勝五郎立志篇

落語「芝浜」を小説化したものですが、あえて影響をうけないよう聞き直すことことなく、曖昧なストーリーの記憶のみを再構成しております。芝の魚市場は夕市だったこと。魚屋が拾った大金は大判だったのか?小判だったのか?女房はどんな出自だったのか?などオトナの自由研究のつもりで自分の解釈を加味しつつ、楽しんで書いたのですが、あちこち応募した結果は芳しくなく、記録のつもりでupします。忌憚なくご意見・ご感想など頂ければ幸いです。

 裏長屋の狭い路地を子供が七、八人、つむじのように駆けてゆく。
 師走のならいも何のその。どぶ板を踏み抜き、ごみ溜めをひっくり返し、洗濯物を抱えたおかみさんを突っ転ばして、尻をまくられパン、パン、パン。
 三人ばかりワッと泣くやら、ギャアギャアいってる赤ん坊を背負った鳶の女房が裸足のまんま飛び出して、目ん玉が飛び出たおかみさんと行儀がどうの躾がこうの、唾を飛ばすやら引っ掻き合うやら。
「うるせえなあ―――」
 勝五郎は眠い目をこすった。まだ酒が残っている。
「おちおち寝てもいられねえや」
「なに言ってんだい。あんた、いい加減に起きとくれよ」
 ちょうど九尺二間の裏店に帰ってきた女房のおせんが、
「いま何時だとお思いだね」
「何時だ」
「もう夕七つだよ」
「なんだ、夕七つか―――よく寝たな」
 師走の夕七つは、いまの午後三時過ぎにあたる。
「すると、おいら昼のまんまを食いそこねたわけか」
「いまごろ起きて昼のまんまって―――呆れたね、この人は」
 おせんは溜め息をついた。
「だいたい昼のまんまは、元々お百姓さんのおやつじゃないか。お百姓さんなら、そりゃあ疲れて何か食べたくもなるだろけどさ」
 江戸中期まで食事は朝夕二度が基本だったが、農民は疲労回復のため昼八つに間食をとる習慣があった―――オヤツの起源である。
「それをなんだい、あんたときたら。今の今まで呑気にに寝ていて、昼のまんまもないもんだよ。紀州からきた今度の公方様だって、一日に三度も食べるのは威張ったお腹だって、家来のお侍を叱ってるって言うじゃないか」
 最近の井戸端じゃ、そんな話もするのかい―――と、渋い顔の勝五郎だが、おせんはなおも膝を詰めて、
「お殿様だってそうなんだよ。あんた、いったい何様だい?寝てばかりの魚屋じゃないか。十日も仕事にいかず酒ばっかり。それで三度のまんまをいただく銭がどこにあるんだい」
「わかった、わかった。そうけんけん言うもんじゃねえ。いらねえ。ああ、いらねえよ」
 とふてくされて、ごろりとなる。
「起きたばっかりでもう寝ちゃ何にもならないじゃないか」
「寝ても起きてもうるせえやつだな。どうしろってんだ」
「仕事にいっておくれよ」
「う」
 しかし、すぐに何食わぬ顔をして、
「ああ、仕事か」
「ああ仕事かじゃないよ、空とぼけて白々しい」
「まあ、いかねえこともねえが」
「じゃあ、はやく支度しなくっちゃ」
「まあ待て、まあ待て。そう急くな」
 勝五郎は、あらたまったように座りなおした。
「いいか。慌ててしくじるような奴は半人前だ。ちゃんとした仕事ってのはきちんと拵えをして、それから始めるものなんだ」
「何が言いたいんだね」
「仕事にはいく。ただ、そいつは今じゃねえンだな」
 勝五郎は腕組みをして、
「思えば俺も悪かった。お前があんまりできた女房なもんだから、つい甘えちまってすまねえことをしたが、今のでくっきり目が覚めた。覚めたからには抜かりなく拵えをして、気持ちよくいこうとそう決めた。ところがももんが、商売道具は毎日つかってやらねえと臍が曲がるときてやがる。まあ二日ばかり手入れすりゃ機嫌も直るだろうから───」
「道具さえありゃ仕事にいくと、あんた、そう言いなすったねえ」
「―――おう」
 口上を遮られて仏頂面の勝五郎は、おせんの微笑に小さく心をざわつかせた。
「まさか二言がおありじゃないだろうね」
「まあ、そうだな。なんだ、道具があればよ」
「どうなんだい」
「二言はねえ。男が口にしたことだ」
「そうかい。道具ならね、ちゃあんと手入れをしておいたよ」
「なん―――」
「何年、魚屋の女房をやったとお思いだね。包丁は研いだ。盤台の糸底には水を張った。草鞋だって新しくしたんだから、さぞ足も軽いだろうよ」
「むむ」
「嘘だと思うなら、みてごらん」
 改めるまでもない。おせんがこういう物言いをするときは、嘘やはったりはないと、勝五郎はよく知っていた。
 それでも、なお抵抗を試みて、
「しかしだな。商売ってのは気の持ちようが大事なんだ。そうは思わねえか」
「あんた、まだ何かお言いかえ」
「いや、二言はねえ。二言はねえが、てめえで拵えて、よしと立ち上がるのと、何だかわかんねえうちに出るのとじゃあ、心持ちが違うってもんだ。わかるだろう」
「わからないじゃあ、ないさ。ああ、よくわかったよ」
 おせんはじろりと勝五郎を睨めつけた。
「あんた、私を元の場所に返しちまおうって了見だね」
「なんだ藪から棒に。どっからそんな話になった」
 先程の笑顔とはうって変わって、おせんは愁いを帯びた微苦笑を浮かべていた。
「いい夢だったねえ。親に売られたのが八ツの春。女衒に連れられ三日三晩。やっとこ着いた品川の旅籠で下働き。十四の頃からお客をとって、苦界に沈んで七年三ツ月。ある日あたしを買ってくれた兄さんが、お前はもう十分に苦労した、年季明けなんて気の長えこと言わねえで、今すぐ身請けてやるからうちに来な。そう気っ風よく言ってくれた時には、とっくに諦めていた人並みの暮らしができるんだって、手を合わせて泣いたっけねえ」
「そりゃまあ、俺もあんときは―――博打で大勝ちしてよ」
 その後がいけなかった。どうかすると日のあるうちから酒を煽り仕事にいかなくなる。そんな勝五郎に、所帯が維持できるわねもなかった。
 昨年の大晦日に至っては、集金を死んだ振りでやり過ごすという、笑い話のような真似までしてのけた。その時はおせんも茶番劇の片棒を担がされている。
 実家があれば、そのように娘はが笑いものになるのを放ってはおかないだろう。ところが、おせんには帰る家がない。
「ほんと、いい夢だったよ。元々あんたに身請けてもらった身だ、元の場所に返したくなったんなら仕方ない。何年か人並みの暮らしってやつを真似てみたのがお慰み、思い出を抱えてまた飯盛女もよかろうさ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てってばよ」
「でもこの歳じゃあ、薹が立って無理かねえ。それじゃアあれだ、夜鷹にでもなろうかね。あんた、あたしが橋のたもとで筵を抱えていたら、たまには情けをかけておくれかい」
「待たねえか、このあま!」
「苦労なんか、させないつもりだったんだろう?腕のいい棒手振りなんだって。確かに腕はいいよ、その気になった時にはね。だけどこのところ、すっかりやる気をなくして寝てばかり。つもりもその気もなくしたのは、あたしなんかどうでもよくなっちまったからなんだ。そうだろう?」
 そっぽに向いたおせんの頬に、つうっと一筋、涙がつたった。
「おい、泣くなよ」
 すきま風が吹き込む九尺二間で、声を押しころして泣かれると、所在のなさもひとしおだった。
 沈んだ空気を振り払うように、勝五郎は勢いをつけて立ち上がった。
「そうだ、思い出したぜ。実は今日は商売に行こうと辰の野郎と話してたんだった。うっかりすっぽかしちまうところだったぜ。起こしてくれて有り難うよ」
 おせんは応えず俯いていたが、
「あんた、無理しなくていいんだよ。あたしはあたしで身の振り方を―――」
「おっと、馬鹿を言うもんじゃねえ。こちとら寝ていても、商売のことはこれっぽっちも忘れてねえんだ。それに辰の野郎がひとりじゃ仕入れもうまくいかねえ、どうか助けてくんねえって泣きやがるから、仕方ねえなってんで約束したのが、そういや昨日だった。ちょっくら行ってくるから、源公が来たら酒ばかり食らってねえで、ちったあ世間並みに働いてお袋さんを安心させてやれって伝えてくんな。それじゃあ、頼んだぜ」
 そう言い残して、そそくさと出掛けていった。
 おせんは暫く耳をそばだてていたが、戻ってくる気配がないことを確かめると、
「やれやれ。世話の焼ける」
 子供をあやした母親のようにひとりごちて、内職の準備にとりかかった。
 世の中を数多く見てきた彼女にとって、このくらいは芸のうちにも入らない。


 木戸をくぐって表通りに出たが、いつも騒々しい街が今日はさらに忙しなく見えるのは、やはり師走のせいだろうか。
「ちっ」
 勝五郎はこの時期が嫌いだった。
(どいつもこいつも、あくせくしやがって)
 浮き足立つような街をいまいましく思いながら、自分も自然と足早になる。
 といっても当時の芝金杉町は現在の芝一・二丁目にあたり、芝の魚河岸は目と鼻の先だったので、急いだところでたかが知れていた。
 その時、増上寺が時の鐘を衝いた。
「?」
 勝五郎は足をとめ、訝しそうに首を傾げて、通りかかりの小僧を呼び止めた。
「ちょいとものを尋ねてえが、今の鐘は八つだったかい」
「ああ、八つだよ。兄さん、でかいなりをして、ぼんやりしてちゃいけないね」
「餓鬼が生意気な口をききやがる。まあ、いいや。ありがとうよ」
「なんだ、駄賃はないのかい。大人のくせに、しけてやがらあ」
「何を、この!」
 拳骨をかいくぐって小僧は逃げていった。勝五郎は小石をひとつふたつ投げてから、
「おせんのやつ、時を間違えやがったな」 
 さもいまいましそうに、そう言った。冬の昼八つは現在の午後一時半にあたる。
「昼のまんまだって、食えたじゃねえか!」
 勝五郎は地団駄を踏んだ。

 当時の芝浜は夕河岸だった。
 江戸城ご用達の日本橋と違って、芝の魚河岸は最初から庶民の生活に直結しており、雑魚場と呼ばれ親しまれたという。
 おせんが時刻を間違えたおかげで、どのみち市場は開いてない。戻ってどやしつけようかと考えて、それも面倒と気重な足を魚河岸に向けた勝五郎だったが、
「ふん」
 潮の香りが漂ってくると、心にむくむく頭をもたげてくるものがある。
「まあ、こいつも悪くねえ」
 日中は海から陸へ潮風が吹く。起き抜けの洗ってもいない顔を、そいつにさらしてみるのもいいだろう。
 松林を抜けると灰色の砂浜が大きな弧を描いていた。勝五郎はしばし海原に背を向けて、カチカチと煙管に火を移すと、
「よっこらせ」
 と、腰を下ろした。
 よく晴れた冬空に鴎が二羽ほど浮いている。
 こいつはちょっと、オツだねえ―――。 
 と口にこそ出さないが、満更でもない顔で煙管をくゆらせていた勝五郎が、風にあたるのもそろそろ頃合いとみて、ぼんやり風景を映していた視線を波打ち際まで戻したとき、
(む)
 視界に何となく引っ掛かるものを覚えて、少しばかり目をこらしてみた。
(あれは財布じゃねえか?)
 拾い上げて中身を確かめると、勝五郎の表情が変わった。なるべく何気ない動作を心掛けて財布を懐に滑り込ませる。
 魚河岸など脳裏からすっかり消え失せていた。

「ごめんよ、あたしときたら時を間違えちまって―――あれ、どうしたんだい」
 てっきり腹をたてて戻ってきたと思ったおせんは、そうではない、どこか切迫した表情を亭主の顔に読み取った。
「誰も来てねえか」
 そう戸口から覗き込んで、すぐに入ろうとはしなかった。
「誰もいないよ」
「ねえ、言ってれなくちゃわからないじゃないか。いったい何があったんだい」
「でけえ声を出すんじゃねえ」
 勝五郎は血走った目で女房をひと睨みしてから、まだ湿っている革製の財布を取り出した。
「あんた―――」
「拾ったんだ。勘違いするな」
 勝五郎が財布を広げると、拾両の墨書こそ海水に洗われ消えているが、そこには紛れもない享保大判が七枚。
 目を剥くような大金であった。

 太閤秀吉が規格化した大判金は、主に武家の恩賞にもちいられ、一般に流通する貨幣ではない。
 つまり勝五郎のような町人が遣えばそれだけで、
(おや)
 と首を傾げる程度に不自然なのだが、
「なあに、ちゃんと考えがある」
 勝五郎はにやりとした。
「考えがあるって、あんた、これ届けないのかい」
「馬鹿。流れに逆らうやつがあるもんか」
「流れ?」
「ツキとも言わアな。いいか、こういう時はな、流れに乗っかったほうがいいんだ。無理に逆らうと、かえってろくなことにならねえ。流れをせなに前へ出るのよ」
 おせんは今の勝五郎と同じような顔を、昔から何度も見ている。まさしく博徒の顔だった。
「なあに、心配にゃ及ばねえ。昔の連れに両替屋がいるんだ。そいつに小判の二、三枚ばかし握らしときゃ大丈夫だろうよ。造作もねえこった」
 おせんの心に不安がひろがっていく。
 こういう状態のときに道理を説いても、むきになるのが普通で、そうなればなるほど引き返すのが難しくなる。
「あんた!」
 おせんは、ぽん、と手をうった。
「やったじゃないか。あたしは、いつかこんな日がくると思ってたんだよ」
 勝五郎は驚いたように見返したが、
「へへ、調子のいいことを言うじゃねえか」
「世の中って捨てたもんじゃないねえ。こんなことも、あるんだねえ」
「おうよ」
「それもこれも、あんたが目端のきく人だったからだと、あたしは思うねえ。だって普通は気づかないもんじゃないのかい、財布なんか落ちてたってさ。よく見逃さなかったもんだねえ」
「そこは、お前―――まあ、あれだ。これでも商売人の端くれよ」
「そうだ!こんないいことがあったんだからさ、ちょっとお祝いでもしたらどうかねえ」
「お祝い?」
「そうだよ、ほんとの大盤振る舞いと洒落込もうよ」
「うん―――まあ、そいつは両替したブツを拝んでからでも、遅くねえんじゃねえか」
「そうねえ。それもいいけど、大判なんかがウチにあるって一生に何度もないんだからさ、一晩くらい畳のしたに敷き並べて、その上で大騒ぎってのも洒落てていいんじゃないかねえ」
「ふむ―――悪くねえ」
(しめた!)
 というのが顔が出ないよう、はしゃいでみせる。
「じゃあさ。あたしはこれからひとっ走り行って、お酒を買ってくるから、あんたは皆を呼んでおいでよ」
「よしきた」
「おっとその前に、大判を隠しておかなくちゃ―――そうだね、このあたりがいいんじゃなかねえ」
 おせんの目論見どおり、その晩は呑めや歌えの騒ぎになった。
 辰だの源だのといった馴染みはもとより、おちおち寝ていられない隣近所も巻き込んで、見回りしていた火の用心、通りかかった夜泣き蕎麦、小言をしにきた大家まで、およそ視界に入るものは、何でもかんでも引っ張ってこないと気が済まない。
 はた迷惑な連中であった。


 裏長屋の狭い路地を子供が七、八人、つむじのように駆けてゆく。
「うるせえなあ―――」
 勝五郎は身を起こそうとして、呻いてまた横になった。
 ちょうど帰ってきた女房のおせんが、
「ちょっと、あんた。起きなよ。起きなってば」
 と、いつにない剣幕で詰め寄った。
「お、おい、こら。揺らすな」
「いい加減にしな。いま何時だとお思いだね」
「何時だ」
「もう夕七つだよ」
「なんだ夕七つか―――今度は本当か?」
 おせんは怪訝な顔で、
「なんのことだい?」
「だってお前。昨日、時を間違えたじゃねえか」
「なにを寝惚けてるんだろうねえ、この人は。それよりあんた、昨日あんなに呑んで、支払いはどうするんだい」
「どうするって、拾った大判があるだろう」
「大判ん?」
 おせんは眉を寄せた。
「大丈夫かい?あんた、頭でもうったんじゃないだろうね」
「お前こそどうしたんだ。ふたりして、この畳の下に隠したじゃねえか。ぴかぴかの大判をよ」
「なに言ってんだい?大丈夫かい?」
 勝五郎はもう返事をせず、畳のへりに手をかけた。すっとぼけやがって、いくらなんでも本物を拝んだら、ちっとはしゃっきりするだろう。
 そうぼやきながら畳を持ち上げたのだが―――。
「?」
 そこにあるはずのものはない。
「そんな馬鹿な」
 勝五郎はほとんど半狂乱になって箪笥の下、夜具の中、行灯の陰、果ては火鉢の灰から水がめの底までまさぐったが、
「おまえさん」
 険のある声に振り向くと、おせんはずれたりめくれたりした畳のなかに正座して、震える手を膝に重ねていた。
「探しものは、おありかえ」
「いや―――」
「あるわけがないじゃないか」
 おせんはぴしゃりと言った。
「そりゃあさ、大判が七枚もうちにありゃあ、どんなにいいかと思うよ。いくらなんでも情けないじゃないか。自分でみた夢を信じこんで、あの騒ぎかい?」
 声が震えていた。
「しっかりしておくれよ。あたしはね、あんたが夢とほんとの区別もつかなくなって、舞い上がって危ないところに迷いこんで、どうにかなっちまうんじゃないかって、それが心配で―――」
 伏し目がちの睫毛から、光るものがふたつ、みっつ落ちて、汚れの落ちない着物の膝に、ぱたぱたと染みをつくった。
 勝五郎はしばらく押し黙っていたが、
「すまなかった。この通りだ」
「あんた―――」
「てめえで見た夢を、ほんとのことだと思い込むとは確かにこいつ、情けねえ。だが、今度こそ本当に目がさめたぜ。これが薬にならねえようなら俺も終いだ。これが限りと思って見ててくれ。この上まだ辛い思いをさせるようなら、そん時は生きる甲斐もねえと腹くくるからよ」

 財布の夢騒動から三度目の大晦日。
 十日も仕事を休んだあげくに大散財をやらかして、支払いの工面に死ぬ思いをしたその時と違い、勝五郎は火鉢にあたりながら、穏やかな年越しを迎えていた。
「ありがてえなあ―――」
 そうひとりごちた勝五郎の境遇は、三年で変化している。
 懸命に働いて、年中ぴいぴい言っていた懐に少しばかり余裕ができたこともそうだが、何より違っているのは、小体ながらも店を構えたことだった。
 そんな勝五郎が煙管をくゆらせながら、除夜の鐘を聞くともなしに聞いているところへ、おせんが盆を運んできた。
「ご苦労さん。今年も世話になったなあ。こっちに寄って、ゆっくりしよう」
 そう声をかけたが返事がない。
 振り向いてみると盆の横に両指ついて、深々と頭を下げているではないか。
「なんだ、どうした」
「あんた、本当にごめんよ。あたしは、嘘をついていた」
「はは、そいつは穏やかじゃねえな。いったい何の―――」
 と言いかけて、盆に乗っているものに気づいた勝五郎は、
「そ、そ、そいつは」
 この三年、近づけもしなかった徳利が一本、頭に猪口をかぶせてあるのはともかく、その横にある黒々としたものは、まさしく三年前に芝浜で拾い上げた財布ではないか。
「お前、今になって、こんなものを持ち出してきやがって」
 勝五郎の顔にはびっしりと脂汗が浮かび、見開かれた目の下で、頬がぴくぴくと痙攣していた。
「怒るのも当たり前だよ。この三年、働きづめに働いたのも、あたしに騙されてのことだったんだから」
 おせんはようやく顔を上げた。
「あの日、あたしはおっかなくなってねえ。十両を盗んだら死罪って言うじゃないか。なのに、あんな大金を届けなかったらどうなっちまうんだろうって―――だからあんたを酔い潰して届けにいったんだよ」
 聞いているのかいないのか、勝五郎の血走った目は財布を凝視して離さない。
「けど、騙されてのことだったかもしれないけど、あんた、本当によく頑張ったよ。とても偉かったよ。あたしはねえ、朝早くから仕事に出ていくあんたの背中に、なんど手を合わせたか知れないんだよ」
 すっかり心を入れかえて、商売に打ち込む勝五郎を嬉しく思いながら、人に言えない小さな刺が、ちくちくと心に痛む毎日だった。
 そして、あれから三年という年の暮れが近づくにつれ、おせんの心には、真っ黒な雨雲のように広がってくる不安があった。
 というのも、三年たって持ち主があらわれなかったら、拾い主に払い下げられることになっていたのだ。
「長い間、しなくてもいい苦労をさせられたとお思いなら、この場で引導をしてくれても、これっぽっちも恨みやしないよ」
 おせんは鼻をすすりながら、
「けど、あんた、いや勝五郎さん。働いて苦労して、こうして立派にお店を持ったのは、みんな勝五郎さんがしてのけた本当のことだよ。だから、こうして財布を返すけど、今日までの頑張りがふいになっちまうような自棄だけは、後生だから起こさないでおくれよ。あたしは、それだけが気がかりで」
 食い入るように財布ばかりを睨んでいた勝五郎は、彼はちゃぶ台の湯呑みをひっ掴み、茶をぶちまけて酒を注ぐと、そのまま一息に呑み干した。
「あ、あんた!」
 そして財布をかっさらい、戸を蹴破る勢いで長屋を飛び出していった。その取り憑かれたような表情の凄まじさといったら。
「待っとくれよう、 勝五郎さん。後生だから戻っておくれ。馬鹿な考えを起こさないでおくれ」
 おせんは必死に呼びかけたが、もう届くものではない。
 遠ざかる足音、晦日蕎麦の出前とはちあったか、蒸籠がひっくり返る音と罵声、遠くで犬が吠える声。
「勝五郎さん」
 物音が遠くなるのを聞きながら、おせんは足元を支えていた世界が崩れゆくのを感じた。
 どのくらいそうしていただろうか。どこか遠くで犬が鳴いた。次いで蒸籠が崩れる音とまた罵声。てめえ、うちに何の恨みがあって二度も出前をひっくり返しやがるんだ。
 おせんは濡れた顔を上げた。次第に大きくなる足音が家の前できて、開け放しの戸から飛び込んできたのは、
「あ、あんた!」
 湯気のたつ身体から滝の汗が流れ、鬢は崩れて着物の裾はからげ、畳にばったりと両手をついたまま、息が切れて喋れもしない。
「どうしたんだい。何があったんだね」
 苦しそうな勝五郎が身振りで喉の渇きを訴えた。湯飲みを拾って呑ませると、呼吸も次第に落ち着いてきた。
「財布はどうしたんだね」
「さ、さ、さ」
「落ち着いて。ゆっくりでいいんだよ」
「財布はな、西応寺の賽銭箱に叩っこんできた」
「何だって?」
「みんな目ェ白黒させてやがったぜ。ははは、はは―――」
 笑う声もかすれていたが、ひとつ仕事を終えてきた充足感が顔にある。
「なんで」
「あれはな、おせん。夢だったのよ」
「だからそれは、あたしが嘘を」
「そうじゃねえ」
 勝五郎は猪口を拾い上げ、袂で拭って手渡した。
「一杯やろうぜ。それで今度こそ本当に夢にしちまおう」
 おせんには、まだよくわからない。
「俺はな。三年前のあの時に、こいつを夢にして、性根を入れかえようと決めたのよ」
「それじゃあ、あんた何もかも気づいていたのかい?」
 勝五郎はにやりとした。
「お前、大判なんかが七枚もうちにありゃどんなにいいか、と言ったろう」
「そうだったかねえ」
「俺は目が覚めてから、大判が何枚と言ったおぼえはねえよ」
「あ」
「お前も嘘がつけねえな」
「そうだったのかい」
 うまく騙したつもりでも、やっぱりぼろが出るんだねえ。
「けど、じゃあ何で」
「そこよ」
 ようやく呼吸の整った勝五郎は姿勢をあらためて、
「こっちこそすまなかった。いや、礼を言わせてくれ。本当にありがとうよ」
「そんな───」
「俺がだらしねえばっかりに、いつも苦労をかけた。そこへあの財布だ。お前だって欲しかったはずなんだよ。けどお前はそれを抑えに抑え、そんな金はどこにもねえとシラを切って泣いたんだ。そんとき俺は財布なんか較べものにもならねえ、とんだ拾いものをしてたってことに、遅ればせながら気づいちまったのよ。それをお前、今さら目の前に持ち出してきやがるもんだから、こっちもつい取り乱しちまったじゃねえか」
 海千山千のようで泣き虫のおせんは、また違う涙をこぼしていた。
「すまなかったねえ。あたし、見る目がなかったねえ」
「ま、いいやな。固めの杯ならぬ忘れの杯だ。一杯やって寝ちまおう。それで、すっぱりあれは夢。おせん、あれはな。夢にしなきゃいけねえ」
 ふたつの杯を交わすひと組の夫婦。
 わだかたまりは綺麗に解けて、絆はより固まった。
 これこそ芝浦にこの店ありとうたわれ、明治大正まで暖簾をつないだ名店「魚勝」の礎を築いた初代勝五郎、その若かりし日の物語。さて、ようやく筆が乗ってきたところで、いよいよ勝五郎が大店へのきっかけを掴む寛延年間、勝五郎勃興編のはじまりはじまり。
 といきたいところが、著作権がないのをいいことにやりたい放題好き放題、手前いい加減にしやがれとお叱りも聞こえてきたので、そろそろ「小説柴又」おあとがよろしいようで。

勝五郎立志篇

勝五郎立志篇

落語「芝浜」の小説化。棒手振りの魚屋・勝五郎は腕はいいが酒ばかり呑む怠け者。ある日、女房に追い立てられるように仕事にいった先で財布を見つけ・・・。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2016-02-10

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著作権法内での利用のみを許可します。

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