Ⅷアヤタカ 「ミザリー先生のお部屋 前編」
紅茶のような甘い香りがする部屋。
そこは可愛らしくも落ち着いていた。 家具にかかる白い布は、 控えめな花柄。ランプのせいか、 部屋は柔らかいオレンジの色に包まれている。 オレンジがかった桃色の壁紙に、 素朴な木製の家具。そこは寒い冬、 暖かい部屋でくつろぐかのようにおだやかだった。
ここはミザリー先生の研究室、 もとい部屋である。
この学園では、 教師が研究室に住めるように十分な設備が各部屋に備わっている。 従ってここの教師は用意された研究室に住むことが多く、 家具も個人の好きなように揃えているのだ。
この学園に住んでいるのは教師のみならず、 生徒も部屋を借りて住んでいることがある。 しかしそれができる生徒は、 名の残るような功績や学園に貢献する者に留まる。
アヤタカを含めたそれ以外の生徒は、 どこか学園の外の寮や下宿に入る者もいるが、 憩いの場として許された場所に入り浸っていることがほとんどだ。 人間と違い睡眠というものがないせいか、 それとも文化の違いか家自体を必要として無い者も多い。 基本的に家や部屋は高級品、 もしくは嗜好品のように扱われていた。
ミザリー先生の部屋は、 彼女そのもののように優しく甘い雰囲気だった。 そしてそこの部屋のソファの上で、 アヤタカはぽつんと座っていた。 お茶を淹れているミザリー先生のことを、 アヤタカはそわそわしながら待っている。 胸の鼓動も明らかに普段より速くなっていた。
アヤタカに顔色は無い。
自分は何かしたのだろうか。 心当たりが無いわけでは無いけれども、 それなら自分だけ呼び出されるのは不公平だ。 いや、 ミザリー先生の授業じゃなくてシラース先生の授業の方かもしれない。 先生の顔面に泥だんごぶつけちゃったからなぁ……。
アヤタカが先に言い訳を用意していると、 微かに果実が混ざった紅茶の香りと供にミザリー先生がやってきた。
「サイオウ君。 アップルティー、 飲める?」
彼女のワインカラーのドレスが、 歩くたびにするすると揺れて赤く輝く。 アヤタカは本名を呼ばれたことに気がつきはっと目を上げると、 ミザリー先生とぱちっと目が合って可憐に微笑まれた。
「あ、 はい……。多分、 飲めます。」
アヤタカは、 どうやら怒られる気配はなさそうだ、と少しほっとした。
アヤタカは花柄のティーカップに入った紅茶を、 やや緊張気味に軽くすすった。
「!……美味しい、です……。」
アヤタカは全く渋みのない紅茶に驚いた。 とても軽やかで優しい甘みはリンゴの味だ。
ミザリー先生はにこっと笑い、 手にしていたティーカップを上品に口へ運んだ。
アヤタカはミザリー先生が話を切り出すのを待っていて、 その間じぃっと彼女の顔を見ていた。 ミザリー先生はそんなアヤタカを見て、 まるで利口な愛玩動物だわ、と思いくすりと笑う。
そのまま彼女はそっとティーカップを皿の上に乗せ、 すっと背筋を正した。 アヤタカもつられて思わず背筋が伸びる。
少しの沈黙。 アヤタカが見守る中、 ミザリー先生は両手を動かした。 何が始まるのかと思ったのも束の間、 ぱん!という音をたてて彼女は合掌をした。
「ごめんねっ!」
「えっ?」
アヤタカはハトのようにひょこっと首を出した。
ミザリー先生はおずおずと、 上目遣いで話を続けた。
「貴方……入学式で校長先生に名前を間違えられたでしょう?」
アヤタカはああ……。 と思い、ため息まじりにへらりと力なく笑った。
ミザリー先生はそれを言った後も、 口を引き結んだ怖い顔のままじっと足元を見ている。 アヤタカは心配になり、 顔を覗き込もうと体を傾けた。 その間も彼女は言うぞ、言うぞと自分に念じていて、 とうとう話す覚悟を決めた。
「それでっ……! 貴方、それが原因でいじめられてるって!!」
かなりの勇気を出して言ったらしく、 ミザリー先生の顔は力んでいて真っ赤だ。 対してアヤタカは、 しばらくぽかんと口を開けた後、 脱力したように体を前に折った。
ミザリー先生は跳ねるように立ち上がり、 急いでアヤタカの元へ駆け寄る。 眉を下げて、 本当に心配そうな顔をしてアヤタカの側で床に座り込んだ。
アヤタカは首をうな垂れさせたまま、 力なく返事をした。
「いじめられてません……。」
「うそよ……! だって貴方聞いた話じゃ、 からかい半分でアヤタカと呼ばれて、 自己紹介の時も授業でも孤立気味で周りに話しかけたそうにしていて、 それなのに話しかけた人には激しく拒絶されて、 極め付けに今日の爪弾き学で泥だんごをぶつけられていたって! 」
アヤタカは、 噂って大筋は変わらないのに、 微妙に誤解を招くような言葉回しが使われるんだなあ、 と頭の片隅にいる冷静な自分に囁かれた。 虐められているように見えるほど自分は周りになじめてないのだろうか、 そう思い多少傷ついた声で誤解だと伝えると、 ミザリー先生は眉間にしわを寄せて呟いた。
「本当……? そう……うん、 分かった……。 でもお願いね。 いじめではなくても、 傷つくようなことがあったら先生に話して。 私じゃなくても、 信用できる誰かに話してね。」
ミザリー先生は眉を下げて懇願するように呟いた。 良い先生ではあるんだろうなあ、 とアヤタカのもう一人の自分が心の中で呟く一方、 もう片方の自分が拗ねたように口を開いた。
「でも……どちらにしても、 入学2日目でそう判断するのは早すぎるんじゃないでしょうか……。 それにそう思ったからって、 もう話を持ち出すのはいくらなんでも……。 」
少しふてくされた口調でアヤタカがそう述べた後、 部屋は何故か時計の微かな音でいっぱいになった。 返事が帰ってこない。 アヤタカは俯いた姿勢のままで居たので、 ミザリー先生が今どのような顔をしているのかは分からなかった。 一向に帰ってこない返事に、 そこまで失礼なことを言っただろうかと不安になっていく。 静かな空間でちっ、ちっ、と時計が責めるように音をたてる。 アヤタカは顔を伏せたまま、 目だけをちらりとミザリー先生の方に向けた。
そしてすぐに目を伏せた。
彼女の顔を見て、 アヤタカは顔がひきつった。 やってしまった、 アヤタカは冷や汗をだらだら流しながら、 引きつった笑顔をどうにかして戻そうとする。
頭の中のラムーンが、 あーあ!と言いながら自分に指をさしてきた。 ばばっと頭からラムーンの姿は消したものの、 時計の音はこれ見よがしに鳴り続ける。
時計がアヤタカを責めたてる中、 ミザリー先生が口を開いた。
「あ……。本当、 そうよね! やだ、 私ったら焦りすぎたみたい! ごめんねサイオウ君。 誰だって嫌よね、 虐められているなんて誤解をされたら。 私、 まだまだ未熟だからこれから気をつけるわ、 本当にごめんね!」
彼女のいつもの明るい声が時計を制す。 アヤタカが再度顔を上げると、 ミザリー先生は恥ずかしそうにはにかんでいた。
アヤタカは少しほっとした反面、 先程の彼女の顔を忘れることができなかった。
しかしそれをかき消すほどに今の彼女の顔は明るい。
「本当にごめんねサイオウ君。 そうだ、 お詫びに美味しいお菓子を出すわね。 待ってて!」
ミザリー先生がぱっと台所へと姿を消し、 ぱたぱた、 かちゃかちゃと可愛らしい音がする。 向こうで泣いていないかとアヤタカが心配して耳を澄ます中、 時計がやれやれとため息をつくように、 時間のくぎりを伝えるオルゴールを鳴らした。
台所ではお菓子の入った瓶を抱えたミザリー先生が佇んでいる。 きれいにマニキュアが塗られた指に、 きゅっと力が入る。
「良かった……。」
微かに漏れた言葉がアヤタカに届かぬよう、 彼女の声はオルゴールの中に身をひそめた。
Ⅷアヤタカ 「ミザリー先生のお部屋 前編」