アヤタカⅫ 「呪文学」
風はまだ春の名残を惜しむように冷たいままだが、 日に日に陽射しは強くなっていく。 春の気配は、 今夏へと変わり始めていた。 その日の空は清々しいほど晴れ渡っており、 肌に当たる太陽の光は暖かい。 しかしまだ風は冷たく吹き、 肌に触れる日差しの暖かさを吹き飛ばす。
アヤタカは暖かい陽射しにも、 それに対抗してくる冷たい風、 何もかもに煩わしさを感じていた。 それどころか筆箱が見つからなければ激しく気分を害し、 人とすれ違うだけでかなり神経に触った。
その理由は先日、 ストロ先生の道場に行った時のことだった。
彼はストロ先生に言われた型をテッチと真似をして、 何度か先生に投げ飛ばされては冷たく硬い石に背中を叩きつけられた。
――泣き言だって漏らさなかったし真面目にやっていた。 二体とも能力も真面目さも同じくらいだったと思う。 でも……。
ストロ先生はテッチだけを子供にしてアヤタカの道場入門を断った。
「何が気に入らなかったんだ……。最初の一言からだったのか?」
アヤタカはテッチとストロ先生に教えを請う際、 テッチが「何でもするので弟子にしてください!」と言ったのに対して、 アヤタカは「先生の暇なときでいいので体育を教えてください!」と頼んだ。 そこで先生にやる気の有無を判断されてしまったのかもしれない。 しかしアヤタカも言い訳の余地があるのならば、 それはテッチが言った弟子という言葉の気恥ずかしさと、 図々しいことは承知の気遣いだったと言いたかった。 彼はそこでもう決まっていたなどとは考えたくなかったが、 それとは別にどうしても拭えないひとつの嫌な想像が頭から離れなかった。
――ショウは言わないでも面倒見の良いみんなから好かれるやつだ。 テッチも良いやつで聞き上手だし、 面倒な相手にも上手く立ち回る能力がある。もし……。
アヤタカは、 自分の人徳が先生のお眼鏡にかなわなかったからだったらどうしよう、 そればかりを考えていた。 そして彼は、 これをストロ先生の人格を疑うような推測だと考えている。 このような失礼なことは考えたく無いらしいが、 どうしてもアヤタカはその不安に打ち勝てず、 考えることを止められない。 不安と罪悪感に嫌気がさしたアヤタカは、 ふーっと重いため息をついた。
「うるっさいわねー。 授業中私にグチの手紙なんか回さないでよ。 休み時間まで我慢できないわけ?」
ラムーンが小さな声で不平を漏らす。
アヤタカは、 自分の後ろに座っているラムーンに、 この前のことを紙に書いてぼやいていた。 今は適当な男子の隣にいるため、 ラムーンは隣にいない。 なのでラムーンに小声でその話をすることもできず、 仕方がないので紙に書いて送っていた。
ラムーンは左手で頬杖をつき、 右手でアヤタカの送った手紙をぴらぴらとひけらかす。 そして、 じろりとアヤタカを見た。
「私は授業中こういうことするのは嫌いなの、 平気でそういうことする奴もよ。」
アヤタカとラムーンは一気に一種即発の雰囲気になり、 またもやお互いの授業妨害が始まろうとしていた。
今の授業は「呪文学」、 名の通り呪文を使った魔法の勉強である。
この世界での呪文とは大体が決まった音の数で構成されており、 その数は5、7、5が最も構成しやすい呪文の形であった。 武具装備の授業を担当していたミザリー先生も、 一度学生の前で基本呪文句を唱えており、 あれはミザリー先生が自分の使いやすいようにアレンジした、 彼女だけの呪文句である。
呪文句にも決まりがあり、 句の中に属性を表した言葉を組み込まなくてはならない。 例えば植物の魔法ならば花の名前や木という言葉、 というように、 植物に関係のある言葉を入れる。 もしくはアヤタカなら太陽であるように、 自分の種族を句に組み込む方法もある。何にせよ、 必ず何らかの属性であるものを呪文句の中に入れることが原則である。
呪文を唱えずとも魔法は使えるが、 ある方が便利だった。 その理由は、 例えばこの前の爪弾き学でフレイヤが作っていた、 大きさの違うふたつの火球を使い分けたいとする。 呪文句なしだと頭の中で一回一回構成の仕方から大きさまで細かく頭に思い浮かべる必要がある。 しかし呪文句があれば細かい魔法の情報は全て呪文句に組み込んであるので、 毎度のように自分で頭にその情報を思い浮かべずとも、 代わりに言葉が情報を補完してくれる。 従って、 簡単に思い浮かべるだけで魔法が発動できた。 個人が作った呪文句は、 本人が分かりやすいように構成されているため、 関係性があまり分からない呪文句も多い。
情報をひとつひとつ思い浮かべなくとも発動できる程その魔法が自分のものになれば、 その時はもう呪文句もいらなくなり魔法の発動の速さもぐんと上がる。
尚、 呪文学の先生はまるで霧のように影が薄い先生だ。 少し目を離せば、 途端に先生の面影が頭から消えていった。
優しげで静かな彼は生徒たちから幻覚先生と呼ばれていて、 授業以外で見かけることができた日は良いことがある、 幻覚先生が食事をしているところを見た者は幸せになれる、 などと色々な逸話が作られていた。
幻覚先生は今、 初歩的な呪文句の説明をつらつらと並べている。 学生たちは、 黒板に字を書く音と、 教科書をめくる音だけに反応をする、 上の空の境地にまで辿り着き、 次第に幻覚先生の声が白昼夢の幻聴と区別がつかなくなる。
ふっと、 前からプリントが配られる気配がして大多数の生徒が我に帰った。
幻覚先生が身にまとっている深い森の色をしたローブが学生たちの目の前を横切る。 プリントが後ろに回される音とさわさわ話す声が治まりかけた時、 先生が説明を始めた。
まず、 配られたプリントの表には文字と図を描くための枠、 裏は表の印刷とほとんど同じなものの、 少しのメモ書きと表では空白であった枠に図が描かれている。 これは今回の授業の課題である、 自分で簡単な魔法を考えてそれを呪文句にする練習だ。 時間が余れば呪文句を唱えてその魔法の練習をし、 もし成功したら点数が加算される。
アヤタカは、 それなら自分の得意なものにしようと考えた。
この授業も初めは「自分の考えた魔法に呼び名をつけるなんて何だか冒険譚のお話みたいだ」とわくわくしていたものの、 基礎の知識や不自由な実態に辟易としてしまった。 なので自分だけのかっこいい魔法を考える気も失せ、 それなりに普通の出来でそれなりに自分の個性を出したそれなりな評価が貰えそうな魔法を作ろうと思っていた。
幻覚先生の描いた図は非常に下手で、 説明をされるまで何を描こうとした四角や丸なのかが全く分からなかった。
それは先生が爪弾いて風を起こし窓を開けている絵らしい。 人の体はバルーンアートのようで、 四角が三つ並べられている図は開いた窓であった。
そして下には呪文句、 呪文句の説明、 どのような用途の魔法かということが走り書きのように書かれている。
『風の弾 砲門は窓 発射せよ』
『窓を砲門に見立てて空気砲を発射』『風を使って、 手を使わずに窓を開けられる便利な魔法』
これは先生曰く学生の頃に作った魔法らしく、 毎年授業ではこの呪文を生徒の参考として扱っている。
丁度良いくらいに簡単でユーモアがあるため、 生徒へ自由に作ってみて良いんだよ、 ということを啓発することができる。
――ほう、 こんな魔法を作っても良いのか。
相変わらずここの生徒たちは教師の意図を汲み取ることに長けており、 もしくは単純でまたエサに引っかかった生徒らは教師の目論見通りに面白みのある魔法を作ることを目指した。
アヤタカも教師の意図を汲み取ることにかけては非常に優秀であったため、 自分の個性を生かせる魔法を考えることにした。
空気は割とすぐに静まり、 万年筆を動かす音や紙をめくる音だけが教室に響き、 時折小さくケホン、 と咳が聞こえた。
午後の空はいつの間にか水彩画のような曇り空に変わっており、 窓の外にかすかな雨の気配を感じる。
曇天により暗くなってきた教室を、 見るに見かねた先生がシャンデリアに光魔法をかけた。
すると繊細な光の粒がぱぁっと降り注ぎ、 生徒たちの手元を川のせせらぎのような光が通り過ぎる。 シャンデリアは優しい色合いの光をガラスの体にため込んでは、 光を宝石のように固めて教室中にしゃらんとばら撒く。
アヤタカはくるくる回るその光を眺めているうちに、 ふっと初めて受けた模擬授業のことを思い出した。
わざとらしい髪型をした先生が見せた華麗な物体浮遊術、 惑星が弧を描いて空に飛翔していく様はそれこそ幻想の世界のようだった。 アヤタカはあれと同じことができないかと思い構想を練ってみる。
まずは教科書で「物体浮遊術」の項目を調べると、 呪文句に使えるいくつかの物体浮遊術の魔法に繋がる言葉がでてきた。
力、重力、太陽……。
単語を斜め読みしていると、 ふっと目に「銀河」という文字が目に入った。
5個くらいの石を使って、 その内のひとつを太陽に見立てる。 そしてその石を中心に、 残った石をくるくる回す。 恒星と惑星に見立てた小さな銀河…。
アヤタカはその様子を思い浮かべて満足げに にかっと笑った。
――よし、 これ絶対いい評価もらえる!
後は五七五に文字を組み合わせるだけ、 これは一番に練習できちゃうなぁと考えるアヤタカは余裕のいでたちで、 ただ一番になりたいので少し焦り気味に呪文句を考え出した。
雨がぱらぱらと雫をこぼし始めた。 春の小雨とは違い、 濡れた植物の青々とした匂いが雨の日を彩る。
明かりの灯る広い教室の中は、 生徒の声が少しずつ聞こえ始めていた。 呪文ができた生徒たちが魔法を実践している。 その様をアヤタカは諦めてふてくされたような顔でふう、 とため息をついた。
考えついた魔法を呪文句に変えることは、 芸術分野が苦手な彼にとって最難関であった。 彼の手元のプリントには『太陽を 中心にぐる ぐる回る』という一句がぽつんと書かれている。
アヤタカが考えているうちに一体、 また一体と同級生が席を立ち始めるのを見て、 くそぅ、 呪文句さえ無かったらおれが一番乗りだったのに……。 と悔しがった。 呪文句の授業から呪文句を抜けば、 何も残らないがそれに気付けるほど彼は聡くない。
いつまでも悩んでいるアヤタカに、 そのうち先生が助け舟を出しに来てくれた。
先生のアドバイスによると、 詩のようにせず説明をするような形の句でいいので、 何を使ってどうしたいのかをまず書くといいらしい。
アヤタカは先生に物体浮遊術で、 5個くらいの石を使って太陽系のようにくるくる回したいと述べた。
先生の指導の元、 ようやくひとつの呪文句が完成した。 アヤタカは教室の後ろの棚にある様々な練習用の小物から、 石に見立てた小さな鞠を五つ抱えて持ってきた。 そして早速試してみようと付け爪をはめる。
頭に魔法の銀河を思い浮かべ、 ゆっくりと息を吸う。
「石ころよ、 小さな銀河の 星となれ!」
ピィンとぎこちないながらも爪弾く音が高らかに鳴った。
「…………あれ。」
鞠はうんともすんとも動かず、 白けた様子で机の上に転がっている。
「うぃしころよぉ〜、 ちぃーさな ”銀河” の星となれぇ〜。」
アヤタカの失態を見逃さないラムーンは、 アヤタカの耳元で呪文句を復唱する。
「……あれ。」
彼女はアヤタカの最後の声まで忠実に真似した後に、 指をさして鼻で笑った。
「石ころよ! 頭突きしてこい 思いきり!」
アヤタカが即興の呪文句でピィンと爪弾いた。
すると鞠がふわっと浮き、 ぼんっ! と音をたててラムーンの額に当たった。
てん、 てん と机の上で鞠が弾み、 アヤタカもラムーンもぽかんとする。
「え、 できた……?」
アヤタカが驚いていると、 唐突に後ろからゆっくりとした拍手が聞こえ、 後ろを振り向くと先生がいた。
彼曰く、 凝った呪文句にすると体が覚えるまで何度も練習しなければその魔法は使えないけれども、 今のようにその場で思いついた単純な呪文句であるならばいきなり成功することもある、 しかしそれが自分の技として馴染むにはやはり何度も練習を重ね、 体に覚えこませる必要があるらしい。
結果的に、 自分で呪文句を作って成功させたアヤタカは10点の特別点をもらった。
悔しそうな顔をしたラムーンをアヤタカは横目でちらっと見て、「ありがとな、 自分で自分の首を絞めてくれて。」と鼻で笑いながら感謝を告げた。
ラムーンに頭をめがけてぼんっと鞠をぶつけられたが、 今の彼には痛くもかゆくもない攻撃だ。 魔法ではなく手で投げられた鞠など、 殴ったらでこピンで反撃されたようなものだった。
ラムーンもそれが分かっているようで、 口をへの字にして大人しく机の上のプリントと向き合った。
とうとう完全なる自分の勝利を確信したアヤタカは、 彼女の視界に自分が外れたのを確認して頭をそっとさする。
ぶつけられたところにはコブができているような気がして、 指が触れただけで激しく痛んだ。
アヤタカは振り向いて、 彼女に鞠をぶつけた所を見てみると、 よく見ればほんの少し赤くなっているような気もして、 しない気もした。
勝負には勝ったが、 実質的な試合には何だか負けた気がした。
――……いや、 だとしても実質的には勝っているんだ。 何も気にする必要はない、 何も……。
そうだね! と返事をするように、 頭の後ろがずきんと痛んだ。
「あ、 アヤタカ。 そういえば昨日一緒につくったカレーまだ残ってるでしょ? あれカレーうどんにしようと思ってるんだけど食べる?」
「食べる。」
昨日ラムーンと作ったチキンカレー。ビーフかチキンかで揉めていたが、 アヤタカは今晩の洗い物をしなくていいという条件でチキンに決定した。
お前ら一緒に食べてるのかよ、 心の声を周りの生徒は吐き出さず、 呪文句の授業も無事に終了した。
アヤタカⅫ 「呪文学」