アヤタカ14 「オミクレイ国」
おねだり
薄暗く、 埃っぽい部屋。
辛うじて窓の隙間から差す光の筋が、 舞う埃たちを白く染め上げていた。
「違う……。」
男の低い声が唸った。 続いて、 チャプチャプ、 カランという音がする。
「色か……? いや、 鼻の筋かもしれない……。」
男は手に、 か細い筆を持っている。 そして彼の見つめる先にはキャンバスがあった。そして、 キャンバスの中の目も彼を見つめ返している。 そのキャンバスに塗りたくられた絵の具たちは、 男の顔を模している。
しかしその顔はまるで涙で滲んだようにぼやけており、 細部がまるではっきりしない。
無造作に床に置かれたキャンバス。 似たような絵が、 この部屋中に散乱している。 どの絵も一様にぼやけており、 恐らく描かれている絵は全て同じ男だった。
どれも大まかなところは同じで、 細部や陰影が微妙に調節されている。 そしてその無数の絵は、 段々と彼が今手がけている絵に近づいていっていた。
おびただしい数の肖像画に囲まれながら、 男は不明瞭な言葉をつぶやき続けていた。
「せんせー、 今日は木を削ってそれっぽいものを作ってきましたー。」
さんさんと夏の太陽が砂を熱くさせ、 その上を滑る海の水が優しくほてりを鎮めていく。 その砂浜と海の上に建つ、 柱のような白い建物。 ストロ先生の道場であった。
ふてぶてしい態度で木の棒を差し出す少年はアヤタカ、 太陽から生まれた子供である。
この道場の師範、 ストロ先生は じとりとアヤタカを見る。
現在、 彼女の弟子たちは剣の使い方を練習していた。
アヤタカは彼女の道場に入門を望んでいた。 アヤタカは断られ、 それからというもの執拗にこの道場へと通ってくる。
周りの絆兄弟――精霊体に肉親は存在しないため、 彼ら彼女らの示す家族とは絆を結び家族となる契約をした相手のことを指す。 ここでは弟子たちのこと。――は、 模擬刀で型の練習をしながらも、 心配そうにアヤタカとストロ先生の会話を聞いていた。
ストロ先生が呆れ気味に返事をする。
「あのなぁ、 何度言ってもお前をうちの子どもにはしない。 いい加減、 しつこいぞ。」
何度目になるか分からないこのやり取り。 アヤタカは目が全く笑っていない笑顔で切り返す。
「先生、 お邪魔はしません。 これからも隅っこで独りで練習します。 他の絆兄弟たちのお邪魔はしないように、 二体一組にも試合にも合戦にも参加致しません。」
アヤタカは意外としつこい性格だったらしく、 普段の彼とは思えないほど食いさがる。
ストロ先生も最近は絆の子らから、 いい加減子どもにしてあげたらどうですか、 あいつ努力家だし良い奴だし、 そろそろ可哀想ですよ、 と言われていた。 しかしストロ先生は絆の子らに聞かれても、 全くアヤタカの入門を断っている理由を明かそうとしない。 ストロ先生は はぁ、 とため息をついて他の者への指導に移った。
ストロ先生の道場では体術が基本なものの、 武器の扱いや器械体操、 水泳など様々なことをやっていた。 彼女曰く体術の技術を底上げするには、 他の動きも知っていたほうがいいという理念らしい。 そして最近は剣が中心であったが、 模擬刀は絆の子らの分しか用意していないため、 アヤタカはそれらしいものを用意するしかなかった。 アヤタカはいつも絆兄弟たちから離れた所で練習をして、 自分には指導をしてもらえないため、 絆兄弟が注意されていることを盗み聞きして技を盗んでいた。
「おい、 テッチ。 腕全体で剣を振るな。 動きが遅くなる。 斬りつける瞬間、 ぐっと柄を握れ。」
アヤタカは友の受ける指導を凝視して、 その注意を自分にも取り入れて木の棒を振るった。
しかし取り入れた、 盗んだと言っても、 それは頭の中の論理としてだった。 アヤタカはその動きをできていない。 できていないことすら分かっていない。 しかし最近できていないことに気づいてきた。 しかしできていない。
理解は早いが、 実践能力が無かった。
ざーん、 ざーんと波の音が聞こえる。 この道場は砂浜から見て、 精霊八体分の高さがある。 潮が満ち引きするため、 初めて来た時は潮が引いていて一面が白い砂浜だった。 今砂浜は、 海の水がヴェールのように薄くかかっている。 満潮になれば、 この道場のすぐ下まで海が迫ってくるらしい。
――早く海が満ちて、 水泳になってくれないかなぁ。 そしたらこの狭い空間の気まずさも、 大海原へと流れていくのに……。
一応、 うっとうしそうなストロ先生の目や他の絆兄弟たちの気遣いに、 アヤタカは申し訳なく思っていた。
はあ、 という重いため息が、 狭い空間に流れていった。
「ストロ先生、 どうやったらアヤタカのこと子どもにしてくれんだろうな。」
「え?」
小さな講義室、 爪弾き学の最中にテッチが唐突に口を開いた。 爪弾き学は最初の授業を終えた後、 クジによるクラス分けが行われた。 そのため教師も変わり、 結果、 二体は変人で授業が分かりにくいと評判の教師に当たっていた。
そのせいか、 授業中にも関わらずほとんどの生徒がだらけている。 男性教師のしわがれた、 妙に楽しそうな声が耳の穴を流れる。
「そうこの呪文はね、 そのままお返しするの相手の魔法を。 でもこれは試験には関係ないの。 私は学生の頃不真面目でしたからね、 試験に出ないのにずっとこれを練習していましたよ。 やり返してやりたい相手がいましたからね。 ウフフ。 でも難しいからねこれ、 できる人がいないからテストの対象外になってたの。 でも私は不真面目ですから。 そればっかやって、 すぐに出来るようになっちゃった。 授業では使うことなかったけど、 普段の生活で仕返ししたい奴がね。 私結構しつこいですから。あ、 でも授業では私怨を挟みませんよ、 態度が悪くても私は点さえとれば評」
「もう、 おれアヤタカのこと見てられないんだもん。」
テッチは教師の説明も構わず続ける。
「そこで、 おれは良い情報を手に入れました! 」
「はい、 じゃあ103ページ。」
テッチの声に被せるように教師は口を開いた。
アヤタカがページをめくると、 やり返し呪文の魔法式やらがつらつらと並んでいた。 男性教師はそれをひたすら読み上げる。
――この授業、 老人の昔話と音読に付き合わされてるだけなような……。
学校生活には大分慣れたものの、 ここの教師には一向に慣れない。 一癖も二癖もある上、 教師によってムラがある。アヤタカは、 もう少し足並み揃えて来てくれないかな、 そう思った。
いつまでも沈まなかった紫の星が、 ようやく地平線へ沈んでいった。 アヤタカらは よっしゃ! と言わんばかりに羽ペンや紙ををしまい出した。 先生も はい、 終わりねと教材をまとめ出す。
ボワ~~ン、 とドラの音が鳴り響いた。 これは呼び出しなど、 何らかの知らせがあるときに鳴らされる音だ。 続けて、 拡声器を通して大きくなった声が校内に響き渡る。
『フレイヤさん、 フレイヤさん。 校長室までいらしてください。』
紫の瞳が さっと声のする方に向けられる。 太陽の光が惜しげもなく降り注がれる廊下で、 眩しさも忘れて少年は足を止めた。 フレイヤの見開かれた瞳が、 太陽と星の光をたたえて微かに揺れていた。
太陽が地平線に沈みだした頃。 青白い空に弱々しい緋の色が、 ワインの澱のように溜まっていった。
太陽が、 最後の光を地上に投げかけている。
部屋に灯る蝋燭の灯りは、 外から入ってくる太陽の光を追い返そうとしている。それを見かねたストロ先生がカーテンを引こうとしたが、 ラズィク校長が 気を遣わずとも良いですよ、 と言って止めた。
ここは校長室、 そしてそこに居るのはラズィク校長とストロ先生だけであった。 ストロ先生が姿勢を正して、 低く凛とした声を放つ。
「……して、 ラズィク校長。 私にオミクレイ国から仕事の依頼が来たとのことですが、 お受け致します。 その間の授業のことですが、 私の絆兄弟が来てくれるとのことですので、 宜しくお願い致します。」
「ありがとう、 ストロ先生。 数日だけの出張ですし、 一、二体なら生徒を連れて行けますよ。 先生だけでは不便なこともあるかもしれません。 誰かを連れて行ったらどうです? 旅費はあちらが出してくれますよ。」
「いえ……、 それはいいです。 私一体で大丈夫です。」
この学園ではよく教師の出張に、 学生を連れて行くことがある。 その目的は大体が小間使いとしてだが、 表向きには留学経験となっている。
「おれが行きます!」
突然、 若い声が飛び込んできた。 二体の先生の目がドアに向く。 そこには汗だくで息を切らしている、 亜麻色の髪に緑の目をしたの生徒がいた。
呆然と見ている二体の視線に、 生徒は 失礼、 します……と小さく付け足した。
「おお、 こんにちは。 君、 名前は?」
ラズィク校長が、 少年に向かってにっこりと笑う。 少年は息を整え、 唾を飲んで答えた。
「一年のサイオウです! ストロ先生の手伝いとして、 おれを連れて行ってくださいませんか!?」
「え、 サ……? あれ、 アヤ…?」
ラズィク校長は、 冬こそ旬である、 この国の味覚に応えるお茶の名前では無かったことに困惑した。 アヤタカは、 アヤタカではなくサイオウだったのだ。
きょとんとしていた校長は、 ストロ先生の怒声で我に返った。
「お前は! ノックくらいちゃんとしろ! それに校長先生の部屋を盗み聞きとは何事だ! 試験についての話だったらどうするつもりだ! それだけでお前はカンニングになって、 全教科の点数を剥奪されるんだぞ!」
怒られたアヤタカは体を小さくして、 しゅんとした声ですみませんと謝っていた。
ラズィク校長が口を挟む。
「君はストロ先生の手伝いとして、 オミクレイ国に行きたいのかい?」
「はい!」
「どうしてかな?」
アヤタカは、 う、 と言葉に詰まった。 それらしい理由を用意していない。
「どうした、 まさか観光気分で行きたかったのか。 ならば連れて行く訳にはいかないぞ。」
アヤタカの本当の目的は、 ストロ先生も分かっている。 お前の魂胆は見え見えだ、 そうはさせないからなという目でストロ先生が威嚇をする。
――このまま何も言わなかったら、 理由が観光気分にされる!
そう思ったアヤタカは、 一か八かの賭けに出た。
「正直に言います……! 少しでもストロ先生に気に入られるため、 手伝いをしたいと言いに来ました! 個人的な願いではありますが、 ぼくも学校の外でストロ先生のご鞭撻を頂きたいのです!」
ストロ先生は本当に言うとは思わなかったので、 ぴくりと顔を歪ませた。 ストロ先生が道場を開いていることも、 ラズィク校長は知っている。
はあ、 と小さくため息をつき、 ストロ先生はラズィク校長の方をちらりと見た。 何故何も言わないんだろうと思って。
見ると、 ラズィク校長は目をむいてこっちを見ていた。 ストロ先生は びくっと反応し、 何故そんなに驚いているんだと困惑した。
ラズィク校長は、 アヤタカをちらりと見て、 もう一度ストロ先生の方を見ては驚愕したような顔をしている。
そこでストロ先生は あ、 とひとつの予感が頭を掠めた。
ストロ先生はアヤタカに向き直り、 いつもよりやや抑えめな声で話し出した。
「アヤ……じゃない、 サイオウ。 別に単体でも意味は通じなくもないが ……”ご鞭撻”はな、”ご指導” と一緒に使うんだ。”ご指導ご鞭撻を頂きたい” が正しい言葉だ。 お前の言った”ご鞭撻を頂きたい” はな、”ムチで打って欲しい” だ。」
ストロ先生が後ろを見ると、 ラズィク校長が腑に落ちたような顔で頷いていた。 彼女の予感は当たっていた。
はあ、 とひとつ、 ストロ先生は大きなため息をつく。
外の陽は、 もうとっくに沈んでいる。 真っ暗な外に向かって、 部屋の蝋燭は灯りを伸ばしていた。
まるで助けを求め、伸ばされている手のように。
銀のエンブレム
「やったなアヤタカ! ストロ先生とオミクレイ国行けるんだ!」
特徴的な声が、 広い大講義室に響いていく。 次の授業の場所である大講義室にはまだ人があまり来ておらず、 そのせいもあってかテッチの声はよく通った。
アヤタカの元にその場にいた生徒たちが集まり、 どうして行くの、 いーなー、 などの声が ぱらぱらとあがった。
あれから、 ラズィク校長の口添えもあって、 アヤタカはストロ先生の出張に付いて行くことを許可してもらえた。
テッチの声を聞いて、 近づいてきたラムーンが口を開く。
「へえ、 オミクレイ国? オミクレイ国って、 確か美形びいきで有名の?」
第一声が罵倒ではなかったため、 アヤタカは拍子抜けした。 しかし内容が頭に入って、 え? と、アヤタカは初耳だと言わんばかりに首を傾げた。
ラムーンが続きを話す。
「オミクレイ国はね、 貴族とかの支配層がほぼ全員美形なの。 別にオミクレイ国自体、 きれいな人が特別多いってわけじゃないのよ。 だから、 あの国は顔で身分を決めているんじゃないかって噂なの。」
うえー、 と生徒たちから非難するような声があがった。 ラムーンはそれに呼応するように、 声をひそめて話を続ける。
「それで、 これは箝口令がかけられてる話らしいんだけどね……。 実際に美しい子が産まれたら、 噂を聞きつけた国の人が来て連れて行っちゃうんだって。 そこで小さなうちから英才教育を受けてるって専らの噂よ。」
ひぇー、 と今度は恐れるような声があがった。 テッチは腕を組み、 机に肘をつける。
「えー……。 それは連れてかれる子も可哀想だしさあ、 なんかとりあえず、 嫌な国だね。」
うんうん、 と周りの生徒たちが頷く。 それをラムーンはさらに畳み掛ける。
「それで一番の根拠はね、 王様なのよ。 何でもあの国の王様は眩くほどの美しさらしくってね、 それは周りの貴族と一線を引くくらいなんだって。」
いよいよ信憑性が増してきた噂に生徒らの関心が高まる。 今までずっと口を開いていなかったアヤタカが、 ラムーンに声をかけた。
「へえ、 確かめてきたいけど、 そんな偉い人とは絶対に会わないし……。 なあ、 肖像画とか無いのかな?」
ラムーンが、 あ、 と反応し、 思い出したように情報を付け加える。
「そう、 そのことなんだけどね……。 貴族とか、 その辺りの肖像画はたくさんあるのよ。 でもね、 王様の姿だけは絶対に残させないの。 もし王様の姿を絵や詩に残すような真似をしたら重罪にされて、 殺されるか、 一生牢屋に閉じ込められるらしいわよ。」
そんな暴君がいる国に行くのか、 とアヤタカは自分の向こう見ずな行動を少し後悔した。
テッチもそう思ったようで、 申し訳なさそうにアヤタカの方を見ている。
ラムーンはにんまりと笑って、 最後にこう付け加えた。
「情報料。 お土産買ってきてね。」
海を滑る風は水を身にまとい、 海へ空へと翔けていく。 心地良い風は船に掛けられたヴェールのようで、 太陽の熱を和らげる。
今、 アヤタカとストロ先生は大きな船の上にいた。
二体は朝早く、 まだ霧がかかる頃に船に乗った。 今は霧もすっかり晴れ、 昇りきった太陽が惜しげもなく光を放ってくる。 アヤタカは飽きもせず、 船が水を切る様を甲板から覗き込んでいた。
周りの客は何をするでもなく、 日傘の下で談笑したり、 きれいな色の飲み物を飲んだりしている。
ストロ先生は、 仏頂面で木箱の上に座っていた。 隣にいたアヤタカが振り向いて、 ストロ先生に話しかける。
「ストロ先生……他のお客さんが怖がってます。 もう機嫌を直してくださいよ。 あ、 飲み物持ってきましょうか?」
ストロ先生は相変わらず険しい顔のまま黙っている。 無理を言ってついてきた手前、 先生が怒るのも無理はないか、 どうしたものかとアヤタカが気疲れを感じた時、 よく見るとストロ先生が、 先程から一心不乱に遠くを見ていることに気が付いた。
アヤタカは見間違いでないかもう一度確認し、 控えめな声で話しかける。
「もしかして先生、 船酔い……?」
ストロ先生は乱暴に首を前に倒し、 再び動かなくなった。
アヤタカは、 今のは頷いたんだ、 と数秒経ってから気が付いた。 ストロ先生は表情があまり変わらないためよく分からなかったが、 今になってみると顔色が悪い。 息も少し荒いのではないか、 と、 先程から感じていた様々な違和感が腑に落ち始めた。 彼女が行なっていたのは民間療法、 遠くを見ることで乗り物酔いを和らげようとしていたのだ。
「く、 薬持ってきますね。 あと横になった方がいいです。 歩けますか?」
聞いてはみたが、 一向に動かないストロ先生を見て、 これは相当酔っているなとアヤタカは確信した。 いよいよ顔色が悪くなっていったストロ先生をアヤタカは急いでおぶり、 船の休憩室まで連れて行った。 おぶっている間、 何度かストロ先生が背中から落ちそうになって、 その度にかなり肝を冷やした。
海辺に面した国、 オミクレイ国。 道も建物も全て白で統一されているこの国は、 国を彩る木や花の色を尚美しく輝かせた。 海の青と地上の白が手を取り合うこの景色に魅せられた者は多い。 それだけこの国の美しさは、 他と比べて群を抜いていた。
その国でアヤタカは独り、 似顔絵を描いてもらっていた。
何故彼が暇を持て余しているのか、 時間を遡ること1時間。 アヤタカはぐったりしたストロ先生、 自分の荷物、 かなり多いストロ先生の荷物を苦労して船から降ろした。 ようやく着いたオミクレイ国は美しく、 たくさんの観光客で溢れかえっていた。
ストロ先生の具合はまだ悪そうだったため、 木陰に連れて行き休ませることにした。 アヤタカがうちわで扇いであげていると、 唐突に誰かから声をかけられた。
「ストロ殿と、 その付き添いですか?」
振り返ると、 そこには大柄な男と枯れ枝のような老人が立っていた。 アヤタカは急であったため、 つい口籠った。
「え、 えっと……。」
ストロ先生に聞こうにも、 まだかなりぐったりしている。
「如何にも。 今回の依頼を承ったストロです。 早速ですが、 依頼の方に移ってもよろしいでしょうか。」
アヤタカは、 時間が飛んだのかと思った。 一瞬前までぐったりしていたストロ先生が平然と立っている。 隣で唖然としているアヤタカに目もくれずに、 ストロ先生は依頼人の方へと歩み寄った。
彼女の人生、 彼女はどんな時も、 辛さや弱さを見せることは許されなかった。 いかなる時も厳格に、 凛とした指導者であり続けること。 それが彼女の信念であり、 誇りだった。 内心どれ程苦痛にのたうち回ろうとも、 表の顔は涼やかに。
厳格な彼女に男二体は、 さすが噂に違わぬお方だ、 なんて頼り甲斐のある方なんだ、 と褒め称えた。 アヤタカは先程まで扇いでいたうちわを見て、 ストロ先生を見てもう一度うちわを見た。
「え? 先生、 まだ船酔……。」
「世話になったな。 先に宿に帰っていろ。 したいならば観光をしていても良い。 ただし、 逢魔の星が見えてくる頃には帰ってこいよ、 分かったか。」
「え、 いや、 おれもついていきますよ。 それより先生、 まだそうとう具合悪……。」
「世話になったな、分かったか。」
「……はい。」
ストロ先生は去っていった。 依然として厳格な姿のままで。
独りになったアヤタカ。 観光も良かったが、 実は先日の授業で魔法式の書き取りやら実践の感想など、 かなり面倒な宿題が出ていた。 アヤタカはそれをやってしまいたかったが、 宿に運んでもらった方のバッグに入っていた。 観光する場所も分からない、 終わらせたいことさえもできない。 途方に暮れたアヤタカは、 白い街並みを彷徨っていた。
そうしているうちに大通りから外れたらしく、 閑散とした少し広い道に辿り着いた。 左側には道に背中を向けた白い建物が立ち並んでおり、 右側には濃紺の海が広がっていた。 かつてラピスラズリの海と謳われたほど深い青。 その海に揺らぐ光が辺りの壁に映る。
暇を持て余していたアヤタカは、 観光地でよく見かける、 地べたに布をひいただけの店へふらふらと立ち寄っていた。
そしてただそこが似顔絵屋だったのだ。 アヤタカは今、 簡易的な椅子に座って似顔絵を描いてもらっている。
「へぇ、 はるばる外国までついてきたのに、 置いてかれちゃったのかい。」
「おじさん、 分かってくれる?」
「置いてくなんてひどいなあ、 せっかく頑張って介抱してやったのに。 ……どれ、 できたぞ。 」
「わあ、 ありがとう! やっぱおじさん上手!」
アヤタカはスケッチブックの切れ端に描かれた自分の似顔絵を受け取り、 嬉しそうにその絵を見た。 気を良くしたらしい似顔絵屋が、 白髪混じりの黒い髪を乱暴にさする。
「いや、 おれも外国の若い兄さんと話せて楽しかったよ。 せっかくの記念だ。 この国ならではの格好良い模様でも腕に描いてやるよ。」
「え! いいの?」
すると似顔絵屋はおもむろに杖を取り出した。 学校で配られるような形式的な造りの杖で、 この国の紋章が浮き彫りにされている。
似顔絵屋は、 今度は魔法で絵を描くつもりらしく、 何かをぶつぶつと唱えている。 似顔絵屋のひび割れた指に くっと力が入り、 銀色の閃光が杖の先に宿る。 ぱしゅっという軽やかな音を立て、 その光はアヤタカの手の甲に飛び込んだ。 手の甲に光の残滓がきらきらと漂い、 煙のように渦を巻いて消えていった。 見ると、 手には銀に輝く複雑な模様が記されていた。
「かっこいい! おじさんありがとう!」
「まあ、 すぐ消えちまうけどな。」
アヤタカは満足げに手を眺めては、 意味もなく手を掲げてみたり、 ひらひらと動かして模様が日にきらめくのを楽しんでいた。
その時、 アヤタカの来た方向から、 馬車の音と何やら言い争うかのような声がさわさわと聞こえた。
アヤタカは、 その声に聞き覚えがある気がした。
がしゃん!
後ろで唐突に大きな音が鳴り、 アヤタカが振り返る。 見ると、 似顔絵屋が血相を変えて画材道具を掻き集めていた。 呆然と見ているアヤタカと目が合う。 似顔絵屋の細い目は、 大きく見開かれていた。 そして声が近づくや否や、 布や椅子を置き去りにして画材道具を抱え走り去って行った。
その様に反応できなかったアヤタカは、 開けた路地に独り店の前で立ち竦んだ。
さっきまで似顔絵屋が座っていた場所に目をやる。 店主の居なくなった店はひどく小ざっぱりとしていた。 店というそれは、 布の上に椅子や幾つかの絵が乗っかっているだけだ。 まるで魔法が解けたかのようで、 今となってみるととても店だとは思えない程単純な造りだった。
困惑したままのアヤタカに、 カツカツという足音が近づいてくる。
声の主が曲がり角を曲がってきた。 そして彼は、 アヤタカを見て ぴたりと立ち止まる。
「え……? お、 お前何でここに……。」
「えっ? そっちこそ……なんでここに、 フレイヤ。」
そこに居たのはフレイヤ、 アヤタカが入った学校で最初に会話をした、 炎の子供であった。
彼はこの国の衣装を身に包んでおり、 布や造りは見た限りでは一級品だった。 口元や頭、 左半身が、 光の間の布に似たヴェールで覆われている。 きめ細やかなヴェールは、 エメラルドを紡いだように美しい青と翠の輝きを放っている。 よく見ると腕や衣服に華奢な装飾品も身につけていた。 この国の衣装に身を包んだ彼の姿は、 まるで一枚の絵画のようでもあった。
アヤタカはその絵画の前で、 今しがた描いてもらった安い似顔絵を嬉しそうに掲げる。
「ほら見てこれ。 描いてもらっちゃった。 似てる? ところで、 フレイヤは何でここに? おれはストロ先生が仕事でこっちに来てて、 その付き添い。」
フレイヤは似顔絵をじろりと一瞥し、 くだらないと言わんばかりにその絵を手の甲で押し除けた。
「ああそうか。 私は母国に帰ってきただけだ。 言っておくが、 私はもうあの学園の生徒では無い。 退学した。 では返事はしたことだし、 私はこれで失礼していいか?」
淡々と述べるフレイヤの言葉を、 アヤタカは頭の中でもう一度反芻した。 時間をかけて練られた返答は、 えっ!? だった。
フレイヤは相変わらず、 素っ気ないすまし顔で違う方向を見ている。
なんで、 とアヤタカが聞こうとした矢先、 フレイヤの来た方向から馬車とその御者が現れた。 先ほどフレイヤが言い争っていたらしい相手、 御者を見たフレイヤが苦い顔をした。
「フレイヤ様!」
「さま?」
「勝手な行動は慎んでください。 そろそろ宮殿へ戻りましょう。」
「宮殿?」
「さあ!」
「……だってフレイヤ様。 宮殿にお戻りになったら?」
アヤタカの一言に、 フレイヤは酷くうっとうしそうな視線を投げた。 近頃、 このような目ばかりストロ先生から向けられている気がする。 その目にじっくり削られていったアヤタカの神経に、 彼の凍った目つきは堪えた。
いつもより早くフレイヤの対応に心が折れたアヤタカは、 無言で二、 三歩後ろへ下がった。
若い、 というよりは幼い御者が、 しかめっ面でアヤタカを見つめる。
「何だ、 お前。 オウム返しなんかして……馬鹿にしているのか?」
顎をしゃくって大股でアヤタカに近づく。 目線を上へ下へと動かして、 アヤタカをじろじろと見る姿はまるで値踏みをしているかのようだ。 下へと下げていた御者の目が、 ある瞬間を境にまばたきが止まった。 そして数秒の硬直ののち、 御者は息を飲み、 突然気をつけをして声を張った。
「失礼しました! 自分、 新参者でして、 まだ全員の顔を把握しておりませんでした!」
「え? な、 なんの話……?」
アヤタカは目をぱちくりさせ、 答えを求めてフレイヤを見る。 フレイヤは首を傾げて、 御者が見たらしきアヤタカの何かに目をやった。
その途端、 氷の彫像のように整った顔が、 睨む以外の表情に変わった。 蛇が巣穴から飛び出すが如く、 エメラルド色の布に隠れていた、 彼の左手がアヤタカの右手を捕らえる。 アヤタカは掴まれた右手首を、 そのまま顔の高さまで引き上げられた。
今度は何をするつもりだとつい身構えるアヤタカ、 アヤタカの動揺を意に介する様子もなく、 彼の手の甲を真剣な眼差しで見つめるフレイヤ。 アヤタカの手は捻り上げる形で掴まれているため、 そのうち痛い痛いと か細い声が漏れ出してきた。 アヤタカの手を凝視していたフレイヤが、 ふと目を上げる。 紫の光が揺らぐ瞳で、 じっとアヤタカを見上げた。
「お前……どこで、 これを。」
「……え?」
彼の声はあまりにもか細く、 アヤタカの耳に全ては届かなかった。
彼の目は、 アヤタカの手に印された銀色に輝く紋様に向けられている。
すると、 そのやり取りを首を傾げて見ていた御者が、 微笑を浮かべ控えめに声をかけた。
「今、 我々は丁度帰ろうとしていた所なのですよ。 宜しければ宮殿まで送って差し上げましょうか? もしフレイヤ様とお話があるのであれば、 馬車の中や宮殿の方が宜しいのではないでしょうか。」
笑顔とともに目を輝かせるアヤタカ、 今までに無いほど顔を強張らせるフレイヤ。
フレイヤは、 アヤタカを掴んでいる手を力任せに前へと押しつける。 いきなり急立てられてバランスを崩したアヤタカが、 おっとと後ろによろけた。 フレイヤはそのまま、 ずいと距離を詰めた。 今、 場所的に御者から二体の表情は見えない。
フレイヤは怒気を含んだような声で囁く。
「何でそれを、 とか聞きたいことはたくさんあるが、 今は聞かない……。 とにかく、 今すぐこの国から出ていけ! 」
「な、 何で……。 それにおれ、 何が何だか分かんないんだけど!」
「いいから! とにかくここから消え失せろ!」
「あの、 ちなみに……どなたのバディーでいらっしゃいますか? 一応、 報告義務がありますので……。」
急に御者が会話に入ってきて、 二体のやり取りがせき止められた。
アヤタカは何も言わず、 フレイヤの方をひたと見た。
――バディー? 一体何の話をしているんだ? ……でも、 さっきのフレイヤの深刻な顔……。
――わかんない、もういいや、任せよ。
アヤタカはそう判断し、 全てをフレイヤに任せることにした。 フレイヤはその質問に一瞬戸惑うような顔をしてから、 アヤタカの方をちらりと見た。 アヤタカの任せたといわんばかりの目くばせに、 御者の方へいったん視線を戻す。 一瞬の沈黙の後、 ため息交じりに呟いた。
「……私だ。」
御者の喉から、 えっという声が漏れる。
「え、 そのような報告は、」
「つい先日まで行っていた学校でできたバディーだ! 伝達が行き通ってないのか? 疑うなら私たちの絆親に聞いてみろ、 印を結んだ張本人だからな。」
状況が掴めないアヤタカを置き去りにして、 フレイヤは即興をまくしたてた。 呆気にとられた御者は、 はぁ、 という空返事をし、 思い出したように言葉を付け加えた。
「あっ! それでは、 尚更一緒に宮殿へお送りしなくては! 」
「……それはいい。 こいつは信用を置かれているから、 自由に外を歩く権利を貰っているんだ。 こいつはこいつで、 好きな時に帰る。 な?」
話を振られたアヤタカは、 聞き流していたやり取りに、 反射的に うん、 と元気よく頷いた。 フレイヤの爪が、 手首の動脈に食い込んできたのだ。 意思の疎通を図れたことが確認できたフレイヤは、 アヤタカの手を乱暴に振り払って御者の方へ向き直る。
御者は怪訝な顔をしているものの、 ひとまずここは引き下がった。
「……分かりました。 では、 報告義務がありますので、 エンブレムの確認だけ……。」
「私のバディーだと言っている! バディーが分かっているのだから、 必要ないだろう。」
「す、 すみません。 ですが……。」
やり取りはしばらく続き、 遠巻きに見ているアヤタカは、 頭の中を整理していた。
――つまりここオミクレイ国はフレイヤの故郷で、 学校を辞めたフレイヤは帰ってきた。 何だか、 誰かから管理されているような状態だ。 それで二体はこの銀の模様を見た瞬間から様子が変わって……。 何だか、 様子を見るに身分証みたいな模様なのかな。 てことは、 勝手に付けちゃ駄目な物じゃ……。 だって、 さっきからフレイヤが何とかしておれのエンブレムの確認? を、取らせないようにしてる。 これは似顔絵屋が付けてくれたものだって言った方が……。 あれ? そういえば、 あのおじさんは何で逃げた? もし、 この役人みたいな相手から逃げるためだったら……あれ、 これ結構、 おれ面倒なことに巻き込まれてる……?
そこまで考えた所で、 唐突に大きな音が体を揺るがした。
どこからか鐘の音が鳴っている。 その音はまるでひれ伏せと言わんばかりに重々しく、 厳粛だった。 それこそ、 王の声がそのまま鐘へと変わり、 民に命令を告げているかのように。
「大変です! 門限の鐘が鳴りました! 御二方、 早く馬車に乗って! 帰りますよ!」
「えっ……。」
御者は二体を追い立てる。 アヤタカは御者の迫力に気圧され、 促されるまま馬車に乗ってしまった。 先に乗っていたフレイヤが、 驚いたような、 迷惑そうな表情でアヤタカを見る。
フレイヤと隣り合って座る形となり、 そのまま馬車の扉が ばん! と勢いよく閉められた。
外の音と明かりがやんわり遮られ、 お互いの存在と沈黙が際立つ。 アヤタカは隣を見るのが少し怖かったが、 取り敢えず機嫌を損ねないよう、 まずは端に寄った。 そしてフレイヤにおずおずと話しかける。
「……何でこうなったの?」
「黙れ」
「はい……。 や、 じゃなくて。 何でおれは連れて来られて痛い痛い痛い」
馬車が走り出し、 がたんごとんと椅子が揺れる。 しかし馬車も椅子も一級品の造りであるため、 大きく揺れても体にそれほど振動が来ない。
アヤタカの眉間を思い切りつねりながら、 フレイヤは厳しい顔のまま俯いた。
――どうする、 まとめ役に真実を言うか、 それとも嘘を貫き通すか。 大体、 何でこいつがエンブレムを付けているんだ。 いや、この際それはどうでもいい。 こいつが本当に誰かのバディーになったのであれば何も問題は無い。 問題はこのエンブレムの真偽だ。 エンブレムの偽造は重罪……。 とにかく、 ここは下手なことをするよりも、 私のバディーとして振る舞ってもらった方が良い。 私のバディーならば、 数日もすれば解放されるのだから。
フレイヤの冷たく厳しい横顔は、 アヤタカと最初に会った時を思い出させた。 馬車に取り付けられた小窓から、 ふいに海にきらめく夕暮れの光が差し込む。
長い睫毛に、 光の粒が降りつもった。 金の光に包まれたフレイヤはあまりにも美しく、 金の光に透けたヴェールといい、 女神様のように神々しかった。
アヤタカは自分が置かれた状況も忘れ、 すごい、 とその美しさに純粋に感動していた。
ストロ先生の依頼
風雨で削られ、 剥き出しになった岩肌が辺りに立ち並ぶ。
芯のある黒髪をなびかせながら、 ストロ先生は佇む。
ここはオミクレイ国の郊外、 国境の近くである岩ばかりの不毛の地。 辺りに連なる岩々は塔のようにそびえたち、 門のようにアーチを描く。 大地に刻まれた風の形は、 ゆるやかに軌道を物語る。
粉塵が吹き荒び、 ストロ先生のズボンや頬に擦れてぶつかっては力尽きた。 砂は地べたへと落とされては、 この地のどこかに自分の証を残しに、 また風に乗り立ち去った。
乾いた風の音に紛れ、 獣の唸り声がし始める。 地層が浮かぶ歪な岩の影からは、 三体の獣が姿を現していた。
太くたくましい肢体に、 逆立った色褪せている毛。 ハイエナに似ているそれらの獣は、 じりじりとストロ先生にじり寄る。
――こいつらが、 依頼にあった討伐対象の獣か。
ストロ先生は依然として穏やかで、 殺意を向けてくる獣を前に全身の力を抜いた。 構えもとらず、 目は遠い日でも見ているかのよう。 次第に獣たちとの距離は縮んでいく。 獣はもう、 すぐ側まで近づいてきている。 獣の大きさは、 大型犬程の大きさ。 しかしストロ先生ら土小人は、 標準的な大きさである精霊体の腰程度しか身長が無い。 そのため、 その獣らはストロ先生の2倍から3倍は大きかった。
毛の禿げた鼻先がストロ先生の目の前に突き出され、 生ぬるい腐ったような息が顔にかかる。
バキッ。
雷光のように繰り出されたストロ先生の蹴りが、 獣のあごを打つ。 その衝撃で獣の下あごは上あごへと食い込み、 食いしばった歯と歯茎の間から血を噴き出した。 そのままストロ先生は、 わずかに浮き上がった獣の体に自分の体を潜り込ませ、右足に くっと力を入れる。 獣のわずかな落下するタイミングに合わせ、 右拳を獣の腹へと叩き込んだ。 獣は今度こそ吹き飛ばされ、 弧を描いたのち背中を地面に叩きつけられた。
血とよだれを口から垂らしながら、 獣は仰向けになって失神した。
闘志を悟られないよう殺気を隠すのは、 ストロ先生の得意技だ。
一瞬の出来事であったため、 側にいた二体の獣は対応できなかった。 仲間が殴り飛ばされ、 地面にバウンドする。 動かなくなってから、 ようやく状況に二体の頭が追いついた。
獣たちは喉に痛みの泡ができるほどの咆哮を上げ、 土小人へ飛ぶように駆けていく。
二体が意識を失う最後に見たのは、 冷淡な土小人の目だった。
荒地の空は果てしなく青い。 それは眼窩に入る地上の景色が、 土一色でしか無いからだろうか。
自分はどのような大地から生まれたのだろう、 もし分かるのであれば、 このように静かでありながら力強い大地からであってほしい。 ストロ先生は足元に広がる厳しく広大な大地を見ては、 そんな思いを巡らせた。 遠くを見ているストロ先生の後ろ姿を、 檻に入れられた獣たちがこうべを垂れて見送る。 気絶させされた三体の獣は、 滑車つきの檻に入れられてどこかへ連れてかれていった。
ひと仕事終えたストロ先生に、 港まで迎えに来た依頼人の片方、 枯れ枝のように弱々しい精霊体が話しかけた。
「ストロ殿。 恩に着ます。 この国の者たちではどうにもできなくて……。」
「いえ……。 礼には及びません。 しかし私はあのような特性を持つ獣は初めて見ましたが、 ここではよく現れるのですか?」
「私らもあんなのは初めてです。 まさか、 魔法の効かない個体が現れるなんて……。」
ストロ先生が討伐したのはポエナという野生の獣。 この国の付近ではよく出没する、 獰猛な獣であった。 普段であればポエナは、 この国の獣討伐隊によって追い払われる。 しかしこの三体のポエナには、 魔法が一切効かなかった。 魔法で追い払っていた精霊体にとって、 魔法の効かない個体など初めてであり手も足も出なかった。 老人は悔しそうに言う。
「あんな獣畜生、 普段ならば赤子の手をひねるも同然……。 私を舐めくさりよって。 民家に足を踏み入れるわ、 討伐隊のうちの何体かを負傷させるわでやりたい放題……。 ええい、 忌々しい……。」
ストロ先生がただ黙って聞いていると、 港まで迎えに来てくれたもう片方、 筋肉で膨れ上がった精霊体が口を挟んだ。
「今はその話はいいんじゃないですかぁ。 それよりストロさん、 もうひとつの依頼の方いいですか? うちの道場の連中に、 ポエナ討伐の手ほどきをお願いしますよ。」
老人は自分を小馬鹿にしたような話し方に腹を立て、 筋肉でできた精霊体にか細い腕を伸ばす。
「ふん、 お前如きの魔法も使えず地位も無い者が、 彼女と会えるのは私のおかげだぞ。 部をわきまえろ。」
「あーっと。 おれの外腹斜筋に触らないでくださいよ。 あんたらは下民を見下しますけど、 大体その下民にあいつらを倒すよう頼みに来たのは誰です?」
「下民なんて言ってないだろう! 勝手に都合の良いように言葉をすり替えるんじゃない。 確かにお前らに討伐を頼んだ。 が、 彼女に来てもらっているのは何故だ? え? お前らができなかったからだろう?」
「先に失敗したのはあんただよ……! そんな偉そうな肩書きつけて、 いざとなったら見下している下民に頼むんすね~。 それに、 なにが都合良く言い換えるな、 だ。 あんた下民って言ってるも同然じゃないすか!」
目の前で言い争いを続ける二体を、 ストロ先生は静かに見ている。 彼女の凪のような目は、 感情の起伏が読み取れない。 周りで見ていた討伐隊の部下たちはお互いに目配せをし、 上司とその相手へ腫れ物に触るような態度を取るだけで何もしない。 誰もけんかを止めないまま、 ゆっくりと時間は過ぎていった。
太陽が天辺を少し過ぎる頃、 言い争いはようやく収まった。最後までストロ先生はまるで微動だにせず、 二体はその目にひたすら見つめられていた。 その様子が二体には逆に恐ろしかったらしく、 だんだん集中が逸れ、 最終的にはしどろもどろな憎まれ口しか言えなくなって収束していった。
やがてストロ先生は指南を頼まれた道場へ足を運び、 その場に残った老人とその部下たちが現場調査を始めだした。
細身の女性が老人に近付く。 彼女は、 檻に入れたポエナたちに様々な魔法をかけてはメモを取っていた、 調査員らしき者の一体であった。
「失礼いたします。 簡易的な結果ではありますが、 あの三体のポエナは恐らく宝石の精霊体。 それもモリオンでは無いかと思われます。」
「モリオンとな? 初めて聞く宝石だな。」
「別名、黒水晶と言います。」
「黒水晶……。 どちらにしても、 聞いたことの無い精霊体だ。 それが魔法の効かなかった原因と言いたいのか?」
「まだ断言はできませんが……そういうことかと。 どちらにしても非常に珍しい個体です。」
「……ならば、 この件はこれで終いだ。 異例な出来事にいちいち付き合ってられん。 結果を上に報告。 その他は解散。 以上!」
宮殿に咲く花
外に面した廊下、 列柱廊の前で馬車が止まる。
御者の手によって馬車の扉が開かれ 、そこから二体の少年が降りてきた。 二体は一様にくたびれた顔をしている。ヴィンテージワインのような濃い髪の色をした少年フレイヤ、 そして亜麻色の髪の少年アヤタカ。 二体は外に出るなり、 肩の荷が下りたように長いため息をついた。 馬車の中は話す雰囲気では無いのにも関わらず、 狭い空間であるで嫌でもお互いの存在を意識せざるを得なかった。かなり気まずい思いをした、 そんな二体をよそに、 御者は慌ただしく荷物を降ろす。 急いで帰ってきたことの報告をしなければ、 門限を破ったとみなされる 。その報告や責任はフレイヤではなく御者に課されるため、 御者は ではこれで、 と手早く挨拶をして急いで報告に走った。
残された二体。 アヤタカは夕焼けに染まる宮殿を見つめ、 そのあまりの美しさに感嘆のため息をついた。
夕焼け空はこの国に咲いていた花、 薄紅色の花びらのような柔らかな色で満たされている。 花びらと金の蜂蜜が溶けあったような光が、 白で織り成されたこの国全ての建物をひたす。
今は花びらと花の蜜の色をした 、大理石でできた宮殿。 二体は、 流麗な宮殿の裏庭に立っていた。
大理石はきれいに磨き上げられていて 、清潔を通りこして、 清らかですらある。
建物にはこまやかな装飾を施した柱がいくつも立ち並んでいる。 その柱も全て白い大理石でできていて、 柱にはめこまれた真珠や水晶が時たま光の粒を瞬かせていた。
宮殿には噴水や、 女性、 男性の像がそなえつけられていて、 そのどれもが恐ろしく精巧な芸術品だった。
庭に咲く花は、 全て神秘的な青を身にまとったローズ。 しっとりとした花びらやそれを繋ぐしなやかな枝、 つやめく葉は信じがたいほど美しく整理されている。 どこを見ても、 絵画を切りとったかのように美しかった。
宮殿の青いバラはあまりに静かで、 氷に閉じ込められて永遠にその美を誇るかのように佇んでいた。
アヤタカは、 ストロ先生にどうやって連絡とろう、 まずはそれをしないと心配させたり苛々させたり、 とにかく不快な思いをさせてしまう、 と焦りながらも、 夢の世界のような光景に見入っていた。
ヴェールをといたフレイヤ、 宝石を紡いだような衣を頭から外し、 きれいな指でさっと髪を整えた。
「説明は後でする。 来い。」
淡白な命令、 それにアヤタカは大人しく従って、 フレイヤの後ろを忠犬のようにとことこ歩いていった。
ろうそくに灯された炎の色は暖かい。 だと言うのに、 石で造られた建物のせいかどことなく冷たい印象がある。 ブーツのかかとが当たるたび、 冷たい石の音が廊下に響く。 やがて二体が辿り着いたのは食堂のような部屋であった。
そして入るや否や、 二体の前には肉の壁が立ちふさがった。
待ち構えていたかのように仁王立ちをする、 骨太な体格の良い女性。 パーマがかかった褐色の髪は、 下の方でまとめられていて、 大きな二つのわたあめを取り付けているかのようだ。 わたあめを揺らしながら、 その女性はのっしのっしと近づいてきた。
「おかえり! フレイヤ! そっちの男の子は誰だい?」
「……。 」
フレイヤは一連の流れを包み隠さず説明した。
「おやま、 そうなの! 学校でできた友達がねえ、 ふうん。 まあ理由は聞かないさ。 それで、 口裏を合わせといて欲しいんだろう? 分かった。 私がアヤタカくんにエンブレムを付けたことにしといてあげる。 それよりもほら、 食事の前には風呂だろう。 ほら行った行った。 」
からっとした口調にさらっとした決断で、 アヤタカにかけられた疑惑は無事にもみ消された。
沐浴室までの道のりには、 列柱廊という外に面した廊下を通る。 屋根はあるのに壁が無い廊下で、 壁の代わりに柱が連立していた。 柱にぶら下げられているランタンが、 夏の夜風にゆらゆら揺れる。 揺れる灯りが影を躍らせ、 バラの檻をうつしだす。
「……聞いていい?」
「……。 」
フレイヤは黙ったまま歩く速度を落とした。 アヤタカはそれを「よし」だと解釈して話を続けた。
「エンブレムって? バディーって何? フレイヤは偉い身分なの? そもそも何で学校やめたの? おれはどうしてここに居るの? ストロ先生に連絡とりたいんだけど、 とれる?」
矢継ぎ早に飛んでいく質問、 フレイヤがじとりとアヤタカの方を見た。
「……何が聞きたいんだ。 」
「つまりあれだよ、 おれは何で連れてこられたの?」
「……お前は、 どうしてエンブレムを付けているんだ。」
「あ……これ? これは……。 」
アヤタカは一部始終を歩きながら説明した。
「道ばたに居た似顔絵屋に付けられた……? そんな、 あり得ない。 そもそも、 付けた理由だって分からない。 ……愉快犯か? でも何故、 エンブレムの魔法のかけ方を知っているんだ……。 」
フレイヤは、 独りでぶつぶつと呟いている。
またもや置いてけぼりをくらったまま話が進み、 アヤタカは「まて」ができずについ口を挟んだ。
「んーっと、 つまりエンブレムは身分証みたいなもので、 勝手につけちゃだめなやつってこと? あとはバディーって確か、 相棒って意味だよね。 」
フレイヤは意外そうな顔でアヤタカを見た。 そして視線を宙に泳がせてから、 多少考えた様子で言葉を続けた。
「あ、 あぁ……。 そこまで分かっているのならば丁度いいな。 そう、 身分証……。 この宮殿に入る、 通行手形のようなものだ。」
アヤタカは少し誇らしげに、 やっぱりという顔で頷いたそして次に周りを見て誰もいないことを確認し、 声を潜めて切り出した。
「それで、 この国って顔で……。 」
「その話になるなら質問はやめだ」
分かりやすいほどにフレイヤの声色が変わる。
「あ、 ご、 ごめん……。 じゃ、 じゃあ最後に、 あのおばさんおれの分もご飯用意してくれるって言ってたけど、 ごちそうになっちゃっていいの……?」
「……じゃ、 ないか。 」
「あと、 ストロ先生に連絡が取りたいんだけど……。」
「明日にしろ。」
「え?」
「門限を過ぎれば、 そしてそのエンブレムがある限りここからは出られない。 強制的にここに住まわされる。 明日、 外出許可をもらって謝りに行け。 学校に帰れない、 ここに住まなくてはならなくなりました、 とな。」
「えっ!? ちょ 、ちょっと! おれ、 そんなつもり無いんだけど!? どういうこと!? だって、 フレイヤがおれをここに連れてき……。」
「私だって何とかしようとした! 上手くこの場をごまかして逃がそうとした! しかし……。 エンブレムの偽造は重罪だ。 管理だって厳しい。 お前が牢屋に入りたかったのなら別だが、 これ以外に事が小さく済む方法が無かったんだ。 」
フレイヤは俯いて歯噛みをした。
「それに……。 私のバディーであるならば、 すぐに解放される。 恐らく一週間もせずにな。 だからそれも言っておけ。 」
「えっ、 ほんと!? よかった、 それなら大丈夫だ!それだけならストロ先生と帰れるだろうから、 ストロ先生の責任問題とかにならないで済む!」
フレイヤは冷ややかな目で、 フンと小さく息を吐いた。
「重罪とか巻き込まれただけとか言えば、 多分ストロ先生も怒らないよね? あ~~よかった。 フレイヤありがとう。 かばってくれたおかげで助かったよ。 」
アヤタカの笑顔に対して、 フレイヤは氷のような眼差しでそれを射抜く。 小さく、 憎々しげに呟いた。
「……よかったな。」
そのまま身を翻し、 沐浴室への道のりに体の向きを戻した。 アヤタカはフレイヤの細い背中を追いかける。 後ろにつくような形で歩き、 決してアヤタカはフレイヤの顔が見える位置へ行こうとはしなかった。
「わあー……。」
沐浴室は、 アヤタカにとって完全な異世界だった。 まず、 誰かと一緒にお風呂に入るということが驚きで、 更にそれをフレイヤが受け入れているということに信じられなかった。 しかし聞いていると、 沐浴にはお湯着という衣服を身につけるらしい。 それを聞いて安心したとともに納得した。 お湯着はフレイヤが昼間に身につけていたような布を体に巻きつけるような形の服で、 服というよりはヴェールのようだとアヤタカは思った。 お湯着は触った限りでは普通の布と変わらず、 服を着てお湯に浸かるのは気持ち悪そうと思う反面、 服を着て水に入るのかあとわくわくした。
沐浴室に入ると更に驚いた。 とてつもなく広い。 そしてかなり手の込んだ装飾があちらこちらに施されていた。 風呂場のはずなのに、 石膏像や観葉植物に果物もある。 歩いている最中には、 台の上に寝ころんだ者が油や蜜、 クリームを塗られて体をもみほぐされている場面も見た。
湯船そのものもかなり広く、 様々な色や香りの湯船がいくつもあった。赤い花びらが浮かんだ乳白色の湯、 どろりとした緑色の湯、 何やら果物のような甘い香りのする飴色の湯……。
アヤタカはそのなかで最も何の変哲も無い湯を選び、 なかなか浸かることのできない湯船に身を沈めた。 湯気の立ち上るなか、 たくさんの精霊体が行き交っているのが見える。 果物や飲み物を楽しみながら椅子に座り談笑している姿は、 風呂というよりも喫茶店や談話室のようだった。そし遅まきながら、 アヤタカは周りの者たちの容姿に関することに気が付いた。 ほぼ全てが、 と言っていいくらい、 美形しかそこにはいない。場違いを感じたアヤタカは、 せっかくの湯船なのに肩身が狭くてくつろげない、 そう思って口元までお湯に浸かった。
――ここは相変わらず騒がしい。 沐浴は好きだが、 本当はこんなに混んでいる時間に来たくなかった。
花びらの浮かぶ湯船に身を沈め、 フレイヤは手についた赤い花びらをうっとうしげに雫と一緒にふり払った。 湯の白は牛乳、 牛乳風呂はフレイヤのお気に入りだった。
いつもであったら誰もいない深夜や早朝に沐浴をしていたものの、 今日は予想外の出来事もありそうもいかなかった。
――しかし、 沐浴室とはこんなにも騒がしかっただろうか。 混み合う時間に入るのは久しぶりだからなんとも言えないが、 ここまで騒がしくはなかったような……。
フレイヤはやけに騒がしい方へちらりと目をやって、 何事もなかったかのようにまた前に向き直った。
「えー! このお湯シュワシュワする! 面白ーい!」
「だろ? あっちも入ってみろよ?」
「それより露天風呂の方行こう! ほら果物持ってってさー。」
「何言ってんだこいつアヤタカだぞ!? あっちのお茶の湯に決まってるだろ?」
うるさかったのは自分の連れだった。 知らない場所に戸惑っているアヤタカを無視して、 さっさと置いていったのは失敗だったと思った。 予想以上にアヤタカはここに馴染んでいて、 それどころかいろいろな相手に構われている。
「やー、 お湯着ってすごいんだな! 水に濡れても張り付いたり重くなったりしない!」
「水を弾く魔法が織り込まれた布なんだよ。 アヤタカのいたとこじゃ、 海とか水浴びの時に着たりしないのか?」
「や、 こんなの初めて知った! こっちじゃ海とかなら、 分厚い布を何重にも腰に巻いてこう、 がっちりしたギブスみたいにしてる!」
アヤタカは相変わらず楽しそうで、 おどけてみせたり、 誰かの言った言葉に大げさに笑ってみせたりしている。
フレイヤの顔がわずかに歪み、 きつくまぶたが閉じられる。
――こっちに来るな、お前はみっともない。
花びらのついた手で、 両耳を覆う。 髪や頬に濡れた花びらがはりつく。
――恥ずかしげもなく尻尾を振る犬のくせして、 一丁前に自尊心だけはある。 犬ならば犬らしく振る舞っていろ。 忌々しい、 腹ただしい。
「反吐が出る……。」
堪えきれず口の中で漏れたフレイヤの本音と悪意。 侮蔑のこもった、 自分の耳にすら届かない汚い言葉。
ふっと、沐浴室の楽しげな空気が揺らいだ。
不思議な空気が流れる。
しかし揺らぎは瞬間的なものだった。 偶然の沈黙に皆笑いだし、 またさわさわとお喋りが始まる。
その場がいきなり示し合わせたように静かになること。 それをここでは『精霊に操られた』などと表現することもある。 何か問題でも起きたのか、 そう思っていたフレイヤは何でもなかったことが分かると安心したように前に向き直った。
その向き直る瞬間、 見慣れないものが目に入った。
いつも圧倒されるほど活力に満ちている緑の目。視界に入った、 闇の中に突き落とされたように暗い目。
――サイオウ……?
フレイヤがさっと視線を戻すと、アヤタカはもういつもの顔に戻っていた。 アヤタカの側にいる者たちも気にした様子は無く、 勘違いだったのだろうかとすぐに興味は薄れていった。
しかしほんの一瞬だったものの、 あの時の頼りない視界の中のアヤタカは、 確かに辛く、 悲しそうな顔をしていた。
列柱廊に吊るされたランタンの放つ、 申し訳程度の灯りの中。 夜風となった涼やかな風を身に浴びながら、 フレイヤとアヤタカはしんとした廊下を歩いていた。
夏を感じさせる緑の匂いがする。 しかしこの宮殿の中はバラが溢れんばかりに咲いているため、 それ以上に深い、 甘い香りが薫っていた。
あまりにも幻想的なこの空間は、 他の世界全てから切り離された違う空間のような感覚にさせられる。 それほどこのバラの宮殿は異質で、 不思議な場所だった。
アヤタカはひとまず簡易的な服を借りて身につけていた。 着てきた黒いシャツにだぼっとしたズボン、 縛り紐にしていた魔法の布はお手伝いさんらしき者たちに回収されていった。 さすがに爪弾きの爪まで持っていかれるのは心細いと思い、アヤタカは爪をこっそり隠して身につけた。
「涼しくて気持ちいいなあ。 」
アヤタカは静かな声で、 独り言のように呟いた。
フレイヤは返事もせず、 もくもくと歩き続ける。 いつものことといえばそうなものの、 今のフレイヤには尖ったような空気が漂っていた。
――腹の虫が治まらない、とはこのことだろうか。
フレイヤは胸の中がうわんわんと小虫が飛び交っているように騒がしく、 煩わしかった。 うるさい小虫を抱えているのに我慢ならなくなってきて、 つい声と共に居所の悪い虫たちを吐き出した。
「お前を見ていると苛々する。 」
思った以上に響いたその言葉の音は、 闇の中に吸い込まれず辺りに漂い続ける。その場全てから音が消えて、 無音の空気に変わる。 がらりと変わった空気。 その空気に飲まれたフレイヤは、 収まりのつかなくなった悪意が引きずり出されるように止まらなくなる。
「いつも機嫌をうかがって媚を売る。 さっきだってそうだ。 面白くもないことをわざと大げさに笑って、 ご機嫌取りをしようとしているようにしか思えない。 うるさいうえに、 みっともない! お前みたいな種類のやつは居るだけで不快になる!」
言えなかった苛立ち、 それを伝える罪悪感と高揚感 。
――感情を吐き出すのは格好悪い、 恥ずかしい、 みっともない。 こんなひどいこと言いたくない、 思いたくない。 もうこれ以上自分のこんな姿をさらしたくない、 なのに、 止まらない。
――もういい! 全部壊れてしまえ、 取り返しがつかないほどぐちゃぐちゃになれ、 こいつがどう思おうとどれだけ傷つこうと、 もうどうでもいい!
せめぎあう二つの心。 それでもすぐに自制も良心も煮えたぎる感情に塗り替えられてしまう。 止まらない、 自分が理性の無い獣のように感じだす。
「そうやってプライドのない真似をして、 権力のある奴に取り入ってあいつらはのし上がろうと必死だ。 分かりやすく機嫌をとって必死に笑っているあの姿、 あんなみっともない姿、 同じになんかなりたくない! だから来るな! 私を巻き込むな! お前なんかとそばにいるだけで、 それだけで私は屈辱的なんだ!!」
何故ここまで言ってしまったのか分からない。 何故か途中から、 異様に感情が高ぶって勝手に口が回って、 普段思っていないことまで、 口からついてでた。
――違う、 そんなこと思っていない。 こいつにだってあんなこと、 関係ない! それに今の……そこまでひどいことは考えてない。 あれはそのまま、 自分が一番言われるのが怖かった心の中の言葉だ!
なのに苛立ちは尚も募っていく。 この苛立ちがアヤタカに対する純粋な嫌悪なのか、 決まりの悪さをごまかすためなのか、 分からないと思いながらも分かっていた。
息が荒く、 浅くなっている。 呼吸の狭間で、 フレイヤは声を出し続けた。
「お前は私の身分やらについてとやかく聞いたな、 教えてやる。 言っておくが、 これは比喩なんかでも何でもないからな。
エンブレムは烙印、 バディーは人質、 私の身分は……奴隷だ。 」
霧の国
「……奴隷……ってそんな、まさか。奴隷って言うのはもっと……。」
「ああ、お前の想像する奴隷とは違うだろうな。奴隷にもさまざまな種類があるんだ。ただ共通しているのが金で売り買いされること、そして私たちには権利が無いことだ。私たちを憂さ晴らしに拷問しても殺しても良い。命を、権利を、奴隷が何を奪われても許される。本当に『所有物』でしかない生きもの、それはここでも同じだ。
この宮殿では、 それが容姿だっただけだ。」
「どういう……?」
「いずれ私は、貴族にこの容姿と記憶を奪われる。」
オミクレイ国、またの名を霧の国。
真実は、霧の奥へと隠される。
オミクレイ国の貴族や支配層は皆一様に見目麗しい。そしてそれは、他の土地から見ても周知の事実だった。
それに対して、何故わざわざ支配層に美しい者をおいているのか、長い間多くの者の間で謎になっていた。美しい者に政治の教育を施すよりは、元から才のある者を支配層に置いた方が効率的ではないか。国は認めこそしないが、多くの場所でオミクレイ国は美しさで身分を決めている、と今も囁かれている。オミクレイ国にとどまらず、外国の学校にまでもその話は行き届いており、そこに通っていたフレイヤも驚いた。
偶然で押し切ろうとするオミクレイ国に反して、その説を裏付けるようにはびこる、オミクレイ国のおかしな噂。それは、素晴らしい美貌を持って生まれた者は、貴族たちの家来によってどこか人知れぬ場所へ連れ去られていくというものだった。
そして尚疑いをかきたてたのが、貴族や支配層は否定をするどころかその噂をひどく避ける。それにも関わらず、美しい者を連れ去った家来は、そこにその者が居たという証拠すら残さないようにと命じて去っていく。次の日から、その地で連れ去られた者の話が出ることは二度と無い。美しい者を連れ去ったこと、その者が存在したことをほのめかすような真似をすれば反逆罪としてお前たちを牢に繋ぐ。そう言い残されているからだった。
しかしそのような箝口令も、どこからかほころびが生まれている。美しい子を連れて行くことを隠そうとしているらしい話はすぐに明るみに出て、そのため他国も国民も、オミクレイ国の身分は美によって決める話は周知の事実となっていた。
事実、その奴隷となった美しい子たちは美しい宮殿に閉じ込められ、人目をはばかられながら大切に育てられている。
奴隷たちが教わるのは所作や発声、肌や髪の手入れに柔軟など、どれも美に関わることばかりだった。まつりごとなどは教わらず、それどころか学校で教わるような基礎的なことすら十分に教わることはなかった。ただひたすら美しく、きれいに磨きあげることだけ。
やがてその宮殿という狭い世界の中では、美貌が自分の価値の全てとなっていった。
その宮殿へ奴隷という商品を見に、特別な主人たちが現れる。商品を値踏みし、見定め、これだという奴隷を自分の所有物として予約する。
特別な主人がつけば、それは美しさが認められたという証となり、さらにその主人による支援から更に良い待遇を受ける。
狭い世界での競争は悲惨なものだった。
貶める者、徒党を組む者。そして人権の無い奴隷には、美しさという自分の価値を示すものを持たなければ、どうなろうと構わない存在として切り捨てられた。美しさ以外に、価値を与えられなかった。
美しくなければ生きていけない。
美しさ以外に、自分に価値は無い。
美しくなければ捨てられる、美しくなければ無価値とされる。恐怖観念に襲われ、屈辱と命を天秤にかけ、果てに死を選ぶ者は数えきれなかった。
買い取り先が見当たらず老けだした者、商品として期待できそうに無い者が捨てられる姿。それをみっともないと嘲笑うほど、天秤の上の屈辱は重い鉛へと変わっていく。自分の悪意を糧にしているかのように、醜く肥え太りながら。
路上へと放り出された奴隷は人並みの知識すら無く、社会の仕組みもろくに知らないため、社会の底辺で生き延びるか、そのまま何もできずにのたれ死ぬしかなかったらしい。
尚、宮殿に住む奴隷の進める道は3つあった。見切られて捨てられる、特別な主人に見初められる、例外として、金持ちにより使用人にする目的で買い取られる。
しかし使用人として買われる者はほとんどいなかった。
それはこの宮殿に飾られる、奴隷の本来の役目ではないから。
奴隷の本来の役目は、貴族の外見を美しいものと取り替えるための材料であること。
オミクレイ国は秘伝の魔法を持っている。
それは他者と容姿を取り替える魔法。
貴族は貴族として育てられて帝王学を学ぶ。美しい奴隷は、己の身を磨くことだけに人生の全てを費やす。
そして最後には、自分を買った特別な主人――貴族に、その容姿を奪われる。
その奴隷の姿はそれまでの貴族の容姿となり、さらに口外しないよう、宮殿に関する記憶の全てを消し去られる。
奴隷たちは貴族に見初められれば、美しい自分たちが表舞台に立ち、貴族ら、その部下たちが用意する知識や戦略をあたかも自分が考えたかのように発表するものだと思い込んでいた。宮殿の外のこと、奴隷がその後どうなったのかは知らない上に、実際に貴族として見かけるのは美しい者ばかりだったため尚さらそう信じ込み、周りの奴隷たちは当たり前のように貴族なったらどうするかなどと話していた。
奴隷たちに知識は与えられなかった。そうして次第に疑わない、考えない者たちが作り上げられていく。魔法を教えないのは、おそらく反乱を防ぐためだった。そうして、何も考えないきれいな人形が作られる。
支配層らはこの秘密どうやって守ってきたのかも、フレイヤは調べに調べて、その答えにようやく辿り着いた。
オミクレイ国の秘伝の魔法はふたつ。姿を奪う魔法。そして、記憶に関する魔法。まずは秘密が漏れぬよう、材料となる奴隷には宮殿での記憶を全て消す。そしてバディーにも奴隷と同様の魔法をかける。
バディーという形式ができたのは、意外にもつい最近のことだった。作った理由としては、いきなりまったく違う場所に住まわされて、そこで独りっきりは可哀想、代わりに誰か一体だけ好きな人を連れてきていい。それが奴隷として受けたバディーの説明だった。しかし実際は逃亡することの多かった奴隷。その大切な相手を手中に収めることで、逃亡を企てる奴隷を減らそうという魂胆がその仕組みには透けて見えていた。事実、バディーを取り入れてから逃亡する奴隷は大幅に減った。逃げられては困る奴隷だけに、バディーを付けることが許される。
フレイヤはあの手この手を使って、ここまで真相に辿り着いた。貴族たちの外への警戒心は強かったが、いずれ記憶を消してしまう奴隷たちへの警戒心は弱い。
そのためこれまでのほとんどの情報が、宮殿にある図書館にまとめて置かれていた。情報が外に漏れないようにするには、確かに宮殿に隠してしまった方が何かと都合が良い。
しかしその部屋も、一応は立ち入り禁止とされていて鍵も掛けられている。ただ鍵の管理が甘く、隙を見たフレイヤは鍵に粘土を押し当て、その鍵の型を取ってしまった。その型を元に街で合鍵を作らせ、それ以来立ち入り禁止の書庫へ自由に出入りしていた。
そこで隠されていた様々な書物を読み漁り、さらにはふとしたはずみで出る貴族の仄めかしを心の中に留めておいた。
それでも足りない情報はやはり多かった。彼が本当に知りたかった、容姿の魔法や記憶に関する魔法の仕組み。それは意図的と言って良いほどに宮殿から姿をくらましていた。
――使えない! この仕組みのどこかに穴が無いかと探したのに……結局は、肝心なところで尻尾を明かさない!
「……美しさで身分を決めている、 という話は国側が出した囮の噂だ。 ばれても良い方をわざとほころばせて、 真実に光が当たらないように……な。
まったく美しさのどこにそんな価値がある。 たかだか小さなことのために……私は、 全てを奪われるんだ。 私は、 こんな姿欲しくなかった。 今回、 国に呼び戻された理由もそれだ……! 私は! とうとう私が誰であったかすら分からなくなるんだ! もう、 私には時間が無い。 私を予約していた貴族がもうじき来るはずだ。 とうとうそいつは貴族として、 本格的に仕事を行なうときが来た。 そして私の姿も……。 十分に美しくなった、 そう判断されたんだ。 ……ここの奴らは愚か者ばかりだ。 自分がどうなるのか知らない、 知ろうともしない! それどころか、 貴族に取り入ろうと、 少しでも周りを出し抜こうと必死に尻尾を振っている! その姿に、 私はなんてみっともないのだろうと思ってしまった。 私もあんな風に見苦しい姿を晒さなくてはならないのか、 思ったよ、 絶対に嫌だって。 だから私は必死にあいつらを遠ざけた。 来るな、 お前はみっともない。 お前みたいなやつ、 近くにいるだけで恥ずかしいんだ! そう思ってた、 ずっと。 どうしても、 同じになりたくなかった。 この国についても調べた。 この真実を知った時は……愕然としたさ。 そして、 どうしてこいつらは不振に思わないのだろう、 貴族として政治を治めるのだとしたらそれ相応の教育を受けるはずだろう、 それを疑問にすら思わない?何て愚か者たちなんだと思った。 軽べつした。 そもそも、 その疑問が私にとって全ての始まりだったからな。 この宮殿から出たらこいつらは、 いや、 私は。 美貌という価値が世間ではどんなに小さいものだったのか思い知らされる。 そうして、 それ以外に何も持たない、 本当の意味で価値の無い者になりさがるんだ。 そう思ってから、 私はとにかく知識だけは身につけようと必死だったよ。 記憶を失っても言語が、 知識が消えるわけでは無い。 いずれ追い出されるこの宮殿から出ても、 しっかり生きられるように、 あいつらと同じにならないように。
言ったな、 私はお前の態度が不快だったと。 お前を見ていると、 どうしてもあいつらのことが頭をよぎったんだ。
……全く違うのにな。 あんな露骨な媚売り、 お前はしていないのにな……。
でも、 お前があいつらのように心を殺して必死に理想にしがみつくような姿は嫌悪感と同時に、 不気味だ、 怖いもと思った。 」
ひとしきり喋ったフレイヤは、 その言葉を境に言葉を切った。 廊下に静寂が戻る。
それまでが止まらない言葉によって無理やり時間が動かされていたような世界だったため、 いざ静まるとその時間の重たさが身にのしかかってくる。
二体は見つめ合っている。 フレイヤは何故か今目の前にいる男が、 生きている者に見えなかった。 生き物の形を模した模様。 そう見えた。
「理想……に?」
模様の口元がゆらぐ。
フレイヤはすぐさま言い返す。 しかしまるで他人事のようにただ勝手に動く唇を、 いやに冷静な自分が無感動に見つめていた。
「お前は怒ったり笑ったり、 感情がくるくる変わっていつも楽しそうだ。 なのにその中に、 お前の顔が全く見えない。 大概わがままだとか素直だとか、 それぞれの顔がどんな感情にも表れてくる。でもその中に、 お前の像が掴めない。 お前の顔はぶれているんだ。 笑ったり泣いたりするのを真似ているだけで、 心の底から感情を出しているようには思えない。
でも、 私はお前が感情の無い嘘つきだとは思えない。 八方美人だとは思っているがな。
……とにかくお前がそうする理由も分からないし、 何よりそれが不気味だとも思った。」
「はは、 なにそれ……。 そこまで言わなくても……。 それに、 単に普通のことじゃん? みんなそうだよ。 周りと上手くやりたいから、 多少は自分を押し殺したりもしなきゃってだけで。 そうやってその空気に馴染もうとしてるだ……」
「ほら、 やはりその顔だ。 そんなことは私にだって分かる。 違うんだ。 お前はまるで……そう。 何か本当は違う生き物なのに同じ生き物の振りをして、 同じであることに喜んでいる異物のようだ。」
「ちょっと、大丈夫? それに意味が全く分からないんだけど……。」
「分かっているだろう!」
いつもならばとっくに投げ出しているようなことに、 フレイヤは我ながら嫌に食い下がるなと思った。
そしてアヤタカへと感じていたものを上手く表せず、 言葉として整理できないもどかしさ。
自分でもこれは理不尽な怒りだと思うものの、 それが伝わらないアヤタカにも苛々してしまった。 伝えたい事柄を、 本人に正確に伝わっている自信が全くない。
――意味が分からないことは私が一番分かっている! 私だって自分が何を言っているのか分からない。 上手い言葉が見つからない。 意思というものは、言葉を介してしまえばこんなにも空っぽなものに変わってしまうのか。 気持ちのまがい物でしか意思を届けることができない、 それの何ともどかしいことか。
自分が何故今、 これほどまでに高ぶっているのかが分からない。 話を進めるごとに、 何故か血が暴れ出だし、 口が止まらなくなる。
――何だこの感情は。 不安か? 焦り? 自分の思っていることを弁明したくて堪らない。 何でこんな感情になるんだ? 全く脈絡の無い感情なのに。
そんなフレイヤを見て、 アヤタカは諦めたように、 寂しそうに笑顔を向けた。
そうして、 穏やかな声で語りかける。
「……フレイヤは、 分からないことが怖いの?」
「は? ……どういうことだ?」
「いや、 ごめん。 言い方変えるね。 フレイヤはさ、 おれが何を考えてるのかよく分からないって言って、 それを怖いって言ってたから。」
「……あぁ、 そのことか……。 誰だって得体の知れないものには警戒をするだろう。 そういう意味では、 分からないものは怖いと言えるだろうな。」
「……そっか……。」
アヤタカは少しだけ俯いた。 その顔は不気味なほどいつもと変わらない。
「おれは、 分かることのほうが、 怖い。」
そのささやき声は廊下に響き、 やけに意味ありげな余韻を残して耳に届く。
「……何を。」
「うん、 まあ……。 気持ちとか……かな?」
歯切れの悪い返事だな、 フレイヤはそう思った。
――さっきから、 あやふやなことばかりを言われて苛々する。 お前のことなんて私にとってはどうだっていいんだから、 いい加減はっきり言ったらどうだ。
そう言いたかったけれども、 結局は言わなかった。 言いにくかったのかもしれない。
この時だけは、 初めてアヤタカが心の底から辛そうに見えた。
フレイヤは腕を組み、 ふん、 と鋭く息をついた。
――今度はもう何も話したく無い。
フレイヤは目まぐるしく変わる自分の感情に戸惑いながら、 それをどうにかしようという気力ももう湧かなかった。
――ああ居心地の悪い。
また、 フレイヤは右手で無意識に髪をかき分ける。
「……晩餐。」
「え?」
フレイヤの全く脈絡のない言葉。 ぽかんとするアヤタカ。
「そろそろ晩餐の時間になる。 急ぐ。 ……はやく!」
言い終わるや否やずかずかとフレイヤは歩いて行く。 その気迫に押されたアヤタカも、 思わず後に続いていく。
背中でフレイヤは、 いつものようにアヤタカが後ろからとことこ付いてくる足音と気配を感じていた。
――こんな姿を見せたくなかった、こんなもやもやする終わり方になるなら、 はっきり白黒つけてしまいたかった。 なのに、 なんで。 何でこれ以上この話の先へと進むのが怖いんだ。
勝手に前へと進む足は、 心が踏み込もうとしていた場所から逃げるように、 身体を遠く遠くへと運んでいった。
月が昇り、 全てを吸い込むかのような静謐な光を放つ。
そしてそのもとでは、 優美な音楽と精霊体たちの話し声が、 夜空の静けさを遠ざけるかのように、 穏やかな光と共に溢れていた。
晩餐の場は、 まるでテラスのようにひらけた場所だった。 床も屋根もそこにはあるのに、 壁だけが無い。 歩いてきた列柱廊と同じように、 柱だけが部屋を囲うように佇んでいる。 床も屋根も柱も、 全てが透き通りそうに白い石だ。 そしてその石の上には複雑な刺繍が施された絨毯が何枚も敷かれている。 絨毯には真珠、 金糸、 貝がらなどが織り込まれていて、 オミクレイ国特有の宝石を使った布地が、 雪の結晶のように控えめな輝きをたたえていた。 さらにその絨毯の上には、 絨毯と似た柄をしたたくさんの柔らかそうなクッション。 食器からワイングラスの脚が伸びたような器、 まだ雫のついているブドウや桃が乗せられているデザートスツール。
シャンデリアの下では鴨の肉を薄くスライスして香辛料をかけた料理、 魚の肉を煮詰めた煮込み料理ラグーなどが次々と小皿に盛り付けられていた。
奏者の近くや窓辺の近く。 それぞれが好きな場所に、 好きな料理を持って晩餐の舌づつみをうっている。 アヤタカとフレイヤは月明かりの届くところ、 建物の端の方を拠点として、 とってきた料理を絨毯の上に並べていた。 お互いに腰を落ち着けると、 物音が減って優雅な演奏が耳に入ってくる。
「……食べないのか」
先に話したのはフレイヤだった。 アヤタカは一瞬きょとんとしてから、 あぁ、食べる食べると口早に告げて薄切りの肉を口に放り込んだ。 ぱくりと口を閉じるやいなや、 アヤタカは ぱっと顔を上げた。
緑の目をきらきらさせて、 大きく目を開く。
「んま!」
「……そうか。」
アヤタカはフレイヤと目を合わせたまま、 2、3秒動きを止めた。 そしてまた、 何事もなかったかのように肉を噛みだした。 先ほどから、 口を開くたびに、 フレイヤはアヤタカにじっと見られた。 いつもと違い、 アヤタカの表情の読めない顔に、 少しだけフレイヤは身構える。
――面倒臭い。 どうして欲しいんだ、 こいつは。 話しかけられるのが嫌ならそう言え。 話したくないなら、 もう少し分かりやすい反応をしろ。 私の方だって、 絶縁なら絶縁でいいんだからな。 早く復縁か絶縁か決めろ。 それなら、 こっちだってそれなりの対応がとれる。
フレイヤはアヤタカから目をそらし、 どこでもない遠くを見る。
指を合わせ、 自分の髪を さっと整えてみたりする。
――おい、 言いたいことがあるなら言え。 お前のその、 どっちつかずの対応が嫌なんだよ。
フレイヤは、 アヤタカの足元のあたりを ぎろりと睨む。 そこで、 ふっと思い至った。
――……どうして、 私はそれを言わない?それを言えば簡単に、 この話に決着がつくだろう。
………………。
「おい。」
フレイヤはアヤタカが顔を上げたことを、 気配で察した。 自分のゆるく組んだ指と足が、 今はフレイヤの視界の全てだった。
数秒の沈黙。 そして、
「貴族の方々がいらっしゃる! お前たち、 並べ!」
部屋の向こう側から、 唐突に声がかかった。 フレイヤは ぱっと反応し、 アヤタカに手で こい、 と軽く合図してから奴隷たちの列に加わる。 奴隷たちの不気味なほどきれいな整列は、 貴族が通るらしき道すじを作っている。 アヤタカも反射的にその列に加わり、 周りの奴隷から戸惑うような目を向けられる。
貴族たちの参列はいやに仰々しく、 しかしただ部屋を通り過ぎただけ、 というあっさりしたものだった。
一体なんだったんだ、 アヤタカはそう思いながら、 緊張で硬くなっていた体をほぐそうと、 周りの相手に当たらない程度に小さく伸びをした。 周りの精霊体たちも、 貴族が去って緊張が解けたようにさわさわと喋り出す。
しかし、 アヤタカはこのお喋りもがあまり明るい雰囲気ではないなと思った。
ひとまず自分が先ほどまで座っていた場所に戻り、 腰を下ろす。 間をおかず、 すぐにフレイヤも戻ってきた。 フレイヤと目が合い、 アヤタカは笑みを浮かべてひらひらと手を振る。
相変わらずフレイヤは応えるような素振りすら見せず、 それどころかアヤタカ自体見えてなさそうなほど反応もせず腰を下ろす。
ただ珍しいことに、 またもや彼の方から口を開いた。
「……今の貴族の見た目、 どう思った?」
「え?」
アヤタカはきょとんとして聞き返した。
そして首をひねって貴族たちの姿を思い出してみる。
正直に言って貴族たちは珍妙な格好、 もとい珍妙な髪型をしていた。
大体がかなりカールのかかった髪型をしており、 巻き髪というよりは、 アフロのようにも見えた。 ここは男性用の宮殿であるため、 貴族も男性しかいなかったが男性も髪が長く、 頭の上に髪を結い上げて盛っていた。 どれほど時間がかかるのか、 緻密に作り込まれた髪型はひとつの芸術作品のようだった。 髪の毛で白鳥を模している者、 編み込みが頭の上に盛られていて台座のようになり、 さらにそこにたくさんの果物を乗せている者、 と一度見たら忘れられないような髪型をしていた。
「顔、 覚えてないだろ。」
「え?」
思わぬ質問に反応が遅れる。 アヤタカは、 眉間にしわを寄せてやや考え込んだ。 そして首をかしげた。
「髪の毛……に気を取られたからかも。 あれ、 でも、 全然思い出せない……?」
「私は先刻、 お前に話をしたよな。 『どうやって貴族たちはこの秘密を守り続けてこれたのか』……。 あれもそのうちのひとつだ。 貴族は見た目を入れ替えるまで決して自分の顔を覚えさせない。 そういう魔法をかけているんだ。」
フレイヤの話によるとこうだった。 貴族は子供の頃から政治に関わるような対人関係を結んだり、 どうしても人前に出る。 そのため顔が変われば、 市民にその見た目が紛い物だということが簡単に分かる。 そうならないように彼らは「霧の魔法」という魔法をかけている。 これは容姿の魔法、 記憶の魔法に並ぶオミクレイ国の秘伝の魔法で、 この国が霧の国と呼ばれる所以ともなる、 古くから伝わる魔法であった。 霧の魔法とは自分にかける魔法、 簡単に言うと自分の顔を相手が思い出せないようにする魔法だった。 記憶に霧をかけるかのように、 相手の自分の容姿に関する記憶を隠す。 それがこの仕組みを支えていた大きな柱であった。
アヤタカは目を丸くして、 感心するような長い溜息をついた。 そして、 あっ! と声をあげて、 フレイヤへやや興奮気味にささやいた。
「だからあんな変な髪型してたのか! 二度と忘れないもんあんな髪! 覚えさせないようにするっていったって、 相手に自分のことを覚えてもらわなきゃ意味ないもんな! 顔が使えないから、 髪の毛で覚えてもらおうとしてんだ! へえ、 上手いことするなぁ!」
「おい、 うるさい」
「あ、 はい、 すみません。」
アヤタカは、 シュッと声を抑えた。
フレイヤはさっと髪を整える。
「……しかし、 その通りだ。 あいつらは、 いつも同じ髪型でいなくてはならない。 だからあの複雑な頭は、 全てかつらだ。」
忌々しげに呟くフレイヤ。 そこでアヤタカはひとつ、 ひっかかっていた思い出があったことを思い出した。
「……もしかしてフレイヤ、 だから先生のかつらに火を点けたの?」
「……わざとでは無い、 と何度も言っただろ」
悪びれもなくフレイヤは答える。
二体が初めて出会ったその日。 フレイヤはアヤタカに女と間違えられ、 感情が高ぶりつい魔法を放ってしまった。 彼の怒りの炎は部屋中のろうそくに灯り、 さらには先生のかつらにまで火を放ってしまった。
「あれはついあのかつらの教師を見て、 貴族たちを思い浮かべてしまって……。 あいつらを思い出すから、 あんなものはぎとってしまえ、 そう思っていただけで……。
……別に、 あそこまでするつもりはなかった。」
話しているうちに罪悪感でも感じ出したのか、 珍しくフレイヤは決まり悪そうにした。 それを見てアヤタカは少し笑ってしまいそうになった。 しかしフレイヤに横目で睨まれて、 何もなかったかのようにきりっと顔を整える。
「……教師といえば、 あの教師もだな。 呪文学のアラノン。」
「アラ……。」
フレイヤの呟きに、 誰だったかな。 と、 アヤタカは必死に思い返す。
――思い出した、 呪文学といえばあの幻覚先生だ。
アヤタカは体を低くして、 上目遣いになりながら言いにくそうに呟いた。
「……フレイヤ。 あの先生は、 かつらじゃあないと思うけど……。」
「そっちじゃない。 顔だ。 恐らくあの教師も霧の魔法をかけている。」
「えっ!」
アヤタカは声を上げた後、 どこともつかない宙を見る。 そしてぱっとフレイヤの方を見た。
「しかも顔だけじゃない。 声にもかかっている。 お前、 あの教師の声を、 喋り方を少しでも思い出せるか?」
アヤタカは息を飲んで、 それこそ目を点にするかのように大きく見開いた。
二体で顔を見合わせて、 こくりと小さく頷く。 感心したようにアヤタカが口を開いた。
「いやー……。 知らないことってけっこういっぱいあるもんだなあ。 それも、 まさか身近な相手にまで……。 おれ、 初めて聞いたんだけどさ。 もしかして霧の魔法ってけっこう有名なの?」
「いや、 そんなことはない。 本来霧の魔法はこの国秘伝の魔法であるはずだ。 私もこの国の外で見て驚いた。 この国の民ですらこの魔法のことを知らない者がほとんどのはずなのに、 まさか国の外で、 それもただの一教師がその魔法をかけているとはな……。」
アヤタカは話を聞きながら、 ほぼ無意識に鴨肉の皿へと手を伸ばした。 ひんやりとした鴨肉をつまみ、 ちまちまと端っこをついばむように食べる。
「へー……でも、 なーんでそんな魔法かけてるのかねえ、 恥ずかしがりやさんなのかな? なーんつっ……。」
「霧の魔法はかつて、 潜入調査や裏切り者の仕事に多用されていた魔法だ。 オミクレイ国が平和になった今は、 使い道をなくし、 このようなくだ らないことに使うためだけの魔法のようになっているがな。」
冗談を被せ気味に遮られたことも忘れ、 食べかけの肉を指でつまんだままアヤタカが声を荒げる。
「う、 ら、 ぎっ……!? そ、それ、やばくない!? こ、 校長先生とかに言った方がいいんじゃないの!?」
「あの校長ならば、 そんなことも分かっているだろう。 むしろ、 私はあの校長の方が信頼できない。 あの教師に協力させて、 何か後ろ暗いことをさせている可能性だってあるしな。」
アヤタカの緑の目が、 すっと暗いものに変わる。
「信頼……アポロン先輩も言ってたな、 そんなこと……。 ねえ、 この学校の先生たちってそんなに信用できないかな? たしかに変だったり、 大人気ないというか……まあ社会の常識がないところもあるけどさ。 基本的には一応、 良い先生たちだと思うよ?」
フレイヤが、 ムッと顔を上げる。
「お前だって、 あの教師たちの素性を知らないだろう。 お前こそ、 私に教え諭すような真似をするな。 そもそもお前、 あの体育教師に身勝手な好き嫌いで弟子入りとやらを拒否されたんだろう? それでも良い先生などと言えるのか。 さすが犬なだけあるな、 そこまで忠犬になりたいのか。 そもそも、 何故そこまでして教えを請う。」
「また犬……。 うーん、 どうしてそうまでして、 かあ……。」
アヤタカが遠くを見る。 すこしだけ瞬きをやめ、 かすかに動かした唇から、 いつもよりもやや低い声を零す。
「もちろんストロ先生の姿が格好良かったから、 ってのもあるよ。 でもそれだけじゃない。 ストロ先生からは、 何というか……武術に対する誇りと、 強い劣等感が見えるんだ。 それが、 あの先生がおれを子どもにしない理由なんだって何となく分かっちゃって。 あの先生は、 おれを子どもにすることに……何か強い引け目を感じている。 それも自分のためにじゃない。 おれのために、 武術を教えちゃいけないと思ってる。 ……だから、 ここで引き下がっちゃいけないと思って。 あの先生に必要なのは、 武術は魔法ができないからやる処世術や代替じゃないんだ、 本当に尊敬して憧れるからやる子どももいるんだっていう、 自信なんだと思う。」
遠くを見るアヤタカの目が、 すぅっと細まる。 フレイヤは首を傾け、 アヤタカの顔を覗き込むような姿勢でいた。 きょとんとしたきれいな顔が、 やがて訝しげな表情に変わる。
「……お前は、 どうやってそれを知ったんだ? 誰かから聞いたのか?」
アヤタカはフレイヤの方を見て、 ぱっと明るい顔に戻してかぶりを振った。
「……んやいや! おれの予想でしか無いよ! ほら、 最初は分からなかったけども、 付き合っていくうちに見えてくるものってあるじゃん? ストロ先生は感情が読みにくいタイプだし。 でもあの先生、 割と念が強い方というか。 本心がだだ漏れな時って時々あるし。 だから……ね。」
「……そうか? 私はあの教師ほど何を考えているのか想像できないと思っていたが……。 それに何だか、 嫌に確信めいていた様に聞こえたな。」
「そんなことないってー。」
アヤタカはフレイヤの怪訝そうな顔に柔和な笑みで返した。 フレイヤはしばらく じとりとアヤタカを見てから、 ふん、 と鋭く息をついた。
フレイヤの胸の中で、 ぐるりと不満に似た感情が渦巻く。
――またその顔……。
頬杖をついて黙りこくってしまったフレイヤに、 アヤタカは おーい? と眉を下げて ぱたぱた動く。
その機嫌をうかがうような姿に、 フレイヤはじとりという目で返した。
演奏は優美なものから、 いつの間に他明るく楽しげな音楽に変わっている。
フレイヤはぶどうをひとつつまんで、 いつもはよけてしまう種ごとごくりと飲みくだした。
夜の静かな街、 今夜はやけに獣が騒ぐ。
手に持っていた油だらけのパレットを床に置き、 いつものように絵を描いていた似顔絵屋が首を窓へと向けた。 そのままそこから小さく身を乗り出し、 油絵の匂いを振り切るついでに外を覗いた。
そこでふっと、 道を獣のようなものが駆け抜けていったのが見えた。
――猫? それも、 あんなにたくさん。
そして自分の視界をまたもや横切る、 ばさばさと音を立てた何か。
――今のは、 鳥?
ーーさっきから一体なんなんだ。 まるで動物たちが何かから逃げ惑っているような……。
闇に押しつぶされた暗い道。 そこをゆっくり、 何かが歩いている。 月明かりだけを頼りに似顔絵屋が目を凝らす。 目が慣れてきて、 闇夜に薄ぼんやりとした輪郭が現れだした。
子どものような背丈。 烏の濡れ羽色の髪。 目元の赤い宝石に、 猛獣のような眼光ーー……。
その種族を、 似顔絵屋は初めて見た。 あれは恐らく土小人。
その土小人の名はストロ。 夜になっても帰ってこない生徒を探しに、 夜の街を隅から隅まで闊歩している学校の先生である。
その殺気立った姿に獣は逃げ、 騒ぎ、 鳴いている。
似顔絵屋は物音を立てないように窓から離れ、 そのまま隠れるようにして身を屈めた。
見つからないことを祈り、 念のためパレットナイフを右手に握る。
オミクレイ国の獣は、 夜が明けるまで騒ぎ続けていた。
白い街で
月光の美しい夜。花のような甘い香りが街を覆っていた。
月光を浴びてシルエットとなった高い建物には、一体の男と思しき精霊体が必死に腕を伸ばしている。
細い体を宙に浮かせ、そのまま落ちて行かんとする美しい女に。
女の美しい金の髪が空に揺らぎ、月に照らされて儚く美しい光を宙に散りばめる。
女も男へと手を伸ばしている。
男の指が女に触れたと思った。
しかしもはや、触れたそれは花びらだった。女の姿は花びらへと変わり、風にさらわれて甘い香りとともに夜空へと身を投げた。屋根から身を乗り 出し過ぎた男はそのままバランスを崩し、足を踏み外して屋根からずり落ちる。
男の視界は下へ下へと落ちて行き、最後には地面へ――……
アメジストのように深い紫の瞳。持ち上げられたまぶたの長いまつ毛のすき間から、濡れた瞳がすっと覗く。
清潔なシーツはいい匂いがして、なめらかで気持ちが良い。頬をすり寄せるように枕に乗せていた顔の位置をずらし、その弾みで視界に入ったものがあった。
ふさふさした、亜麻色の髪の毛――
そこでフレイヤは少しだけ目が覚めた。
体を半分だけ起こすと、遠くの方で床に座って、本を読んでいるアヤタカが見えた。
それに気づいたアヤタカがフレイヤの方に振り向き、さっぱりした笑顔を向ける。
まだ少し眠たげなフレイヤは、首をかしげて呟いた。
「……あれ? お前……。そんな髪の色だったか……? ーー」
朝だというのに、空気にはもう暑さを感じる。
フレイヤの寝室には白い太陽の日差しが差し込み、部屋のうす紫の布が、光の差し込んでいる所だけ白く変わっていた。
獣の毛で作られた櫛で髪を撫で付けるフレイヤに、教科書を持ったアヤタカが後ろから話しかける。
「だからー、寝ぼけてたんだって。えーと何だっけ。ユメ? 夢でも見てたんじゃないの?」
フレイヤは黙ったまま、ややムスッとした表情で身なりを整えていた。
昨晩、晩餐を終えた二体はフレイヤの部屋へと向かうことにした。
彼の部屋は広く、家具などについている装飾もそれは豪華で美しかった。白い家具に金の装飾、そしてその上に透けたような淡い紫の布が掛けられている。
それこそ光の間で見た布のようで、実はフレイヤも光の間の同じ場所に行っているのでは無いかとアヤタカは勘ぐったりもしていた。
天蓋付きのベッドはものすごく大きかった。側転の練習すら軽々とできてしまうほどのベッドの広さ。そしてとても柔らかそうな枕や布団に、アヤタカは寝そべってみたいなあとも思って見ていた。
普段であったら、すぐに「どーん!」と叫んでベッドに飛び込んでいたものの、相手のことを考えてやめておいた。
部屋には花の香りでもまいているのか、とても良い香りがしている。その芳香にアヤタカは うへえと思いながら、匂いの出所を探したりもして楽しんでいた。そうこうしているうちに、シックな色合いの木でできた本棚が目に入った。
アヤタカは「あっ!」と叫んで本棚に向かって小走りをしようとする、思いとどまる。許可を取るようにフレイヤの方を振り向いて、人差し指をくるくるさせながら聞いてみる。
「あの、フレイヤ。教科書ない?」
アヤタカは、未だに宿題のことを気になって仕方がなかった。
フレイヤは学校から運んできたらしい荷の中から爪弾き学の教科書を無理やり取り出し、アヤタカの方へ無造作に突き付けた。
ありがとう! と言ってから、アヤタカはおずおずとごめん、紙とインクもない? と付け加えた。
乱暴な手付きで探すフレイヤに縮こまりながら、アヤタカは暗くなった窓の外を見つめ、やけに騒ぐ獣の鳴き声に首を傾げた。
真っ白な羽ペンを手にしたフレイヤが、振り向きざまに口を開く。
「お前、もしかして今からやるつもりか?」
アヤタカは何故そんな当たり前のことを聞くんだ、と思いながらフレイヤを見つめ返した。
フレイヤもまた、そんなアヤタカの様子に首を傾げながら言葉を付け足した。
「だから、そろそろ寝る時間だろと言っているんだ。」
アヤタカは尚更きょとんとした。眠りにつくのは人間だけだけの行動であり、精霊体には無縁のこと。睡眠というもの自体、アヤタカはここ最近知ったものなのだ。
何を言っているんだ、とアヤタカが聞こうとしたその時。
海の果ての方からとてもか細い、ハープを爪弾いたかのような一音が響いてきた。
たった一音だけが長く長く響き渡り、消えかかるとまた海の彼方から新たな一音が放たれた。
さざ波の音が途絶えた代わりに、その音が海辺の街に鳴り響く。まるで、海の真ん中で誰かが海を弾き鳴らし、その余波が波となり海岸に押し寄せているかのようだった。
それを聞いているうちに、アヤタカは何とも奇妙な感覚に襲われた。
意識が遠のいてく。
恐ろしい、はずなのにどこか心地よい。目がだんだんと閉じていき、体を動かすのが億劫になる。
アヤタカは唐突に鈍り出した自分の感覚に焦った。
――何だいきなり。あの音、何かの魔法か? 体がだるくなって、意識が持たない。やばい、フレイヤは……。あれ、これもう、だめだ。……目が……。
とうとう、視界が定まらなくなった。
――あれ、もしかしておれ、……死ぬ……?
目を閉じると、不思議なことに体の辛さが吹き飛ぶ。そして流れに逆らわずに意識が遠のく感覚に身を委ねると、信じられないほど心地よい幸福感が押し寄せてきた。
その波に抗えないまま、アヤタカの意識は深い闇の中へ落ちていった。
どれほどの時間が過ぎたのか。
空がやや白みだし、それにつれて柔らかく、薄くなっていく闇は夜明け前を告げていた。
獣が、ひときわ大きな遠吠えをあげた。
その声で、アヤタカは意識を取り戻した。
外は暗いけど、明るくなってる。そして、獣が鳴いている。あれ、なんかいつだったか、獣が鳴いてるなあとか気にしてたような……。
そこまで考えて、はっきりしていなかった意識がようやく戻った。
唐突に起きた不可思議な現象。そして飛んだらしい時間。アヤタカは窓から見える空とこの部屋に何度も目をやり、最終的には吸い寄せられるように、薄くなった白い月を見上げながら固まっていた。
――あれ!? あ、あれ夜明けの空、時間が飛んだ!? いや違う、おれ気絶してたんじゃない!? あんな体験初めてだけど、だって意識が遠のいて……何なんだ、怖い! 何が起きたの!? そうだ、フレイヤ!
そこでアヤタカは、自分があの気持ち良さそうなベッドにいたことに気が付いた。かなりはじっこの方だったため足は落ちていたが、親切にも誰かがベッドに運んでくれたらしい。
ベッドでアヤタカが居た場所の反対側、ベッドの中央。そこに誰かが横たわっていることに気が付いた。
アヤタカは驚いて、ベッドの上を這うようにして急いで駆け寄る。
そして息を飲んだ。
「フレッ……!」
アヤタカはつい声をあげそうになった。
フレイヤが微動だにしない。目を閉じ、反応さえ見せない、死んでいるのだろうか。この空白の時間に一体何があったんだと心の中で叫ぶ。
しかしよく見ると、横向きに伏しているフレイヤの肩が、ひどくゆっくりなものの上下していることに気が付いた。
アヤタカは緊張で冷たくなった指を、そっとフレイヤの顔の辺りまで近づけた。
すぅ、すぅ。
――息がある。
生きていることが分かって、アヤタカはひとまず安堵した。しかしそれでも目覚めぬフレイヤ、何が起きたか分からない不安。アヤタカは体を硬直させたまま、ただ時間が過ぎて、何かが変わるのを待った。
こっこっこ……。
廊下から、木靴を履いたような足音がする。アヤタカは転がるようにして扉まで走った。その足音を捕まえなくては。
その足音を捕まえて何があったのか問いただすまで、アヤタカの緊張は解けなかった。
場面は戻り、太陽を浴びて髪が金色のように光っているアヤタカが、フレイヤにその時のことを話し続けていた。
「いやー、あれが『眠る』って体験なんだなー。 おれめちゃくちゃ怖かったんだよ? 死ぬと思ったもん! にしても、あの音を聞いたら眠っちゃうって何? これ、この国特有のなんか? にしてもこれって危なくない? その間に殺されたりしたら……。」
立て板に水、と言わんばかりにアヤタカはべらべらと話し続ける。フレイヤはハンドベルを鳴らし、アヤタカのことを鏡ごしに見つめて話す。
「……あれは海鳴りの楽器と呼ばれる現象で、 海の近くにいる者ならば誰でもあれを知っている。 知らなかった……というのなら、 内陸の民か。」
「おっ、 正解! おれ、山の方の谷間にある村で生まれたんだー。水がきれいなんだよ、すごく良いところ。」
夜明け前に会った使用人の話によるとこうだった。 あの音は精霊体を眠りに誘う。しかし極度の興奮状態や眠りに対抗する魔法、その音が鳴り止むまで耐えることで、海鳴りの楽器に反発することができる。しかし耳を塞いでも効果はない。音を聞くというよりは、その音と共に来る波動が眠りを誘ってくる。
そして獣にも効果は無い。何故なら獣は眠るからだった。眠る生き物にあの音は作用しない。
そして海辺の民は、その音と押し寄せる眠気を受け入れていることが多い。何故なら睡眠は、光の間に行くことと同等の生気を養えるからだった。光の間へと続く場所は滅多に無い。そのためそれが無い者たちの生気を養う方法は、太陽の子ならば太陽の光というように、自分のルーツからエネルギーをもらうことであった。しかし例えばオーロラなど、発生が稀なものに対しては気軽に生気を養えない。そして自分のルーツからエネルギーをもらう方法は、長い間生気を養うまで耐えなければならないなど、色々な難点があった。
その点眠りに身を任せてしまえば、自分にとっては一瞬で、更に毎日のように体力を回復できる。そのため眠りは生気を養うことにかけて良い手立てだった。
実際、内陸に住む者よりも、海辺に住み眠りにつく者たちの方が長く生きることができた。
「光の間と同等とか、意識が体から離れるあの感じ。 眠りってやつは、回復しに意識だけ光の間に飛ばすみたいなものなのかな……。なんか、ミザリー先生も似たようなこと言ってたし……。」
そうこうしているうちに、部屋の外からノックが聞こえ、扉が開いた。そこには2、3体の使用人と思しき精霊体がいて、滑車付きの台を押して入ってきた。
さっきフレイヤが鳴らしていたハンドベルは、 彼らを呼ぶためだったらしい。
使用人たちにぺこりとお辞儀をされ、 アヤタカも思わず頭を下げる。
使用人たちは鏡台の前にいるフレイヤを囲み、 滑車台の上に乗せていた、 高そうな油やら粉やらを手にする。
そのまま使用人たちは さっさっとフレイヤの髪を整えたり、 やけに良い香りのする油をフレイヤの肌に塗ったりしていた。
ぽかんと見ているアヤタカに、 フレイヤは しっしっと右手で払うような仕草をした。
アヤタカはふかふかしたクッションを抱えて宿題の続きに取り組むことにした。
ややもすると、 使用人たちが持ってきた道具の片付けを始める音が聞こえた。 身だしなみを整え終わったらしい。 そして丁寧に挨拶をして、 アヤタカの方にもひとこと挨拶をして去っていった。
フレイヤは身だしなみを整えられている途中、 服も選んでいたらしい。 あのエメラルド色のヴェールは、 今日はラベンダーのようなパープルに差し替えられていた。
しかし、 アヤタカにはそれよりも気になるところがあった。
何とも言えない顔をして、 アヤタカは切り出す。
「昨日も思ってたんだけどさ、 化粧……してんの?」
フレイヤの目元が不機嫌そうに歪む。
「文句でもあるのか。」
「……や、 いや……。 でも、 男子が化粧って初めて見たから驚いて……ね?」
化粧といえども、つけまつげやマスカラの類いではなかった。 女性のための化粧とはまた違う化粧の仕方であったが、 アヤタカにはどうも慣れない光景であった。
フレイヤは不機嫌そうな顔のまま、 唸るような声を出した。
「驚いたのはこっちの台詞だ。 外国の学校に入学することになって、 聞くと男は化粧をしないらしいと聞いた。 女も化粧をしているかどうかはまちまちで、 更に場所によっては化粧自体が禁止だとか。 私たちにとって化粧、 というものは当然の身だしなみなんだ。 それをしないということは、 私にとってかなりの抵抗があった。 最近は割と、 慣れてきていたがな……。 それだけじゃない。 学校……あそこには、 汚い奴が多すぎる。」
「……や、 汚いは言い過ぎだよ! フレイヤやここの精霊体たちがきれいすぎるだけだから!」
「そうではない! 身だしなみに気を使わなさ過ぎるという意味だ! ……肌も荒れていて、 髪もぼさぼさの者が多すぎる。 お前もだからな。」
さくりと刺さってきたその言葉。アヤタカは否定できず、不満げにゆるく下唇を噛んだ。
それと同時に、「あー、 だからかあー。」と、 ここだと言わんばかりにわざとらしく声を漏らしてみる。 フレイヤはアヤタカの様子を見て、 目に不審の色を浮かべる。
「おれさ、 初めてフレイヤと会った時言ったよねー。『唇になんか塗ってるだろ、 ピンクだもん』って……。 あれ、 やっぱり何か塗ってると思ったあー。」
フレイヤの顔がぴくりと反応し、 じとりと睨む目に変わった。
「変なことばかり覚えている……。 ああ、 そうだ。 噂では聞いていたが本当に誰も化粧をしないものかと疑わしかったからな。 していたよ。
……でも、 色は付けていなかったからな。」
「……まあ、 そのうち本当に色に関しては自前だったってことはおれにも分かったけどさ……。 やっぱ、 あれは何か塗ってると思ったよ……。」
フレイヤは フンと鋭く息をついてそっぽを向いてしまった。 そんなフレイヤに、 アヤタカは気になっていたことを問いかける。
「……にしても、 どうしたの、 その格好……。 どっか出かけるの?」
「は?」
フレイヤは呆れ気味な声で言った。
「お前がストロ先生に説明しに行くと言ったんだろう。 お前も早く用意しろ。」
白い街並み。船の乗客が飲んでいた、色とりどりのジュースやカクテルのような色をした花や葉っぱの色。
フレイヤの隣にいるアヤタカは、オミクレイ国の服に身を包んでいた。
あの後の身だしなみは大変だった。
まずフレイヤや使用人が持ってくる服装が華美なもの、アヤタカが自分で着るのは恥ずかしいと思うようなものばかりだった。勧められた何着かの服をアヤタカほやんわりと断って、その中で一番簡素な服を選び出した。そして化粧。アヤタカは頑なに化粧を拒み続けた。お互いの妥協点として下地のクリームだけはつけられた。アヤタカはアクセサリーもまた同様に嫌がった。
結局、今オミクレイ国の白い町並みを歩いているアヤタカの身だしなみは、いつもより若干こぎれいになっていた。しかし彼にとって大切らしいラインは守ったようだった。
朱色のダボっとしたズボン。上は白い布を巻いて服にしたもので、腰のあたりは帯で縛っていた。そして左手首には、赤い石のはめ込まれた黄金のブレスレットと、同じく金色のきゃしゃな二本の輪っこ。そのアクセサリーはフレイヤがつけているものと似たような形だった。
爪には油が塗られて、何やらつやつや輝いている。おまけに、小さな赤い石を中指の爪に貼り付けられた。
嫌だなあ、恥ずかしいなあと思いながら服で拭こうとしたが、この服自体借り物だったため、そうもできずに指で爪を強くこすっていた。
「おい、往生際が悪いぞ。」
フレイヤに肘で脇腹のあたりをどすんと突かれ、アヤタカはゆっくり彼の方に振り向いた。
「よく分かったね……。じゃあ、街を出て早々悪いんだけど、ちゃんと口添えしてちょうだいよ……?」
「考えておく。」
「えっ……。」
いよいよ朝の太陽はじりじりと灼けるような熱を含み始め、暑さによる汗なのか冷や汗なのか分からない汗がアヤタカの背筋を撫でた。
「……んま。」
すっかり陽が天辺に登った頃。アヤタカは低い塀のようなものに腰掛け、枝垂れた木の木陰で油で揚げたさかなの串焼きを食べていた。
腰掛けている塀は、古びている白いレンガが詰んであり、まるで支えるようにレンガの上から弱々しい蔦が張られていた。
ストロ先生への連絡は簡単なものだった。
返ってきた返事は 事情は分かった、早めに連絡してくれてありがとう、というアヤタカとしては意外なものだった。あまりのあっけなさにより一気に緊張から解放されたアヤタカはすっかり憔悴してしまい、今は大分手足もあったまっていたものの、まだかなりぼうっとしていた。
その後、似顔絵屋のいた場所にも行ってみたが、 そこにはやはり誰もおらず、敷いてあった布や散らばっていた絵筆も全て回収されていた。
そうしてやることが無くなったアヤタカは抜け殻のようにしなびており、味わいせずもそもそと美味しいはずのさかなを無意識に口へと運び続けていた。
右どなりを見ると、紫色のヴェールを体に巻きつけた相手が、同じようにして目の前にある露店で買ったさかなの串焼きを食べている。
道の脇に作られたたまり場のような場所には、煮えたぎった油の鍋を構えてさかなの串焼きを売る店や、他にもパン、肉の串焼きを取り扱う露店などがいくつか構えられている。
そこで談笑しながらさかなの串焼きを食べている壮年期の男性が三体、後から来たその男たちをうっとうしそうに見ているテークーー精霊体の中でも恋愛という感情を持った低俗な者、という意味――が一組、露店に並び、10本や20本まとめて買っては急いで去る、何故か皆一様にやせ気味の客たち。
周りの者たちをぼんやりと眺めていたアヤタカ。食べ慣れていないのか、口にさかなの油がつくのをしきりに気にして食べているフレイヤに声をかける。
「……どーするかこれから……」
「……これから?」
フレイヤはアヤタカの方を見て聞き返した。フレイヤが口元に当てている手にはまったきゃしゃな腕輪が、そのはずみで葉の隙間をぬって落ちてきた光に当たってきらりと光る。
シルバーのか細い光に一瞬だけ目を細め、アヤタカが言葉を返した。
「いや、だからさ……もう用事は終わったことだし、せっかく街に来たんだからさ、外国だしさあ、何か、どっか行きたい……。」
「……どっか、ってどこだ。」
「何か、楽しいところだよ!」
「楽しい……。」
フレイヤはきょとんとした顔をして、少しの間うーんと考えた。そして顔を上げ、 首をかしげながら呟いた。
「闘技場……?」
「なに? それ……。」
「奴隷が殺しあう見世物だ。奴隷、と言っても私とは違う用途の奴隷だがな。この国では最も人気がある見世物だと聞いたが……。」
アヤタカがぶるっと体を震わせて、ぶんぶんと強く首を振った。
「そんなのやってんの!? あ、いや、そういうのじゃなくて! 楽しいって言うのはさあ……。も、もっと他のところ!」
「他……に、人気なもの、と言ったら……劇場や路上で執り行われる演劇……。」
「……あの、別に人気なところじゃなくても、フレイヤの好きなところでいいよ? 行きたいところに行けばさあ、おれが付いてくから。」
フレイヤの目が伏せられる。長いまつ毛が影を落とす。
「好きなところ……。」
アヤタカは眉を上げて、彼曰く答えをうながす表情をした。しかしフレイヤは一向に目を伏せたまま動かない。
「……?」
困ったようにこちらを見てきたフレイヤ、アヤタカはそれを見て、苦く笑った。フレイヤのその様を見て思わず連想したものを、行きたい場所として半ば適当にあげてみる。
「じゃあ、 犬……や、動物がいそうな所にでも……。」
二体はその後、強い日差しを浴びて何もかも白くなっている街をあてもなくぶらぶらと歩いていた。 道の途中には何やら色とりどりのガラスでできた小瓶がたくさん飾られている店や、公衆浴場、油の入った鍋と串に刺さった鳥肉やらが手元に構えられた露店、布を見せるように広げて飾った布の露店。野菜の露店、陶器の露店……など、露店が集合した市場など、わくわくする場所がたくさんあった。そのうちアヤタカが興味の湧いた店を覗いてみるなどして、適当に暇をつぶしながら歩いていると、選挙よりもやたら闘技場の宣伝ポスターがたくさんぺたぺた貼られた壁を曲がったところに、白くて柔らかそうな鳩がたくさんいる公園が目に入った。
「うわー! 見つけたー! ここ、ここで休もう!」
アヤタカは嬉しそうに公園に向かって駆けていく。 腰のかばんに入れたガラス製の容器がかちゃかちゃと鳴っている。ここの鳩たちは自分たちを見て逃げることもなく、それどころかあまりにもよけないため、足の踏み場がなくうっかりアヤタカが踏みそうになる。それでも鳩は平然とその場に立っており、真っ黒のくりくりした目で、まるでアヤタカに 気をつけて歩けとでも訴えかけているかのようにじっと見つめてくる。
アヤタカは木製のベンチに腰掛けて、ふたを開けたかばんの底を こんこんとベンチに当てた。中でぐちゃっとなった小瓶やおかしな置物やらを軽く整えたかったらしいが、整う気配も無かったのでそのままふたを閉めた。
「ふー! やー結構すぐに見つかったな! おいで鳩ー。おいでー。……フレイヤは、 動物好き?」
「別に。」
「……言うと思ったよ、おっ……。ひゃひゃっ、す、すごい! わあぁ!」
ベンチで座っていたアヤタカの周りに、すごい勢いで鳩が群がってきた。体に当たる鳩のふわふわした白い羽。アヤタカはそれをくすぐったそうに笑い、嬉しそうな歓声をあげる。
隣で座っていたフレイヤは、 それを無表情で見つめた。
「エサを寄越すカモとして見られているだけだろう。それなのに喜んで。本当におめでたいやつだな。むしろ、汚い体が群がってきたことを苦く思え。……って顔で見ないでよ……。」
「……思えとまでは思っていない。思うべきだ、という程度だ。」
「そこだけか……。あっ……この服借りものっ……。」
たくさんの鳩がアヤタカの側に寄ってきて、服を軽くついばむような真似をしたり、手を甘噛みしたりしてくる。
食べものが無い、と分かっているのかいないのか、 アヤタカの膝の上で座ってしまう鳩まで居て、アヤタカは困ったように、嬉しそうに笑っていた。
フレイヤは鳩がアヤタカに群がってきた瞬間から、ベンチから立ち上がって一歩離れたところで立っていた。相変わらず彼はヴェールで肌や顔を隠し、何故か男か女かを自ら分かりにくくするような格好だと思っていた。
何も言わないフレイヤに、アヤタカは体を少しだけずらし、鳩を彼の方に近づけるような真似をして聞いてみた。
「さわってみる?」
「けっこう。」
フレイヤは手を前に出し、顔を反対側に向けてそっぽを向いてしまう。
するとアヤタカは、フレイヤの足元に一羽の鳩が近づいていることに気がついた。
――おっ……。いけ、そこだ!
アヤタカが心の中で思わず念じていると、鳩に気がついたらしいフレイヤが足元をじっと見つめ出した。
鳩はすぐに去っていった。その後ろには、氷のような目を向けて牽制するフレイヤ。
「あーあー。せっかく来てくれそうだったのに。」
「好かれることを良く思わない者だってこの世にはいるんだ。」
「はーい。」
またアヤタカは膝の上の鳩に視線を戻して、おっかなびっくりその暖かい羽毛にふれてみた。
ふわふわ、ふわふわ、と鳩はいつまでも撫でさせてくれて、アヤタカもずっと撫でていた。
「……つまらない?」
ぽつり、と小さな声が尋ねた。
フレイヤはその質問に、顔を向けず目だけを向け、「普通」とだけ言ってそのまま視線を前に戻した。
葉ずれの音に、夏の香りがする。
そのままアヤタカは鳩を体のまわりにくっつけて。
フレイヤは寄ってくる鳩をしっしっと追い払いながら。
ベンチに座って、しばらく話をしていた。
大したことのない、取り留めの無い話しかしていなかったと思うけれども、何だか大切なことだったような気もする。
「私が、自分でも女寄りになるような身の磨き方をしているのも分かっている。それは私の主人の意向であり、私は本当はもっと違う格好をしたかった。」
「……それで、ちゃんと言われた通りにするってのがまた律儀だよね。授業だってかなり真面目に聞いてるっしょ?」
「……お前は。本当にどうでも良いところばかり見ているな。それに関しては昨日言った通りだ。」
「特に好きなことも無いし?」
「そうなるな。」
「……美容も好きなことには入んないんだ?」
「……それは、ただ単に生きるために必要なものだったから真面目に取り組んでいるだけだ。好きだとか嫌いだとかそのようなものとはまた違う。それこそ、必要だから、という理由で懸命に勉強を取り組むことと同じようにな。」
「……ふぅん……。」
「おい、何だその返事は。」
「痛い痛いって……何で眉間つかむの!
ふー……。ありがとう。
いやさ、何だかフレイヤが、おれの格好を選んでた時とか、さっきのお店で美容品を見てた時珍しく……というか、はじめて楽しそうにしてるように見えたから……。」
「……好きじゃない。」
「……そっか……。」
「………………。」「…………………………。」
「……気持ち悪いだろ、美容が好きだとか……。」
「え?」
「………………。」
「き、もち悪くないけど……。」
「私は気持ち悪いんだ。」
「そ、そう……。」
「………………。」「……。」
「私は、あの宮殿にいる者たちが嫌いだ。」
「……うん。」
「媚びへつらうばかり、気取ってばかりの最低な集団だ。私は……飾り気のない、下町の男たちのような者たちに憧れていた。自分たちが欲しいものは自分の力で手に入れる、口先だけではない強い者たちに。そう、欲しいものを誰かに媚びへつらって手に入れてもらっているような者ではなく……。
そこが例え汗にまみれた汚い場所でも、私はそこに、そこで生きる者たちに憧れた。私とは違う、私とは真逆の存在……。おきれいな、香の匂いが焚かれた場所で生きる見た目と口先だけの者。分かっている。私は、そっち側の者なんだ。
だからこんな所で生きるのも嫌だったし、そこに馴染んでしまっている自分を認めるのも嫌だった。 媚びへつらう人種に見られたくなくとも、私はあいつらと一緒に育ってきた。あいつらと同じものが、自分でも意識しないどこかに染み付いているんだ。いくら拭っても拭いきれない何かが……。それがたまらなく嫌で、 怖い。
こんな自分が嫌で、それでも姿かたちを磨くことはどうしても捨てられなくて。もう染み付いてしまっているんだ。この宮殿の価値観が。私は身も心も、大嫌いなあの場所に同化してしまっているんだ。気持ち悪い。だから私が気持ち悪い。私は自分が、最も軽蔑する者たちの同類なんだ……!」
フレイヤの細い腕に力が入る、拳が強く握り締められる。二の腕には、アヤタカと同じような形をした、赤い宝石のはめられた腕輪が鈍く光っている。
「こんなに遅くなっちゃってからで、ごめんな……。」
アヤタカの低く、静かな声が隣から響いた。
言葉の意味を分かりかねたフレイヤがアヤタカを見ると、アヤタカは前を見据えたまま、どこか一点を見ていた。
それが普段と全く別人のように見えて、少しだけ動揺した。
アヤタカがそれ以上何も言わないため、フレイヤはそのまま感情の残りかすを絞るような気持ちで、最後に残った言いたかったことを吐き捨てるように呟いた。
「……だから私は、こんな自分、とっとと忘れてしまいたい。この姿も、捨ててしまえるなら願ったり叶ったりだ。だから、早くそうなればいい。」
その言葉に、アヤタカがぴくりと反応したのを肌で感じた。
アヤタカは若葉のような緑の目で、何か物言いたげに見ている。しかしフレイヤは、それにわざと気がつかない振りをした。
その後に続けていた感情の吐露をフレイヤはあまりよく覚えていない。恐らく、似たようなことを何度も反復していたと思う。
アヤタカはそれをひたすら聞いていた。
何か言いたげなことを、心配そうな目で見ていることをわざと無視して、自分でも嫌になるような醜い言葉を吐き続けていた。
ようやく気が済んだ頃には、もうわずかに日が傾きかけていた。
「……帰ろう。」
フレイヤが呟く。アヤタカは優しげに笑った。
「うん、今日はおれに付き合ってくれてありがとう。」
返事はせずに、そのまま身を翻した。
かすかな葉ずれの音がする。
夏の夕暮れに吹く風は、生ぬるいのにどこか涼しげで、心地よかった。
迎え
「だからここの魔法式は、基本形と合わせた変形型だと言ってるだろ。」
「基本……形……。ちょっとおれ、そういう難しい言葉あやふやにだからさあ。」
教科書を指差していたフレイヤの手が、一瞬アヤタカの視界から消えた。
どすっ。
アヤタカの脇腹めがけて、フレイヤの裏拳が刺さってきた。
「はい……ごめんなさい、もう少し簡単に教えてください……。」
まったくと言わんばかりの態度で足を組み替えるフレイヤ。
アヤタカは再度手にしていた教科書を、フレイヤが見やすい位置になるように開いて見せた。
馬車ががたんっと揺れるたびに、読んでいたところがどこだったか見失ってしまう。
「……でも、やっぱりいつも勉強してるだけあるね。おかげで大分分かったよ。」
「そうか。」
「うん……。あーあ、もっと早く聞けばよかったかも。また今度テストがある時に……」
そこまで言って、アヤタカは言葉を止めた。
目だけでちらりとフレイヤの方を見る。フレイヤは何をするわけでもなく、アヤタカが持って見せている教科書に目を落としていた。
「……早く聞けばよかったも何も、教えるような間柄じゃなかっただろ。」
「そりゃごもっとも……。ん? それはつまり、今はどうだってことかな?」
「は?」
にんまりと笑って煽るアヤタカ。冷え切った反応のフレイヤ。
いつもといえばいつものやり取りに、苦笑いで言葉を吐いた。
「……まあね、そうくると思ってたよ。」
「どうでもいいから、さっさと公式を覚えろ。」
「あいっ」
アヤタカは自分の方に教科書を持っていき、そのまま指をごちゃごちゃ動かしながら暗記を始めた。
その様を何となしに見ていたフレイヤが首を右に向けると、馬車の小窓から、蜜のような夕焼けがながれこんできていた。
何となく手でそれをすくってみる。その器を崩すと指の隙間から、光は音もなくこぼれ落ちていく。
何度も、何度もフレイヤはその仕草をして、やがて手を止めて小さく握った。
「……おい。」
「え?」
フレイヤは、依然として外に顔を向けている。
彼のヴィンテージワインの色をした髪の毛が、夕日の光に透けていた。
「どうせ、もうじき記憶なんて消える。だからお前が、いくらさっきの私をみっともないと思おうが、すぐに消えるんだからな。」
ほんの少しの沈黙。
「恥ずかしいから忘れてってことだね!」
そう言えば燃やされるか、裏拳がとんでくることをアヤタカは知っている。言いたくても言わない。心の中でしか言わない。
アヤタカは、ソファの背にもたれかかった。
そうやって、こっちを見ないフレイヤの方を眺めてふっと笑った。
とうとう自分は、「顔を奪われて、嫌じゃないのか」と聞くタイミングを逃して。
言っても相手が忘れてくれるから、だからだろうか。今自分が言おうとしているのは、どうせ相手は忘れてしまうからなのか。自分でも分からない、分からないままだけど。
「じゃあさ、おれもひとつ秘密を言っていい?」
フレイヤが、アヤタカの方へ振り向いた。
「どうせ忘れるんでしょ? もののついでにさ!」
アヤタカはいつもの笑顔に似た、とても無邪気な笑みを浮かべた。しかしそれを見ていたフレイヤは、それが泣き顔のように感じた。
その雰囲気にほだされたのか、フレイヤは頷いた。
どうせだし仕方ない、ではなく、彼を見ているとこの申し出だけは応えなければいけない気がして。
そして自分は、この柔らかい空間を壊してはいけないと。
聞くことを受け入れたフレイヤに、アヤタカの顔がぱぁっと明るくなる。
そのはずなのに、フレイヤはその笑顔がとても弱々しいものに見えた。
アヤタカは口を開いてから、困ったように視線を落とした。言葉を探し、なんと言えばいいのかを考えあぐねる。フレイヤは椅子に座りなおして、それを気長に待つことにした。
ようやくアヤタカの言葉が決まったのは、路地を三回曲がった後だった。
きっと時間としては、そこまで長い時間では無かっただろうけれども、固まっていた時間は動き出した。アヤタカは指を組み、どこでもない遠くを見てぽつりと喋りだす。
「おれはさ、物心ついた時から、自分の感情に周りを引きずらせちゃうんだ。例えばおれが嬉しくなったら周りが嬉しそうな雰囲気に包まれて、逆に悲しくなったらみんな悲しそうになる。 フレイヤの感じた違和感、おれが感情を抑えてるっていうのは、そういう理由。普段はともかく、本当に大事な場面でそうなったら、困るから……。」
いつもの調子の、いつもの口調。
話す内容と、話しだす前の様子とちぐはぐだった。
何故なら、だって、それは……
「普通の、ことじゃないのか、それ。」
アヤタカの緑の目が、さっとこちらに振り向く。差し込む夕日の光が彼の頬の辺りを照らし、目元は影に遮られ見えなかった。
フレイヤはそのまま言葉を続ける。自分の声が、いつもより柔らかいものになってしまっていることも分かっていた。
「それだけお前の機嫌は周りへの影響力が強いのか。だから周りに、自分に合わせて無理させないために抑えているんだな。」
目元が影に隠れていなければ、読めていたかもしれなかった。
「そうまでして周りに気を使うことないだろう。多かれ少なかれ、それは誰でもそうだ。お前、そんな杞憂を――」
最後に発した音の形をしたまま。フレイヤの唇は、固まった。
――何だ、それは。その顔は、何だ。
アヤタカの目から、全ての光が失せていた。
魂の砕けたような顔が、そこにあった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
フレイヤは針の止まった頭の中で、はっきりとそう感じた。心配することなんてない、それは何も特別なことじゃない、普通のことなんだ。思いっきり感情だって出してしまえばいい。そう言ったつもりなのに。
何故そんなにも絶望をした顔をしているんだ。
それとも、それは――
「おい……」
――どうして、何が違った、何が不満でそんな顔をしているんだ?
「アヤタカ!」
「えっ」
怒鳴ってしまった声に、アヤタカはきょとんとした声で返してきた。その声は、あまりにも場にそぐわない。
目をぱちくりとさせて、アヤタカは言った。
「フレイヤもそのあだ名で呼ぶの!?」
空気が、ぱんっと柏手を打たれたかのように変わった。
「こういうおふざけ、乗らなそうだと思ってたんだけど! や、別に好きに呼んでいいけどさあ!」
アヤタカが太陽のように明るく笑った。明るい声で、いつも通りの彼が話す。
――はぐらかされた。
気づいても、言葉にできなかった。彼のあまりにも自然な笑顔に、空気に、飲まれそうになる中、それを繋ぎとめたのはあの一瞬の顔。どんな顔で隠そうと、あの顔は脳裏に焼き付いている。
そして今向けられている笑顔が、笑顔だからこそ悲しかった。
まるで、扉がばたんと閉まるように。彼の本心から、永久に閉め出された気がした。
戸惑うフレイヤをよそに、彼は相変わらずいつもと変わらない、顔が見えない、像が掴めない笑顔を見せる。繰り広げられる明るい話は、まるで相談した行動自体を、消しゴムにかけるかのようだ、と感じた。薄れさせて、消そうとして。
確かにあの時、アヤタカは扉をほんの少し開けてくれた。信頼して、自分を心の内側に踏み込ませてくれようとしてくれたはずだった。しかし自分はそれに失敗した。もう開かない、もう二度とこの扉は開かれない。
何を間違えたのか分からない。
――そこまでひどいことを言ったつもりは無い。たかだかそれくらいのことで、どうしてあんなにも悲しそうな顔をする。言って欲しかった絶対の言葉でもあるのか。そんなもの、私が分かるわけないだろう。なのに何でそこまで悲しそうな顔をするんだ。
――ああ、こいつ自分が特別だと思いたかったのか。意外と恥ずかしい所もあるんだな、そうなんだろう? そっちの方が可愛げがあるし、それどころか大そう普通で、結構なことじゃないか。
――そう思いたい。なのに、何故私は今こいつに対して、こんなにも遠くに感じるんだ? 違う。私がこいつを見ている時に感じた違和感と、今の私の見解では。
――何故私は今、孤独を感じているんだ。
いくつもの言葉がせめぎ合い、混線した感情となって入り乱れる。この決まりの悪さを、フレイヤは怒りでごまかしたかった。
途中で頭に浮かび、でも怖くて言葉に変えて浮かべられなかった懸念。
――それとも私に向けたそれは、失望なのか。
馬車が宮殿に到着するまで、もうそれほど時間は必要なかった。深い青の海に、夕日の黄金が散らばっている。まさしくそれは、ラピスラズリの海。その宝石の響きにもう行くことのないだろう学び舎を思い出し、迫る時間に焦りを覚えた。
思いを馳せ、気がそれていた。だから、言われるまでそれに気がつかなかった。
「フレイヤ……何だか、宮殿が……変だ。」
アヤタカが、真剣味を帯びた声で囁く。彼の顔は左の窓に向けられていて、亜麻色の髪がその景色を邪魔していた。
フレイヤはぐっと身を前に乗り出し、アヤタカの頭を押しのけるような形で窓から顔を出す。
一見、いつもと何ら変わりのない宮殿。
大理石でできた列柱廊、そしてそれを支える無数の柱たち――
そこでフレイヤは、眉をひそめた。
廊下に見える、たくさんの青。そして時たまちらつく、銀の輝き。一糸乱れず動き回る、青の集団……。
――青地に、銀の刺繍ローブ!
――国王直属の、家来の衣装!
フレイヤは息を飲んだ。何故あいつらがこんな所に。そう思うと同時に、頭の中で銀光がちらつく。
アヤタカの手に記されていた、銀のエンブレム。
フレイヤは、嫌な予感に全身が痺れた。
――エンブレムの偽装は重罪だ。
自分の声が頭に蘇る。
家来たちは、門の前で待ち構えていた。
それどころか整列をして、不必要なほど大仰に待っていた。
家来たちが構える杖。そこから飛び出す、無色透明な魔法。
ずいぶん前から用意していたんだな、フレイヤはかけられた魔法から、そう悟った。
かけられたのは、魔力を封じる魔法。長い詠唱と莫大な魔力を必要とするため、滅多なことでは使われない、かけてしまえば無敵となる魔法。
馬車が止まる。家来に、引きずり出される。
アヤタカは、三体の家来に。自分は、グレーの瞳をした妙齢の家来に。それぞれが離れた場所で押さえつけられ、家来に囲まれていた。御者は静かに目を伏していた。このことを、知っていたのだろう。
グレーの瞳が近づく。荒れた声が耳に届く。
「奴隷、フレイヤ。転生の儀式の日取りが決まった。来い。」
――転生、の――
一瞬、何を言っているのか分からなかった。それは、貴族と姿形を入れ替える時が来た、自分の奴隷としての役目を果たす時が、来たこと。
それがもうじきなことは分かっていたため、驚くことは無いはずなのに。それでも、驚いてしまった。
だって、何かがおかしい。今まで見た転生の儀式の迎えに、国王直属の家来たちなんて来なかった。こんな仰々しい迎えは無かった。
――まさか――
フレイヤを捉える家来の男が、ゆっくりとそれを宣告した。
「国王がお前の姿をご所望なさった。」
まさか。
紫色の瞳が、浮かび始めた空の星をうつして揺らいでいる。
「国王に望まれる光栄に感謝せよ。」
「……あり得ない……」
口が勝手に動いた。
「私の……私を買った貴族はどうした、私の主人はそっちだろう!」
「貴族は王に仕える立場だ。王が欲しいと言えば、差し出すのが当然だろう。他国の学校に通うことが許された奴隷なんて珍しいからな。国王が興味を持たれたそうだ。そうして初めてお前の姿形を知り、いたく気に入った。今回お前を呼び戻したのも、国王の命によるものだ。お前はもう、あの貴族の所有物ではない。我らが主の所有物となったんだ。」
そんな、ばかな……、違った、エンブレムじゃない、私の、迎えだった。王の、所有物……?
フレイヤは、自分でも意識せず独り言をもらしていた。
同じように驚き、そしてそのフレイヤの姿に、思わずアヤタカは吠えた。
「フレイヤ!」
帰ってきたのは、冷たいグレーの視線。灰の目をした男に掴まれたフレイヤは、まだ茫然と立っているだけだった。
「やれ。」
アヤタカを抑えていた三体の男のうち一体が、アヤタカの頭上に杖を振り下ろす。
アヤタカの頭上で青い光の粒が現れた。それは宮殿で見たバラのような色だった。
すると、自分の手の甲からも光が溢れた。それは自分の手に記された、銀に輝くエンブレム。それが青い光の粒をまとって、どんどんその形を崩していく。やがてその不明瞭な光は腕へと広がり、ぐんぐんと……。
「フレ……!」
そこで、アヤタカの意識は途切れた。
意識が入れ替わるかのように、フレイヤが正気を取り戻した。倒れ伏すアヤタカを見て、直感する。
「記憶を……!」
フレイヤは思わず火を出そうとしていた。しかし体の中で何かがつっかえて、魔法が出ない。それに気付いているのかいないのかは分からなかったが、背後で自分を掴むその男の声に、無力を笑う嘲りが含まれている感覚になった。
「ほお。奴隷のくせに、記憶のことまで知っているのか。そうだな、もう記憶の消去は完了した。」
記憶の消去は、完了した。
簡単な一言だった。簡単な手続きだった。
倒れ伏す相手に何を言ったって、もう遅いだろうに。
きっと吠える姿は、無様に映っただろうと思いながら。どうしようもなく、フレイヤは叫んでいた。
「ばかもの……! どうして、どうして来てしまったんだ! あのまま会わなければ……見つけてくれたかもしれないのに! また、探してくれるって……探してくれるって信じてたのに!」
最後の言葉は、まるで自分の言葉では無いかのようだった。
ろうそくがぼんやりと、暗闇で揺れている。
炎から生まれてきた子どもとして、この世界に生を受けて。
売られてきた時のことは覚えている。生まれた小さく寂れた山村が、売り物ができたと喜んでいる。
私は、美しい子どもがいると聞きつけて、家来が連れ出しに来るような経緯でここに来たのではない。同郷の者が私を商品にできそうだと踏んで売りに出したに過ぎなかった。
だから、あの宮殿では他の者よりも随分と幼かった。
しかしそれにも関わらず、貴族たちは私の容姿を欲しがった。それもあってか、他の奴隷たちからは随分反感を買った。私はそれを煩わしいなと子供心ながらに思い、しかしそれ以上に、私に価値があると踏んだらしい他の奴隷たちが、妙に優しくし始めたことに煩わしさを通り越して嫌悪を覚えた。その時から片鱗が見え始めていた、付き合いを面倒に思う気性。話しかけられるのは面倒くさくて、懐かれるのはもっと面倒だった。
ここでの育ての親からは何故周りと仲良くしないのかとよく聞かれたが、私としては理由を求められても困るだけだった。
だから、今どうすればいいのか分からない。
どう消化すればいいのか、分からない。
今この部屋に灯るろうそくの炎は、灯りとしてはあまりにも頼りなく、弱々しく揺らぐその灯りは、灯しているだけ価値のなさそうなものだった。
自嘲気味にその姿を笑い、フレイヤはそれでも、その炎を見つめ続けていた。
すると、唐突にぼぼぼっ、ぼぼぼぼっ、と炎が激しく揺らぎ出す。
炎の背が高くなり、低くなり。それを一瞬で繰り返す。
その異変に、フレイヤは首をかしげ、訝しげな顔で見た。顔を、少し近づけてみる。
ぱうっ。
次の瞬間、軽い破裂音とともに、部屋に淡い光の塊が現れた。
――転生の儀を前にして移された部屋は、魔法の使えない特別な空間なはず。そのはずなのに、これはどう見ても魔法だ。どうして、それほど強い魔力が近くに?
フレイヤは思わずベッドから腰を浮かし、その白く優しい光に見入った。
ひとの形をした半透明の光。そしてそのシルエットには見覚えが……
「おじゃまするね、フレイヤくん。」
白い光から、水を通したかのように揺らいだ声が溢れた。
「校長先生……!」
その声の主はフレイヤの通っていた魔法学校ラピス・ラズィクの校長、ラズィク・レマンネ。
彼の姿をかたどる不思議な光が、小さな部屋を優しく包んでいた。
フレイヤは座っているベッドから立とうとしたが、そのままでいい、と彼はそれを手で制した。校長先生はゆっくりと部屋を見まわす。その、光でできた体を動かすたびに、鱗粉のような白い光がくうに舞い、消える。
校長先生は光の粒を浮かせて、優しく微笑みかけてきた。
「こうしていると、初めて会った時のことを思い出すね。」
気が動転していたせいか、返事をすることも忘れた。そして、今するべき話では無いと分かっていたものの、口は無意識にある尋ねごとをしていた。
「……校長先生。あの時……どうしてあなたは、私を……ただの奴隷を、あの学校に誘ってくださったのですか。そして何故あなたはあの時に、こんな宮殿にわざわざ足を踏み入れていたのですか。」
ちらちらと、賑やかなほど舞っていた燐光が、少しだけその動きを静めた。向こうを透かす校長先生の仮りそめの姿を、水晶のようだとフレイヤは思った。また燐光がくうに舞い揺らぎ、校長先生は遠い目をして話し出した。
「私の魔法学校とこの国とは、貿易相手であったりして割と関わりがあるんだよ。私は、ある日聞いたんだ。『この国には、教育を受けることのできない奴隷がいる』……って。
学校の名前から分かる通り、私は自分で自分の学校を作っている。
私が学校を作った理由はね、ふたつあるんだ。
ひとつは、子供たちの知らないこと、本来なら一生知ることのできない広い世界のことを教えてあげること。
広い知識は、武器になる。逆に狭い知識は生きることの邪魔になる。私はそう思っている。そして子どもたち自身でしか学べないこともある。学校で違う種族と一緒になることで、生徒たちは様々な相手がいることや、色んな価値観を自分たちでぶつかり合いながら学ぶ。私は学校という場所で、本を揃え、知識を揃え、人材を揃え……。本で学べること、本では学べないことを学んでもらうための場所を用意したかったんだ。
そして学校を作った理由のもうひとつは、助けを求めている子の居場所を作ってあげること。
私は子どもを、その場所だけかもしれない片寄った倫理や思想から守り、連れ出すための場所と口実を作りたかった。
だからだね。私はそこに、助けを求めている子はいないか。奴隷から抜け出したい子はいないかって探しに来たんだよ。
でも、行ってみればそんなことは無かった。君を、除いてになるけどね。
私はね、ここにいる一体一体の精霊体たちと話をさせてもらったんだ。でも、みんな助けを求めていなかった。この現状に満足しているんだ。彼らの待つ運命を教えることは……こんな言葉は使いたくないけれども、私の立場からは不可能だった。
助けを求めていない子を、無理やりどうにかしようなんて私にはできない。何故ならそれは、私が外からの、私の価値観を押し付けているにすぎないことだからね。私にとっては助けるつもりであろうとも、無理やりそれを押し付ければ、今度は私の理念に反してしまう。……難しい、ね。
そうして、君の番になった。君は周りの子と少し雰囲気が違って、ここを嫌っているのもよく分かった。君は一番最初に、ここから出たい、と言ったね。」
あの時、面談として与えられた小さな部屋。
不審だらけの気持ちで、その部屋で待ってたはずなのに、校長先生の顔を見た瞬間、つい少しだけ安心してしまったことを覚えている。
学校へ行ってみないかい。学校って何だ。勉強をする所さ。わざわざそれだけのため? まあ、正直に言って、私にとってそれは言い訳に過ぎない、本当は先生という立場で、そんなこと言っちゃだめなんだけどね、はは。じゃあ、何のために? 幸せになるために大事なことを、学ぶためさ。どうやって? それを学ぶために、この学校はあるんだよ。
――君が望んでくれるのなら、私はこの手を打つことができる。しかるべき年齢が来た時、君を学校に受け入れるというね。奴隷の身分? なぁに、私がちょっと駄々をこねれば、学校に通うことくらい許してくれる。
あの時の優しい穏やかな顔を、荒んだ自分は信じることができなかった。なのに今は、ほんの数時間前まで向けられていたあの笑顔と、この優しい顔が重なってしまった。
今目の前にいる、光にかたどられた校長先生が手を広げる。動かした軌道にそって、袖のあたりから美しい燐光がこぼれ落ちる。
「君が望んでくれるのなら、私は君をここから連れ出すための手を打つことができる。」
あの時と同じ、運命が分かれる柏手の音。
彼ならば、手の鳴る方へ導いてくれる。
なのに今の自分には、そうする気持ちが湧かなかった。
「分からないのです……。」
「うん?」
今、自分の中に刺さっている棘。
校長先生ならば、引き抜いてくれるだろうか。
「私たちは……どこにでもいる、有象無象にすぎないのに。替えが効くのに。なのにその相手に固執するなんて……。そういう相手が気に入ったなら、関係が駄目になっても似たやつを選べばいいのに。なのに、辛い思いまでしてどうして、その相手を取り戻そうと思うのか……。」
校長先生の顔を、フレイヤは見ることができなかった。見ていたらどうしても、彼、と対峙しているかのような気になってしまうから。
ふわっと、白い光の粒が目の前を舞った。
顔を上げると校長先生が自分のそばで膝をついていた。
神秘的な瞳が、真っすぐ自分を射抜いてくる。
「どうしたんだい、アヤタカ君と、けんかをしちゃったのかい?」
その言葉に、何故か目の奥が熱くなった。
フレイヤはたまらず、また校長先生から目をそらした。そして下を向いたまま、ぽつりぽつりと話し出した。
「喧嘩……。とは、違う気もしますけど……。 私は、彼を傷つけたんだと思います。」
この宮殿に居た者や役人たち、別の環境に行けば同じような特徴を持った相手はたくさんいて、多少の違いはあれどほとんどが似たようなもの。
ここでのこいつと仲良くならなくても他の場所にこいつはいる。わざわざ仲良くなっても替えがきくから一生懸命仲良くなろうと思えない。今まで自分はそう思っていた。誰かに対して、そうとしか思えなかった。
フレイヤのその言葉を、校長先生は静かに聞いていた。
「……あいつみたいな奴は、どこにでもいます。 私のような者も……数え切れないくらい。 その中で、 どこにでもいる替えの聞くような相手と、 どうしたら関係を取り戻したいと思えるか、 仲良くなりたいと思うようになれるのか、 分からないのです。」
苦しそうに、告白するフレイヤ。それを見て、校長先生はぽつりと呟いてみせた。
「君は、彼と仲直りがしたいんだね。」
汚泥のようなものが、フレイヤの胸の中でうごめく感覚がした。
「そうでしょうか……。そうだとしても、どうすれば替えの聞く相手に固執できるようになるのか、分からないのです。」
そこまで言って、フレイヤは言葉を切った。
―― どうして私は、こんな恥を上塗りするような真似ばかりしているんだ。どうせ忘れてしまうからと、投げやりになっているのか? どうせ誰も私を探し出せない。顔が変わり、記憶も失った私を誰も探せない。もうこの人生は、終わりになる。
校長先生は、さらに姿勢を低くして、フレイヤの顔を覗き込んだ。フレイヤの手を取り、両手でぎゅっと握る。
光でできた手は、まるで絹で撫でられたかのように優しく、心地よい感触だった。
「君は今、きっと色々なことを考えてるんだね。私はその端っこをちょっと見せてもらっただけだから、今から言うことは君にとって、そういうことを言ってるんじゃないと思う話かもしれない。単なる言葉の揚げ足にとっているだけかもしれない。」
校長先生はそう前置きして、光の手でぽんぽん、とフレイヤの手を優しく叩いた。
「そうだね、その通りだ。私のような者もたくさんいるし、私が駄目なら他の私でいい。アヤタカくんと仲直りせずとも、彼のような相手と親しくなりたいならば、他のアヤタカくんを選べば良い。この世界は、替えが効いてしまう。
だけどね、フレイヤくん。思い出だけは替えが効かないんだ。
君はアヤタカくんとこの国で、この特殊な状況で同じ時を過ごした。それも、君にとっては人生が変わる局面の時に。こんな思い出を他の時に、他の場所でそう簡単には作れるんだろうか。
君が仲良くする気のなかった彼と、ああやって一緒に遊び歩くことができたのは何故だい? それは、この時に偶然彼と過ごすことになったからじゃないのかい。じゃあそうなると君は果たして、他のアヤタカくんと出会ったとしても、そのアヤタカくんとは仲良くなれたのかな。
これは確かにただの偶然だったのかもしれない。だけどそういう出会いがあるから、人はそれを、運命と呼ぶんじゃないかな。」
静かに二体は、見つめ合う。光り輝く校長先生の姿を、神様のようだと思った。
「境目は……あるのですか。替えがきく者と、きかない者。」
校長先生は、目をぱちくりさせた。
「……ええと、難しいところだけど……。強いて言うなら、こんなところかな。
失った信頼は、簡単には取り戻せない。自分を信頼していた相手を失望させた代償は、とてつもなく大きい。だけどね、それでも君のことを慕ってくれる相手がいるなら、その手を決して離しちゃいけないよ。そうして、手放したことを後悔できる相手もね。」
校長先生は、まっすぐな目でフレイヤを見つめた。今度は、フレイヤも目をそらさなかった。
そしてフレイヤは、最後にひとつだけ聞きたかったことを聞いた。
「校長先生は、私を助けるための手が打てると仰っていましたが……どうやって?」
「ああ、大したことでは無いんだよ。今この国には、ストロ先生がいるだろう? 彼女にこの場所へ侵入してもらい、君たちを連れ去ってもらう。
元はと言えば、ストロ先生にこの国に来てもらったのも君を連れ出すため、そして、君の居場所を特定して、この魔法を送るためだったからね。依頼というのは口実さ。前々から知っていたあの国の困りごとに、もしよければうちが対処しますよ、という連絡をしたから、今回の依頼という形になったんだ。
おっとそうそう、逃げた後の話だったね。それなら追っ手に捕まるまでに、他の国に逃げてしまえば問題無い。領事裁判権というものがオミクレイ国には無いからね。オミクレイ国で罪人になっても、国の外へ逃げてしまえば、その罪人をオミクレイ国は裁くことはできない。裁けるのは、その他国だ。魔法学校はね、ある意味ひとつの国なんだ。だから……ね。そういうことだよ。」
校長先生は、ほっ、ほっとお茶目に笑ってみせた。
フレイヤはそれをぽかんと聞いていた。そして思わず、その乱暴な解決法に苦笑いをした。確かにそれで自分とストロ先生は罪に問われない。しかし横暴とも言えるその行いに、責任者となる校長先生は、他国からどれだけの制裁を受けるのだろう。
フレイヤはそれを考え、空恐ろしくなった。
懸念を表に出さないように気を付けながらフレイヤは聞いてみた。心配そうにして聞いたら、恐らく校長先生は無理に平気そうな振りをしてみせると思った。
「……それを行なったとしてどうなるのですか、校長先生。貿易のような真似もなさっていたのでしょう。たった一生徒のせいで、築いた物が崩れるのではないでしょうか。私には……責任が取れるだけの力も、利用価値もありません。」
ほっ、ほっ。と、校長先生は穏やかに笑ってみせてくれた。
「気にしなくていいんだよ。元はと言えば、私は助けを求めている子どもを助けたくて、助ける力が欲しくて学校を作り、校長になったんだから。
人脈も地位も、今みたいに大きな力で縛られている子を助けるためには必要だっただけなんだ。そのために築きあげたものなんだ。
だからそんなこと、気にしなくていい。
こういう時にそれを使わなければ、私が何のために校長になったのかが分からなくなってしまうよ。」
そう言って、校長先生は片目をぱちっと閉じた。
それを見ていたフレイヤは、握られている手に目を落とした。校長先生の手に、自分の手をそっと乗せる。
――あなたはすごい方ですね。
そう、心の中で伝えた。
「ありがとうございます……校長先生。
私は、あなたの生徒であれたことを誇りに思います。
でも私は、奴隷としての責務を全うしたいと思います。」
―絵描き―前編「親友」
フレイヤとアヤタカが捕まる少し前。
夕暮れ時の美の宮殿に、まるで不釣り合いなほどのみすぼらしい身なりをした男が歩いていた。
王の家来とも違う、バディとも違う。
右を見ても、左を見ても。まるで造形が良い者たちの巣窟の中、見た目に気を遣っていないだろう浮浪者のような格好をした男が歩いている。
「どこに……。」
壮年期の男は、そこを割くように通る。
美しい奴隷たちの視線が、その男に向いては嫌悪の表情に変わって逸らされる。
おぼつかない足取り。べたり、と壁に手をついて体を支えた、男の手の甲に光る、銀のエンブレム。それが男の目に止まり、その胸はぐぅっと締め付けられた。
――あの少年はどうなったのだろう……
男の脳裏に、亜麻色の髪をした気さくな少年の姿が浮かぶ。外国から来たのに、先生に置いていかれてしまったらしい少年。自分が、エンブレムの魔法をかけた少年。
罪悪と責任という文字の刻まれた重石が心にぶら下がり、進もうとするたびに心をミシミシと軋ませる。
自分が向かうのは、結果的に少年を見捨ててしまうことになるだろう道。
――ごめん、ごめんね。
おれには、悲願があるんだ。
――巻き込んで、ごめん。
心を立て直し、似顔絵屋の絵描きは美の宮殿を彷徨い続けた。
そしてその放浪は、『王の仮面』と聞こえた瞬間に終わりを予感した。
男が長い放浪を始めるまで。それは、子ども時代にまで遡る。
オミクレイ国の小さな山村。太陽の光の中、草原の中。枝を持った黒い髪の少年が枝を振った。どこでもない宙を枝が切り、ぶん、という音がする。
それだけだ。なのに少年は顔をしかめて、また何度もぶん、ぶんと枝を振っていた。
「何でそんなに魔法が使えないんだろうなー、カルパッチョは。」
近くで同じように枝を持った同世代の子どもが、その少年に声をかけた。その枝の先には小さな火の玉が浮かんでいた。
カルパッチョとはただのあだ名、彼の名前はカル。小さな山村に生まれた、精霊体だった。
カルは同世代の子どもに返事もせず、枝に両手を添え、そのままばきりと折ってしまった。
「あーあ。カル、悪いんだ。」
また別の子が何かをぼやくが、ちらりとそちらを一瞥しただけで、カルは何も言わずにそこから去っていく。
「にらまれた〜。」
「目つきが悪いだけだろ。」
「魔法が使えなくて、カルシウム大丈夫なのかなあ。」
魔法が全く使えない落ちこぼれ。
カルは草原に隠れるようにしてある、岩と岩の隙間の空間に向かっていた。そして足元にある、子供の頭くらいの石をよけ、さらにその下の土を少しよける。すると大きめの葉っぱが姿を現し、それをめくるとキャンバスと画材道具が隠されていた。
普通に置いておいてもいいけれども、こうした方が秘密の行動みたいでロマンがある。カルはそんなことを思って、また葉をかけ薄く土をかけ、石を置いて蓋をした。
一陣の風が吹いた。その音に紛れるようにして、馴染みのある声がした。
「カール!」
カルは振り向く。一番最初に目に入ったのは、そこに居たのは、きれいな金髪をきらきらと風になびかせている、一体の少年。
「ヨーゼフ。」
カルは、彼の名前を呼んだ。いつも一緒にいた相手。かけがえのない親友。
そしてとても、美しい少年だった。
ヨーゼフは、カルの隣に座って笑いかける。
「絵、描くんじゃないの? 僕をモデルにしてくれるんでしょ。期待してついて来ちゃったのに。」
「ああ、うん。じゃあそこに座って!」
そう言うと、カルはまた石をどけて、スケッチブックの隠し場を晒した。
ヨーゼフは、ひらりと後ろの尖った岩に飛び乗った。そしてそこに座って、動きを止める。
カルが絵の中に閉じ込めたかった光景が、再び目の前に広がる。草原の中。岩の上で華麗に髪をなびかせて座っている、一体の少年。
カルは心の中で呟く。
――最初に会った時も、こうしてた。
あの日ヨーゼフを初めて見た時も、ヨーゼフは岩の上でこうやって黄昏ていた。ああやって遠い目をして。独りで髪を風になびかせて。そしてカルは、ヨーゼフのポーズや姿が作り出す光景が、奇跡の光景のように見えた。
その風景も、構図も、彼の姿も。理想をくりぬいた、一枚の絵のようで。
ヨーゼフは、同性であるカルから見ても、とても美しい姿をしていた。美しい金髪に、素晴らしく整った顔。体型も、指先も、隅から隅まで奇跡のように美しかったと、カルは思った。
そんな彼が作り出していたあの光景。あのたった一瞬の美しさを、絵に閉じ込め、永遠に残したいと強く願った。
絵の中のヨーゼフは、ページをめくるごとに成長していく。
描く手を止め、スケッチブックをカルがおろす。そこに座っているのは、成長するごとにどんどんと輝きを増していった、ヨーゼフ。
「カル。」
声変わりの済んだその声で、ヨーゼフが呼ぶ。
「なんだよ、ヨーゼフ。」
カルはざかざかとアタリを取りながら、ヨーゼフの方を見もせずに返事をした。
そんなカルに、ヨーゼフは苦笑いをした。
寂しげに笑いながら、ヨーゼフは言った。
「昨日さ。王国から家来たちが来ただろ。」
「あー、うん。青いマントのがぞろぞろと居たなー。」
カルは、まだ ざかざかと手を動かしている。
「……僕さ、あの家来さんたちについていかなきゃならなくなっちゃった。」
「……え。」
カルの手が止まった。スケッチブックから、ヨーゼフへと目を移す。
カルが、どういうことだよ、と呟く。
「あの家来さんたち、えっと、なんというか。見た目的な理由で、僕を宮殿に連れて行きたいんだって。それで、その、行かなくちゃならなくなった。」
ヨーゼフの容姿を気に入っての行動。それなら、カルも理解できた。
だってこうして彼の絵を書かせてもらってる自分自身がそうだから、カルはそう思った。
「何でだよ、断れないのかよ。」
カルは、何のこともないようにまた絵を描き始める。線が荒くなり、絵が崩れていく。
「無理だよ。」
ヨーゼフが悲しげな声で言った。
「だってもう、村長さんはお金をもらったから。売られちゃったから、行くしかないんだ。」
カルの手が、今度こそ止まる。
ヨーゼフは続ける。
「そこね、『バディ』って形で、一体だけなら好きな相手を誰でも連れて行っていいんだって。カル、僕さ。こんなこと頼むの図々しいにもほどがあるんだけど、カルに一緒に来て欲しい。僕にとって、カルは親友なんだ。」
二体の間で初めて出た、”親友”の単語。
この日を境に二体は親友となった。そして、この日を境に二体は村を出て、美の宮殿で暮らすことになった。
美の宮殿やオミクレイ国の城下町は、二体にとって異世界だった。
並ぶ、美しい白い建物たち。色のない建物とは対照的に輝く、瑞々しい植物や花。
そして、世界中のどの建物よりも美しいのではないか、と二体が思えるほどの美しさを誇る、美の宮殿。
バラの甘い香りに包まれながら、二体は精霊体に手を取られ、魔法をかけられる。
銀光を放ち、ヨーゼフの手の甲へとその光は移る。
まるで銀色の烙印が押されたかのように、ヨーゼフの手にエンブレムが刻まれた。
次に、その精霊体は杖の先をカルへと向けた。
そして同じように、杖から銀色の光がくるくると舞いながら出てきた。その光はカルの手の甲に触れて、
ぱしゅん。
音を立てて、跡形もなく消えてしまった。
首をひねる精霊体。もう一度魔法をかけるも、カルに触れた瞬間、その魔法は消えてしまう。
おかしいな、この子は魔法がかかりにくい。
そんな声を漏らしながら何度も魔法をかけ直し、やっとカルの手の甲に、銀色のエンブレムは刻まれた。
こうして、二体の宮殿暮らしは始まった。
何故かカルは、何度も何度もエンブレムが薄れてしまい、その度に魔法をかけられた。何度も見ていくうちに、魔法の手順や魔力の流れが、体を通して分かるようになってきた。
魔法をかけ終わったら、ヨーゼフが部屋で待っていた。そうして、どうでも良い話をする。
とりとめのない会話のはずなのに、ヨーゼフと話す時間は輝いて感じた。こんなにたくさん話しているのに、一秒でも逃すのが惜しい、いつまでたっても貴重で大事なものだった。
――ヨーゼフと一緒なら、どんな所でも行こうと思えた。
――ヨーゼフとなら、どこだって楽しかった。
――だっておれたち、バディだもんな。
美の宮殿に集められた選りすぐりの美形たちとやらも、カルから見れば、ヨーゼフの足元にも及ばなかった。
それがカルには誇らしくて、ヨーゼフを全ての精霊体に自慢して回りたい気分だった。
どうでも良いことで一喜一憂して、村であろうとも見知らぬ宮殿であろうとも、幸せだった。
友が、王の仮面に選ばれる日までは。
カルは、ヨーゼフを自分の半身だと思っていたのに。
自分の半身をもぎ取られた獣は、どんな声で鳴くのだろう。
―絵描き―後編「王の仮面」
「王の仮面……?」
時代とともに変わった、かつての転生の儀式の呼び名。
ヨーゼフは、国王直属の家来である精霊体に向かって、その言葉を復唱した。
家来は言う。
「そうだ。お前の援助だけは今まで王が行なっていると言ったな。お前は、その恩を返す時が来た。」
カルは隣で、嬉しそうに喋っている。
「ヨーゼフ! お前、王様の代わりをするってことじゃないのか!? 皆言ってたろ、貴族とかは美形が代わりを勤めてるって! すごいよ、王様だぞ!」
確かに、前に何度か見た王の姿は美しかった。それこそ、美しさのためだけに生きて来たかのようなまばゆい美しさだった。あれを見れば、確かに王は顔で選んでると思っても仕方がない、ヨーゼフはそう思わざるを得なかった。
しかし今のヨーゼフは、興奮気味なカルの様子とは裏腹に、どんどん胸が冷えていった。
――でも、そんな都合のいいことがあるのだろうか。
――今まで従うしかなかった。村に売られて、なすすべも無くここへ来て。この宮殿でも、ここしか居場所がなくなったから、言われるがまま、流されるがまま今までやって来た。
カルは、目の前にいる家来に目をやる。
――何より、この男の目。
その目は、まるで死刑を宣告するかのような厳しさをたたえていた。
家来は言う。
「バディを捕らえろ」
その言葉が放たれた瞬間、一瞬にして場の空気が変わった。
カルの腕を捻り上げる。カルはうめき声をあげ、地面に膝をつかされた。
「カル!」
ヨーゼフが叫ぶ。そのとたん、後ろにいた別の家来たちが、何か魔法を放った。 無色透明なそれは、魔力を封じる魔法。
家来が、低く、小さな声で言う。
「もし逆らえば、バディを殺す」
ヨーゼフは、その声の静かさに、自分の立場を悟った。
――ああ、何を誤解していたんだろう。
――自分は、奴隷なんだ。僕たちは権利なんて、とっくの昔に剥奪されているんだ。
ヨーゼフは何も言わずにこうべを垂れ、無抵抗の態度を示した。
家来はそれでいい、と言わんばかりに無言で頷いた。
そして家来は、合図を出した。
宮殿に咲くバラのような青い光が、ヨーゼフの視界に入る。ぱっとその光が漏れている方角を見ると、その光はカルを包んでいた。
カルの手の甲にあるエンブレムが歪む。ひときわ明るい光が彼を貫き、彼は倒れた。
ヨーゼフは思わず叫んだ、何をした、と。
家来は言った。
「記憶の消去が完了した。もうお前のことを覚えている者は、誰もいない。」
言葉が出なかった。
そのままヨーゼフは引きずられるようにしてどこかへ連れていかれた。
そして次の日、彼は王座の前で、自らの容姿と人生を奪われた。
その後ヨーゼフがどうなったかは、誰も知らない。
カルが目覚めたのは、見知らぬ寝台の上だった。
どこか宿屋のような場所。どうして自分がここにいるのか、思い出せない。
そして見守るようにして自分を覗き込んでいたのは、かつての懐かしい顔、生まれ故郷の絆兄弟だった。
「カル。起きた? 迎えに来たんだよ。一緒に故郷に帰ろう。」
「迎えに……」
――そうだ、自分はこの国で暮らしていたんだ。でも、どうして。
何が理由でここにいたのだろう。カルはそんなことを自問していた。
そして何故だか、幸せを奪われたような、そんな喪失感が胸を回り続けていた。
懐かしい故郷。風と草の匂いのする、愛しい場所。
そのはずだったのに、帰って来た故郷には、自分の心の中にあった愛しさは感じられなかった。
――思い出を美化してたのかな。
故郷の仲間たちには、いろいろなことを聞かれた。
「オミクレイ国ってどんなところだった?」
「街並みとかが、きれいなところだったよ。あと、海も真っ青で、本当にきれいなとこだった。」
「あっちでは何してたの?」
「……分からない。」
「分からない?」
「思い出せない。」
「一緒に行ったヨーゼフは?」
「ヨーゼフ?」
そのとたん、周りの空気が凍りついた。「しっ」と口止めしたり、気になる反応だった。
ヨーゼフ、ヨーゼフ。
――聞き覚えのない名前だな。
空白の数年を抱えたまま、カルは何十年とその故郷で過ごした。
大分年老い、自分の記憶に空白があることなんて忘れていた。
そんなある日、小さい頃に作った、スケッチブックの隠し場のことを思い出した。
その日は心地よい風の吹く日だった。
ヨーゼフは、岩の間に行き、石を避け、土を避け、もう腐ってしまった葉を避けて。
そこに変わらずあったスケッチブックに、思わず感嘆の息を漏らした。
「感動だな、まだあるなんて。」
早速そのスケッチブックを開けてみる。すると。
そこには、何枚も何枚も、同じ男の子が書かれていた。
ここの岩の上に座って、風に髪をなびかせている、あまりにもきれいな少年。
最初は空想上の人物かと思ったものの、その絵は明らかに写生した絵だった。
何枚も、何枚も。
その男の子は次第に成長していく。
何故だか動悸がしてくる。胸の奥がざわざわとしてくる。
何かが溢れてくる、何かが、何かが。
そしてその絵の下に、小さく文字が書かれているのが見えた。
『ヨーゼフ』
ヨーゼフ、ヨーゼフ。
カルの目から、涙がこぼれた。
――誰だ君は、誰なんだ。
その時、頭の奥で銀のエンブレムがちらついた。
自分にだけかかりにくかったあの魔法、手順。
――そうだ、俺は昔から魔法がほとんど使えなかった。それどころか、かけられた魔法の効き目も悪かった。
ぺりぺりと音を立てて、かけられた魔法が剥がれていく。記憶が洪水のように溢れ出す。
「ヨーゼフ……?」
その名前を口にした時、またもや涙が溢れた。そして、カルにかけられていた魔法は解けた。
彼が生まれながらにして持つ体質によって。
カルはオミクレイ国で稀に生まれる、黒水晶、又の名をモリオンという宝石から生まれた精霊体だった。
黒水晶。別名、「魔消しの石」。
その鉱物から生まれた精霊体は、魔力を通さない。カルは若干魔力を通すことができたが、他の精霊体と比べて魔法の通りはかなり悪かった。
オミクレイ国に巣食うポエナという獣で稀に見られる、モリオンの精霊体。カルは唯一の、高い知能を持つ生き物のモリオンの精霊体だった。
不完全なかかり方をしたエンブレム。
エンブレムとは、記憶を司る場所に置かれた受け皿のようなものだった。エンブレムをかけた以降に起こった出来事、その記憶は、器の上に降り積もる。そのため、その器ごと取り除いてしまえば、その期間のことは少ない労力できれいに記憶を奪ってしまえる。
美の宮殿の記憶の消去が完了したあとは、エンブレム以前の記憶に干渉して、頭の中のヨーゼフの存在に霧の魔法をかけてしまう。
つまり、ヨーゼフに関することだけ思い出せなくなる。
オミクレイ国は徹底して、カルの記憶の中からヨーゼフを追放した。
しかしカルの生まれながらの体質がカルに味方をした。
元から記憶の器となるエンブレムはがたがただった。取りこぼし、器からこぼれた記憶は山のようにある。
かけられた霧の魔法も、もうほとんど消えかけていた。彼の体質、「魔消し」によって。
――ヨーゼフは今、どうしてる。この数十年間、たった独りで?
――会いたい、会って、忘れてたことを謝りたい!
カルの中で、止まっていた時間が動き出した。
それからカルは、故郷を出て、オミクレイ国の城下町に移り住み、たくさんのことを調べた。
そして、身分証、又の名を通行証でもあったエンブレムの魔法を何度も練習した。
あの場所に行って、ヨーゼフの居場所を突き止めるために。
しかし生まれつき魔法がほとんど使えないカルにとって、その難しさは想像を絶するものだった。
何度もかけられていたこと、自分の記憶だけを頼りに、せめて似たものを作ろうと何度も練習した。
そしてもうひとつカルが労していたのは、似顔絵だった。
何十年も前に数回見ただけの王の姿。
姿を入れ替える魔法ならば、今ヨーゼフはその姿をしているはず。
ヨーゼフがどこにいても分かるように、カルは何度も記憶の彼方にある王の姿を掘り起こして、それをキャンバスに塗りたくった。
最初は不明瞭だった姿が、だんだん、だんだんと明確になっていく。
自分の記憶を頼りに。
カルは、ヨーゼフに会うため残りの人生をかけることにした。
魔法も安定してきて、似顔絵もだんだんとはっきりとしてきたある日。
いつものように日銭稼ぎで似顔絵屋をやっていると、まるで迷子のように頼りない足取りで歩いてくる少年がいた。亜麻色のふさふさした髪の毛に、若葉色の目。
彼と話しているうちに意気投合して、カルは彼が観光客だと知った。
――観光客であるならば、この国には長く滞在しないだろうし、エンブレムの実験台にさせてもらおうか。
見よう見まねだから、本物のエンブレムとは程遠い。
――もし検挙されるようなことがあれば、エンブレムの偽造として重罪になるだろうが、一週間程度しか滞在しないなら検挙される心配なんてきっと無い。
そんな軽い気持ちで、カルは彼を実験台にした。
しかしその罰が当たったのか。がらがらと唐突に聞こえた、馬車の音。
馬車なんて、この国で使えるものは限られている。
貴族や支配層、そして、美の宮殿の奴隷。
嫌な予感がして、大急ぎで逃げた。画材道具も、そこにいた少年も置き去りにして。
エンブレムの偽造をしていた現行犯になるのを恐れた。カルは、何故あの時あの少年も連れて逃げなかったのか、と後悔した。
何故なら、その少年は、国の馬車に乗せられ、連れていかれてしまったから。
誰もいなくなった店に戻り、彼は呆然と立ちすくんだ。
――どうしよう、俺のせいだ、俺の……。
カルは決意した。
今まで、踏ん切りがつかなかった、美の宮殿への潜入。
何の関係もない少年を巻き込んでしまったのは、ある意味いいきっかけになった、彼の様子を見るためにも、と、カルはそう思うことで、ようやく潜入への踏ん切りをつけることができた。
かなり訝しげな顔はされたものの、偽物のエンブレムと美の宮殿にいた者でしか知ることのできない情報のおかげで、潜入はすんなりと成功した。
懐かしい間取り、懐かしい香り。
しかし、入ったは良いものの、どこを探せばヨーゼフへの手がかりになるのか分からない。
巻き込んでしまった見ず知らずの少年のことも忘れ、ただカルは、ヨーゼフの手がかりの無さに途方に暮れていた。
そんな時、言葉が聞こえた。
――転生の儀式、転生の儀式。
カルは、聞きなれない単語に首を傾げた。
しかし、どこかあの時の光景、ヨーゼフが連れていかれてしまったあの時と似た光景に、目を離すことができなかった。
――王の仮面。
聞こえた単語に、カルは全身に電流が走るような感覚に襲われた。
知っている、その単語は、知っている。
その家来たちは話を続けた。
「王の仮面、は昔の呼び名だよ。今は王も貴族もひっくるめて、転生の儀式って呼んでるの。その名前はあからさますぎるからやめよう、ってさ。」
おそらくあの時の自分が聞いても、疑いの眼差しを向けることは無かっただろう。今も家来たちは、油断しているようでいて、こんなところで姿を奪うだのという話は、迂闊にはしない。
カルは柱の陰に身を隠して、その家来たちのあとをつけた。
友達
ざっ、ざっ。
オミクレイ国の家来たちが、隊列を組んで進んでいる。
ざっ、ざっ。
広間に鎮座する、玉座に向かって。
その隊列の真ん中で、華奢な精霊隊も一緒に進んでいた。
その精霊隊は一体だけ、宝石で編まれたヴェールを身にまとっている。体には宝石の装飾品が、頭には荘厳な冠が輝いている。
最上級の衣類で飾り付けられたその精霊隊は、恐ろしいほどに美しい容姿をしていた。
世界中の美しさを集めたようなその姿。王の者が厳かに声をかける。
「ただいまより、転成の儀を行う。奴隷フレイヤ、前へ。」
ざっ、という音を立てて、家来たちが傍に避け、道を作る。
フレイヤは玉座の前へしずしずと歩み寄り、かしずいた。
光に透けて輝くヴェール越しに、顔を上げる。そうして王の顔を見た。途端、フレイヤは息を呑んだ。
王の顔は確かに老いていた。が、その眩いほどの美しさを、老いが押しのけることなどできないほどに、彼は圧倒的に美しかった。
王に相応しい、高尚さのあまり近づくことすら恐れを抱く、品のある顔立ち。
――これが、王に選ばれた顔。
フレイヤは息を呑み、ただ見とれた。それはフレイヤにとって、初めての感覚だった。
美しき王が、フレイヤに向かって言葉を奏でる。
「現物がここまで美しいとは。まるで他の者とは別世界の存在だ。」
低いハンドベルのような王の声。
美しい王に褒められたと知り、フレイヤは紫色の瞳を揺らした。
王は続ける。
「そして男でありながら女のようなその容姿、非常に稀有で神秘的だ。高貴で近寄りがたい雰囲気も王者に相応しい。今の容姿は青々とした森林のように爽やかな美しさだったが、お前は水に濡れた花のように耽美なものがある。」
フレイヤはその言葉に、気持ち悪いなと思いながら、何も言わずに聞いていた。
そして”近寄りがたい雰囲気”だけは、あって良かったと思った。
――おかげで、変に精霊体が寄ってこられないで済んだ。それはこの容姿のおかげだったのか。
付き合いは嫌いで、面倒。群れるのも面倒。友達を作る利益が分からない。
さらにその”近寄りがたい雰囲気”に、王が言葉を重ねる。
「親しみやすさなんて毛程も無い方がいい。あんなもの、馬鹿にされているのと同じだ。」
その言葉に、フレイヤはかすかに表情を変えた。自分も”彼”を親しみやすいと思うかはともかく、親しみやすい雰囲気を持つ誰かを思い出したから。
――私が馬鹿にしてきた相手。
――誰からでも親しまれることを望んでいただろう相手。
――あいつのそういう考え方とはきっと分かり合えない。そしてあっちも、私の付き合いが嫌いだという考え方とはきっと分かり合えない。
――ただ今はほんの少しだけ、こいつと分かり合うよりも、お前と分かり合いたいって思ったよ。
フレイヤはそっと目を閉じた。
――私は、最後に……。
一つ深呼吸をしたフレイヤは、王を見上げ、おずおずと申し出た。
「王様。どうか最後にお願いがあります。私を、私のバディーと合わせてください。別れの挨拶をしたいのです。」
そう言ってこうべを垂れると、頭にかかるヴェールがしゅるりと流れる。
玉座からフレイヤを見下ろしながら、王は、ややあって答えた。
「いいだろう。ただ、記憶はもう失っている。お前のことは誰だか分からないだろうから、そのつもりでな。」
フレイヤは、はい、と小さく返事をした。
美の宮殿のはなれのようにある、小さく、しかし立派な建物。
立ち入り禁止のこの場所が、まさしく転成の儀の場所だった。
フレイヤは遠くから眺めるだけだったこの建物の中に、今いること、それが不思議な感覚だった。
目の前では、磨き上げられた床や柱が、光にあたって神々しく輝いている。
――これが、自分が自分である私の見る、最後の光景か。
フレイヤは光の中、アヤタカを待った。そしてとうとう、アヤタカは来た。
亜麻色の髪に緑の目。どこにでもいそうな、でも、どこにでもはいなさそうな不思議な芯を持っているよう思えた精霊体。
家来に引っ張られながらも、間の抜けた顔で、きょろきょろとこの宮殿を眺めている。今から何が起こるかなんて、自分が何故ここにいるのかなんて、何も分かっていなさそうな顔で。
アヤタカの目が、フレイヤに向く。その途端、アヤタカは息を呑んだ。
――まさか、覚えて、
フレイヤの胸に、剣のように鋭く、淡い期待がさし込まれる。そして連れてこられたアヤタカが口を開く。
「えっと、おれに用があるって、君? お、お姫様?」
――違った。
それも、また自分のことを女だと思っている。そう思いながら、フレイヤはお互いが最初に会った時のことを思い出していた。
あの時は声を荒げて怒った。しかし今は。
「お姫様に見えるか、私が。」
しゃがんでいたアヤタカに、フレイヤは目線を合わせた。口元にはほんのりと笑みを浮かべて。
アヤタカは、おずおずとこくりと頷く。
その様子と答えに、フレイヤは思わず笑い出した。
今までなかったくらい、思いっきり。
「お姫様か。可愛い勘違いじゃないか。あははは。」
そう言ってフレイヤは、アヤタカの髪をわしゃわしゃとかき乱し始めた。
アヤタカは放心した状態で、されるがままになっている。
フレイヤはひとしきりアヤタカの髪で遊んだ後、すっと表情を変えた。
悲しそうな、嬉しそうな、寂しそうな顔に。
「……ありがとう」
そして、アヤタカの目をまっすぐ見据え、フレイヤは言った。
「お前とだけは、友達になりたいと思えたよ。」
そう言って、フレイヤは腰を浮かせた。
動いた弾みで宝石がきらりと輝いた。
まるで永遠の別れの瞬間を、飾り立てるかのように。
「っの、バカ!」
フレイヤの耳に、聞きなれた声の、聞きなれない怒声が届いた。
そして次の瞬間、思い切り袖の裾を引っ張られた。
袖を引かれるまま、フレイヤは走る。
だって、その袖を引く相手は。
「サイオウ……」
サイオウこと、アヤタカ。太陽の子どもだったから。
アヤタカは全速力でその場を駆けた。そして手をかざし、魔法、物体浮遊術を発動させた。
すると壁に飾りとして掛けられていた大きな槍が がたんと外れ、命令を下したアヤタカの元へ、銀光を放ちながら疾駆して行った。
アヤタカはもう一度命令を出し、槍を失速、そしてその槍にまたがった。
そのままフレイヤはぐい、とひっぱられ、槍に乗せられた。
そうするやいなや、アヤタカは浮かせた槍を今度は全速力で進ませた。
槍を箒がわりにして、その場から逃亡したのだ。
その乗り物である槍のあまりの速さに、フレイヤは槍に必死にしがみついた。耳元で、風が轟々とうるさい。
――逃げている。私は今この場から、逃がされている。
風の中で、フレイヤはアヤタカの背を見た。
――私のことをこいつは忘れなかった。どうしてか分からないけれども。
思わず笑みがこぼれた。
――それもまさか、ここまでしてくれるだなんて思わなかった。
本当は誰かに無理矢理にでも連れ出して欲しかったのかもしれない。フレイヤはそんなことを思った。
感極まったのも束の間。槍のあまりの速さに、フレイヤはいつの間にかしがみつくことに必死になっていた。
――こいつ、二体も精霊体を乗っけて、こんなにも速く進めるのか!?
アヤタカが他の精霊体より若干優秀らしいことはフレイヤも知っていたものの、まさかここまでだとは思わなかった。
箒乗りも、物体浮遊術遊術の領域だ。物体浮遊術遊術で箒を浮かせて、その上に乗って自由に飛び回る。
しかし箒といってもただの箒ではなく、飛行用の箒は魔力が送られることで、後ろの部分から進むための力魔法が勝手に働いて噴射するというもので、いわば魔力さえ送り込めれば誰でもできた。
今アヤタカが操っているのは魔法道具でもなんでもない、単なる棒。純粋な自分の魔法による命令だけでアヤタカは飛び、さらに信じられないほどのスピードを出している。
――何なんだ、こいつは。
浮く、進む、加速、維持、乗り手の防護……。それ以上にもっとある、無数の命令を一辺にこなす技は、フレイヤにとって、新入生のできる技じゃないと思った。
――こいつ、もしかして。ものすごい魔法の才能があるのか。
アヤタカの、学校に行くことで伸びるだろうその技量に、フレイヤは思わず身震いした。
「フレイヤ!」
そんな最中、その操り手に名前を呼ばれた。ハッと意識が戻る。
「お前、私のこと覚えて……」
「あぁ、とりあえず忘れたふりしてた! どうしてか分かんないけど、記憶消去とやらの魔法、全っ然効いてない!」
アヤタカの手の甲からは、あの偽物のエンブレムは消えていた。絵描きによって記され、全てが始まった、あの原因のエンブレム。
風の音に負けないよう、二体の声が自然と大きくなる。
アヤタカが吠える。
「大体よー、最初っから滲み出てるんだよフレイヤは! 嫌だ、姿や記憶を取られたくないって! なのにヤケクソみたいな感じで諦めて! さっきだってそうだよ、あんなに未練たらたらで行こうなんて! そんな顔で、行かせるかよ! このバカ! バーカ! バーカ!」
フレイヤは初めてアヤタカに声を荒げられた。風の音に負けないようにかもしれないが、緊張のあまり声がこわばってのことかもしれないが。その声に、フレイヤは反射的に叫びかえしていた。
「誰がバカだ! お前の方がバカっぽいだろバカ!」
「バカ!」
「このバカ!」
「ハゲ!」
「死ね!」
「し、死ねはないだろうフレイヤ!」
「お前こそハゲってなんだ! 殺すぞ!」
槍の上では罵倒が飛び交う。
ややあって、アヤタカが話を切り出した。
「いいか、フレイヤ。今のフレイヤはさらわれたていってやつだ。戻りたいならおれをいつもみたいに殴って戻ればいい! だけど、もし転生の儀が嫌なら! このままおれに連れ去られてろ!」
ゴウッと、アヤタカの声に呼応するかのように、槍の速さも増した。
「選べ、フレイヤ!」
薄暗い、ひんやりとした廊下を疾駆する槍。
横から差すわずかな光は、眩さのあまり白かった。
その光の筋を通り抜けるたび、槍は白銀に輝く。
フレイヤはようやく口を開いた。
「校長先生に昨日会って……!」
アヤタカが、耳を澄ませるのが分かった。
「私は、お前と同じようなことを言ってきた、彼の助けを断った。」
また槍が影に遮られては、光の筋に当たってを繰り返す。
「怖かったから。そうしてもらえただけの恩を返しきる自信がなかったから。」
そして、とフレイヤは付け足した。
「元の生活に戻れたとしても、もうお前に合わせる顔がないと思ったから。わ、私はひどく身勝手な姿を見せたあげく、お前を、その、傷つけた。お前がお前のことを話した時に。だから。」
アヤタカが、ちらりとフレイヤを見た。その顔を見るのが怖くて、フレイヤは目を逸らした。
「お前が私を許してくれるなら、私は逃げる方を、選びたい。と、思う。」
何度もつっかえながら、ようやくフレイヤはそれを言った。
途端、槍にかかっていたアヤタカの魔法がぐにゃぐにゃになった。槍がかなり不安定に揺れだす。
「わっ! おまえ、何してっ」
思わずフレイヤが叫ぶと、アヤタカからぐすん、という音が聞こえた。
眉間にしわを寄せるフレイヤ。対して話し始めるアヤタカ。
「あのフレイヤから、そんな言葉が出るなんて……。やばい、おれちょっと泣きそうだよ……」
フレイヤはその言葉に、つい背中をどつきたくなった。
「お前は私の親か何かか! 一体どういう立ち位置のつもりだ、お前は。」
「友達だよ。」
間髪入れずに答えたアヤタカの言葉に、二体の間は しん、と静まった。
そして一瞬だけ顔を見合わせ、お互いに にっと笑った。
「……行こう」
どちらかが言ったその言葉を境に、槍はまた全速力で進み始めた。
剣
大理石が整然と敷き詰められた、広々とした廊下。空の甲冑とそれが持つ、元来使い手はいないだろう長い剣が、死んだように並んでいる。窓からの光すら差してこない場所から、何も言わずにこっちを見つめてくる。
それはまるで今まで王の仮面にされ、周りから、そして自分にすらも忘れ去られていったかつての者たちのようだ。
天井近くの壁には、穴のような小さな窓がたくさん並んでいる。そのような明かり取りがたくさんあるにも関わらず、廊下に光はほとんど入っていない。
そこからかろうじて床や壁に差す細い光の筋をかいくぐって、薄暗いひんやりとした空気の中を突っ切っていく銀光と人影。
その人影の片方が、ヴェールをドレスのようにはためかせながら、言葉を喋っていた。
「いいかサイオウ。見て分かる通り、ここは城とは違うし王の秘密を知っている者なんて限られているから兵士もあまり用意されていない! 反逆者だって出たことがないから戦い慣れもしていない! 何なら全員爆破させたって……」
「ぶ、物騒なこと言うなよ! 違う罪で捕まるぞ! それに、子どもが大人にかなうと思うなよ! 優秀でも、やっぱり自分たちより長く生きてる大人をなめちゃだめだ。痛い目見せられるぞ!」
「……意外だな」
――おれたちならできる! とか、根拠のない励ましを堂々とするタイプかと思っていたのに。
アヤタカは続ける。
「見た限りでは、きっとあいつらはフレイヤのことだけは殺せないし、傷つけることもできない。できたら、あんまりおれから離れないで。おれあんまりやられたくないから。」
「ださいな」
「今そんなこと言ってる場合じゃないから! ださくていいからおれのこと身をていして守ってね」
「情けないな」
「だから、攻撃に関してはあんまりあっちも本気を出せないと思っていいと思うんだ。だからそこを突く。とにかく速いスピードでここから逃げる、それだけ!」
アヤタカの言葉に、フレイヤは 分かった、と呟いた。
「あとは、魔力無効化だっけ? あれだけ気をつけよう。あれも当たらないよう箒を速く動かすってことが……。なぁ、なんかあの魔法って対抗できる魔法あるの?」
「知らない」
この国は独自の魔法を発展させてるから、対応策が教科書に載っているわけじゃない。アヤタカは、じゃあもうとにかく気をつけよう、と言った。
「でもドンパチやるのは本当に最後の手段だ。このまま逃げも隠れもして無事にこの国から出るぞ!」
フレイヤは、この国を出て外国にいけば、もうオミクレイ国は自分たちに手出しができないことを分かっていながら、わざと聞いてみた。
「この国から出たところで、安全って保証はあるのか。外国で捕まるだけじゃないのか。」
それに対してアヤタカは答える。
「大丈夫! 領事裁判権だか関税自主権だかがここにはあるだか無いだかしてるから、とりあえず外国に行っちゃえば大丈夫!」
――なんだ、知ってたのか。
フレイヤはどこかがっかりした思いを抱えながらも、その二つの単語の音に、記憶を掘り起こされた。
「それ、社会の授業でまとめて覚えさせられる二つじゃないか。どっちがどっちか分からなくなる……」
「分かる!? どっちが税金のやつだっけ!」
「関税自主権」
「それー!」
アヤタカの声に呼応するように、槍がぐわんと揺れた。集中力に比例している魔法の精度。アヤタカは集中し直す。
「とにかく。おれはフレイヤを人質にとって、なるべく物騒に見えるこけおどし作戦使うから。」
――こいつ、捕まってる間? にいろいろ考えてたんだな。
そんなことを思いながら、フレイヤは問いかけた。
「こけおどし? 魔法をガンガン打つのか。」
「それはちょっと……。器物損害とかいうのは避けたいかな……。だから、そうしなくてもこけおどせる良いアイディアが」
バゴン! という音とともに、爆発するような勢いで後ろの扉が開いた。
反射的に振り向くアヤタカとフレイヤ。
そこにいたのは魔法の絨毯を五体一組で操る家来たち。扉から、蜘蛛の子を散らすように家来たちが飛び出してくる。その絨毯の数はおよそ十。つまり五十体の精霊体が来た。
鋭くアヤタカが叫んだ。
「五体のうち、絨毯を操っているのが三体。後ろで魔法を詠唱してるのが二体!」
フレイヤはその言葉に目を丸くした。
――発動している魔法まで分かるのか!?
アヤタカは続ける。
「それもやっぱり、実践慣れしてない。あの家来さんたち、エリートではあるっぽいけど……。早めに心を折った方が良さそう」
――こいつ、意外とえげつないこと言うな。
魔法の絨毯は操縦が難しいぶん、スピードが速い。
――確か教科書では、真ん中の一体が前進を勤めてて、後の二体がバランスをとっていたはず。
フレイヤは舌で唇をちろりと舐めた。
――それなら、詠唱している奴よりも絨毯を操る奴をやった方が時間稼ぎになるか。
フレイヤの体内で魔法が練られる。それを炎に変換しようとしたその時。
「フレイヤ! 乗り物の方、任せた!」
急に振られた物体浮遊術の主導権。
飛びながら操り手を交代する、というのは至難の技だった。受け渡しの時に力加減や息を合わせる技術は、なかなかの練習が必要だ。
――そんなこと、こんな即席でできるか!?
すると、フレイヤの左足に、家来たちからの衝撃魔法が放たれた。
すんでのところでアヤタカがスピードを上げ、魔法はフレイヤの左足ではなく冷たい床を貫通した。ガツッという硬質な音を立て、大理石が砕け欠片をばら撒く。
アヤタカの予想は外れた。周りからは、今も衝撃魔法が撃たれている。
――いや、泣き言を言っている場合じゃない、やるしかない!
フレイヤは覚悟を決め、恐れと気合の中、空中での手綱の受け渡しに挑んだ。アヤタカの魔法が緩み、フレイヤの魔法が槍に伸びた。すると、槍はまるで主人以外に手綱を引かれ、いやいやと駄々をこねる馬のようにぐわんぐわんと動く。
次の瞬間、アヤタカはその手綱を全てフレイヤに預けた。
その途端さらに槍のバランスが崩れ、二体の視界と重力がめちゃくちゃになる。振り落とされる恐怖に、更にフレイヤの魔法がぎこちなくなり激しく揺れる。
アヤタカは槍から魔法の手を離した瞬間、もうそれを意識の外に締め出した。不安定な足場はもう、関係ない。
海の中に潜るように、深く深く意識が心の奥へと入っていく。
周りの空間に、自分の神経――魔力の糸が張り巡らされているかのような感覚。
――いける、意識が研ぎ澄まされてる。
――『これ』を実現するには何をどうすればいいのか、今、不思議なほどはっきり分かる。
――何でこんなに冷静なんだろう。周りがよく見える、分かる。心のどこかで今の状況が怖いって感じてるはずなのに。でも、この異常なくらい研ぎ澄まされた不思議な感覚に……
恐怖の中で冴え渡る感覚、思わずそれに覚えた、心地よさ。
ピィイ……ン
高く、アヤタカの爪弾く音が鳴り響く。儚い音は魔力を携えながら、部屋中へと染み渡った。
ガシャ、ガシャン。
いくつも重なり合った、金属が鳴る重厚な音。
ようやく槍の手綱が取れてきたフレイヤ。首元の汗を拭いながら、その音のした方を見やる。
宙に浮かぶ、無数の剣。
自分たちの周りには、控え、隊列を組むかのように。追いかけてくる剣たちが舞っていた。
わずかに切れ気味になってきた息と一緒に、フレイヤは思わず声を出していた。
「複数の……物体浮遊術……!? お前、いつの間にこんな……。」
前に座る亜麻色の髪に問いを投げかけたが、目の前の相手は答えない。肩をいからせ、汗が伝い、血管の浮き出る腕を見た時、フレイヤは話しかけるのをやめた。
――複数のものを同じ動きで操るならともかく、今のあの剣たちは、それぞれ別の動きをしている……。別々に操っているんだ。……複雑な魔法だ。
――どうやって制御をしているんだこいつは。
周りの兵士たちにも、動揺の空気が流れる。その兵士の攻撃魔法が途切れた一瞬の隙を狙って、その剣たちは一斉に魔法の絨毯へと切り込んだ。
対応しきれなかった精霊体と操る魔法の絨毯が、いくつかその剣に打たれた。魔法の絨毯が、剣に刺されて床へと磔になる。剣は真剣ではなかったらしく、魔法の絨毯が破けたり貫かれたりすることはなかった。
いくつかの絨毯の動きが止まる。もう一度体制を立て直して出発するには、若干の時間がかかる。
まだ残る剣は、まるで威嚇するように、残る魔法の絨毯に切っ先を向けている。絨毯の操縦の手が、若干不安定になる。
果てにはアヤタカの髪の毛の一本一本にも魔力が及び、髪は魔力を帯びた時特有の、ぶわっと空中に広がった形となっていた。髪には魔法の残滓である、きらきらとした光の粒が付いている。
アヤタカの口から、荒い吐息が漏れ出ていた。
――あまり長い間はもたない。
フレイヤはそう直感し、槍を進める手を急いだ。
ぐんっと急に速度が出て、一瞬アヤタカの体が傾く。フレイヤはアヤタカが傾いた方向の膝をさっと上げ、アヤタカの脇腹あたりを蹴って体制を戻してやった。
しかしそれでもアヤタカの操る無数の剣だけは、傾いた時も蹴られた時も全く揺らぐことはなかった。
アヤタカの言っていた、「こけおどしの作戦」。
当のアヤタカ的にはぎりぎりなのかもしれなかったが、フレイヤから見ても、この魔法は無敵のように錯覚させられた。
今も剣は、一斉に魔法の絨毯やそれを操る精霊体を叩き落とそうと、ものすごい速さと数で突っ込んでいく。
その勢いに恐怖し、家来たちは明らかに逃げ腰になっていた。
これがこけおどしだろうとも、今確かに、アヤタカは家来たちを押していた。
フレイヤの目の端で、剣光がちらついている。
目の前にある亜麻色の髪に通る魔力も、廊下の窓から差し込む細い光の筋も輝いている。
王宮の道。頼もしい剣たちが、自由に生きる道を拓いてくれている。自分は迷いなくそこを疾駆している。
その瞬間確かにフレイヤは、世界が輝いて見えた。
しかし後ろでは、魔力無効化の魔法の準備が着々と進んでいた。
アヤタカ14 「オミクレイ国」