【天の都】―ウェザーユートピア― 第一章:慈雨の救世主
リザリカの描くファンタジー創作、通称リザ世界の物語の一つ【ウェザーユートピア】の第一話です。お暇潰しにでもしばしファンタジーの世界に浸っていただけたら幸い。
よろしくお願いします。
Prologue
虹に守られし天の園。神秘より分かたれた人の庭。
双つの世界に災禍降りて穢れし時、天は裂け、人は堕ち、全ては地に呑まれる。
砕け堕ちた天穹に、虹の再び掛かること能わず。人の堕ち去った庭に、灯の再び輝くこと能わず。
天と人が交わりし時、双つはひとつとなり、はじまりへと還らん。
————堕ちる天の伝説より
天が堕ち、人が堕ち、地に呑まれたらどうなるのだろう。私は常々そんな想いを巡らせていた。
本来交わるはずのない世界同士が、融け合ってひとつになるかもしれない未来。この場にいる誰もが望まざる未来。そして、これっぽちも想像の付かない未来。
もしも、この未来が現実となって現世に押し寄せた時、私たちはどうなってしまうのだろう。
「————また例の伝説について考察中か」
ふと、隣から声がした。私のよく知る男が、いつの間にか隣に座ってこちらを見ていた。立った状態ではもちろん座っていても、私と彼の身長差は明らかだ。私は彼をつ、と見上げた。
「心でも読んだか?」
片眉を上げて苦笑する。胸の内を覗かれたような発言に少々驚いたのだ。
「まさか。“読心”は禁止魔法の1つだろうが。まあ、そんなもん使わなくたって、てめえの考えてることなんざお見通しよお」
敵わんな。そう言って溜息を吐くと、彼はにやりと笑った。
私とは乳飲み子の頃からの付き合いである彼。普段は賑やかで楽観的、少々とぼけたところがあるそのくせ、私の思考は謎に正確に言い当ててくる。私が分かりやすいのか、はたまた長い付き合いの賜物か。いずれにせよ、呆れが一周回って尊敬すら覚える。
「そう深刻になるなって。あんな不吉な伝説なんざ、これから先はどうにでもなる。“予言の子”が、とうとう目覚めるんだからな」
昔からこいつは変わらない。あっけらかんとしていて、常にその瞳は前を見据えている。軽率に言っているのではない。強い意志と自信の下に励まそうとしていることはすぐ分かった。
「ああ。“予言の子”の目覚めが確定した今、芳しくないこの世界の情勢は好転するだろう。だが……心からは喜べない。お前もきっとそうだろう?」
普段ならば、快晴の空のような笑顔につられて首肯したことだろう。だが、今回は違う。我々にとっての懸念は、それだけでは済まない。彼とてそれは分かっているのだろう。指摘した途端、目に見えて顔が曇り、黙り込んでしまった。
他の者であったら違ったかもしれない。けれども、私と彼は……否、私と彼だからこそ、この状況を喜ぶ以上の憂いに苛まれたのだ。
他でもない、”予言の子”という言葉が意味するところは――――。
「……そろそろ会議のお時間ですよ」
背後から声をかけられた。振り向くと、使用人が私たち二人を遠慮がちな眼差しで見ていた。深刻な話をしていると雰囲気で察したのだろう。
「もうそんな時間か……」
「すぐに行く。わざわざすまないな」
彼と私が答えると、使用人は軽く一礼して立ち去っていった。
座っていた石段から二人で腰を上げ、軽くほこりを払う。そして、その石段を上り、玄関口である扉をくぐった。これから行われる会合でも、”予言の子”については触れることだろう。加えて、現在の情勢を煩雑にさせている何よりの原因と対処についても、綿密に相談しなければならない。考えることは山積みだ。
(……情けない話だ)
廊下を歩きながら唇を噛みしめる。
当世において「秩序の守り人」などと呼ばれる我々ですら、現在の情勢には頭を悩ませ、限界を感じ始めているというのに。
そんなのっぴきならない現実に、”予言の子”を巻き込まざるを得ない現状。そうでもしなければ、状況は悪化の一途をたどるという現状。本来ならば何の曇りもなく輝かしい人生を歩むはずの彼らを、すぐ傍で守ってやれない現状。そんな彼らに彼も、そして私も、父親として何もしてやれないもどかしさ。
その全てが、情けなくて仕方がなかった。
(あの子たちが生まれた日から、覚悟はしていた。だが、こんなにも早熟と誰が思っただろうか)
————それは宿命。受け容れる他はなく、人の子の力ではどうすることもできない、神の絶対なる決定。それを前に、人の子とは何と無力なことだろう。
変えられるのならば……少しでも”予言の子”の目覚めを遅くできるのならば、父としての私は何でもするだろう。しかし「秩序の守り人」としての私には、腹を切ろうとそうすることは許されない。
この役目を全うするのは、あの子たちでなくてはならない。私だけでなく、この世全ての存在が、あの子たちを必要としているのだから。私は、彼らの道を示す導き手とならなければならないのだ。
窓を振り向くと、空は分厚い雲で覆われていた。しかし、ほんの少しの切れ間から、生まれたてのように淡い空の青色が垣間見える。私は、裂け目から覗く蒼穹の先にあの子を想いながら、声無くとも祈るように語りかけた。
待っているぞ、愛しい息子よ。
世界を等しく優しい雨で包み込む“予言の子”よ。
第一部 夏の日の出会い
『――――渚』
名前を呼ぶ声で、僕は我に返った。
正確には聞こえたのではなく、脳内に直接響いたという方が正しい。とはいえ、声の主を探しても、辺りは手元さえ見えない暗闇。たとえ人影があったとして確認は不可能だった。
でも、姿なんて探さなくても分かっている。
低く、優しく、聞く人を安心させる温かさを持ったこの声を、ここで何度聞いたか分からない。それが誰の声なのか、僕はとっくに知っている。
『――――渚』
「……誰?」
何回か呼ばれてから、ようやく答える。
口から零れた声は頼りなく、ずっと黙っていたせいか掠れていた。声が闇へ溶けていった頃、僕はあるものを見つけた。黒い視界の一点にぽつり、小さな光。それはゆらゆら揺れながら、少しずつこちらに近づいてくる。目を凝らすと、その詳細がぼんやりと知れた。
近づいてきたのは、背の高い人影。光の正体は、人影が伴っている古めかしいランタンの灯り。しかしその光はとても弱く、この暗闇の中ではあまり役に立っていなそうだ。
それだけならまだ理解できたが、ランタンは人影が掲げているわけではなかった。まるで人魂のように、人影の少し上空でふわふわと浮かんでいたのだ。そのせいで照らし所も悪いのか、肝心の人影の特徴は闇に紛れて全く分からない。ただ、大きな影がゆらゆらとゆっくり近づいてきているような、そんな得体の知れない光景にすら見える。
尤も、僕は既に知っている。この人影が男性であることも。目深にフードを被ったローブを着ていることも。それどころか、この人影の正体すら把握している。
何故ならこれは、何度見たかも分からない夢。
毎夜それを見る”僕自身”は、その詳細も、顛末も、全て知り尽くしている。
とはいえ、今の僕は夢の登場人物でしかない。だから夢のたびに同じ疑問を持ち、同じ行動を取り、同じ言葉を繰り返す。今回も夢の中の僕は、やっと立ち止まった人影に尋ねる。
「……どなたですか?」
答えは無い。代わりに、彼は手に持っていた長物をそっと差し出してきた。
戸惑いながらも受け取ると、それが長い杖であると分かった。先端に宝石みたいな青い石がはめ込まれた、木製の杖。
いきなりそんなものを渡されてもどうすればいいのやら。困ってしまい、杖と相手を交互に見やっていると、彼は僕の目の前にゆっくり跪いた。首を傾げていると、こちらへそっと手を伸ばしてくる。何をされるんだ、と驚いた拍子に反射で目を瞑った。
男性は僕の首の後ろに手をやり、何やらごそごそとやっている。紐か何かをうなじ辺りで結んでいるような、そんな仕草。数秒後、気配が離れたのを感じて目を開ける。すぐ目の前には相手の顔。暗くて表情が分かりづらいが、口許には柔らかい笑みが浮かんでいるように見えた。
視線を下げると、胸元に何かが光っていた。ランプの弱い光を頼りに目を凝らすと、それは雫型の青い石飾りが付いた、素朴なペンダントだった。
(杖の次はペンダント?)
夢の中の僕は、ますます訳が分からず顔を曇らせる。そんな僕を他所に、人影は無言で立ち上がり、ふいと踵を返した。
「あっ……!ま、待って……!」
ここで、僕はいつも彼を慌てて呼び止める。この人がいなくなってしまうことが、何故だかとても寂しくて、心細くなるからだ。
人影は去りかけた足を止め、少し間を置いてから徐ろに振り返る。
————その時。弱かったランタンの光が急速に強まり、不確かだった人影の姿を照らし出す。それでもなお、その顔ははっきりと見えない。
けれども、僕には分かる。この顔が誰なのか。
「――――と、う……さっ……!」
呼びかけようとした途端、喉が詰まって声が出なくなる。その間にも、彼の姿を隠すように、或いはこの闇を喰らい尽くすように、ランタンはどんどん輝きを増していく。とうとう目が眩むほどに溢れかえった光の中、僕は目にする。目深に被っていたフードを脱ぎ去った彼が……僕の父が、優しくもどこか物憂げに微笑み、青い泡のような光の球となって弾けて消えていくのを。
そして、同時に耳にする。もうほとんど覚えていないのに、懐かしくて堪らなくなる優しい声が、僕に呼びかけるのを。
『————待っているぞ、渚』
◇◇◇
「――――っ!」
目を開いた瞬間、飛び込んできた光の眩しさで反射的に目を細める。時間をかけて恐る恐る目を開くと、ベッドの脇にある窓が明るいことに気が付いた。
(……朝か)
ちょっぴり眩んだ目をこすりながら、枕元の目覚まし時計を手に取る。現在は七時半を少し過ぎたくらい。アラームは八時設定だったから少しだけ早起きだ。
二度寝する気にもなれないので、時計のアラームを切る。窓を見れば、遮光カーテンがほとんど全開になっていた。どうやら寝る前にカーテンを閉め忘れていたらしい。うっかりしていたな。
それはさておき。さっき見ていた夢を思い返して、溜息を吐く。
————またあの夢だ。
ここ最近、三日に上げず見ている父の夢。ついこの前までの夢は誰でも見るようなありふれたものだったはずなのに、いつの頃からか急に父の夢ばかり見るようになったのだ。
何故夢に父が出てくるのか。何故呼びかけても何も語ってくれないのか。そして最後の「待っている」という言葉の意味は何なのか。分からないことだらけだ。ただ、はっきりしているのは、夢から覚めた後は必ずやり場の無い寂しさが残る、ということだけ。
(……分からないことを考えるのはやめよう)
もう一度息を吐いて、ベッドからもぞもぞと出る。気が重くなる前に、動き出してしまった方がいいだろう。今日は近所の図書館に行く予定もあるのだから。
今日は土曜日で学校は休み、そして取り置きを予約した本が届く日でもあった。急ぎの用事ではないけれど、楽しみにしていた作品が早く読みたいがために早起きしたようなものなのだ。早速準備しよう。
待ち侘びた気持ちが、夢の後遺症を頭の片隅に追いやる。僕は昨日のうちに用意していた着替えに手を付けた。天気予報では今日も朝から暑くなるので、薄手のジーンズにTシャツ、薄手の上着を羽織る。昨日の夜に準備済みの荷物入りリュックを持ち、自転車の鍵をジーンズのポケットに入れる。あとは朝の支度をするだけ。でも、まだ部屋を出るには早い。
その理由は、ベッドの向かい側にある箪笥、その上に置かれた水を張った小さな水槽。顔を近づけると、僕の気配に気が付いたのか、一匹のイモリが水面から小さな頭を覗かせた。
「おはよう、チョロ。今日も暑いってさ」
仲良しの友達みたいに声をかけると、イモリは大粒の瞳でじっと僕を見つめる。その仕草が、言葉を持たない彼なりの挨拶なのだと勝手に思っている。返事を確認した僕は、水槽横に置いた容器から固形イトミミズを二、三個摘み、水槽にぽとりと落とす。これがこのイモリ……チョロの朝ご飯であり、僕が部屋を出る前に必ず行うルーティーンでもある。チョロは餌に気が付くや否や、待ってましたとばかりにかぷかぷ食いつき始めた。
相変わらず美味しそうに食べるなあ。微笑ましさに頬を緩ませ、ようやく部屋を後にした。階段を小走りに下り、荷物を一旦玄関に置くと、リビングを通って台所へ向かう。
「母さん、おはよう」
「あら、おはよう渚。早起きねえ、今日は土曜日でしょう」
母さんはエプロン姿で朝飯の用意をしていた。いつものように、僕と似ても似つかない黒髪を後頭部ですっきり束ねている。
「まあね。これから図書館に行くんだ。予約してた本が届いてるって連絡あったから。ついでに少し勉強してくるよ」
「ああ、もうすぐ期末テストだもんね。読書も大切だけど、ちゃんと勉強もするのよ」
「わかってるよ~」
唇を尖らせお道化た返事をすると、ちょっとウケたのかくすっと笑われた。僕も連られて小さく笑う。
「朝はハムエッグとトーストでいい?」
「うん、いいよ」
冷蔵庫から出したジャムとマーガリンを僕に託し、母さんはフライパンを火にかけ始めた。僕はその間に食パンをトースターに入れて、テーブルクロスや食器を準備する。
程なくして焼き上がったトーストにマーガリンとジャムを塗っていると、ハムエッグが運ばれてきた。母さんも朝食がまだだというので、一緒に食べることにした。
トーストをもう一人分追加で焼き、それにもマーガリンとジャムを塗る。少しして、母さんも自分の分のハムエッグを持って僕の向かいの席に座った。準備が整ったところで、二人でいただきます、と声を揃える。
食べる傍ら、母さんがテレビを点けるとちょうど朝の情報番組がやっていた。
MCとパーソナリティーのタレントや芸人たちのやり取りが終わってしばらくすると、ニュースを伝える時間になった。
アナウンサーの男性がニュースを読み上げるのを聞き流していると、気になるニュースがあった。
『——世界各国で異常気象多発——』
「……怖いわね」
母さんがどこか物憂げに呟く。
「何か最近異常だよね」
トーストをかじりながらテレビ画面を見つめる。ニュースでは先日大雨が降った都市や、竜巻が発生したところを撮影した視聴者投稿の映像が流れている。アナウンサーの言うことには、大雨による浸水や電車の遅れや交通事故などで都心部はかなり混乱したらしい。
「そうね、どうしちゃったのかしらね……」
コーヒーをすすって母さんが答えた。同じくテレビを見つめているけれど、その瞳はどこか別の場所を見ているように思える。
(異常気象か……)
――――この数年、日本では異常気象や自然災害が増えている。
夏の異常な酷暑。警報級の豪雨や落雷。突発的な竜巻。各地で頻発する地震。例を見ない発生数の台風。交通機関が麻痺する規模の大雪。そして、それに伴うありとあらゆる自然災害。
連日のように報じられるそれらは、日本全国で枚挙に暇が無い。しかも、それは今や日本だけでなく、海外でも大きな問題になっているという。今流れているニュースでも、加えてアメリカやヨーロッパで嵐や山火事が頻発して被害が出ている、と語られていた。僕の住む地域も、まだ六月だというのに熱中症で倒れた生徒が何人かいるし、僕自身も予報外れの激しい雷雨には何度も困らされた。思えば、強い地震や急な竜巻もこの頃多くなった気がする。
(今日も急に雨降ったりするのかな……やだなあ)
テレビ画面を眺めながら心で呟く。今日は一応雨の予報は無かったはずだけど、自転車で出かけるしレインコートを持っていこうかな。
食事を終えると八時半になろうとしていた。その後は洗顔と歯磨きをして、寝癖の付いた青髪を梳かす。生まれつきの手強い癖っ毛なので、梳かしてもあまり変わらないんだけど。
畳んだレインコートを追加で詰めたリュックを背負い、一度振り返る。見ると母さんが見送りに玄関まで来てくれていた。
「行ってきまーす」
「ええ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
母さんの柔らかな微笑みを受け止めて、僕はドアを開けた。
小学生の頃から愛用の自転車にまたがって、強くペダルを漕ぎ出す。
六月も終盤。梅雨真っ只中の空気は湿気ぽく、夏が近づいた朝の光は眩しい。けれど、朝が早いおかげか空気は比較的涼しく、風を切れば湿気もさして気にならず心地良かった。
あまり大きくはない住宅街を抜け、道路沿いを走る。図書館は、住宅街を抜けて少し南へ行った所にある。土曜日のこの時間帯は人も車も多くないので、思い切り自転車を走らせることができた。涼しい風の気持ちよさと、早く図書館に行きたい気持ちとが合わさって、思わずふっと腰を浮かせた。目一杯ペダルを踏み込んで立ち漕ぎすると、さっきよりも強く風が頬をなぶった。このスピードなら、ちょうど開館するくらいに到着するかな、などと少しだけ胸を弾ませて住宅街を走り抜けた。
……のはいいのだけれど。立ち漕ぎを始めてから数分後、僕は若干息が上がっていた。理由は簡単、坂道を立ち漕ぎで登り切ったからだ。
図書館に行くルートはいくつかあるけれど、一番の近道は僕が「裏山ルート」と呼んでいる行き方だ。かつて通っていた小学校の裏手にある小さな山。その前を通るルートなら、住宅街をそのまま抜けるより十分くらい速い。けれども、このルートを使う時に問題となるのが坂道だ。裏山の出入り口前にあるこの坂は若干傾斜が厳しい。いつもの僕ならば無難に自転車を降りて押していくのだけど、今日は調子に乗って立ち漕ぎで挑んでしまった。その結果、坂はいつもより早く登り切れた代わりに、息が切れるのもいつもより早かった。
(慣れないことはするもんじゃないな……)
自分の貧弱さをもう少し考慮するべきだった。僕はただでさえ同年代よりも体力が無いのに。
裏山に面した道へと出る頃には、すっかりスピードが落ちていた。
ひとまず、裏山の入口付近にある樹の木陰に自転車を止めた。その逞しい幹にもたれかかり、息を整えながら涼む。そよ風程度の風邪でも木の葉は揺らぎ、お互いに擦れてサラサラと軽やかな音を立てる。それが涼しさを引き立てている気がして、思わず息を漏らした。
呼吸が落ち着いた頃、何気なく山道の方に目をやる。整備されて奥まで続く道や、その左右に佇む樹々を見つめていると、段々と懐かしくなってきた。そういえば、この裏山の前で足を止めたのはいつ以来だろう。
名前さえ付いていないこの小さな山は、標高も勾配もそれほど厳しくないので、地元の人たちには散歩がてら自然を楽しむ場所として、子供たちからは天然の公園のような場所として親しまれていた。
それは僕も例外ではなく、小さい頃はこの裏山が友達との遊び場だった。幼稚園年中から小学二年生くらいまでは、友達とよく探検ごっこやかくれんぼをしたし、秋にはどんぐりや松ぼっくり拾いなんかもしたっけ。今でもたまに通りかかると、小さな子供たちが山に出入りして駆け回っている姿を見かける。ここは昔と変わらず地元の子供たちの遊び場、或いは秘密基地のような役目を果たしているようだ。尤も、小学三年生あたりからは徐々に足も遠のき、中学に入学してからは勉強や家の手伝いなどに時間を取られてしまい、気が付けばすっかり遊びに行かなくなっていた。
図書館へ向かう時に、相変わらず山の前はよく通る。でも、ここで遊んだ思い出は記憶の片隅に追いやられていたせいか、目には映れど足を止めることはなかった。
今、ここに訪れたのは全くの偶然だ。けれど、見慣れた景色が目に映った途端、ぽっと火が灯るように懐かしさが生まれた。それは内側にゆっくりと広がっていき、ふとある思いに駆られた。
――――久々に登ってみようかな。
図書館には早く行きたかったけれど、時間はたっぷりあるんだ。久々に山登りして自然を味わうのも悪くない。それに、何といってもここは、子供でも登り切れるほど易しい山。体力の無い僕でも、軽い散策にはもってこいだ。
自転車では進めないので、とりあえず木陰にそのまま駐輪しておこう。鍵をかけて、キーをポケットにしまうと、リュックを背負い直す。よし、と誰にともなく呟いて意気込み、踏み慣らされた粘土質の山道へ足を踏み入れた。
最後にここを訪れた時から少なくとも三、四年は経っているはずだ。けれど、山の景観はあの頃とちっとも変わっていなかった。強いて言えば、伐採された跡と思われる切り株が以前より増えている気がするくらいか。
マテバシイやクヌギの樹々が織り成す雑木林。うずくまるように茂るツツジの葉。苔むした岩。どこかから聞こえてくる鳥の声。なめらかな地面に揺れる木漏れ日。そのどれもが、僕の中に生まれた懐かしさを強めた。
いわゆる森林浴というのだろうか、山の中には清々しい空気が満ちていた。そんな空気を乗せたそよ風が時々ふっと吹き抜けては、木の葉をサラサラ奏でてどこかへ消えていく。思わず深呼吸すると、爽やかでひんやりした空気が体を巡っていく気がした。
そういえば森林浴って、植物の出す化学物質のおかげで癒し効果があるって何かの本で読んだな。その手のことにはあんまり詳しくないけど、森の中を歩くと気分転換になるのはそういうことなんだろうな。
なんてことを考えながらも、引き続き景色を楽しむ。辺りを見渡せば、見覚えのあるものをいくつか発見した。
――――あ、あれはよくかくれんぼで使った樹のうろ。小学生くらいなら三人は入れるくらい大きいんだよね。
――――あれは小さい洞窟。あそこを秘密基地にしてごっこ遊びをしたっけ。
――――それからあの岩。僕らは「とんがり岩」と呼んでいたごつごつの大岩は、誰が一番速く登ってその上で立てるかの競争をするのにもってこいだったなあ。
何も知らない人からすると、全て何の変哲も無い自然物。見分けすら付かないだろう。でも、この山で遊んで育った子供たちは、わずかな目印だけであらゆる自然物の見分けが付く。かく言う僕も、その一人。
あれこれ思い返しながら、のんびり山を登っていく。やがて十五分ほど経っただろうか、ようやく山の中腹辺りの或る場所にやってきた。
朱塗りの少し剥がれ落ちた、それでも大きく立派な鳥居。奥に見えるのは、すっかり寂れて古ぼけた拝殿。山道の目印である石畳の途中、脇には手水舎があり、石造りの水溜めと獣か何かの形を模した水道がある。今となっては、水はすっかり干上がっているけれど。
そう、ここは言わずと知れた神社。確か名前は「大奈神社」だ。
僕が生まれるよりずっと前から既に然るべき人々はいなかったというこの神社。本来の役目を失ったここは、今では散歩に訪れる人や山遊びで疲れた子供たちの休憩に使われたり、かくれんぼや鬼ごっこで遊ぶ時に使ったり、すっかり地元の人々の馴染みと憩いの場になっている。ここもまた、かつての僕たちにとっては遊び場だった場所の1つだ。
「久々に来たけど、全然変わってないや」
呟いて、鳥居の外側から境内を見回す。この景色が当たり前だった頃のことが思い返されて、俄然懐かしさが込み上げてきた。
今の時間、流石に神社に遊びに来ている子供はいないようで、しんと静まり返っていた。まるで、ここだけ別の時間が流れているかのような、不思議な雰囲気。
そこまで思いを馳せて、ふと思い出したことがあった。
僕がまだ小学一年生くらいだった頃だったか。友達からこんな噂を教えてもらった。
————大奈神社の鳥居を、目をつぶったままくぐると異世界に行ってしまう。
それは、この神社を遊び場にする地元の子供の間で実しやかに語り継がれてきた話だ。
噂によると、この方法で異世界へ行ってしまった人間は、二度と元の世界に戻ってこれなくなるらしい。異世界へ入った途端に出口が閉じてしまうだとか、異世界に棲む化け物の餌食になるだとか、この世のものとは思えない綺麗な景色に心を奪われて帰る気持ちを失ってしまうだとか。詳細は話し手によって違っているものの、話の大筋は「異世界に行ったら帰ってこれない」ということで一致していた。元々オカルト話を信じやすかった上に、当時幼かった僕は当然その噂を素直に信じ、「鳥居をくぐる時はまばたきしないようにしないと」と怯えたものだ。
もちろん、大人は誰もこの話を信じてなかった。所詮は噂、根拠も無い眉唾話。差し詰め、地元の老人が子供たちの退屈を紛らわす為に作ったお伽噺に尾ひれが付いた程度のものだろう、とこの話を一笑に付していた。
今思えば、そんな大人たちの意見はご尤もだと思う。
学校の七不思議とか、都市伝説とか、その手の噂はどこまでいっても信憑性に欠ける。多少分別が付くようになった今ならそう理解できる。
でも実は、個人的にあながち全て嘘ではない、とも思っている。火の無い所に煙は立たぬとはよくいうもので、何かしら不思議な出来事があったから噂が生まれる、という考え方もある。異世界へ繋がる鳥居の噂も、もしかするとそんな経緯で生まれたのかもしれない。
それに、もしそんな不思議なことが本当に起こったら、それはそれで素敵だとも思う。むしろ僕はその異世界が存在するなら行ってみたいとすら思う……なんて、とても他人に言えたものではないけど。
鳥居を見上げ、しばらく見つめる。それから視線を下ろして、徐に頷く。
異世界、というワードは魅力的だけど、残念ながら結局は噂話。噂を知った当時と違い、噂は噂でしかないと分かっている今は怖くも何ともない。だからこそ、ちょっぴり試してみてもいいかもしれない。
(まあ、本当に異世界に行っちゃったらその時はその時……ってね)
そんなお気楽なことを考えながら、僕は目を閉じ、一度ゆっくりと深呼吸をした。そして、そっと大股で歩き出し、そのまま鳥居をくぐり抜けた。
――――五歩ほど歩いてから、止まって目を開ける。
時間をかけて辺りをゆっくりと見渡す。大股で歩いたので鳥居はとっくに背後にあり、石畳の真ん中くらいに立っていた。視界に入るのは目の前の拝殿、その前に佇む一対の狛犬、横に見える手水舎、絵馬堂に社務所、その他諸々……うん、見る限り何一つ変わったところは無い。僕の知っている神社のままだ。
「……あはは、そりゃそうだよね」
思わず苦笑混じりに零した。心のどこかで「本当に異世界に行けたらいいな」なんて、冗談でも思っていた自分が何となく恥ずかしかった。誰が見ていたわけでもないけど、誤魔化すように境内を歩いてみた。廃神社となったここには見て楽しめるものなんてほとんど無いのだけど、懐かしさに後押しされて、社の周りをぐるりと巡ってみる。木造の柱や回廊の床は、風雨に晒され手入れされなかったせいか、所々朽ちて腐りかけていた。最近地震も多いのに壊れずにいるのが不思議なくらいだ。そう思いながらゆるゆると歩いていると、社の真後ろまでやってきた。
本来神社は、社が本殿(御神体を祀る社)と拝殿(参拝するための社)の二つに分かれているのが一般的だという。けれどもこの大奈神社は、この小さな山そのものを御神体としているので、本殿は存在しない形式の神社なのだ、と学校の歴史の先生から聞いたことがある。だから、拝殿の後ろにあるのは本殿ではなく防風林だけだった。そこは日が当たらないせいで少々薄暗く、土はどこか湿っている。ナメクジやクモが快適に過ごしていそうな場所だ。それ以外変わったものは無いと思っていたが、目を凝らしてみると気が付くことがあった。林の少し奥の方に、何やら小道らしいものが見えたのだ。
あれ、こんなところに道なんてあったっけ、と首をひねる。神社でよく遊んでいた頃も社の裏手に来たことはもちろんあった。もしも当時から道があったなら、その時に気が付いてもおかしくないはずだ。けれど、当時は小さかったし、遊びに夢中で気が付かなかったのかも。仮に当時から道に気が付いていたとしても、昔のことだしすっかり忘れているのかもしれない。
とにかく、林の奥に見つけたそこに、好奇心をくすぐられてしまった。腕時計を見ると既に九時を回っている。図書館が開いてすぐくらいだ。
「……急ぎじゃないし、いっか」
結局勝ったのは、持ち前の好奇心。言い訳をそっと呟き、僕は樹々の間をくぐり抜けた。
枝が絡み合うようになっていて歩きにくい、と思ったのは最初だけで、しばらくすると視界が開けた。
そこには何と、並木道がずっと伸びていたのだ。そこからの道は歩きやすく、どうやら人の手で整備されたものだと分かった。だとしたら、この先には何があるのだろう。全く想像が付かないまま、それでも心のどこかに淡い期待を抱いて歩いていくと、見えてきたものに息を呑んだ。
1メートルほど先、目に飛び込んできたのは、このご時世には珍しいくらい古風な日本家屋だった。
それもなかなかに大きくて、家というより軽いお屋敷に近い。それなりに裕福な人でも住んでいそうな雰囲気だ。それが防風林の奥にあっただけでも十分びっくりだけど、よく見ると家の前には人影があり、二度目を瞠った。
背が高いその人は、若い男の人だった。見てくれは二十代後半くらいだろうか。木漏れ日に照らされた金髪はまろやかに光をはね返して煌めくようで、男性としては長めのそれは頭の後ろですっきり束ねられている。服装は一言で言うとお洒落で、ついでに言えば男の僕ですら見とれてしまうほど整った顔立ちだった。雑誌のモデルか、海外の俳優だと言っても納得してしまう。
そんな美形の金髪お兄さんが、大きな日本家屋を前に何やら思案顔で佇んでいる。不思議と言えば不思議な光景だけど、何だかとても絵になる光景でもあった。
気が付けば、引き寄せられるようにその人に近づいていた。すると足音に気が付いたのだろう、お兄さんもこちらを振り返った。
「こんにちは」
「あ、えっと、こ、こんにちは」
相手から先に挨拶されたので、ついどもってしまった。知らない人と話すのはあんまり得意ではないのだ。
「もしかして神社の参拝か?残念だが、かなり前に廃神社になっているみたいだぞ」
「あ、はい、知ってます。僕、地元なので」
「おっと、そうだったか。これは失礼」
お兄さんが軽く頭を下げた。その仕草すらどこか優雅に見える。
「それにしても、よくここが分かったな。ここまでの道、林に隠れて分かりづらかっただろうに」
「えっと、僕も今日初めて気が付いたんです。興味本位で道を辿ってきたらここに来ちゃって……あ、その、勝手に入ってきちゃってすみません」
今度は僕が頭を下げた。彼がこの家の住人だと思ったからなのだが、当の本人はきょとんとしていた。数秒後、合点がいったように「ああ」と納得したように呟くと、くすくす笑う。
「謝ることはない。俺も君と同じで、見つけた道を辿ったらここに着いたよそ者だよ」
気さくな口調でそう言われ、何だそうだったのかと安堵した。顔を上げ、改めてお兄さんの顔を見る。
近づいて分かったけれど、見れば見るほど綺麗な見た目だった。髪はもちろん、睫毛まで金色で長くて、とても色気のある目だ。中性的な顔立ちというのだろうか。
ただ一つ、驚いたのは瞳の色だった。ワインレッド、或いは蘇芳色というか、黒か焦げ茶が混ざったような赤……に見える不思議な色彩なのだ。海外の方なのか、それともカラーコンタクトでも入れているのか。失礼かと思いながらも尋ねてみる。
「ああ、ちょっとこちらで仕事があってね。ここに来て日は浅いんだが、日本語もなかなか達者なものだろ?」
ウインクして微笑むお茶目な仕草に、思わず頬が緩んで「はい、とっても」と頷いた。
ふと、お兄さんがあっと声を上げた。今度は困ったように笑って僕を見る。
「すまない、名前も名乗らずに……俺はルキア・アビガイルという者だ。良ければ君の名前も教えてくれるかい?ここであったのも何かの縁だ」
「はい。僕は雨宮 渚といいます。近くの中学校に通ってて、中学二年生です」
「————雨宮、か」
お兄さん改め、アビガイルさんが何故か一瞬目を丸くした。
「え、知ってるんですか?」
「いや、ここいらじゃ珍しい名前だと思ってな」
「アビガイルさんも珍しいお名前ですよね、かっこいいです!」
「ふふ、珍しいとはよく言われるが、かっこいいなんてのは初めて言われたよ。ありがとう」
アビガイルさんは少し照れ臭そうに笑った。
誇張ではなく本当に珍しい名前だと思う。一体どこの国の人だろう。響きのお洒落な感じが、何だか物語の登場人物みたいだ……なんて思ったのは、僕がそういった類―いわゆるファンタジージャンルや冒険譚―の小説や漫画が好きだからだろう。
そこまで考えてようやく思い出し、今度は僕があっと声を上げる。危うく本来の目的を忘れるところだった。
「どうした?」
「すみません。僕、近くの図書館に用事があったんですけど、寄り道しすぎちゃって……そろそろ行かなきゃ」
「図書館か……調べものかい?」
「予約していた本を借りに行くんです。あと、期末試験が近いので少し勉強もします」
「おお、偉いな。頑張れよ」
「ありがとうございます」
励ましをくれたアビガイルさんに会釈する。
「……せっかく知り合えたのにもうお別れとは名残惜しいが、また会えるといいな」
顔を上げると、アビガイルさんは微笑んでいた。初対面の人に向けるには、どこか親し気で、優しい印象の笑み。ただでさえ端正な顔立ちの人が柔らかく微笑むものだから、思わずどきっとした。
――――次の瞬間。信じられないことが起きた。
ザアアッッ……アビガイルさんの背後から、激しい風が吹きつけてきた。木の葉が舞い、視界が悪くなる。
急な突風に反射的に目を瞑り、顔の前で腕を交差させた。何が起きているのか理解もままならないうちに、体がふっと浮いているような、不安定な感覚に襲われる。眩暈を感じるのと同時に、彼の声が風の向こうからはっきりと聞こえた。
「――――また会おう、少年。その時まで、達者でな」
――――風はすぐに止み、静かになった。
恐る恐る目を開けて、我が目を疑う。そこは、さっき日本家屋があった林の奥ではなく、大奈神社の鳥居の前だったのだ。
(あれ……?いつの間に戻ってきたんだろう?)
さっきまで確かに、お屋敷風の家の前で金髪お兄さんことアビガイルさんと喋っていたのに。
話に区切りがついてから一分と経たずにここにいるのも、自分で歩いてここまで戻ってきたような感覚が無いのも、何とも奇妙だ。現実感の無さに若干混乱する。
もしかして……もしかすると、僕はあの瞬間、本当に別世界に行っていたのだろうか。あのおふざけみたいな噂の通りに。
いやいやまさかあり得ない、と即座に考えを打ち消す。あれは単なる都市伝説や怪談程度の噂話だ。確かにさっき会ったアビガイルさんは、どこか浮世離れした雰囲気を感じるけれど、きっと気のせいだろう。ちょっとミステリアスな雰囲気を纏う美人な外国人、で十分説明できる。
(こういう、何て言うんだっけ……)
————白昼夢。そう、きっとそれだ。
そうでなければ、知らないうちに異世界ではなく自分の妄想の世界に浸っていただけかも。それもそれで変な話だけど、そっちの方がいくらか現実的だ。
どれだけ理屈をこね回しても腑に落ちないけど、これ以上考えても仕方ないと諦める。気を取り直して時計を見ると、九時ニ十分くらい。そろそろ本来の目的地に行かなきゃ。神社に背を向け、山道を下る。下りながら、遠ざかる鳥居をちらっと振り返る。
本当に一体、あの数分間は何だったのだろう。どうせなら、あの不思議なお兄さんともうちょっとお喋りしておけば良かったかなあ……なんてね。
理解はできなかったけれど、僕の心には例えようのないわくわくした気持ちがじんわり広がっていた。不思議の尻尾をほんの少しでも掴んでいたのかもしれない。そう考えると無性に心が弾み、頬が緩んだ。
登った時より心なしか足早なのは、きっと下りの道だからだけではないだろう。僕は軽い足取りで、山を後にした。
◇◇◇
少年との接触は、完全に予想外だった。
長い交流は流石に怪しまれると踏んで、さりげなく突き返したのは正解だったかもしれない。まだ残る風の名残に金髪を靡かせながら、男は溜息を吐く。
彼の本来の目的は、探し人を見つけることであった。彷徨うように各地を転々として、ようやくその気配の端っこを、この小さな町で掴んだ。糸より細く頼りない手がかりを手繰って辿り着いたそこは、小さな山に建ってるのが不自然なほど、この町では二つと見ない立派な古民家であった。
尤も、そこには目当ての人物どころか、誰かのいる気配すら無かった。人は住んでいるのだろうが、何にせよ当ては外れた。
(まあ、手がかりと言っても頼りないものではあったからな)
出来れば探し人が行動を起こす前に見つけ出したいが、大きな動きが無い以上抑えようもない。仕方ない、と男は気を取り直し、くるりと古民家に背を向けた。
ふと、先程の少年を思い返す。
当てが外れ、思わず肩を落としかけたところに現れた、変わった髪色の少年。彼とこの町で会ったのは初めてだったが、男は確かに彼を知っていた。
「まさか、ここで会うことになるとは。運命は分からないもんだな」
ぽつり、呟かれた男の言葉は、誰に届くこともなく木洩れ日の柔い光に溶けていった。
見上げれば、そこだけ丸く開けた頭上には快晴の青天井。その遥か彼方に何かを見るように、男は目を細める。
(……時は満ちた、か。俺が言えた立場じゃないが、随分と早熟じゃないか?そんなもんなのか、“予言の子”ってのは)
現代日本には似つかわしくない、ダークレッドの瞳。夏の太陽の光を見つめるそれは、しかしどこか憂うように陰っていた。
◇◇◇
登るのが楽なら、降りるのも同じこと。緩やかな下りの山道をテンポ良くとんとん歩けば、行きよりも五分ほど早く山の入り口に着いた。
それでも僕にとって、軽めのハイキングには変わりない。久々に山登りなんてしたから、ちょっと疲れちゃった。日が高くなり始めているせいか、木陰を歩いてきたのに何となく汗ばんでいる。
自転車を止めた木の下で少し涼んでから、ポッケにしまった鍵を取り出す。完全に寄り道になっていたけど、本来の目的は図書館だ。焦ることはないが、読みたい本が待っていると思うとやはり気持ちは早る。すぐに出発しようと、自転車の鍵を差し込んだ……までは良かったのだけど。
「……あれ、鍵が外れない」
呟きながら鍵を捻るも、途中でつっかえてそれ以上回らない。自転車の手入れなんて満足にしてないせいで、前から鍵は回りづらかったけど、こんな時につっかえるなんて。ああもう、焦ったいな。
「ワンワン、ワン!」
「よう、渚!」
そうして自転車相手にガチャガチャ格闘していると、後ろから犬の鳴き声と人の声が聞こえた。びっくりして振り向くと、そこにはよく知る人が立っていた。
「あ、テル!おはよ!」
「よっす、おはよ」
手を振ると、彼もひょいと片手を上げる。
「ワウワウ!」
そんな僕らにアピールするように、足元から再び元気な吠え声。飼い主の傍でお行儀良くおすわりしているのは、シベリアンハスキーに似た中型犬だ。
「おっ、メラもおはよう!今日も元気だね!」
しゃがんで頭を撫でてやると、メラは気持ち良さそうに目を細めた。
彼は日上照彦……あだ名はテル。僕とは同い年、同じ中学、同じクラスの幼馴染みで、一番の親友だ。
普段は剣道部で練習に明け暮れているはずだけど、こんな朝早くに学校の外で会うということは。
「部活、今日は休み?珍しいね」
「そ。この前ちっさいけど試合があったから、そのオフ日でさ。でも部活無いと朝から暇だし、普段は母さんにこいつの世話任せ気味だから、たまにはオレが散歩すっか〜ってな」
手に持ったリードや犬の散歩道具をこちらに見せて、テルが困ったように笑う。練習漬けな毎日ゆえに、それが無いと手持ち無沙汰になりがちの彼らしい理由だ。
「ワウワウ!ガウッ、バウッ!」
ふと、急にメラがテルに向かって吠えた。さっきの声より、ちょっと機嫌が悪そうだ。
「うわっ、何だよ!何で吠えんの!?」
「あはは!テルがメラのこと"こいつ"なんて呼ぶから怒ってるんじゃない?メラは女の子なんだから丁寧に呼んであげないと」
ねー?と話しかけると、メラは「そうだそうだ」と肯定するように胸を張り、ふんっと鼻を鳴らす。
「ちぇっ……ごめんって、メラ」
唇を尖らせつつも、メラの目を見てきちんと謝るテル。宥める代わりにほっぺを挟んで撫でると、メラは「分かればいいのよ」とでも言いたげに満足そうな顔をした。
テルの愛犬であるメラは、見た目こそシベリアンハスキーに似ているけれど、実際は雑種らしい。証拠に、体格は柴犬くらいの大きさであり、毛の模様も独特な赤毛だった。テルとは姉弟のような雰囲気の仲の良さ、とでも言おうか。
「ところで渚、何か自転車いじくってたみたいだけど、どした?」
「ああ、えっと、何か急に鍵が外れなくなって……」
「マジ?ちょっと貸してみ」
そう言うと、テルは僕にメラのリードを託し、自転車のロック部分に手を伸ばす。数分ほどカチャカチャ軽い音がした後、カシャン!と小気味良い音が鳴った。
「ほい、外れたぞ」
「すごーい!ありがとう!」
「へいへいどうも。多分ロックが錆びてるっぽいから、一回見てもらった方がいいぞ」
「うーん、そうしようかなあ……」
最後に自転車を点検したのは去年の今頃だったはず。僕は休みの日によく自転車を使うし、買った店でそろそろ油を差してもらった方が良さそうだ。
「次の休みに見てもらうことにするよ」
「今日行けばいいじゃん」
「今日はこれから図書館行くからさ、流石にそっちを優先させたいかな」
「図書館……って、もしかしてテスト勉強?」
「うん。予約してた本の受け取りもあるけど」
「まだ定期テストまで二週間あるじゃん……気ぃ早くねえ?」
「もう二週間切ってるよ?そろそろ勉強始める頃じゃない?」
「いやいやいや……」
テルが引き攣った笑顔で手をぱたぱた振る。僕の他にも、二週間前あたりから勉強する生徒は少なくない。とはいえ、元々テルは勉強があまり好きではないので、この反応も仕方ないだろう。
「うーん……でも、図書館行くってんならオレも付いてっていい?オレも用事あるからさ」
「え、そうなの?」
表情を改めたテルからの提案に、僕は思わずきょとんとした。お世辞にも読書好きとは言えない彼が図書館に用事とは、にわかに想像がつかない。
「何だよ、悪ぃか」
「いやいや。でも珍しいなと思って。言っとくけど図書館にある漫画は、テルのいつも読んでる少年漫画みたいなやつじゃないよ?」
「知ってるっての。マジで調べたいことがあるんだって」
軽い調子で言い返すテルの表情は、しかし心なしかいつもより真剣だった。テルの調べたいことに想像は付かなかったけれど、何か真面目な理由があるのだろう。
「いいよ、一緒に行こう」
「サンキュ。でもひとまずメラを帰さねえとだから、先行っててくれ」
「分かった。のんびり行ってるね」
僕の返事を聞くや否や、テルはメラに短く声をかけて道を引き返していった。その背中を見送ってから、僕も自転車に跨るとゆっくり走り出した。
裏山前の上り坂を登り終え、下りに変わった道をのろのろペースで漕いでいると、後ろでチリンチリンと自転車のベルが鳴った。テルも自分の自転車に乗って速くも追い付いてきたのだ。急いで来たのか、大きめのウェストポーチが腰ではなく前かごに放り込まれていた。
「はっやいなあ!」
「だろ?剣道部の足腰なめんな」
「いいなあ、その運動神経分けてよー」
「やーだね!100メートル走で13秒切ってから言えっての!」
「20秒切るのもやっとの貧弱にそれ言う!?鬼ーっ!」
「はっはっはー!鬼で結構ー!」
テルは高らかに笑いながら、悠々と僕を追い越した。僕も負けじとペダルを踏み込むが、剣道部の次期エースと名高い彼の脚力には敵いっこない。それでも僕らは付かず離れずを保ちながら、狭い田舎道を前後に連なりながら軽快に走っていく。些細な冗談を投げ合って二人で笑っていると、日が高くなるほどに増していく暑さも、ペダルを漕ぐほどに滲みだす汗も全然気にならなかった。
最終的に図書館へ着いた時には、既に九時半を過ぎていた。自宅を出てから一時間も回り道していたなんて。まあ、休みの日くらい行き当たりばったりでもいいだろう。
狭い駐輪場には、既に大小さまざまな自転車が停まっている。僕らは空いたスペースに詰めて駐輪すると、入口の自動ドアをくぐった。
ここは、僕の住む町で一番の蔵書数を誇る、田舎町にしては大きい図書館だ。見渡すほどに広い一階には、比較的大人向けの書籍や中高生向けの小説、調べものに役立つ専門書など様々にジャンル分けされた本が目白押し。ちなみに階段を上がった二階には、打って変わってちびっ子向けの絵本や紙芝居がたくさん置かれている。
でも、今日の目当ては棚に収まった本ではない。僕は本棚には目もくれず、真っ直ぐ受付に向かった。そこにはカウンターを挟んで何人かの司書がおり、貸出受付をしたり返却本のチェックをしたりと忙しなくしている。その中の一人、てきぱきと返却本をまとめて本棚に戻す準備を整えていた男性に、僕は抑えた声で話しかけた。
「叡彰おじさん、おはよう」
こそこそ声でも気付いてくれたらしい。男性は僕を振り向くと、ふんわりと穏やかに微笑んだ。
「渚くん、おはようさん。おや、今日は照彦くんも一緒かい」
「はよーっす、おっちゃん久しぶり。何か忙しそうだな」
「土曜日だからねえ。朝から親子連れや学生が多くて。数日前に新しい本も入荷したから、目当てに来てる人もいるだろうね」
そこまで話して、叡彰おじさんは合点がいったように僕を見た。
「入荷で思い出した。渚くんの目当ては取り置きの本だね」
「うん。取り寄せできましたって電話もらったから来たんだ」
「ちょっと待ってね、取ってくるから」
叡彰おじさんは作業の手を止めると、受付の奥に引っ込んでいった。数分後、一冊の分厚い本を片手に戻ってくる。
「はい、お待ちどおさん。これであってるか、一応確認してくれるかい」
本を受け取り、題名を確認する。表紙も、背表紙も、作者名も、一字一句間違いは無い。
「うん、このタイトルだよ。ありがとう!」
「良かった。ずっと借りたがってたもんねえ」
「なになに?またファンタジー小説か?お前も好きだなあ」
テルが横からずいっと覗き込んで呆れ笑いを浮かべる。
「何だよう、面白いんだからね、この作家のファンタジー作品」
「具体的に言うと?」
「文章がサクサク読みやすいのに没入感があって、架空の話なのに情景がはっきり想像できる描写力があって、個性的なのに魅力的な登場人物を描くのが上手くて、それから……」
「お、おう……思ってた以上に語るじゃんお前……びっくりした」
いけない。好きな作家や作品のことになるとつい熱く語ってしまう。苦笑いするテルに、誤魔化しの乾いた笑いで返す。
「あはは、こんなに熱烈なファンがいるとは、この作品の作者も幸せ者だねえ。さあ、物語にじっくり浸るためにも、まずは貸出手続きしちゃおうか」
一方、叡彰おじさんはそんな僕を楽しそうに笑って見ていた。
宇賀神 叡彰さん。
僕やテルがまだ二階の児童書フロアで絵本を読んでいた頃に知り合った、ベテラン司書のおじさんだ。少し長い黒髪をうなじで緩く束ね、短く整えた顎鬚が印象的な彼は、僕らがやってくると決まって世話を焼いてくれた。一緒に本を探してくれたり、高くて届かない場所の本を取ってくれたり、仕事の休憩時間にこっそりお菓子を持たせてくれたり。おじさんがオフの日には、絵本を読み聞かせしてもらったこともある。まるで親戚の子供みたいに可愛がってくれるので、僕やテルにとってはとても近しく親しい相手だ。
中学生になると、テルは部活が忙しくなったこともあって足が遠のいていたが、僕は変わらずこの図書館の常連なので、おじさんとの交流も未だにそこそこ多い。本の取り寄せの手続きをしてくれたことも今回が初めてではなかったりする。
受付でおじさんに貸出証明の専用カードを確認してもらい、正式に本を借りることができた。これで今日の目的の七割は達成だ。
「なあ、おっちゃん。ちょっと聞いていい?」
リュックに本をしまっている隣で、テルが叡彰おじさんに話しかけているのが聞こえた。
「うん?どうかしたかい」
「ここってさ、夢占いとか夢分析とか、そんな感じの本って置いてたりしねえ?」
(……ん?テル、今夢占いって言った?)
テルの口から出た意外すぎる単語。思わず会話の聞こえる方を見ると、叡彰おじさんもきょとんとした様子で目をしばたたかせていた。きっと僕と同じことを思ってるのだろう。
「どうだったかなあ……あるとは思うけど」
「大体どこら辺?」
「哲学や心理学のコーナーにあると思うよ。奥まった場所だし、良ければ一緒に探しに行こうか?」
「いやいいよ、おっちゃん忙しそうだし、一人で探してみっから」
「若い子がおじさんに気なんて遣うもんじゃないぞ。それに、ここはとにかく広いからね、目当ての本を一人で探し当てるのは大変だよ」
叡彰おじさんの言う通り、この図書館、特に一階は蔵書数ゆえか見た目以上に広大だ。奥行きが広いのはもちろんのこと、受付から見える範囲だけでなく左右に奥まったところにも本棚が並んでいるので、初めて利用する人や久々に本を借りに来た人は決まって司書や検索端末のお世話になる。今でこそ慣れて一通りの本は探せる僕でも、一階を使い始めた当初は毎回叡彰おじさんに頼っていたくらいだ。
おじさんが忙しいなら僕が付いていこうか、とも思ったけど、当のおじさんは案内する気みたいだし、ここはプロに任せておこう。
「マジかよ……じゃあ案内頼むわ」
「よしきた、任せといて」
「すまん渚、ちょっと別行動な」
「気にしないで。いってらっしゃーい」
受付から出てきた叡彰おじさんにテルが付いていったのを見送ると、僕は閲覧席に向かった。パーティションで区切られた長机のそこは、普段は大学生や高校生で埋まっている。今日も勉強道具やパソコンを広げる年上の学生たちがこぞって机を埋めていたけれど、幸いなことに壁際の席が一つだけ空いていた。僕はいそいそと席に腰かけ、リュックから教科書やらノートやら筆記用具やらを取り出した。今回取り組むのは、僕が最も苦手な数学だ。
テスト範囲になっているページを開き、練習問題を見ながら必死に公式を思い出す。あれがああなって、これがこうなるから、答えはこうで……って、あれ、そんな感じだったっけ。ああもう、昨日やったばっかりなのに、一問目からもう忘れちゃった。数学担当の先生は「公式さえ覚えれば点が取れるんだから、これほど親切な科目無いだろ」って得意げに言うけど、その公式がどうしてそうなるのか理屈が分からないからこっちは困ってるというのに。
(物語の登場人物の心情を考える方がずっと楽しいのにな……)
見えないものの奥深くに思いを馳せるのは得意だ。けれど数学はその「想像力」がまるで役に立たない。だからこそ最も苦手意識が強い科目だった。ちなみに同じような理由で化学や物理も苦手だ。
正直、高い点数を狙っているわけでもないのだけど、それでも完全に捨てるわけにはいかない。進みの遅いシャーペンを何とか動かして、やっと1ページ分の演習を終える頃には、僕のモチベーションはすっかり萎えていた。
その後、苦手を潰すより得意を伸ばした方がいいよねと結論付けた僕が、数学の教科書を早々にしまって現代文の勉強に切り替えたのは言うまでもない。
一方、照彦は叡彰についていき、一階奥の心理学コーナーに到着した。読む人が少ない専門分野のためか、該当の棚は隅の方にひっそりと設けられていた。
(どこもかしこも本でいっぱい……何か頭痛くなってくるなあ)
読書といえばもっぱら漫画が中心の照彦に、本の敷き詰められた棚は情報量が多すぎる。ここに至るまでの時間は大したことないはずなのに、既に若干の疲労を感じていた。
「さて、テルくんのお目当ては夢占いや夢分析の本だったね。つかぬことを聞くけど、どういう風の吹き回しだい?」
叡彰が改めて不思議そうな面持ちで尋ねる。夢占いにしろ夢分析にしろ、この手の話題が好きそうな渚ならまだしも、夢の内容などあまり気にしなそうな照彦が興味を示している事実がどうにも結びつかないのだ。
「いや……実はさ、最近すっげえ変な夢ばっかり見るから不気味でさ」
曰く、照彦はある時期を境に、同じ内容の奇妙な夢を繰り返し見るようになったのだという。
照彦とて空を飛ぶ夢や何かに追われる夢など、よくある類の夢なら気にも留めなかった。それでも、明らかに由来が不明の夢を幾度となく見てしまえば、さすがに何かあるのかと気になってしまうもの。しかし、照彦の家にはパソコンなどインターネット環境は無いし、学校のパソコンは教師の許可が不可欠。そこで最後の砦として頼ったのが本だった、というわけだそうな。
「成程ね。ちなみに、テルくんが見たっていうのはどんな夢?」
「あー……マジで意味わからん夢なんだけどさ、笑うなよ?」
あっけらかんとした照彦が引っ掛かる内容の夢とは如何なるものか。単純な好奇心で尋ねたつもりだった。しかし、続けて語られた詳細に、叡彰はみるみる目の色を変えた。
「……テルくん、質問ばかりでごめんよ。その夢は、いつ頃から見始めたんだ?」
動揺が声や顔に出ないように努めて普段通りの調子で訊く。
「うーん、いつからだっけな……よく覚えてねえけど、少なくともここ一、二週間はほぼ毎日だよ」
「……そう、か」
顎に手を添えて思考を巡らせる。これは単なる偶然か。いや、それにしては夢として現れる周期が頻繁すぎる。しかし、だとしたらあまりにも早すぎるのではないか……?
「え、何だよおっちゃん。もしかしてすっげえ不吉な夢だったりすんの?」
さっきまで穏やかな雰囲気だった叡彰が急に難しい顔で黙ってしまい、一抹の不安がよぎる。照彦の声にも焦りと不安が滲んだ。それに気づいた叡彰はハッとして、すぐに頬を緩める。
「ああ、いや、どうだろうね。私も夢占いには詳しくないもんで……それでもだいぶ気になる内容だ。ヒントになりそうな本が無いか、ちょっと探してみようか」
そう言うと、近くにあった脚立を持ってきて数段登る。照彦はそんな叡彰の様子をやや見上げながら見守った。
整然と並んだ背表紙を指でなぞるようにして、本を探すような素振りを見せる。しかし実際には、それは全部「探しているフリ」だった。
叡彰には分かっていたのだ。
照彦の見た夢の内容は、この図書館の如何なる本でも解明できないことを。
そして、その答えを持っているのは、現時点では自分だけであることを。
しかし、今はそれを悟られてはいけない。だから、数分ほど背表紙を確認するような振る舞いをした後、脚立を降りて困り顔で笑う。
「ごめんよ、役立ちそうな本はどれも貸し出し中みたいだ」
「えーっ、マジでか」
まさか隠し事をされているなどとは露知らず。叡彰の報告を受け、照彦は残念そうに肩を落とした。いかにも読み手の少なそうなジャンルだというのに、そんなことがあるのだろうか。
「まあ、借りられてんならしゃあなしだな。ありがとな、おっちゃん」
しかし、本を読む人の都合や貸し出し頻度の相場など分かるわけもないので、現実は現実として受け入れるしかなかった。照彦はお礼代わりに軽く会釈をした。ラフな喋りに反して剣道部らしく礼儀正しい振る舞いに、叡彰は「気にしないで」と曖昧に笑って返すしかなかった。
三十分もしないうちにテルと叡彰おじさんが戻ってきた。ちょうど漢字練習がひと段落してペンを置いたところだった。
「おかえり……って、あれ?何も持ってないね、目当ての本無かったの?」
「ああ、貸し出し中だってさ。ざーんねん」
空の両手を広げて見せたテルは、やれやれと残念そうに笑う。その隣では、叡彰おじさんが困ったような微笑みでテルを見ている。期待に沿えなかったのを申し訳なく思っているのだろう。
何はともあれ、これにてテルはここに用が無くなったし、そのまま帰ってしまうものだと思っていたのだけど。
「渚の勉強終わるまで待ってるよ」
「僕、お昼くらいまで勉強続けるからまだ時間かかるよ?」
「いいよ。適当に漫画とかラノベとか探して読んで時間潰してっから。最近土日に会うこと無かったし、たまにはいいじゃん」
にやりと笑ったテルにつられて僕も頬が緩む。学校では毎日顔を合わせているけど、小さい頃のように休日に一緒の時間を過ごすのはずいぶん久々だ。テルがいいなら、もちろん僕にも異論なんて無い。
「そうだね。そしたらお昼ごろまた落ち合おう」
「あいよ、勉強頑張れー」
「相変わらず仲良しだねえ。それじゃあ私も仕事に戻るよ。二人ともごゆっくり」
「うん、ありがとうおじさん」
「忙しいとこ、あんがとなー」
小さく手を振った叡彰おじさんに、僕たちは銘々にお礼を言った。彼が受付奥に引き返していったのを見送ってから、テルは「んじゃ」と短く一言、ライトノベルやコミック作品の置かれた棚を探しに行った。読者数が多いジャンルゆえに目立つポップが飾られているおかげで、テルもすぐ見つけられたようだ。すぐにその姿は棚の隙間に消えていった。
残された僕は、凝り始めた首を軽く回す。さあ、もうひと頑張りだ。今度は歴史の教科書を開き、人名や出来事や年号の暗記に取り掛かった。
————目標にしていた教科を一通りおさらいし終えた頃には、受付の壁掛け時計は十二時半を指していた。
ふう、と溜め息を吐いて、ぐんと大きく伸びをする。ここまでほとんど休憩無しで集中していたので、すっかり目と手が疲れてしまった。そういえば水分もろくに取ってなかったな。自覚すると、途端に喉の渇きがはっきりしてきて、慌ててリュックからペットボトルの水を引きずり出し、こくこくと一気に飲む。何かに集中するとすぐ休憩や水分補給を忘れてしまうのは、昔からの悪い癖だ。
「よっ、お疲れさん」
一頻り喉を潤してからキャップを念入りに締めていると、テルがひょいと手を上げて戻ってきた。僕も「うん、ありがとー」と手を振り返す。
「ずいぶん頑張ってたな」
「えへへ、一つやると色々気になっちゃって」
「よくそれだけ集中が続くよなあ、尊敬するわ」
「テルだって集中力すごいじゃん」
「オレのは剣道限定な?勉強になった途端駄目だから」
テルはこう言っているけど、実は普段の授業は結構真面目に集中して聞いていたりする。小さい頃から剣道の道場に通って、中学でも剣道部で鍛えて培ったその集中力は、何も試合の時だけではないのだ。
……尤も、ちゃんと授業を聞いていても理解できているかは別問題。授業後、僕に「あれってどういう意味?」みたいに聞いてくることも少なくないけれど。
そんな雑談もそこそこに、僕らは帰り支度を整えた。受付を見ると、叡彰おじさんがデスクで何か作業をしていたので、帰り際二人で「ばいばい」と挨拶を投げる。叡彰おじさんは作業を一瞬止めると気さくな笑顔で「またおいで」と返事してくれた。
「なあ渚、久々にどっか食いに行かねえ?」
自転車を押して駐輪場を出る最中、テルが不意に提案してきた。リュックにはもちろん財布は入っている。今月はあまりお小遣いを使わなかったので、確かお札が一枚は残っていたはずだ。
「いいね、行こう行こう!」
「よっしゃ、そしたらいつものところでいいか?」
「オッケー!」
道路に出ると早速自転車を走らせた。
いつものところ、というのは、僕らの近所のファストフード店のことだ。値段がお手頃なのにたっぷり食べられるので、僕らみたいな未成年にはありがたい場所だ。昔は休日に二人で何度も通ったものだが、最近はテルと休みの都合が合わなくなっていたので、自然と僕も足が遠のいていた。
図書館から自転車で行くと五分もかからず着いた。土曜日のお昼時のそこは、かなりの混雑具合だった。店内で過ごす親子連れや地元の子供グループ、テイクアウト待ちの人たち、中には僕らくらいの違う学校の生徒や高校生のグループもいる。
「うっわ、久々に休みの日に来たけど、混み方えぐいな……」
「混んでるかなとは思ったけど、なかなかだね……」
予想こそしていたけど、正直ここまで混んでいるとは思わなかった。けれど、店を他に移そうとも、この時間帯はきっとどこも変わらないだろう。何とか席は無いかと探していると、幸いにもテイクアウトを待っていた客が帰ったおかげで、壁際の二人席が空いた。これ幸いと二人で席を確保し、荷物を置くとやっと人心地付いた。
混雑しているからということで、テルが二人分の注文をしに行ってくれた。程なくして、僕の元には海老カツバーガーのセット、テルの元にはダブルチーズバーガーのセットが運ばれてきた。いただきます、と二人で軽く唱えて各々好きなものから手を付ける。
「んーっ美味しい!」
「久々に食うとマジ美味えよな」
空腹だったこともあり、塩気のきいたポテトも海老カツバーガーもとびきり美味しく感じる。僕もテルもしばらく食べるのに集中してしまった。
「そういえばテル」
「ん?」
「夢占いの本なんて何に使うつもりだったの?」
バーガーを半分ほど食べてから、し損なっていた質問を投げかけた。図書館では叡彰おじさんがすぐにテルを案内しに行ったことや試験勉強が気がかりだったこともあって、あまり気に留めていなかったけれど、よく考えると何だか引っ掛かる。テルは僕と違って、占いの類への興味が薄いし、あまり信用もしていない。その上、夢なんて起きた拍子にけろっと忘れる、とは本人の談だ。そんな彼が急に夢占いの本を探しているなんて言いだしたのだ。違和感の一つも芽生えてしまう。
「ああ、それな。いや、最近すげえ変な夢ばっか見るから、何か意味あんのかなって調べたかっただけなんだ」
テルはドリンクを一口啜ると話し始めた。何でも、ここ最近同じような内容の夢を頻繁に見るようになったのだという。
暗闇に立つ自分。顔をフードで隠した背の高い男性。彼から渡される、赤い宝石の付いた杖と炎の形のペンダント。立ち去ろうとする男性を呼び止めると、振り返ったその顔が判明するより前に陽炎のように揺らめいて消えていく。そして、消えゆく直前に彼から発せられる一言……「待っているぞ」。
ここまで聞いて、僕はごくりと唾を飲んだ。細かい違いはあれど既視感を覚える流れだ。
「……その夢に出てくる男の人、ひょっとして……テルのお父さん、だったりする?」
「え、何で知ってんだ?そうだよ、顔は最後まで分かんねえけど、あの声は間違いなく親父だ」
————やっぱり。奇妙なほど多い類似点に、どこか薄ら寒い不気味さを覚えた。
「つうか渚、さっきの話で親父の名前一回も出してないのに何で分かったんだ?まさかあれか、テレパシー的なやつ?」
「そんなわけないじゃん。僕も……テルと一緒だからさ」
「ってことは、お前も親父さんの夢、しょっちゅう見てるのか?マジで?」
目を丸くしてテルは身を乗り出すように尋ねてくる。
「うん……二年生になってしばらく経ってから急にね。ほぼ毎日見るようになったのはここ一週間くらいだけど」
「オレはここ一、二週間くらいからだから、渚よりはもうちょい前からだな。でも夢の内容どころか見始めた時期も近いとか……オレらって昔から色んなもんがかぶってっけど、ここまでくるとさすがに怖えわ」
「ほんとだね……何なんだろうね、僕らのこの一致の多さ」
ぶるりと身震いして肩をさすった親友につられるように、僕も自分の肩を抱いた。
僕とテルの間には、昔から奇妙な縁がいくつも存在する。
クラスは同じだったり離れたりしつつも、通っていた幼稚園や小学校はずっと一緒。現在通っている中学校も、今のところ二年連続で同じクラス。昔から変わらず住んでいるお互いの家も、歩いて一分もしないほどの近所。そこまでなら、偶然の重なり合いでまだ説明できる。
しかしそれだけではなく、何と僕らは生まれた病院も同じ、生まれた日付や時刻も同じというのだから驚きだ。まるで双子の兄弟のような一致点の多さだ。加えてそもそもの話、雨宮家と日上家は父同士が昔からの親友同士だそうで、その縁で母同士もとても仲がいい。僕ら二家族は文字通り家族ぐるみの付き合いなのだ。
細かな価値観や辿った道筋の違いこそあれど、生まれた日から今日まで僕の隣にはほぼ必ずテルがいたし、テルの隣にはほぼ必ず僕がいた。それが僕ら二人の当たり前だった。昔から、この奇妙すぎる共通点は僕らだけの共有物であり、不思議で大事なものだ。それは今でも変わらない。
けれど、互いに影響し合いようがないはずの夢まで似通っているとなると、さすがに怖さの方が勝ってしまう。
(何かの前触れだったりして……なんて、そんなわけないか。でも、何だか気味が悪いなあ)
双方ともが父から贈り物をされ、最後には「待っているぞ」と告げられる夢。片方が見ただけなら変な夢だと笑い飛ばせただろうけど、二人揃って見ているというから何とも奇妙だ。特に何か危害を加えられたわけでも、不幸なことが起きたわけでもないけれど、目の前にある事実を並べてみると、縁起でもないことを考えてしまいそうになった。
「はあ、やめやめ!考えてもぜーんぜん意味わかんねえし、この話はやーめ!」
思考の端っこが不安の沼に浸かりかけた時、それを力任せに引き上げたのはテルの吹っ切れたような声だった。我に返って振り向くと、テルはドリンクを一気に飲み干して続けた。
「せっかく久々に二人で会ってるってのに、湿っぽいのは無しにしようぜ。きっとオレも渚もここ最近疲れてるだけだって」
「疲れ、かあ……そうかも」
その理屈は分からないでもない。テルは六月に入ってから一層部活のスケジュールが過密になったし、僕も二週間前に突入するや否や始めた試験勉強で夜更しが続いているのは事実だ。それに、今月は毎日ずっと気温も湿度も高く、暑い屋外と涼しい屋内を行ったり来たりする機会も多い。六月末の今、疲れが出始めても不自然ではないだろう。
「だろ?オレも渚も毎日色々頑張ってんだし、疲れて変な夢見ちまっただけだよ。きっとそんな大した夢じゃねえよ」
僕にとってもテルにとっても、父という存在は決して大したことないなんて言えないのだが。今だけはテルの発言に賛成したかった。
その後はお互い残りの食事を続けながら、先程の気まずい空気を振り払うように雑談に興じた。
さっき図書館でテルが読んだというライトノベルの話、僕が最近ハマっているゲームの話、この前テルが出た剣道の試合の話、僕が最近読んだ本の感想、などなど。取り留めのない話をしているうちに、さっきまで胸の底を這い回っていた不気味な感覚は段々と小さくなっていった。
やがて、食事を終えると僕らは長居することなく店を後にした。僕は僕でまだ試験勉強を続けたかったし、テルは明日の部活動のために自宅で準備がしたいのだという。
「んじゃ、また月曜な」
「うん、またね、テル。部活頑張ってね」
「おう。渚も勉強ファイトな。後々頼らせてもらうから」
「こらこら、自分で勉強しなよ」
「自分だけじゃすぐ詰むから言ってんじゃんか!頼むよ雨宮せんせー!」
「他力本願じゃ点数取れないぞー!分かんないとこ以外は自力で頑張んなさい!」
「わはは、分かんないとこは教えてくれんのな、やっさし」
二人でけらけら笑い合う。やっぱりテルと話している時が一番楽しいや。
今度こそ二人で「じゃあね」と手を振り合うと、テルは自宅方面へ、僕は再び勉強するため図書館へ向かって自転車を漕ぎ出した。
第二部 兆し
やばい、遅刻だ。
【天の都】―ウェザーユートピア― 第一章:慈雨の救世主