夕方の寂しさ

夕方の寂しさ

夕方の寂しさ

「なんだか夕方って寂しい気持ちになるんだよね」
ホームセンターでいくつかの小さな家具を買ったその日に、母は、帰路の車の中でそんなことを言った。夕焼けの明かりが車の窓なんて関係なしに、ずけずけと中に入ってくる。そのせいで、僕は目を細めるしかなかった。遠くに見える山の向こうに、真っ赤な太陽があって、それはあと少しでも時間が経ってしまえば、その山の向こう側に隠れてしまう。
「寂しい?」
僕は目を細めながら母に聞いた。母は夕日を避けるために、運転しながらも片方の手でサンバイザーを調節していた。
「ん、……ああ、うん。なんだか寂しーい気持ちになるの。……一日が終わるって感じなのかなあー」
「一日が終わるから、……寂しい?」
「終わることは、別に嫌でもなんでもないんだけど、なんかこう、……胸のあたりがざわざわするみたいな感じ?……うーん、よく分からないんだけど」
母の言いたいことは僕にはよく分からなかった。……分からなかったという訳ではない。確かに夕日には、というか、一日の終わりには一種の虚無感というか、終焉を感じさせる何かが存在していると思う。だけど、それを夕日に感じることはできなかった。夕日はただ沈んでいく太陽であって、ただそれだけのことに過ぎない。夕日が寂しいのであれば、朝日だって、高く昇った昼間の光だって、寂しくなくては都合が悪い。
「ちょっとよく分からないな」
僕は目を細めたまま、少しの眠気を感じていた。寂しさは感じないけど、眠気を感じさせるものが夕日にはあるのかもしれない。
「そう?」
僕が思っていた以上に母は驚いた様子を見せた。その反応に僕だって少し驚く。
「感じない人もいるのねー」
あたかも、全人類がそのように感じているかのように言った母の言葉は、よりその寂しさを感じさせている事実を表す証拠のようでもあった。そこまで言われると、僕だけが少しおかしな人間なのかもしれないと思ってしまう。ただそれでもそう感じない事実はひん曲げることはできないから、僕はもう一度その眩しい夕日を細い目で見つめながら、段々と沈んでいくその様を眺めていた。
「一人暮らし、ちゃんとできるの?」
そう言った母の言葉に「うん」なんて曖昧に答えながら。

 そんな話をした頃から、もう随分と時が経った。
 それに、今の今まで昔そんな話をしたことなんてすっかり忘れていたのだ。だけど、それを急に思い出したのは、やっぱり母の何かを思い出させる空気がこの場にはあったからだと思う。
 母は数日前に他界した。それから数日後の今日に葬儀が行われている。もちろん悲しいけれど、それを受け止められるくらいの年齢になっている自分もそこにはいた。自分の子供だってもうあと2年も経てば20歳になるのだ。自分だって死というものがそう遠いものではない。
 円滑に進んだ葬儀は早々に終えられて、一服をしながら夕日を眺めていた時に、そんな話を思い出したのだ。
”なんだか夕方って寂しい気持ちになるんだよね”
すぐ側で母がそう言っているのかと思うほどに、明瞭な声が頭の中で鳴り響いた。もうしばらく話してもいなかったから、声だって曖昧だったはずなのに、その言葉は昔の母の面影さえも一緒に思い出させる。
「お疲れ様」
弟が僕に声を掛けた。
「タバコは体に悪い。やめるべきだよ」
そう言った弟に対して、「ああ」と生半可な返事しか返せない。
 正面で刻一刻と沈んでいく太陽が眩しく、あの時と同じように目を細めていた。赤く、煌々と光るそれは寂しさを伴っているのか、やはり僕には判断ができない。
「なんかさ、夕日って見てると寂しくなるよね」
左側から聞こえたその声に反応し、僕はそちらを向いた。弟は隣で同じく夕日を眺めている。目を瞑っているのかと思うくらいに細めながら。
「え?」
思わず聞き返した言葉に、こちらを向いてから「分からない?」と弟は僕に問うた。
「なにが?」
「だから、夕日って見てると寂しくなるよね、ってこと」
僕の反応に弟自身が驚いているように見えた。しばらく間が空いてから、「どうしたの?」と聞いてくる。
「いや、別に……」
と言ってからタバコを灰皿の上でもみ消した。

”なんだか夕方って寂しい気持ちになるんだよね”
また甦ったその声に、弟の姿が重なった。弟は夕日を見つめ、その夕日に母の姿を見ているようにも見える。痛いくらいに差すその光に想いを馳せながら、徐々に母がもう死んでしまったことを受け入れていく。体に少しずつ馴染ませていくように、ゆっくりと、ゆっくりと、浸透させていく想いを、ちょっとずつ、ちょっとずつ、感じながら。
「母さんも昔同じことを言ってたんだよ」
僕の言葉に弟は振り向いて、「なにを?」と聞いた。
「夕日を見ると寂しくなるって」
僕は目を細めながら、その赤い光に視線を向ける。
「え……。兄さんは感じないの?」
驚いた様子を見せるその姿が、また母のあの時の面影と重なる。
「うん、別に……。ただ、母さんのその姿と重なる。夕日を見ると。だから、今は少し寂しいと思ってる」
弟はしばらく僕のことを見てたけど、それからゆっくりと視線を外して
「夕日を見て寂しいって感じない人なんかいるんだ」と小さな声で言った。
「いたんだ、ここに」
 夕日は次第にその姿を隠そうとしている。あと少しすれば、完全にその顔を隠してしまって、いずれ夜がくる。そうしたら夕日と重なった母を失う気持ちに苛まれるかもしれない。そして僕は少し寂しさをまた感じるのかもしれない。
 目を閉じると、まぶたの向こう側に赤い光がほんのりと見える。暖かくて優しい光だ。こんなにも温もりを伴っているというのに、やはりこれに寂しさを感じるなんておかしいじゃないか。
 そう思いながら、一粒の涙が頬を伝っているのを感じていた。

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夕方の寂しさ

夕方の寂しさ

「なんだか夕方って寂しい気持ちになるんだよね」 そう、母が言った。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-27

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