音と悲しみ

音と悲しみ

音と悲しみ

 
 トーストの焼き上がった音が私の耳を叩く。私はまだ眠気眼のまま、トースターから吐き出されたその一枚のパンを、パンのサイズには大き過ぎるくらいの真っ白なお皿の上に乗せた。
 一人だけの朝食は今日で三日目。彼は今どこにいるのだろう。ほとんど無音に近い部屋の中で、私はぼんやりとそんな事を考えてみる。彼の事だから、きっとどこかの友達の家に世話になっているのだろう、ん、でも、もしかしたらどこかの道ばたでぐったりと倒れているかもしれない。とにかく彼がどんな形で、今どこかに存在していようが、私は心配でならなかった。彼の居場所がもし分かるのなら、私はすぐにでも彼を迎えに行くというのに、彼はその居場所を私には教えてくれない。
 ……というか、私がいくら電話をしようが、メールを送ろうが、何の返答もないままだった。皮肉な事に、私は彼との連絡を絶ってしまえば、ほとんど携帯電話の必要性がないという事まで分かってしまった。誰とでも繋がっていいはずの道具なのに、それこそ彼専用の携帯電話と言ってもいいくらい。
 私の携帯電話はずっと声を発さないけれど、ただずっと私の側にいてくれる。

 テーブルの上に置かれたままの、一枚の婚姻届が可哀想にも思えてくる。
 彼がこの家を出て行った日、私たちは本当に些細な事で口論になった。口論なんて日常の一部のようなものだったし、私たちは口論があってこそ充実した関係を築けているのだと思っていた。そう思っていたのだけど、それはたぶん私だけだったのだろう。そうじゃなければ、彼が三日も家を空ける事なんてないはずだし、家を出て行ったとしても、その日の夜には帰ってくる。だけど、彼は帰ってこない。
 あの日に一緒に書くはずだった婚姻届も放置されたまま、私だってまだ手を付けていない。
 だって、一緒に書くって言ったから。
 すぐに帰ってくるだろうなんて思っていたから、それほど気にしていなかったけれど、これだけ帰ってこないと私だって不安になる。だけど、打つ手は一つもない、探すにも、そのあてさえ分からないのだ。私は彼の事を全然知らなかったんだ。それに、知ろうともしていなかったのかもしれない。

 バターナイフにマーガリンを付けて、それをパンに添ってこすると、かりっかりっと音がした。二人で毎日朝食を食べている時なんて気にもならない音だったはずなのに、一人でいるとこんなにも鮮明に耳に届くその音。
 私はマーガリンをぬっている時、彼とどんな話をしていただろう……。ただ、幸せだった事しか思い出せない。でも、できれば、こんな音を聞きたくはない。
 私はパンを一口かじる。そうするとまた、かりっと音がなる。音一つでこんなにも悲しくなるなんて不思議。意識していないのに流れてくる涙を止める事ができないでいる。
 今日、彼は帰ってくるだろうか。もし、彼が帰ってきたら何て言おう……。
「ごめん」
心で思っていただけなのに、その言葉は勝手に口から吐き出される。うん、そう言おう。
 そしたらきっと、このパンの音も聞こえなくなると思うから。 


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音と悲しみ

音と悲しみ

音から感じる悲しみが、私の心を抉るようで……。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-27

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