いた結果、どういう分類を受けるかはわからない。ただ、僕としては、エロティシズムやグロテスクが含まれているだけで、それすなわちエログロなりと決めつけてしまうのは、いささか疑問に思うね」
 その通りだ、と横溝は思った。エログロというレッテルのせいで正当な評価を受けていないものが、乱歩の過去の作品にもある。
「世界は闇だよ、横溝君。そうは思わないか」
「私にはわかりかねますが」
「夜になるといつも思う。世界は闇だ。だってそうだろう。昼というのは、たまたま太陽が照らしているところに我々の陸地が来ているに過ぎない。夜のとばりがおりる、という表現は間違っている。昼が通常で、夜が異常なんじゃない。夜こそが本来の有様で、昼は偶然与えられているだけなんだ。宇宙を想像してみたまえ。太陽のように自ら光る星はいくつかある。だが明るいのはその周囲だけだ。圧倒的に闇が制圧している領域の方が広いんだ」
 闇について語る口に反して、その目は輝いている。とは言え、健康的な光ではなかった。黒水晶のような、不吉さをたたえた光だ。
「少年物ではまがうことなき勧善懲悪を描いている。それを楽しんでいるのは事実だが、テーマにまで言及するなら、僕は嘘つきだね。正義の話なんてしたくないんだ。地球を覆っているのは闇なんだよ。百鬼蠢く……」
 その時、ドアが叩かれ、声がした。
「隆太郎です」
「入りなさい」
 隆太郎が盆を持って入ってきた。盆にはそうめんを盛ったガラスの器と、つゆを入れたぐいのみと、黒塗りの箸が置かれていた。……薬味がない。女性の手によるものではなく、隆太郎が支度したのだろう。
「こんにちは、横溝さん」
「どうも」
 と、会釈をした。仕事は休みなのだろう。
「昼食をお持ちしました」
「見ればわかる。部屋の外に置いといてくれればいいじゃないか」
「そうめんで良かったですか」
「ああ」
「僕もこれからそうめんを食べます」
 急に何を言っている。どういう意味だ?
「構いませんね?」
「好きにすればいい」
「では、そうします」
 隆太郎は山積みになった本の上に盆を置き、一礼して去っていった。横溝は混乱していた。今のやりとりは一体何だろう?
「では、横溝君、しばしお待ちを」
 乱歩は椅子を回し、こちらに背を向けた。こうなってしまっては立ち去るしかない。
 さっきの言葉の意味はわからないけれど、あのそうめんがのびてしまうことは間違いないだろう。そう思いながら、横溝は書斎をあとにした。

 本宅の居間で茶をすすりつつ、考えた。書斎でのやりとりについて、隆太郎に尋ねて良いものだろうか? あまり立ち入った話なら憚られるが、抗いがたい好奇心のうずきがあった。この性格は文学に携わる人間として適正なものだと横溝は思っている。
「そうめんを食べます」
 そう言った隆太郎の顔には尋常ならざるものが漲っていた。同じく、声の響きにも。何か決意のようなものが感じられた。わざわざ意を決してそうめんを食べる者などあるだろうか? 毒でも入っているなら頷けるが。
 毒? その線はあるかも知れない。あくまでも比喩としてだ。そして、隆太郎は「僕も」と言っていた。乱歩は何らかの「毒」を服用した。隆太郎もそれに続くということだろうか?
「冷たいお茶の方が良かったでしょうか」
 廊下から隆太郎が声をかけてきた。どうやら自分は湯のみを手にしたまま険しい顔をしていたらしい。
「いえ、大丈夫です」
「あとで冷たいのもお持ちしますよ。ところで、これ、いかがですか」
 と、隆太郎は切った梨をテーブルに置いた。
「ニ十世紀です。妻が朝市で買ってきまして」
「ありがとうございます。いただきます」
「どうぞ。僕も一緒にいいですか」
「もちろん。奥様はまたお出かけに?」
「ええ、公民館へ琴を習いに」
 そう言えば、乱歩の妻の隆子や、村山の姿も見えない。隆太郎の息子は学校だろう。今この家には男二人、いや、横溝も加えれば三人しかいないというわけだ。
「確か隆子さんも琴がお上手でしたね」
「素人芸ですが、年季は入っていますね。妻があの歳で琴を習い始めたのも母の影響でして」
「そうだったんですか」
 それにしても、と横溝は思った。何やら隆太郎の雰囲気がよそよそしい。
「横溝さん、つかぬことをお伺いしますが」
 そら来た。この様子なら、そうめんの謎も明らかになるかも知れない。
「推理には自信がおありですか?」
「それは難しい質問ですね。推理の真似事なら、仕事柄、他の人より多く経験していると思いますが」
「では、暗号は?」
「ああ、それなら……好きな題材ではあります」
 暗号にはロマンがある、と横溝は考えている。
 一般的に言って、探偵小説というものは、いつ謎解きの条件が揃うかが明確でない。探偵が調査したり、別の事件が起きたりすることによって、次々と新しい情報がもたらされるから、どの時点から謎が解けるかわからない。例外もあるが。
 暗号は単独で謎解きが可能である。それ自体で完結している。探偵小説を風景画にたとえるなら、暗号は大輪の向日葵だ。風景の中に埋もれてしまうことなく、堂々と咲き誇っている。
 そんなことを、いささか熱っぽく横溝は話した。
「とは言っても自力で暗号を解きたがる読者はやはり少数派ですし、僕自身も正解に辿り着いたことは一度もありませんがね」
「そうなんですか」
 少し残念がっているような声に聞こえた。
「小説に出てくる暗号は大概難しいですよ。解けるはずというのが味噌ですが、易々と解かれてしまっては困りますからね。作家さん方も読者に解かせようとはあまり考えていないはずです」
「ならば、これはどうでしょう?」
 そう言って、隆太郎は一枚の紙片をテーブルに置いた。それは果たして暗号だった。一度投げ出しかけたのか、しわをのばした跡がある。
「これは父の作ったものです。父は『簡単過ぎる。失敗作だ』と言って、丸めて捨ててしまったのですが、僕はふと興味が湧いて拾い上げたんです」
 違和感があった。横溝は暗号の内容よりそちらが気になった。乱歩は原稿の出来が思わしくない時、丸めず、折りたたんで処分する。また、失敗作だというのに、きれいにタイプしてあるのもおかしい。そもそも滅多にタイプライターなど使わない。使うとしても、乱歩ならまず手で書いて、気に入ったものだけをタイプするはずだ。隆太郎は何か隠しているのか?
 横溝は相手に警戒心を抱かせないため、疑問を顔に出さないよう努めた。微笑みを保つことには慣れている。
「解いてみようとしたのですが、お恥ずかしいことに、僕にはお手上げでした。そして困ったことに、父は答えを教えてくれないんです。気になって気になって、他のことに手がつきません」
「大変ですね」
「いかがでしょう、横溝さん。僕の代わりにこれを解いていただけませんか?」
 やはり隆太郎の話はどうも怪しい。答えを教えないなんてことがあるだろうか。「楽しんでほしい」という以外に、答えを隠す理由が思い当たらない。「失敗作」つまり「楽しめない」と思っているなら、何故答えを言ってしまわないのか? ……ともあれ、暗号を解けば何かわかるだろう。
「拝見しましょう」
 一見無意味なカタカナの羅列。全三十一文字。即座に「和歌と何か関係が」と思ったが、それは既に検証済みのようだ。鉛筆で五・七・五・七・七の切れ目に線が引かれている。
「その紙とは別に、ヒントがあります。『そうめん』です」
「そうめん? 食べるそうめんですか?」
「はい」
 書斎で言っていたのはこのことか。「そうめんを食べます」とは「暗号を解きます」という意味か。いや、しかし「僕も」とはどういう意味だ? 昼食として出しながらの発言だから、まったくの支離滅裂というわけではないが、腑に落ちない。あの時の顔や声も異様だ。
「なるほど、そうめんですか」
 横溝は次々に湧きあがる疑問を抑えつつ、そうめん、そうめん、と心の中で繰り返した。
 そして、解けた。時間にして一分もかからなかった。
 そうめんは漢字で書くと「素麺」だ。これの意味するところはずばり「素数」である。一とそれ自身以外に約数を持たない自然数、すなわち二、三、五、七、十一、十三……。全ての文字に番号を振り、素数の位置にある文字を抜き出せば良い。

 1 2 3 4 5 6 7 8 9
 バ ゴ ゴ ジ サ リ ン ス ク

 10 11 12 13 14 15 
 ム  ジ  ゲ  キ  ン  ホ

 16 17 18 19 20 21
 ウ  ッ  ヨ  サ  ウ  キ

 22 23 24 25 26 27
 コ  コ  ク  シ  ュ  ウ

 28 29 30 31
 シ  ハ  ュ  ル

 ――ゴゴサンジキッサコハル

「わかりました。午後三時、喫茶『小春』です」
 言いかけて、横溝は思いとどまった。隆太郎が解読に苦戦しているというのは恐らく本当だ。こんなにあっさりと解いてしまっては、彼の誇りを傷つけてしまうのではないだろうか?
 解読を続ける振りをしながら、横溝はさらに考えた。そう言えば乱歩の書斎に行くのも三時という約束だ。この時刻について彼は「ちょうどいい」と口走った。この暗号と何か関係があるのだろうか? 加えて、甲賀が「コーヒーを飲む」と言って歩いていったのも喫茶「小春」のある方向だ。こちらは流石に偶然か……?
 あふれ出そうになる好奇心に蓋をして、横溝はゆっくりと口を開いた。
「すぐには解けそうもありませんね」
「そうですか」
「じっくり考えてみます。写しを取っても良いでしょうか?」
「勿論です」
 横溝は手帳とペンを取り出し、解読済みの暗号を丁寧に書き写した。まるでカタカナの練習だ。それから、末尾に「素麺」と、漢字で大きく書き添えた。隆太郎はじっと見ていたが、何かを発見した様子はない。やれやれ、これを見て気付かないようでは、何時間考えても無理だろう。大学教授ともあろうお方が、まさか素数を知らないなどということはあるまい。
「横溝さん、もし解読できたら、お電話をいただけませんか?」
「ええ、構いませんが」
「どうかお願いします。気がかりでならないのです」
 その時、柱時計が二時を告げた。午後三時、喫茶「小春」。何があるのだろう。今や隆太郎よりもずっと多くの「気がかり」を抱えている。現場に行けば何かわかるかも知れないが、乱歩との約束を破るわけにはいかない。横溝は小説に登場する探偵たちを羨んだ。のんきに推理ばかりしやがって。俺には仕事があるんだ。

 わざと五分だけ遅れて、横溝は書斎のドアをノックした。こういう時、少々の遅刻はむしろ歓迎される。「あと少し」は作家の決まり文句だ。月曜日の朝、布団を出たがらない子供と同じに。
 返事がない。ドアを開けると、乱歩は机に突っ伏して「充電中」だった。苦しそうな寝息が聞こえる。悪い夢を見ているのかも知れない。
 右肘の横に、文字の詰まった原稿用紙が揃えて置いてあった。連載中の『青銅の魔人』の続きだ。助かった! 予定の枚数には少し足りないが、これぐらいなら埋め合わせはできる。
「お疲れ様でした、先生」
 乱歩の肩にタオルケット(この夏登場したばかりのすぐれものだ)をかけてやった時、横溝は何か違和感を覚えた。今日は違和感が大漁だ。帰ったら赤飯でも炊こうか。
 あるはずのものがそこにない。何かが足りない。インクの瓶はある。辞書もある。耳かきもラジオもある。一体何だ? 今日、最初にこの部屋に入ってきた時は、確かまだそれがあったはずだ。間違いなく何かが欠けているのだが、わからない。ある日不意に取り壊されてしまった建物のように、どうしても思い出せない。
 こういう時、きっと甲賀ならすぐにわかるのだろう。分析力だけでなく、記憶力も優れている。何でもないようなことまで覚えていて、嫌味に利用したりする。あの男の問題はただ一点、性格だけなのだ。もとい、世の中のありとあらゆる問題は、人の性格に起因するものなのかも知れない……。
 いや、もうやめにしよう。短い間に色々なことを考え過ぎた。
 天才の眠りを妨げないよう、横溝は静かにドアを閉めた。太郎の屋根に降り積む雪のように。

 電話のダイヤルを回しながら、岩井耕治は自分の運命を呪った。探偵なんてろくなもんじゃない。子供が将来なりたい職業の上位に入るそうだが、やめろとは言わない、この道に来るなら覚悟を決めておいてほしい。少し知識のある人間は「ああ、浮気調査員ね」という。けれども浮気調査はまだ気が楽な方だ。
 先代はシーメンス事件の解決に寄与するなど、実際にいくつかの華々しい功績をあげたが、自分が受け継いで以来、探偵の「華々しい」活躍はもっぱら小説の中の出来事である。
 呼び出し音が鳴る。相手が留守であってほしいと願う。いや、無意味だ。先延ばしにしても何にもならない。まったく、こういう役回りこそ助手が引き受けてくれればいいのに。潤子のやつ、妙な知恵は回るくせに、気配りや言葉の選び方がなっちゃいない。あれでは嫁の貰い手がつかないのも当然だ。
 相手が出た。腹をくくるしかない。
「はい、高柳でございます」
「こちら岩井探偵事務所ですが」
「ああ、岩井さん。お待ちしておりました」
 高柳夫人の甲高い声が鼓膜を貫く。もう少し受話器から口を離してほしい。
「それで、何かわかりましたでしょうか」
「ええ」
 岩井は手元の資料に目をやり、大きく息を吸った。さっさと済ませてしまおう。
「お相手の堂本さんのご家族は……」
「まだ相手とは決まっておりません」
「そうでした。失礼」
「娘は公明正大な家の者にしか嫁がせないと決めております」
「はい、重々承知しております」
 公明正大な家とは何だろう。確かに家庭環境が人に及ぼす影響は大きい。岩井自身も家業を継いだのだからよくわかる。しかし、結局のところ個人は個人だ。立派な祖先を持つ悪党もいるし、やくざ者の家から聖人君子が現れることもある。
 ……などという意見は、口が裂けても顧客に言ってはいけない。潤子にはそういった分別がない。
「堂本さんが現在同居していらっしゃるご家族には、特に目立った前科や病歴はありませんでした」
「特に目立った?」
「いえ、前科は一切ありません。病歴といっても、お父様がリウマチを患っておられるぐらいで」
「リウマチというのは遺伝する病気なのでしょうか?」
「さぁ、それはわかりかねますが」
 ある程度歳をとって何の病気もない方が珍しい。高柳夫人は老衰以外認めないつもりなのだろうか。
「……まぁ、いいでしょう。ご家族のことは結構です。それから?」
「えー、義理のお祖父様のお孫さんに当たる方、つまりはとこで、ご本人とは六親等も離れていらっしゃいますが……」
「いいからおっしゃってください」
「そちらの方が一度だけ補導されています。子供の頃に万引きで」
 息をのむ音が聞こえた。そんな大袈裟な。
「要するに、犯罪者のいる家系だったわけですね」
「いえ、逮捕ではなく補導ですから」
「同じです! ああ、やっぱり。怪しいとは思っていたんです」
「しかし奥さん、なにぶん子供の頃のことですし、先ほども申し上げました通りご本人とは……」
「ああ、恐ろしい。大変なところへやってしまうところでした」
 駄目だ。聞いちゃいない。
「他に凶悪な人物は?」
「私どもの調べた限りでは」
「信用していいんでしょうね?」
「信用していただけませんことには」
「いえ、どちらでも結構です。とにかく犯罪者のいる家系だということははっきりしたのですから」
 岩井は心の中で、高柳家の令嬢に頭を下げた。許してくれ。俺に悪気はないんだ。
「ご苦労様でした、岩井さん。代金は明日にでも振り込みますので」
「奥さん、やはり一番大切なものは当人同士の……」
「ありがとうございました」
 電話はぶつりと切れた。
 受話器を置き、岩井はうなだれた。また一つ、結ばれるはずの縁を引き裂いてしまった。いい相手がいるならさっさとくっつけばいいじゃないか。相手に不自由している人間だっているんだぞ、現にこの狭い事務所の中に二人も。

 ところどころ革が破れて綿のはみだしたソファーに腰をおろし、岩井は一枚の紙片を見つめた。目下、これだけが心の慰めだ。
「兄さん、もう答え言っていい?」
 潤子の声だった。
「駄目だ。大人しく本の続きを読んでいろ。それかさっさと嫁に行け」
「そればっかり。兄さんって本当に中途半端」
「何だと?」
「家柄を気にする人のことは怒るくせに、女の仕事は結婚だと思ってる。新しいんだか古いんだか」
「女の仕事が結婚だと思っているわけじゃない。厄介払いをしたいだけだ」
「でも私がいなくなったら困るでしょ?」
「別に困りゃしないさ」
 仕事の速度は落ちるかも知れないが、多少は。
「困ると思うけどな。その程度の暗号も解けないんだから」
「黙っていろ。集中できない」
「一晩一緒にいて理解できないんじゃもう無理だよ。恋人と同じ」
「お前、語れるほど恋してるのか」
「いえ、してませんけど」
 平井隆太郎氏がこの事務所に訪れたのは昨日の夕方だったから、確かに一晩は過ぎた。潤子は隆太郎氏が帰ってすぐ解いてしまった。岩井は慌てて妹の口を塞いだ。日頃気の滅入る依頼ばかりだ。小説のような、胸躍る仕事には滅多にありつけない。
「でもあのおじさん、早い方がいいって言ってなかった?」
「それはそうなんだが」
「早く教えてあげた方がいいんじゃないの?」
「わかっている。いいからあと少し考えさせろ。一人で楽しむな」
「別に楽しいってほどじゃなかったけどね。一瞬だったし」
 岩井は潤子に対する苛立ちを必死に意識の外へ追い出しながら、暗号を睨みつけた。穴も開けとばかりに。しかしさっぱりわからない。
 何しろ事情もよくわからないのだ。この暗号は隆太郎氏のお父上、かの有名な探偵小説作家、江戸川乱歩氏(本名は平井太郎)が作ったものらしい。どうしてもこれの答えを知りたい。しかし父は教えてくれないので、解いてほしいという。解けなくてもやもやする気持ちは実によくわかるが、だからといって探偵に依頼するようなことだろうか?
「兄さん、お昼、おそうめんでいい?」
「何でもいい」
 そう言えばヒントは「そうめん」だった。もしや、そうめんのようにこの紙を茹でると、文字が浮かび上がってくるという仕掛けなのでは? そんなインクは聞いたことがないが。
「おそうめんと目玉焼きどっちがいい?」
「どうして目玉焼きなんだ。それに何でもいいと言っただろう」
「じゃあ目玉焼きね。何かける?」
「何って?」
「醤油かソースか」
「なんで今そんなことを訊くんだ。大体お前わかってるだろう。俺は目玉焼きにはソースだ」
 ちょっと待て。ソース? そうす。そすう、素数……。
「そうか、わかったぞ! ということは、つまり……午後三時、喫茶、コハル」
「はい、お疲れ様」
「どうだ! 俺だってやればできるんだ」
 潤子はその言葉に何故か豆鉄砲を喰らった鳩のような顔をしたが、気にすることはない。とにかく急いで依頼人に電話だ。
 岩井が受話器を取ろうとした瞬間、ベルが鳴った。
「はい、岩井探偵事務所」
「おはようございます。昨日、暗号の解読をお願いしに伺った者ですが」
「ああ、隆太郎さんですね。ちょうど今お電話しようと思っていたところです。解けましたよ、例の暗号」
「あ、そうですか」
 間の抜けた声だった。嬉しくないのか?
「どうしたんです? 何か気がかりなことでも?」
「いえ、それが……」
「どうぞ何なりとおっしゃってください」
「実は……」
「はい」
「こちらでも解けてしまったんです」
「あ、そうですか」
 岩井も間の抜けた声になってしまった。
「お待たせしてしまって申し訳ありませんでした。しかし隆太郎さん、大したものですよ、プロと同じだけの時間で解読なさるとは」
 潤子が何か言いたげな目でこちらを見たが、無視した。
「いえ、解いたのは私ではないんです。実は岩井さんの他にも解読をお願いしていまして、その方が」
「そうだったんですか」
「無礼な真似をして申し訳ありません。なにぶん早く答えが知りたかったものですから」
 まだ解けていない芝居をすることもできたはずだ。それなのに敢えて事実を話し、謝罪する隆太郎に、岩井は敬意を抱いた。
「謝られることはありませんよ。お急ぎならば、尽くせるだけの手を尽くすのは当然のことです。ちなみに、その他の方というのは、探偵さんで?」
「いえ、普通の方です」
 なるほど。まぁ、一般市民の中にも勘のいい人間はいる。
「ともかく、良かったですね」
「ええ、ひとまずはそうなんですが……」
 また何やら引っかかる言い方だ。
「あ、代金の方はきちんとお支払いしますので」
「いえ、結構です」
「そんな……」
「いいんです。久々に探偵らしい仕事ができて私も嬉しかったんですよ」
「そういうわけにはいきません。確かに労力をかけていただいたんですから。それに、続きもあるんです」
「続き?」
「今朝、父がまた暗号を見せてきました」
「ほう!」
 思わず大きな声が出た。
「どうせ私の頭では解けませんから、今度は最初から岩井さんにお願いしたいと思いまして」
「喜んでお引き受けします。ちなみに、今度もまた昨日の暗号を解いた方にも依頼されるんでしょうか?」
「ええ、そうですね……」
「何も気兼ねされることはありません。既に連絡は?」
「いえ、まだです」
「では、この電話を切ったらすぐその方に連絡なさるといい。しかし私も負ける気はありません、先代の面目にかけてもね。ちょうど厄介な案件も片付いたところですし、解読に全力を傾けます」
 岩井は隆太郎から新しい暗号の内容を聞き、慎重にメモを取った。

 十 土 公 九 地 金 本 分
 六 午 茶 四 館 前 時 後
 園 天 民 夜 明 三 曜 日
 日 月
          お宝頂戴つかまつる。

「カタナカが漢字に変わりましたが、つくりは昨日のものとよく似ていますね」
「はい」
「何かヒントのようなものは?」
「今度は『鏡』です」
「鏡」
「少しひびが入っていました。何か意味があるのかはわかりませんが」
「ふむ、ひびの入った鏡ですか」
 気付くと潤子がメモを凝視していた。おい、まさかまたすぐ解いてしまうんじゃないだろうな。
「わかりました。ただちに解読にとりかかります」
「よろしくお願いします。昨日も申し上げましたが、この件はくれぐれも内密に」
「ええ、ご心配なく」
 依頼人の秘密は守る。探偵にとっては当たり前のことだ。
 受話器を置くと、岩井はすぐさま言った。
「潤子」
「解けても言うな、でしょ」
「わかってるならいい」
「まだ解けてないから大丈夫」
 当たり前だ。こんな一瞬で解かれてたまるか。
「一応、こうじゃないかなって読み方はあるんだけど」
 何だと? どういう頭をしているんだこの女は?
「それだと意味が通らないから、やっぱり違うみたい」
「なんだ、驚かせるな」
「ところでさ、これ本当に江戸川乱歩先生が作った暗号なのかな?」
「そんなことを疑っているのか?」
「だって変じゃない。わざわざお金かけて探偵に相談するなんて」
「何か事情があるんだろう。とにかく解けばいいんだ」
「うち以外にも誰かに相談したんでしょ?」
「ああ、そうらしいが」
「そこまでして答えが知りたいってことは、ただの遊びじゃなさそうじゃない?」
「遊び?」
「お父さんが息子さんに暗号の問題を出した。これって普通に考えたら遊びだよね?」
「そうだな」
 偉大な作家にもお茶目なところがあるようだ。
「でもきっと遊びじゃない。お父さんが答えを教えてくれないのも変だし、息子さんがこうまで答えにこだわるのも変」
「遊びじゃなかったら何だっていうんだ」
「例えば、遺産相続とか」
 潤子もよく探偵小説を読んでいる。影響は免れないらしい。
「一番早く解けた者に全財産を譲る、みたいな」
「それはないだろう。隆太郎さんは一人息子だ。少なくとも兄弟の争いはない」
「なんでそんなこと知ってるの?」
「江戸川先生の講演会に行ったことがあるからな」
「そうだったんだ」
 岩井は探偵の「現実」を大変よく知っているが、空想の世界に出てくる探偵こそ、「本当の」探偵だと思っている。明智小五郎のような男になることを諦めてはいない。問題はくだらない依頼があまりに多過ぎるということなのだ。
「でも、遺産相続じゃないとしても、何かの事件かも知れない」
「事件?」
 想像力が豊かなのは結構だが、いき過ぎだ。
「江戸川先生は事件を作る側の人だぞ、紙の上に」
「だからって本人が事件に巻き込まれないとは限らないじゃない」
 それはそうだが。
「昨日の暗号の答え、思い出してみて」
「午後三時、喫茶コハル」
「時間と場所を指定してる。そこで何かの取引があったって感じしない?」
 ……確かに。
「ねぇ、兄さん、今から喫茶コハルに行ってみない?」
「三時ってのは今日の三時じゃないんじゃないか?」
「うん。もう昨日だったかも知れないけど、とにかく行けば何かわかるかも」
「だいいち喫茶コハルってのはどこのことなんだ。どうせ電話帳で調べてもそんな名前の喫茶店はいくつもあるぞ」
「いくつかあるなら、とりあえず江戸川先生のお宅から近いところ」
「ん? 待て。隆太郎さんに聞けば知っているんじゃないか?」
「それは駄目。まだ彼がシロかどうかわからない」
「シロとかクロがある話か?」
「それもわからないけど、とにかく電話帳で調べて行ってみようよ」
「いや、しかしな……」
「何か気になることでもあるの?」
 お前の指図で動くのが気に食わないんだ、とは言えなかった。
「わかった。行こう。だが暗号はどうするんだ」
「道々考えればいいじゃない。あ、兄さん、手鏡持ってきて」
「手鏡?」
「ヒントは鏡なんでしょ?」
 岩井は身だしなみに気を遣う人間である。机の引き出しに手鏡やブラシが入っている。それを知られているのは構わないのだが。
「お前は持っていないのか」
「ないから言ってるの。さ、行こうよ」
 つくづく年頃の娘とは思えない。

 隆太郎は嘘をついた。暗号の解読を探偵事務所に依頼したのだが、その際「父が作ったもの」と説明した。差出人不明と言って、何か事件性を疑われでもしたら、話が大きくなってややこしいことになりそうだったからだ。岩井という探偵はほんの少しだけ訝しげな顔をしたが、事情を聞き出そうとはせず、解読を引き受けてくれた。わけありの客には慣れているのだろう。
 一夜明け、木曜の朝、横溝が電話で暗号の答えを教えてくれた。聞いてしまえば「なんだ、そんなことか」と言いたくなるような仕掛けだが、自分は気付かなかったのだから何も言えない。
 喫茶「小春」はここから歩いて行ける距離にある。なかなか洒落た雰囲気の店で、客は立教大学の学生が中心である。そう言えば、近頃は幻影城にこもりきりの父も、かつてはよくあの店で珈琲をすすりながら原稿を書いていた。
「午後三時、喫茶『小春』」
 日付が示されていないということは、恐らく昨日(水曜)の午後三時だったのだろう。何事かあったのかも知れないが、もう遅い。甲賀が「早く解いた方がいい」と忠告したのはこういうことだったのだ。
 横溝に礼を言って電話を切った後、郵便受けを開くと、二通目の暗号が届いていた。これも甲賀の言った通りだった。やはりあの男は侮れない。性格の悪さには目をつぶって(それにはかなりの努力を要するが)、助力が得られるなら頼もしくはある。が、彼には変に律儀なところもある。父との約束に反してまで、これ以上この件に関わってくることはないだろう。
 二通目の暗号は一通目とよく似ていた。差出人の名はないが、封筒やタイプの仕方、結びの「お宝頂戴つかまつる」という一文、それにヒントらしき品物を同封している点からしても、同一人物からのもの、すなわち「二通目」と見てまず間違いない。
 ヒントは「鏡」。丁重に厚手の布でくるまれていた。郵便屋が誤ってどこかにぶつけでもしたのか、はたまた差出人がわざとそうしたのか、鏡にはひびが入っていた。
 一通目の解き方を参考にすれば自力で解けるかも知れない。しかし一分間だけ考えて、すぐ諦めた。今度もまた当日中のある時刻を指定しているものだとしたら、時間がない。餅は餅屋だ。
 岩井に電話すると、一通目の答えに辿り着いていたところだった。素人の横溝に少々遅れを取ったわけだが、横溝の方が少しだけ早く解読を始めていたし、岩井にも色々と他の仕事があったのだろうから、責められるようなことではない。何はともあれ二通目の解読を依頼した。今日自分は昼過ぎに講義の予定で、学生たちの論文を読む仕事もある。研究室の番号を伝えた。
 続いて、横溝にもと編集部に電話をかけたが、席を外しており、その日は夕方まで戻らないとのことだった。仕方がない。
 隆太郎は昨日と同じように、午前中いっぱい暗号と見つめ合っていたが、やはり解けるはずはなく、岩井からの電話もなかった。
「またお勉強?」
 静子の声で顔を上げると、時計の針は十一時を回っていた。
「朝からあちこち電話したりして、何だか大変そうね」
「ああ」
「何かお手伝いできることがあったら言ってね」
「何もない」
「あら、そんな言い方しなくてもいいじゃないの」
 暗号の解読で火照った頭に、静子のぬるま湯のような声は、悪い取り合わせだった。
「お昼は何がいい?」
「何でもいい」
「何度も言うようだけど、何でもいいって言われるのが一番困るのよ」
「何でもいいんだから仕方ないだろう」
「材料だけでも何か決めてくれない?」
「あるもので適当にやってくれ」
世界中のどれだけの男が、この「何がいい?」に苦しめられているだろう。何でもいいのだ、本当に。それを考えるのもそちらの仕事じゃないのか。何が出ても文句は言わない。他のことを考えたいんだ。
こんなことを声に出すと、また女性の権利がどうのこうのと誰かにうるさく言われるだろう。だから声には出さない。声には出さないが、そもそも権利の話などしていないのだ。献立の相談をしないでほしいと願っているに過ぎない。正当な要求だ。やはり声に出してみよう。
「もう金輪際、献立の相談はしないでくれないか」
「どうして?」
「どうしてもだ」
 いやいや、落ち着け。
「だいいち何故、何がいいか訊くんだ?」
「だから、困るからよ」
「こっちも困っているというのがわからないのか?」
「わかるけど、毎日三食つくる方の身にもなってよ」
「こっちの問題だってそっちには相談しないだろう」
「してくれてもいいのに」
「無駄なことはしないんだ。だからお前も無駄なことはしないでくれ」
「無駄なことって何よ」
「だから、献立の相談をするな」
「食べたいものが何もないの?」
「ああ、もういい。昼飯はいらん」
「午後はお仕事でしょ。身体壊しちゃうわよ、昼間はまだ暑いんだから」
「じゃあ米と味噌汁だけでいい」
「はいはい。じゃあ何か簡単なものをね」
 やっと終わったか。まったく、随分時間を無駄にした。解けそうにない暗号を解こうとしている方がまだ有意義だ。
「何、その包み?」
 まだ続くのか。
「触るな!」
「大きな声出さないでよ、びっくりするじゃない」
「割れた鏡を包んであるんだ」
「割れた鏡?」
「この暗号のヒントだ」
 ああ、説明が面倒臭い。興味はないんじゃなかったのか。
「なんで割れた鏡がヒントなの?」
「それがわかれば苦労はしない」
「それもそうね」
 と言って静子は笑った。何がおかしいのやら。
「鏡に映したら読めるようになるとか」
「そんなわけあるか」
 なんて短絡的なんだ。
「見てみろ、普通の文字が並んでいるんだ。鏡に映しても逆さまになるだけだ」
「でも読める字もあるじゃない」
「何だと?」
「ほら、最初の『十』とか『土』とか」

 十 土 公 九 地 金 本 分
 六 午 茶 四 館 前 時 後
 園 天 民 夜 明 三 曜 日
 日 月

 確かに、左右対称の字がいくつかある!
「どう?」
「ちょっと黙っていろ」

 ――十土金本六茶天三日日

 さっぱりわけがわからない! 特に最後の「日日」は何だ。軍歌か。あれは「金金」だが。
「違うな。この読み方は違う」
「あら残念。私にしてはいいこと言ったと思ったのに」
「もういいから飯にしてくれ」
「何も食べたくないんじゃなかったの?」
「口答えをするな」
「はいはい。お邪魔しました」
 その通り、お邪魔だ。もう勘弁してくれ。
「あ、違うの。そうじゃなくてね」
 隆太郎は手のひらで机を叩いた。
「何なんだ!」
「だから大きい声出さないで」
「お前が出させているんだろうが」
「その包み、綺麗ね」
「包み?」
「ええ」
「包みがどうした」
「綺麗ねってだけなんだけど」
 それが一体どうしたというんだ。隆太郎はすっかり肩の力が抜けてしまった。
「それ、貰っていい?」
「駄目だ」
「でも、あなたのものじゃなくてお義父さん宛でしょ? お義父さんがいいって言ったらいい?」
「駄目だ」
「なんで」
「中の鏡は割れていると言っただろう」
「それで?」
「手を切らないように包んであるんだ。そんなこともわからないのか」
「違う布で包めばいいじゃないの」
 それは……そうだが。
「じゃあ、何か持ってくるから」
「待て」
 そうだ。ヒントは鏡だけとは限らない。封筒に入っていたものというなら、これもそうなのだ。もしや、この布も?
 ……いや、やはり布は関係ない気がする。包まずに入れておいたら、相手に怪我をさせてしまう恐れがある。それを防ぐための布だ。それだけのものだ。ヒントまで兼ねていては複雑過ぎる。甲賀がいうところの「読ませるための暗号」なら、そんなややこしい構造になっているとは思えない。
「何? 何を待つの?」
「この布もヒントかも知れない」
 多分違う。が、これだけ無駄話に付き合わされて、欲しい物をくれてやるというのは癪だ。
「その布でこすると答えが浮かび上がってくるとか」
「お前の考え方はどこまで単純なんだ」
 呆れ果てるとはこのことだ。けれども念のため、あとでやってみよう。あくまでも念のためだ。
「じゃあ、暗号が解けたらその布ちょうだいね」
「そんなに欲しいのか」
「だって随分いいものよ、それ」
 まったく、女というやつは飾ることにしか興味がないのか。言いかけて、やめた。また長くなってしまう。
「頑張って暗号解いてね」
 静子は勝手なことを言って去っていった。やるとは言っていないぞ。
 さて、結構な回り道をしてしまったが、ヒントはやはりこの割れた鏡だ。鏡なのだから、当然何かを映すのに使うのだろう。
 先ほど試した、文字を反転させるやり方も、もしや当たらずとも遠からずなのか? 例えば「十土金本六茶天三日日」を、文章になるように並び替えるとか……駄目だ。意味をなさない。ならば、これを何かに置き換えるとか?
 本職の探偵に依頼したのだから待てばいいとは思いつつも、ここまで労力をかけてしまうと(妻との言い合いを含む)、やはり自力で解きたくなってくる。暗号にはロマンがあると横溝は言った。ロマンという感覚は正直わからなかったが、少なくとも魔力のようなものはあるらしい。
 一通目の暗号を横溝は解いた。探偵でも作家でもないのに。甲賀も解いた。奴は一瞬で解いた。何でもない風を装ってはいたが、さぞかし気持ちが良かっただろう。自分にだって解けるはずなのだ、何かに気付きさえすれば。
 そう言えば、一通目。ヒントはそうめん。それが意味するところの素数は、文章それ自体ではなく……。
「ねぇ、本当に何でもいいのね?」
 何かが閃きかけていた(かも知れない)のを、台所からの声がぴたりと止めた。隆太郎は危うくわけのわからないことを叫び出しそうになった。
「もういい! 飯はいらん!」
 そう怒鳴って、隆太郎は立ち上がった。

 そして、夕方になってしまった。研究室の電話が鳴ることはなかった。本職の探偵といっても、暗号が一瞬で解けるわけではないようだ。やはり甲賀のような人間が必要なのだろうか……。
 大学の正門を出たところで、村山と出くわした。出不精の父と対照的に、村山はよく散歩をする。かなり遠くまで脈絡なく行くこともあるという。父や甲賀に比べれば親しみやすい人柄ではあるが、創作に携わる人間は皆、どこかしら変わったところがあるようだ。野球の投手も変わり者が多い、と誰かから聞いたことがある。
 ちょっと一杯、ということになり、学生相手の安い赤ちょうちんに入った。たまにはこういう店もいい。
「実は引っ越そうかと思っているんです」
 乾杯の直後、村山が出し抜けに言った。あまりに唐突だったので、隆太郎は返答に詰まった。
「急にすみません」
「いえ。でも、どうして?」
「きちんとした理由はないんです。江戸川先生に原稿を見ていただけることは大変光栄ですし、先生のご指導を不満に思っているわけでもありません。まさかそんなことはあり得ませんよ。ですから、何でしょうね……。本当にただ何となくなんです」
 彼なら頷ける、と隆太郎は思った。長い散歩に出るのと同じ感覚なのだろう。
「いつ頃ですか?」
「まだ決めていません」
「お引っ越し先は」
「それもまだなんです。引っ越そうかなと思い始めただけでして。いえ、引っ越し自体はします、多分」
 母が淋しがるだろう。隆太郎が最初に思ったのはそれだった。母が心の健康を保つのに、村山の存在は決して小さくないはずだ。父は仕事の調子を取り戻せば、母への接し方もあらためてくれるだろうけれど、それはいつになるかわからない。
 そのことを話すと、村山は笑った。
「僕なんかいなくたって大丈夫ですよ」
「そうでしょうか」
「気丈な方ですし。長年連れ添った夫婦なんて皆会話は少なくなるもんでしょう。お互いわかり切ったことばかりなんですから」
「確かに」
「誰だって相手が知っている話はしないでしょう? だから家族の会話を書くのは難しいんです。読者に情報を与えようとすると無理が生じますからね」
「なるほど。流石は作家さん」
「いやいや、こんないい歳して、まだこれですよ」
 と、村山はうずらの卵の串揚げを持ち上げて見せ、ソースの壺にひたした。
「だいいち、先生と奥さんは恋愛結婚だったんでしょう?」
「ええ、そう聞いていますが」
 当時、父は鳥取の造船所に勤めており、その中で童話などを朗読する倶楽部を作っていた。坂手島の小学校に訪問した時、教師をしている母と出逢ったのだという。
 作家江戸川乱歩の登場は結婚後まもなくのことだった。デビュー作の『二銭銅貨』について、父は全集に寄せた解説で次のように書いている。

 読むのは好きだけれど、小説を書こうなんて、又書いたものが売れようなんて、てんで想像もしていなかった。学校を出ると色々な商売をやった。だが、どうも浮世が面白くなくて、ともすれば小説を読んで寝転んでいた。だから商売は何をやっても駄目だ。ある失職時代、親の厄介になりながら、あまり所在なさに探偵小説を書いて見た。それが『二銭銅貨』だ。(※光文社文庫『江戸川乱歩全集 第一巻 屋根裏の散歩者』四三頁より引用)

 何ともだらしない誕生ではあったが、ともかくできあがった『二銭銅貨』の原稿を、父は『新青年』の編集長に送った。すると、多忙につきすぐには読めないという返事が来た。腹を立てた父は、素人のくせに「読まないなら返せ」と無礼千万な手紙を送りつけた。これが功を奏して『新青年』掲載に至ったわけだが、今考えても随分と無茶苦茶なデビューである。
 その頃から、母は父のそばにいた。
「でも、恋愛結婚だったからといって、生涯安泰というわけではないでしょう」
「それはそうかも知れませんがね」
 そう言って村山は野菜の煮物を箸でつまんだ。
「それに、『恋愛結婚』なんて言葉はありますけど、そもそも恋愛と結婚はまったくの別物ですよ」
「そうでしょうか?」
「僕も妻とは見合いではありませんでした」
「つまり、恋愛で」
「形式としてはそれに分類されます。出会ってからしばらく……まぁ、長めに見積もって、籍を入れてからしばらくの間は、いわゆる恋愛の関係にあったと認めざるを得ないでしょう」
「隆太郎さん、どうしてそんな言い方をなさるんですか」
「やがて恋愛ではなくなるからです。始めは『恋人』であり、『妻』であっても、その相手は思いがけない早さで、良く言っても『共同生活者』、悪く言えば『しがらみ』になります」
「随分ですね」
「事実ですよ。静子と出会った頃の感覚は、もうまるっきり思い出せません」
「『共同生活者』が『妻』に戻る可能性は?」
「どうでしょう。広い世の中にはそういうこともあるかも知れませんが、少なくともうちはもう望み薄です」
 「うち」という言葉を村山は、隆太郎と静子のことと、父と母のことと、どちらと取っただろう。どちらでも同じことだが。
「何しろ『結婚は人生の墓場』という言葉もありますからね」
「ああ、それは誤訳ですよ」
「誤訳?」
「もとはフランスの詩人ボードレールが、その当時蔓延していた梅毒に対して警告する意味で『墓場のある教会で身体を清めてから結婚しなさい』と戒めたものだったんです」
「そうだったんですか」
 賛辞を送ろうとした隆太郎を、村山が遮った。
「これはたまたま知っていただけです。まだまだ勉強不足ですよ。江戸川先生にもよく叱られます」
 作家は誰でも本をよく読むものだが、読書量にかけては、父の右に出る者はいないだろう。隆太郎はそれが少し自慢だった。知に貪欲。大地に果てしなく根を伸ばして、水と栄養とを幹に送り込み、天高く梢を伸ばし、豊かな葉を茂らせる大樹。そんな父の背中を見て育ったからこそ、隆太郎も今の職にあるのだ。
「恋愛と結婚については、ドイツの科学者リヒテンベルクがこんなことを言っています。『恋愛は人を盲目にするが、結婚が視力を返してくれる』」
「なるほど。視力が戻って落胆するというわけですね」
「いえ、そうとは限りませんよ。改めて綺麗だと思う、なんてこともあるでしょう」
「どうでしょうかね」
 村山はかなりのロマンチストであるらしい。これは新たな発見だった。
「そう言えば村山さん、失礼とは思いますが……」
「結婚をしていたことはありません」
「そうでしたか」
「作家になりたいなんて大層な夢を、こんな歳になって未だに持ち続けているんですから、ついていきたいと思う女性はいませんよ」
「わかりませんよ。その夢はきっと叶いますし」
「だといいんですけど」
「充分に希望はあります。父が見てくれているんですから」
「そうですね。ありがとうございます」
「それに、村山さんはお優しいじゃないですか」
「優しい?」
「男は優しいのが大事ですよ、少なくとも女性にとっては」
 何を偉そうなことを……と、隆太郎は自分の言葉に対して思った。

 少し酒が回って、隆太郎は、村山に暗号を見せてみることを思いついた。むしろ、何故今まで気付かなかったのだろう。彼も探偵小説を書く人間だ。閃きの力は備えているはずである、少なくとも自分よりは。
「村山さんの作品に、暗号が出てくることはありますか?」
「ええ、一応」
「それは良かった」
「どうしてです?」
「ちょっと見ていただきたいものがあるんです」
 食器を卓のわきに寄せ、二枚目の暗号を広げた。
「もしかして、先生宛に?」
「はい」
「以前ひどいのがありましたよね。さんざん考えさせておいて『解なし』っていう」
 そう言えば、あの時は村山も解読に参加したのだった。
「その節はご迷惑を」
「いえいえ。しかし、今度のこれもいやがらせってことは?」
「恐らくそれはありません。この暗号は今朝届いたものなんですが、実は同じ形式のものが昨日も来ておりまして、そちらは甲賀先生がお解きになったんです。ですから、これも『解なし』ということはないと思います」
「なるほど」
 事件の可能性があるという点には触れないでおくことにした。岩井に嘘をついたのと同じ理屈である。
「ヒントは『鏡』です。少しひびが入っていまして、それにも何か意味があるのかも知れません」
 村山は口もとに拳を当て、黙って紙を見つめている。集中しているようだ。改めて見ると、なかなか男前じゃないか。
 隆太郎は厚揚げを崩し、ジョッキにホッピーを注ぎ足して一口飲んだ。
「どうでしょう、村山さん。解けそうですか」
「いえ、なかなか難しいですね。ちょっとずるいかも知れませんが、一枚目の暗号とその答えがどんなものだったか、教えていただけませんか?」
 説明してやると、村山はまた口もとに拳をやり、少し考えてから言った。
「これも全体から正しい語だけを抜き出す形かも知れませんね」
「それは僕も思います」
「解いてほしいと相手が思っているなら、その線はかなり強いと思います。それから、答えについても、一枚目と同じように、時間や場所を示すものなんじゃないでしょうか」
 それも、既に思っていた。隆太郎の顔を見て村山は笑った。
「すみません。このぐらいのことはとっくにお気づきですよね」
「ええ、まぁ」
 日時の表現に使われそうな字がいくつかある。まず間違いないだろう。
「ところで、この暗号を作った方は、江戸川先生のことが大好きな方なのかも知れませんね」
「何故です?」
「ヒントが『鏡』というのは、先生のご趣味を意識してのことかと」
「ああ、それはあり得ますね」
 乱歩はある雑誌の中で、自身を指して「レンズ嗜好症」といっていた。子供の頃、外の景色が雨戸の節穴を通って障子に映るのを見て以来、レンズというものの魔力にとりつかれてしまったのだという。隆太郎も小学生時代に天体望遠鏡を買ってもらったことがある。趣味が高じて書かれた『鏡地獄』は完全に常軌を逸していて、とうとう気がふれてしまったのではないかと心配した。
 村山の言うように、差出人が父のことを「好き」なのかはわからないが、父について詳しい人物である可能性は確かにあると思えた。
「……いえ、すみません。やはり考え過ぎという気がします」
「そうでしょうか?」
「単なる偶然でしょう。先生は特にそうめんがお好きというわけじゃありません。この二通目だけいわれのあるものをヒントにするというのは、ひどく中途半端です」
「二通目だけでも、ということは?」
「タイピングの仕方を見る限り、差出人はかなり几帳面な性格だと推察されます。暗号を作ろうなんて人は皆、少なからず几帳面さを備えているとは思いますがね」
「なるほど」
 確かに、お行儀よく紙の中央にタイプされている。
「差出人が江戸川先生のご趣味を知っているという可能性が消えるわけではありませんが、暗号のヒントを、ひいては暗号を考えるにあたり、先生のご趣味に合わせたということは多分ありません。どうも失礼しました。何の手がかりにもならないことを長々と」
「いえ、少なくとも差出人の性格というのは、僕にとって新しい視点でした」
 隆太郎は二通目の封筒を開いた時のことを思い出した。鏡を丁寧に包んでいた厚手の布。一度はヒントかと疑い、それはないだろうと判断したが、あれには差出人の人となりが表れていた気がする。読んで字の如く、折り目正しい人間。細やかな神経。
 けれども、差出人に思いを馳せたところで、解読が進むわけではない。横溝が言っていたように、暗号はそれ自体で完結した謎なのだ。仮に、作者は几帳面な人物であるという情報を先に与えられていたとしても、一通目の解読には一切影響しなかっただろう。

 その後は少し違う話をし、勘定を払って店を出た。夜風は日一日と秋の香りを濃くしている。
「うつしよはゆめ、夜の夢こそまこと」
 乱歩がサインを求められた時、決まって書き添える文句である。
 隆太郎の思索は何故か、暗号についてのものから乱歩の執筆をめぐるものへと変わっていった。
 少年探偵団シリーズは、父が本当に書きたいものではない。疎ましむほどではないにせよ、書くことで己を表現できているという手ごたえは感じていないはずだ。父は「夜の夢」を書きたがっている。
 何故か? それは、見たことがあるからだ。丑三つ時の合わせ鏡。魑魅魍魎が跋扈する負の世界。
 チェーホフは言った。
「雨が降ったら雨が降ったと書きなさい」
 この世は闇だから、この世は闇だと書こうとしている。その暗さを、深さを、おぞましさを、父は見たことがあるのだ。いや、まさに今、見ているのかも知れない。
 思考の飛躍を、隆太郎は飛翔と感じた。父がしばしば酒に頼る気持ちを理解した。
 帰り着いた時、幻影城の二階からは灯かりが漏れていた。父は今頃、夢を見ているのだろう。寝ていても醒めていても。

「うつしよはゆめ、夜の夢こそまこと」
 誰だ? 声の方を振り向くと、村山だった。当たり前だ。この場には村山しかいない。だが何故か今、やけに遠くからの声に聞こえた。遥か遠く、闇の向こうからのような。
「隆太郎さん、怒らずに聞いてください」
「何でしょう?」
「実は、僕はあの言葉があまり好きではないんです」
 門を入ったところで、村山は立ち止まった。隆太郎もつられて立ち止まった。月は出ているのに、不思議と村山の姿が見えにくい。黒いもやの中にいるかのように。
 これは、夢か? 自分はもう布団に入って眠っているのか? いや、違う。はっきりと感覚がある。
「別に怒りはしませんよ。でも、何故お嫌いなんですか?」
「夢は夢、うつしよはうつしよです」
「ええ」
「人はうつしよに生きています」
「その通りです。しかし、だからこそ、なのではないですか?」
「だからこそ、何です?」
「一言では言いがたいですが」
「『夜の夢』とはきっと、愉快な夢を指す言葉ではありません。江戸川先生の作品を読めばわかります」
「確かに重苦しいものや不気味な作品は多いですね」
「先生はこの世界の闇の部分を追求しようとしていらっしゃいます。かつて発禁になった『芋虫』など最たるものです」
「父は闇こそが真実、つまり『まこと』だと言っているのはないですか? そして、喜ばしいことではないかも知れませんが、それは的を射た考えなのではないでしょうか」
「ええ、半分の意味では」
「半分?」
「闇が全てではありません」
 そう言う村山の姿こそ、今、闇と同化しているように見える。父が眠る土蔵からの灯かりを跳ね返すかのように。
「確かにこの世界は、闇に覆われています。人は誰しも心に汚いものを抱えていますし、陰惨な事件は毎日のように起こります。けれど、この世界には間違いなく、光も存在します」
 隆太郎は曖昧に相づちを打った。
「人は幸福を求めて生きています。古来より幸福を求め続けてきたからこそ、時には、いえ、常に争い事はありましたが、人の世界はここまで発展してきました。印刷という技術一つをとってもそうです。多くの人に伝えようという目標に対して、研究者たちが諦めずに努力をしたからこそ、今日の文学があるんです。もし研究者たちが、そんなことは不可能だ、面倒くさいと投げ出してしまっていたら、作家が登場することさえなかったはずです。美しいものだけを見ていては世界の半分しか描けませんが、目を背けたくなるようなものばかり見ているのも同じことです」
 酔いに任せて喋っているのではない。日頃考えていることを、村山は本気で吐き出している。父の言葉を否定する内容ではあるが、本心を吐露する相手に自分が選ばれたことを、隆太郎は嬉しく感じた。
 語り続ける村山の目には、微かに痛みを抱えているような気配もあった。自己陶酔のようなものは微塵も見出せない。
「闇がそこにあるからと言って、光から目を逸らしてはならないんです」
「父は少年探偵団シリーズも書いています」
 隆太郎がそう言うと、村山の身体から発せられる黒い粒子が僅かに減った。そのように見えた。
「本当に書きたがっているものは、やはり闇なのでしょう。けれど少年向けの明るい話も書いていることは紛れもない事実です」
 隆太郎は少年探偵団シリーズの第一号『怪人二十面相』に初めて登場した時の、名探偵明智小五郎を思い浮かべた。

 出迎えの人垣の前列に立って、左の方を眺めますと、明智探偵をのせた急行列車の電気機関車は、刻一刻その形を大きくしながら近づいて来ます。
 サーッと空気が振動して、黒い鋼鉄の箱が目の前を掠めました。チロチロと過ぎて行く客車の窓の顔、ブレーキのきしみと共に、やがて列車が停止しますと、一等車の昇降口に、懐かしい懐かしい明智先生の姿が見えました。黒い背広に、黒い外套、黒のソフト帽という、黒ずくめのいでたちで、早くも小林少年に気付いて、ニコニコしながら手招をしているのです。
「先生、お帰りなさい。」
 小林君は嬉しさに、もう無我夢中になって、先生の側へ駆けよりました。
 明智探偵は赤帽に幾つかのトランクを渡すと、プラットフォームへ降り立ち、小林君の方へよって来ました。
「小林君、いろいろ苦労をしたそうだね。新聞ですっかり知っているよ。でも無事でよかった。」
 アア、三月ぶりで聞く先生の声です。小林君は上気した顔で名探偵をじっと見ながら、一層その側へより添いました。そしてどちらからともなく手が延びて、師弟の固い握手が交わされたのでした。(角川ホラー文庫・江戸川乱歩著『黒蜥蜴と怪人二十面相』三一六~三一七頁より引用)

 これこそまさに、光ではないか。悪意、欺瞞、不実、憎しみ……この世を覆う闇の殻を、内側から突き破る強い光。
 本人が望むと望まざるに関わらず、父のペンは光を備えている。
「父は光も書いています」
「はい」
「闇に埋もれてしまってはいません」
「そう思います。ですから、ご自分の人生についても、それが真っ暗なものだなどとは思わず、明るいものの方へ目を向けてほしいのです」
 人生? 隆太郎は村山の話が突然わからなくなった。
「先生には光を感じる義務があります。隆太郎さん、あなたも」
「僕も?」
「生きていれば、苦しいことは必ずあります。それは必ず理解できることなんです。そして、苦しみの中にいると、それを耐えるのに必死で、すぐそこに光があることさえ忘れがちになります。ですから僕は、読者にそれを思い出させるような作品を書きたいと思っています。需要があるならば」
「需要はきっとあります」
「そう信じたいのは山々なんですが、いかんせん僕自身が今、闇の中におりまして」
「村山さんが?」
「仮初めの光に触れてしまったせいで、身の回りの闇が一層強く感じられてしまうんです。泥沼に見事な蓮の花が一輪、咲いているようなものですよ。美しいものが汚いものを際立たせるんです」
「その考え方は、村山さん、あなたの主義に反しています。泥沼だけでなく、蓮の花もまた、『まこと』なのではないですか?」
「いえ、残念ながら、これは造花なのです。呼吸はしていません。種子を結ぶこともありません」
 月に雲がかかり、あたりが暗くなった。
「お許しください。長々と立ち話を」
「いえ」
「それでは、おやすみなさい」
 そう言って村山は、夜の闇の中へと消えていった。

「一昨日の三……」
「一昨日来たお客で、様子のおかしい人はいませんでしたか」
 岩井の言葉を、潤子が遮り、続けた。何をするんだ。
「一昨日、ですか」
 若い女給はそう言って、こめかみに指を当てた。
「特別おかしな人でなくてもいいんです。少しでも印象に残っている人は?」
 潤子が言った。
 女給は懸命に思い出してくれているようだ。しわの寄った眉間がかわいらしい。喫茶「小春」、いい店じゃないか。今度個人的に来よう。
「これといって変わったお客様はいらっしゃいませんでした。私の覚えている限りでは」
「そうですか」
「お役に立てなくて申し訳ありません」
「いえ、ありがとうございました」
 女給はお辞儀をして、仕事に戻っていった。エプロンの結び目が初々しい。
「ちょっと兄さん、鼻の下伸ばしてないで」
「俺がいつ何を伸ばそうと勝手じゃないか」
「目つきが気持ち悪い」
「それがどうした」
「公共の福祉に反する」
「お前近頃口が過ぎるぞ」
 女性の社会進出は大いに結構。古い慣習にとらわれていては経済の発展は見込めない。が、一部、何を勘違いしているのか、必要以上に増長する輩がいるから困る。我が妹のように。
「さっきの女給さん、『この人より変な人はいなかったな』って、比較対象にしてたかもよ」
「そんなことで女給が勤まるか。いいか、何も水商売に限った話じゃない。接客というのは人に見られるのも仕事のうちなんだ」
「人を見るのが探偵」
「それはその通り」
「じゃあ、よく見てよ。遊びに来たんじゃないんだから」
 電話帳を調べたところ、「コハル」という名の喫茶店は、都内に四件あった。「小春日和」も含めると五件になる。その中で江戸川乱歩邸に最も近いこの店は、立教大学のすぐそばにある(というより江戸川乱歩邸が立教大学に接しているのだが)。昨日木曜は定休日であったため、調査は本日金曜となった。大学の隣ということで、客層はやはり、学生が中心である。店内に若さがみなぎっている。めだかの泳ぐせせらぎのように。
「アベックが多いな」
「そうだね。そのことから何が言える?」
「羨ましい」
 ため息が聞こえた。
「こういう雰囲気の中じゃ、取引みたいなことしてたら相当目立つよね」
「それは言えるな」
 恋の駆け引きならこの風景にも溶け込みそうだが。
「あの女給さんの記憶力が悪いってわけじゃなさそうだね。怪しいお客は確かにいなかった」
 そうだろうとも。あの子はきちんと覚えている。あの子、名前は何だろう。
「また鼻の下」
「ときめきは心の栄養だ。そんな調子じゃお前、そのうち餓死するぞ」
「私は兄さんと食生活が違うの」
 ああ言えばこう言う。人が心配してやっているというのに。
「そうだ。お前、さっきなんで割り込んできたんだ」
「え?」
「女給に話を聞く時」
「ああ、あれね。敢えて時間を言わない方がいいかなって思ったの。もし印象に残ってる人がいたら、そのお客が何時頃に来たか訊けばいいでしょ? で、それが三時頃だったらいよいよそいつが怪しい、ってことになるわけ」
「理屈はわかった。悪くない手だ」
「ま、空振りだったけどね」
「だが先に言っとけ」
「あの瞬間に思いついたんだからしょうがないじゃない」
 店の客は学生が多いが学生専門店というほどでもない。中年女性の二人連れや、一人で文庫本を読む初老の紳士もいる。それでもやはり、取引などに相応しい場とは思えない。女給も怪しい人間は見なかったという。となると、一昨日の午後三時、ここで何があった?
「ところで、暗号はどうなった」
「そっちはどうなの?」
「解けていたら言っている」
「同じく」
 珍しく苦戦しているらしい。
「読み方はあれしかないと思うんだけどな」
「最初に言っていたやつか?」
「うん」
「聞こうか」
「え、言っていいの? 自分で解きたいんじゃないの?」
「答えに直結していないならいい」
「じゃあ言うね。あの暗号、全部で何文字だった?」
「ちょっと待て」
 と、岩井は暗号のメモを取り出し、字数を数えた。
「二十六か」
「以上」
「は?」
「それがヒント」
「俺は読み方を訊いているんだが」
「考えてみなよ」
 楽しんでいやがる。この前はさんざん答えを言いたがったくせに。
「なんでわざわざ間違いだとわかっている読み方を考えなきゃいけないんだ」
「ううん。まだ間違いとは決まってない。途中までは合ってるかも」
「どういう意味だ?」
「いいから、はい、二十六と言えば?」
 二十六……ふ、ろ。ふろ。風呂と何か関係が? そうか、風呂場には鏡もある。風呂場の鏡はよく曇る……。
「ちょっと考えてて」
 潤子は席を立ちながら言った。
「どこへ行くんだ」
「ちょっとって言って席を立った女性にそんなこと訊く?」
 岩井は唖然として潤子の背中を見送った。あいつ、女って自覚あったのか。
 それから、風呂について考えた。事務所の近くにある「松の湯」は良い銭湯だ。のれんの趣味の良さに始まり、番台の愛想、脱衣所の清潔感、桶の手ざわり、磨かれたタイル、ペンキ絵の富士、湯加減、誰かの鼻歌、極楽、極楽。
「あの……」
 さっきの女給が声をかけてきた。岩井は弛んだ口もとを引き締めた。
「何かな?」
「思い出したことがあるんです」
「やっぱり一昨日、怪しいお客がいた?」
「お客様ではないんですけど、窓の外から店の中をじろじろと見ている人がいました。男の方で」
「それは何時頃?」
「確か三時頃だったと思います」
 ピタリだ。こいつはどうやら、事が動き出した。岩井の頭の中で風呂の湯気が機関車の煙に変わった。
「どんな奴だった?」
「着流し姿で、背はあまり高くありませんでした」
「顔は覚えている?」
「目がぎょろっとしていて、鼻は低くて、唇が厚ぼったい感じでした」
 いかにも品がなさそうだ。想像上の人物を岩井は嫌悪した。
「その男は何を見ていたんだろう?」
「それはわかりません」
「どっちから来てどっちへ行った?」
「駅の方から来て、また駅の方に戻っていきました」
「通りすがりに覗いたんじゃないってわけだね」
「はい。それで覚えていたんです」
 その時、ドアが開き、男が一人入ってきた。
「あ」
 女給が何か言いかけて、口を手でふさいだ。
「どうしたの?」
「今いらした方です。一昨日の人」
 なんてタイミングだ。探偵小説でもこんな展開はない。
 岩井は自分の挙動が不自然にならないよう注意しながら、男を見た。想像通り、蛇のような顔だ。舌の先が二つに割れていても驚かない。服は着流し。帯に扇子を差している。文豪でも気取っているのだろうか。
「ありがとう。もう結構」
 男を視界の端にとらえたまま、女給をさがらせ、冷めたコーヒーをすすった。しまった、今名前を訊けば良かった。
 とにかく、この機を逃さないことだ。犯人は必ず現場に戻ってくるという法則があるそうだが、本当にそうだった。奴め、こんな近くで探偵が息をひそめているとは夢にも思うまい。
 そこへ潤子が戻ってきた。
「おい、聞け。貴重な情報を仕入れたぞ」
「こっちも」
「そっちも?」
「暗号読めた? やっぱりあれで合ってたみたい」
 風呂と女に気を取られて忘れていた。風呂と女。女と風呂。混浴。
「何その顔。頭大丈夫?」
「いたって健康だ」
「あ、そう。それで、情報って何?」
「そっちの話から聞こう。レディー・ファーストだ」
「似合わない」
 おい、どうしろっていうんだ。
「あれ見て」
 と、潤子が壁を指差した。琴の演奏会を知らせるポスターが貼られていた。
「あれがどうかしたのか」
「内容よく読んで」
 そう言われても、遠い。岩井は席を立ち、近くに行ってポスターを読んだ。特に変わったところはない。この「場所」は……なんと読むのだろう。あした館?
 席に戻ると、潤子が微笑んだ。
「ね?」
「何が?」
「わかんないの? もしかしてまだ暗号の読み方わかってない?」
「わかったとは言ってないだろう」
「ごめんごめん。じゃあもう教えていいよね」
「ああ」
「あ、その前に、そっちの話聞くよ」
「……暗号はもう用済みかも知れんぞ」
「なんで?」
「犯人を見つけた」
 潤子は眉をしかめた。
「何の犯人?」

 背もたれによりかかり、煙草をふかした。女給がコーヒーを運んできた。仕草が少々ぎこちない。まだ仕事に慣れていないのだろう。
 甲賀は迷っていた。あの時、乱歩は自分の介入を明確に拒絶した。暗号の内容からどういった事態かは想像がついた。果たして想像通りだった。一昨日の三時、この店には確かに、暗号の差出人がいた。
 立ち入るべきではない。自分が乱歩の立場でも、他人が首を突っ込んでくることは拒むだろう。
 隆太郎には、この件に手出しはしないと宣言し、ギリギリのヒントを与えた。しかしどうもあいつは頼りない。きっと暗号は解けていないだろう。潔く誰かに助けを求めたなら別だが。
 何はともあれ、静観すべきだ。対岸の火事なのだ。涼しい顔で見ていればいい。いや、見もしまい。それが男だ。
 けれども今、図らずも舟に乗りかかっている。対岸へ渡れてしまうのである。行くべきではない。けれど舟を降りるのも性に合わない。
 デビューは四ヶ月ほど乱歩に遅れを取ったが、あいつが活版工だの支那そば屋だのとさんざん回り道をしていた間に、こちらは化学の知識を身につけていた。帝大工科で基礎を学び、染料や窒素肥料の技師として働いたこともある。
 探偵小説と他の文学との間には明確な国境線が存在する。そもそも探偵小説に文学性は必要ない。文学ではないのだ。科学と呼ぶ方が相応しい。事件が起こり、主人公の探偵が事件を解決する。数式を解きほぐすように。
 乱歩が書いているものは「文学」ではあるのだろう。それは認めよう。だが、探偵小説ではない。少なくとも俺は探偵小説と呼ばない。特に『屋根裏の散歩者』はあまりにふざけている。その程度の塩酸モルヒネで人が殺せるか。お前が世間にふりまいている誤った知識こそ猛毒だ。
 乱歩だけでなく、木々高太郎や小酒井不木とも随分やり合った。不健全な探偵小説もどきが世にはばかるのは我慢がならない。我がゆく道に敵は多い。だからこそ、味方――家族は大切にしなければならない。妻や子には心から感謝している。その感謝を伝えてもいる。
 乱歩よ、省みろ。お前が好き勝手なことばかりしていられるのは誰のおかげだ。薄暗いあの書斎へ日に三度、飯を運んでくれるのは誰だ。俺たちはもう世間じゃ年寄りと呼ばれる。残された時間は長くない。いいのか、独りで死ぬことになっても。
 甲賀は吸い殻を灰皿に強く押しつけると、深く座り直し、決心が固まるのを待った。焦ってはいけない。薬品の調合にはそれなりの時間がかかる。
 昨日暗号の差出人が座っていたテーブルに、今日は男と女がいて(今日も、だ)、紙を広げて何やら熱心に話し合っている。離れているので声は聞き取れない。
 男と瞬時目が合った。ほんの一瞬だけ。男が慌てて目を逸らしたように感じたが、気のせいだろうか?
 しばらくして、甲賀は目を閉じ、深呼吸をして――あんみつを注文した。ここからの行動には大脳の高速回転が必要だ。糖分を摂取しておかねばならない。

 店を出て、乱歩の家へ向かった。
 近頃あいつは一日のほとんどをあの書斎の中で過ごしている。窓の外を見下ろすことぐらいあるだろうが、土蔵に近寄りさえしなければ見つかることはないはずだ。用意が整う前に姿を見られては、少々やりづらいことになる。
 問題は二通目の暗号が来ているかどうかだ。来ている公算は高い。もし俺が差出人で、無視されることへの対策として連続で送りつけるなら、なるべく間隔は空けない。
 隆太郎が家にいるかどうかはどちらでもいい。いたら、とにかく話す。考えが変わったと言って、二通目の暗号を持ってこさせる。いなかったら、誰か家の人間に「隆太郎に貸した本を大至急返してもらいたい」とでも言って、部屋に上がり込んで暗号を捜せばいい。いずれにしても、見つけたらまた一瞬で解く。解けるだろう。
 門の前で乱歩と出くわした。いきなり計画が狂った。落ち着け。この程度、大した事故じゃない。
「やぁ、江戸川君。お出かけかな?」
「門の点検をしているように見えるかい?」
「どこへ行くんだい?」
「どこへだっていいだろう」
「そうつんけんするなよ」
「ただの散歩だよ」
「珍しいね。椎の木のてっぺんからトノサマガエルがおりてくるなんて」
「よくわからん比喩だな」
「うん。そうだな。自分でも何を言っているのかよくわからない」
「君、様子がおかしいぞ。頭でも打ったのか?」
「僕が討つのは悪だ」
「何を言っている?」
 まずい。つい舌が。
「悪とは、人間の弱い心だ。『甘え』や『怠け』などのね」
「そして『諦め』も。そう言いたいのか?」
 こいつ、見透かしていやがる。この流れ、どうする? 勢いに任せて説得に入るか? いや、今は駄目だ。既にこちらが熱くなりかけている。
「君こそ何を言ってるんだ。僕はただ、たまには単純明快な勧善懲悪でも書いてみようかなと思ってさ」
「探偵小説に文学性はいらないんじゃなかったのかい?」
「文学性なんて大それたもんじゃないよ。一たす一が二で、りんごが木から落ちるように、正義は悪に勝つ。そういう話をね」
「そりゃいい。君にうつし世の闇が描けるかどうか、楽しみにしているよ」
「ああ」
「だが、僕が先にそれを描く」
 乱歩はそう言って、くるりと背を向け、歩き出した。これは一筋縄ではいかなそうだ。
「江戸川君、散歩の行き先は酒屋かい」
 返事はなかった。
「ほどほどにしておいた方がいい。隆太郎君も心配している」
 やはり、返事はなかった。

 乱歩が開けっ放しにしていった門から甲賀は敷地に入った。ひと気がない。玄関の呼び鈴を押し、しばらく待ったが、応ずる声はなかった。留守のようだ。
 玄関の戸に触れてみると、驚いたことに鍵が開いていた。不用心にもほどがある。だが好都合だ。このまま上がって暗号を捜すことにしよう。
 下駄を脱ごうとしたところで、背後から何者かに左腕と右肩をつかまれ、身体を三和土におさえつけらえた。
「大人しくしろ!」
 男の声だ。甲賀は必死に振りほどこうとしたが、男の力は強い。左腕の関節を捻られ、うめき声が漏れた。
「じたばたするな!」
「よせ、誤解だ! 俺は盗人じゃない!」
 ちくしょう、面倒なことになった。乱歩と出くわした時点でもっと警戒を強めるべきだった。悪いことは続けて起こる。科学的根拠はない。経験則だ。
「ここはあんたの家じゃないだろう」
「そうだが、何も盗る気はなかった」
「そんな言い分を信じると思うか?」
「貸していた本を返してもらおうと思っただけなんだ」
「嘘をつけ!」
「本当だ!」
「とにかくまずその手を離してくれないか」
「捕まえた盗人を放してやる馬鹿がどこにいる」
「だから盗人じゃないと言っているだろう。こんな真っ昼間から盗みに入る馬鹿がどこにいるんだ」
「ここにいる」
「馬鹿はお前だ」
「何だと?」
 腕を捻る力がさらに強くなった。知恵のない奴に限って腕力ばかりある。多くの人間は腕力に屈する。腕力自体を行使せずとも、腕力を背景とした恫喝は十分な威力がある。そして知恵のない奴がしばしば世間を牛耳る。俺は屈しないぞ。ペンは剣よりも強し。
 万年筆で手を刺してやろうと懐を探ったが、万年筆がない。しまった。三和土に転がっている。押さえつけられた時落としたのか。
「お前は『お宝を頂戴しに』来たんだろう?」
「何の話だ?」
「とぼけるな。行動の一貫しない奴め」
「意味がわからん」
「予告をするならその分だけ盗め。こそ泥とは卑怯だぞ」
 お宝? 予告? まさか暗号のことか?
「兄さん、何やってるの!」
 女の声だ。兄さん? こいつの妹か。
「潤子、門の外で待っていろと言っただろう」
「なかなか戻ってこないから来たんじゃないの」
「待っていろと言ったら待っていろ」
「いいからその人を離してあげてよ。乱暴は駄目」
「あいにく犯人にかける情けは持ち合わせていない」
 読めたぞ。どうやらこいつ、俺があの暗号を書いた人物だと思い込んでいるらしい。捕縛術の心得があることからして、隆太郎が雇った探偵といったところか。
「その人は一昨日の午後三時に喫茶店の中を見てたってだけでしょ」
 聞き込みをしている。
「それに、門のところで江戸川先生と話をしてたじゃない。お知り合いなんじゃないの?」
 で、店から尾行してきたわけか。これは探偵で決まりだ。
「何であれこいつは今盗みに入ろうとしてたんだ」
「随分と雑な考え方だな、探偵さん」
「何故俺が探偵だとわかった」
 隆太郎の潔さは褒めてやるが、くじ運には恵まれなかったしいな。よりによってこんなやつに当たるとは。
「兄さん、とにかく手を離して」
 しぶしぶ、といった感じで力が緩んだ。やれやれ。
 男はいかにも間抜けそうな面構えだった。眉毛の整っているのが気に食わない。妹の方は、口もとの引き締まったなかなかの美人だ。
「兄が大変失礼を致しました」
 女が頭を下げた。
「お怪我は?」
「いや、大丈夫。ここじゃなんだ、奥へ行こう」
「お前、勝手に」
「僕は江戸川君の友人だ。誰か帰ってきたら確かめてくれ」
「名前は?」
「話は奥でしようじゃないか」
「いいから先に名前を言え」
「甲賀三郎だ。さぁ、行こう」
 下駄を脱ぎ、廊下へ上がった。男の動く気配がない。
「まだ何かあるのかい」
 振り返ると、男は小刻みに震えていた。何だよ、気持ち悪い。
「甲賀三郎先生でしたか」
「ああ」
「大変失礼を致しました!」
 そう叫んで、男は三和土に額をこすりつけた。ファンだったか。悪い気はしない。
「兄さん、江戸川先生のファンなんじゃなかったの?」
「探偵小説作家は皆尊敬している。お前は甲賀先生の作品は読んだのか」
 女がこちらを見た。
「『真珠塔の秘密』と『琥珀のパイプ』を拝読しました」
「それだけか。全部読め。甲賀先生、申し訳ありません。不勉強な妹で」
「もう一度だけ言うぞ」
「は?」
「話は奥でだ」

 台所の勝手はわかっている。茶を淹れてやり、居間に向かい合って座った。男は岩井耕治、女は岩井潤子と名乗った。案の定、隆太郎の雇った探偵だった。
「耕治さん、悪いがあんたはなるべく口を挟まないでくれ。妹さんと話した方が色々と速そうだ」
 そう言うと、男は俯いて小さくなった。女の表情に変化はなかった。この兄妹の関係性がおおよそつかめた。
「一昨日、一通目の暗号を解いて隆太郎さんに電話した時、隆太郎さんは『別の協力者が既に解いてくれた』と言っていました。もしやそれが甲賀さんで?」
「いや、それは僕じゃないね」
 そう言えばあの日、門のところで横溝と会った。多分あいつだ。とは言え、今詳しく話しても意味がない。
「隆太郎君の友人だろう。それより、二通目の暗号を見せてくれ」
「こちらです」
 と、女が紙を広げた。
「ヒントは?」
「割れた鏡です。読み方を申し上げても?」
「いや、一分くれ」
 鏡。対称か。ハネやハライを無視すれば、左右対称の漢字は十個ある。だが、この十個では文章にならない。
 一通目を踏襲しているならば、ヒントは文字そのものでなく、文字の順番に掛かる。数字。違う。アラビア数字にも漢数字にも左右対称の字はあるが、二桁になると何をもって対称と見なすか曖昧になる。
 暗号は全二十六字。なるほど、これだ。
 そして鏡は割れている。一通目より少しだけ捻ったわけか。
「もう一分」
 そう言ったが、一分もいらないな。時刻の表現に使う字が多い。
「解けた」
「本当ですか」
 男が目を輝かせて言った。少しぐらいの発言は許してやろう。
「左右対称のアルファベット。その位置にある文字を抜き出す」

 A B C D E F G H I
 十 土 公 九 地 金 本 分 六

 J K L M N O P Q R
 午 茶 四 館 前 時 後 園 天

 S T U V W X Y Z
 民 夜 明 三 曜 日 日 月

「鏡は割れている。つまり壊れている。修復が必要だ。意味が通るように、この十一字を並び替える。ところであんたら、住まいは?」
「京橋です」
「じゃあこれの解読はいささか手を焼いたろう」
「はい」
「豊島区に住む者じゃないとピンと来ないからね」

 ――日曜 夜六時三十分 明日館

「明日館のことはどうやって知ったんだい?」
「みょうにちかん、と読むんですね。喫茶『小春』に貼ってあったポスターを見ました」
「そりゃ運がいい。解読の結果を、隆太郎君には?」
「伝えてあります」
 あいつはどう動くだろう。この暗号の意味することに考えが及んでいるだろうか?
「日曜の六時半は、ちょうど琴の演奏会が始まる時刻です」
 ならばこれで「三時十六分」や「十時三十六分」の線は消えた。もともとそんな中途半端な時刻にはしまいと思ったが。
「君たちはその場に行く気かい?」
「ええ。事件の可能性もありますし」
「事件と言うなら確かに事件だ。ところがこの事件は、君たちが行っても決して解決しない」
「え?」
「『お宝』の持ち主が自分で行かなければならないんだ」
「わざわざ『頂戴』されに、ですか」
「いや、既に奪われかけている。この暗号は文面通り堂々たる予告状だ。いや、挑戦状と呼んだ方がいいだろう」
 まったく、こんな大胆な真似のできる奴だとは思わなかった。
「甲賀先生は犯人の正体をご存知なんですか?」
「ああ。一昨日の午後三時、その人物は喫茶『小春』にいた。悠々と茶を飲んでいただけだから、店員の目にはとまらなかっただろう。僕の方が『怪しい奴』になってしまったわけだ」
 女は真剣な目をして聞いている。男も話にはついてきているようだ。
「一通目の暗号を解いた時点では、予感に過ぎなかった。だがその足で喫茶『小春』に向かい、実物を見て、確信した。この一件、あまり他人が首を突っ込むべきものじゃない。かく言う僕も他人なんだがね」
「手紙の宛先は江戸川先生だったんですから、『お宝』の持ち主もそうですよね?」
「ああ」
「では、『お宝』というのは?」
「僕にはわかった気がします」
 男が言った。
「そしてその通りだとしたら、確かにこれは極めて個人的な問題ですね」
「どういうこと?」
「潤子。お前頭は回るが、こういったことにはとんと疎いからな」
 女は目をぱちぱちさせていた。そうなのか、勿体ない。美人なのに。
「隆太郎君の番号を教えてくれ。研究室の。僕は江戸川君を説得しに来たんだが、先に魂胆を知られてしまった。もう胸襟を開いてくれないかも知れない。こうなった以上は隆太郎君にも手を貸してもらう必要がある。いや、僕の人生観では隆太郎君は最初から当事者と言えるがね」
「同感です」
 また男が喋った。
「感動しました。情緒を排した作品をお書きになる甲賀先生が、よもやこんな熱い魂をお持ちだとは」
「感動だの熱い魂だの、そんな言葉を易々と使うんじゃない。君は作家には向かないな」
「はい。生涯読むに徹します」
「いいから電話番号だ」

「やはり甲賀先生にはすべてお見通しでしたか」
 受話器の向こうで、隆太郎は落ち着いた声で言った。
「心配してくださっているようでしたから、きっとあのあと喫茶『小春』へも行かれたんだろうなと。何と申しますか、お恥ずかしい限りです」
「僕は門外漢だ。お節介だとは承知している。しかし君もよくわかったね」
「父の机から写真立てが消えていたんです。母と二人で映った写真が入っていました。富山の魚津へ旅行した時のものです」
「そうか。やはり江戸川君は諦めてしまっているのか」
「いえ、そうではないと思います」
「どういうことだい? 思い出の品を処分するというのは、忘れてしまおうということなんじゃないのか?」
「写真立てを捨てれば、僕がそれに気付かないはずはありません。横溝さんも気付いたかも知れません。父はそれをわかっていたはずです。あの人なりに、迷う苦しみを吐き出そうとしたんです」
 そういうことか。ならば、まだ望みはある。
「しかし、僕にはまだ信じられません。頭ではわかっているのですが、心が受け止めきれていないようです」
「そうだろうね」
「母は再来年には還暦を迎えます」
「気持ちはよくわかる。実の息子の目から、母親を女と見るのは難しいだろう」
「はい」
「だが、お綺麗な方だ。心も随分。江戸川君には勿体ない人だと常々思っていた。ああ、誤解しないでくれよ。僕は村山君のように思っているわけじゃない」
「わかっています」
 と、隆太郎が苦笑した。
「さて、隆太郎君。君はどうする。いや、どうしたい?」
 沈黙があった。
「江戸川君は迷っている。それが事実なら、君の説得に応じる可能性はある」
「父を助けたいとは思います。しかし僕は、母にも幸せになってほしいんです」
 隆太郎は静かな声で言った。
「母は父を理解しています。せっかく作った夕食がまるで手をつけられていなくても、文句一つ言いません。いえ、冗談めかして言うことはありますが、決して深刻な言い方はしません。それは父にしつけられているというより、本当に受け入れているんです。そして明くる朝はまた、丁寧にだしを取って、父の好物の卵焼きを焼いています」
 甲賀は黙って聞いていた。
「母は父にとって大切な人です。僕にとっても。けれど、近頃母の笑顔が増えたのは明らかに村山さんのおかげなんです。僕は母の意志を尊重したいと思います。きっと父もそう思っているんです」
「僕は君の家にしょっちゅう出入りしている。この電話だって君の家からかけている」
「え?」
「まぁそれはあとで話そう。この家に入り浸ってはいるが、家族ではない。君ほど隆子さんを知っているわけじゃない。だが、江戸川君と隆子さんとの時間は、君が生まれる以前から流れている」
 川が曲がるところには砂が堆積する。水に洗われて角の取れた、小さな優しい粒の砂だ。砂の上には草が生える。蟹が住む。鳥が羽根を休める。旅人が腰を下ろして釣り糸を垂れ、夜には焚火をするだろう。清らかな領域。かけがえのないもの。
「日曜の六時半、明日館へ行けと、僕は江戸川君に言う。赤の他人なりに勝手なことを言ってやる。君がどうするか決める権利は、当然僕にはない。考えてほしいのは、君自身がこの先、どんな家で暮らしたいかということだ」
「父を支えることなら、僕一人でもやってみせます」
「それを望んでいるのか?」
 隆太郎は答えなかった。

 夕暮れ時の風がキンモクセイの香りを運んできた。そろそろ秋刀魚の季節だと、横溝は思った。
 明日館は大正十年、羽仁吉一・もと子夫妻が創立した「自由学園」の校舎として建てられた。昭和九年に自由学園の校舎が南沢へ移ってからは卒業生の事業や催し物などに使われている。建築家はアメリカの巨匠フランク・ロイド・ライト。草原様式と呼ばれる、開放的な空間である。
 腕時計の針は六時十五分を指していた。間もなく琴の演奏会が始まる。
 横溝は音楽に詳しいわけではない。知り合いの奏者が出るわけでもない。編集者として鋭敏な感覚を養うため、展覧会や博覧会など、分野を問わず積極的に足を運んでいるのである。遠浅の海で漁をしているような感覚だった。独り者ゆえ、退勤後の時間は自由に使える。この時間を失うぐらいなら生涯独身で構わない。
 講堂までの道を歩きながら、何とはなしに水曜日の暗号のことを思い出した。乱歩が作ったものと隆太郎は言ったが、やはりあれは嘘だったのだろう。他の誰かが作ったもので、乱歩が隆太郎より先に解いたのだ。だとしたら隆太郎の「僕もそうめんを食べます」という言葉も筋が通る。「午後三時、喫茶『小春』」。送り主はそこへ乱歩を呼び出した。乱歩は呼び出しに応じず、書斎で悪夢を見ていた。何が起きているのか横溝にはわからない。何であれ執筆に支障が出なければ良いのだが。
 講堂に着くと、入り口に見慣れたすみれ色の着物の婦人が立っていた。隆子。その隣に間借り人の村山健次郎の姿があった。二人が連れ立って出かけるところは横溝もよく目にしていた。乱歩が気にしている様子はなかった。何と言っても歳が十以上も離れている。姉と弟のようなものなのだろう。
 声をかけようとして、思いとどまった。村山の表情が険しい。誰かを待っているような様子でもある。横溝は顔を合わせるのが憚られ、柱の陰に隠れてしばらくの間待った。六時三十分、開演時間ちょうどに二人は講堂の中へ入った。少し間を開けて、横溝もあとに続いた。尾行しているようなていになってしまった。
 二人が座った席を確かめ、そこから離れたところに腰を下ろした。
 舞台には金屏風が立ち、六人の奏者がそれぞれの琴を身体の前に置いて正座していた。客席の灯かりが落ち、奏者たちが礼をすると、観客たちは柔らかな拍手を送った。曲は『春の海』。宮城道雄の代表作である。
 琴は雲海を駆る天馬、奏者はその乗り手だ。たてがみを撫でる時、音楽が生まれる。琴の音色はいつも横溝の気持ちを豊かにしてくれる。
 しかし今日は、横溝の視界の端に隆子と村山がいる。演奏に集中できそうもない。

 乱歩は言った。
「人間は想像をする生き物だ」
 横溝は想像をしてみた。想像だけなら誰にも咎められない。
 あの二人が、姉と弟のようなものでなく、特別な関係にあると仮定する。だとしたら暗号を送ったのは村山だ。そして「お宝」というのは隆子のことである。逢引きの時間と場所を乱歩に知らせる。「さらっていくぞ」と予告している。大胆不敵。日頃の村山からは思いもよらない。だが事実は小説より奇なりという言葉もある。
 この想像の通りであるなら、乱歩の態度も頷ける。予告された場所へは行かなかった。「勝手にしたまえ」、それが乱歩の答えだ。隆子を愛していないのではなく、そうするしかなかったのだろう。闇を描きたいとも乱歩は言った。痛みを昇華させようとしているのだ。ならば文才に恵まれたことはせめてもの救いと言える。素晴らしい作品が生み出されるかも知れない。台風が肥沃な土を運ぶこともある。
 今日の逢引きも暗号で知らせてあったのだろう。先ほど講堂の入り口で村山が待っていたのは乱歩なのだ。来たらどうするつもりなのかはわからないが、何にしても乱歩は現れなかった。
 あまりにも突飛な想像だ。妄想と呼ぶ方が相応しい。けれど、そう考えればすべての歯車が噛みあう。噛みあってしまう。
 編集者は無力だ。本当の意味で作家を助けることはできない。励ましや慰めはきっと、傷をえぐるに等しい。
 横溝は、隆子が去った後の乱歩を想像した。幻影城の書斎に一人。それは今と変わらないが、見下ろした庭先に洗濯物を干す隆子の姿はない。食事は隆太郎か、その妻が作る。心を尽くせども、隆子にはかなわない。按摩を揉むのも彼女の役目だといつか聞いたことがある。他の者にやらせはしまい。やがて隆太郎との会話も徐々に減っていくだろう。これは蛇足だが、恐らく甲賀も家に寄りつかなくなる。
 そんな中で、闇を描いた素晴らしい作品など、果たして生み出せるだろうか。
 自分にできることは本当に何もないのだろうか。

 周りの拍手で横溝は演奏が終わったことを知った。
 村山たちに気付かれないよう、顔を伏せ、二人が去るのを待っていると、一人の女性が声をかけてきた。
「すみません」
「はい」
「私、こういう者です」
 と、女性は名刺を差し出した。岩井探偵事務所、岩井潤子。
「探偵さんですか」
「ええ」
 探偵小説作家の担当になって随分になるけれども、本物の探偵にお目にかかるのは初めてのことだった。彼女が本物であるならば、だが。
「私に何か御用ですか?」
「少し、歩きながらお話しさせていただいても?」
「構いませんよ。行きましょう」
 と、横溝は席を立った。好奇心こそ自分の武器だ。

「素敵な演奏でしたね」
 講堂を出たところで、横溝は自分の方から話を振ってみた。
「ええ、とても」
「『春の海』は好きな曲です。砂浜に立って、潮の香りを嗅ぎながら、広大で穏やかな海を眺めているような気持ちになります。もっとも、今は秋ですがね」
「琴、お好きなんですね」
「はい」
「ご自分でもお弾きになるんですか?」
「いえ、専ら聴く方です」
 女性の声ははきはきとしていて、心地良かった。まさに琴を爪で弾くような軽快な音だ。鼻にかかったような甘ったるい声で話す女がたまにいるが、あれのどこがいいのか、さっぱりわからない。何も女に限ったことではないけれども、人の話し声は明瞭なのが一番いい。
 愛想が良すぎないことについても、横溝は女性に対して好感を持った。
「岩井さんは、弾く方は?」
「いえ、私も聴くだけです。というより、今日は仕事で来たんですけどね」
「ああ、そうか」
 そう言えば彼女は探偵を名乗っているのだった。
「何かの調査ですか?」
「はい」
 妙な質問をしてしまった、と横溝は思った。探偵が仕事で来ているというのだから、その目的はほぼ、何かの調査しかないはずだ。琴の音色を聴いていると推理力が増す、というようなことでもない限り。
「あの、今ごろですが、お名前をお伺いしても?」
「ああ、失礼。申し遅れました」
 と、横溝は立ち止まり、名刺を取り出して女性に渡した。
「光文社の横溝龍介と申します」
「編集者さん」
「はい。今は江戸川乱歩先生の担当をしております」
「そうなんですか!」
「お読みいただいたことがおありで?」
「大好きです。うちの兄も」
「お兄さんがいらっしゃるんですか」
「ええ。兄も探偵をしているんです。というより、探偵は兄の方で、私は助手なんですけどね」
「そうでしたか」
 岩井と言えば、シーメンス事件を解決に導いたとされる探偵も、確か岩井という名だった(もとい、日本でいわゆる探偵業というものを創設したのがその人物だったといわれている)。しかしそれは偶然の一致だろう。
「大変光栄です。特にお好きな作品は何かありますか?」
「私は何と言っても『心理試験』です」
「いいですね。あれは、僕も傑作だと思います」
 『心理試験』は終始犯人側の視点で描かれるという、当時としては珍しい形式を持っている。その物珍しさだけでなく、内容も充実している。
 まず、犯行の際に犯人が辿った思考の経緯が面白い。初めて読んだ時、横溝は「これはドストエフスキーの『罪と罰』に影響を受けているのではないだろうか」と感じた。後に本人に確かめるとその通りだったことがわかって、胸のすく思いがした。予備知識がないとわけがわからないというものは感心しないが、予備知識があることによってより深く楽しめるというものはなかなか良いと横溝は思う。作家と秘密を共有しているかのような気持ちになれるからだ。
 それから、犯人が受ける調査、タイトルの通りの「心理試験」が読者をさらに惹きつける。調査官が被験者に短い単語を聞かせ、被験者はその単語から連想する言葉を即座に返すことを求められる。調査官が発する単語は、ほとんどが犯行と無関係のものだが、犯行と関係のあるものが法則なく配置されており、犯人にしか起こり得ない連想、つまりは自爆を誘うのである。この方法が現実の取り調べで使われているものなのかはわからないが、あってもおかしくはない。やくざまがいの怒声で脅すよりよほどいい。
 犯人はこの「心理試験」を、完璧な対策によって回避したかと思われるが、明智小五郎は見事にその対策の穴を突くのである。
 短編だが、あの作品はれっきとした「本格物」だった。
 横溝は『心理試験』への思いを巡らせながら、隣を歩く女性が何か考え事をしているらしいのを、気配で察した。隠そうとはしているが、伝わる。甘いな。探偵ならば、そういったものをわずかでも相手に悟られてはいけない。
 そもそも彼女が本物の探偵であるという証拠はない。が、探偵でもない限り、声をかけてくる理由が思い当たらない。
 いや、何にしても自分は何かの「犯人」ではないのだから、特に警戒することもないのだ。
「どうされました?」
「何がですか?」
「何か考え事をされているようでしたが」
 横溝は少し遊んでみることにした。女性は狼狽を隠そうとしたが、これもかなりわかりやすかった。
「『心理試験』の次に好きな作品は何かなと考えていたんです」
「そうでしょうか?」
「え?」
「僕が江戸川乱歩の担当だということについて、何かお考えになっていたのでは?」
 そう言いながら、横溝は暗号のことを思い出した。探偵を名乗る女性が現れ、彼女が江戸川乱歩の担当編集に対して得意な反応を見せるのは、暗号と何か関係が? 演奏中に考えたことはやはり単なる妄想で、これはいわゆる「事件」だったのか?
「さすがは江戸川先生の担当さんですね」
「探偵小説作家の担当だから勘が働く、というわけではないと思いますがね。老婆心ながら、考え事をされる時は、そうと知られないように気を付けた方が良いですよ」
「はい。ありがとうございます」
「怪しい人物の前では特にね」
「そんな、横溝さんを怪しんでいるわけではないんです」
「いかがでしょう、岩井さん。この際ですから、事情をすべてお聞かせいただけませんか? 何かお力になれることがあるかも知れません。それに、担当の編集者として、江戸川先生が何かの事件に巻き込まれているなら、お助けしたいという思いもあります」
「わかりました」
 と、女性は素直に言った。人との接し方は未熟だが、やはり頭の回転は速いようだ。
 女性の話は、横溝が先ほどの演奏中にした「想像」を裏づけるものだった。「当たった」という快感は禁じ得ず、しかしすぐに自分を諌めた。喜ばしいことではない。
 やはり今日の逢引きも暗号によって予告されていた。乱歩は現れなかった。このままでは、乱歩は独りになってしまう。
 女性はいささか特殊な立場にあった。兄や甲賀と情報は共有しながら、彼女だけがそこからの推理に辿り着いていない。
 男女のことに疎いのだろう。そう思った時、甲賀の作家としての主張が脳裏をよぎった。いわく、探偵小説に文学性はいらない、と。やはり同意できない、と横溝は思った。人は計算ばかりで動くのではない。心によって動かされているのだ。時として、どうしようもなく、狂おしく。
「演奏の始まる前、講堂の入り口で、六時半ぎりぎりまで待っていらっしゃいましたよね?」
「ご覧になっていたんですね」
「はい。それで、あの暗号と何か関わりのある方かと思い、声をかけさせていただいたんです」
 女性の兄や甲賀は、彼女に自分たちの推理を教えなかった。暗号の解読に貢献したのにも関わらず、鈍い奴だと嘲笑され、仲間はずれにされた彼女は、憤って単身でここへ乗り込んできたのだ。
「僕の他にも、講堂の入り口に立っていらした方がいらっしゃいましたよね?」
「ええ。夫婦連れがお一組」
 夫婦と見えたか。少なくともあの時はそれほど親しげな雰囲気ではなかったはずだ。が、年齢を重ねた男女が並んで立っていたら、大抵の人が彼らを夫婦と見るだろう。こちらの鈍い探偵さんでなくても。
「あちらのご夫婦でなく、何故僕の方に?」
「横溝さんは演奏中も何か難しい顔をされていました」
「なるほど」
 さて、どうする? 彼女にすべてを教えてやるべきだろうか? あの二人は夫婦ではなく、女の方は江戸川乱歩の妻で、男の方は乱歩の家の間借り人であり、間男であり、暗号の差出人であると。
「横溝さん、何でもいいんです。何か思い当たることはありませんか?」
 ある。あるということを悟られていても良さそうなものだが(全力で隠してはいない)、彼女はこれすらも気付かないのか? いや、さすがにわかっていそうだ。いくら何でも正面切って「あなたは何かご存知ですね」とは言えないだろう。
「横溝さんは何かご存知ですね?」
 言うのか。勘がきかないのに大胆とは……彼女の兄も苦労しているだろう。
 可哀想だが、はぐらかすことにしよう。乱歩にとって不名誉な話であることには変わりがない。はぐらかせば彼女の中で自分は容疑者であり続けるだろうが、それは仕方ない。
「すみません。特に何も」
 彼女は返事をせず、それきり黙ってしまった。疎外感を感じているのだろう。無理もない。甲賀たちだけならまだしも、初対面の自分にすら、わかっていることを教えてもらえないのだ。また、そうされる理由もわからない。
 哀れに感じた横溝は、ヒントを出してやることにした。
「ところで、『お勢登場』を読んだことはおありで?」
「確かあったと思いますが、ごめんなさい、内容まではあまり」
「そうですか。ではもう一度読んでみるといいですよ。あれはなかなか深い作品です」
「機会があればそうしてみます」
 反応が弱々しい。こうなってしまっては仕方がない。横溝はそのまま乱歩の著作の話に切り替えた。
「『心理試験』は戦前の作品ですね。江戸川先生の初期の短編には、面白いものがたくさんあります」
「はい」
「『人間椅子』はお読みになりましたか?」
「はい」
 生返事だった。
 どうやら彼女は感情の操作全般が苦手らしい。情報処理能力や発想力に長ける者ほど、心が自由にならない、という傾向はある。作家にも子供のような人間は多い。甲賀もそうだし、乱歩もだ。村山も同じ、と言えるのだろう。あんな挑戦状など、分別のある大人にやれることではない。
 子供のような気質やその持ち主を、横溝は特に嫌っているわけではない(甲賀は除く)。むしろ羨ましくさえある。自分のような「大人」は、訳知り顔をして、既存のものをあれこれ分析することはできるが、新しい何かをゼロから創造することはできない。
 「彼ら」には創造ができる。原稿用紙の上に生み出した独自の世界で読者を魅了したり、暗号による手紙で人に衝撃を与えたりすることが。
「中期の『化人幻戯』などもよくできた作品です。しかし、僕が担当になったのは戦後のことでしてね、戦前の作品の良さは僕の手柄じゃありません。もっとも、作品の良さに関して、編集の手柄などないのですが」
 作家は編集者がいなければ何もできない、と考える仲間もいたが、横溝は違った。作品を書くのはやはり作家だ。面倒な手続きや手助けを必要とすることは、どんな仕事でも同じだ。料理人も一人きりで生きることは難しい。食材を作る者や店を切り盛りする者に日々支えられて生きている。それでも、料理は料理人の作品だと言える。
「最近の作品はいかがでしょう?」
「最近、と言いますと、少年探偵団シリーズでしょうか」
「ええ。子供向けですから、やはりお手には取られないでしょうか」
「そうですね、私はあまり。申し訳ありません」
「いえ、とんでもない」
「けれど、兄は毎月『少年』を購読しております」
「お兄様が?」
「はい。本当に楽しそうに読んでいますよ、子供にかえったような顔で。もともと子供のような人なのですが」
 なるほど、愛すべき人物のようだ。
「ありがとうございます。お兄様によろしくお伝えください」
「はい」
 正門のところで、女性は立ち止まった。
「それでは、私はこれで。横溝さん、ありがとうございました」
「いえ、お役に立てませんで」
「ちなみに私の中では、横溝さんへの疑いはまだ晴れておりません」
 そうだろうな。
「私はきっと真相を突き止めてみせます。また近々、お会いすることになるかも知れません」
「ええ。楽しみにしています」
 それは本心だった。彼女の機嫌の良い時に、探偵小説談義でもしてみたいと思う。今の言葉は挑発と受け取られたかも知れないが、今さら取り消せなかった。
「では、失礼します」
 去りかける背中に、横溝は言った。
「岩井さん、無理にとは申しませんが、よろしければあなたも今度、少年探偵団シリーズを読んでみてください。大人でも十分楽しめる内容だと、編集者として自負しています。何より、本人が楽しんで書いています。雑誌で『やっつけに書いている』などと漏らすこともありますが、あれは嘘です」
 女性はこちらを振り返り、きょとんとした顔で聞いていた。
「それから、先生はこの先、いつかきっと、また『心理試験』のような本格物を書きます。必ず書き上げます。いえ、どのような作風になるかはまだわかりません。世の人はエログロと呼ぶようなものになるかも知れません。しかし何であれ、人間の心の在り方について、深く考察したものになることだけは確かです。本が出たら、きっとお手に取ってみてください」
「わかりました。そうします」
 彼女は微笑んで去っていった。
 そうなのだ。乱歩には未来がある。書きたいものをたくさん抱えている。
 横溝は暖かな春の海の上で、小舟に乗っている少年を思い浮かべた。魚はいくらでも獲れる。雨水もたっぷり蓄えてある。気ままな旅だが、目的もあるのだ。行ってみたい島がある。その方角へ、毎日少しずつ漕ぎ進めている。その島は恐らく大変危険な場所だ。毒ガスが立ち込める死の世界かも知れないし、猛獣や蛮族が果てのない殺し合いを繰り広げる地獄かも知れない。しかし何であれ、少年を止めることは誰にもできない。
 小舟の舳先にとまっている一羽の海鳥が横溝だ。少年の話し相手になり、彼の冒険の成功を心から願う。
 けれど、海は時として凶暴になる。空には暗雲が垂れ込め、小舟は既にうねりの中にいる。やがて来るであろう高浪は、少年を目指す島へと運ぶかも知れないが、それより先に小舟をばらばらに打ち砕いてしまう可能性もある。
 何かをしなければならない。やはり黙って見ているわけにはいかない。
 そう強く思った時、横溝は唐突に、先日、乱歩の机から消えていたものが何だったかを思い出した。写真立てだ。夫婦で映っている写真。
「どちらで撮られたものですか?」
 初めて書斎に入った日、横溝は尋ねた。
「どこでもいいだろう」
 乱歩はそっぽを向いたままぶっきらぼうに答えた。しかし敢えて写真を隠そうともしなかった。
 写真立ては机の上ですっかり風景の一部となっていた。だから横溝はなくなってもすぐには気付かなかったのだ。
 あの写真はどこに消えた? 決まっている。乱歩自身が捨てたのだ。自分や隆太郎は必ず気付く。そうと知ってのことのはずだから、つまりは嘆くことの代わりとして。
 傍目にも、良い夫ではない。それでも乱歩は、隆子を愛しているのだ。
 横溝は拳を固く握りしめた。

 母とも、村山とも、顔を合わせづらかった。
 村山とは木曜の夜、暗号について直接話をし、一通目が解けたと言ってある。父から出されたものという方便は、父にも見せていると解釈しているはずだ。二通目のことはあれから何も話していないが、向こうも解けていないと見てはいないだろう。何でもない風を装おうとするが、隆太郎は役者ではない、どうしても態度に出てしまう。そして、村山に対する不自然さは母も目にするところとなる。母は勘のいい人間だ。もうすべて気付いているだろう。
 村山に対して抱く感情がどういったものなのか、隆太郎は整理しきれないでいた。まず単純な敵意ではない。母を奪おうとする悪党のようには思っていない。母に笑顔を与えてくれたことへの感謝ははっきりと感じている。しかし、このまま母の人生を預けてしまいたいとは思えない。乾いた心地よい秋空の下にいるのに、隆太郎の心だけが梅雨の湿気に覆われているかのようだった。
 金曜日、ちょっとした誤解がもとで、甲賀と岩井たちが無人の我が家に訪れた。甲賀はそこで二通目の暗号の内容と答えを知り、大学の研究室へ電話をかけてきた。
 土曜日、再び甲賀がやって来て、父を説得しようとした。言葉の刺々しさはいつも通りだったが、あくまでそれは表面的なものであって、奥には深い思いやりが秘められていた。甲賀という人間を少し誤解していたのかも知れない。しかし父は時おり話をはぐらかすようなことを言うだけで、ほとんどだんまりを決め込み、やがて甲賀を書斎から追い出してドアに鍵をかけてしまった。そのまま天の岩戸が開くことはなかった。
 隆太郎は何も言わなかった。言えなかった。甲賀の言葉に頷けないわけではなかったが、自分や、父の今後がどうなろうと、いま現在の父の意志こそが最も尊重すべきと思えた。たとえそれが自棄のようなものだとしても。他人に何を言われようと自分の思うがままに生きることで、幸運にも、天分を発揮してきた人である。感情に身を委ねるのが一番父らしい。
 戦時中、隆太郎は海軍の航空隊にいた。飛行機が飛ぶにあたり、プロペラの力は補助に過ぎない。風に乗って飛ぶのだ。父は飛行機だ。風に乗って生きている。いつか風がやみ、墜落する運命にあるとしても。
 日曜日の夜、父は明日館へ行かなかった。酒の量に注意しなければと思ったが、むしろ酒は一滴も飲まず、書斎で静かに原稿用紙と向き合っていた。
 月曜日、母や村山の顔を見るのが嫌で、朝は早くに出かけて古本屋や喫茶店で時間を潰し、講義を終えた後は学生たちを誘って研究室で安酒を飲んだ。
 隆太郎が面倒を見ている学生には江戸川乱歩の読者が多い(よもや点数稼ぎではあるまい)。ほとんどの著作を読破しているという強者や、学生らしい好奇心で色々と深読みをする曲者もある。研究室での酒宴を人が見たら、文学部の学生たちだと勘違いするだろう。本当は社会学部なのだが。
 火曜日の朝、隆太郎は郵便受けを開けると『青銅の魔人』を読んでいるという少年から屈託のないファンレターが来ていた。江戸川先生、毎月楽しみにしています。お仕事がんばってください。僕は将来、明智小五郎のような強くて優しい男になりたいと思います。
 ――父には読者がいる。俺もいる。そう思いながら、隆太郎はいつもと同じように、「お通し」すべきものとそうでないものとを選り分けていった。そして、三通目の暗号を見つけた。

 家 乙 大 国 分 寺 面 中
 曜 特 東 沼 火 白 場 三
 日 園 線 手 巣 木 金 小
 屋 山 馬 朝 都 半 足 気
 月 公 鴨 二 棒 田 駅 西
 海 水 電 袈 目 袋 塚 池
 川 華 時 高 四 仮 一 
          お宝頂戴つかまつる。

 毛筆が一本、同封されていた。だいぶ古いものらしく、柄が折れている。
 隆太郎は初めて、村山への怒りを感じた。消印の日付は昨日だ。一昨日父が行かなかったことを受けて、投函しないこともできたはずだ。
 父は行かないのだ。行かないと決めている。妻の幸せを願って静かに息をひそめている。なのに何故、まだこんなものを送りつけてくるのか。逢引きの約束を見せびらかしたいのか? そんな男ではないはずだし、そんな男であってほしくないとも思うが、そもそもこの一連の挑戦状自体、村山のイメージとはかけ離れている。あの温和そうな笑顔は彼の仮面の一つに過ぎないのかも知れない。
 もし父が現場に行ったら村山はどうするのだろう。大人しく身を引くつもりなのだろうか? まさかそんなことはあるまい。
 では、目的は? 改めて考えてみると、目的が明らかではない。
 単なる挑発か? だとしたら筋は通るが、村山はいよいよくだらない人間だということになる。巧妙に繕っても、母が素顔に気付かないということがあるだろうか。
 あるいは、堂々と宣言することによって、己の罪悪感を和らげようとしているのか? 
だが、それにしては暗号という形は回りくどい。正面切って言えるほどの度胸はないので、「堂々」でなく「一応」宣言する、ということなのか。あり得なくはない。
 それとも、何かまったく別の目的があるのだろうか。
「来たか」
 振り向くと甲賀が立っていた。昨日は少しだけ見直したが、やはりこの男の無遠慮さは並ではない。驚いてやるのも癪だ。隆太郎は気配に気付いていたような顔で言った。
「ええ、性懲りもなく」
「また同じ型の文字列にヒントの品物が一つか。お定まりだな」
「今度のは少し長いですが」
 甲賀は呆れたような顔で言った。
「足し算はできるかい?」
「足し算? 算数のですか?」
「他に何がある」
「一応できると思いますが」
「一桁でも二桁でも、百桁でもやることは変わらないだろう。それと同じだ。どんなに長かろうと関係ない。見せてくれ」
 甲賀に任せれば、解読はすぐに済むだろう。いや、今や解く意味もないが、かと言って拒めば話がこじれる。
「どうぞ」
「そっちじゃない。まずヒントの方だ」
「ただの筆ですが」
「いいから貸してみたまえ」
 と、甲賀は隆太郎の手から筆を奪い取った。いちいち神経にさわるが、彼も父を案じてくれているのだからと、隆太郎は自分に言い聞かせた。
「柄が折れているということは、今度もまた並び替えをしろということでしょうか」
「それはあり得る。だがそれだけじゃない。よく見てみろ」
「どこをです?」
「この穂首だ。かなり毛が抜けている」
 見てみると、確かにその通りだった。
「さぁ、今度はそっちだ」
 と、甲賀はまた乱暴に隆太郎の手から暗号を取り上げた。
 解けたら、甲賀はどうするのだろう。やはり父を説得しに行くのだろうか。
「一昨日、父は明日館へは行きませんでした」
 隆太郎の言葉に、甲賀は暗号を見つめながら答えた。
「わかっている。前日があんな様子で、やっぱり行きましたじゃ、脈絡がなさ過ぎる」
「何を言っても耳を貸さないと思います」
「あいつは迷っている。君がそう言ったんだぞ」
「けれど、もう決めたんでしょう。だから行かなかった」
「一昨日についてはな。しかし敵は三度、機会を寄越した。向こうがどういうつもりかは知らんが、とにかく江戸川君にはまだ心変わりが許されている」
「心変わりをさせるべきなんでしょうか」
「一昨日僕が帰った後、君は江戸川君に何も言わなかったのか?」
「僕は父の意志を尊重したいんです」
「意志を尊重、か。その言葉は一昨日も君の口から聞いた。同じ表現の繰り返しは極力避けるべきだ」
「僕は作家じゃありません」
 甲賀はそれに答えず、暗号を見つめていた。ややあって、途端に目つきが険しくなった。
「どうしました?」
「……まずいぞ、これは」
「もう解けたんですか?」
「ああ」
 話しながら解いていたのか。
「何が書いてあったんです? 逢引きのことではないんですか?」
「……いや、驚くには値しないか。いずれこうなることは予想できた」
「甲賀さん、暗号の答えは?」
「教えない」
「え?」
「たまには自分で解いてみろ」
「僕には甲賀さんのような頭はありません」
「大学教授ってのは阿呆にも勤まるのか?」
「そうではありませんが」
「君が潔く横溝や岩井に助けを求めたことは評価している。しかし君はその後、考えることを放棄してしまった」
「少しは考えました」
「『少しは』だろう。どうしても自分で答えを出さなければならないとは思わなかった。君は苦しみから逃げている。江戸川君や隆子さんの『意志を尊重する』などというのは、自分の意志を持つ重圧を避けて通ろうとしているだけなんだ」
 隆太郎は返事ができなかった。自分なりに考えてはいたが、甲賀の言葉に対して反論は浮かばなかった。
「『ひたすら考える』。いつだったか、雑誌で江戸川君が書いていたな。あれについては僕も全面的に同意している。考えることをやめてしまったら、隆太郎君、人間はただの葦だ。いや、酸素を作り出せない分、葦にも劣る」
「……以前から、父と母は仲睦まじい夫婦ではありませんでした」
「それで?」
「けれど僕は、できることなら、父と母はずっと夫婦でいてほしいと思います。死ぬまで」
「……よく言った」
「でも甲賀さん、これは僕の我儘です」
「人間は我儘でいいんだ。少しは僕を見習いたまえ」
 それだけは肯んじ得ないが。
「その調子で暗号も解いてみろ」
「それとこれとは話が別です」
「いいからやってみろ。もう似たような暗号とその答えを二度も見てるんだ」
「しかし……」
「それに、君はこいつの解き方を既に知っている」
 知っている?
「思い出せ。暗号にはどんな種類があった?」
「読ませないための暗号と読ませるための暗号ですか」
「そっちじゃない。君が言った方だ。暗号の作り方を三つ、知った風な口ぶりで言っていただろう。こいつにはそのうち二つの技法が使われている」
 甲賀はそう言って、毛筆と暗号を隆太郎に突っ返した。
「じゃあ、もう一つだけ教えてください。日時は何と書いてあるんですか?」
 期限を知っておく必要がある。
「いい質問だ。細かくは教えられないが、こう言えば十分だろう。今日中に解かねば間に合わない」

 書斎のドアの前には、今日も朝食が置きっ放しになっていた。栗ごはん、大根の味噌汁、きんぴらごぼう、里芋の煮っころがし、てっぽう漬け、岩のり。いつにもまして手が込んでいる。母はどんな思いでこの食事を用意したのだろう。
 甲賀は一瞬の躊躇もなくドアを強く叩いた。
「江戸川君、僕だ。起きているんだろう」
 返事はない。
「起きているのはわかっている。下にいた時、この部屋の窓の中で影が動くのを見た」
 部屋の中から物音が聞こえる。原稿用紙にペンを走らせる音だ。
「甲賀さん、父は執筆中のようです」
「構うもんか。こっちの方が急ぎだ」
「でも、だいぶ調子よく書けているみたいです」
「期限は今日中だと言っただろう。それに『青銅の魔人』の原稿なら今月分はもう出したはずだ。江戸川君、君が何を書いているか知らんが、今言った通りこっちの〆切は今日だ。優先させてもらうぞ」
 甲賀はドアを開けようとしたが、案の定鍵がかかっていた。
「いいだろう。ここから話す。聞き流せるものならそうしてみたまえ」
 ペンの音が速い。異様な速さだ。こんな音は隆太郎も滅多に聞いたことがない。
「甲賀さん、やはり少しだけ待ってやっていただけませんか」
「君は黙って暗号でも解いていろ」
 甲賀が鋭い声で言い放った。
「『今いいところ』だとか『今苦しいところ』ってのは魔法の呪文だ。そう言われれば周りは反射的に邪魔しちゃいけないと思い込む。だが作家の状態なんて大別すれば調子がいいか悪いかの二つしかないんだ。遠慮していたら永遠に逃げられる。僕自身が作家だからよくわかる。そうだろう、江戸川君」
 返答はない。ペンの音だけが絶え間なく聞こえる。
「君は君なりに隆子さんの幸せを考えているんだろう。もしかしたら本当に隆子さんは村山君と一緒になった方が幸せになれるのかも知れない。しかしだ。それでも君は明日館へ行くべきだった。村山君をどうするかは君の自由だ。けれど君には隆子さんに感謝を伝える義務もある。この朝食は見たのか。これほどのものを作るのに一体どれだけの手間がかかるかわかっているのか」
 ペンは走り続けている。
「まさか君は世話を焼かれることも含めて自分の才能だなどと思っているんじゃないだろうな。冗談じゃないぞ。断言するが、君は隆子さんの支えなしじゃ絶対にここまでやってこられなかった。せいぜいデビューから二、三作出して、腐って終わりだ」
 応じる声はない。
「江戸川君、僕は君に作家を続けてほしいとか、隆子さんと人生を共にしてほしいなんてこれっぽっちも思っちゃいない。男として恥ずかしい真似をするなと言っているんだ。このまま放り出すつもりか。事なきを得ようとするな。火中の栗を拾え。村山君からの挑戦に君は正面から向き合わなければならない」
 その時、階段を上がってくる足音が聞こえた。現れたのは横溝だった。
「やぁ、横溝君。悪いが編集者と作家の話はあとにしてくれ。僕は今男同士の話をしている」
「いえ、甲賀先生。僕も男としての話をしに来ました」
「何だって?」
「隆太郎さん、お手のものは何通目の暗号ですか?」
「三通目ですが、何故これが暗号だと?」
「編集者としての勘です」
 横溝はドアに掌を当て、呼びかけた。
「先生、横溝です。まずことわっておきますが、僕は隆太郎さんや甲賀先生からすべてを聞いたわけではありません。一通目の暗号については隆太郎さんと話をしましたが、それだけです。暗号の意味や差出人について正確なことは知りません。ですから、今から申し上げることは僕の想像に基づくものです」
 ペンの音が止まった。
「僕に、村山さんを殴らせてください」
「おい、横溝君、何を言っているんだ」
「三通目の暗号が示すところへ、先生がいらっしゃらないなら、代わりに僕が行きます。そして僕が村山さんを殴ります」
 原稿用紙を揃える音が聞こえる。
「一発殴ってやりたいとすら思わないんですか、先生」
「横溝君。僭越という言葉を知っているかね」
 と、父がようやく口を開いた。
「承知の上です」
「今の君のためにあるような言葉だ」
「何もせずにはいられません」
「だいいち何故僕が村山君を殴りたがらなきゃいけないんだ」
「黙って見過ごそうというんですか、こんな挑発をされて」
「挑発じゃない」
 そこへ甲賀が割って入った。
「罪悪感を和らげるためのものかも知れない。だが村山君の真意はどうでもいい」
「村山君じゃない」
 父の声に、甲賀と横溝は色を失った。
「僕は今までずっと村山君の作品を読んできた。作品には人間が出る。僕が一番よくわかっているんだ。村山君は間男をして相手の亭主に挑戦状を叩きつけられるような人間じゃない」
「江戸川君、事実を受け入れたまえ」
「事実だ。その暗号の差出人は村山君じゃない」
「先生、お気持ちはわかりますが……」
「差出人が誰なのか、甲賀君、君にならわかるんじゃないか? ヒントは君の視界の中にある」
 甲賀は眉をひそめ、あたりを見回した。
 どういうことだ? 父は何を言っている? 鬱陶しい交渉人たちを遠ざけようと、支離滅裂なことを言っているのか?
 部屋の中からこちらへ近づいてくる足音が聞こえた。そして、ドアの下から原稿用紙の束が差し出されてきた。
「読んでみたまえ。僕の想像だ。人間の想像は大体当たるんだ……」
 その原稿には、男女二人の会話が綴られていた。

「お手紙、拝見しました」
 女給が現れ、コーヒーを置いて去る。
「迷っていらっしゃるんですね」
「はい」
「あの手紙が僕の目に入ることをお考えにならなかったはずはない。つまり、たとえ僕に知られようとも、あなたはご主人のお気持ちを確かめたかった」
「はい」
「驚きましたよ。それに正直こたえました」
「ひどい人間です、私は」
「それでも僕には二つの望みがあります。一つは、あの手紙が暗号という形を取っていること。『奪い返しに来てください』と、直接お書きにはならなかった。あなたの迷いを示しています。そしてもう一つは、今あなたがこうして僕と共にいてくださるということです」
「私をお嫌いにならないんですか」
「僕に嫌われたくてあんな手紙を?」
「いいえ」
 時計の針が三時を回る。
「ご主人はいらっしゃいませんでした」
「ええ」
「奥さん、僕は構いません。秤にかけられても」

 長い沈黙のあと、最初に口を開いたのは甲賀だった。
「何故わかった」
「村山君が僕に挑戦状を突きつけるつもりなら、作品の中でいくらでもできる。隆太郎にはじかれたり、他人の目に触れたりし得る危険を冒してまで、手紙という手段を取る必要はない」
 声が近い。父はドアのすぐ向こうにいる。
「隆子のやつめ、自分のことを指して宝とはな」
「その通りじゃないですか」
 と、横溝が言った。
「奥様は宝です」
「もう終わったんだ」
「何故行かなかったんですか。これが村山さんからの挑戦状などでなく、奥様からの呼びかけなら、なおさら行くべきでした」
「呼びかけと言い切れるものじゃない。迷いがあるから暗号なんだ。ただ、その三通目に限っては少し違うようだがね。本文より先に追伸を受け取った」
「どういう意味です?」
「何にせよ僕には夫の資格がない」
「ええ、そうです。このうえ三通目の手紙が示す場所へも行かれないおつもりなら」
「横溝君、君の心意気は嬉しかった。ありがとう」
「言えるじゃないですか、先生。『ありがとう』と。その言葉をどうして僕に言えて奥様には言えないんですか」
 父はそれに答えなかった。
 隆太郎は甲賀と横溝の方を向いて言った。
「甲賀先生、横溝さん、あんな父のために心を砕いてくださって、本当にありがとうございます。父は幸福です。そして不器用です。手で文字は書けるのに、口で言葉を紡ぐのは苦手なんです」
「隆太郎君、親父を甘やかすな。苦手でも何でもやらなければ駄目だ」
「父は作家です。登場人物の言葉ならば紡ぎ出せます」
「これは現実です、隆太郎さん。家族がばらばらになってしまってもいいんですか」
「父は不実です。褒められたことではありません。しかし誠実さを身につけるには、いささか歳を取り過ぎました」
 甲賀は顔を真っ赤にして隆太郎を睨んでいる。横溝はまだ何か言いたげな顔をしている。
 隆太郎は二人に構わず、ドアの向こうの父に言った。
「父さん、僕がこの三通目の暗号を解きます、自分の力で。そして母さんを連れ戻します、ある人に力を借りて」
「ある人?」
 と、甲賀と横溝が口を揃えた。

 幻影城の一階で、隆太郎は一人、立ったまま暗号を見つめていた。必ず解く。日暮れまでに。
 格子のはまった小さな窓から光が射し、埃をきらきらと輝かせている。本棚にぎっしりと詰め込まれた叡智。隆太郎はそれを、黴の匂いと共に吸い込もうとする。
 甲賀は言った。この暗号には、隆太郎の知る三つの技法のうち二つが使われている。三つの技法とはすなわち、「置き換え」、「並び替え」、「冗字」。問題は何が、どのように使われているかだ。
 恐らく過去の二通と同様に特定の文字を抜き出す読み方なのだろう。不要になる文字を「冗字」と見なすこともできるが、だとしたらわざわざ甲賀があんな言い方をするとは思えない。「抜き出し」を「冗字」の一種と捉えるならば、二通目が既に二つの技法を使うものだったからである。
 二通目は特定の文字を抜き出した上で「並び替え」をする読み方だった。そのヒントは鏡が割れていることによって示されていた。三通目も、ヒントの毛筆は柄が折れている。このことがまた「並び替え」を示唆するものだとは充分に考えられる。
 甲賀のあの言い方は、「抜き出し」と「並び替え」に加え、もう一つの操作が必要だという意味なのではないだろうか。
 隆太郎は毛筆を見た。毛が抜けている。連想されるのはやはり「冗字」。「毛」の示す何かが不要になるのだ。しかし、それはいつだ? 「抜き出し」をしてから不要な字を捨てるのか、それとも先に不要な字を捨てなければ「抜き出し」ができないのか?
「何してるの」
 静子がそこに立っていた。暗号に熱中して、床を踏む音も聞こえなかったらしい。
「ああ、ちょっとな」
「ちょっとじゃわからないじゃないの。何、その紙」
「何でもない」
「もしかして学生さんからの恋文?」
「馬鹿なことを言うな」
「あなた結構いい先生みたいだものね」
「やめろ。悪い冗談だ」
「そんなに怒らなくてもいいじゃないの」
「なんでわからないんだ」
「何が?」
「この紙が何だか」
「わからないから訊いたのに」
「暗号だ。この前からずっとやっているじゃないか」
「え? まだ解けてなかったの?」
「これは三通目だ。この前のやつはもう解けた」
「何だ、そうなの。そんなこと言われなきゃわからないわよ」
「いちいち説明するのが面倒なんだ」
「何でもすぐ面倒臭がるんだから。そんな調子じゃ早くぼけるわよ」
「少なくともお前より早くぼけるつもりはない」
「私がぼけちゃってもお世話してくれるってこと?」
 どこまでおめでたい思考回路なんだ。
「あ、そうだ。あの綺麗な布、もういらないのよね?」
 鏡を包んでいたあの布か。すっかり忘れていた。
「ああ、あれなら捨ててしまった」
「嘘!」
 嘘だ。何も知らないのん気な妻に腹が立ったのだ。
「欲しいって言ってあったのに」
「捨ててしまったものは仕方ないだろう」
 静子は心から残念そうな顔をした。母と静子は趣味が合う。母の用意したあの布は、静子の琴線に触れるものだったのだろう。
「それより、甲賀先生たちはどうした」
「さぁ? おうちの方にはいらっしゃらなかったし、お帰りになったんじゃない?」
「そうか」
「とにかく、こんなところに長居していたら胸を悪くするわよ」
「大きなお世話だ。放っておけ」
「はいはい」
 と、去りかける妻の背中を見て、隆太郎ははたと気付いた。
「あ、そうか」
「何?」
 自分の妻への接し方は、父のそれとよく似ている。いて当然と思い、ないがしろにし、笑顔を向けず、感謝を伝えない。
 静子は自分のことをどう思っているだろう。どこかのいい男に甘い言葉でも囁かれたら、そいつについていってしまうのではないだろうか? 静子は琴を習っている。教室に若い男がいるかも知れない。
「ありがとう」
 思わず、口からこぼれた。
「何が?」
 静子は怪訝そうな顔で振り返った。
「いや、いつも」
「だから何のこと?」
「飯とか、色々」
「あら、そう。どういたしまして」
 と、静子が微笑んだ。
 笑顔につられて、何かが緩んだ。恐らく、心の財布の紐が。
「それから……」
「何?」
「あの布なら、取っておいてある」
「ああ、そうなの。なんで嘘ついたの?」
「忘れていたんだ。捨てたような気がしたが、やっぱり取ってあった」
「ああ、そう。じゃあくれるのね?」
「やる」
「ありがとう」
 「ありがとう」は、言い慣れていないと、発するのにエネルギーのいる言葉だった。静子は隆太郎の嘘を咎めることもせず(嘘だということぐらいわかっただろう)、すんなりと「ありがとう」と言った。
 そのことで、もう一つ、結び目が解けた。
「それから……」
「何?」
「今夜は、肉が食いたい」
「え?」
「夕食は肉がいい。豚でも鳥でもいい」
「もうお魚買ってきちゃったわよ」
「そうか。じゃあいい」
「でも、希望を言ってくれたのね。ありがとう」
「そう軽々しく礼を言うな」
「どうして?」
「『ありがとう』は『有る』が『難い』と書くんだ」
「だから何? ありがたいから『ありがとう』って言うんでしょ。それでいいじゃない」
 反論できなかった。静子の言葉をそのまま受け入れるなど、もう随分してこなかったので、違和感がある。良くない習慣の中に身を置いていたのだと、反省するしかなかった。
 かくなる上は、と、隆太郎は自ら結び目を解いた。
「あと、それから……」
「今度は何?」
「その、何と言うか……」
「何なの?」
「八つ当たりをして、悪かった」
「いつの話?」
「何度かあった」
「何度も、ね」
「ああ。悪かった」
「悪いと思ってくれるならいいわよ」
「ああ」
「また八つ当たりしていいって意味じゃないからね」
「わかっている」
 あとは、笑顔だ。隆太郎は笑顔を作ろうと、深呼吸して、目を細め、口の端を上げてみた。ところが。
「やだ、何なの。気持ち悪い」
 そう言い捨てて、妻は逃げるように行ってしまった。隆太郎は半分の笑顔のまま取り残されてしまった。しかし、この程度の仕打ちで済むのならば、まさに「ありがたい」ことだ。
 その時、一つの棚に目がとまった。映画や芝居、歌舞伎についての資料や自著を収めた棚だった。父はそういった見世物の類をこよなく愛している。チョイ役で映画や寸劇に出演したことさえある。
 父に連れられて初めて見た歌舞伎は『仮名手本忠臣蔵』だった。隆太郎が「赤穂浪士は四十七人で、仮名は五十音なのに、何故『仮名手本』というの」と尋ねると、父は「『あいうえお』でなく『いろは』だからだ」と教えてくれた。
 それからもう一度暗号を見た。全五十五文字。もしや、これか?

 隆太郎は遂に暗号を解き終え、一本の電話をかけると、その晩は早めに床に就いた。
 眠りはすぐに訪れた。よく身体を動かした日のように。
 夢を見た。夢だという意識のある夢だった。これは助かる。浅い眠りは歓迎だ。明日、いや、今夜は、暗いうちに起きなければならない。
 少年時代のとある夏の日。縁側。父が望遠鏡を組み立てる。母が切ったすいかを皿に乗せて持ってくる。
「見てみろ、隆太郎」
 と、父が言う。隆太郎がレンズを覗き込む。
 文月の清流、天の川だ。しかし、期待したほど大きく見えない。星はやはり小さな点である。隆太郎はあっという間に飽きてしまう。宇宙は遠すぎる。こんなレンズなど通しても視界が狭くなるだけだ。直に目で見た方が見やすい。
 けれど隆太郎はレンズから目を離さない。背後で父と母が並んで縁側に腰かけている。冷えたすいかをかじりながら。それが嬉しくて、いつまでもそうしていてほしくて、隆太郎は熱心に星を眺め続ける。

「そのがらくた、ちゃんと片付けてよね」
「わかっている。何度も同じことを言うなと、俺は何度も言ったぞ」
 岩井の背後では、押し入れから引っ張り出された品々が山をなしている。
「それに、がらくたじゃないとも言ったはずだ」
「そうは見えないけど」
「お前探偵小説は読むくせに、ロマンは解さないんだな」
「私が興味あるのは謎解きだけだもん」
 安楽椅子、モデルガン、ハンチング帽、虫眼鏡、ステッキ、呼子笛、カメラ、針金、BDバッジ、棒やすりが仕込んである(という設定の)細巻き煙草、万年筆型懐中電灯(というつもりの万年筆)、万能ナイフ(これは本物)、縄梯子(手作り)、指紋採取用品(片栗粉と耳かきとセロハンテープ)……等々。
 岩井が長年に渡って集めた探偵道具の数々である。いつか来る大事件の折にはこれらの品々が大活躍をするはずだ。
 加えて、先代が残した調査記録。古今東西の探偵小説。岩井が書いた探偵小説(未完)。この宝の山をがらくた呼ばわりとは許しがたい。
 確かに、自動車・気球・ヘリコプターの模型や、伝書鳩「ピッポちゃん」のぬいぐるみ等については、用途は不明と認めざるを得ないが。
「あとで掃除と換気もしてよ。この部屋、すごく埃っぽい」
 聞こえよがしに咳をする妹は放っておこう。今はとにかく目的のものを見つけ出さねばならない。確か一つの箱にまとめてあったはずだ。
「ねぇ、さっきから何を捜してるの?」
「うるさいぞ。お前はさっさと嫁に行け」
「何それ?」
「甲賀先生なんかどうだ? お前を気に入っていたようだし。ああ、あの人は家庭持ちか」
「独身でも嫌よ、あんな蛇みたいな人」
「隆太郎さんも立派な方だが……いい男はみんな妻帯者だな」
「うん。それは言えるかもね。兄さんが独身だし」
 岩井は心の中でため息をついた。
「ま、いい男は自分で見つけてくれ。お前にどんな男が合うのか俺にはさっぱりわからん」
「兄さんにどんな女の人が合うかの方が謎だけどね」
「まずその『売り言葉に買い言葉』を何とかできないのか」
「売る方が悪いんじゃない」
「買う方も悪い。そんな調子じゃ男もすぐ逃げていくぞ。いや、そもそも出会いがないだろうけどな」
「それはどうかな?」
 ん?
「何かあったのか」
「いいえ、別に」
「どこで出会った」
「何でもないって」
「男ができたならきちんと紹介しろ」
「だから別に出会ってないってば」
「……お前、犯罪はしない方がいいな」
「なんで?」
「顔に出やす過ぎる。赤いぞ。猿の尻みたいにな」
「何言ってんのよ」
 実は、「赤いぞ」と言った時点では赤くはなかったが、言われて赤くなったのだ。赤くなるなら同じことだ。
「お前が本気なら……」
「やめてよ。そんなんじゃないって」
「いいから聞け。お前が本気なら、相手の名前と職業を教えろ。すぐにとは言わん。自分が本気だとわかったらでいい」
「何言ってんの?」
「身元をきちんと調べなきゃならんからな。真っ当な家の人間かどうか確かめる。身内に犯罪者でもいてみろ。もしそんなことがあったら、いいか、そういったことはじっくりと考えなきゃならん」
 潤子の顔からは赤みが引いて、憐れむような目でこちらを見ていた。何だ? 俺は何か変なことを言っているか?
 まぁ、いい。妹の恋は後回しだ。今はとにかく例のものを見つけなければ。
「それで、もう一回訊くけど、捜しものは何?」
「隆太郎さんに頼まれたものだ」
「だからそれは何なの?」
「教えない」
「なんで?」
「お前は暗号の差出人やお宝が何なのかもまだわかっていないんだろう」
「だからそれも教えてよ」
「たまにはわからない方の身にもなってみろ」
「私はいつも兄さんに教えてあげてるじゃない。恩を仇で返す気?」
「そうかりかりするな。明日には教えてやる」
「けち!」
「何とでも言え」
「なんてね」
 ん?
「わかったのか」
「多分ね」
 と、潤子は江戸川乱歩の『お勢登場』の表紙を見せた。
 『お勢登場』の主人公は病に冒された男。その妻は書生と不倫をしている。主人公は妻の不貞を知りながらも、それを責めることができずにいる。妻もまたそのことを知っているのである。
 ある日、子供たちとかくれんぼをしていて、主人公は長持の中に閉じ込められ、窒息死の危機に瀕する。妻はそれに気づくが、あろうことか、持ち上げかけた蓋をぐっと押さえ、掛け金をかけてしまう。そのまま主人公は死に、妻の罪を暴く者は現れない。
 非常に後味の悪い作品だが、人の心の闇を浮き彫りにしたという意味で、これ以上のものはなかなかない。岩井自身は強く記憶していた。しかし妹がこれを解するとはあまりに意外であった。いや、解したとまではいっていないかも知れないが、とにかく人の心の複雑さについて、『お勢登場』が参考になり、そのおかげで例の謎も解けたのだろう。
「そうか。良かったな」
「おかげさまで」
 いや、「解け」てはいないのだ。真実は自分や甲賀が想像したものよりも、もう一歩先にあった。潤子の考えはそこまで届いてはいまい。
 グロテスクな心理の存在を知って、グロテスクな推理をする。辛い経験から、悲しい結末を予想する。それらは自然なことだ。けれど、この世には光もある。確かに、ある。真実が残酷とは限らない。
 ともかく、潤子に真相を解説するのも明日以降でいいだろう。
 一つの箱が出てきた。あったあった、これだ。蓋を開けると、様々な衣類がきちんと畳まれて重なっていた。縞柄の浴衣、支那服、白い詰襟の上下。どれも捨てがたいが、やはり「彼」と言えばこれだろう。身体に合えば良いのだが。
 そうそう、こいつも忘れちゃいけない。椿油。髪を整えるのに必要だ。
 岩井は選んだ衣装といくつかの小物を鞄に詰め込み、押し入れの襖を閉め、そこにもたれて座った。
「何やってるの。片付けてよ」
「灯かりを消してくれ」
「え?」
「少し寝る」
「そんなところで?」
「長くは眠れない。隆太郎さんとは深夜の約束だ」
 潤子は腑に落ちないという顔をしながらも、黙って電燈の紐を引いた。


◆ ◆ ◆

 ヒントの毛筆は毛が抜けている。まず、「け」という読みを持つ字を捜し、取り除く。

 家 乙 大 国 分 寺 面 中
 曜 特 東 沼 火 白 場 三
 日 園 線 手 巣 木 金 小
 屋 山 馬 朝 都 半 足 気
 月 公 鴨 二 棒 田 駅 西
 海 水 電 袈 目 袋 塚 池
 川 華 時 高 四 仮 一 

 すると、残りは全部で五十文字となる。
 次に、毛筆そのものに着目する。一本の毛筆――一筆書き。
 暗号の五十文字に五十音を当てて、一筆書きができる平仮名の位置にある文字を抜き出す。

 あ い う え お か き く け こ
 乙 大 国 分 寺 面 中 曜 特 東

 さ し す せ そ た ち つ て と
 沼 火 白 場 三 日 園 線 手 巣

 な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ
 木 金 小 屋 山 馬 朝 都 駅 足

 ま み む め も や い ゆ え よ
 月 公 鴨 二 棒 田 半 西 海 水

 ら り る れ ろ わ ゐ う ゑ を
 電 目 袋 塚 池 川 時 高 四 一 

 そして、柄が折れていることを受けて、修復、すなわち並び替えを行う。

 ――火曜 朝四時 池袋駅山手線

 始発電車が出発の時を待つ薄暗いホームの端に、一人の女が立っていた。足元に旅行鞄。駆け落ちの誘いを受けているのである。隆太郎はマスクと眼鏡で顔を隠し、彼女の様子を見守っている。時計の針は三時四十五分。
 男が現れた。黒い背広に、黒い外套、黒のソフト帽という、黒ずくめのいでたちである。
鳥の巣のようなもじゃもじゃの髪を掻きながら、女の前に立ち、男は言った。
「彼はここへは来ません」
 女は男の顔を見て言った。
「彼というのはどなたのことかしら?」
「あなたが本当の意味でお待ちになっている方です」
「それが誰か、あなたはご存知なの?」
「ええ。私はその方に依頼されて参りました。申し遅れましたが、私、私立探偵の明智小五郎と申します」
「お噂はかねがね」
「光栄です」
 空は瑠璃色。多くの人々は今頃まだ夢の世界にいる。
「さて、奥さん。間もなくあなたをここに呼び出した人間が現れ、あなたをさらっていくでしょう。そこに停まっている始発に乗って、どこか遠くの町へ。しかし私がそうはさせません。ただちにご帰宅いただきます」
「何故です?」
「依頼人よりそのように仰せつかっているからです」
「あなたの依頼人さんはどうしてあなたにそんなことをお願いしたのかしら?」
「それは私の与り知るところではございません。ご依頼いただいた任務の遂行にただ邁進するのみでございます」
「まるで軍人さんね」
「探偵はどうしても個人の事情に深入りしてしまうものです。そういう性質の仕事です。だからこそ秘密を守ることは大原則としております」
「その依頼人さんが私を遠くの町へ行かせたくない理由を、あなたは聞いていらっしゃる?」
「いえ、必要のない質問はしない主義でございます」
「お堅いのね」
「秘密の漏えいを防ぐためでもあります。知らなければ、漏らす心配もありません」
 三時五十分。約束の四時まであと十分。だが女を呼び出した人間は現れない。現れるはずがないのだ。改札の前で岩井が止める算段になっている。この舞台にこれ以上の役者は登場しない。観客は隆太郎一人。
「さぁ、奥さん。参りましょう。車を用意してあります」
「お待ちください、明智さん」
「何か?」
「私、このままではご一緒には参れません」
「それは困ります。私はあなたをお連れすることが仕事なのですから」
「私にも約束がございます。ご存知の通り、私はここである方と待ち合わせをしております。その約束を破るからには、相応の理由が必要です」
「あなたをお連れしなければ私が叱られる。それを理由とは思っていただけないでしょうか?」
「いいえ、不十分です」
 男は冷静さを保つよう努めているようだが、明らかに戸惑っている。これは見ものだ。明智小五郎の狼狽など、小説の中では決してお目にかかれない。
「いかがでしょう、明智さん。今度は私の依頼を受けていただけませんか?」
「あなたの?」
「よもやお客の選り好みはなさらないでしょう?」
「ええ。しかしこの通り、先にお受けした依頼がまだ進行中でございますし……」
「そちらの依頼を完了するのにも、私の依頼が役立つはずです」
「わかりました。お話は伺いましょう」
「では申し上げます。あなたの依頼人が私を連れ戻したがっている理由をお調べになってください」
「奥さん、それは……」
「できないとおっしゃるんですか?」
「先ほども申し上げました通り、依頼人の秘密は守らねばなりませんので」
「あなたが敢えてお訊きにならなかったというだけで、訊くなと言われたわけではないのでしょう」
「それはそうなのですが……」
「では訊いてきてくださいな」
「けれども、すんなり教えていただけるとはとても……」
「あなたは天下の名探偵明智小五郎先生ではありませんか。直接訪ねる以外にも、方法は色々とご存知でしょう?」
「私はこれまで、奪われた美術品を取り戻せとか、盗人を捕らえろといった依頼は何件もこなしてきました。けれど人の心を探る仕事などやったことがありません」
「やってみたらよいでしょう。何事も経験です」
「難しいと思います」
「そうおっしゃらずに。きっと後学のためにもなりますわ」
「ここだけの話ですが、奥さん、私が生涯の好敵手と認めている怪人二十面相は、極めて単純明快な奴なのです。盗みや逃走、潜伏にかけては天才的で、裏のかきあいはしょっちゅうですが、犯行の動機に複雑なところは何一つありません。美術品への欲望、それだけです。獣が餌を求めるように、二十面相は美術品を欲しがるのです。そんな奴を長年追いかけてきたせいか、私も人の心の機微については随分疎くなってしまいました」
「引き受けてくださらないのでしたら、私はここを動きません」
「奥さん!」
「理由もわからずに連れ回されるのはごめんです」
「後生です。私を助けると思って」
「あなたがお困りになっても、私はちっとも困りません」
「ひどいお方だ」
「私に言わせればあなたの方がひどいお方です」
「何故でしょう?」
「依頼を受けたのはいつです?」
「いつ、というのは大変申し上げにくい問題です」
「私を連れ戻したいなら、その機会は今日より以前にもあったのでは?」
「そうおっしゃるならば、あるいはそうかも知れません」
「それも、人の待ち合わせの時に限らず、暮らしの中に何度でも」
「その通りです。その点につきましては、ええ、私の怠慢でありました」
「お認めになるんですね?」
「はい」
「それでは」
「参りましょう」
「いいえ、まだ同行するとは申しておりません。依頼を変更致します」
 男は縮れた髪を指でしきりにいじり回している。
「あなたの依頼人をここへ連れてきてください」
「何ですって?」
「私が直接訊いてみることにします。私に戻ってきてほしい理由を」
「奥さん、私の依頼人は、ご自分ではおいでになれない事情があるからこそ、私に依頼をくださったのです」
「その事情とは?」
「それもまた機密でございますから」
「急がせはしませんよ、明智さん。じきに始発の出る時刻ですが、私をここへ呼んだ方はどうやらおいでにならないようですし、のんびりと待つことにします。あなたの依頼人がここへ現れるのを」
「いつのことになりますやら」
「こちらが待つなら、呼んでこられないことはないでしょう」
「理屈の上ではそうですが」
「だいいち、あなたの依頼人は今、ここからそう遠くないところにいらっしゃるのではないでしょうか?」
「何故そうお思いになるんです?」
「私の想像です」
「奥さん、人間の想像ほどあてにならないものはありません」
「そうでしょうか? 人間の想像は当たるものだと聞いたことがありますよ」
「誰から?」
「あなたの依頼人から。実は私もその方をよく知っているんです。好物は卵焼き、特にだしのきいたものがお好み。趣味は映画鑑賞からレンズの研究まで色々と。性格はひねくれ者。職業は作家。そんな方ではございません?」
「その通りです。まさかお知り合いだったとは、奇遇ですね」
「その方のお書きになる作品の中では、探偵も犯人も変装の達人なんです。けれどその方ご自身は、あまり変装がお上手ではいらっしゃらないようですね」
 発車のベルが鳴り、列車が動き出した。男が髪をいじる手を止めた。
「……我ながら悪くない出来だと思ったんだがな」
「足が短すぎます」
「好きこのんで短いわけじゃない」
「改めてお尋ねしますけど、どうして来てくださったんです?」
「愛しているからだ」
「ちょっと、いやだ、急に潔くならないでくださいな」
「原則としてお縄になった犯人は潔くあるべきなんだ。だらだらと引き伸ばしては読者が冷めてしまう」
「『犯人』なんですか、あなたは」
「悪いことをした。長い間、君に。あの手紙を受け取って、行かなければならないとは、ずっと思っていた」
「本当に?」
「隆太郎たちが懸命に声をかけてくれた、自分のことのように。それに、追伸も受け取った」
 昨日の朝食。その品々の頭文字。
「あそこまではっきりと言われてはな。しかし僕は強引に君を連れ帰りたいわけじゃない。今までの謝罪と、礼が言いたかったのと、君の本音を聞きたくて来たんだ。正直に言ってくれ。次の列車に乗りたいんじゃないのか? 彼と共に」
 父は母の目をまっすぐに見ていた。
「君は女性だ。好きな男と一緒になった方がいい。そして僕はこう見えても進歩的な人間だ。心変わりを悪いこととは思わない」
「ごめんなさい」
 隆太郎は心臓が大きく鳴る音を聴いた。自分か、父か、あるいは両方の。
「……お芝居だったんです」
「え?」
 と、思わず声が漏れそうになった。
「村山さんにお願いしてね。近頃あなたがあんまり冷たいものですから」
 父はそれからかなり長い間、あんぐりと口を開けていたが、やがて安堵の色を浮かべた。自分か、村山か、どちらかが深く傷つくはずだった。それが「お芝居でした」で済んだのだ。
 しかし、と隆太郎は思った。
「この暗号を作った方は、江戸川先生のことが大好きな方なのかも知れませんね」
 そう言った村山の表情は、この一連の「芝居」が、彼にとっては決して単なる芝居ではなかったことを物語っていた。
 ごめんなさい、ありがとう。両親に代わり、心の中で呟いた。
「これほど上手く騙せるとは思いませんでしたけれどね、こんなおばあちゃんの不貞なんて」
「君は今でも綺麗だ」
「よしてください」
「だから、まんまと騙された」
 西の空が山吹色に輝き始めた。今夜あたり秋の虫が鳴き始めるだろうと、隆太郎は思った。

                                     (了)

乱歩への暗号

乱歩への暗号

雑誌ダ・ヴィンチの”第1回「本の物語」大賞”で3次選考止まり(最終の1つ手前)でした。 昭和30年頃を舞台にしたミステリー要素入りの時代小説です。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-03-01

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