アヤタカⅩⅢ「アポロンとの約束」
窓辺のスズランを朝の風がかすかに揺らす。 スズランの花は、 朝日に溶け込むかのように白く輝いていた。
そよ風に吹かれるレースのカーテンがふわりとはためき、 廊下に真っ白な朝の光が差す。
日陰になった廊下の向こう側から、 伸びをした少年がぺたぺたと歩いてきた。 亜麻色の髪が光を浴び、 光を透かして白く輝く。
少年は窓辺に立ち、 ぐっと気持ち良さそうに伸びをした。 彼の名はアヤタカ、 太陽より生まれた精霊であった。
「あー、 晴れた、晴れた……。」
伸びをとき、 窓のさっしに肘をかけた。 肌にあたる太陽のじんわりとしたぬくもりに、 ふう、 と満足気なため息を漏らす。
「極楽極楽……。」
そのまま心地よさそうに自分の腕に顔をうずめ、 窓辺に突っ伏してくつろいでいた。
今日は休日、 そしてアヤタカがアポロンの部屋に遊びに行くという約束の日取りであった。
アポロンとは光の間で会ったアヤタカの先輩で、 誰でも平等に優しく接する人気者だ。 アヤタカは当初、 アポロンに食い気味な態度をとっていたが、 相手が自分に好意的だと知ってから手のひらを返し、 結局は仲良しになった。
とうとう約束の日が来て、 アヤタカは楽しみなものの、 同時にあれ以来話をしていないので相手の気が変わっていないかという一抹の不安があった。
そんな不安を他所に時間は刻々と過ぎ、 約束の時間へと近づいていった。 あれからアヤタカは同級生たちと露店広場へ繰り出し、 そこでパンを買い食いをしていた。 アヤタカはクルミパンを買い、 中でも焼き立てを選んだため、 中のクルミもまだ少し熱をはらんでいて美味しかった。 最後の一口を強引に詰め込み、 やや急ぎ足で食べ終えたアヤタカは先に失礼した。 まだ呑み込めていないクルミパンをもごもごさせて、 アヤタカはアポロンの部屋のある塔へと向かった。
そして現在。 彼はすでにアポロンの部屋の前で立っている。 緊張しながらコン、 コンと軽いノックをした。
「……あれ。」
一向に返事が返ってこない上、 誰かいる気配すら感じられない。
――忘れられちゃった? すっぽかされた? もしくはあの約束はやっぱり夢だったんだろうか?
「その部屋の男の子、 今日出かけてるよ。」
後ろから唐突にかけられた声は、 約束が破られたことへの切ない太鼓判を優しげに押した。 アヤタカは半目の半笑いで振り向き、 後ろの男子学生にお礼を言った。
「ありがアポロン先輩っ!?」
後ろに居たのは、 朗らかな笑みを浮かべた、 コーヒーカップをふたつ手にした少年。 彼の名はアポロン、 アヤタカの約束していた先輩であった。
「いやー、 ごめんね。 丁度コーヒーを淹れに行ってたんだ。 待った?」
アポロンは勉強机の前にある椅子をくるりと回転させ、 机に背中を向けた状態で椅子に腰掛けていた。 右手に持ったコーヒーカップからは、 湯気がたっている。
「いえ、 むしろありがとうございます。 俺の分まで用意してもらっちゃって…。」
アヤタカは今日のために用意してくれたらしい、 学校で貸し出される折りたたみ式の椅子に腰掛け、 両手でコーヒーカップを持っていた。
アポロンはあまり家具を置かない性質らしく、 家具も飾り気の無いシンプルな造りであったため小ざっぱりした部屋にだった。
特に色に統一性はなく、 強いて言うならば黒や茶、 白が多めであり、 机には割と乱雑にプリントやらが置いてあった。 多少散らかっている粗雑さはあれど、 一応整理されているらしい部屋だ。
――なんか、 男の子の部屋……って感じだなあ。
感想が女子のようだったアヤタカは、 後から自分で突っ込んだ。 そして自分の意図していなかったボケに、 正確に突っ込めたことを我ながら賛美して、 自分独りで心の中で笑っていた。
「アヤタカ君?」
「わ、 はいっ!?」
アポロンの声で自分の世界から突然引っ張り出されたアヤタカは、 反応した弾みで持っていたコーヒーが少し波立った。
「……大丈夫? もしかしてコーヒー、 苦手だった……?」
「い、 いえっ! そんなことないです! いただきます……。」
アポロンは、 アヤタカが自分のお気に入りのコーヒーを飲んでいるのを見て満足げに微笑んだ。 学校は慣れた? など当たり障りの無い質問から会話は始まり、 次第に話が弾んでいった。
コーヒーカップの中身が半分ほどになった頃、 とんとんと控えめなノックの音が二体の会話をせき止めた。
アポロンが首をかしげながら ごめんね、 と言ってドアに向かう。 アポロンは体を横にしながら、 アヤタカの脇を通り過ぎようとする。 アポロンの邪魔にならないよう、 アヤタカは体を少し左に寄せた。
アポロンが はい、 と返事をしてガチャリとドアを開けると、 そこには肩のあたりで黒い髪を切り揃えた、 大人しそうな女子学生が立っていた。
アヤタカは体をねじりながら後ろに傾けて、 アポロンの背中に隠れかけた訪問者を見ていた。 すると女子学生と目が合い、 アヤタカの存在に気づいた彼女は げっ、 という顔をした。
しかし彼女は後には引けない。 顔を真っ赤にして、 うわずったままの声を振り絞る。
「あ、 あのっ! アポロン先輩! わ、 私、 1年前の学年混合授業の時に話したこと……!」
そこで彼女は ばっ!と後ろに隠していたらしい、 小さな可愛らしい小包を胸の辺りまで持ち上げた。
「そ、 そそそれであの、 これをぁあぁぁああ!!!」
彼女はそこまで言った所で、 恥ずかしさに耐えられなくなり逃げてしまった。
アヤタカがドアから ひょこっと顔を出すと、 廊下に投げつけられた小包と、 走り去る純情な女生徒の後ろ姿が見えた。
あっけに取られているアヤタカの後ろで、 アポロンがひょい、 とプレゼントを摘まんで左手に乗せる。
甘酸っぱい状況を見せられて、 部屋は若干の気まずい空気が流れた。 しかし当のアポロンはひとつも動じていない。 ぱたむ、 と静かにドアを閉め、 すたすたと机へ歩いて彼女の置き土産を机に置いた。
未だにドアの前で立ち尽くしているアヤタカが、 表情を硬くして言いにくそうに口を開いた。
「あ、 あの……えっとその、 先輩もあるんですか? そういうのというか……その……。」
何を言いたいのか察したアポロンは、 言い淀んでいるアヤタカに助け舟を出すように口を開いた。
「うーん、 無いかな。 ぼくは恋愛の感情を持っていないからさ。」
アヤタカがほっとしたように ぱあっと顔を明るくする。 そして意気揚々として元の椅子に腰を下ろした。
「おれもです! よかった、 仲間で。 そういう感情はちょっと……持ちたくないというか!」
アヤタカたち精霊体は光や水から生まれるため、 基本的には彼らが子を成すことはない。 従って恋愛という概念を持たない者が多々存在する。 そのため、 恋愛は下心から生まれる恥ずかしい感情だと捉えている者がいる。 特に太陽などの光や炎、 水などは元から子孫を残すことが無い物体なため、 特に恋愛の概念を持たないものが多い。 しかし、 恋愛の概念を持っている精霊体も当然存在した。 例えば植物の精霊体などは、 植物自体が子孫を残す物体であるため恋愛の概念を持っている者が多かった。 そして、 もし精霊体の間で命が紡がれるようなことがあれば、 その子供は精霊ではなく人間として人間界に産み落とされた。
アヤタカは恋愛に対して、 個人の自由だとは理解しつつもどうしても拭えない嫌悪感があった。
――どうしてわざわざ醜い争いを起こす感情を持とうとするんだ。 愛するだけなら平和なのに、 どうして恋に変えて愛情を蝕むような真似をするんだ。
それが、 彼の恋愛に対する建前の理由だった。 本当のところは、 アヤタカはただただ卑猥なものを生理的に受け付けないだけであった。 物語で公序良俗に反する場面がでてくれば、 三日はショックから立ち直れない。 ふとした瞬間にそれを思い出してしまえば激しく気分が滅入る。 周りから色恋沙汰の話を振られれば舌打ちだ。
よく言えば純粋、 悪く言えば非常に面倒臭いアヤタカは他人に降りかかった出来事であろうとも、 今目の前で起こっていた慣れない場面に少しのダメージを受けていた。
アヤタカは ふっとアポロンの机の上に目がいった。 そこには、 プリントに隠された無数のプレゼントが置かれていたのだ。 アヤタカは さっと顔色が失せる。
何食わぬ顔でコーヒーを飲んでいるアポロンに、 アヤタカはおそるおそる尋ねてみた。
「あの……先輩は、 嫌じゃないんですか……? そういう感情を持たれたりしたら、 傷つきません?」
その言葉を聞いたアポロンが、 微かに表情を変えてアヤタカを見る。 自分の発言に多少の後ろめたさがあったアヤタカは、 目を合わせて居られなくなった。
アポロンは少し目を伏せて、 少しだけ悲しそうに笑った。
「……好いてくれた相手に、 そんな風に思っちゃ可哀想だよ。 きっと、 自分よりも相手の方が傷ついてるんじゃないかな。 恋愛感情を持てないのは仕方がないけど、 それを嫌がったりはしたくないな。」
アヤタカに、 その言葉のひとつひとつが ぐさぐさと刺さった。
――ポロン先輩、 さっきの子のことを気遣う上に、 それを非難した自分のことも気遣いながら話してくれてる。
アポロンの全てを受け入れるような懐の広さに、 自分の矮小さが際立った気がした。 しかしそれを分かっていながらも、アヤタカはどうしても恋愛に対する嫌悪感を捨てきれない。 窓から零れ落ちる光の粒がアポロンの後光と区別がつかなくなってきた頃、 アポロンが ぎっと椅子の背もたれに寄りかかった。
「……ねえ、 アヤタカ君。 さっきの話の続きなんだけどね、 君は ”世界の監視者” って聞いたことある?」
世界の監視者、 それはかつてミザリー先生と校長先生の話に出てきた謎めいた単語だ。 そしてその会話の中では、 アヤタカとアポロンもその監視者に含まれているらしかった。
アヤタカは口に含んでいたコーヒーを、 大きな動作でごくりと飲み下し、 再び目を上げては訝しげにぱちぱちと瞬きをした。
「いや、 初めて聞きました。 なんだか、 危険思想の集まりみたいな名前ですね……。」
アポロンはコーヒーを口元に運んだまま、 ふふっと微かに笑った。
「そうだね。 ある意味そうかも。 でも、 君は特にこの存在を知っておいて欲しいんだ。 あのね、 世界の監視者っていうのは、 光の間で一番明るいところに行ける精霊体のことを言うんだ。」
アポロンの顔には相変わらず優しい微笑が浮かんでいて、 どんな話をしていてもそれは変わらない。
「そして、 人を助けるためだけに生まれた存在、 なんて言われてる。 自己犠牲、 博愛精神の象徴……だとかね。」
アヤタカはいまひとつ言いたいことを掴めていない顔で微笑を浮かべ、 カップの中身をくるくる回している。
「へぇ……。 なんか、 随分遠い世界の精霊の話ですね……。」
「ぼくたちのことだよ。」
「……んふっ?」
唐突な振りに、 アヤタカはつい変な声で笑ってしまった。
――何でだろう、 テストで良い結果が貼り出された時とかの、 つい出ちゃうよく分からない笑いが止まらない。
「や、 ごめんなさい、 バカにしてるとかじゃ無くて……、 ちょっといきなりだったんで笑っちゃって。」
アポロンは相変わらず穏やかな笑顔のまま、 組んだ指を膝に置いた。
「いやいや、 ちょっと話を飛ばしすぎたね。 えっと、 今回のことで伝えたかったのは、 信じるとか信じないとかじゃなくて、 気をつけて欲しいってことなんだ。」
「え?」
カーテンを透かし、 差し込んでくる日差しが一瞬だけ強くなる。 部屋に潜む影が色濃く染まった。 初めて話した時のような、 爛々とした目が逆光の中で光る。
「迷信に振り回された大人たちが、 ”世界の監視者” とやらを求めて近づいてくることがある。
特に、 ここの教員には決して気を許しちゃいけないよ。 ここの教員たちは、 生徒に名誉のために命を削れと教えたような奴ら――そしてそれを教えられた世代だ。 ……彼らの言う、 名誉や誇りを信じてはいけない。 言葉の裏にどんな魂胆があるか、 分かったものじゃない……。
とにかく、 世界の監視者だとかの真偽はどうであれ、 光の間の最高位に行けることは言わない方が良い。 その位を利用したがる奴らは、 この時代にもたくさんいるんだ……。」
アヤタカは物騒な話に体をぶるっと震わせた。 そして、アポロンはアヤタカが話の途中から様子がおかしかったことに気が付いていた。 アヤタカは視線があらぬ方向に彷徨い、 落ち着きをまるでなくしていた。 話を早めに切り上げ、 動揺するアヤタカに声をかける。
「どうしたの?」
「えっ! ……や、 えっと、 光の間のこと、 実はミザリー先生から聞かれてて……それでおれ、 喋っちゃって……。」
動揺の理由はそこではなく、 アポロンもいたとばらしたことであったが、 それは言わないでおいた。
「あぁ……。 ミザリー先生か。 彼女には、 ぼくも何度か聞かれたよ。 聞かれた……って言うよりは、 探られたって感じだけどね。 でも、 多分あっちはもう分かってる。 確認を取っているだけだ。 本によると、 だけど敏感な精霊体には生気というものが見えているらしくてね、 その生気でもう分かっちゃうんだって。 光の間のどこの位にいるのか。」
アヤタカは、 顔では驚きつつも心の中でほっとしていた。
――よかった、 全部おれのせいって訳じゃ無さそうだ……。 それにやっぱり言っちゃったこと、 言わないでおいて良かった……。
顔に若干の安堵が滲み出ているアヤタカは、 精一杯弾みそうな所を抑えた声で返した。
「いやー、 そうなんですか。 だだ漏れですね。 それは。 怖いなあ、 見抜いちゃうのか!」
「うん、 だからあの先生には気を許さないでね。 君なら大丈夫だろうけど、 あの先生は魅了の属性の気があるから。」
「え? そうだったんですか?」
――魅了の属性……恋愛感情のある精霊体はあの先生の虜になりやすいのか。 テッチはもう手遅れだな。
アヤタカは彼女が天性の魅了体質であることにテッチを通して納得した。
そうしているうちにやがて日も傾き始め、 アヤタカは名残惜しいがアポロンの部屋からおいとますることにした。 思いの外話が弾んだ二体は、 次に会う日取りをもう決めておくことにした。 女子学生の逃げた方向と同じ方向へ進んでいくアヤタカを、 アポロンは最後までまで見送っていた。
傾いた陽に照らされ、 アポロンはもう誰もいない、 アヤタカが去っていった方向をじっと見つめている。 光の間でアヤタカを送った時と同じ構図で、 光だけがあの時と反対を向いて差し込んでいる。
「君なら、 きっと選んでくれる……。」
かつて光の間に揺蕩った言葉と、 同じ言葉が彼の唇から零れる。あの時は見えなかったアポロンの表情が、 逆向きに差した光に照らされ黄金色に浮かび上がった。
笑っている。
とても悲しそうに、 そして何かにすがりつくように。
「だって、 そっくりだから……。」
俯いて、 もうその顔は陰に隠れて見えない。 すっと彼が姿勢を戻した時には、 いつもの穏やかな顔に戻っていた。
そのまま彼は光から背を向けて歩き出した。
りいぃ……ん、 りいぃ……ん。
トライアングルのように軽やかな音が部屋に響く。 ぱたぱたと部屋にいる誰かが、 音の出所へと手を伸ばした。
音を鳴らしているのは、 黄金の杯であった。 杯が体を震わせる度、 あの高く澄んだ音が響く。
ちぃん、 と指先でそっと突つくとその音は止み、 今度はその杯から男の低い声が響いた。
『もしもし? ラズィク校長先生でいらっしゃいますか?』
「はい、 オミクレイ国の方ですな。」
電話を取ったその人は、 神秘的なスモークブルーの瞳を細める。 アヤタカの通う魔法学校校長、 ラズィク・レマンネ校長であった。
『ラズィク校長、 状況が変わり、 急を要する事態となりました。 彼を引き渡して貰います。 来週、 迎えの車が参りますので、 訪問の許可を頂きたい。』
ラズィク校長の目から すっと光が消える。
澄み渡った杯の音に連れられて、 とある精霊の物語が幕開けを迎える。
アヤタカⅩⅢ「アポロンとの約束」