タマルカ

昭和二十六年

 高知の城下から南西に十八里。須崎の港町をへて久礼坂の難所を這い上がり、七子峠を越えると高南台地に至る。
 そのあたりはかつて長曽我部に仕えた窪川氏の領地で、小さな城下町もそのまま窪川といい、大正時代に窪川町となって昭和を迎えた。四万十川の中流域にあたり、かの清流が大小の支流を収束しながら蛇行している。標高が二百メートル前後あるため、南国にしては朝晩が涼しく、冬がやや厳しい。
 その窪川に、噂にきく汽車が来たのは昭和二十六年、津野幸男が八歳の時分である。
 幸男は戦争末期、学徒出陣が始まった頃に生まれた。だから苦しい数あわせで戦争を続けながら、それでいていくさに勝つという都合のいい了見を、皆で信じこもうとしていた時代を知らない。彼が見たのは、地べたに叩きつけられるようにして負けたこの国が、立ちあがろうともがいている姿だった。
 どこぞの誰が帰ってきた、あそこの誰は駄目だった、と大人が話していたのを憶えている。帰れなかった者も多くいたが、それでも男手が増えるにつれ、あらゆるものが不足する町に活気だけは戻りつつあるようだった。
 まだ自動車も多くない時代だったが、山林では伐り出した材木を積むオート三輪を見かけるようになった。高知城下の自動車工場が手がけた改造車で、復興需要で多忙な山々の地主が、大汗かきながらも自転車のようなハンドルを得意そうに握っていた。
 実際、彼らは木材を伐り出す前から買い手がつくほど忙しい。だから若者とともに復員してくる大小の鐘も、オート三輪乗車の栄誉に浴したのは四国巡礼の札所が差し出した、いちばん大きな梵鐘だけだった。
 汽車が来た時分の窪川はそんなところだった。

 その日、窪川まで来た汽車を、幸男は姉と観に行った。
 新しい線路は家から一時間余り歩いた所に敷かれており、一番列車は昼前に通るはずだったが、これは学校があるので諦めた。その折り返しが午後のはずで、幸男は兄に、ついで姉に連れていくようせがんだのだった。
「汽車なら正月に見つろうが」
 兄はそっけなかった。
 実は七子峠のあたりまでは数年前に開業しており、幸男にとって叔母にあたる人の嫁ぎ先は、そこから数駅いったところにあった。久礼坂はトンネルが三十もあるうえに急勾配で、汽車が吹き上げる黒煙がトンネル内にたち込め、窓の隙間から入るのだという。幸男は正月の二日、真っ黒になって降りてくる叔父叔母を両親と迎えにいったのだった。
 確かに過酷な登坂をやりきって、黒光りする巨体を横たえ休む姿をその時に見ていた。しゅうしゅうという音が息づかいのように聞こえ、何だか放っておいてもひとりで動き出しそうな、おそろしく思えるような強烈な印象を受けた。
 問題はそこではなかった。
 小学校は朝から汽車の話で持ちきりだった。さすがに見たこともない生徒はいなかったが、乗ったことのある男子は半分で、女子はさらに少なかった。
「たいしたもんちゃうわ」
 神戸から転校してきた級友が、さも鬱陶しげに言った。
「近くに住んどったわ。通ると踏切がけたたましいねん」
「こっち来るときも汽車に乗ってきたがやろ」
「たいしたもんとちゃうて。高知からは船やったし」
「なんで船にのったが?汽車が久礼まで来ちょったろ」
「なんでて、乗り心地と違うか」
「乗り心地がわるいがか」
「揺れるし、うるさいし、船のほうがずっとましや」
 当時、彼のように両親いずれかの実家に預けられた児童は少なくなかった。ずっと後になって考えると、育った家や両親と別れておくる田舎暮らしを心さびしく思っていたのろう。高知城下から航路をとった理由は接続列車の都合かもしれず、あるいは単に旅費の節約かもしれないが、いずれにせよ楽しいばかりの道中でなかったとしても無理はない。
 そこは子供のことなので田舎暮らしに慣れるのもはやく、父親譲りの関西弁もあやしくなってったが、この一年後に生活基盤を整えた両親が迎えにきて神戸に帰っていく。その時はどんな顔で汽車に乗り込んだものだろうか。
 ともあれこの日は、学級は鉄道の賛美派と否定派に二分された。
 幸男は賛美派の急先鋒で、否定派の陣頭に立つ神戸の彼に、
「高松まで半日で行くがぜよ」
 とまくしたてた。
「今までどうなんながよ。久礼か志和の港まで歩いて下りるがでよ、汽車でも船でも須崎か高知で泊まらんといかんちや」
「泊まったらええやん。そんなに急いで行かんでもええやろ」
「急いじょったらどうするがよ。おまん(お前)、お父やお母が病気になって死ぬる時でも泊まって寝ゆがか」
「それやったら鉄道より病院の先生やろ。死なんように病院の先生が治してくれたらええねん」
「治らん病気もあるろうが。病気じゃのうて怪我かもしれん。進駐軍に鉄砲で撃たれたら今日に死ぬるがぜよ」
「それは・・・なんで僕の親が進駐軍に撃たれなあかんのや」
「アカかもしれんやか。おまん、アカの子供かもしれんぞ」
「なんで、なんでそんなこと言うんや!」
 早熟で弁のたつ幸男は口喧嘩が強く、関西の文化に揉まれた彼といい好敵手の関係だったが、今日はそんな暴論が飛び出すほど、熱烈な肩入れが舌鋒を攻撃的にさせていた。
 実のところ幸男が鉄道賛美派になったのは、家業が酒屋だったからである。
 彼の父親は開通式のあとにおこなわれる祝賀会に一斗樽を幾つも届けていたし、祝賀会そのものにも地元名士のひとりとして列席の下座に名を連ねていた。だから鉄道開通を否定することは、幸男にとって家業を否定されるに等しかったのだ。
 ただ、
「だいたい日本が戦争に負けたがは、鉄道がなかったからじゃ」
 続けて、
「うちんく(僕の家)は家族みんなで汽車を観に行く。これからの日本は鉄道で強くなるんやから、日本人なら行って祝うのが当たり前や。行かんがは非国民のアカにかわらん(違いない)」
 とやってしまったのは、明らかに暴走だった。
 たちまち学級は非国民、非国民の大合唱となり、とうとう神戸の彼を泣かしてしまい、三限目は廊下に立たされる羽目になった。
 別段、幸男が軍国少年だったというわけではない。物心ついた時分には日本軍がなくなっていたし、恒久平和の理念をうたった憲法も施行されていた。
 しかし人間がそう便利に変われるものでもなく「お国のため」という概念はその後も根強く日本に残り続けた。幸男の場合、その概念に強くとらわれていたというより、彼の語彙にある最大級の侮蔑表現が「非国民」「アカ」だったというだけだが、それは早熟な感性が大人達の引きずっている「お国のため」を感じとった影響でもあっただろう。
 ともあれ、こうまで言ってしまった以上、撤回するわけにもいかなくなった。
 なにしろ家の名誉がかかっていた。

「言い出したらきかんき」
 道中、姉は何度も文句を言った。
 父親は祝賀会に出席せねばならず、そのため母親は店にいなければならない。そっけなかった兄も注文が入れば自転車をこいで配達に出るから、実際には最初から無理な相談なのだった。祖母はまだ生きていたが目が見えず、残るは姉の久代しかいなかった。
「久代、連れていちゃりや。お婆がいけたらよかったけども」
 白くなった瞳をしょぼつかせる祖母に、そうやって申し訳ない顔をされれば、久代も断るに断れなかった。
 可愛がられる弟を憎らしく思いながら家を出て、集落の中心となっている四辻を右に折れ、四万十の支流をいくつか渡って、神社の杜を左に見ながら延々と歩いた。
「汽車、もう高知にいんだ(帰った)がと違う」
 何度となく嫌味を言われたが、幸男は黙りこくって前方を見続けていた。
「お姉ちゃん、今日は友達と宿題するがやったのに」
「・・・」
「あんまりお婆ちゃんに我が儘を言われんで」
「・・・」
「お婆ちゃんは幸男に甘いけんど」
「・・・」
「大人になって困るのは自分やきね」
「・・・」
「幸男、聞きゆかよ」
 なおも黙って歩いていていると、
「幸男!」
 とうとう脳天にポカリとやられた。
 幸男は立ちどまり、天を仰いで泣き始めた。
 姉の言葉がちくちくと胸に溜まってはいたのだ。幼い我慢が堰を切って、こうなるとおいそれとは泣きやまない彼だった。
 久代は慌てた。
「幸男、泣きよっていくもんかね」
 こうなった弟が実に厄介なのをよく知っている。
「男の子が泣いたらいかんちや」
「ほら、もう汽車が来ゆうにかわらんで」
「そんなに痛くしてないつもりやけど・・・」
「・・・お姉ちゃんが悪かったから」
「・・・」
「・・・」
 そのうちに久代も、その場でシクシクと泣き始めた。そこに、
「ほい、誰が泣きゆかよ」
 野太い声がした。
 魚屋のオンチャン(オジさん)だった。

 標高二百米ほどの高南台地から、幾重にも折れる山道をおりると、志和や興津といった小さな港町に出る。
 この地方は山々が海にせり出しており、その合間に拓けた猫の額ほどの土地に、小さな港が幾つかあった。
 かつて高知城下に運ばれる年貢米が船積みされ、その後も長らく窪川の表玄関を担っていたのは陸路の七子峠ではなく、海路を飛び石に繋ぐ港町だった。また早暁には漁師を出迎えする漁港でもあり、小規模ながらも市がたって賑わっていた。
 この港町から魚売りが天秤をかついで高南台地にのぼってきた。
 夜明け前に競り落とした近海ものの他、素潜りでとれた魚貝や海藻なども売った。彼もそんな魚売りのひとりで、子供たちは彼を『ホイのオンチャン』あるいは単に『オンチャン』と呼んだ。

 日本を滅茶苦茶にした戦争だったが、地域社会もろとも壊滅した都市部と比較すれば、田舎には苦しいなりの日常が残されていた。
 勿論、ここも多くの大切な人々を戦場に奪われ、悲しみにくれる者に過酷な日々を残したが、それは生きていかねばならない日々でもあった。
 人はただ生きるだけでは精神の均衡を失う。生計を立てることは自分の居場所を確認することでもある。
 そして窪川には、かろうじて酒屋には酒屋の、農夫には農夫の、教師には教師の、坊主には坊主の日常が残っており、オンチャンもまた天秤を担ぎ山道をのぼっていく日々を、戦前も戦中も、玉音放送が流れた日も、その次の日も繰り返していた。
 オンチャンが家々をまわるのは、いつも昼過ぎからだった。
 明け方にあがってきたのを仕入れるというより分けてもらって、その場から担いで山道をのぼってくる。考えてみればおそろしいほどの健脚だが、それを特別に思う人はいなかった。
 それは単に日常だった。

「津野さんく(家)の久代ちゃんと幸男ちゃんかよ。何で喧嘩しゆがぜよ」
 漁師の多くは無愛想で、中には荒っぽい連中もいたが、海に出なくなって久しいオンチャンは、久代や幸男のような子供たちにも愛想がよかった。
 オンチャンは子供の目線までしゃがみ込み、しゃくりあげる久代の説明を辛抱強く聞くと、
「ほい、わかった」
 ひょいと幸男を担ぎ上げ、
「オンチャンが連れていったらあや」
 頼もしいところをみせたついでに、ブウとひとつ放屁した。
「久代ちゃんもおいで」
 そんな粗相など気にもせず、オンチャンは久代の手を引いた。

 高南台地を水源とする四万十川の支流のぎとつに仁井田川がある。
 その土手に登ると眼下に、中村街道と並走して敷かれた真新しい線路が見えた。二本の線路はどこまでいっても等間隔で、午後の陽を跳ね返して白銀色に光っていた。
 やがて国道五十六号線となる中村街道は、この当時まだ舗装されていないでこぼこ道で、堤のようにうず高く盛られた軌道を、整然と走る線路が余計に眩しかった。
「汽車、もう行ってしもうたがやない?」
「いや、まだ来ちょらん」
 泣きやんだ幸男は、歳の割に賢しいところをみせて指差した。
 見ると沿線の疎らな家々から、日の丸の小旗を持った人々が出てきており、列車がくる窪川駅のほうを向いて、家族や近所ごとに三々五々の群れをつくっていた。
「じきに来るろう」
 オンチャンは地べたに座り込んで、両切り煙草をトントンと小石に弾ませてから、マッチを擦って火をつけた。オンチャンは空に向かってさもうまそうに煙を吐いたが、まじまじと見ているふたりに気がつくと、吐き出す煙で輪をつくってみせた。
 そうこうしているうちに、
「来た」
 遠くに汽笛が響いて、人々はいっせいに小旗をうち振り始めた。
 仁井田川の土手にも人が出て、汽笛の方向に手をかざしていた。やがて黒々とした姿を確認すると、人々から歓声があがった。
 汽車は雷のような轟音を響かせ、煙突からどんどん黒煙を沸き上がらせて、ゆっくりと幸男がいる土手に近づいてきた。
「見えゆかよ。えらい(凄い)なあ」
 だが久代は耳を塞いでおり、幸男は返事をすることも忘れていた。
 汽車はだんだん大きくなって、いま幸男の目の前を通り過ぎようとしていた。真横から観る汽車は、近づいて来るときよりもずいぶん速く見えていた。車輪に繋がれたピストンがせわしなく動いており、煙突から際限なく沸き出す黒煙が、まるで生き物のように蠢きながら流れていった。
 オンチャンは、
「タマルカ」
 誰にでもなく、そうひとりごちた。
 土佐弁の「タマルカ」は吉凶どちらの機微も含む感嘆詞のような言葉だが、この場合は単に「驚嘆」だったのだろう。三人は小さくなっていく汽車を見送っていたが、
「ほい、いぬる(帰る)ぜよ」
 しかし幸男は見えなくなっても、しばらく身動きもせずに、汽車が去った線路を見つめていた。
 
 オンチャンは家までついてきた。
 幸男の家は酒屋だったが、雑貨屋も兼ねており、日用品から衣類、農具までひろく扱った。
 酒類が配給制になった戦時中は雑貨を中心に商売をしたようで、そこはそれ、家々でも酒造りをやる田舎のことだから都会ほど呑むに苦労はなかっただろうが、さすがに大っぴらには並べておけず、その名残りか店は酒類とそれ以外とで二分され、それぞれ雨戸が締まって奥で繋がる構造だった。
 オンチャンは雑貨屋のほうへ入っていった。
「まあまあ、お世話かけて」
 店番の母が応対した。
「幸男君、泣いてしもうて久代ちゃんが困りよったきに、いっしょに汽車を見に行きよりました」
「まあまあ、それは。幸男、オンチャンにようくお礼を言っておきなさい」
「いやいや、何でもありませんき」
「うちの人、まだ戻りよらんのですけど」
「ほい、待たしてもろうてかまんろか」
 オンチャンにとっては、こっちが本来の用件だった。
 通常、家の主人はオンチャンの商売相手ではない。それは母家の勝手口にいる、台所を預かる夫人たちだった。
 ただ事情があるときだけ、オンチャンは店に来た。母親はその事情をよく知っていた。
「どればあ(どのくらい)残りよるがですか」
 オンチャンは黙って籠をみせた。このあたりではガシラと呼ばれる磯魚が三尾。イラが二尾。他にも小魚と、底のほうにはサザエやトコブシも転がっていた。
 やがて父親が帰ってきた。
「おお、来ちょったかよ」
 赤い顔をした父親は、
「鉄道の祝賀会に呼ばれちょった」
「まっこと、ええ色になっちゅう」
「酒屋が呑んだら看板が内向くわ」
 父親は大きな声で気持ち良さそうに笑った。
「魚が残ったかよ」
「残った残った」
「おお、こりゃ、こじゃんと(たくさん)残ったなあ」
 言いながら、父親は売れ残りをすべて買い取った。いつからか、そういうことになっていた。
 おかげで魚が売れ残った時も、オンチャンは空になった籠を下げ堂々と帰っていく。オンチャンにしてみれば、たまに魚が売れ残ったからといって、生活に大した影響はないだろう。そういうことではないのだった。要は気持ちの問題で、気分よく一日を終われるかという話だった。
「おおきに。毎度おおきに」
 父親は鷹揚に手を振って、下駄を鳴らして風呂をつかいに行った。やがて、外風呂から軍歌が聴こえてきた。母親は苦笑した。
 ―――すぐに、いごっそうを気取るんだから。
 表情がそう言っていた。確かにそんなところがあった。
「いごっそう」は土佐弁で頑固者の男性をさす。
 単に偏屈というよりは気骨のある者、信念を曲げない性格、芯の強い精神力をいい、そこから派生して口数の少ない性質、権力に屈しない反骨心などを意味した。広い意味では豪快で小事に捉われない人柄もそうであり、また偏屈と同義ではないが、前記の特徴を備えるなら多少そうであることも美質とされた。
 幸男は父親の軍歌を土間の片隅で聞いていた。売れ残りの魚を無造作に買い取ってみせたのは、父親にとっては器量を示す機会だったが、彼にとってはまた別の意味があった。
 冷蔵庫のない時代だから、鮮魚は幾日ももたない。だからオンチャンが来た後は、かなりの量を食べきってしまう必要があった。それは専ら幸男たち兄弟の任務だった。
(タマルカ!)
 魚であれば刺身にしたり、炙ったりして蝿避けの籠をかけた。サザエやトコブシは茹でてから皿に盛られた。盛り方は無造作といえるほどだったが、味のほうは格別だった。いつも腹をすかせていたせいでもあるだろうが、それを差し引いても鮮度は抜群だった。
 ふんだんな魚介を頬張りながら、幸男は汽車の凄さを語り続けた。
「シュ、シュ、シュいうてふとい(大きい)音で、煙がこじゃんと出よった。しょう(すごく)速うてな、シュ、シュ、シュて通るときにみんなぁ旗を振りよってな」
「幸男。食べるときは黙っとけ」
 兄に煩いと言われようと、
「幸男!お兄ちゃんの言うことが聞こえんかよ」
 久代に注意されようとお構い無しで、
「そのうち大人になったら高松まで行って、連絡船に乗るがやき。連絡船に乗ったら・・・宇野いうとこ知っちゅう?宇野からまた汽車に乗るそうやか。宇野から神戸までなんぼかかる?」
 やがてポカリとやられるまで、幸男は喋り続けたのだった。

平成二十四年

 湘南新宿ラインから総武線に乗り換えるには、新宿駅を端から端まで歩かきゃならない。これにまずウンザリしてるところへ、
「ちっ」
 目の前で総武線のドアが閉まって、俺―――いや、私は舌打ちをした。次の三鷹行きが来るまで五分くらい、秋風が吹く十六番ホームで待たなきゃいけない。
 親父が入院している病院は東中野にあった。お袋が付き添っていたが、この日は病院から、
「ご家族も」
 と言われていた。
 どう見ても病状はよくなかったので、何となくそんな予感はあり、
(ついに来たか)
 というのが正直なところだった。
 二月に手術をして胃癌を切ったが、取りきれずにに残った。担当医は投薬治療のために胃を残しておくと言った。本当にそうかわからなかった。慰めのようにも聞こえたが、
「よろしくお願いします」
 と頭を下げた。
 以来、東中野の入院棟に出たり入ったりして八ヶ月がたつ。
 受付で氏名『津野一樹』と、入院者の欄に『津野幸男』関係を『長男』と書いた。今回の病棟はオレンジでフロアは八階だった。
 エレベータをおりると、見知らぬ老夫婦が途方にくれていた。
「あの、ローズ棟八階三〇二というのは、どちらでしょうか」
 夫人が話しかけてきた。夫は携帯電話の液晶画面をのぞきながら、しきりと周囲を見回している。
「すみません、馴れないものですから」
 口元をあまり動かさない喋りかたと独特のアクセントで、東北の出身だと思った。
 私はどういうわけか、よく人に道を訊かれる。うまく案内できないことも多いが、この病院はよく来ているので詳しかった。
「ローズ棟はここと別の建物なんです。一階におりてから別のにエレベータに乗らないとです」
 本当は六階に連絡通路があるのだが、その道順を説明するには建物の構造がややこしかった。
「一階におりたら右に進んでもらって、突き当たりのアトリウムをまた右にいくとですね、コーヒーショップがありますから、その前にあるエレベータに乗ってください」
「この病院でねぇでしょうか」
「いや、合ってますよ。ここは何回も建て増しでもしたんですかね、構造がちょっと複雑なんですよ」
 老夫婦は何度も礼を言いつつ、エレベータに乗り込んでいった。
 確かローズといえば産婦人科病棟だ。最初の頃に迷いこんでしまい、あまりに場違いな気がして気恥ずかしかったことがある。
 あの感じだと、あと二、三回は道を訊ねないと辿り着けないだろうが、さて、東京に暮らす娘から無事出産のメールをもらって、孫に会おうと上京してきた両親といったところか。
(うちとは逆の方角だ)
 ぼんやりと、そう思った。
 私は昭和四十年代の半ばに東京で産まれたが、両親はともに高知県の出身で、結婚するとき東京に書きかえるまで、長いこと私の本籍地もそこだった。
 もちろん高知に暮らしたことはなく、子供の頃は、夏休みに遊びにいく場所だと思っていたくらいだ。縁がないわけじゃないが、自分と何かが繋がっていると思ったことは、あまりない。
 もっとも、そこにはうち代々の墓があり、そのうち私も入ることになるそうだ。幼い頃にはそれこそ毎年のように墓参りに行っていて、それはそれでいい思い出である。夏休みに入ると親父の盆休みを待たず、お袋はさっさと里帰りをしたので、やたらと長くいたのを憶えている。
 それは新幹線で岡山まで行き、在来線で瀬戸内に臨む宇野港に出て、連絡フェリーで高松に渡り、また鉄道に乗る長旅だった。ガキふたり連れて帰るお袋は乗り換えが大変だっただろう。
 高校生の頃に瀬戸大橋が出来て楽になったが、その頃からは親と行動することがなくなったので、あまり行ってない。
 社会人になるとますます足が遠のき、親父が中学生の頃に亡くなったという祖父や、大阪で第二室戸台風の犠牲になったという叔父や、私が小学生の頃に亡くなった祖母にも、三、四年おきに手を合わせるだけになった。
 最後に行ったのは五年ほど前になる。
 息子も中学生になって、かちての私と同様、親と歩きたがらなくなっていた。
(親父もこんな気持ちだったのかな)
 後部座席で携帯電話をいじっている息子をバックミラーに見ながら、その時はそんなことを考えていた。
 車がないと不便な地域なので、高知市内でレンタカーを借りていた。
 子供の頃は叔母が窪川駅まで迎えに来てくれたが、叔母も高齢になったのと、滞在中の移動に便利なので、運転免許をとってからはそうしている。
 十年くらい前に高知市まできていた高速道路が、その頃には七子峠を越えていて、今は窪川駅の周辺で工事中だという。完成すればもっと近くなるだろう。
(便利になったもんだ)
 ただ、久礼坂の露店でアイスクリンを買うチャンスをなくすのは惜しいような気がした。それにしても、
(ずいぶん近くなったな)
 そういう実感を、親父は自分の何倍も持っているはずだ。
 親父は昭和三十年代の始めに故郷をでたと聞く。
 他県の高校に通い、東京の大学を出て、そのまま就職したそうだ。
 だから私が知っているのは、東京でサラリーマンをしている姿だったが、大袈裟にいえば、
(親父は産まれ故郷で、どう生きるか決めてしまった)
 はっきりとした根拠はないが、私はそういうイメージで見ていた。
 それは本来の性格というより、自分はどうあるべきか、というベクトルのようなものだと思う。そのベクトルに従い、親父は人としての器量を出来るだけ大きく、いつも陽気で、誰より豪気であろうとしていた。その多くは演技だったが、しかし徹底して貫かれていた。
 病床にあってもそうだった。

 担当医との約束には早かったので病室に顔を出した。一昨日までは相部屋だったが、昨日から個室に移ったと聞いていた。
 カーテンから覗くと、骨と皮の親父が眠っていた。
 横顔から頭蓋骨のかたちがよくわかった。乾燥した腕には点滴の針が差し込まれ、白いテープが貼られていた。
「忙しいところ、悪いね」
 お袋が腰かけていた。
 確かに仕事を抜けてきたが、親父がこんな時につまらない気をまわすなと再三言っても、お袋は申し訳なさそうにするのをやめなかった。
「親父、何か食べた?」
「氷を少し」
「氷?」
「一階のコンビニでアイスコーヒー用の氷もらって、そのままだと大きいから、小さく砕いて」
 とうとうそれしか口に入らなくなったか、と思った。
 手術した当初は普通に生活していたが、食べることには苦労しているようだった。
 胃袋をほぼ除去しているところへ腹水が溜まるようになり、物理的に圧迫されて食物が入らなくなった。
 食べなければ体力が奪われていく。痩せて手足が細くなり、寝ていることが多くなって、やがて体を起こすにも努力がいるようになった。
 百五十年は生きるつもりだったが、たった百二十年になった。
 と、口では豪気なことを言うが、私が訪ねても親父は起き上がろうとしなくなった。
「見られたくないのよ」
 後でお袋が言った。
「何を?」
 病気で衰えた自分を、という意味だった。
 起き上がることさえ苦労している自分を見られるより、寝そべったまま横柄な自分を演じている。そういう発想をする親父だった。
(らしいと言えば、らしいな)
 息子に対してすらそうだった。
 私は親父が要介護者となってからも、一度も世話をしたことがない。親父がさせなかった。手伝おうかと言えば、いや、いい、と寝たまま言って、すぐに話題を変えた。
 それ以上言うと怒りだすことを知っていたから、入浴から用便の補助までお袋がひとりでやっていた。
 息子にも見せたがらなない姿を、他人に見せるはずもなかった。
 この頃に驚いた人がずいぶんいる。知人やビジネス上の関係者とは頻繁に連絡をとっていたようだが、電話にしろメールにしろ、今は都合で会えない、としか説明しなかったので、何かのきっかけで事情を知ると仰天しながら駆けつけて、
「ちっとも知らなくて―――」
 と絶句する人が多かった。
(もしかしたら、そんな風に言われるのが嫌だったのかも知れない)
 そう解釈した。
 そういえば、そんなところもあったような気がした。

 そういう知人に、関西の老紳士がいた。
 たまたまいた私が、最寄りの駅まで迎えにいったところ、
「おお、久しぶりやな」
 帽子をちょいと上げる、頬のこけた顔に見覚えがあった。
「憶えとるかな。君が子供の頃に、何度か寄って呑んだことがあるんやが」
「はい。ご無沙汰しております」
「前の家やったけどな。あそこなら迎えにきてもらわんでも、ひとりで行けたんやが」
 子供が家を出てから、両親は公営住宅を引き当てて、杉並の2DKに引っ越していた。
「しかしなんやな。君もおっさんになったもんや。いくつになった」
 老紳士は感慨深げに私を眺めて、
「確か、結婚したんやったな。子供はおるんか」
「もう中学生になります」
「そないなっとんか。早いもんやな」
 関西弁といえばテレビのバラエティーなどによく出ている、芸常人の賑やかなイメージが強かったが、目の前の老人はどことなく上品な感じのする、落ちついた口調だった。
 公営住宅の前までくると老紳士は立ちどまり、
「そうや」
 ポケットから名刺入れを取り出して、一枚差し出した。
「君ももう立派に社会人なんやから、きちんと自己紹介しとかんとな」
「すみません。今ちょっと名刺を持ってなくて」
「そら、今はプライベートやろ。僕は仕事できたから、たまたま持ち合わせとるだけや」
 肩書きをみると、神戸市にある大学付属病院の循環器科・非常勤医師とあった。
「仕事いうても、実質的には引退しとる連中の同窓会みたいなもんやけどな」
 老紳士は笑って、
「いこか」
 と促した。
 親父はベッドに寝ていたが、シャツに着替えて手を頭の後ろに組み、余裕のあるところを見せていた。
「水くさいやないか―――と言いたいところやが、君らしいと言えば君らしいか」
 親父は苦笑いをして、このざまだよ、としわがれた声で言った。
「病気と聞いて来たんやがな。なんや、僕より元気そうやないか」
 お袋が茶を運んできた。
「ああ、奥さん、お構いなく。いつもすみませんな」
 透明なやつもあるが、そっちがいいか?と親父が聞くと、
「それもええな」
 透明なやつとは日本酒あるいは焼酎の、親父独特の隠語だった。
「いつも、こんなことを言って困らすんですよ」
「いや奥さん、このくらい言えんようでは、土佐の男とは言えんのと違いますかな。僕は関西の人間やけど、子供の頃にいたことがあるから、よう知ってますのや」
 と老紳士は陽気に、
「ただな津野君。昨日、八重洲にいい店を見つけたんや。ただ今回は面子が年寄りばっかりでな、酒も肴も余って歯痒かったわ。次はぜひともリベンジしたいんやが、助太刀にきてくれへんか」
 そうか。なら土州と播州で繰り出すか。
「そうや。海軍操練所と海援隊で、江戸っ子に目にもの見せたるんや。たから口に入るもんは何でも入れて、自主トレをしといてもらわんとあかんで。なんせ海軍操練所と海援隊の名誉がかかっとるんやからな」
 と大げさに言ってから、
「もっとも、よう考えたら海援隊は長崎やけどな」
 親父も乾いた笑い声をあげた。確かに長崎だが、ほとんどの隊士は土佐だぜ。
「そうやな。そして土佐の脱藩藩士が親玉や。若いうちに高知を出て、広い世界で活躍した君に似とるやないか」
 かの偉人になぞらえるのは、さすがに気おくれしそうなものだが、
「お。まんざらでもない顔しとるやないか。君、そこは遠慮するところやで」
 ふたりでひとしきり笑うと、老紳士は微笑を湛えたまま、
「しかし、まあ竜馬とまでいわへんけど、君も活躍したやないか」
 なんの。失敗も数々あったよ、と親父。
「それは竜馬も同じや。失敗してもへこたれんことが大事なんや。それを乗り越えたからこそ、今の君があるんやで」
 君こそ、ずいぶん出世したじゃないか。
「まあ、あえて謙遜はやめとくが、その通りや。でも広い世界に出たかいわれると、そうとは言い切れんのも現実や。医道一本と言えば聞こえはええが、そこから外に出て行こうとはせんかったからな」
 敢えて行く必要もなかっただろう、君の場合は。
「そこや。僕もこれで正しかったとは思うとる。ただな、正しいのと寂しくないのとはちょっと違うんや。僕の場合はレールが敷かれとった。僕はそこから落ちんように歩けばよかったんや。その点、何度も知らない世界に飛び込んだ君が、ちょっと羨ましく見えてた部分はある。さっきのはお世辞やが、これは本音やで」
 そのぶん、家族には迷惑かけたよ。一家離散の手前だった。
「でも理解してくれたから、どうや、こうして立派な跡取りが会いに来てくれとるやないか」
 親父は答えず、私も遠慮がちな笑顔を返すにとどめた。
「そこへいくと僕の娘どもは、ろくろく孫もつれてきよらへん。院長や局長やと祭り上げられといて、頃合いで娘婿に継がしてみたら、後には何も残らんかったという話や」
 老紳士はユーモラスな仕草で悔しがり、
「土佐風に言うと、タマルカ、やで」
 ははは、タマルカ、か。それはいい。けんど、そんで、えいがちや(いいんだよ)。
 久しぶりに聞く高知の言葉だった。そんで役割を終えていきよって、たどり着くところらぁ結局、みんな一緒やき。
「そうやな。そうかもしれんな」
 老紳士は笑顔で何度も頷いた。
 ふたりはその後もしばらく話し合っていたが、
「いや、長居をしてしもて」
「まあ、お構いもせずに」
「奥さん、いつも迷惑ばかりかけてすみません。ほんまに奥さんあっての津野君ですわ」
「いつもお上手ですこと」
「いやいや、本音です。土佐のハチキン言いますけど、奥さんはちょっと違うハチキンですわな」
 ハチキンというのは土佐弁で「男勝りな女性」をさし、同時に高知県出身の女性の特徴とされ、喧嘩っ早くて一本気、陽気できさくで大酒呑み、といったニュアンスを含んでいる。
 男の場合でいう「いごっそう」とペアみたいな言葉で、高知の男は無邪気に面白がるというが、当たり前だが女性はまったく喜ばない。
 老紳士はそのあたりの機微を理解しており、
「じゃあ津野君。あんまり我が儘を言うて、ハチキンの奥さんを困らせんことやで。今はゆっくり休んで養生せんといかん」
 ともども顔を立てる言葉を選んでいた。
「今日中に神戸にお帰りですか」
「そうです。遠いようで近いもんですな。品川を五時に出たら八時前には新神戸に着きます。もっとも僕もこの頃は、ビール一缶飲む前に目が重たなりましてな。うっかりすると岡山ですわ」
 老紳士は親父に向き直り、両手で握りあった。
「ほな津野君。また、な」
 何度もゆっくりと繰り返した。
「また、な」

「本当によく頑張っておられます。正直のところ我々も驚いています」
 担当医がそう言った。
 面会は診察室だった。
 医師のつかうパソコンの周囲はカルテや医療器具、筆記具でとっ散らかっていたが、どれもこれも青白く清潔そうだった。
(本当かな)
 半信半疑とまでいわないが、こんな時は大概そう言うのではないだろうか。しかし初めてのことなので、誰かと比較することもできなかった。
「ここ数日がヤマ場だと思われます」
 驚かなかった。
(うまい言い方だ)
 そう感心していた。
 その時が近いことくらいは素人にもわかった。ここ数日は昏睡と、朦朧とした覚醒とを繰り返していた。
(せめて何か食べられたら)
 何度目かわからないが、またそう思った。ここのところずっと、まともに食事ができてなかった。
 食欲が減退するのと前後して、口にいれるものを選ぶようになり、理由はよくわからないが、人工的な味付けを受け付けなくなった。
 ケミカルなものは駄目だ―――痩せ細った親父は、そう言いながら四六時中、何が食べられるか考えていた。
 嗜好の問題ではないようだった。摂取できる量が限られる以上、より栄養価が高く、自然に近いものを選んでいたのだろうか。
 その頃にとったメモがある。

 やまいも
 納豆
 とびうお
 新鮮なかつお
 マクワ
 小夏
 もも、かき
 さざえ
 しじみ、はまぐり
 筋入りトロ
 豆腐

 いろいろ考えて、食べられそうなものを書いたリストだった。
 ほとんど口にしたことのない果物があるのは意外だったが、それより納豆があることに驚いた。
 いつ頃からなのか知らないが、親父は基本的に自分が食べたことのあるものにしか手をつけようとしなかった。とくに子供の頃に食べていたものを好んでいた。
 今でこそ納豆は全国のスーパーで売っているが、昔は高知にはなかったそうだ。同郷ながら健康志向の旺盛なお袋によって、子供の頃からうちの食卓には納豆があったが、親父は絶対に食べなかった。
「納豆―――?」
「そうなのよ」
 訊くと、病院の食事に出されたらしい。
 繰り返す入退院の生活で味を知ったのか。嗜好が変わったというより、やはり口に入るものを探した結果なのだろう。
 他はやはりというか、魚介類が多かった。
 東京の鮮魚売場では見かけないが「トコブシ」というアワビによく似た貝がある。似ているというより広義にはアワビであり、味もよいが、大きさはアワビの稚貝ほどしかないそうだ。
 起き上がれなくなった親父がこれを欲した。お袋は知っていたが、都会で育った私たちはトコブシがどんなものか知らなかった。
 私には二つしたの妹と、六つしたの弟がいる。
 ひとりで駆け出しのベンチャーをやっている弟は、私より時間に融通がきき、自宅、病院とよく父母のもとに顔を出した。その弟に父親が、
 浩二、トコブシをあるだけ買ってこい―――。
 と、申しつけた。
 彼は困った。既にお袋があちこちを探して、見つけられずにいることを知っていたからだ。アワビでは駄目かと訊けば、アワビとは違うと言う。
 親父は続けて、土佐料理の店にいけ、と弟に命じた。
 確かに東京には、そこかしこに郷土料理店がある。
 アワビほどの知名度はなく、しかし九州から北海道までの岩礁で獲れるトコブシは、なるほど郷土料理として出されそうだった。浩二が訪ねると、果たしてトコブシを仕入れていた。
 ところが彼はトコブシの価値を知らなかった。十杯もあれば「あるだけ」になるかと思い、そう注文してから値段をきいて、慌ててふたつにしてもらったそうだ。
 小さく切ったそれを、親父はふた切れ、口にしたという。

 病室に戻ると親父は目覚めていた。
 といっても依然として意識は混濁し、会話ができそうな様子ではなかった。ただ喉の乾きを訴えているようだった。私には判らなかったが、お袋はそういうサインを心得ていた。
 細かく砕いた氷をスプーンにのせて口に運んだ。私も少し代わった。手伝っても、もう拒否されるされることはなかった。
 しばらくして弟も顔を出した。その日はしきりと喉が渇く様子で、三人かわるがわる氷を砕き、スプーンで運んだ。
 親父は小指の爪ほどの氷を、長く口を動かして飲み込む度に、喉の奥から何かしら声を出しているようだった。耳を近づけると、
 おいしい。
 そう言っているようだった。
「おいしいね」
 お袋が相槌をうった。
 おいしい。
「おいしいね」
 暫くすると声が変わった。
 ありがとう。
 今度はそう聴こえた。
 おいしい。
「おいしいね」
 ありがとう。
「どういたしまして」
 おいしい。
「おいしいね」
 氷がなくなるまで、ずっとそうしていた。

「ヤマ場」になって二日目の早朝、病院から電話があった。
 親父の呼吸が止まったと聞かされた。
(息が―――?)
 一瞬、意味がわからなかった。
 病院は付き添いのお袋に何やら確認をとっているそうだが、お袋はわからないと答えているらしい。
(―――そういうことか)
 ついにやってきたのだった。
「すぐに行きます」
「お願い致します」
 急いで行くと病室でお袋が泣いていた。
 ほどなく弟も駆けつけた。
 やがて当直の医師がきた。
 医師は状態を説明し、兄弟は父の生涯が終わったことを認めた。

 親父を霊安室に移してから外に出た。
 喫煙コーナーがないので、仕方なく駐車場まで歩いた。
 もう通勤の時間帯になっており、通りをいく人々は足早に駅を目指していた。シルバーの車体にオレンジのラインが入った中央線の、高架を渡っていく長いシルエットが遠くに見えた。
 煙草に火をつけながら携帯電話を耳にあてた。十五回ほど鳴って叔母が出た。
「一樹です。朝早くにすみません」
 叔母は一瞬、息をのんだようだった。
「―――幸男がどうかしつろかね」
 叔母は二ヶ月ほど前に、暑い中わざわざ叔父と様子を見に来てくれていた。
 多くの人生を見てきた叔母は、その時に覚悟ができていたのだろうか。少し震えていたが、落ち着いた声だった。
 手短に報告すると、
「カズちゃん」
 幼い頃の呼び方を、叔母は変えていなかった。
「はい」
「ありがとうね」
 どうして礼を言われたのか、よくわからなかった。
 いえ僕は何も、と曖昧に答えておいて、
「こんなタイミングであれですけど、そろそろ寒くなってもきますし、久代おばさんもお身体に気をつけて、どうか長生きなさってください」
 いい年をして、こんな時に俺は何を言っているんだろう。
 しどろもどろになりながら、また連絡しますと電話を切った。
 叔母は東京へ向かう準備を、あたふたと始めることだろう。
 通りを行く人々をぼんやり見ながら、なぜ礼を言われたのか考えた。
 咥えていた煙草がフィルターを残して灰になり落ちた。うまく考えがまとまらなかった。私は頭を振った。あまり、ぼんやりもしていられなかった。
 病院にもそう長くはいられない。もう一服つけながら、続けて葬儀屋に連絡をとった。相手はさすがに慣れたもので、てきぱきと三日分のスケジュールが決まった。通夜はあそこ。本葬はここ。二十分で迎えの車を回してくれるという。
 それまですることがなくなって、三本目の煙草に火をつけた。見上げると秋の空には雲ひとつなく、青く、高かった。
(そうか)
 あのオヤジが天に召されるようなタマか―――空を見上げていると、不意に、そんな思いにとらわれた。
 この空を渡って、生まれた場所に帰っていったんだろう。
 根拠はない。空を見ればわかる。確信に近いものがあった。
 頭が切れて、計算高く、そのくせ鷹揚なふりをしていた。ユーモアがあり、いつも陽気だが、怒りだすのも早かった。頑固者で、譲らないが、冷徹にはなりきれずにいた。会話がうまく、人付き合いもいいが、助言は誰にも求めなかった。プライドが高く、辛抱強く、最期まで痛いと言わなかった。生まれたところを飛び出して、ずっと都会で暮らしたけれど、故郷が何より自慢だった。
 親父―――帰ったんだな。
「タマルカ」
 不意にその言葉が口をついた。
 今は何故か、それがとても相応しいような気がした。

タマルカ

タマルカ

第14回 江古田文学賞落選作。亡父が遺したメモをもとに、想像(妄想?)で戦後から現代までを短編に押し込み、その時代を生きた人物(父)を描こうとした作品になります。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-20

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 昭和二十六年
  2. 平成二十四年