ユートピア
死に場所を求めて行ったジャングルに病院町があった。
嶺井伸一郎はユートピアに住めなかった。その訳とは
ユートピア
嶺井伸一郎は西表島のジャングルを彷徨った。水は豊富にあった、だが腹は空く。食べようと思えば、蟹や貝などが簡単に取れて、死ぬ心配などない。だが伸一郎は食べない。なぜならここに死に来たからだ、誰にも知られず、雑草の葉の朝露のように消える。
ジャングルをひたすら歩き回り、ガジマルの根元で倒れて、意識を失った。
数日後、伸一郎は病院のベッドの上で目覚めた。ジャングルからヘリで緊急搬送されたのかと思ったが、それは夢物語だ。それならジャングルの中に総合病院があるのはなぜなのか。
目が回り出し意識を失った。
再び目覚めるとベッドの横に女医がいた。
「お目覚め、気分はどうですか」
「ここはどこの病院ですか」と伸一郎は驚きを隠さなかった。
「信じられないでしょうけど、ジャングルの中の病院です。
あなた持ち物は全部保管してあります、ここに死に場所を求めて来たのですか」
「なぜここに病院があるのですか、普通なら街に作るでしょう」
「死にに来たにしては、好奇心旺盛なのね」「私も不思議です、世の中全てに無関心だった私がなぜだと見知らぬ人間に尋ねるのか」
「ここがこの街の住民が住むのに最適だったのです」
「ジャングルに街」伸一郎の好奇心では追いつけないSFの世界だと思った瞬間、夢を見ている、或いはここは「あの世」なのか、それにしては人間も病院もリアルであり、鮮明であり、何かがオカシイ、世界が嘘である確率は低いが、伸一郎が嘘、妄想のオカシイ確率はそれよりずっと高い、冷静に訊いた。
「ここは精神病棟ですか」
「ええ、そうです、自害の恐れがありますので」
十四日の睡眠療法の三日後、福祉カウンセラーに付き添われて、伸一郎は病院からアパートに移された。バストイレ付きで電化製品は取り付けられており、服まで用意されていた。
行旅病人及行旅死亡人取扱法(こうりよびようにんおよびこうりよしぼうにんとりあつかいほう)が適用され、病院代、滞在費は無料となることをカウンセラーから告げられた。場合によっては、永住権も取得できるとのことだった。
「ここは外国ですか、でも日本語を話していますよね」
「確かに、日本にありますが、特別保護地区に指定され、ここには自治が認められており、税金はなく、住民は全て公務員であり、病院、つまり自治政府から給料が支給されます。
それから、お金の代わりにどこでも使えるカードを渡しておきます」
カウンセラーが去り、外に出るとそこは巨大な病院をから伸びる街並みとなっている、街を歩く人の色は白く服装は青が多かった。伸一郎は通りのベンチに坐り、行人を眺めていた。
静かだった、死にたいと思っていた強い感情も気づけば治まっていた。平安、と三度呟いてみた。
喫茶店に入ると食事をする普通の場所と、「HAPPY」と「QUIET」部屋の三つに別れ得ていた。
「HAPPY」の方に入ると、笑い声が聞こえた、それも部屋中からだ。本当に楽しそうに笑っている。そして辺りを見回してた、座席には一人ずつしか坐ってない、一人で笑う、奇異で異様な気分が込み上げてきた。
空いている席に座ると、ウェートレスがやって来た。
「お飲み物は、HAPPYはライト、ミドル、ヘビーとありますが、どちらになさいますか」
「コーラ。HAPPYと言うのは何でしょうか」
「笑いが止まらなくなるタブレットです。楽しくなる錠剤ですね」
「ライトでお願いします」
錠剤を含み、コーラで飲み込み、暫くすると笑いが襲ってきた。
なぜ笑う、何にも可笑しくないのにあいつも笑っている、こいつも、全員笑っている、何かが可笑しいのだろうか、伸一郎もなにも可笑しくなくいが腹を抱えて笑っている。そのようなことはあり得ないことだが、何が可笑しいのか、理由も分からず笑っている自分がいる。笑いすぎて腹筋が痛くなっても、笑いは収まらない、驚くものの、笑いは続き、止まる気配がない。自分の気持ちを離れて、精神を離れて笑う。あまりの腹筋の痛さに横に倒れて、息を整えようするが笑いが止まらない、涙が出てきた、汗も出てきて、意識が遠のいた。
我に返ると、ウェートレスが冷たいお絞りを持ってきた。
「お客さん、笑いすぎて気を失ったようです。初心者にはよくあることです、慣れるとコントロールできるようになりますから、ご心配なく」
笑いから抜け出して一時間ほどして腹筋の痛みも和らぎ、腹も空いてきたので、ウェートレスを呼び、福祉カウンセラーから貰ったカードが使えるか訊いた。
「カードはどこででも使えますのでご安心下さい。ご注文は何になさいますか」
天丼を取って食べたが、これまでで一番おいしい食事だった、きっと病院食が続いたためと、鬱から抜け出したために違いない。
レジに行き、カードを渡すとスキャナーを通して、笑顔で返してきた。
「お客様、HAPPYが初めての経験でしたら、QUIETもお勧めします。笑いから静けさへと誘い、試し方はHAPPYと同じでタブレットを飲むだけです。ミステリアスを堪能できます」
伸一郎はQUIETへ入り、コーラとライトを注文し、タブレットをコーラで流し込んだ。
闇の部屋のテーブルごとの青色LEDのランプが小さな島の灯台のようにと持っていた。静かだ、耳を澄ますと啜り泣きのような声が聞こえた。青い光が伸一郎を静けさへと吸い込んでいく。ジャングルで横になる自分の姿が浮かんだ、死ぬのだなと思った。そして一転した。とても静かなおぼろげな曲がどこからともなく聞こえてきた。伸一郎は透明な下敷きのような平面になり飛んでいた。そして霧雨となり地上に降りた。雨はゆっくりと地面に染みこんでゆく、それから根に吸い込まれて、幹から葉へと吸い上げられ、蒸発していき、小さな青い粒子となり、地上を浮遊し、空へ昇っていく。夜空から粉雪にとなり降りてくる、その途中で見る見るうちに小さくなり消えた。その永遠の繰り返しの青のリズムが心臓の中で鼓動となりかすかに響き、体全体がわずかに振動し、漂う粒子と共鳴する。かすかな狂おしいほど妙なる震えが止まりフラットになった時を同じくして、伸一郎は眠りに落ちた。
「お客さん、お目覚めですか」
HAPPYの部屋でのデジャブかと思った。
「すみません、寝てしまいました」
「この種の店は二十四時間営業ですので、ここで眠ってしまう人は結構いるんですよ、気にしないで下さい」
数日後、伸一郎はショッピングモールにいき、ハンバーグとコーラを頼んだ。
「相席いいですか」と三十代の黄色のワンピースの女性がトレイを持ちながらやってきた。
「あなた、来て間もないでしょう、色が黒いからすぐ分かるのよ」
「ええ、そうです。週末でもないのに人が多いですね」
「ここの人は働かなくても、お給料は貰えるの、働いている人は皆ボランティア。病院、消防、警察を除けばね」
「羨ましいですね」
「あくせくしないで済むし、あなたがいた世界よりは争いが少なく穏やかなのは確かね」
「穏やかなのは何よりです。私は会社を倒産させ、借金取りに一年ほど追い回されました。そして妻と二人の子供とは別れ、ほとほとこの持って生まれた人生が嫌になりました。夜も眠れず、身の置き場もなく、それで自殺を試みたみのですが失敗して今となっています。
鬱で塞いでいたこの私ですがそれがなくなり、すっきりしているのです。倒産も借金取りも、まるで夢の中の出来事のようです。今でも信じられません」
「よくあることですよ、きっと弾けたのでしょう」
「弾けた」
「そう、その言葉しか思い浮かばないわ」
「何が弾けたのでしょう」
「あなたが」
「そうでしょうか」
「本題に入りますけど、お誘いはどうなったのかしら。ここでは相席を求めることは性交渉を求めている合図なの。イエスなら右手を、ノーなら左手をテーブルの上に置く」
伸一郎は一瞬躊躇したものの右手をテーブルの上に置いて、女性の顔を見た。
「よかったわ、私は美佳でいいわ、本名はF一九八〇之三七一だけどね」と通称・美佳は笑った。
「私は嶺井伸一郎です」
美佳はマンションの四階で両親と同居していた。伸一郎は両親のいるところでセックスをしていいものなのかと面食らった。だが両親もあっけらかんと出迎えてくれた。
「清彦は友達のパーティで遅くなるらしいわ。いいわね若いのは、お友達が簡単にできて」と母親が言った。
「桜、僻みっぽいことを言うな、君は今だって、一月に数回はデートしているじゃないか」父親は苦笑した。
美佳と伸一郎は部屋に入り、呻き声が聞こえるのではないかと気にしながらも結局は交わっていた。事が終えると、部屋からどんな顔をして両親に顔を合わせればいいのかと恥ずかしくなった。しかし出なければ帰れない。
「どうでしたか」と母親が真面目な顔で訊いてきた。
伸一郎は部屋を出るなり凍り付いてしまった。それに気づいた美佳が助け船を出した。
「いいに決まっているでしょう、母さん」
「お寿司を注文したから、食べていって下さい」
伸一郎は再び凍った。どのような雰囲気で娘とセックスをしたばかりの男が会話をすればいいのか途方に暮れた。
「折角だから、食べていけばいいんじゃないの」美佳も脳天気なことを言う始末。
伸一郎を除けば話は弾み、皆が食事を楽しんだが、伸一郎は相槌を打つのがやっとで、大吟醸の酒の味も寿司の味も分からなかった、針の筵とはこういうことなのかと頭を過ぎった。そして美佳が両親と余りに違う顔立ちなので、そのことばかりが頭を占めて、酔いが回ったのかぽろりとつい口から出てしまった。
「美佳さんはご両親とはあまり似ていませんね」
「そうですね。
依頼されるご夫婦の男性の精子と女性の卵子を使い、体外受精し、その受精卵を代理母の子宮に戻して生むのです。そしてここで育てます。
結婚して家を出た長男も同じケースです。
ここではそれが一般的な家族です」
伸一郎は興味本位だけで訊いてしまった家庭の内情に身が竦んでしまったが、自分の子供を産まないのが一般的だと言うのはどういうことなのだろうかと自分の中で疑問と不信のスパイラルに落ち込んでしまった。
「伸一郎さん。よく考えたらそんなに驚くことではないわ」
何を言っているんだろうか、これほど驚くことはない、社会で最も大切な単位、「家庭」古の昔から人類が引き継いできた物を放棄する、破壊する、これが普通であるはずがない。 だがこれこそが閉塞している人類の文明のブレイクスルーかも知れない。だが喉に小骨が刺さったような、何かが腑に落ちない自分がいた、奇妙な、異風な、悪寒を感じていた。
店先の席に座っていた。慌ただしさがなくいつも通りの長閑で静かなな光景だった。隣のテーブルに夫婦と思わしき男女が坐った。暫くすると、女がTシャツを上げて、傷を見せた。
「腎臓と肺、後は肝臓……、心臓になったら内臓全摘出ね」と女はアイスティーを飲んだ 男は笑顔で頷いた。
「それはいつ訪れるか誰にも分からない、運命だからさ」
「それでも幸せよね、向こうでは交通事故で四千人、他殺者数約四百人、自殺者数三万人超え、交通事故被害で障害者になったのは数知れないし、私にはとても生きていけない。それに働かざる者喰うべからずの資本主義の大義の強制、どこに自由があるのかな、出るのは溜息ばかり」
「ここは揺り籠から墓場までのまさにユートピアだ。宝石だって一億のでさえ買える、でも誰も買わない。月一千万だって使える。でも誰も欲しい分しか使わないから、生活費は月三十万前後でしょう」
「F二七八三之八一五は四歳で心臓摘出で死んだ。きっとF二七八三之八一五の兄姉が重い心臓病だったのね」
「でもF二七八三之八一五の臓器は何人の小児患者の命を救ったか知れないよ」
「そうね、それはF二七八三之八一五の寿命だったのよね」
伸一郎は隣の夫婦の会話が理解できなかったので、心臓病で亡くなったF何番之何番の臓器を提供したと解釈した。
ふと思い出したのが美佳の腹部の三カ所の手術痕だった。すると……。
「ボクも二つか、一つは肝臓に、もう一つは腎臓、腎臓は需要が多いね」
「知ってた、ここの住人の臓器は拒絶反応が少ないらしい」
「それはいいことだ、レシピアントには長生きして欲しいからね」
伸一郎は「呉れたお前はどうなるんだよ」と胸の内で吐き捨てた。すると、「お前ならドナーになれるか」雷鳴のごとき声が怒鳴り返した。何をバカげたことを真剣に話し合っているのだろうかと、彼らの神経が、理性がと言うべきかが信じられなくなった。それで胸騒ぎがして居たたまれなくなり店から出た。
このまま帰っては気が滅入るばかりだと、気分転換に喫茶店のHAPPYに入った。笑った、可笑しくもないのに笑った、ただ笑った。もう笑いすぎて失神することはない。何にでも使用法があるものだ。
この街には業務用の車が走るだけで、携帯電話もなく固定電話しかない。スローなこの街にはそれで十分すぎるほどだ。伸一郎はこの街で走っている人を見かけたことがなかった。ジョガーなどいう人間たちはいない、スポーツをしている人の姿も見たことがない。
レストランで、テレビで野球中継を見たが、周りの雰囲気は最悪だ。一部の筋肉だけ発達させた筋肉で無理な動きをするスポーツになぜ高額の金を出しているのか分からないとか、体が醜いというものまでいた。好きな人がやれば十分のことだ、テレビ中継までする必要はないなどとブーイングばかりである。
伸一郎もそれほどにはないにしても賛成である。好きでやることに金の出し過ぎだと思う。だがそれを言うとここの論理で皆好きなことをして仕事をしているのなら、平等に同額の金を受け取るべきだということに行き着くのだ。自分には関係のないことだ、そのようなことも考えたこともなかった。先日耳にした、ここでは誰でも望む額の金を使うことができるという茶番のような話を確かめてみようかという気になった。
そこで歩き回って宝石店を探しがし出した。大通りから中に入った少し寂れた所にぽつんとあった。「宝石・古美術・蓬莱堂」と隷書で書かれた看板が見えた。中に入ると小さな博物館のような作りであった。
店主と女店員が、いらっしゃいませと愛想よく迎えてくれた。この街では珍しいことだ、商売でも大体が無表情であった。
ぐるりと一回りして、横山大観の水墨画、アンディウォーホルのキャンベルスープ缶のプリントがあるのにも驚いた。伸一郎が知っているアーティストはその位である。時計と宝石も桁違いどころではない、今まで飾れているのすら見たことがなかった。歯車の見える時計が三千万、ファンシーピンクのダイヤ三カラットで五億、二カラットで三億円との値札が付いている。
伸一郎に宝飾品に趣味があるのではなく、小さくて運びやすくて高価な物に興味があった。維持するために手間暇が掛からないからである。
本当にここの人は欲はないのか、ダイヤ五カラットと言いたいが気が弱いので、三億の物に決めた。だが億という桁違いの単位に恐れおののいて言い出せずに、ダイヤのショウケースの前で固まってしまった。
それを見かねた店主がそっとショウケースの前に来て、「お見せましょうか」と二つのリングをショウケースの上に置いた。
「これが二つで八億ですか、とんでもない値段ですね。買う人はいるんですか」と伸一郎は溜息を吐いた。
「一年に二三人お買い求めになる人がいますが、宝石ではなく、家のインテリアとしての絵画が出るだけです」
「それにしても全てが百万以上のものです、高価過ぎはしませんか」
「安い物は置いてないと言うより、入荷してこないのです。ここの品物は生前この街とゆかりの有った方の形見分け、又は遺言として寄贈された物なので、まず安い物はありません。展示してない品物が保管室にはたくさんありますので、お気に入りの品物がありましたら、お買い上げ下さい。
寄贈品を売るための店なのです。ですから商品の購入などは一切致しません」
「聞き間違いなら済みません。こんなに高価な寄贈品が店ができるほど集まるんですか」
「あなた様は最近この街へ来られた方ですか」
「そうです、元々の住人ではありません」
「それなら追い追い分かってくるでしょう、そのようなことはお気になさらずにショッピングをお楽しみ下さい」
この小さい方のピンクダイヤを買おう、時計は余りに欲が出ていると思われては気まずいので、ダイヤだけ買おうと思った。
「済みませんが、このカードで買えますか、」
「新入居者用ですね、勿論買えますよ。この街に居る者は同等の生活をする権利があるのですから。差別は一切ありません。新しいお住まいなら、インテリアにカンディンスキーの絵も購入されてはいかがですか」
三億円の買いものにも驚かないこの街の人々の金銭感覚とはどのようなものかと伸一郎は訝った。
「ダイヤだけで結構です。
こんなに素晴らしい物がたくさんあるのに、街の人はどうして興味を示さないんですか」
「名画や宝石にお金を使うことはほとんどありませんね。
名画は永遠に残る作品ということで嫌なんでしょう。それに鑑賞したければここに寄ればいいという感じですね。宝石は永久不変であるということで見向きされないような状態です。
向こう側とは価値観が違うんでしょうね」
「変わらないからいいんじゃないですか」
「世の中に変わらない物はありません、肉体は勿論、心も移ろいやすいものです。全ていつかは終わるのです、いや消えるのです」
「いつ消えるか誰も分からないのですから、それまでいつ消えるかなど気にせずに楽しく生きればいいじゃないですか。ただ楽しい人生を築くにも能力が要る、私はその能力がなくてここに居るんですけどね。
もう笑うしかないです」
「お客様のおっしゃる人生を楽しくする能力とはお金を稼ぐ力でしょう。
好きで社長職になる、好きで事務員になる、好きで運転手になる、好きで職人になる、そこに給料の差が生まれるなんて可笑しいでしょう。それは人生を楽しくする能力ではありません、皆が楽しくなれるのは平等の原則よるのです」
机上ではそうだろうが、現実的にはどうしても伸一郎はしっくり行かないものがあった。
「そうですか、もう一度訊きますがこのダイヤを私の持っているカードで買えるのですか」
店主と女店員が同時に笑んだ。
「そのことはご心配なく」と女店員が答えた。
「三億ですよ」
「ええ、向こう側の定価を提示しております」
閃いた。本物とは限らない、全て贋(がん)作(さく)だとしたら、この街の誰もがカードで買えても不思議はない。伸一郎は謎が解けたと思い、楽になり、そんなに有り難がることではなかったのだと損をしたような気分になった。それならと時計も買うことにした。
「セイコーの歯車の見える『ノード スプリングドライブ ミニッツリピーター』三千万も下さい」
店主と女店員は恵比須顔になり、伸一郎は億万長者の気分を味わった。
女店員はダイヤを箱に入れ、腕時計を降りなるの箱に入れ説明書も添えた。箱も付いている方が売る時に高くなるのだと言った。伸一郎はどこまで本物らしいのだろうと思い感心した。
蓬莱堂の紙袋に総計三億三千万か、細かい数字はどううでもいいような計算で、伸一郎は贋作の買い物に呆れた。
部屋に戻ると、時計をはめて眺めてみた。伸一郎が今まで買った時計より高価に思えたが、贋作だから二束三文、下手に売ろうとすれば押収される品物だ。二カラットのピンクダイヤも素晴らしい輝きを放っていた、暫くうっとり眺めたものの、本物はどんなに素晴らしい輝きを放つだろうと考えた。
喫茶店に行き入り口の前にある絵本を何とはなしに取り、QUIETルームに入った。小さなLEDの青色ランプを付けた。
伸一郎は絵本を読み始めた。「三人の王子と瀕死の虎の親子」と書かれていた。どうも子供用でなく大人が読む物か、読み聞かせの本のようだ。
三人の王子が竹林の中を歩いていると、出産後七日の一匹の母虎と七匹の虎の子が餓えてぐったりと倒れていた。
第一、第二の王子は思案するばかりであったが、第三の王子は虎の前で身に着けた服を脱ぎ、餓えた母虎の前に伏した。だが虎は喰おうとはしなかった。
第三の王子は弱り果てて、自分の血肉が食べられないのだと気づき、岩山を登り、その崖の上から虎の前に身を捧げた。
その時、天は輝きながら七色の慈雨を降らせた。
母虎は第三の王子の血を嘗め、肉を食い、骨だけを残した。
伸一郎はこのような自己犠牲が有っていいものかどうか身震いした。きっと今世界を震撼させているアルカイダの自爆テロがすぐさま脳裏を過ぎったからだろう。だが二つには正反対の結果がある。一方は多くの命を救うこと、もう一方はより多くの命を奪うことである。
ただ自分の命を掛けることが共通点である。
「君にできるか」と心の裂け目から叱咤する声がした。しかし、命を掛ける自己犠牲を強いるのは、いや奨励するのは、そのように幼い時から教育するのは間違っている思われた。教育と言うよりそれは最早洗脳だ。
溺れている子供を見て、助けるために荒れた海に飛び込むことは立派なことだ。
しかし、君が体力がありそうだから、君が飛び込めと言えるのか。世の中で一番役に立ってない君が、今度は役に立つ番だ。どうせ自殺するなら、カードに臓器提供の意志を示して、死ぬべきだ。
心は揺らぎ始め振り幅を次第に大きくしていった。伸一郎は席を喫茶室に移し、ウイスキーの水割りを注文し飲み干しては考え、注文し、飲み干しては考えた。
プールで泳いでいると、伸一郎以外の子供から年寄りまでお腹に複数の手術痕が見受けられた。
死ぬほどの苦しみも悩みもなく、健康でありながら、目的のために自分の命を捨てる、どう考えても越えられない一線であった。
敢えてこれに答えるのなら、洗脳されているか、うまく言えないがここの住人はおかしくなっているとしか、伸一郎には言いようがなかった。
余分に有って、死ななくてもいいのなら、臓器を提供してもいいが、心臓をくれと言われたら、伸一郎は絶対に「否(いな)」と答える。理由は死にたくないから、それこそ単純明快である。だが、ここの十人ほどの住民と話し合ったが、ここではそれが常識だからいいのではないでかと素っ気なく答えられた。これはあくまで伝聞である。実際、心臓を摘出される場面に立ち会ったわけではない。
伸一郎は店の客を誰彼構わず捕まえて、命を、臓器を提供することの議論をふっかけた。
暫くするとサイレンの音がして、救急車で病院に連れてゆかれた。
目覚めると、ホテルの一室で眠っていた。服装は西表のジャングルに入った時の格好だが、汚れはなく洗濯がされていた。窓から外を見ると那覇市の国際通りに面していることが分かった。
伸一郎は不思議な気分で西表での出来事が夢のように思われた。あの街はなかったのだと思いたかったが、それは余りにリアルで、現実を無視することと同じだと思い返し、何かないかと見回し、茶封筒を見つけ中を覗くと、A4の紙、財布にダイヤと時計の箱があった。
A4の紙には次のような文書が記されていた。
嶺井伸一郎
カルチュラルショックによる情緒不安定、粗暴な性格による風(ふう)紀(き)紊(ぶん)乱(らん)、居住不適格気質、因って強制送還に処す。
病院長
仕方ないことだ思いながら、財布を見ると当座の金が二十万円入っていた。それからダイヤと時計の箱を出した。やはり高価な物ではなく模造品に違いない、一応買ったことにはなっているが、流れ者のような伸一郎に三億三千万相当の腕時計と宝石をわざわざ持たせるわけがない。ともあれ、折角来てくれたのだからというお土産だろう。
健康で、心臓を提供できるかという問いが伸一郎の胸に重くのしかかった。そのような街自体も否定したいと思った。死にたいと思ってあの街に行きつき、心臓を提供して死んでもいいとは思わない自分は許せない我利我利亡者となっていた。だがその一方で死にたいと思わないのが人の常だと反発する。
三日後、あの街の宝石と腕時計を質屋へ持って行き、偽物だと分かればあの街のことも偽りの街として吹っ切れるだろうと街に出た。
歩いて五分もすると、全国チェーンの「七福神」という大きな質屋があったので、早速中に入った。
おずおずと腕時計とダイヤの箱を出した。
「鑑定して貰えますか」
店主は時計の箱とダイヤの箱を開けて見比べて、目を細めた。ダイヤを取り、ルーペで吟味し、それから時計を見た。店員を呼び、パソコンで盗品かどうかを調べさせた。
「二つとも本物です。腕時計はセイコーの最高級品で、買値は二千三百万、宝石は私も初めて見ましたピンクダイヤで、買値が二億円ほどになります」
偽物ではなかったのだと嘆息すると、胸の中であの街とこの世界が互いを飲み込もうと暴れ出し、異様な気分になった。
「ダイヤの方は今は現金がありません。そちら様のご都合のいい日にこちらから出向きますので、是非、お電話を下さい」と店主、店員ともども深く頭を下げた。
伸一郎は二千三百万とダイヤの入った紙袋右手に七福神の自動ドアを出た途端、歩き方を忘れ立ち尽くしてしまった。
ユートピア
嶺井伸一郎は死に場所を求めてジャングルを彷徨い、目覚めたら、病院の一室にいた。鬱だと言われ、睡眠療法を施され、快復した。
伸一郎はこの不思議な静かな町で過ごすことになる。
この町の人には欲がなく、とても穏やかな人々であった。
働きたい人は働いて、そうで無い人は気ままに過ごす。お金は欲しいだけ貰えるが、生活費とちょっとのレジャーの分しか、ATMから引き出さない。
ここはある意味で人類がなしえなかったユートピアを具現していた。
だがなぜそのようなことができるのか。
伸一郎が強制送還された理由は。