ナル∪クラⅤ

ナル∪クラⅤ

第一話 準備運動

 学校行事の争奪戦が始まって2日目の朝、篠沢春希の目覚めは気が重い感じがした。
「今日で終わりか~」
 その気分を口に出すと、昨日の爽快な気分にはならなかった。異世界出身の僕が、この世界に来て2年半経っていたが、この生活も今日で終わりだった。
『おはよう』
 リビングに行くと、ソファーに座っていた白髪碧眼の母親が僕の方を見て、電波で挨拶をした。
『おはよう』
 僕らの会話は基本電波で、母親には声帯がなかった。
『何してるの?』
 母親の手を見ると、何かを生成しているようだった。母親は僕とは違い、物を生成することができた。
『ん?ああ、これね』
 母親は両手を開いて、僕にそれを見せてきた。
『何?それ?』
 生成途中ということもあり、何を作っているかがわからなかった。
『えっと、ほらあれよ』
 物の名称がわからないようで、顎で生成している物を指した。
 その方向を見たが、キッチンの方には物が溢れていて、何を指しているのか全く分からなかった。
『え?何?』
『えっと、マイクロ波が出るやつ』
『ああ、電子レンジ?』
 キッチンにマイクロ波が出る機械は、それしかなかった。
『あ、そういう名称なのね。あれの中身調べたんだけど、このクラでもマイクロ波を発生させる機器を開発してるんだな~って、感心しちゃってね』
 僕らはこの世界をクラと呼び、自分たちの世界をナルと呼んでいた。
『だから、生成なんてしてるの?』
『まあね。生成でよく使うことだけど、物質化するなんて面白いと思ってね』
『まあ、これは調理する物にしか使わないみたいだけどね』
『ふぅ~ん。食事をしないと、生きられないんだから仕方ないかもね』
『そうだね。生では雑菌が繁殖しやすいから、その耐性がない人が多いみたいだね』
『不憫なことね』
 母親は呼吸で肉体を維持してるので、食事は不要な行為だった。
『じゃあ、これって電子レンジの中身の部分?』
『そ、中身を調べていったら、なかなか面白い構造しててね~』
『ふぅ~ん』
 周りをよく見ると、いろんな物が移動した後が見て取れた。どうやら、暇すぎて手当たり次第、身近な物を調べたようだ。
『相変わらずの知的好奇心は旺盛だね』
『まあ、暇だったからね』
『母さんの行動って、死を待ってるように見えないね』
『ふふっ、そういうなら、みんな同じでしょう』
『・・・そうだね』
 云われてみれば、死を待つのは誰でも同じなのだから、僕の云い分はおかしかった。
 僕は話を切り上げて、最後の弁当作りに取り掛かることにした。
『もう、手慣れたものね』
 母親が僕の横に来て、弁当作りを覗き込んできた。
『まあね』
 僕はそう応えながら、塩を振った鮭をフライパンに入れた。
『食べるって、私はもうできなくなってるけど、どんな感じなの?』
『僕にとっては、栄養摂取なだけだよ。クラの人には味覚があるから、口に合うとか合わないとかがあるみたいだね』
『今考えると、口に入れるなんて恐ろしい行為よね~』
『クラでは、そういう安全策は取られてるから、人体には影響ない物ばかりだよ』
『ふぅ~ん。まあ、集団になれば進歩も早いみたいね』
『そうだね。機械化が進んで食べ物の安全性が増してるみたいだよ』
『物質化が進めば、不自由なことも改善するってことね』
 僕の料理の横で、母親が感心しながらフライパンや食器を観察した。
『じゃあ、ハルキにはクラの方が住みやすくない?』
『集団行動の規制は、身の安全を守るよりしんどいんだよ』
『それは・・・わからなくもない』
 集団行動の経験のある母親には、縛られることの苦痛は理解できるようだ。
 そのあと、母親は手に持った瓶を振りながら、僕の横で塩を観察していた。
『ほとんど塩分しか入ってないわね~』
『ここまで不純物が入ってないって凄いよね』
『そうね』
 母親は目を閉じて、何かに感傷した表情をした。
『っていうか、母さん。ちょっと邪魔』
 ただでさえ狭いキッチンなのに、母親が傍にいると、料理の邪魔でしかなかった。
『ああ、ごめん、ごめん』
 母親が軽く謝りながら、キッチンから出ていった。
 弁当が出来上がって、学校に行く準備を始めた。
『もう、行くの?』
 母親が珍しく僕の部屋に来て、そんなことを聞いてきた。
『どうかした?』 
『う~ん。ちょっと気になってね』
 なぜか母親が、煮え切らないことを云ってきた。
『もしかして、別れを惜しんでる?』
『そう・・・なのかな』
 その気持ちは忘れているようで、応えに迷いが見られた。
『母さんも僕と長く一緒に居過ぎたみたいだね』
『それは否定できないわね』
『もし寂しいなら、僕の代わりに父さんといたら気が紛れるんじゃない?』
『生きてたら、そうしてみるわ』
 母親はそう云って、部屋から出ていった。
 家から出て、大通りの十字路を通ると、一人の女子生徒が僕を待っていた。
「おはよう」
 制服姿の前宮望は、笑顔で挨拶してきた。彼女は、長髪を先端で括って左側から垂らしていた。
「ええ、おはようございます」
 最後ぐらい前宮を見習って、優しく笑顔で返すことにした。
「うっ!」
 すると、前宮が顔を赤くして少し怯んだ。
「どうかしました?」
「な、なんでもない」
 僕の言葉に、前宮が恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「そ、それより、昨日帰るとか言ってたけど、どういうこと?」
 前宮が気を取り直すように、鋭い目つきで威嚇してきた。昨日の夜に母親と一緒にいる時に、ここを立つことを母親が口走ってしまっていた。しかし、あの時は話が二転三転してうやむやになっていた。
「その話は、お昼にでも話しますよ」
 今話すと後々面倒な気がしたので、ここは控えることにした。
「そういえば、昨日は大丈夫でしたか?」
 僕は話を変える為、昨日のことを積極的に聞いた。
「え、何が?」
「糸目・・ではなく、清水先輩との乱闘ですよ」
「ああ、私が一人倒す間に、姉さんと三島が片付けてたわ」
「それは凄いですね」
「姉さんは、器用に足と両手で三人の関節決めてた」
「それは異常ですね」
「絡まってるの見て、どこをどう決めてるのか一瞬わからなかったわ」
 あの時のことを思い出したのか、呆れと感心が入り交じった表情をした。
「若菜は、二人も倒したんですね」
「急所狙いの一撃必殺だからね。いろんな意味で瞬殺だったわ」
「あれは痛いですからね~」
 その痛みは経験したことがなかったが、ここは一般的な意見を言っておいた。
 争奪戦最終日の学校前は、マスコミは少なくなっていたが、一般人が場所取りをしようと、校門前で列を作って並んでいた。
「みんな暇なんですかね」
 僕はそれを見て、ポツリと呟いた。
「実際、暇をつくって見に来てるんでしょう」
「物好きな人たちですね~」
「それは同感」
 前宮も同じ意見らしく、呆れた様子で並んでいる人たちを横目で見た。
 階段を上がって廊下に出ると、生徒が教室に入りきらず廊下に溢れていた。
「おはよう」
 携帯端末をいじっている飯村弘樹に、僕から挨拶をした。短髪で直毛の彼は数少ない僕の友達で、剣道部に所属していた。
「ああ、おはよう」
 僕の挨拶に、弘樹が顔を上げて挨拶を返してきた。
「あ、篠沢。まだ勝ち上がってるんだってね」
 突然、クラスメイトの女子が僕に話しかけてきた。
「え、あ、はい」
「篠沢って強かったんだね~」
 それに同調するように、別の女子が僕の方に寄ってきた。
 そのあとHRまで、今まで話したこともないクラスメイトの男女が僕を祝してきた。
「う、鬱陶しかった」
 HR中、弘樹の横でさっきの心境を吐露した。
「そうだな。有名人になっちまったな」
「もう負けたい」
「まあ、そう言うなよ」
 僕の本音に、弘樹が苦笑いした。
 担任が連絡事項の最後に、クラスにあるリングの解体を指示した。2日目は試合数が激減する為、各クラスのリングは必要なくなっていた。
「春希はまだ勝ち上がってるから、片付けは免除だな」
「あ~、そういえば、昨日のHRにそんなこと言ってたね」
 ちなみに、女子も模擬店があるので、リングの片付けは男子だけだった。
「はぁ~、意気阻喪になるな」
 弘樹が嫌な顔で愚痴ってきた。 
「まあ、頑張って」
 ここは元気を出させるために、一般的な声援を送った。
 HRを終え、前宮を含めた女子は教室から出ていった。
「じゃあ、僕は行くよ」
 ここに居ても、邪魔になるだけなので、さっさと移動することにした。
「ああ、また後でな」
 弘樹はこれからの作業に溜息をつきながら、ダルそうに片手を上げた。
 僕は着替えるために、部室へ向かった。各クラスがリングを片付けるまでは、選手はウォーミングアップの時間なので、適当に体をほぐすことにした。
 いつもの武活の練習場所に歩いていると、所々でウォーミングアップしている生徒が見受けられた。
 運動場の隅っこで、僕はのんびりと柔軟から始めた。学校で一人になるのは、久しぶりなので少し変な感じだった。
 柔軟が終わっても、まだ時間があったので、いつも武活でやっている基本動作を、体重調整を踏まえながら反復練習した。僕の体重はクラの人より数段軽いので、ここ最近はクラの人の体重に合わせていた。
「綺麗な型だね」
 一人で集中していると、突然横から声を掛けられた。
 振り向くと、武活の先輩の白浜先輩が立っていた。
「あ、おはようございます」
 僕は白浜先輩に、頭を下げて挨拶をした。
「うん、おはよう」
 おっとり顔の白浜先輩は、緩い感じで挨拶を返してきた。ここにいるということは、白浜先輩も争奪戦に勝ち上がっているようだ。
「お互い、運悪く勝ち残ってしまいましたね」
「そうだね」
 僕の言い回しが面白かったようで、白浜先輩は含み笑いをした。
「少し組棒しない?」
「え?」
「一人よりウォーミングアップの方が効率が良いと思うんだけど」
 白浜先輩は、周りを気にするように誘ってきた。
「まあ、そうですね」
 その言い分は少しは納得できたので、白浜先輩に付き合うことにした。
 白浜先輩との組棒はかなり久しぶりで、攻撃の距離感が島村先輩と大幅に違っていて少しやりにくかった。
「やっぱり筋が良いね」
 一通り終わると、白浜先輩が笑顔で褒めてきた。
「先輩もさすがです」
 一応、僕も返礼するかたちで白浜先輩を賛辞を返した。
「次の試合、お互い勝ち上がれば戦うことになるね」
「そうなんですか?全く、いい加減トーナメントの選考方法を見直して欲しいですね」
「ははっ、そうだね。グループ突破で同じ武活で当たるのは、少し想定が甘い気がするね」
 僕の愚痴に、白浜先輩が苦笑いしながら賛同した。
 すると、リングの方から一人の男子生徒が歩いてきた。運動着の一部の色から先輩であることがわかった。
「良い後輩を持ってるな、白浜は」
 丸刈りの先輩は白浜先輩に話しかけながら、こちらに歩いてきた。片手に持っている竹刀から、弘樹と同じ剣道部の五強の一人のようだ。
「まあ、たぶん来年にはこの部はないよ」
 白浜先輩が頬を掻きながら、そんなことを口にした。
「えっと・・・」
 僕は、この二人の話に入るかどうか悩んだ。
「ああ、ごめん。同じクラスの水木だ」
 僕の戸惑ってる姿に、白浜先輩が気を利かせてくれた。
「なかなか綺麗な動きだったぞ」
「ど、どうも」
 水木先輩の気さくな笑顔に、警戒心から言葉につかえた。彼の雰囲気は他の人とは違い、少しだけ嫌な感じがした。
「そういえば、白浜の次の対戦相手って誰なんだ?」
 有り難いことに、水木先輩が白浜先輩の方に話を向けた。
「う~ん。2年の海淵だね」
 その名前はどこかで聞いたことがあったが、思い出せなかった。
「あ~、確かレスリング部だったな」
「そうなんだ。やりにくい相手だね」
「まあ、ボディビルダーみたいな筋肉質な奴だからな。有効打撃が難しそうだ」
 それを聞いて、海淵が誰かを思い出した。
「こっちも次の対戦相手が相撲部だから、どう戦うか困るよ。正直、頭と脚ぐらいしか狙う場所が思いつかない」
「お互いやりにくい相手だね」
 白浜先輩は苦笑いして、僕の方に顔を向けた。
「篠沢は、対戦相手は誰なの?」
「さあ~、知りません」
 誰が勝ち上がってきても、闘うことは変わりないので、知る必要性は感じなかった。
「確か・・笠松だったな」
 水木先輩が僕を見て、対戦相手の名前を言った。
「あ、そうなの?」
 それに白浜先輩が、少し難しい顔をした。
「笠松って、薙刀部だったよね」
「ああ、俺はあいつとはやり合いたくないな」
「僕も苦手だよ」
「まあ、去年笠松に負けたもんな」
「ああ、そうだね」
 白浜先輩は、視線を泳がせて頬を掻いた。どうやら、去年わざと負けた相手のようだ。
「系統が似てて、闘いにくそうですね」
 僕は、率直な感想を口にした。
「それだけじゃない、笠松は型にはまらないからやりにくさだけを取ったら、この学校ではトップクラスだ」
 水木先輩は、面倒臭そうな顔で忠告してきた。
「前は準々決勝まで、勝ち上がっているからな」
「あの時、3年の柔道部に負けたんだっけ?」
「ああ、さすがのあいつも寝技は素人だからな。懐に入られた時点で勝負は決まってたよ」
「それは僕たちも言えることだけどね」
「確かに。事実、一人は空手部に負けてるしな」
 白浜先輩の意見に、水木先輩も笑いながら同調した。
「じゃあ、俺はそろそろ行くな」
 水木先輩はそう言って、体育館の方に歩いていった。
「僕らも、そろそろ試合場所で待機しないとね」
「そうですね」
 よく見ると、選手以外の生徒がちらほらと運動場に集まりつつあった。
 僕は白浜先輩と別れて、指定のリングで待機することにした。
 待機場所に着くと、なぜかそこには久米詩絵の姿があった。彼女は僕に気づくと、一重でそばかすのある顔をこちらに向けた。
「おはよう」
 そして、長い茶髪を掻き揚げながら挨拶してきた。
「え、あ、どうも」
 この挨拶に不意を突かれてしまい、少し戸惑った返事になってしまった。
「まさか、ここまで勝ち上がるなんて思ってなかったわ」
「同感」
 久米の皮肉に一単語で頷いた。
「篠沢は誇示しないのね」
「無意味だからね」
「無意味・・ね。じゃあ、なぜ勝ち上がってるの?」
 これはなかなか鋭い指摘だった。
「僕自身、勝敗に興味はないけど、先輩たち約束してしまってね。仕方なく、全力で闘ってるだけだよ」
「不本意でここまで勝ち上がってるの?」
「そうなるね」
「変な人」
 ここまで話して、久米の僕への評価はその一言で終わってしまった。
「そういえば、久米ってなんで実行委員になったの?」
 特に知りたくなかったが、クラスメイトの児玉のことを思い出して、なんとなしに聞いてみた。
「え、そんなの、模擬店の服を着たくないからよ」
「ああ、あの露出の高い服ね」
「私のところなんて水着だもん。それを着るぐらいなら、実行委員の方がまだマシよ」
「それは納得できる理由だね」
「ったく、なんで今年からこんなのになったんだろう?」
 原因は会長にあったが、昨日の体育館倉庫での会話は聞いていなかったようだ。
「あ、そろそろ行くわ」
 久米が時間を気にして、体育館の方に歩いていった。
 待機場所でしばらく柔軟していると、校舎側からチャイムが聞こえてきた。
 すると、運動場に多くの人が入ってきた。中には、駆け足で場所取りをしている人も見られた。それを鬱陶しい気持ちで見ていると、女子生徒が手を振りながら、僕に近寄ってきた。
「おはよう、調子はどう?」
 同じ武活の先輩である島村先輩が、笑顔で挨拶してきた。
「気分は不調です」
「まあ、注目されるのは嫌いだもんね」
 平均顔を崩して、少し笑顔を見せた。
「そうですね。早く負けてしまいたいです」
「それは義務違反だよ」
 島村先輩は一回り大きな胸を揺らしながら、僕に人差し指を突きつけて軽く睨んできた。
「全力出して、負けるのは問題ないんでしょう」
「そうだね。勝てない相手に勝てとは言えないわね」
 僕の言い分に、島村先輩が苦笑いで視線を逸らした。
「あんまり無理しないでね」
 いつの間にかいた前宮が、照れ臭そうに入ってきた。
「無理はしませんよ」
 僕自身、そんなことするメリットは皆無だった。
 リングに人が集まり始めると、運動着を着た男子生徒がこちらに歩いてきた。手には薙刀を持っていた。どうやら、僕の対戦相手の笠松先輩のようだ。
「篠沢・・かな?」
 そして、僕に対して疑問符を付けてきた。髪は男子にしては長めで、白浜先輩に似て、少しおっとりとした雰囲気をかもし出していた。
「え、あ、はい」
「俺は笠松。よろしくな」
 そう言うと、馴れ馴れしい口調で手を出してきた。
「あ、はい。よろしくお願いします」
 僕は、差し出された手を見ることしかできず握手はできなかった。
「握手はしてもらえないのか・・・」
 笠松先輩は、少し複雑そうな顔をした。
「やっぱり恋敵には、馴れ馴れしくして欲しくないかな?」
 そして、突然笠松先輩が意味不明なことを言い出した。
「え?なんの話ですか?」
 さすがにこれには理解できず、笠松先輩に意味を聞いてみた。
「何って・・・望のことだよ」
 笠松先輩はそう言って、島村先輩の後ろに隠れていた前宮のことを見た。
「えっと、知り合いなんですか?」
 混乱している僕は、前宮の方に振り返って聞いた。
「元恋人よ」
 僕の問いには、島村先輩が答えた。
「ちょ!なんで言うんですか!」
 これには前宮が、俊敏な動きで島村先輩に詰め寄った。
「え~、別にいいじゃん。昔、私とかなえに自慢してたでしょう」
「う、くっ」
 島村先輩の暴露に、前宮が動揺しながら言葉に詰まった。
「っていうか、最近かなえの家に来ないから、諦めたと思ったんだけど、まだ諦めてなかったんだね」
「最近、家に行っても会ってくれないから・・・」
 休日に前宮が外出する原因の一端を垣間見えた気がした。
「それに望からまだ答えをもらってないし」
「そ、それは・・・もう結論出てるでしょう」
 前宮がか細い声で、俯いたままそう言った。
「俺は、望を傷つけたことに責任を感じてる」
 確かに、前宮は去年沈黙の宮と呼ばれるほど誰ともしゃべらなかったことがあった。
「よ、余計なこと言わないで」
 場所を気にしてか、前宮は感情を抑えたこもった声で言った。
「それでも、やっぱり望が好きだから諦められないよ」
「もう終わったでしょう。いまさら、前みたいには戻れないよ」
 昔のことを思い出したのか、前宮が悲しそうに言い切った。
「やっぱり、篠沢かな」
 笠松先輩は、その原因を僕だと見なしたようだ。
「そろそろ、始まるから行くよ」
 笠松先輩に言われて時間を見ると、争奪戦の開始5分前になっていた。
「なんで別れたんですか?」
 あまり聞くことでもなかったが、殺伐とした沈黙よりはマシに思えた。
「普通、それ聞くかな?」
 島村先輩には、ここで聞くことは非常識だと思ったようだ。
「浮気したのよ、詩絵と」
 前宮がどうでもいい感じで、そっぽを向きながら答えた。
「え!久米が!」
 久米の性格からして、とても笠松先輩を好きになるとは思えなかった。
「私に彼氏ができるのが嫌で、強引に仕向けたのよ」
「は、はぁ~、よくわからないことしますね」
 本当に僕には理解できないことだった。
「内緒で付き合って、私と別れさせて詩絵も別れる予定だったみたい」
「その前にばれたってことですか」
「姉さんが見ちゃってね」
 そう言うと、少し怒りに満ちた顔をした。
「それ以降、久米と絶交ですか」
「うん。笠松先輩とも別れたわ」
 前宮から一連の流れを聞き終わると、アナウンスで僕の名前を呼ばれた。
「じゃあ、行ってきますね」
 僕は、前宮たちに軽く手を振ってリングに上がった。後ろから二人の声が聞こえたが、周りの声に掻き消された。

第二話 五回戦

「両者前へ」
 教師である審判の指示で、僕は笠松先輩と中央で対峙した。禁則事項を説明され、試合開始の掛け声と共に後ろに下がった。
 僕がすぐ距離を取ると、相手も同じように半歩下がって薙刀を構えた。
 相手の出方を見る為、僕たちは向かい合ったまましばらく動かなかった。さっきの足運びを見る限り、あまりこちらから仕掛けたくはなかったが、それはあっちも同じ考えのようだった。
「君には負けたくないな」
 硬直状態を避けたいのか、笠松先輩が話しかけてきた。
「そうですか」
 初対面ということもあり、僕としてはあまりこの状態では話したくなかった。
 先に痺れを切らしたのは、笠松先輩だった。まあ、僕から仕掛けることは考えていなかったので、その先読みはしていたことだった。
 怒涛の突きと払いの連携攻撃は、重さと速さを兼ね備えた連撃だった。笠松先輩の攻撃を必死に受けながら、今の状態では勝てないことを悟った。
 僕はタイミングを見極めて、笠松先輩の突きに対して、今の最速でカウンター気味の小手を狙った。しかし、それにすぐに反応を示して、肩を落とすかたちでかわされてしまった。
 これで攻撃が一時的に止むと思ったが、笠原先輩はそこから右足で足払いを狙ってきた。
「なっ!」
 僕は驚いて、慌てて飛んでかわしてしまった。この滞空時間は相手の一撃を許してしまう時間だった。
 笠松先輩は下がって距離を取るのではなく、両手を刀身部分に寄せて、僕との攻撃の間合いを下がることなく縮めてきた。これは攻撃動作を短縮して、渾身の打撃を与える有効な手段だった。
「はっ!」
 笠松先輩の強烈な突きが、僕の腹部にめり込んだ。
「ぐっ」
 痛みはなかったが、気管を圧迫されて詰まった声が出てしまった。模造刀でなければ、完全に殺されていた。
 僕は時間を稼ぐ為、お腹を押さえてロープまで下がった。
「はー・・ふー」
 僕は治癒力を高める為に、目立たないように息を大きく吸い込んだ。
 しかし、その隙を狙うように笠松先輩が攻撃を仕掛けてきた。
「ちっ」
 僕は舌打ちして、横に移動しながら体重調整を行った。
 笠松先輩の攻撃をなんとかかわしながら、コーナーまで逃げ切った。この間に、6kgほど体重を落とすことができた。
「もう終わりだ」
 笠松先輩が逃げ場が無くなった僕を見て、勝手にそう判断した。
 笠松先輩は、刃先の部分で渾身の突きを放ってきた。
 しかし、それは予測できたので、跳んでかわしながらリングの柱上に手を掛け、柱を蹴って相手の頭上を跳び越えた。
「なっ!」
 これには笠松先輩が、上空の僕を驚いた顔で見送った。
 この僅かな時間で空気を吸って、もう一度治癒能力を高めた。
「良し」
 相手の困惑している間に、応急的な治癒は完了した。
「打たれ強いんだな」
 笠松先輩はそう言って、薙刀を中段で構えた。
「そうですか?」
 これには白々しく答えておいた。
 笠松先輩はこれ以上の話はせず、僕に向かってきた。この素早い判断には感服してしまった。
 僕は再び笠松先輩の攻撃を、必死で剣棒で防いだ。しかし、体力が少し落ちただけ、防ぎきることができなくなってきた。
「くっ」
 体重を少し落としてもこれだと、確実に負けることは目に見えていた。このまま負けることも考えたが、何もせず負けるなと会長に言われているので、安易に負けることはできなかった。
「う~ん、どうしよう」
 腹部や肩、ふくらはぎに攻撃をもらいながら、どうするかを素の表情で悩んだ。
 すると、笠松先輩が再び足払いを狙ってきた。
「それは悪手ですよ」
 僕は、屈んだ笠松先輩の軸足を剣棒で軽く叩いた。意表を突くには有効だが、二度目の上、防戦一方の僕には攻撃の芽を与えるだけだった。
「うおっ」
 笠松先輩は、足をすくわれるかたちで倒れた。そこから追撃しようかと思ったが、彼は跪いた状態からバネのように後ろに跳んだ。
 だが、僕にとってはその滞空時間は、狙いの的でしかなかった。
 僕は中段に構え、笠松先輩の着地する前に中段突きを放った。
「くっ!」
 急所を狙ったが、体を捻られてずらされてしまった。
 笠松先輩は脇腹を押さえながら、後ろによろめいた。予想通り、笠松先輩は打たれ弱いようだ。
 この怯んだ状態を逃す手はないので、今度はこっちから攻撃に転じた。払いは防がれやすいので、全部突きであらゆる急所を狙った。
「くっ」
 笠松先輩は、苦悶な顔で必死で突きを払ってきた。しかし、さっきの一撃が効いているようで、すべてを防ぐことはできなかった。
 急所には当たらなかったが、ある程度打突が入ったので、一気に畳み掛けることにした。
 しかし、これは早まった判断だった。笠松先輩は体を横に向け、突きを警戒した構えを取った。それには気づいたが、ここで早めに決着を急いだ僕の失態だった。
 数分後、僕の疲労とは反して、笠松先輩に決定打を入れることはできなかった。
「はぁー、ふぅー」
 僕は息を整えて、疲労回復に努めた。僕の攻撃を凌いだ笠松先輩も、攻撃に移る余裕はなく痛みを和らげるように手で脇腹を擦っていた。
 しばらく動かないでいると、周りの観客はうるさいほどのヤジを飛ばしてきた。しかし、お互い攻撃に転じる体力はなかった。
「思ったより強いな」
 笠松先輩が僕を見て、そんなことを言った。どうやら、会話で間を繋ごうと思ったようだ。
「先輩も強いですね」
 僕もそれに乗ることにした。
「望が君好きになる理由が、なんとなくわかった気がする」
「・・・何を言っているんですか?」
 突然のことに、闘っていることを一瞬忘れてしまった。
「君は、どこか大人びてる」
「は、はぁ~」
 よくわからない言葉に、僕は困惑してしまった。
「だからこそ、君に勝ちたいと思ってる」
「へ?」
 話の道筋が全く掴めない状態に、僕の眉間に皺が寄った。
 僕の警戒が緩んだところで、笠松先輩が攻撃に転じてきた。これには相手の術中にはまったことに気づいた。
「くっ!」
 僕は、すぐさま剣棒を中段に構えた。攻め方はさっきと少し変えていたが、速度が遅くなっていた。
「はー、はー、はー」
 結果、さっきとは逆で笠松先輩の疲労ほど、僕に決定打を与えることはなかった。
「良い攻め方でした」
 僕は、笠松先輩の攻撃を称賛した。
「嫌味かい?」
「いえ、本気で褒めたんですよ。今の状態でその攻撃は凄いです」
「恋敵にそう言われるのは、気持ち的に複雑だな」
「さっきから恋敵ってなんですか?前宮とは友達であって、恋人ではないですが・・・」
 僕は険しい表情で、笠松先輩に間違いを正した。
「今はそうかもしれないが、いずれ付き合うつもりだろう?」
「いえ、前に告白されましたが、ちゃんと断りましたよ」
「告白したのか!望が?」
 僕の言葉に、笠松先輩が驚きの声を上げた。
「え、ええ」
 僕もそれに驚いて、返す言葉がどもってしまった。
「凄いな」
 すると、笠松先輩が主語の抜けた言葉を口にした。
「結局、俺は何もできなかった訳か」
 そして、よくわからない独り言を呟いた。
「ありがとう。君のおかげで少しだけ心の取っ掛かりが取れたよ」
 笠松先輩はそう言って、何かを決意した表情で構えを取った。
「もう決着をつけよう」
「ええ、そうですね」
 もうお互いの力量もわかったので、これ以上闘いを長引かせることは無意味だった。
 笠松先輩は、回転を生かした流れるのような動きで、薙刀を振るってきた。先ほどより速度も重さもなくなっていたが、それは僕も同じだった。このままでは、疲弊で押し負ける未来しか見えなかった。
 そう思った瞬間、全身に高揚感が溢れてきた。
「あ~、やばい」
 この感覚は、良く経験したものだった。どうやら、無意識で脳内に麻薬を生成してしまったようだ。
「これは・・まずい」
 僕は相手の攻撃を防ぎながら、麻薬の生成を抑制した。僕はある一定の麻薬を生成すると、見境なく暴走する癖があるのでそれだけは避けたかった。
「う~ん」
 しかし、抑制したとはいえ、少しの生成で疲労が回復してしまっていた。これにはアンフェアな気がして、本気で困った。
「どうしよう」
 しかし、こうなっては負けることが難しくなってしまった。
「不可抗力は仕方ないか」
 僕は負けることを諦め、笠松先輩の動きを予測しながら、流れでつば競り合いに持ち込んだ。
 これに笠松先輩が力を込めて、僕を押してきた。
「くっ」
 体重を軽くしている分、後ろに押し下げられてしまった。
 僕はその態勢から剣棒を手放し、レスリングの中腰のタックルで笠松先輩の腰を捉えた。
「なっ!」
 さすがにこれには驚いたようで、抵抗できずその場に倒れた。
「残念でしたね」
 僕はそう言って、笠松先輩の足を組みにかかった。マウントポジションで殴ることも考えたが、薙刀を持っている以上、殴打より寝技の方が早かった。
「な、何を!」
 僕が組むことを想定していないようで、笠松先輩の声に動揺が見られた。
 僕は片足を掴んで、相手を返すように体を捻った。嫌悪感はあったが、会長との特訓でほんの少しだけ改善していた。
「いだだだ~~」
 関節が決まったようで、笠松先輩が絶叫の声を上げた。その反応は最初の僕によく似ていた。
「もうギブアップですか?まだ序盤ですよ」
 その痛がり方を見ながら、僕は自然と会長と同じようなことを口にしていた。
「う~ん。もう一決めしましょうか」
 このままでは審判に止められるので、僕が苦しんだ寝技をもう少し堪能してもらうことにした。
「いだだだ~、ギブギブ」
 股関節を決められたことで、笠松先輩が更なる大声を上げた。
「勝負あり!」
 笠松先輩の降伏宣言に、審判が大声で勝負を終わらせた。その瞬間、周りから歓声が上がった。
「ふぅ~、うるさい」
 僕は、耳を塞ぎながらそう呟いた。実力的には完全に負けていたが、相手の仕損じと自己治癒力に救われたかたちになっていた。(皮肉)
「ありがとうございました」
 笠松先輩が立ち上がったのを見て、僕は深々と頭を下げた。
「負けてしまったな」
 それを見ながら、笠松先輩が表情を緩めた。
「勝ってしまいましたね」
 僕は頭を掻きながら、本音を言った。
「不本意そうだな」
「ええ、勝っても良いことはありませんから」
「高揚感ぐらいは出るだろう」
「そう・・ですか?」
 そんなもの脳内麻薬でいくらでも出せるので、わざわざ争いでそれを出すなんて意味がわからなかった。
「人それぞれか」
 僕の反応に、笠松先輩が表情を綻ばせた。
「望のことは任せる」
 笠松先輩は勝手にそんなことを言って、リングを下りていった。
「僕には荷が重いよ」
 僕は一人になったリングで、笠松先輩の後姿を見送った。
 リングを下りると、さらなる歓声が僕の体を包んだ。
 それを煩わしく思って歩いていると、島村先輩と前宮の他に、若菜と弘樹がこちらに歩いてきた。
「おめでとう」
 島村先輩が嬉しそうに、僕を祝してきた。
「どうも」
 個人的には嬉しくもないので、淡泊に返した。
「ここはうるさいですからもう行きます」
 周りが勝手に盛り上がっているので、さっさとこの場を去ることにした。部室に剣棒を置きに行こう思ったが、観客が多すぎて諦めることにした。
 僕を先頭に2年の校舎に入って、後ろを確認すると、島村先輩に前宮、若菜に弘樹、四人もついてきた。
「弘樹も来るの?」
 他のメンバーは予想通りだったが、まさか弘樹が来るとは思っていなかった。
「ああ、もう他の試合も終わってるし」
 終わって気づいたことだが、僕の試合は30分近く経っていた。
「というか、三人とも模擬店はどうしたんですか?」
 今まで気づかなかったが、模擬店は既に開店しているはずだった。
「私は、生徒会の手伝いになってるから、必要ないわね」
「それ、昨日も言ってましたね。もう模擬店には関わらないんですか?」
「え?うん。かなえが気を利かせてくれてね。私だけあの露出の高い接客から逃してくれた」
「は、はぁ~、そうですか」
 模擬店での露出の高い服装は、会長自身から申請したことだが、親友の島村先輩には申し訳ないと感じたような配慮だった。
「前宮は?」
「もうあの服着たくない」
 僕の投げかけに、前宮がその言葉を表情に出して言い切った。
「あの衣装の元凶が姉さんって知ってから、見てるだけで腹が立ってくる」
「あ~、そう言えば、あの後思いっきり殴ってたね。お腹を」
 前宮の苛立ちに、島村先輩が昨日ことを苦暴露した。
「って、なんでいちいち言うんですか!」
「事実じゃん」
 前宮の睨みに、島村先輩が拗ねたようにそっぽを向いた。
「で、若菜は?」
 最後は若菜の方に聞いてみた。
「私は、午後からです」
「あ、そう」
 若菜の方は、時間帯で決めれているようだった。
 結果、誰も僕から引き離すことができなかった。
「あ~、弘樹。どっかで暇つぶしに行こうか」
 屋上の踊り場に着いたが、この三人がいることで居心地が悪くなるので、弘樹と適当にぶらつくことにした。
「え、俺だけか?」
「前に誘ったとき断ったから、学校内だけど付き合うよ」
「いや、学校内じゃあ、いつもと変わらんだろう」
「細かいな~、ここは快く遊ぼうぜ、とか言わないと」
「俺は、そんなキャラじゃない!」
 僕の茶化しに、弘樹がいつものように乗ってきた。
「という訳で、僕は行きますね」
 弘樹の答えを得ていなかったが、三人から逃げることにした。
「ダメ、篠沢はここに居て。飯村はどっか行っていいよ」
 すると、前宮が僕を見ずにそう命令してきた。
「・・・一方的ですね」
 友達にそう言われては、逃げることは叶いそうになかった。
「相変わらず、変な関係ね」
 これには島村先輩が、おかしそうに笑った。
「あっ!そうだ、若菜。ちょうどいいから弘樹と話してみてよ」
 もう僕には男性恐怖症の若菜を見届けることはできないので、この機会を利用することにした。
「えっ!」
 すると、若菜が一瞬で体を硬直させた。
「どういうことだ?」
 僕の言葉に、弘樹が不思議そうに若菜を見た。
「紹介しとくよ。武活の後輩の三島若菜。男性恐怖症だよ」
「精神病?」
「今は僕と話せるまで回復したけど、他の男子とはまだ話せてないみたいだから、練習台になって」
「え、俺がか?」
 弘樹は困惑した表情で、若菜と目を合わせた。
「ひっ!」
 すると、若菜の緊張が一気に増した。
「俺には無理だ」
 それを見た弘樹が、真顔で首を振った。
「それは残念」
 僕も若菜の反応を見て、無理強いはできないと悟った。
「その条件反射をなんとかしないといけないね」
「あ、う、ご、ごめんなさい」
「もしかして、目を合わせるとそうなるの?」
「は、はい・・・」
 若菜は、申し訳なさそうに頷いた。確かに思い返しても、僕とは一度も目を合わせたことがないことに気づいた。
「じゃあ、僕と目を合わせてみようか」
 なので、僕にできる最後のことをしてみようと思った。
「え!そ、それはできません」
 しかし、若菜は顔を赤らめて、それを拒んできた。
「そう、僕でも難しいんだね」
 慣れているとはいえ、男である僕にも顔は合わせられないようだった。
「その反応、なんか違う」
 島村先輩が若菜を見てそう呟いたが、僕にはなんのことかわからなかった。
「じゃあ、目は合わせずに話してみてよ」
「えっ!う~ん。わ、わかりました」
 僕の提案に、若菜が悩んだ後に頷いた。
 そして、若菜はぎこちなく弘樹の前に立った
「は、初め・・まして。み、三島・・若菜です」
 必死で自己紹介したが、前に僕と話した時と同じで、途切れながらの話し方になっていた。
「あ、うん。俺は、飯村弘樹」
 震えながら視線を合わせない若菜に、弘樹は困惑しながら自己紹介した。
「じゃあ、あとは二人で話しておいて」
 引き合わせには成功したので、あとは二人に委ねることにした。
「え、投げっぱなしですか!」
「そりゃあないだろう!」
 ここで二人からのつっこみが入った。
「いや、ここで僕が介入したら意味ないし」
 僕は、真っ当な意見を二人に言った。
「そ、それはそうですけど~」
「いきなり、二人で話すのは厳しいだろう」
 しかし、二人は渋った表情で抗議してきた。
「う~ん。じゃあ、前宮か島村先輩に入ってもらう?」
 自分が入るのも考えたが、面倒なので他力本願にした。
「それは、俺への新手の嫌がらせか」
 これには弘樹が、苦い顔をして口元を引き攣らせた。 
「ここは弘樹も女子に慣れるチャンスだよ」
 ここは力強く、そして演技っぱく振る舞ってみた。
「いや、面倒臭いから丸投げしてるだけだろ!」
 それを察したようで、弘樹が大声でつっこんできた。
「兄さん!酷いです!」
 そして、若菜からは非難の声が上がった。
「息がぴったりになったところで、会話にいってみよう」
 自分のキャラではなかったが、無理して二人を乗せることにした。
「それ、私への嫌がらせですか?」
「嫌な乗せ方だな」
 が、日頃のこともあり、嫌味にしか捉えてくれなかった。
「若菜、頑張ったらご褒美が貰えるよ」
 仕方ないので、褒賞を与えてみることにした。
「え!兄さんから何か貰えるんですか?」
 すると、若菜が過度な反応を示した。
「え?う~ん、いや、島村先輩からだよ」
 これには少し怖くなり、島村先輩に丸投げした。
「って、私!」
 突然の振りに、今度は島村先輩が驚きの声を上げた。
「ここは後輩に良いところを見せる時ですよ」
 僕は島村先輩を乗せる為、思いつきで言い訳してみた。
「いい加減なこと言ってんな」
 これには弘樹が、呆れた声でつっこんできた。
「兄さん・・自分で言ってそれはないですよ」
 若菜の方は、悲しそうにがっくりと肩を落とした。
「ごめん、軽率だったよ」
 これは分が悪いので、素直に謝っておいた。
「というか、島村先輩も若菜を助けてあげてくださいよ」
 もともと若菜を連れてきたのは、会長と島村先輩だったので、強引に引き込むことにした。
「え?急に言われても・・・」
 突然の振りに、島村先輩が困った顔を若菜に向けた。
「あ、そうだ!ここは僕がいなくなることで、若菜の男性恐怖症が少しは和らぐかもしれません」
 三人も女子がいれば、男性恐怖症も克服できると思い立った。
「おい!俺に全部押し付ける気か!」
「え、嬉しくないの?」
 弘樹は、女子と親しくなりそうな言動が多かったので、この反応は意外だった。
「いや、この状況は嬉しくない」
「あ、そうなんだ」
 言われてみれば、男性恐怖症の若菜に、毒舌の前宮、さらには面倒臭い島村先輩。よくよく見れば、僕の周りの女子は癖の強い人ばかりだった。
 このあと、1時間近く若菜と島村先輩が組んで、弘樹と話すリハビリをした。その間、僕と前宮に黙ってそれを見ていた。
「なんか通訳してるみたいだね」
 前宮が呆れたように溜息をついた。若菜は島村先輩を通してしか、弘樹と話せていなかった。
「じゃあ、もう僕は行きますね」
 状況的に改善の兆しが見られなかったが、休憩時間も20分を切っていたので、若菜のことは二人に任せることにした。
 僕は、脇に立て掛けてあった剣棒を取って、階段を下りた。
「あ、私も」
 その後ろから前宮もついてきた。
「ちょ、ちょっと待って。私たちも観戦するんだから置いてかないでよ」
 その後ろから島村先輩たちが、慌てて階段を下りてきた。

第三話 準々決勝

 僕は、四人を引き連れて運動場を出た。
 リングの周りには、ちらほらと人が集まり始めていた。そんな中、カメラを持った男性とマイクを持った女性が、体操着を着た僕を捉えて駆け寄ってきた。
「次は準々決勝ですが、心境をお聞かせてください」
 そして、淡い朱色のスーツ姿のアナウンサーらしき女性が、僕にマイクを向けてきた。
「鬱陶しいです」
「え?」
 僕の率直な答えに、女性が目を丸くして立ちすくんだ。
 その間に、報道の二人を素通りして、次の試合のリングへ向かった。
「くくっ、本当に篠沢君って面白いね」
 後ろの島村先輩が、口を押えて笑いを堪えていた。
「いや~、今のは良かったよ~」
 前宮の方は、清々しい表情で笑みを浮かべた。
「俺は、肝を冷やしたよ」
「私も飯村先輩と同じでした」
 弘樹と若菜の方は、気まずさを感じたようだ。
「ああいうのって、心境を聞く前に、雰囲気を読んで欲しいですよね」
「あ~、それは言えてるね」
 僕の意見に、前宮が笑顔で賛同した。その横で島村先輩が笑っていた。
 騒がしい観客の間を、鬱陶しい気持ちで掻き分けていくと、中に見たことのある少年が僕に声援を送ってきた。それに応えるように軽く手を振ると、前宮が意外そうな顔をした。
「篠沢って、そういうことするんだ?」
「この間、わざわざ僕を応援してると言いに来ましてね。物好きな人もいるものですね」
「・・・やっぱり篠沢だね」
 僕の言葉に、前宮がおかしそうに笑った。
 試合のリングに着くと、いろんな人か声を掛けてきた。ベスト8となると、嫌でも人気者になるようだった。
「う、うざい」
 一通りそれが終わると、僕は生気を吸い取られた気分になった。
「なんで私まで・・・」
 クラスメイトの女子が多かった為、傍にいた前宮までとばっちりを受けていた。
「終わったか?」
 僕の周りに人だかりができたところで、待機場所からいなくなっていた弘樹が戻ってきた。
「うん。もう負けたくなってきた」
 僕は、思いのたけを弘樹に伝えた。
「まあ、春希的にはマイナスでしかないからな」
「既にマイナスを二回も体験してしまったよ」
「そりゃあ、災難だ」
 弘樹は、僕を茶化すように含み笑いをした。
「それより、次の対戦相手って白浜君みたいなんだけど!」
 島村先輩が語彙を強めながら、対角線側の方を見た。
「あ、勝ち上がったんですね」
 白浜先輩が勝ち上がることは、特に意外でもなかった。
 試合を盛り上げるためか、叫び声に近いアナウンスと共に各選手が呼ばれていった。それは僕にとって嫌がらせにしか聞こえなかった。
 それが終わると、ようやく試合進行に移った。各リングで選手が次々とリングに上がった。僕もそれに倣って、名前を呼ばれてからリングに上がった。
 審判に中央に呼ばれ、白浜先輩と対峙すると、互いに笑みを漏らした。
「お互い運がないですね~」
「そうだね」
 僕らは笑い合いながら、本音を吐露した。白浜先輩を見ると、さっきの試合での負傷はあまり見られなかった。白浜先輩の対戦相手はレスリング部だったので、組まれる前に勝ったようだ。
 審判が禁則事項を説明して、試合開始の合図をした。
「どうします?」
「え、何が?」
「ここだけの話、八百長とかどうですか?」
「・・・」
 僕の提案に、白浜先輩が嫌な顔をした。
「ここは先輩が無傷で上がった方が、僕的には良いと思うんですけど」
「ダメだよ。そんなことしたら、君に負けた人たちに失礼だよ」
 白浜先輩は正当な理屈を言って、僕から距離を取った。
「全力で闘おう。そういう約束だよ」
「あれは先輩たちへの配慮だったんですけど」
 僕は敢えて構えず、再度交渉を持ちかけた。
「なら、八百長だなんてこんな場で言わないでくれ。僕だって勝ち上がるのは、あまり好きじゃないんだ」
「まあ、お互い不本意ですからね~。仕方ありません、負けた方が勝ちということにしましょう」
「それは面白い案だね。だったら、ルールは降参はなし・・ということにしよう」
「それは嫌なルールですね」
 そのルールになれば、永遠と勝敗がつきそうになかった。
「もう冗談はここまででいいよ」
「そうですね。観客うるさいですし」
 一向に始まらない試合に、観客からうるさいほどヤジが飛んでいた。
「では、不本意ながら全力でいきます」
 僕は一歩下がり、剣棒を中段に構えた。
「ああ、そうしてくれ」
 それに応えるように、白浜先輩も剣棒を構えた。
 ここから同格の突きと払いの攻防が始まった。
 十分後、リングの中央で、僕らは息を切らせながら対峙していた。周りでは観客が歓声を上げて、勝手に盛り上がっていた。
 そんな中、僕は相手を冷静に見て、攻撃を警戒していた。
「やっぱり強いね」
「それは先輩もでしょう」
 僕はそう言って、息を切らしている白浜先輩を見据えた。
「実力を隠していることは知ってたけど、ここまでとは思ってなかったよ」
「これは卒業する先輩への手向けですよ」
「その配慮は先輩として嬉しいよ」
 白浜先輩は嬉しそうに、持っていた剣棒に力を込めた。
「餞別と言うなら、ここでわざと負けるなんて野暮はやめてくれよ」
「先輩になら負けてもいいんですけど」
 正直、ここで負ける気でいたが、先に釘を刺されてしまった。やはり、最初のやり取りが本気だということはわかっていたようだ。
 闘い中で長話してると、観客からヤジが飛ぶので、攻撃に移ることにした。
 先輩に対して、急所狙いの連続で突きを放ったが、全部はじかれてしまった。
「軽いよ」
 白浜先輩がそう指摘しながら、一歩詰めて力強く突いてきた。
「先輩は、遅いですよ」
 それを軽くかわし、カウンター気味に高速の突きを返した。
「くっ」
 急所を狙ったつもりだったが、わずかにずらされてしまった。
「君は、陰湿に急所を狙ってくるね」
「僕の攻撃は軽いですから」 
 白浜先輩の皮肉に、笑みを浮かべながら軽口で応えた。
「自分の特性を生かした訳か」
「でなければ、勝てませんから」
 そうは言ったが、個人的には勝敗に興味はなかった。
「嬉しいよ。君が闘争心を持ってくれて」
 そう言って笑顔を浮かべたが、警戒を解くことはしなかった。
「闘争心?残念ですが、そんなもの僕にはありませんよ」
「勝敗を気にするのは、闘争心の顕れだよ」
 事情を知らない白浜先輩には、僕が勝ちに拘ってると思ったようだ。
「先輩に聞きたいんですけど、闘争心って必要ですか?」
「・・・疲れたの?」
 僕の投げかけに、白浜先輩が怪訝な顔をした。どうやら、会話の間に体力を回復させると思ったようだ。
「少しだけですが。応えたくないのであれば、攻撃してください」
 さすがにこれが戦略だとは言えないので、白浜先輩の意志に任せることにした。
「まあ、こっちも疲れてるし、答えてあげるよ」
 観客からヤジが飛んだが、それを無視するかのように応じてくれた。
「闘争心は、人を成長させると思っているよ」
「成長・・ですか」
 その答えは、僕には全く響かなかった。
「なら、今から闘争心のない僕の成長を見せてあげましょう」
 僕は7kgほど体重を軽くして、白浜先輩の死角に素早く移動した。
「なっ!」
 僕を見失ったことに、白浜先輩が驚愕の声を上げた。
 その隙に一気に間合いを詰めて、高速の突きを白浜先輩の動きを予測しながら放った。
 その突きが深々とみぞおちに入り、白浜先輩が苦悶な声を上げた。反撃される前に、剣棒を少し引いてそのまま上に振り上げた。
 しかし、それは予測していたようで、白浜先輩が慌てて後ろに下がった。
 追撃しようとしたが、領域を作り直されてしまっていた。
「僕の持論は、闘争心なんて意味を成しません」
「どういう意味?」
 白浜先輩はお腹をさすりながら、不思議そうな顔をした。
「人は、どんなに鍛えても人の上にしか立てない。そう思うと、闘争心なんて意味を成さないと思いませんか?」
 僕は、剣棒に視線を移してから白浜先輩を見た。
「僕は、そうは思わないかな」
「人と競っても、素手で獣に勝つことなんてできません」
「そんなの道具を使えばいい」
「だからこそ闘争心なんて必要ではないんですよ。生存本能で強くなれるのなら、人と競って強くなるなんて、井の中の蛙ですよ」
「君は、とことん捻くれてるね」
 僕の主張に、白浜先輩がおかしそうに笑った。
「それに闘争心なんて、誰かを蹴落とすことしかできません」
「その解釈は間違ってないね」
「そうすることでしか強くなれないのなら、僕は力なんて求めません」
「何かを達観してる物言いだね。君は、闘争心をどこかで置いてきたのかな?」
 話しているうち、僕の考え方が気になったようだ。
「圧倒的な力の前には、人は屈してしまいます。そこに闘争心なんて芽生えません」
 僕は空笑いして、身内の顔を思い浮かべた。いろいろと建前を並べたが、本音はこの一言に集約されていた。
「やっぱり、君は変わってる」
 白浜先輩はそう言って、笑顔を見せた。
 僕と白浜先輩は、そのあとも全力で闘ったが、お互い決定打がなく体力だけが削られていった。
「はぁー、はぁー」
「ぜぇー、ぜぇー」
 僕らが過呼吸に陥っている中、観客は勝手に盛り上がっていた。
「やっぱり、手の内を知ってる相手だと、中々決着つかないね」
 白浜先輩が息を整えながら、片手で汗を拭った。
「はぁー、そうですね。もう基本通りの型はやめにしませんか?」
「奇遇だね。僕もそう思い始めたところだよ」
 これに白浜先輩も笑顔で乗ってきた。
 僕が剣棒を片手に持ち替えると、白浜先輩の方は剣棒を斜構えをした。
 息を整えてから、白浜先輩に攻撃を仕向けた。僕の仕掛けに白浜先輩が少し悩んだようで、動くのが一瞬遅れた。これは好機ではあったが、狙ったわけではなかったので、苦渋の決断で当初の攻撃に移った。
 片手で突きを繰り出すと、白浜先輩がそれをかわしながら、カウンター気味の突きを返してきた。ここからは笠松先輩の闘い方を応用して、剣棒を半月を描くように足払いをした。
「なっ!」
 これには驚いたようだが、避ける態勢ではなかった。足払いが決まり、白浜先輩がその場で倒れた。
 そこに追撃を加える為、剣棒を振り上げて、全体重を乗せて振り下ろした。
「くっ!」
 しかし、それは剣棒を盾されて、防がれてしまった。打撃よりは寝技で決めた方が早かったが、白浜先輩を警戒してそれはできなかった。
 さらなる追撃は諦めて、白浜先輩から離れた。
「・・・手ぇ、抜いてる?」
 ゆったりと立ち上がった白浜先輩が息を切らしながら、僕にそう聞いてきた。
「まさか、それはありません」
 僕は息を整えながら、その質問に答えた。
「じゃあ、なんで攻撃をやめたの?」
「ここから勝負のつくイメージが湧かなかっただけですよ」
「・・・篠沢は、嘘が下手だね」
 僕の言い分が納得できなかったようで、少し嫌な顔をした。
「篠沢って、いつも何か隠してるよね」
「えっ?」
 この言葉には、無意識的に驚き声を上げた。
「僕から言わせると、もう他人に合わす必要ないと思うんだけど・・篠沢は何かに捉われてる感じがするよ」
「白浜先輩は慧眼ですね」
 話の流れからそう結論付けるのは不思議だったが、白浜先輩の抽象的な指摘は的を射ていた。
「でも、残念ながら、これが僕の本気です。そこに間違いはありません」
「そう・・か。篠沢の全力が見れなくて残念だよ」
 白浜先輩が肩を落として、含み笑いでそう呟いた。その言葉には救われた気がして、僕の中での制約をほんの僅かだけ緩めることにした。
「やっぱり、先輩には敵いませんね」
 僕はそう呟いて、体重調整と脳内で微量の麻薬を生成した。
 そこからは圧倒的な速度で、白浜先輩を攻め続けた。
「ぐっ!」
 数分後、白浜先輩のみぞおちに深々と剣棒が突き刺さり、苦悶の顔をした。刺さった剣棒を手放して、白浜先輩との距離を一気に詰めた。
 そして、肘までの筋肉を硬化させ、速さを重視で 拳を振り上げた。白浜先輩の顎を捉えたはずだったが、ギリギリのタイミングで片手で防御されてしまった。やはり、白浜先輩の反応の速さ異常だった。
「いった!」
 しかし、ダメージは少なからずあったようで、顎を押さえながら足元をふらつかせていた。
 もうこの機会を逃す手はないので、その場にしゃがみ込み、足を取って白浜先輩を転ばせた。そこからは足を決めに掛かると、思いのほかあっさりと組めてしまった。
「いたたた~!」
 軽く組んだだけで、白浜先輩が苦悶の叫びを上げた。
「勝負あり!」
 すると、審判が大声で決着したことを告げた。僕はその言葉を聞いて、微量の麻薬の生成をやめた。
「はぁ~、疲れた」
 僕が白浜先輩の足を解くと、白浜先輩が立ち上がりながら、軽い感じでそう呟いた。
「先輩・・・もしかして、乗せました?」
 それを見て、僕は白浜先輩への猜疑心が芽生えてしまった。
「え、そんなことないよ」
 白浜先輩の棒読みは、この上なく白々しかった。
「嘘・・下手ですね」
「まあ、嘘は好きじゃないからね」
「誰に頼まれました?」
「さあ~?誰だろうね。それは篠沢が良く知ってるんじゃないかな」
 そういう根回しする人は一人しか思い当たらなかった。
「なんで引き受けたんですか?」
「部の存続の為かな」
「僕を宣伝に使うってことですか」
「卒業する僕より、今後も在籍する篠沢が勝つ方が引き寄せれるだろう」
「あ、そうですか」
 白浜先輩が部に愛着があることは予想外だった。
「ほとんど部に顔を出さないのに、変に固執をしますね、顧問も」
「そうだね。先生にとっては自由にサボれるから、部を存続させたいみたいだったけど」
「早計ですね~、人が増えれば、それだけ責任も増えるってことをわかっていませんね」
「ははっ、それは言えてる」
 白浜先輩は笑いながら、それに同意した。
「やっぱり白浜先輩には勝てませんね」
「もしかして、勝ったら負けのこと言ってるの?」
「ええ、完敗です」
 僕は少し肩の力を抜いて、白浜先輩に降参の笑みを見せた。
「まあ、これも先輩としての最後の努めだよ」
 白浜先輩もそう言って、僕につられるように笑みをこぼした。
 僕と白浜先輩はお互いに礼をして、リングを下りた。
 すると、観客が勝利を祝するように歓声を上げてきた。あまりの騒音に、僕を思わず耳を塞いだ。周囲の好奇の視線が不快で、この場から離れたかったが、観客のせいで進路が狭まっていた。
「もう行きましょうか」
 ちょうど前にいた島村先輩を促して、先に道をつくってもらうことにした。
「え?う、うん」
 これには島村先輩が動揺しながら、僕の先を歩いた。有り難いことに僕の横に弘樹と前宮がついた。その後ろから若菜が委縮しながらついてきた。おかげで取材陣も観客も僕に言葉を掛けるだけで、接触することはなかった。
「どこ行くの?」
 僕が部室に寄ろうとすると、島村先輩が不思議そうに呼び止めてきた。
「もうお昼ですから、部室に弁当を取りに行くんですよ。あと、剣棒を置きに」
「え?今日も作ってきたの?」
「ええ、模擬店で買うのは面倒ですから」
 ここはいつものように適当な理由を付けておいた。
「作る方が面倒でしょう」
「日課になっていることを面倒とは思ったことないですね」
「疲れない?」
「は?」
 この言葉には驚き、島村先輩の方を見た。
「え!そこまで驚く?」
 僕の反応が意外だったのか、島村先輩も驚いた顔をした。
「え、いえ、当然のことを言われて驚いただけですよ」
 これは失態だと感じて、どもりながらそれらしいことを言っておいた。
「・・・そう言われれば、当たり前だね」
 考えなしの言葉だったようで、少し間を置いて納得した。
「じゃあ、俺は適当にぶらついて食べるよ」
 弘樹は模擬店で昼食を取るようで、いち早く校舎の方に歩いていった。
「う~ん。私たちはどうする?」
 弘樹を見送って、島村先輩が僕以外の意見を聞いた。
「私はお弁当持ってきたから、篠沢と一緒に食べる」
「あ、望もお弁当持ってきたんだ」
 島村先輩はそう言って、前宮が持っている弁当袋を見た。
「模擬店はすぐ売り切れるし、昼食時はすぐ込むから行きたくないですね」
「確かに、昨日もかなえがいなかったら、買えてなかったわね」
 昨日は買い物だけで、時間が掛かると思って先に食べ始めていたが、それほど時間を掛からなかったのは、会長のおかげだったようだ。
「それはわかりますね~」
 若菜もそれには大いに同意した。
「じゃあ、僕は行きますので」
 このまま話すと長くなりそうなので、率先して部室へ向かった。
「あ、私も行く」
 すると、前宮が駆け足で僕の隣に並んだ。
「どうする?」
「今から買いに行くにしても、もう込んでますから、私はお昼は諦めるつもりです」
 島村先輩と若菜が話し合いながら、僕の後ろからについてきた。
「たまには、それもいいか」
 島村先輩も買いに行くのを面倒に思ったようで、今日の食事は諦めの言葉を口にした。
 部室で剣棒を置いて、弁当箱が入ってる鞄を持って外に出ると、三人が話ながら僕を待っていた。
 僕は複雑の気分で、いつもの場所に向かった。
「おめでとう」
 2年の校舎に入ると、島村先輩が僕を祝してきた。
「あ、どうも」
 それに僕は、簡易的に答えた。
「あれ?なんか機嫌悪そうね」
 僕の声から、不機嫌さを察したようだった。
「踊らされてましたからね」
「え?どういう事?」
「なんでもありません」
 別に、島村先輩が知ることでもないので、言うのはやめておいた。
「それにしても凄いですね。あと二試合で優勝ですよ」
「そうだね。まさかここまで勝ち上がるなんて思ってなかったよ」
 階段を上っていると、後ろから若菜と前宮の声が聞こえてきた。
「他の試合とかどうなったか、わかります?」
 あまり僕の話は聞きたくなかったので、別に気にはならない試合結果を聞いてみた。
「ん?さあ~、他の試合見てないから」
「あ、そうですか」
 争奪戦は日程を詰めに詰めているので、2日で終わらすためには、どうしても時間をずらしての試合ができなかった。
「篠沢君って、ここまであまり手傷を負ってないね」
「たまたまですよ」
 実際、結構な負傷はしていたが、痛覚がない為そう見えないだけだった。
「全く、こんな短期決戦の闘いに意味なんてあるんですかね」
 生死をかけるならわからないでもないが、たかだか競い合いでそうする意味がわからなかった。
「これはあくまで行事の範疇だから、大規模にしたくても2日が限界なのよ」
「まあ、普通は体育祭なんて1日が当たり前ですからね~」
 島村先輩の憶測に、前宮がそう補足した。
「こんなの実力勝負じゃないですよね」
 僕は溜息交じりで、愚痴をこぼした。
「まあね~、組み合わせ次第じゃあ、疲労と怪我で負ける人が多いみたいだし」
 これには前宮の方が、率先して答えた。
「いい加減、ルールを抜本的に変えて欲しいですね」
「それは同感」
 僕の意見に、今度は島村先輩が嬉しそうに笑った。
 屋上に続く踊り場に着くと、各自椅子を下ろして座った。

第四話 軽率

「いいな~」
 僕と前宮が弁当を食べていると、島村先輩が物欲しそうな顔で見つめてきた。
「あげませんよ」
 掠め取られた経験があるので、前もって釘を刺しておいた。
「ケチ」
 これには島村先輩が、拗ねた顔でそっぽを向いた。
「美雪先輩は、食欲だけは節操がないですね」
「だって、空腹はつらいじゃん」
「なら、買いに行けばいいじゃないですか」
「正論言わないでよ」
 これには島村先輩が、困った顔で視線を逸らした。
「あ、そうだ。お菓子食べます?」
 若菜が思いついたように、踊り場に置いてあった鞄を漁った。
「え、何かあるの?」
「あ、はい。昨日みたいになると思って、用意しておきました」
「ありがとう」
 若菜の気遣いに、島村先輩が手を合わせて喜んだ。
 若菜が鞄から三つのお菓子を机に広げた。
「・・・偏り過ぎだね」
 それを見た前宮が、ぽつりと呆れ声を出した。全部スナック菓子だったが、味が違うだけで商品名は一緒だった。
「若菜ちゃんって、これ好きなの?」
 島村先輩は少し戸惑いながら、若菜の方を流し見た。
「はい、この一択以外ありえないぐらい大好きです」
「そ、そう」
「も、もしかして、嫌いでしたか?」
「お、おいしいけど、私個人としては同じ物は買わないかな」
「え?味が違うじゃないですか!」
 島村先輩の指摘に、若菜が語彙を強めて言い切った。その反応を見る限り、よほど好きなようだ。
「あ、でも、飲み物忘れました」
「それなら、自販機で買ってこっか」
「そうですね」
 島村先輩と若菜は立ち上がって、僕らに一言掛けてから階段を下りていった。
 しばらく、僕と前宮は黙って食事を続けた。その間、前宮が恥ずかしそうに体をもじもじさせていた。
「自販機も売り切れ多かったね~」
 階段からそんな声が聞こえると、島村先輩たちが飲み物を持って上がってきた。
 島村先輩たちは椅子に座り、お菓子を広げ始めた。
「えっと、篠沢先輩もどうですか?」
「いや、遠慮しておくよ」
 若菜の気遣いに、僕は控えめに断った。お菓子は塩分が多くて、あまり摂取したくなかった。
「まあ、お弁当とは合いませんもんね」
 理由は違っていたが、その解釈は有り難かった。
 食事を終え、島村先輩が楽しそうに話し、それに若菜が相槌を打ちながら、前宮が横やりを入れる会話が一時間近く続いた。僕はそれを見ながら、今日までのことを思い返していた。
「どこでこうなったんだろう」
「ど、どうしたの、突然?」
 僕の独白に、島村先輩が間髪入れず反応をした。若菜と前宮も話を切って、僕の方を見た。
「あ、いえ、なんでもないです」
 僕は、軽く流すように取り繕った。
 1年目は駄口のおかげで言葉の習得が円滑になり、その影響で周りも敬遠してくれた。2年目になって、弘樹といることで目立つことを避けて、ここまではうまくいっていたはずなのに、ここ1ヶ月で劇的に望んでいないことが連続していた。
「あ、そうそう。僕、次の試合終わったら消えるので捜さないでくださいね」
 なんか腹が立ってきたので、ノリで暴露してしまった。
 すると、三人が驚いた表情で絶句した。
「ど、どういうこと!」
 この状態から、いち早く声を上げたのは前宮だった。
「え~っと、家庭の事情で引っ越します」
 ノリで言ってしまったので、答えがどもってしまった。
「え、い、いつ決まったの?」
 前宮が食い気味で僕に迫ってきた。
「き、昨日です」
「な、なんで言ってくれないの!」
 前宮はそう叫んで、泣きそうな顔を近づけてきた。
「い、言いにくかったので・・・」
 これには視線を逸らして、少し体も後ろに逸らした。
「うぐっ!」
 すると、前宮が一気に涙を溜めた。
「あ~、泣かないでください」
 さすがに泣かれるのは、こっちとしては困るだけだった。やはりノリとはいえ、ここで言うのは失態だったと痛感した。
「まあ、別れなんていつでもありますし、たかだか1ヶ月の付き合いじゃないですか」
「ううう~」
 慰めたつもりだったが、さらに悪化させてしまった
「っていうか、なんか急すぎない?」
 そんな中、島村先輩が不思議そうに疑問を口にした。
「そう・・ですね。引っ越すにしても、昨日今日っておかしいですね」
 落ち込んだ表情の若菜が、それに同調するように話を膨らませてきた。
「え~、あまり深く掘り下げられるのは困るのでやめてください」
 クラを離れる判断は僕個人がしているので、あまり追及して欲しくなかった。
「まあ、そういう訳なので、いなくなっても捜さないでくださいね」
「それって、学校側には伝えてないってこと?」
「ええ」
「急な転勤なの?」
「え、ええ、まあ」
 僕は後ろめたさから、島村先輩の顔を見ずに応えた。
「それは寂しくなるね」
 島村先輩が悲しそうに声のトーンを落とした。
「まあ、いずれは別れますし、遅いか早いかだけですよ」
 とりあえず、気休めなことを言ってみたが、前宮の方はすすり泣いている状態だった。
「あ~、前宮。別れる時は笑顔でお願いします」
「む、無理」
 前宮は泣きながら、首を左右に振った。
「はぁ~、しょうがないですね~」
 これは僕のせいでもあるので、最後ぐらいは前宮を慰める為、優しく抱きしめてあげた。もう前宮は侵蝕されているうえ、若菜と会長との頻繁な接触のおかげで、嫌悪感はほんの少しだけだが緩和していた。
「あっ」
 その抱擁に、前宮が甘い声を上げた。
「え!何してんの?」
 しかし、島村先輩の方は驚いて声を上げた。
「前宮はこうすると、気持ちが和らぐみたいなので」
「は?いや、え、何言ってるの?」
 僕の説明に、島村先輩の言動に混乱が見られた。
「いいから、今は前宮を泣き止ますことをしてますので、黙っててもらえますか」
 僕がそう言うと、前宮が僕の背中に手を回してきた。
「兄さん。次、私もお願いします」
 何を思ったか、若菜が羨望の眼差しで抱擁を要求してきた。
「え、嫌」
「え!なんでですか」
「僕は友達にしか、優しくしないから」
 本音を言えば、若菜はまだ侵蝕されていないので、接触するのは控えたいだけだった。
「その言い方は酷いです」
 しかし、この言葉が堪えたのか、さらに表情を沈み込ませた。
「もう落ち着きましたか?」
 気分的に耐えられなくなったので、前宮本人に聞いてみた。
「まだ落ち着かない」
 前宮は顔を上げず、恥ずかしそうな声で言った。
「なんか恋人同士みたいだね」
 それを見ていた島村先輩が、複雑そうな顔でこちらを見ていた。
「いいな~」
 若菜の方は、羨ましそうに呟いていた。
「もう、いいですね」
 その二人の視線に居心地が悪くなり、前宮から離れようとした。
「えっと、前宮?」
 が、前宮の方が放してくれなかった。 それどころか、力を強めて離れようとしなかった。
「放してくれませんか?」
「ヤダ!」
 僕の言葉に、前宮が力強く拒否してきた。その声は、不思議と会長を彷彿とさせた。
「あ~っと、二人からも何とか言ってくれません?」
 前宮に頼んでも放してくれそうにないので、傍観している二人に頼んでみた。
「無理」
 これに島村先輩が、笑顔で片手を振った。
「私にもしてくれるなら、手伝います」
 若菜は、ここぞとばかりに条件付けてきた。とても男性恐怖症とは思えない発言だった。
「前宮、もういいでしょう」
 二人への助勢は諦め、前宮を説得することにした。
「ヤダ」
 今度は声を震わしながら、再び拒否してきた。
「しょうがないですね」
 もうこれ以上の接触は耐えられないので、強引に引き剥がすことにした。
「あっ」
 すると、前宮が残念そうな声を上げた。
「そういう訳なので、他の人には黙っててくださいね」
 この三人は極端に友達がいないので、大丈夫だとは思ったが念の為に口止めしておいた。
「かなえには言ってるの?」
 島村先輩は、あまりに納得できない顔で聞いてきた。
「ええ。昨日、優勝できないとだけ伝えました」
「え!姉さんに伝えてるの?」
 この事実に、前宮が過剰な反応を示した。
「いえ、次の試合でいなくなることは言ってません」
「あ、そうなんだ」
 これを聞いて、前宮の感情が沈下した。
「そういえば、若菜。模擬店に行かなくていいの?」
 僕は話を逸らす為、模擬店の話を持ち出した。
「・・・サボります」
 若菜は、少し間を置いて笑顔でそう言い切ってきた。
「あ、そう」
 この話題で時間を稼げると思ったが、予想に反して若菜の一言で終了してしまった。
「で、どうする?」
 突然、島村先輩が前宮と若菜にそう聞いてきた。
「ど、どうするって?」
 これには若菜が、不思議そうな顔をした。
「あんまり時間ないけど、送別会とかした方がいいのかな」
「必要ないです」
 この配慮は一言で拒否した。
「ん~、だよね。そういうの嫌いそうだもんね」
「そういうのいいですから、普通にいきましょう普通に」
 ここで気を使われるのは嫌なので、気さくにそう促した。
「なんかそれ似合わない」
 島村先輩には、こういう僕の気遣いは笑いのツボだったようだ。
「失礼ですね~」
 これにより少し雰囲気がいつもの感じに戻った。島村先輩と絡むと、雰囲気が和らぐので、申し訳ないが踊ってもらうことにした。
「今日も島村先輩は、美人?ですね~」
「・・・」
 この冗談には、全員が険しい顔になった。
「あれ?ここはつっこむところですよ」
「そ、それはそれで失礼ですよ」
 すると、若菜が島村先輩を気にしながら、たどたどしく言ってきた。
「馬鹿にしてるんだ、私を馬鹿にしてるんだ・・・」
 言葉の真意が確定したところで、がっくりと項垂れた。
「しんみりした別れより、こっちがまだマシなので、乗ってきてください」
「ヤダよ!なんで私が、からかわれないといけないのよ」
「息苦しいよりマシでしょう」
「だったら、篠沢君が面白い話すればいいでしょう」
「だから、島村先輩をいじるんじゃないですか」
「って、私はピエロか!」
「上手い!」
このつっこみには感心して、声が大きくなった。
「・・・」
 これに島村先輩の表情が、徐々に冷めていった。
「嬉しくない」
 そして、悲しそうに小声で呟いた。
「ここは胸を張って、自慢していいですよ」
「い、嫌だ」
 どうやら、つっこみの才能は嬉しくないようだ。
「自分の取り柄は、生かした方が楽しいですよ」
「これが取り柄だったら、私はストレス死すること間違いないわ」
「そういうネガティブな部分は自信満々に言うんですね」
「私は、常にネガティブなのよ」
 自分で自覚しているあたり、改善の余地はある気がするが、本人が直す気はないようだった。
「前宮は、今日も美人?ですね~」
 あまり島村先輩ばかりをいじるのも悪い気がしてきたので、前宮に同じボケをしてみることにした。
「え!」
 この振りに、前宮が驚きの声を上げた。
「あ、ありがとう」
 同じボケなのに、前宮は察してくれず、顔を真っ赤にしながらお礼を言った。
「前宮には、つっこみの才能はないですね」
 僕は、がっかりして本音を呟いた。島村先輩は、それを複雑そうな顔で見ていた。
「若菜は、髪切ってから可愛く?なりましたね」
 仕方がないので、今度は若菜に同じボケをしてみた。
「兄さんは、格好良いですね」
「・・・」
 僕の疑問符の賛辞に、若菜が笑顔で賛辞で返してきた。しかも、呼び名をそのままで。
「やっぱり、島村先輩はいじられる才能がありますよ」
「って、さっきと言ってることが違うんだけど!」
「あれ?そうでしたっけ?」
「さっきはつっこみの才能だったよ!」
「・・・一緒でしょ♪」
 僕は少し考えるそぶりをして、笑顔でからかってみた。
「全然違うよ!」
 これには予想通り、語彙を強めてつっこんできた。
「そもそも、私をいじってるのって、篠沢君だけだよ」
「みんな、島村先輩の才能を知らないだけですよ」
「だから、それを才能とか言わないでよ!」
「そんなに嫌なんですか」
「うん。疲れるから嫌」
「あ、それはわかります」
 いじってる側の自分も、それは身を持って体感していた。
「それ考えると、よく僕にめげずに話しかけてますね。僕なら、嫌すぎて武活自体辞めますけど」
「それは私も不思議に思ってる」
 自分でも理解できないようで、自然と首を傾けた。
「兄さんは引き際がうまいですし、ちゃんとフォローもしてくれますから、避けたいほど嫌いになれないんじゃないですか?」
「あ、それは言えてるかも」
 若菜の言葉に、島村先輩が納得したように何度か首を縦に振った。
 その後は前宮も参戦して、昨日と同じように僕に対しての話に突入した。これは昨日と同様居心地が悪かったが、前宮が落ち込む姿を見るよりは幾分かはマシに思えた。

第五話 準決勝

 試合まで20分を切ったので、運動場に四人で向かうことにした。
「結局、最後まで全員いましたね」
「まあ、送別会も兼ねてるからいいんじゃない?」
 僕の懸念に対して、島村先輩が軽くそう言ってきた。
「それは三人しか知りませんよ」
「う~ん。確かに、そうだね」
 相変わらず、考えなしの発言だった。
「でも、こうやって話せてよかったよ」
 島村先輩はそう言って、少し寂しそうな笑顔を見せた。
「そうですね」
 前宮も同調するように、悲しそうな声を出した。
「兄さん、ホントにいなくなっちゃんですか?」
 若菜は寂しそうな眼差しで、僕の方を流しみた。
「うん。残念ながら」
「なんか、寂しそうじゃないですね」
「え?そうかな」
 僕なりに寂しそうな顔をつくったはずだったが、寂しい気持ちがいまいちわからない僕には、その表情がうまくできなかったようだ。
「それより、次の試合は適当に負けますので、会長には事情を話しておいてください」
 この流れは断ち切りたかったので、話を切り替えることにした。
「え、うん。わかった」
 島村先輩は戸惑いながらも承諾した。
 運動場に出ると、リングが中央に二つだけしかなかった。
「あれ?凄い減ってる」 
 若菜が運動場を見て、独り言のように呟いた。これは勝ち上がった選手以外の男子生徒が昼休みで片付けていた。ちなみに、体育館のリングは最後に片付ける予定になっていた。
「足が重いですね」
 そのリングの周りには、段差が付いている観客席が用意されていて、その後ろにマスコミのカメラが四方に設置されていた。
「確かに、あれは嫌だね」
 島村先輩も苦笑いして、リングの方を見た。リングの外の角の方に選手の待機場所が用意されていたが、明らかに見世物状態だった。
 とりあえず部室に寄って鞄を置き、剣棒を取った。
 部室から出ると、全員が僕を待っていた。それが僕には異様に見えた。
 僕は三人を引き連れながら、待機場所に向かった。リングに近づくと、既に前列に座っている観客がこちらを注目した。
「お、よろしくな、篠沢」
 その途中に、対戦相手の待機場所から竹刀を持った3年の先輩がこちらに歩み寄ってきた。
「あ、どうも」
 名前は忘れたが、白浜先輩といた時に話しかけてきた先輩だった。
「白浜との試合見てたぞ」
「そうですか」
 僕と白浜先輩の試合は時間が掛かっていたので、観戦していてもおかしくなかった。
「最後、わざと組まれたみたいだったな」
 この人も、あの寝技の組まれ方を見てそう思ったようだ。
「最後の最後で手を抜かれるのは、騙された気分でした」
「確かに、急に手を抜かれるのは気分が悪いな」
 経験があるのか、嫌な顔でリングを見つめた。
「篠沢は、そんな負け方しないよな」
「え、あ、はあ、努力します」
 わかりましたとは言えず、努力に留めておいた。
「じゃあ、また後でな」
「ええ」
 挨拶も済ませたので、対角線上の待機場所に歩いていった。
「お、来たか」
 そこには弘樹が、一人で待っていた。
「あれ?あっちに先輩いたけど、そっちには行かないの?」
 相手の待機場所を見たときは、何人かの後輩らしき取り巻きがいた気がする。(かなり自身はない) 
「もう挨拶してる」
「あ、そうなんだ」
 あまり興味もないので、言葉が棒読みになってしまった。
「興味ないのに聞くなよ」
 さすがにこれにはつっこまれてしまった。
「いや、周りの視線をできるだけ、意識したくなくてね」
「あ~、それは確かに」
 弘樹は少し周りを見て、こちらに注目されてる現状を知った。
「そういえば、興味はないけど例の五強はどうなったの?」
 今度はちゃんと興味がないと付け足して、弘樹に話を振った。
「・・・二人残ってる」
 これはつっこむところか悩んだようだが、それをせずに答えてくれた。
「そう、凄いね」
「それ言ったら、春希も凄いだろう」
「僕は、たまたま運が良かっただけだよ」
「相変わらず、謙遜するな~」
「事実を言ってるだけだよ」
「まあ、そういうことにしておくか」
 弘樹は空気を読んで、ここは流してくれた。
「弘樹は、良い人だね」
「なんだそりゃ」
 僕の最後の言葉に、弘樹がおどけるように笑みを浮かべた。
「いろいろ助かったよ」
 一応、今までのことを含めて、お礼を言うことにした。
「ど、どうしたんだ?なんか別れを言われてるみたいで気持ち悪いんだが」
 さすがにこの言葉は、察するのも容易だったようだ。
「そう捉えても構わないよ。どうせ、この試合で終わるし」
 さっき先輩と約束していたが、この闘いはさっさと負けてここを去ることにしていた。
「負けるのか?」
「負ける可能性は高いね」
 負けるとはこの場では言えないので、答えを濁しておいた。
「まあ、勝つのは難しいかもしれないけど、やれるところまでやったらいいさ」
「そうだね」
 勝つ必要のない闘いは、今の僕にとっては少し気が楽だった。
「じゃあ、どう負けるかお手並み拝見といこうかな」
 弘樹は、茶化すように嘲笑した。
「ここまで来たら期待に応えるよ」
 時間になり、アナウンスで各選手が呼ばれた。しかも、迷惑なことに武活紹介と勝手なイメージを付け足されてしまっていた。それに周りは勝手に盛り上がって歓声を上げていた。 
「ちっ、うるさいな」
 僕はそう愚痴って、片耳を塞ぎながらリングに上がった。
 先輩と対峙すると、さっきの気さくさはなく、少し嫌な雰囲気をかもし出していた。
 審判が同じようにルールを説明して試合開始の合図をすると、先輩がゆっくりと竹刀を正面に構えた。
「まずは、軽く観客を盛り上げようぜ」
「それ、どういう意味ですか?」
 僕は剣棒を中段に構えて、言葉の意味を聞いた。
「演武をしよう」
「物好きですね~」
「ここまで勝ち上がったんだ。観客には喜んでもらわないとな」
「よくわかりません」
 先輩の言い分は、僕には全く理解できないものだった。
「とにかく、軽く打ち合えばいいんだよ」
 先輩が笑みをこぼして、竹刀を振るってきた。その不意な攻撃に、僕は反射的に剣棒で防いだ。
「うん。良い感じだ」
 軽く打ち込んできたようだが、速さも重さも異常だった。
 そこからは力強く速い連撃だった。その連撃に、僕はささやかな抵抗しながら防いでいった。
 数分間、周りの歓声を煩わしく思いながら、先輩の軽めの攻撃を耐え切った。結果として、肩と腕に何ヶ所かもらってしまった。
「うん。良い動きだ」
 先輩は嬉しそうに、再び構え直した。
「観客も盛り上がってくれたみたいだし、そろそろ本気でやろうか」
「そう・・ですね」
 僕は精一杯だったが、相手に合わせてそう答えた。今の攻撃で力量はだいたい把握したので、このまま押し切られて負けることにした。
 そう考えて、敢えて斜構えに移行した。
「一発で沈んでくれるなよ」
 先輩は真剣な表情で、僕を威嚇するように低い声でそう言った。
 その瞬間、自分の意識は飛んでしまった。
 気づくと、僕は剣棒は持っていなくて、正面で先輩がうつ伏せに倒れていた。周りは、観客は驚きの表情をしていた。
 自分の両手を確認すると、右手の指先に血が付いていた。この状況を僕なりに整理すると、先輩の殺気に本能的に麻薬を生成して、貫手でどこかを貫いたような感じだった。これはやってしまったと思ったが、いまさらどうしようもなかった。
 しばらくしても誰も反応しないので、審判の方に視線を向けた。
「しょ、勝負あり!」
 僕の視線に気づいた審判が、動揺しながら決着を告げた。
「すぐに担架を!」
 そして、リングの外の医療担当の教師に指示を出した。
 僕は、念の為相手の息があるかを盗み見た。先輩の表情は苦悶の表情をしていたので、生きてることは間違いなさそうだった。
「い、一瞬だったな」
 リングを下りると、弘樹が引き攣った表情でそう言ってきた。
「そうだね」
 僕自身、この結果は不本意極まりないことだったので、自然と顔が歪んでしまった。
「僕は、部室に行くね」
 観客が呆気に取れている内に、さっさと学校を出ることにした。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 すると、後ろから前宮が追いかけてきた。
 僕は部室に寄って、鞄を回収した。剣棒は置いていこうと思ったが、今後のことを考えて貰っていくことにした。
 部室を出ると、三人の他になぜか弘樹も待っていた。
「春希、引っ越すのか?」
 どうやら、三人の誰かが弘樹にばらしたようだ。
「はぁ~、なんで言うんですか~」
 僕は呆れて、溜息をついた。
「あ、かなえにも伝えといたから。多分、もうじき来ると思うよ」
「余計なことはやめてくれませんか」
「最後なんだから、余計ではないと思うけど。お別れぐらい言っておいてもいいでしょう」
 それが余計だと思ったが、もう呼んであるようなので言わないことにした。
「でも、勝ち上がってるのに、帰ったら問題になるんじゃないか?」
「そうだね。負けるつもりだったのに、勝ったのは予定外だったよ」
 弘樹の指摘に、僕は残念そうに溜息をついた。
「負ける予定だったのか!」
「うん」
 弘樹の驚きをよそに、淡泊に肯定した。
「じゃあ、もう行きますね」
 僕は集まっている全員を見て、別れの挨拶をした。予定とは違ってしまったが、ばらしたのは自分なので、自分の短絡さを恨むしかなかった。
 僕が歩き出すと、全員がついてきた。どうやら、校門前までついてくる感じだった。全員を引き連れるのは目立つので、狭いひと気のない路地を通ることにした。
「本当にもう会えないの?」
 その途中、後ろの前宮が切なそうな声で聞いてきた。
「人の縁も馬鹿にできませんし、会える可能性はゼロではありませんね」
 気休めではあったが、ゼロではないことは間違いではなかった。
「そういえば、連絡先教えてよ」
 突然、島村先輩が思いついたように余計なことを言い出した。
「無理です」
「え!なんでよ」
 僕の拒絶に、驚いた反応をされた。
「住所知りませんし、電波も多分届かないところですから」
 電波は自分たちで発することができるが、クラからナルには届くことはないと思った。
「え、インフラが整ってない所なの?」
「ええ、全く」
「不憫な所に引っ越すんだね」
「まあ、そうですね」
 不憫といえば不憫だが、僕としてはクラよりは幾分かマシだった。
「篠沢君一人、残れないの?」
「え?」
 この島村先輩の言葉は、僕には想定されていないものだった。
「ほら、親だけそこに転勤するとか」
「あ~、それはないですね~」
 母親と離れることは間違っていなかったが、ここに残るという思いはあまりなかった。
「そう」
 僕の答えに、島村先輩が悲しそうに俯いた。
 なんとか会話を凌ぎ切り、露店の先に校門が見えてきた。
「あ~、目立ちますね」
 その校門の前に、会長が仁王立ちで立っていた。
「恥ずかしい」
 妹の前宮は、困った顔でボソッと呟いた。
「どういうことかしら?」
 会長は、僕を睨んで問い質してきた。
「急なことでごめん」
 とりあえず、僕自身の事情なので謝っておいた。
「本気で出ていくのね」
 僕の目を見て、険しい顔でそう言った。
「うん」
「なら、なんで勝ち上がったの?」
「体が勝手に動いたんだよ」
 これは防衛本能で動いていた為、僕自身あまり勝ち上がった気はしていなかった。
「あんな闘い方、私は教えてない。あれは野生の戦い方・・いえ、殺し合いよ」
 会長が目を細めて、僕の本質を疑ってきた。闘い好きな会長にとっては、あの闘いはそう見えていたようだ。
「鋭いですね」
 僕は誰も聞き取れないような声で、会長を見直した。
「もう時間がないので行きますね」
 あまりこの場に止まりたくないので、適当な理由を付けて、会長の脇をすり抜けた。
「ちょ・・・」
 会長が僕を呼び止めようとすると、校門の前に、一台のタクシーが止まった。
 全員がそのタクシーに目を向けると、扉が自動で開き、一人の女性の顔が見えた。女性は長く艶やかな黒髪で、ストレッチジーンズにフリンジチュニックを着ていて、少し気品を漂わせていた。
「・・・っ!」
 その姿を見た瞬間、僕は体重を最短で戻して、持っていた剣棒で最速の突きを放っていた。
「わっ!」
 しかし、寸前のところでかわされてしまった。剣棒がタクシーの上部に当たり、甲高い音を鳴らした。
「あ、危ないわね・・って、本当にここにいたのね」
 女性が僕を視認したところで、僕が手放した鞄が地面に落ちた。
 僕は敵意を持って、突きで連続攻撃を仕掛けた。
「って、ちょっと待ちなさいよ」
 これには驚きながら、僕の攻撃を手で払いながらすべて受け流された。やはり、僕の器量では彼女に攻撃を当てることは困難だった。
「さっさと降りなさいよ!」
 突然、車内から甲高い怒声が聞こえた。
「わっ!」
 女性が後ろから押されるように僕に突っ込んできた。この予想外の動きには、僕も反応が遅れ、彼女とぶつかる覚悟した。
「っと」
 しかし、女性は僕の両肩に手を置いて、宙返りしながら僕の反対側に着地した。
「危ないわね。急に蹴り飛ばさないでよ!」
 女性は、僕越しの相手に語彙を強めて文句を言った。
「ドアの前でチンタラしてるからでしょう」
 車から反論が返ってくると、もう一人女性が下りてきた。さっきの女性とは違い身長が低く、クリッとした顔でボブの髪型だった。服は白と緑のトレーナーを重ね着をしていて、下はスキニーパンツを履いていた。
「攻撃されてた私にそれを言う?」
 その理由に納得できないようで、不機嫌の表情をタクシーを降りた彼女に向けた。
「ちっ!」
 不意とはいえ、挟まれてしまったことは最悪の状況だった。
「落ち着きなさい。別に、掴まえに来たわけじゃないから」
 長髪の女性が、僕を制するようにそんなことを言い出した。
「・・・なら、何しに来たんですか」
 この状況では勝てる見込みは皆無なので、少し話に耳を傾けた。
「三瀬さんに頼まれたのよ」
「レイさんに?」
「そうよ。わざわざ尻拭いに来たのよ」
 僕たちがこのクラにいるのは、内密にするはずだったが、侵蝕の状況に彼女たちを頼ったようだ。僕の何気ない助言が、この最悪の状況を生み出してしまっていた。
「まさか、本当にいるとは眉唾だったけど・・三瀬さんには後で責任と取ってもらいましょう」
 彼女はそう言いながら、僕越しにタクシーの方を見た。
「そんなにいびらないでよ~」
 すると、助手席からレイが申し訳なさそうに降りてきた。
「自業自得です。少しは反省してください」
「わ、わかってるわよ」
 その自覚はあるようで、レイが渋い顔でそっぽを向いた。
「成長したわね」
「数年近く会ってませんからね」
 僕は、低身長のアサを横目で見ながら答えた。
「良い男になっちゃって、世界の違いを痛感するわね」
「・・・」
 長年、ナルにいたはずの彼女のその言葉は、かなり違和感を覚えた。
「で、侵蝕されたのは誰なの?」
 今度は長髪のセナが僕に対して、本質を聞いてきた。
「そこの三人です」
 僕は警戒を解くことはせず、顎で呆然としている会長たちを指した。
「あ、ここに全員いるの?」
「ええ、男性と一番身長の低い女性は、侵蝕されてません」
「あ~、そう」
 セナは、興味深そうに会長たちを観察した。
「・・・あ、あの」
 会長が戸惑ったようにセナを見た。
「あ~、わかってる。説明して欲しいよね」
 セナが察してように片手を前に出して、会長の言葉を止めた。
「説明は場所を変えましょうか・・えっと、今は体育祭か何か?」
 学校の露店を見ながら、会長に尋ねた。
「は、はい。今は争奪戦の準決勝が終わったところでです」
「争奪戦?」
 これは意味がわからないようで、不思議そうに首を傾げた。
「ええ、この学校の代表的な行事です」
「あ、ああ、行事ね」
 一応、行事ということで納得したようだ。
「じゃあ、今は抜けれないか」
 セナは、困った顔で頭を掻いた。
「ここで説明はできないんですか?」
 会長が率先して、セナに説明を求めた。
「今見てもらったと思うけど。彼、普通じゃなかったでしょう、スピードが」
「そう・・ですね」
「そういうことよ」
「だ、だから、その説明を・・・」
 会長は戸惑いながらも、果敢に説明を求めた。
「う~ん。そうね。いずれわかることだし、教えてあげるわ」
 侵蝕されてない二人に配慮しようと思ったようだが、思い直すように僕の方を振り返った。
「彼は、異世界の人よ」
 そして、僕の素性をばらした。
「いいの?勝手にばらして」
 アサは、呆れ顔をセナに向けた。
「近いうち、知ることになることよ。まあ、一部だけだけど」
「侵蝕されてない二人は、その一部に入ってないでしょう」
「・・・確かに」
 この指摘には、セナが困り顔で弘樹と若菜を見た。
「どうしようか?」
「知らないわよ」
 セナの短絡さに呆れながら、淡泊に突き放した。
「まあ、彼の攻撃を目撃しちゃってるから、説明も兼ねて口止めするわ」
「だったら、さっさと移動した方良いわ。ここは人の目に付きすぎる」
「そうしたいんだけど・・予想より早くここに来るみたいなのよ」
「・・・だから言ったでしょう」
 その事情を知っているアサが、頭を押さえて溜息をついた。
「ごめん」
「血が混じってから、欠点が致命的になっちゃてるわね」
「そ、そうだね」
 セナが口元を引き攣らせながら、アサから視線を逸らした。
 二人のやり取りを見ながら、僕は口を挟む余裕はなく、この場からどう逃げるかを考えていた。

第六話 状況

 僕は逃げる算段をつけ、逃げる方向に体を向けると、上空から風を切る音が聞こえた。この音は、最悪の状況を打破するものであり、この場をさらに混沌化させてしまうものだった。
 上を見ると、数メートル上空から母親が降ってきた。しかも、擬態なしの状態で。もう母親の頭に目立つなという意識は、セナとアサの出現で霧散しているようだった。
「母さ・・・」
 僕が呼び止める前に、母親が即座に動いた。どうやら、僕の声より母親の状況判断が上回ったようだ。
 僕の視界から母親が消え、それを目で追う前に、セナの体が宙を舞っていた。
「って、挨拶なしに攻撃って、親子揃って好戦的ね」
 その攻撃は腕で防いだようで、両手をクロスさせたまま僕の後ろに着地した。
 母親は一気にセナに間合いを詰め、凄まじい連撃を繰り出した。それは音が後から聞こえるほどの速度だった。
「ぐっ!織姫、手伝いなさい!」
 それを必死で耐えながら、セナがアサに助けを求めた。
「自分の始末は自分ですれば?」
 アサはゆったりした調子で、セナの頼みを断った。
「友達なんだから助けなさいよ」
「友達の前に恋敵だよ」
「今、この状況でそれ言うかなっ!」
 セナはいくつかの攻撃を受けながら、アサに文句を言った。
「動かないでください」
 このままアサに加勢されると、母親の負担が増すので、僕が彼女を引き止めることにした。
「・・・だそうよ。だから、無理」
 アサはセナを流し見ながら、白々しく僕の脅しに従った。
「くっ」
 これにはセナが、追い詰められた表情で母親の攻撃を必死で凌いでいた。その間、周りでは観客がどんどん増えていった。僕はそれを見て、もうクラには戻れないことを悟った。というか、戻るつもりは毛頭ないのだが。
 母親とセナは道路を往復するように、クラの人の動きを超える速度で戦っていた。
「ちょ、ちょっと、二人ともあれ止めてよ」
 レイが周りを気にしながら、僕とアサに焦った様子で頼んできた。
「そうね。これ以上目立っても仕方ないし、あなたも手伝ってくれる?私一人じゃあ、無理だから」
「・・・仕方ありませんね」
 僕は周りを見て、アサに協力することにした。僕としては、母親の戦いをこれ以上見ていられなかった。
 すると、歩道から一人の男性が走ってきた。
「あれ?もしかして・・・」
 アサがそれに気づいて、その男性を遠目で凝視した。
「って、余計ややこしくなる人が・・・」
 レイが彼を見て、困った顔で頭を押さえた。
「はぁー、はぁー」
 男性は息を切らしながら、この場の状況を確認した。彼は、なぜかスーツ姿だった。
「って、なんで三人も揃ってるんだ?」
「ちょうどいいですね。あれ、止めてくれます?」
 彼の言葉を流しながら、アサが戦っている母親たちを後ろで指差した。
「じょ、状況が見えんのだが・・・」
 急なことに、頭の整理ができていないようで、息を切らせながら汗を拭った。
「あの二人が、犬猿の仲なのは知ってるでしょう。会った瞬間、戦いが始まっただけです」
「なんでそうなったんだよ?」
「聖奈が短絡的でね。あたしと二人なら抑えられると慢心したんですよ」
「なら、なぜおまえは傍観してるんだ?」
「疲れます」
 アサは、これ以上ない単純な理由を口にした。
「相変わらず、折り合いが悪いな」
「まあ、恋敵ですから」
 二人のゆったりとした会話をしている間にも、セナの方は疲労困憊で動きに鈍さが出てきた。
「ほら、そろそろ止めてもらわないと、聖奈が死んじゃいます」
「そう思うなら、おまえが止めればいいのに」
「あはは~、そうしたいのは山々ですけど、彼女の息子に止められてるんで」
 アサはそう言いながら、今度は僕を言い訳に使ってきた。相変わらず、話の流れによって理由が二転三転する人だった。
「息・・子?」
 男性は驚きの声で、僕の方を凝視した。
「もしかして、おまえが俺の息子」
 言動からして、彼が僕の父親のようだ。
「そうなりますね」
 僕は、淡泊にその事実を告げた。
「そ、そうか」
 これには複雑な顔で、僕を観察した。
「そ、それより早く止めてって!」
 レイがこの状況に痺れを切らせて、僕たちに強くお願いしてきた。
「わかった、わかった」
 父親がそう言いながら、意気を整えるように深呼吸した。
『やめろ!』
 そして、強力な電波を周囲に発した。
「なっ!」
 僕は驚き、頭を押さえた。まさかクラの人が、本当に電波を発するとは思っていなかった。
 母親がその電波に反応して、動きがピタリと止まった。
『ハルト・・・』
 そして、父親の名前を呼んで気まずそうな表情をした。
『ったく、こんな場所で暴れるなよ』
『ご、ごめん』
 周りの状況を察したようで、母親が弱気で謝った。こんな母親を見るのは初めてだった。
「あ、危なかった・・・」
 セナはその場にへたり込むように、尻餅をついた。
「少しは懲りた?」
 すると、アサが呆れながらセナに近づいた。
「む~、いろいろ言いたいことあるけど、今回はやめとく」
 周りの野次馬を見て、文句を言うのは諦めた。
『母さん、大丈夫?』
『え、あ、うん』
 僕の心配をよそに、しょんぼりしながら電波で返事をした。どうやら、身体より精神的ダメージが大きいようだった。
『ご、ごめんね、ハルト』
 母親は申し訳なさそうに、父親の方に歩み寄った。
『全く。おまえといると、いつも周りが騒がしいな』
 父親は呆れながらも、母親を見て表情を綻ばせた。
「で、この状況どうするのよ」
 レイが絶望的な顔で、僕たち全員に投げかけてきた。周りでは会長たちの他に、野次馬が呆然とした顔でこちらを見つめていた。
「に、逃げるわ」
 この場を収められる自信がないようで、セナが即座にそう判断した。
「その方がいいね」
 それにアサも賛同した。
「俺たちも場所を替えるか」
 父親もそれに便乗するように、僕と母親を見た。
 僕は、依然困惑している会長たちに近寄った。
「騙していて、すみません」
 セナがばらしたのは予想外だったが、思いのほか自分ではすっきりした気持ちだった。
「引っ越す理由ってそれなの?」
 会長がか細い声で、なんとか言葉を発した。
「ううん、もうここでの目的を達しただけだよ」
 僕は父親の方を見て、それ以上の説明はしなかった。
「そう・・・今までの特訓は手を抜いていたのね」
「別に、手は抜いてないよ。僕の世界は殺し合いだから、それに適した戦い方があるだけ」
「それが準決勝の試合だった訳ね」
「ええ。無意識かはわからないけど、あの先輩が殺気を出すから・・仕方なくね」
「そっか、やっぱり私の目に狂いはなかったわ」
 なぜかここで会長が、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「怒らないの?」
「なんで怒る必要があるのよ?」
「だって、身元隠してたし」
「そんなことで怒らないわ。ただ、それを教えてくれなかったのは残念かな」
「それは無理な相談だよ」
「そうだね。まあ、仕方ないかな」
 会長は微笑んで、この事実を受け入れた。
「ま、また会いたいな」
 前宮がおどおどしながら、必死の表情で言葉を発した。
「姉妹揃って変わってますね」
 僕は、呆れながらも少し笑ってしまった。
「二人が望めば叶うかもしれませんね」
 僕はそう言って、落ちている鞄を拾った。
「なら、私もまた会いたいな」
 島村先輩が軽い口調で、僕に笑顔を向けた。
「わ、私もです」
「じゃあ、俺も」
 それに若菜と弘樹も、笑顔で同調した。
「僕の友達は全員変わってますね」
 この場違いな見送り方には、自然と笑顔になっていた。
「じゃあ、また会いましょう」
 僕は、全員にそう言い残して歩き出した。
『ちょっと顔貸しなさい』
 僕が学校から少し離れると、セナが不機嫌そうに呼び止めてきた。もともと彼女はクラの出身だが、あることをきっかけに電波での会話はできるようになっていた。
『殺されたいのかしら』
 これに母親が殺意を込めて、セナの方に振り返った。
『はぁ~、こっちは尻拭いで来てるのよ。事情を訊くのは当然でしょう。できれば、この世界で争うことは控えて欲しいわ』
『身勝手な言い分ね』
『いちいちそんな言い方しないでよ。こっちだって、嫌々してるんだから』
 セナは視線を逸らして、不機嫌そうな顔で云った。
『アキは、どうしたのよ?』
 母親は、その名前を嫌悪感入りで電波に乗せた。
『あ~、秋彦ね。今、国会よ』
『何それ?』
 母親にはこの世界の仕組みはあまり話していなかった為、国会の意味がわからないようだった。
『そっちの世界でトラブルがあってね、いろいろ根回ししてるのよ』
『ふん。相変わらず、ちょろちょろと小賢しいことしてるのね』
 どう根回ししてるかはわからないが、彼の動きは確かに不穏的なものが多かった。
『とにかく、過去のことは後にして話し合いましょう』
『貴方たちを見てるだけでも殺意が湧くのに、話し合いなんて無理に決まってるでしょう』
『・・・相変わらず、怨恨が強いわね』
『私の世界をあんなにした原因は、少なくとも貴方たちにあるの忘れてるの?』
『そ、それはそうだけど・・・でも、ああなることを望んだのは、あっちの世界の人たちよ。私たちは、少しそれに手を貸しただけ』
『それは少数の愚か者が・・でしょう。貴方たちの世界は民主主義でしょう。なのに、私たちの世界を少数の人の意向で人の在り方を変えた』
『そ、それは・・・不可抗力よ』
 母親の絶大な皮肉に、セナが苦い顔をした。その隣にいたレイは、申し訳なさそうな表情で俯いた。
『パンデミック・・・ですか』
 ナルの世界は、人との接触は禁則事項だった。それは双方の細胞が、見境なく侵蝕し合い、最悪の場合は死に至るからだった。僕自身、その侵蝕で死んでいった人は見たことがなかったが、触れられる恐怖は生まれた時から持っていた。
『私たちだって、その被害は受けてるわ』
『自分たちがやったことでしょう』
『私は・・何もしてないわよ』
 セナは、独り言のように小さい電波で本音を吐露した。レイはそれを訊きながら、終始申し訳なさそうに項垂れていた。
『もうやめろ』
 この居た堪れない状況に、父親が間に入った。
『わかったわよ』
 母親は不機嫌そうな顔をしたが、父親の云うことに従った。
『それより、母さん。ちょっとその髪は目立つから擬態してくれない?』
 母親の髪は他と違うので、通り過ぎる通行人に注目されてしまっていた。
『あ~、そうね』
 母親も注目されるのは好きではないので、すぐさま髪の色素を黒に変えた。
『おお~、凄い』
『便利ね』
 父親とセナがそれを見て、個々の感想を漏らした。
『いちいちこうしないと出歩けないから、私にとっては不便よ』
 母親が困った顔で、心境を吐露した。今回は、髪と眼だけの色を変えるだけにしたようだ。
『そういえば、俺の息子は今いくつなんだ?』
 父親はそれが気になっているようで、小さい電波で母親に訊いた。前を歩いているセナたちには、届いてないようだった。
『知らないわ。そもそも年齢なんて、私たちの世界にはないから』
『あ~、そうだったな』
 それは忘れていたようで、母親に言われて納得していた。
『じゃあ、いつ産んだんだ?俺、そういう行為をした記憶がないんだが』
『いつって、言われても・・ハルトが戻ってから、しばらくしてからね。それに生成して生んだだけよ』
『生成で生めるもんなのか?』
『その証明が目の前にいるけど?』
『まあ、確かに。だけど、そうなると6歳ぐらいになるんだが・・・』
 父親はそう言いながら、僕の方をチラ見した。
『いえ、ここの時間感覚からして、7歳ってところですね』
『え!7歳なのか』
『そうなりますね』
『なんで高校通ってるんだ?』
『この背丈で、小学校に通えますか』
 これはレイとの相談して、高校生の方が違和感がないということで決着していた。
『た、確かに・・小学生は無理があるな。でも、よくばれなかったな。文字なんて書けなかっただろう』
『レイさんが教えてくれました。最初は流暢にしゃべれなくて、外国人扱いされましたね』
『なるほどね』
 父親が納得して、レイの方を見た。
『教えるの大変だったわ~』
 レイがあの時を思い出しながら、頬に手を当てた。途中から電波が届いていたようで、セナたちが僕たちの方を歩きながら見ていた。
『全く。そうするなら、一言だけでも声掛けてよね』
 セナは、レイを責めるように目を細めた。
『それ言ったら、絶対反対するでしょう』
『当然ですよ。こんな危険人物、ここに居させたくありません』
 ここは気遣うことなく、半目の状態で母親を流し見た。
『ふぅ~ん。じゃあ、ここに居座ってやろうかしら』
『なんの嫌がらせよ』
『貴方への嫌がらせよ』
 この後、二人はしばらく睨み合っていた。相変わらず、この二人は相容れない関係だった。
『ここにしようか』
 ずっと黙って携帯端末を見ていたアサが、一つの喫茶店の前で立ち止まった。
『そうね。さっさと話をつけましょう』
 セナはそう云いながら、母親を横目で睨んだ。
『同感。貴方と一緒に行動するなんて、反吐が出るわ』
 母親の方は、セナから目を逸らして刺々しい電波を吐いた。
『母さん、台詞が汚いよ』
 さすがにこの罵倒には、僕の方から注意した。
『息子の云うとおりだ。少しは本音を控えろ』
『む、む~、わかったわよ。だけど、ハルトと一緒にいる時だけだから』
 僕にはよく反論してくるのだが、父親には簡単に従った。恋心には、計り知れない力を持っていると感じた。
『最初はどうなるかと思ったけど、春斗さんがいて助かったわ』
 アサが安心した顔で、父親の方を見た。
『俺としては、予想外な展開ばかりで頭が混乱してる』
『まあ、こっちも幻想的なことばかり体験して苦労してますよ。楽しいは楽しいんですけど』
 アサはそう言いながら、喫茶店の中に入っていった。それに続くように、僕たちは喫茶店に入った。
「個室でお願いします」
 先に入ったアサが、店員にそう言っていた。
「なるほど。個室のある喫茶店を探してたのか」
 これに父親が、納得したように言葉を発した。
「電波で会話してたら、周りからしたら異様ですもんね」
 僕も共感するように、父親の独り言に同調した。
 喫茶店の個室は、結構広くてテーブルに椅子が六脚並べられていた。
 僕たちは、レイたちと向かうかたちで座った。一応、セナと母さんは向かい合わせないようにした。
 僕と母親以外は、飲み物を注文して、それが来るまで全員が黙っていた。
『で、何を話すんですか?』
 飲み物が来たところで、僕は正面の三人を見て、率先して話を切り出した。
『そうね。まずは、これからのあなた達の行動かな』
 セナが僕を見てから、端に座っている母親を嫌な顔で見た。
『目的は父親捜しでしたから、僕はもうここに留まる理由はないですね』
『帰るの?』
『ええ、僕は・・ですが』
 僕だけというのを強調して、意味ありげに母親を見た。
『そっちは帰らないの?』
 セナは喧嘩腰の上、母親を煽るように目を細めた。
『ちょ、ちょっと、そういう云い方はするべきじゃないって』
 レイが慌てて、セナを注意した。
『こうなったのは、三瀬さんのせいですからね』
『だ、だから、最初に謝ったでしょう』
 これにはレイが、困った顔でセナから視線を外した。
『もっと反省してください』
『あ~、内輪揉めは後にして』
 これにアサが、見兼ねた様子で止めに入った。
『私はハルトに殺されるまで、ハルトと行動するつもりよ』
 母親は誰とも視線を合わせることなく、淡泊にそう言い切った。
『その自殺願望。未だに持ってるのね』
 セナが悲しそうな顔で、母親に哀れみの眼差しを向けた。
『悪い?』
 母親は、当てつけのようにセナを睨んだ。
『だそうですけど、春斗さんはどうするんですか?』
 セナが母親から視線を移して、今度は父親にそう聞いた。
『あ~、無理。一時期とはいえ、世話になっていたし』
『なら、世話してあげれば?』
 アサは、嫌らしい笑みを浮かべながら父親を流し見た。
『織姫』
 これにセナが、アサを責めるように睨んだ。
『どうせ、春斗さんは殺さないよ。なら、世話するしかないじゃない』
 アサの台詞に、母親が不安そうな顔を父親に向けた。
『確かに殺せないな』
『ハルト・・・』
 これには母親が、切なさそうに項垂れた。
『なんで私は殺せないのよ』
 そして、悲しそうに小さな電波を発した。
『もう殺したくないんだ。あんな思い、もう経験したくない』
 何かを思い出したように、父親は悲しそうな顔をした。それに母親も感化されたのか、悲痛な表情をした。おかげで、場の雰囲気が沈んでしまった。
『あ~、ごめんだけど、今度はこっちの状況を訊いてもらえる?』
アサが困った顔で、この沈黙を破った。
『は?なんで貴方たちの状況を知らなきゃならないのよ』
 母親がこれに一瞬で不機嫌になった。
『むっ!そんな云い方はないでしょう。あんたがいないせいで、こっちはいろいろと大変だったんだから』
『あっちの世界は個人主義でしょう。私は関係ないわ』
『個人主義というより、独裁主義よ』
『同じでしょう』
『全然違うわ!一人の行動と、一人の意思で複数の人間が動くことは天と地の差があるわ』
『じゃあ、貴方一人で潰せばいいでしょう』
『あんたと一緒にしないでよ』
『何?できないの?』
『できるか!』
 母親の煽りに、アサが感情的に突っかかった。
『落ち着きなさいよ、織姫』
 これにはセナが、見兼ねて口を挟んだ。
『正直、この2年半で、三竦みの状況はかなり変わってきてるわ。あなたがここにいることを知ってれば、もっと早く対処できたんだけど・・・』
 セナはそう云いながら、チラッとレイの方を流し見た。
『それ、私関係ないじゃん』
 母親は常に個人行動で、どこにも組したことはないはずだった。
『はぁ~、自分の存在の大きさを一度ぐらい考えてみた方がいいわよ』
『何それ?冗談?面白くないわよ』
 これに母親の不機嫌さがさらに増した。
『はぁ~、これだから個人主義は困るわ~』
 セナが盛大に溜息をついて、母親を煽るように流し見た。
『いい?今まで、あなたの存在は抑止力になってたのよ。ここ最近、何も動きがなかったせいで、いろいろ対立が起きてるわ』
『それ・・私のせい?』
『直接的には違うけど、間接的にはあなたのせいよ』
『無茶苦茶な云い分ね。それ、当てつけで云ってる?』
『大半は当てつけよ!実際、争ってるのはあなたじゃないし・・・』
 セナが不機嫌を面に出して、歯痒そうに電波が弱まってきた。
『それなら、貴方たちが天下統一でも狙ってみたら?』
『無理よ!ならず者を統一なんてできるわけないわ』
『力で押さえつければできるでしょう』
『それ、嫌みで云ってる?』
『ええ、勿論』
「ちっ!」
 母親の満面の笑顔に、セナが苛立ちをあらわにして舌打ちした。
『聖奈も感情的になってるじゃん』
 アサがここぞとばかり、セナを鼻で笑った。
『はぁ~、こうなるから嫌だったのよ』
 レイは、弱い電波で溜息を漏らした。
『もう煽るなよ、話が進まん』
 これには父親が、見兼ねたように母親を制した。
『で、そっちはどうなってるんだ?』
 そして、今度は父親が仕切るように切り出した。
『人形が劇的に増えてまして、あっちこっちで殺し回ってるんですよ』
 セナが溜息交じりで、現状を口にした。
『人形・・増えてるの?』
 すると、母親が険しい顔でセナに確認した。
『ええ。おかげで最近はそっちの対処で手一杯よ』
『その人形って、前より成長してるの?』
『成長?』
 母親の台詞に、セナが不思議そうに首を傾げた。
『・・・強くなってるかってことよ』
『ああ、そっちの方ね』
 母親の云いたいことを察したようで、セナが納得したように発した。
『最近は、たまに強い人形が見られるわ。あれは私一人でも、ちょっとだけ苦戦するのよね~。どうなってるのかしら?』
『そう・・・』
 母親は神妙な面持で、その事実を受け止めた。
『という訳で、手伝ってくれない?』
『死ね』
 セナの笑顔の頼みを、母親が殺意を込めて一蹴した。
『云うと思ったわ』
 その返しは想定内だったようで、呆れた様子で嘆息した。
『話は以上ですか?』
 僕は状況を確認して、話を切り上げることにした。
『そうね、さっさと帰りましょう』
『待ちなさいよ』
 席を立った母親を止めるように、セナが呼び止めた。
『まだ重要な用件が残ってるわ』
『まだ何かあるの?』
 母親がうんざりした顔で、脱力するように椅子に座った。
『三人の侵蝕した人のことを教えて』
 セナは真剣な表情で、僕を見つめた。
『教えると言っても、名前しか知らないですよ』
『ん?キスする仲じゃないの?』
『いえ、強引にされただけです』
 それを思い出しただけで、眉間に皺が寄った。
『それは凄いわね』
 アサが笑いながら、前のめりにテーブルに片肘を付いた。
『状況がよくわからないけど、そっちが接点を持ったわけじゃない訳ね』
『当然ですよ。自分から近づくなんて発想は、今でも皆無です』
『2年過ごしても、恐怖心は薄まらない・・か』
『生命の危機ですからね』
「ふぅん」
 セナは納得するように、椅子の背もたれに体重を乗せた。
『わかったわ。あの三人は私たちでどうにかするわ。知ってることを教えて』
『わかりました』
 僕は、侵蝕された三人のことを知ってる範囲で教えた。
『本当に知らないのね』
 結論として、名前と前宮家しか知らなかった。
『深くは付き合うことは避けてましたから』
『そう考えると仕方ないか』
 セナが納得した後、困った顔で頭を掻いた。
『話は以上よ・・というか、あなたはこっちに戻ってきて欲しいんだけど・・・』
 セナは、母親を困った顔で流し見た。
『力づくでしてみたら?』
 これに対して、母親は煽るようにほくそ笑んだ。
『はぁ~、対処は後々考えるわ』
 説得はできないと判断したようで、椅子から立ち上がった。
『いいの?』
 レイが意外そうな顔で、セナを見上げた。
『良いも悪いも、今のところ、私がここから連れ戻すことは不可能ね』
『それは同感』
 セナに同調しながら、アサも席を立った。
『じゃあ、先に出るわね』
 セナたちはそう云って、個室から出て行った。
『私たちも行きましょうか』
 母親が先に立って、僕たちにそう云った。
『そうだな』
 父親も頷いて、片手をテーブルにおいて立ち上がった。
 三人でレジを通ると、レイが会計を済ませていた。僕は、レイに一声掛けてから喫茶店を後にした。
『次会う時は、連れ戻すから』
 外でレイを待っていたセナが、母親にそう宣告した。
『生きてたらね』
 母親はそう云って、セナの横を素通りした。

第七話 遭遇

 僕たちは、しばらく黙ったまま自宅の方に歩いた。
『ちょっと家で話さない?』
 すると、母親が僕の方を振り返ってそう云ってきた。
『え、なんで?』
『ハルトが殺してくれないみたいだから、ちょっと困ってる』
『それはお互いで話し合ってよ』
 殺すことができない僕に、そう云われても困るだけだった。
『と、とりあえずさ・・一度家に帰ろうよ』
 他に何か云いたいことがあるのか、難しい顔でそう云ってきた。
『どうせ、荷造りに帰るつもりだよ』
 別に、急いでいる訳でもないので、少しぐらいは話を訊くことにした。
『ハルトも来て』
『わかったよ』
 父親は、息を吐くように了承した。
『それにしても、ここでも順応できるんだな』
 父親が僕を見て、そんなことを云った。
『まあ、半分は父さんの遺伝子ですからね』
『そっかー。なんか複雑な気分だ』
 そう云いながら、先を歩いている母親を見た。いつもの帰り道を両親と歩くのは、少し複雑な気分だった。
「こっちで話せるか?」
 父親が電波ではなく、声で話しかけてきた。
「ええ、内緒話でもするんですか?」
「いや、電波よりこっちの方が話しやすい」
「納得です」
 最近ではクラに馴染みすぎて、僕も声の方が楽だった。
「ここにいつまでいられるんですか?」
「え?一応、明日は休みもらったから、今日は泊まれるが・・ここら辺って、ホテルとかあるのか?」
「駅近くに行けばあると思いますよ」
『泊まればいいじゃん』
 僕がそう答えると、母親が話に電波で入ってきた。
「それはいいね。僕はもうここを出ていきますから、その部屋に泊まったらいいと思いますよ」
「まあ、考えとくよ・・っていうか、音波理解できるのか?」
 父親が驚いた顔で、母親を見た。
『最近、覚えたのよ』
「そ、そうか・・・」
 家に着き、三人で玄関を上がった。
「片付いてるな」
 リビングを見渡しながら、父親が感心の声を漏らした。
『で、話って何?』
 僕は時間を気にして、話を切り出した。
『うん・・ちょっとクラが面倒なことになってるみたいだから・・・』
 母親にしては、珍しく歯切れが悪かった。
『どういうこと?』
『ほ、ほら、人形が増えたって・・・』
『それと母さんが何か関係あるの?』
『う、うん。たぶん・・私が生成した子供かも』
『どういうこと?』
 この告白には頭が混乱した。
『じ、実は生き返らせたい子がいて・・・』
 母親が言いにくそうに、顔を下に向けた。
『おまえ、まさか・・・』
 何か思い当たることがあるのか、父親が目を見開いて、母親に一歩近づいた。
『ご、ごめん。わかってたけど、どうしても生きてて欲しくて・・・』
 自殺願望が強い母親が、この云い分には矛盾が生じていた。
『でも、ダメだった。輪廻転生なんて夢物語で、幻想でしかなかったわ』
『どこの世界でもそういう気休めはある』
 母親の悲痛な表情に、父親は悟ったように云い宥めた。
『馬鹿よね・・幸福を求めるように、人にすがるなんて』
 母親は、何かを思い出すように空虚な目をした。
『もう・・・死んでしまいたい』
 そして、顔を覆って悲痛な思いを電波に乗せてきた。
『ホント、おまえは馬鹿だな』
 この重苦しい空気の中、父親が軽い感じで溜息をついた。
『おまえには、まだやることあるだろう』
『もう何もないよ。死ぬための行動は全部してきた。でも、死ねない・・・前の体と違って、今の体は死を全力で拒絶するの』
 母親は涙を流しながら、今までの思いを全部吐き出した。物心ついた時から、僕は母親を殺すように躾けられたが、絶対的存在である母親を殺すことはできなかった。
『おまえは、自分のためには何もできないだけだ。なら、誰かのために生きてみろ。誰かを幸せにしてみろ。あの時、おまえが感じた幸福を他人に与えてみろ』
『・・・できないわよ。この体じゃあ、もう人と触れ合うことさえ、私の意思に反して、細胞全体が危険信号を発してしまう』
 母親は自分の手を見て、小刻みに震わせた。おそらく、人と触れ合うイメージをしたのだろう。
『それでも、おまえは俺を助けてくれただろう』
 父親は視線を逸らしながら、歯痒そうに云った。
『それは・・ハルトの笑顔が好きだったからよ。他の人を好きなれる気はしないわ』
『なら、他人の笑顔を好きになればいい』
『・・・』
 父親の台詞に、母親がスローモーションのように目を見開いた。
『まあ、しばらくは無理かもしれないから、当分は俺の傍にいろ』
『わ、わかった』
 これには嬉しそうに頬を染めた。父親の誘導に感心しながら、自分がまだまだ子供だと実感した。
『じゃあ、僕はもう行くよ』
 母親が生きる決断をしたようなので、僕の役割はここで終わった。これには少し心が晴れた気がした。
『母さんのことよろしくお願いします』
 僕は深々と頭を下げて、母親の今後のことを父親に委ねた。
『えっと、さっきの話、聞いてた?』
『え?母さんの子供がいるんでしょう』
『う、うん。だ、だから、今のクラは危ないわよ』
『いいよ、別に。それで殺されるのなら、僕は一向に構わない』
 僕の使命はここで終わっていて、自分自身の生きる意味は果たした気分だった。
『えっと・・私が云うのも変だけど、あまり易々と死んで欲しくないっていうか・・・』
 自分でも矛盾していることで、引き止めに躊躇いが見られた。
『別に、死にに戻るわけじゃないよ。ただここで飼い慣らされるより、自身で生きていくだけだよ』
 僕はそう云って、母親を安心させるために表情を緩めた。
『それにもう会わないんだから、生死なんて気にする必要ないよ』
『ん』
 僕の台詞に、母親が心底困った顔をした。
『もしかして、別れ惜しんでるの?』
『まあ、息子だし』
『なら、これを機会に子離れしてよ』
『むっ、別に依存してないし』
 これは癇に障ったようで、少し不機嫌そうに眉を顰めた。
『今のは冗談だよ』
 1か月近く、僕をほっといて父親を捜しに行ったこともある母親が、僕に依存しているなんて露ほども思っていなかった。
『心配は有り難いけど、どのみちここでは生きていく気はないよ』
『少しほとぼりが冷めてからでもいいと思うんだけどね~』
『ほとぼりって・・どうやって確認するの?』
『そりゃあ、レイに逐一報告させるとか・・・』
 レイに頼るのは不本意のようで、電波が小さくなっていった。
『これ以上は迷惑かけれないよ』
『むぅ』
 これには何も云えず、むすっとした顔をした。
『もう仕度するよ』
 僕は時間を気にして、二人に背を向けた。
 部屋で着替えを済ませて、剣棒の入った棒袋を持った。
『それは持っていくのね』
 それを見ていた母親が、僕にそう聞いてきた。
『あっちに行くのに必要だからね』
『気をつけてね』
『まあ、クラに慣れ親しんだ分、当分は警戒を解くつもりはないよ』
 このクラに長く住んで警戒心が緩くなっていることは、自分でも自覚していた。
『あのさ・・たまには会いに行ってもいい?』
 母親はそう云って、気まずそうに僕を盗み見た。
『はぁ~、好きにしたらいいよ』
 別に僕の許可は必要ない気がしたが、母親の表情を見る限り、僕に気を使っているようだった。
「あ、そうそう。これは父さんにあげまず」
 僕は棚に放り込んでいた通帳と印鑑を取り出して、父親に手渡した。
「え、いいのか?」
「あっちでは使い道ないですから、母さんのために使ってください」
「わかった」
 父親は僕の意思を汲んでくれて、嬉しそうに頷いた。
「あと、これも」
 僕は、父親に渡された携帯電話を差し出した。
「ああ、これもあっちでは使えないもんな」
 父親はそう言いながら、携帯電話を受け取った。
「ここは県営住宅で、生活保護で家賃はタダになってますが、ここに住みたいならレイさんと相談してください」
「あ、ああ」
 僕の説明に、父親が少し困惑しながら応えた。
『じゃあ、もう行くね』
『う、うん』
 僕が玄関まで歩くと、母親が名残惜しそうに玄関までついてきた。その後ろに父親もいた。
『じゃあね』
 僕は二人最後の別れを云って、慣れ親しんだ家を出た。
 いつも登校路を歩き、大通りの十字路を学校の反対方向にある駅に向かった。
 駅に着き、改札場所にレイが待っていた。
「すみません。少し遅れました」
 喫茶店で一声掛けていたのは、ナルに戻るにはレイの協力が必要不可欠だったからだ。
「あ、いいよ。別れの挨拶なんだから、長くても気にしないわ」
 遅れてきたことは気にする様子もなく、僕に切符を渡してきた。
「母親はどうしたの?」
「父さんが面倒みてくれるみたいです」
「そう。なら、安心かな」
 父親を信用しているのか、少し安堵した声だった。
「一応、今住んでいる所をどうするかは、父さんと相談してください」
「ん、わかった・・一人で大丈夫?」
「ええ、問題ありません」
 元々一人での行動が多いので、そこは特に不安はなかった。
「私は、てっきり残ると思ったんだけどね~」
「まさか、それはないですよ」
 改札口を通過しながら、僕は少し笑ってしまった。
「私としては、こっちの方が住みやすいと思うけどね~」
 階段を上がりながら、レイが独り言のように言った。
「それは価値観の相違ですね」
 こればかりは、生まれ育った場所が違うだけで、生き方も変わるのは当然だった。
「荷物はそれだけ?」
「ええ」
「ナイフぐらいは持っていた方が便利じゃない?」
「必要ないです」
 鋭利なもの自体、わざわざクラで買うほどの物ではなかった。
「あっちで住む場所は決めてるの?」
 ホームで電車を待ちながら、レイが積極的に聞いてきた。
「さあ~、前の場所に戻ってみようと思います」
 もう2年半もほったらかしなので、誰かに占領されてる可能性は少なからずあった。
「そう・・・」
 レイは何か言いたそうだったが、結局口をつぐんだ。
「困ったことあったら、相談に乗るわ」
「その気遣いは、母さんにでも向けてください」
「それしたら、凄い迷惑がられるし」
「まあ、そうですね」
 確かに、母親は他人から些細な干渉でも苛立つことが多かった。
「あの二人はどうしてます?」
 僕は話題を変える為、セナたちを引き合いに出した。
「ああ。今、変装して学校に火消しに行ってるよ」
「火消し?」
「学校前とはいえ、目立っちゃったし」
「あ~、なるほど・・ホント、この世界は面倒臭いですね~」
「一応、あなたを見送った後、退学届けを出しておくわ」
「すみません。最後まで手間かけさてしまって」
「気にしなくていいわ。後始末は私の役割だから」
「なら、バイト先にも退職届け出してもらえます?」
 学校に退学届けを出すなら、バイト先にも退職届を出さないと不自然な気がした。
「あ~、そっちもあったか。わかった、やっておくわ」
「すみませんね」
「気にしないで」
 レイがそう言うと、ホームに電車が到着した。
 二人で電車に乗ったが、休日ということもあり、人が結構多かった。この混雑さなら、母親は絶対乗らないと断言しただろう。
 ここまで混んでると、声では話したくなかったので、目的の駅まで黙っていることにした。
「そうそう、あっちは結構殺伐としてるから」
 なのに、レイは率先して話を切り出してきた。
「あ~、そうですか。あまりこの場ではそういう話は控えた方がいいじゃないですか?」
「大丈夫、誰も気にしちゃいないわ。それに抽象的に話せばわからないし」
「なら、小声でしませんか?」
 僕は電波とは言わず、回りくどく言ってみた。
「そっちの方じゃあ、違和感出るわよ」
 電波というのは察したようだが、表情の変化で周りから変な目で見られると言いたいようだった。
『無表情でやればいいじゃないですか』
 言葉にすると、変な言い回しになるので電波で伝えてみた。
「面倒臭い」
 どうやら、電波での会話はレイにとっては疲れるようだった。
「もしかして、まだ調整できないんですか?」
「う、うん。調整って難しくてね。私の場合、どうしても広範囲になっちゃうんだよね~」
 電波でも強弱があり、それを調整するのは声と同じようにすればいいのだが、発声と発生は根本的に違う為、どっちに慣れるかは、住んでいる世界で違っていた。
「はぁ~、いくらでも自分で試せるでしょう」
「むっ、それぐらい私だって試したわよ。たぶんだけど、私はそういった類が苦手なのよ」
「なら、強要もできませんね。駅に着くまで黙ってましょう」
「立ったまま電車に揺られながら?」
「ええ、それもまたオツでしょう」
「変な言葉知ってるわね。今じゃあ、そんな言葉使わないわよ」
「まあ、近しい人がそういうのが好きだっただけですよ」
 僕はそう言いながら、弘樹を思い出した。
「なんか嬉しそうね」
「え?」
 レイの指摘に、僕は自分の表情が緩んでいることに気づいた。
「一つだけ確認したいんだけど、ここって楽しかった?」
 結局、レイは黙る選択肢を持ち合わせていないようだった。
「そうですね~。基本的に苦痛でした」
 仕方ないので、あくまでも抽象的に答えることにした。
「まあ、そうだよね・・で、でもさ、楽しかったこともあったでしょう」
「そこに誘導する意味あります?」
「別に、そういう訳じゃないんだけど・・・」
 自分の発言が、そういう意図をはらんでいることに気づいたようで、気まずそうに視線を逸らした。
「あと、声は抑えてください」
 さっきからレイの声は、車内全体に聞こえる大きさだった。
「あ~、ごめん。注意するわ」
 レイは申し訳なさそうに、声をトーンを落とした。電波もそうだが、声の調整もレイは苦手のようだった。
『やっぱり、こっちにしましょう』
 僕は電波で、レイに話を振った。
「ん~、わかったわよ」
 レイは周りを見てから、むくれた顔をして正面を向いて、なぜか目を閉じた。どうやら、目を閉じないと電波の微弱な調整ができないようだ。
『まあ、話すことがないのなら、無理に話す必要はないですが・・・』
『黙ってるより、話していた方がいいでしょう?』
 確かに思い返してみても、レイはいつも率先してしゃべっていた気がする。このクラでは、多弁と寡黙の差が極端すぎる気がした。
『じゃあ、昔話でも聞かせてください。レイさんが僕たちの世界に来た時の話とか』
『それは云いたくない』
『・・・』
 僕としては話しやすいような話題を振ってあげたつもりだったが、不機嫌な顔で一蹴されてしまった。
『なら、そっちで決めてください』
『そうね~。キスされた相手で誰が好みだった?』
 レイの電波から楽しそうな雰囲気が漂ってきた。
『それは意地悪で訊いてます?』
 電車内とはいえ、さすがにこの質問には自然と苦い顔になってしまった。
『単なる知的好奇心よ。世界が違っても恋愛感情は同じかどうか気になってね』
『それなら母さんを見れば、わかることでしょう』
『それはそうだけど、まだ7歳のあなたが恋愛感情を理解できるかを訊きたいのよ。ちなみに、ここでの7歳は恋愛感情はあるという結論に行きついてるわ』
『それは早熟ですね。僕には好意という感情はまだ芽生えたことはありません。人に対して嫌悪は、常日頃感じていますけど』
 一応、そこだけは明確にしておいた。
『まあ、触れ合うことが恐怖の対象だから、それは仕方ないかもしれない・・か』
 レイはそう云いながら、考え込むような仕草をした。
『レイさんもその感覚はあるでしょう?』
 微小とはいえ、影響を受けているレイにも嫌悪感はあるはずだった。
『まあ、多少はあるわね。でも、元々の細胞がこっち寄りだったから、それほどの嫌悪感はないわ』
『そうなんですか』
 やはり個々での感覚は、どの世界でも人ぞれぞれのようだった。
『触れ合えなくなると、相手に対しての感情が育たたないのね~』
 レイは、考え込むような仕草で独り言のような電波を発した。
『あ、もう一つ訊きたいんだけど、生成の原理って何か知らない?』
 レイが目を見開いて、興奮気味に僕の方を見た。
『言葉にしてないのに、リアクションしないでください』
「あ、ごめん」
 今度は電波に声で答えた。
『声は出さないでください』
「あ・・うん」
 僕の注意に、レイが周りを気にしながら顔を正面に向けた。
『やっぱり苦手だな~』
 レイが目を閉じて、愚痴を電波に乗せてきた。
『云っておきますけど、僕は生成できないので、原理はわかりません』
『だよね~』
 予想通りの答えに、レイががっくりと肩を落とした。
『あ~、でも、生成する時、マイクロ波を発生させてるらしいですね』
「は?何それ!」
 これが衝撃的だったのか、過度に反応を示した。
「んん!」
 さすがにこれには咳払いして、レイを睨んだ。
「あ、ごめん」
 周りの驚きの顔を見て、萎縮しながら身を引いた。
『それよりどういうことよ。マイクロ波って人体に影響されるんじゃないの?』
『さあ~?放出してるのが人体からだからなんともいえないですね』
 それに僕ができるわけじゃないので、詳細は知らなかった。
『それに母さんの生成って、皮膚から鉄を生み出す時点で出鱈目でしょう』
『う~ん・・確かに、成分が全く違うものだもんね』
『それかタンパク質を鉄に似せてるかだね』
『それは絶対無理。タンパク質を似せても鉄の硬さには絶対ならないわ』
『まあ、科学的にはあり得ないことですね』
『ますます不可解ね』
 レイは真剣な顔で、その場で考え込んだ。
『これ以上は不毛ですよ』
 生成できない二人が考えても、結論は見出すことはできそうになかった。
『不毛ではないわ。知的好奇心は人間の特権よ』
『母さんと考え方が似ていますね』
『それは・・喜んでいいのかな?』
 素直に喜んでいいのか、判断できずに複雑そうな顔をした。
『世界が違っても思考の行きつく先は、その結論に至るだけじゃないですか?』
『まあ、過去の哲学者にもそういう人がいたもんね』
『そうなんですか?』
『うん。名前忘れたけど』
『そう・・ですか』
 学校で哲学という言葉を知ったが、今になってもその意味がよくわからなかった。
 結局、目的の駅までレイの不毛な話に付き合わされてしまった。

第八話 関門

 電車を降り、僕が駅の改札口を通ると、その後ろからレイが同じように改札口を通ってきた。
「ここに来るのは久しぶりなので、案内お願いします」
「あ、うん。2年半振りだもんね」
 レイは納得して、先に駅を出た。
「あの家の住人はいるんですか?」
「あ~、カンロクね」
 境界は彼の家の地下にあるので、会うことは避けて通れなかった。
「今はいないわ」
「あ、そうなんですか」
「うん。今忙しくって・・各方面飛び回ってるわ」
 レイはそう言って、険しい顔で視線を外に向けた。表情を見る限り、自分が原因の一端をつくってしまったようだ。
「全く、危険って散々言ったのに、興味本位で動くから・・・」
 すると、レイが面倒臭そうな顔で独り言のように愚痴った。
「もしかして、忙しい理由って内部事情ですか?」
「うん。こっちの馬鹿な議員が、あっちで死んじゃってね。もうややこしくなっちゃって」
「殺されたんですか?」
「うん。人形に一瞬で・・・」
 その時のことを思いだのか、苦い顔で頬を掻いた。
「おかげでこっちはてんてこ舞いよ」
「僕に対して、その言葉使います?」
 意味は知っていたが、言葉のチョイスは間違っている気がした。
「・・・年齢が出るのよ」
 ここは取り繕うように、世代を言い訳にしてきた。
「とにかく、忙しいのよ」
 そして、言い直すように言葉を替えてきた。
「じゃあ、僕が侵蝕させてしまったタイミングは悪かったですね」
「う、うん。だから、あの二人が来たのよ」
「なるほど」
 これには大いに納得できることだった。
「鍵は開いてるんですか?」
「私が持ってるわ」
「なんで持ってるんですか?」
「・・・それってどういう意味?」
 素で聞いただけだったのだが、何か癇に障ったようだ。
「え?だって、レイの家じゃないでしょう」
「あ~、そういうことね」
 理由に納得したようで、表情が素に戻った。
「鍵は、カンロクから委任された人しか持たされないのよ」
 レイは苦々しい顔で、視線を横にずらした。どうやら、鍵を持たされるまで相当時間を要したようだ。
「まあ、鍵を持ってるなら帰れますね」
 ここは深く聞かず、話を流すことにした。
「でも、境界の監視役はいなくても大丈なんですか?」
「今、あっちの世界はそれどころじゃないから」
「あ~、人形が暴れまわってるんですね」
「うん。今は自分の身を守るのに必死みたいでね~。組織の体をなしてないわ」
「元々、つぎはぎの組織でしょう」
「それは否定しないけど・・・」
 これは事実なので、特に反論もなかった。
 商店街を抜け、大通りの横断歩道を渡り、その正面の小道の高級住宅街に入った。
「相変わらずここ一帯は、土地が広いわね~」
 レイが各家を見ながら、そんな感想を口にした。
 一際広い高級住宅の板張りの大門前で、僕たちは足を止めた。
「ちょっと待っててね~」
 その門の鍵をレイが開け、僕たちは中に入った。家は淡いグレーの二階建てで、窓の少ない立方体を重ね合わせた建物だった。
「変な家よね~」
「まあ、一般的ではないですね」
 僕の住んでいる地域では、こんな家は一軒も見たことはなかった。
 レイが玄関のドアの鍵を開けて、家に入っていった。
「ふぅ~」
 僕は意を決して、レイの後に続いた。他人の家に入るのは、僕にとっては一番勇気のいる行為だった。前宮の道場とは違い、狭い場所の上、他人の空間に入ることで警戒心が自然と強まった。
 リビングらしき場所を横切ると、変わらず物が多かった。
「最初来た時も思いましたが、ここは物に溢れていますね」
「私と一緒で、片付けるのが苦手みたいね」
 レイはそう言って、地下に続く階段を下りた。地下室はさらなる密閉空間なので、下りるだけで表情が険しくなった。
 階段を下りると、正面にドアが見えた。
「ちょっと待ってください」
 レイがドアに手をかけたところで、中からの何かの気配がした。
「どうしたの?」
「今、この家に誰かいます?」
「え、いないはずだけど・・・」
 僕の質問に、レイは考えることもなく断言した。どうやら、この家の住人は一人しかいないようだった。
『なら、注意してください。誰かいます』
 ここは念の為、電波で云っておいた。
「え!そうなの?」
『し!あまり声を出さないでください』
「あ、ごめん」
 しかし、僕の再度の指摘に小声で答えた。
「・・・」
 僕は睨むかたちで、しゃべらないよう口の前に人差し指を立てた。
 すると、レイが顔の前に両手を合わせて申し訳なさそうな顔をした。
『どうします?ここは引きますか?』
 僕の記憶ではこの先の部屋はあまり広くなかったので、戦うのには適していない気がした。
「まあ、一度見てみましょう」
 レイは軽いノリで、ドアを勢いよく開けた。
「え!」
 この行動には思わず声が出てしまった。
 開いたドアの正面に、少女の顔がこちらに迫ってきていた。距離的に開けた瞬間に動き出したような感じだった。
「げっ!」
 それを見たレイが声を上げて、さっきと同じように勢いよくドアを閉めた。そのドアの向こう側から何かを切り裂くような音が聞こえた。
「今のなんですか?」
 問答無用の攻撃に、逃げる姿勢でレイに聞いた。
「あ、もしかして、人形見るの初めてなの?」
 ドアノブを握りしめながら、僕の方を向いた。
「え?あれ人形なんですか!」
 あれはどこからどう見ても、ただの少女だった。
「うん。人を見ると、見境なく殺すわ」
「理由もなくですか?」
「あっちの世界じゃあ、人は天敵だからね~。生存本能から殺される前に殺すんでしょう」
「なるほど。危機意識から攻撃してくるんですか」
「そうなるわね。しかも最悪なことに、あれは強い方の人形だよ」
「戦ったことあるんですか?」
「こっちの議員を殺したのって、あの人形なのよ」
 レイはそう言いながら、深い溜息をついた。
「なんで知ってるんですか?」
「人形は基本灰色の髪なんだけど、今の人形は黒髪だったでしょう」
「まあ、そうでしたね」
 どうやら、あの人形は母親が生んだ人形のようだ。
「あの人形は、かなり強くてね。議員を殺したあと、私を襲ってきたわ」
「その人形がここにいるってことは、逃げ切れたってことですか?」
「まあ・・ね。私一人じゃあ荷が重くてね。逃げるのが精一杯だったわ」
「よく逃げ切れましたね。母さんが言うには、僕では無理と言われましたが」
「逃げるにはコツがあってね。さっきから、部屋から物音がしないでしょう」
「ええ」
 言われてみれば、会話しているのにドア越しから攻撃している様子はなかった。
「人形は音に敏感だけど、人を視認しないと攻撃してこないわ」
「よく知ってますね」
「何度か捕まえてるからね」
「・・・解剖でもしたんですか」
 あまり想像したくなかったが、生け捕りする意味はそれ以外考えられなかった。
「そんな非人道的なことしないわよ」
 これには不愉快そうな顔で、僕を睨んできた。
「人道的って、人形でしょう」
「つくりはあなたたちと一緒よ。ただ精神が崩壊してるだけ」
「あ~、やっぱりそうなんですか」
 人形というのは、動物が持つ本能のみで生きていることを言っているようだ。
「じゃあ、捕らえてどうしてるんですか」
「いろいろ教育とかしてみたんだけど、理解してくれなかったわ」
「それで今はどうしてるんですか?」
「えっと・・・一時的に隔離してる」
 非人道的なことはしてないと言った手前、監禁してることは人道的には微妙だと感じたようだ。
「で、どうします?」
 これ以上は僕自身知る必要もないことなので、今の状況を話し合うことにした。
「う~ん・・助っ人呼ぶ?」
「それはやめときましょう」
 母親にしてもセナにしても、助けを呼ぶのは気が引けた。
「じゃあ、どうするのよ」
「僕が戦いますよ。いずれは人形と戦わないと生きていけそうにないですし」
「で、でも、あのタイプは強いよ」
「どのみち、遭遇したら戦いは避けられません」
「なら、手伝おうか」
「必要ありません」
 二人で戦って生き残っても、あまり意味はない気がした。
「気遣いだけで十分ですよ」
 僕はそう言って、剣棒を袋から取り出した。
「ちょっと引いててください」
 この場所は狭すぎる上、二人ではあっという間に殺されてしまうのは目に見えていた。
「こんな場所じゃあ、棒なんて使い物にならないんじゃない?」
「それは使い方次第でしょう」
 といっても、ここで使い物にならなくなるのは間違いはなかった。
「わかった。好きにしなさい」
 レイは僕の決意に、ドアノブから手を離して階段を上がった。
「あ、一つお願いしていいですか?」
「え、何?」
「戦いの後処理はお願いしますね」
「・・・わかったわ」
 二つの意味を汲み取ってくれたようで、寂しそうな顔をして頷いてくれた。
「さてと・・・初めての姉弟喧嘩を始めますか」
 自分の姉弟にこんな形で会うのは複雑だったが、ナルでは仕方がない気がした。
 僕は姉のさっきの動きを考慮して、体重を極力軽量化することにした。剣棒を自分の正面に持ち、空いた片方の手でドアノブを掴んだ。
 勢いよくドアを開けると、目の前に少女が既に動き出していた。この反応の速さは獣の速度と酷く似ていた。
 正面に出していた剣棒が彼女の横一線で真っ二つに切断されてしまった。この所作で、相手の力量と武器がナイフだと判明したので、即座に剣棒を手放し、受動態勢を取った。場所だけにできるだけ小幅で攻撃をかわすことに専念した。
 姉の大雑把な攻撃を一つ一つ見極め、小刻みに動きながらかわしていった。母親の助言通り、かなりの速さだったが、ここ最近体重を重くしていたおかげか、初動の速さが格段に上がっていた。というか、母親の貫手よりは少しだけ遅く感じた。
 ある程度、目も慣れてきたので、そろそろ反撃に転じることにした。その間、狭い場所での攻防は、姉のナイフによって壁が傷だらけになってしまった。
 姉の大ぶりの振り下ろしを避けて、脇を絞めて速さ重視の左のジャブを放った。
 それが顔に当たり、数メートル後ろに吹っ飛ばされた。思った通り、体重は僕よりも軽かった。
 姉は空中で体をひるがえして、片手を付きながら態勢を整えた。表情は未だに無表情で、痛みも疲れも全く見えなかった。
『あなたは誰ですか?』
 一応、話ができるかを確認する為、部屋に入ってから電波を飛ばしてみた。
 しかし、姉は無表情でこちらに攻撃を仕掛けてきた。人形といわれる相手に会うのは初めてだが、そういわれる所以がわかる行動だった。速さは異常だが、大振りの攻撃は単調でかわすのはさほど難しくなかった。
『強制的に場所を替えますね』
 僕は振り下ろしてきた片手を掴み、境界目掛けて姉を放り投げた。
 姉は境界に勢いを殺され、ゆっくり吸い込まれていった。
「あ!しまった!」
 この境界は、瞬時に吸い込まれるのではなく、徐々にしか移動できなかった。こうなると、あっちに行く途中で攻撃されたら、何もできず殺されてしまう可能性が出てきた。
「し、失念してた」
 僕は頭を抱えて、吸い込まれている姉を見た。姉は無表情でこちらを見ていたが、ナイフを投げるような動作は見せなかった。
「だ、大丈夫っ!」
 すると、レイが慌てた様子で部屋に入ってきた。どうやら、僕の声が上まで届いていたようだ。
「って、あれ?」
 しかし、この場の状況にキョトンとした顔になった。
「どうなってんの?」
 レイは怪訝そうな顔で、僕の方を見た。
「見ての通りですよ」
 僕はそう答えて、境界の方に歩いた。
「ちょ、ちょっと」
「このまま吸い込まれて、あちらで待たれては僕が帰れませんから、今ここで殺しておきます」
 投げ飛ばすのではなく、最初から殺しておけば良かったのだが、レイに迷惑を掛けないよう配慮したことが仇となってしまっていた。
「こ、殺すの?」
「ええ。でなければ、僕が殺されますので」
「まあ・・そうだね」
 レイは複雑そうな顔で、半分境界に入った姉を見た。
 僕が近づくと、姉が臨戦態勢を取ろうとしたが、両足は浮いている上に片手だけしか構えを取れないようだ。彼女は、投擲という攻撃方法を知らないようだった。
「さようなら・・姉さん」
 僕はそう呟きながら、姉の後ろに回り首目掛けて貫手を放った。
『ア・・ミ』
 すると、頭に姉の電波が微弱が入ってきた。
 それに驚いて、貫手を引っ込めて後ろに下がった。
「ど、どうしたの?」
「・・・いえ、なんでもないです」
 レイには届かなかったようで、不思議そうな顔をしていた。
「やっぱり殺すのはやめます」
「え!な、なんで?」
 僕の判断に、レイが驚きの声を上げた。昔の僕なら、こんな危険な相手を見逃すことはしなかっただろう。
「気が変わりました・・いえ、甘くなったんでしょうね」
 僕は自虐するように、顔が吸い込まれている姉を見た。
「で、でも、あっちに行くのが危険になっちゃったけど」
「そうですね、少し時間をずらしますよ」
 僕はそう言って、二本になった剣棒を拾った。その間、姉はナルに吸い込まれていった。
「すみません。階段付近、傷だらけになってしまいました」
「ああ、そうね。あとでカンロクに謝っておくわ」
 レイが壁を見て、興味深そうに傷を手で触った。
「よく勝てたわね」
「ここで格闘技を習ったのが、良かったのかもしれませんね」
 クラに来る前に出会っていたら、確実に殺されていた。
「ふ~ん。やっぱり格闘術は学んだ方が優位になるんだね~」
「レイさんは戦いの素質はないですから、鍛えてもたぶん勝てないと思います」
「はっきり言うのね」
 僕の率直な意見に、少し戸惑いながら苦笑いした。
「レイさんは研究者ですからね。戦いは不向きですよ」
「まあ、それは否定しないけど・・・」
 少しとはいえ、ナルの影響を少し受けていても、ナルでは力不足は否めなかった。
「接着剤とかありますか?」
 僕は二本の剣棒を見せて、レイにそう聞いた。
「え、それ使うの?」
「ええ、ここを通る時は無防備になるので、できるだけ牽制できる物があった方が危険を避けられますから」
 といっても、剣棒はあくまでも気休めでしかなかった。
「あ、なるほど」
「ちょっと待ってて」
 他人の家にも関わらず、レイが周りを漁り始めた。
「あ、いえ、レイさんが持ってなければいいですよ」
 まさか他人の物を勝手に使うのは、さすがに気が引けた。
「いいの♪いいの♪」
 しかし、レイはそう言って周りを手当たり次第荒らし始めた。なんとなく、レイの家が散らかっているという理由がわかる探し方だった。
「あっ、ガムテープあったよ」
 止めようとした矢先、都合のいい物を見つけてくれた。
「じゃあ、それ使わせてもらいますか?」
「はい」
 僕が手を出すと、笑顔でガムテープを渡した。さっきまで整理されていた部屋が、レイの後ろだけかなり散らかった状態になってしまっていた。
「一応、片付けはしてくださいね」
 この状況は見るに堪えないので、散らかした本人に任せることにした。
「え!私がするの?」
「散らかしたのはレイさんじゃないですか」
「う!それはそうだけど・・・」
 出した物を仕舞うだけなのだが、なぜか凄く嫌な顔で口を窄めた。
 僕が剣棒をガムテープで巻いている間、レイが愚痴りながら出した物を片付けていった。
「じゃあ、もう行きますね」
 ガムテープを元の場所に戻して、レイにそう告げた。
「え?まだそんなに時間は経ってないけど・・・」
 レイはそう言って、掛け時計を確認した。
「あっちは短気の人が多いですから、何もない場所に数分も留まりませんよ」
「それは理解できるけど・・・相手は人形だよ」
「人形は、その場で留まることが多いんですか?」
「そ、そこまでは知らない」
「もし留まるのであれば、何時間待っても動かないでしょう」
「た、確かに・・・」
 僕は剣棒を境界に入れて、その先端を片手で掴んだ。
「それじゃあ、後はお願いします」
「う、うん。気をつけてね」
「ええ」
 僕は、レイの心配を和らげるように表情を緩めた。
 剣棒が半分まで吸い込また所で、顔と手を少し前に出して、できるだけ先に状況を把握できるようにした。
 顔と手が吸い込まれ始め、周りは光のない闇に転じた。ここから少し時間が掛かるので、最悪の状況を考えながら、自分の体重を極力軽くしておいた。
 顔と指がナルに出てくると、最初に目に飛び込んできたのは、姉の無表情な姿だった。それを見て、僕は死を覚悟した。
 この状況でできることは剣棒で牽制するか、体をできるだけ固くすることだけだったが、姉は動く気配はなく、僕が出てくるのをじっと見つめているだけだった。
 これには不思議に思ったが、全身が出るまで油断はできなかった。姉は長袖のワンピースに、ふくらはぎまである革のブーツを履いていた。肌が露出している部位は顔と手だけだった。
 死を覚悟した時間がゆっくりと過ぎていく感覚は、恐怖心だけが増していった。
『殺さないんですか?』
 この恐怖心に耐え切れず、電波で話しかけてみたが、姉は何も言わず、僕を黙って見つめてくるだけだった。
『・・・何か云ってください』
 まだ体が半分しか出ていない状態では何もできないので、なんとか場を凌ごうと電波を送った。
 すると、姉が一歩だけこちらに踏み出してきた。これを見て、剣棒を両手で持って臨戦態勢を取ったが、一向に襲って来ることはなかった。この状況には、本当に困惑するばかりだった。
 体が境界から出ても、姉は攻撃してくる気配はなかった。僕は姉を見ながら、一歩ずつゆっくりと後退した。殺すことをやめた手前、いまさら姉を殺すのは意に反する気がしたので、逃げることにした。
 ある程度距離を取ったところで、剣棒を手放して、青の光が差す森を走り出した。帰郷を懐かしむ暇はなく、森の中を縦横無尽に走った。
 走り回って数分したところで、後ろを見て追ってこないかを確認した。全力疾走にもかかわらず、後ろからは無表情の姉が追ってきていた。
「ちっ!」
 僕は舌打ちして、逃げ方を変えることにした。
 太めの木の枝に飛び移り、木から木へ移動した。2年半近くの空白期間のせいで、感覚を掴むまで少し時間が掛かってしまった。しかし、姉は攻撃してくる様子はなく、ただ僕についてくるだけだった。
『なんなんだよ』
 小さく愚痴りながら、どう振り切るかを考えたが、体力の限界だった。
「はぁー、はぁー」
 僕は息切れして、姉と再び対峙した。姉は息切れする様子はなく、無表情で僕を見つめるだけだった。
 母親から逃げ切れないと云っていたのは、身をもって体験したので、今度はレイが逃げ切った方法を試すことにした。
 少し先に、建物が立ち並んでいる場所があるので、そこで姉を撒くことにした。
 息を整えて、目的の場所に走り出したが、さっきより数段遅い走りしかできなかった。
 建物まで姉を警戒して、何度か後ろを確認したが、ついてくるだけで攻撃してくる様子は見られなかった。
 森から平野になると、建物を囲う二メートルの塀が見えた。そこを軽く飛び越え、建物を縦横無尽に走り出した。
 その間に幾人の人たちが姉を見て、脱兎の如くその場から逃げ出した。あわよくばその人たちを追うと思ったが、姉は誰も追うことはせずにただ僕についてくるだけだった。
 僕は、必死で姉の視界から消えようと走り回ったが、速度の落ちた僕にぴったりとついていて、いくら逃げても疲労だけが増すばかりだった。
「はぁー、はぁー、はぁー」
 ついには疲労困ぱいで走ることができなくなってしまった。僕は噴き出した汗を拭いながら、正面に立っている姉を見た。
「体力は化物ですね」
 姉は息切れも疲れも見せず、無表情のままこちらをじっと見つめてくるだけだった。レイが姉から逃げ切ったのは、きっと僕には思いつかない方法だと、いまさらながら感じた。
「はぁ~、僕も安直だな」
 僕は独り言を呟いて、体力を回復させるため何度目かの深呼吸をした。
『何か話せないんですか?』
 いつでも殺されてもおかしくない状況に耐え切れず、再び話しかけてみた。
「ダメ・・か」
 姉は僕を見つめるだけで、動くことも話すこともなかった。このままでは僕の生活に、姉がひっついてくるイメージが湧き上がってきた。
『さ、最悪だ』
 それを考えるだけで、頭を抱えてしまった。せっかくクラから逃げてきたのに、このナルでも誰かと一緒なんて笑えない冗談だった。
 この後、僕はありとあらゆる方法で姉を撒こうとしたが、結果は徒労に終わるのだった。

第九話 自由

 逃げ回った挙句、結局境界に戻ってきてしまった。
『はぁー、はぁー、はぁー。いい加減にしてください』
 僕は息切れしながら、姉を睨みつけた。しかし、姉は無表情のまま、さっきより距離を詰めて僕を見つめるだけだった。
 僕は休憩する為、その場に座って後ろの大木に身を預けた。すると、驚いたことに僕の正面で、姉が体育座りでその場に腰を下ろした。
 しばらく、姉と見つめ合うという異様な構図になってしまった。
『何かしゃべれないんですか?』
 沈黙に耐えられず、思ったことを電波に乗せた。
「はぁ~」
 何も返ってこないことに、思わず溜息が漏れた。
「なんでこんなことに・・・」
 僕は頭を抱えて、これからのことを真剣に悩んだ。
『殺すしかないか』
 結論としては、排除する方が手っ取り早い気がした。
 すると、タイミング悪く境界から指が出てきた。
「しまった。休む場所間違えた」
 これは完全に僕の失態だった。いまさら僕がここから離れても、姉が境界から出てくる相手を攻撃する可能性があった。
「問題は誰が来るかだよな~」
 指だけを見ても、誰かは判別はできなかった。その間、姉は動くこともせず、ただ僕の方を見つめるだけだった。
 僕は座ったまま、誰が出てくるかを確認した。
「げっ!なんで人形がまだいるのよ!」
 顔が出てくると、いきなりそんな言葉を発した。
「って、レイさんですか」
 出てきたレイに、僕は肩を落とした。
「ん?え、なんでまだいるの?」
 レイが横にいる僕を視認して、驚いた顔をした。
「この人形から逃げ回っていたら、ここに戻ってきてしまいまして」
「え、どういうこと?・・・っていうか、なんで襲ってこないの?」
「ええ、なんか付き纏われてるんですよ」
「状況が見えないんだけど・・とりあえず、私を人形から守ってくれない?」
「大丈夫ですよ、現時点で動く気配はないでしょう」
 姉は僕を見つめた状態で、体育座りのまま動く気配はなかった。
「なんで動かないの?」
「知りません。こっちが聞きたいぐらいです」
 これは本当に僕が教えて欲しかった。
「ところで、何しに来たんですか?」
「ちょっと、人形が入ってきたって報告したら、境界を監視しろとか言われちゃって」
 言われた相手が嫌な人だったのか、嫌悪感たっぷりに言った。
「それは災難ですね」
「監視しろって言われても、私一人じゃあ人形の撃退はできないわ」
「まあ、レイさんでは、実力不足ですもんね」
「私に死ねって言ってるのよ」
「・・・人形の弱点とか知らないんですか?」
 僕は、正面の姉を見てからレイに聞いた。
「知ってたら、逃げないわよ」
「それもそうですね」
 予想通りとはいえ、はっきり言われると自然と溜息が漏れた。
「それにしても、本当に何もして来ないわね」
 レイは姉を見て、不思議そうに首を傾げた。
「どういう訳か、他人に見向きもせず、僕に付き纏って来るんですよ」
「何か好かれることでもしたの?」
「精神崩壊している相手に、どう好かれるんですか?」
 そもそも好意なんて、僕自身も未体験なのに、精神崩壊した姉がそんな感情が芽生えるなんて考えにくかった。
「む、確かに・・・っていうか、遅すぎる!」
 レイが考え込むような仕草の後に、境界からなかなか出れないじれったさから苛立ちをあらわにした。それに姉が少しだけ反応を示したが、動く気配は見られなかった。
 レイは境界から出てきたところで、姉を警戒しながら僕の方に後退してきた。
「そういえば、レイさんは人形を隔離してるって言ってましたよね」
「う、うん」
 この蒸し返した話に、レイが気まずそうな顔で肯定した。
「彼女も隔離してくれません?」
 殺すよりはその方が、僕としては楽だった。
「ん~、一人じゃあ無理ね」
「え、なんでですか?」
「今は攻撃しないといっても、捕まえるとなると防衛本能で攻撃する可能性があるわ。そうなると、間違いなく私が殺される」
「なら、殺すしかありませんね」
 隔離ができないのなら、殺すことしか思い付かなかった。
「あれ?殺さないんじゃなかったの?」
「付き纏われる以上、殺す以外何かあるんですか?」
 殺される恐怖を、常に傍におきながらの生活なんて想像したくもなかった。
「別に害はないんだし・・いいじゃない?」
「それって、僕から言わせると、頭上に包丁をぶら下げたまま生活しろと言っているようなものですよ」
「あ~、ごめん」
 自分の軽率の発言に気づいたようで、申し訳なさそうに謝った。
「結局、殺すのね」
「緊急措置です」
 体力も回復したので、手っ取り早く姉を殺すことにした。
「殺すのを見たくなければ、目を閉じていてください」
 僕はそれだけ言って、姉にゆっくりと歩み寄った。
 手が届く距離まで近づいたが、姉は何もせずただ僕を見つめてくるだけだった。あまりの無防備さに、攻撃することを躊躇してしまった。これでは母親を殺す時とほとんど同じ状況になってしまった。
「もしかして、無抵抗じゃあ殺せないの?」
「自分の欠点を言うのは気が引けますが、無抵抗だと躊躇してしまいますね」
 僕は姉から目を離さず、レイの質問に答えた。
「優しいんだね」
「さっきも言いましたが、甘いんですよ・・・だからこそ、母さんを殺せなかった」
 最後は独白するように、レイに聞こえないように呟いた。
「やっぱり私たちの世界の方が住みやすいんじゃないの?」
「それはないですね」
 こればかりは比較するまでもなく、自分にはナルの方が生きやすかった。
「ふぅ~」
 僕は深呼吸して、姉を殺す覚悟を決めた。でないと、ナルでの生活ができなかった。
『すみません。死んでください』
 僕は意を決して、最速の貫手を放った。姉はそれを目で追うだけで、死を受け入れた。
『殺・・して』
 姉は体を貫かれながら、最後にそんな電波を発した。母親と同じ台詞に驚いて、慌てて手を引き抜いて大きく後ろに後退した。手には姉の血がべっとり付いていた。
 姉は、貫かれた体を見てから僕の方を見た。気のせいかもしれないが、ほんの少しだけ表情を緩めた気がした。
 そして、母親が生成した物と同じように昇華が始まった。
「死を受け入れたみたいね」
 レイがそれを見ながら、悲しそうに言った。僕の手に付いた血も昇華を始めた。
「これで僕も身内殺しですね」
「え?身内?」
 僕の言葉に、レイが驚きの反応を示した。
「多分ですけど、彼女は僕の姉です」
「・・・は?なんでそれ早く言ってくれないのよ!」
 レイが大声を出して、鬼気迫る表情で僕に詰め寄ってきた。
「え?」
 この過度な反応に、僕は困惑して言葉が出なかった。
「言ってくれれば、隔離に協力したのに!」
 レイが絶叫に似た叫びで、僕にさらに迫ってきた。
「そんなの知りませんよ」
 いまさら言われても、もうどうしようもなかった。
 姉はある程度昇華が進み、その場に仰向けに倒れた。どうやら、筋肉の昇華が始まり、立っていられなくなったようだ。
「死ぬの待って!」
 レイが慌てて、姉に近寄った。驚くことに頭を手で支えて姉の上半身を起こした。
「お願い!生きて!」
 しかし、その願いも虚しく、姉は時間を掛け昇華していった。
「そ、そんな・・・」
 昇華し終わった姉を、レイは悲しそうな顔で見届けた。母親もきっと姉のような死を望んでいたことだろう。
「じゃあ、僕はもう行きますね」
 レイの焦燥の顔を見てから、僕は森を歩いて移動した。幸先は悪かったが、ようやく平穏な生活を始めることができそうだった。
『はぁ~、疲れた』
 僕は姉を殺した罪悪感より、姉から逃げ回った疲労感の方が強かった。
 とりあえず、前まで住んでいた場所にゆっくり向かうことにした。
 森を出て、空を見ると二つの惑星が青白い光を放っていた。それを見て、帰ってきたとようやく実感できた。
 何もない平地を歩きながら、少しだけ警戒心を解いた。障害物がないので、他人の接近はすぐに感知できた。
 本当は人目に付かない方が、安全に行けるのだが、久しぶりのナルなので、警戒心が通常に戻るまでは障害物の少ない場所を歩くことにした。
 休憩しながら、のんびりと目的の場所に行く途中、何人か人を見たが、僕を見るなりすぐに逃げていった。
「やっぱりこうでなくっちゃ」
 僕は独り言を呟きながら、開放感を感じていた。
 目的の場所は山を超えないといけなかった。前までなら獣道を木々を飛び移りながら移動していたが、さっき逃げ回った時に感覚が鈍っていたので、危険を覚悟で人道を歩いていくことにした。
 山の中腹に差し掛かると、一体の人形が突っ立ていた。母親と一緒の時には、一度も会わなかったのだが、ここにきて二度も遭遇してしまった。
『あれが原型・・なのかな』
 僕は、人形を遠目で観察した。身長は僕の三分の二程度で、髪の灰色以外は姉とほぼ同じ服装だった。
 人形が僕に気づき、攻撃を仕掛けてきた。生存本能とはいえ、人形に逃げるという選択肢は頭に組み込まれていないようだ。
 人形は両手を擦り合わせるように、武器を瞬時に生成した。動きはかなり速いが、姉ほどではなかった。
『なるほど、武器の種類は多種多様なんだね』
 人形が生成したのは形が歪な手斧で、大振りの攻撃仕掛けてきた。それを最小限でかわして、人形の襟首を掴み、思いっきり森の方に投げ飛ばした。
 人形は、綺麗な放物線を描くように森に落ちていった。
『ホント、甘くなったな』
 僕はそう云いながら、ゆっくり歩き出した。
 山頂に着くと、あちこちに簡易テントが張られていた。これは特に不思議でもないので、素通りして行くことにした。
『き、君、今そっちから来なかったか?』
 突然、テントの後ろから男がおどおどしながら僕に訊いてきた。これには少し驚いてしまった。
『そうですけど』
 男性を見ると、全身を包み込むような青の服を着ていて、顔以外は皮膚が見えなかった。
『人形いなかったか?』
『ええ、いましたけど。森の方に行きました』
『そ、そうか・・・』
 男性は複雑そうな顔で、僕が来た方向を見た。訊かれたことには答えたので、先を進むことにした。
 山を下りて、しばらく歩くと目的の場所が見えてきた。
『久しぶりだな~』
 それを見て、僕は感慨深い気持ちになった。廃墟のような建物がいくつか並び、クラの世界ではゴーストタウンとしか認識できないような様相だった。
 僕はそれを横目に、獣道に入った。獣道を掻き分け、しばらくすると正面に洞窟が見えてきた。念の為、警戒心を強めてから洞窟の中に入った。
 奥まで行くと、土の壁が見えてきた。これは僕が造った土壁だった。その中央には不格好の扉があった。
 その扉を慎重に開け、中の様子を窺った。中は暗くひんやりとしていて、人の気配は感じられなかった。
「はぁ~」
 僕は安堵して、自然と肩の力が抜けた。
 部屋の奥に窓があるので、手探り状態でその窓まで歩いた。
 上斜めに設置した窓をゆっくり開けると、青白い明かりが部屋に差し込んできた。部屋の広さは6畳ぐらいの空間に簡易的に作ったベッドが二つあるだけだった。ベッドといっても木の枝を重ねてその上に藁を敷き詰めただけだった。
 ナルでの生活では寝る場所の確保が重要で、他のこと些細なことだった。
 開けた扉を閉め、部屋の変化を確認した。ベッドは少し腐敗していて、直す必要が出てきた。
「ベッドも改良しよう」
 クラでのベッドを思い出しながら、自分なりに作ってみることにした。
 一通り確認したので、今度は洞窟の周辺を調べた。草木の成長が見られたが、それ以外の異常は見られなかった。
「お、これは使える」
 蔦上の木が予想以上に成長していて、簡易ベッドにはもってこいの素材だった。
 周辺を調べ終わり、ひとまず部屋に戻った。
「今日は寝よう」
 ナルでは時間の概念がないので、疲れた寝るのが普通だった。
「はぁ~~~~」
 ベッドで横になり、思いっきり溜息をついた。
「疲れた」
 目を閉じてしばらくすると、クラの2年半が走馬灯のように頭によぎった。これには違和感を覚えて、目を開けると目に誰かが映った。
「なっ!」
 僕は驚いて、飛び起きて後ろの壁に張り付いた。寝ているとどうしても、警戒心が解かれるので、周辺を確認したのだが、母親のいないことを考慮して範囲をもっと広げるべきだった。
『起きたわね』
 目の前に、死の象徴が笑顔で僕を見つめた。彼女は僕より少しだけ小柄で、青い長髪に全身にストラみたいな礼装をしていた。
『な、なんでこんなところに』
 僕はそう云いながら、逃げる道筋を立てた。
『アミは、どこにいるの?』
『ここにはいませんよ』
 窓が開いていたので、そちらににじり寄りながら答えた。その間、動悸が治まらなかった。
『あ~、逃げないで。別に触れるつもりはないから』
『無茶云わないでください』
 こればかりはこんな近距離で云われたくなかった。死の象徴である彼女に、僕の細胞が危険信号を発していた。
『無茶って・・あたしだって、ここに来るのに必死だったんだから』
 彼女は不満そうな顔で子供のように頬を膨らませた。彼女は情報の処理がかなり苦手で、視野に入る情報全てを認識しようとするので、最終的に脳内麻薬を生成して発狂する習癖をもっていた。
『一人で来たんですか?』
『それ、嫌みで云ってる?』
 僕の台詞に、彼女は整った表情を歪めた。
『でも、ここにいるのは一人ですし』
 部屋を見回しても、僕と彼女しかいなかった。
『アミがいるかもしれないから、外で待ってるのよ』
『母さんはここにいないので、出て行ってもらえませんか?』
 あまり安息な場を、他人に踏み荒らして欲しくはなかった。
『結局、無駄足だったわけか』 
 そう云うと、大きく息を吐いて肩を落とした。
『それにしても、良い家ね』
 彼女は部屋を見渡して、不吉なことを云い出した。
『早く帰ってください』
 僕は煩わしさを顔に出して、手を振って帰るように促した。
『云われなくても、帰るわよ』
 それに気を悪くして、ふくれっ面で扉を開けた。
『そうそう、もしアミの居場所を知ってるなら、教えてくれる?』
 そして、こちらに振り返ってそうお願いしてきた。
『知りません』
『じゃあ、会うことがあったら、あたしが会いたいって伝えておいて』
 母親にそんなこと伝えても、従うなんて思えなかった。
『わ、わかりました』
 が、ここは適当に話を合わせておいた。
 彼女が外に出ると、洞窟の入り口付近に誰かが立っていた。
『よくここがわかりましたね』
 昔からよく見知った顔だったので、その場から電波を発した。
『あれだけ目立てば、誰でもわかるさ』
 彼は、そう応えてから僕の方を見た。鎧姿の整った顔立ちの青年だったが、目つきは異常なほど悪かった。
『どうしてここがわかったんですか』
 この場所は、母親と一緒に居た時は誰にも見つかることはなかったので、後学の為ここまで来た経緯を訊いておいた。
『人形に追われているところを目撃されて、歩いて山を上がったところも目撃されてる。山を越えた辺りに踏まれた草を見れば、自然とここ導かれただけだ』
『なるほど』
 いつもは木を伝って移動していたが、久しぶりで勘が戻らず、歩いてきたことが仇となったようだ。
『じゃあ、またな』
 彼はそう云って、怯える彼女を引き連れてここから去っていった。
「はぁ~、もうここには住めないか・・・」
 ここがばれた経緯を知った以上、新しい場所探すしかなかった。
「これからは放浪の日々かな」
 先は見えないが、自分の失態なのでこればかりは仕方なかった。
「ひとまず、寝てから考えよう」
 さすがに寝ないでの移動は、気分的にしたくなかった。
 部屋に戻り、扉と窓に簡易的な鍵を付けて、ベッドに倒れ込んだ。暗闇の中、いろんな人の顔が浮かんでは消えていった。
 僕は、寝返りの違和感で目を覚ました。
「あ~、そうか。ここはナルなんだ」
 そう独り言を口にしながら、体を起こした。部屋に明かりがないので、手探りで窓まで行き、施錠を外してから窓を開けた。
「ん~、体調は悪くないな~」
 僕は体をほぐしながら、ナルの自然を窓から眺めた。
「まずは、栄養補給かな」
 クラに長くいたせいで、声での独り言が多くなっていた。
 洞窟を出て、森を散策しながらいくつかの植物を口に含んだ。このナルでは植物から取れる栄養は、クラの植物とはだいぶ違っていた。
 必要な栄養分を摂取できたので、後は寝床を探すことにした。
「さて、自由に生きて、勝手に死ぬか」
 それが人の生き方だと、母親から唯一教わった殺し以外の教えだった。
 この先の未来は全く見えなかったが、何かに縛られるよりは晴れ晴れとした気持ちだった。

ナル∪クラⅤ

ナル∪クラⅤ

争奪戦終盤。 クラでの用事を終えた篠沢春希は、静かに学校を去ろうとしていた。 しかし、周りの人たちの余計な行動のせいで、いろいろな面倒事が降りかかるのだった。 ※この作品は小説を読もう、のべぷろで重複投稿されています。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 青春
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話 準備運動
  2. 第二話 五回戦
  3. 第三話 準々決勝
  4. 第四話 軽率
  5. 第五話 準決勝
  6. 第六話 状況
  7. 第七話 遭遇
  8. 第八話 関門
  9. 第九話 自由