どうせ死ぬんです

死ぬことが非常に怖くなった中年男性の、死への反応状況

死ぬのが怖くてしようがない男の話

どうせ死ぬんです
           作・三雲 倫之助

 向こうから声がした。
「あなたみんな起きなさい、だらだらしないの、ご飯、ご飯ですよ」

 ぐっすり死ねました、実に爽快だ、そのような目覚めは人類の誰にも誰にも訪れたことがない。それはこの地球上で未来永劫絶対に起こりえないことだ。
 人は死ぬ、自然の理である、永遠に不滅なものはない、これで、あなたはよく生きて百年だと死を受け入れられますか。あなたは後三十年、あっという間に来ます、もう幾つ寝るとお葬式、元旦は冥土の旅の一里塚、一休さんです、それでも楽しいですか。死ぬんです、死ぬんです、みんな死ぬんです、残らず死ぬんです。
 人はどうしても生きるんです、喜ぼうが喚こうが死ぬ死ぬと叫んでいる限り生きているのです。夜寝て朝起きて仕事に行って、休日があった。その内に妻を貰い、子供が三人できて、夜寝て、朝起きて仕事に行って、休日がありました。
 仕事しているときは仕事のことしか考えない、そうでなければ捗ることはなく、明日から来なくていいと上司から怒鳴られる。それが終わると家庭でわいわい忙しい、それが幸福かと言われたら、そうですとしか答えられない、他に何が幸福か見つけられないから、そうですと答える、甘受するしかない、いやほんとに幸福なんですと言うと、その幸福が零れ落ちて、不幸になりそうな気がする。現実は幸福か不幸かなど考えない、生成流転するだけだ。それも死ぬまでしか続かない、それが幸福なのか、不幸なのか、決めるファクターではない。生きるんですが、どっち道死ぬんです、分解されるんです、バクテリアに、今は火葬で一挙に燃焼分解です、元は分子の細胞のタンパク質の集積です、反応するようになり、それが食べ出して成長するようになり、集合と離散を繰り返し、生き物が生まれた。そして離散集合し、それを意識する動物の人間が生まれた。猫が幸福なら、あなたが幸福なのだ、犬が不幸なら、あなたが不幸なのだ。そうあなた無しでは世の中が見えない、それが最も進化した、いや何かの拍子に生まれ落ちた意識なのである。
 犬は暢気でいいよ、お前ほどではない、犬は犬であることを全うするが、お前は蛇にも鯨にもドラゴンにも不死鳥にもなる、どちらが暢気なんだ、だがそんなことを考えるのはあなたがいるからだ。諸悪の根源はあなただ。戦争が地上から消えたことがないように、平和が消えたこともない、右も左もあります、赤信号みんなで渡れば怖くない。戦争も平和もみんなでやりましょう、そうしましょう、そうしているんです、昔から、賢者の知恵、きっとそうです、大昔から続いているんですから、きっと真理なんです。でも真理なんて、どうでもいいもの、放っていてもいつでもそのようになるんだから、それが人様の歴史だ。ここだけの話だと、人はどうでもいいの、寿命のことだ、その他に何がある、あるなら言ってくれ、言えないだろう、それは太陽を指して太陽だと言うぐらい分かり切ったことだから。ケーキを食べればなくなる、それぐらいのレベルだ。どうせ死ぬから、生きるなどと間怠っこいことは省いて、即死だ、だって行き先は死だろう。お前は何で生きているんだ、間怠っこいならお前から死ねばいいだろう。A地点からB地点までそれが人生さ。
 クソ坊主が言いそうな悟りの境地か、即死しろ、この世に未練があるから、死ねない、だろう、簡単に死ねないんだ、何だかんだ言って、未練たらたらだ。生きる、仕事をすることか、仕事は生活費を稼ぐためにやるものだ、遣り甲斐などと言い出すから困ってしまう、世間体が良く、高収入なほどいい。だが弁当屋さんでもいい、職があるだけ増しだ、健康なだけまだいい、生きているだけで丸儲けだ。そう言う奴には返す言葉はない。真剣に考えてない、五体満足で、片手でなくてよかった、片足でなくて良かった、片足だけでもあってよかったと悦には入るバカだ。最後に残る体のパーツはどこだ。そう言う奴は破廉恥だ。
 喰う寝る仕事遊び、それが生きていることだ。それ以外に表現できない。他に何を求める。人生はもっとディープだと、生きてることが羽毛のように軽い。それでいいのか。もっとあるだろう。価値、尊厳、道徳、美学、苦悩、歓喜、失望、希望…。それが人生ですか、美辞麗句でしょう、胡散臭い、どこの宗教の宣伝文句だ、朝昼晩の毎日だ。人生を投げた人の言い草だ、ふて腐れないで真面目に考える。真面目に考えろって、お前は何様だ、人生の達人か、神様か。詐欺の臭いがぷんぷんする。楽あれば苦あり、なんと皮肉な諺だろう、安心して楽にしていられない、すぐに苦が訪れる。今は苦しいがすぐに楽になる、腸が煮え繰り返るアドバイス、お前は痛くない、他人の痛みは分からない、別人だから、言いようがあるだろう、黙って見ていろ、それでさえ目に入らない痛みだ、分かるか、モルヒネを打って楽にしろ。今痛いのか、そうではない、だからぺらぺら喋る。
 唸り声が全ての言葉を飲み尽くす、唸る唸る唸る、断末魔の咆哮、叫び、呻吟、慟哭、七転八倒、事故病気に引き起こされる拷問、その最中にもうすぐ楽になるとは、死ぬことだ、舌を噛み切って死ぬ、そこまで冷静になれない、のたうち回るだけだ。イタイのイタイの飛ンデケー、イタイのイタイの飛ンデケー、飛ンデケー、飛ンデケー、アッチの水はニーガイゾ、コッチの水はアーマイゾ、シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 生まれてすぐに こわれて消えた 風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ、暴力から救ってくれ、私の心臓を刺せ、首を絞めろ、殺してくれ、耳には獣の唸り声が響く。鬼が少しの我慢よ、楽になるからと頭を撫でた。
 肉体の意識の咆哮、暴力だ。暴力を内から発し、全身で受け止める、なんと奇怪で残酷な拷問だろう。
 しかし、自殺は思いも及ばない、痛みでそれどころではない。悩む時間を与えず、殴打する、痛みが同心円を描き肉体に広がり続ける。吐き気が襲う。息を吐いて必死に痛みの打撃を和らげようとするが、吐き気が込み上げてくる。癌細胞は増殖し、宿主を完全に制圧し、宿主が死ぬと、癌も死に至る。一人の宿主が一生分の食料である。どんどん食い尽くし、痛みを加速し、食料を失った癌は餓死する。エネルギー源の消滅、痛みの消滅、意識の消滅、だが死体は残る、異様な気分になる。遺体は語る、何の原因で死んだかの痕跡を残す。殺人ですと叫ぶことができる。だが警察が検死すればの話だが。遺体を焼く、それが肉体との別れを告げる。
 写真で見るしかない、日々に遠退いてゆく、そうでなければ生きるに辛い。百二十年前の人間は全員死んだ、明白な事実である。だが生きている人は寂しくて胸が張り裂けそうか。そうではない。日々に忙しく、明日は我が身だとは少しも思ってなどいない。明日は永遠に来ず、ぽっくり逝ってしまう。これを幸福というのだろうか。死ぬと分かって死にたいか、知らずに死にたいか、どちらかであるが、どちらがいいか判断しかねる。死はどれ一つにしても最後だからである。もう一回はない。これこそが死を恐れる理由だ。だがこれが最後と思っては生きた心地がしないというジレンマに陥る。死ぬも生きるも難しい匙加減だ。匙加減、それこそが人生訓なのである。それが分からない。匙加減、これこそ臨床の賜である、
 人間、私以外には名前ぐらいしか知らない。と言うと、冷たいように思われ勝ちだが、「本当の」が付いてしまうとイエスノーの堂々巡りで埒が明かない。本当に本当にこれは友情だなと問われると、少しは、十分の四は打算かもしれない。本当の付いてしまうと、全てのカードが引っ繰り返って、嘘になってしまうような精神の圧迫を覚える。血圧も高くなる、鼓動も激しくなる、まるで正体を露わにした国に誘拐されて、尋問されているようだ。
 皆死ぬが、私の死が怖い、他人のお通夜には何度も出ているが、身が竦むような感覚に暫く襲われるだけだ。彼は死んでいる、二度と動かない。私が死ぬのが恐怖なのである、私を無気力の穴に突き落とす。
 喰う寝る仕事遊ぶの私が死ぬ、父の私が、高校教師の私が、夫の私が、昨日の晩ご飯に鋤焼きを食べた私が、今日は顔を洗わなかった私が、列挙不可能な私が死ぬ。様々な私が死ぬ、それがたった一回の死で終わるのはあまりにも単純すぎないか。
 誰かが言ってたな、誰もが簡単に死ねると思っているが、そう簡単には死ねない。ぱっと浮かんできたが、そう言うお前は生きている、死ななかった、だろう。講釈師、見てきたような嘘を語り出す、死んできたように言い出した。却下却下。私が死ぬ、それだけで片が付いてしまう愚かさ、何をしようが、しまいが、どうなろうと、私だ、なぜなら私が私だからだ。
 人間は死ぬ、犬も死ぬ。犬は死を恐れているだろうか。馬鹿げている、人間が犬のことまで分かるものか、そうなると猫がワンと鳴き、猫がニャンと鳴くだろう。猫は犬がどう思うか気にしない、思うことがあるのかさえ分からない。危険か危険でないか、それだけだ、それが自然の掟だ。私の思いを犬に投影するのが、無理がある。それは私は私をすんなり受け入れられない不安定な精神だ。何でもありだが、全部不安定でしっくり来ない。すんなり、しっくり、それが「私が私」を受け止められる精神の状態だ。そうでないと社会での百面相の動きに違和感なく行動することなどできない。
 だが殆どの人間が事も無げに行っている、日常茶飯事だ。日常とはしっくりとすんなり来なければ、歯車が噛み合わず、生活に支障を来す、覇気がなくなる、閉じ籠もり勝ちになる。何をやっても私のような気がしない。そのようなことを考えていては生きて行けないから、流してしまう、それが大人だ。いかにも偉そうに宣う精神分析家がいたが、そのような大人になりたくなくて、子供たちは穏やかな蹶起をしているのだ。解答が出なければ、そのようなものだと、心の奥に放り込んでしまえと世慣れたことを言う。解答を出すために、幼稚園から高校まで訓練している、教育とはなんだ。解答があって、それを捻り出すのが試験の解答だろう。
「私が私」が死ぬ。生きている限りあり得ない話である。私が私は他人を必要とする、彼、彼らと私。単独では生きていくとなると、生活基盤が大自然となり、野生の動物のように生きなければならない。それでも「私が私」が今のようなら齟齬を生むだろう。だが私は彼らを知ってしまっているからだ。オオカミに育てられオオカミとして生息するだろうが、きっと「オオカミがオオカミ」とは悩まないだろう。弱肉強食の世界で生きる本能だけで、「オオカミがオオカミ」と考える暇はなく、警戒しながら眠っているだろう、きっと枕を高くして眠るなどということは、本能だけの頭では無理だ。ネズミは猫に噛まれたとき、死を意識するだろうか、恐怖に打ち震えているだろうか。だが暴れもせず観念したように動かなくなる。死ぬ前には脳内快楽物質、エンドルフィンが出て、怖くなくなる、精神に麻酔がかかる。しかし、人間は殺されるまでの道筋が怖いのである。すぐに心臓をサバイバルナイフで刺されたのなら、何が起こったのか分からず死ぬだろう。恐怖は心的なものだ。
 死は老衰なら肉体の痛みはなく、蝋燭の光のように溶けて消えゆくだけだが、恐怖はあるのか、いや老衰なら脳も衰えて、恐怖はなくなり、死ぬことの引き潮が始まるだけだ。死の認識はある。
 小学校の運動会の駆けっこと同じでスタートに付けば、合図を待ち走るだけだった、終わってみれば大したことではなかった。だが終わった後はない、死んでいるのだから。人間の習性なのだ。分からないことを夢想する。猫だったら、どうなるか、私が死ぬとはどうなることか、想像する、色々な物語が生まれる。だが人間が考えたことだ、だから楽しむことができる、猫のことは分からない、猫ではないから。だが死は確実なことなのに、情報は一切ない、無論、生命活動のない遺体は残るが、体内に棲んでいた大腸菌などによって腐るから、速やかに火葬される。生き長らえる、死に長らえる、そのような言葉はあるのか、死に続けることで、死んで何年とは遺族か、知人が言う言葉である。死人が言うわけではない。今年でもう死んで三年目です、やっと死にも慣れましたと言う死体、骸骨、遺灰はない。幽霊になるしかない。無論、幽霊など、死ぬことが怖いので、作り出されたファンタジーである。魂は永遠不滅です、巨人軍は永遠不滅です、陳腐である。
 確かに、あの世があると信じられれば、死など怖くない、この世は仮の宿で、あの世が永久の住処である。なんと心地よい響きであろうか。新興宗教のパンフレットにはあの世では病の人も健康で若々しい体で蘇ると謳っていた。だが人格神である神の戒律を破る者は神の怒りを買って、死んで地獄で釜茹でにされる。これも又永遠に続くのである。あの世での悔い改めがあるかどうかは、記載されてはなかった、又、あの世でも教会の勧誘が有るか、否かも明記されず。いい加減なあの世の宣伝である。
 だがこの世で宗教の雁字搦めでは生きていて楽しいのだろうか、仮の世だから苦しくても構わない、だから耐えて耐えて生き抜いて、あの世へ行く、この世は修練の場なのである。
 だが黙考してみよう、あの世がなかったら、どうなる。楽しみを捨て、他人に尽くし、金持ちでもないのに、連帯保証に入り、借金をローンで払い、酒も飲まず、女遊びもせず、ギャンブルもせず、煙草も吸わず、暮らした私の一生はどうなる。死んだきりで、あの世はなかった。後悔先に立たずとは、この事だ。一生を騙すペテンはどこに訴えて、償ってもらうのだ。だが被害者は既に死んでいる。騙されたどうかも分からずに、信じて死んでしまった一生はどう理解すればいいのだろう。断腸の思い、慟哭、失神、茫然自失、頭がおかしくなる、知らぬが仏。知らぬが遺体、それでもいい人生だったと嘯いてみるか、他人事でも空空しく思えてならない。
 二千年も続いた宗教とは何だろうか。無駄だ、死ぬのだ、一切が消える、私が跡形もなく消滅する。生命科学の学者が言った、「遺体は焼かれ、或いは地中でバクテリアに分解されて、分子に戻り、原子となり、宇宙と一体となる」確かに理屈だ、それだけだ、それでその学者は笑って死と抱擁できるだろうか。人間は宇宙の数え切れないほどの星の一つ、地球の雑菌ほどのものである。生きていようが死んでいようが、たとえ微少でも宇宙の一部ではある、しかし人類と自分で名付けた。宇宙と一体になるとは、あの世があるよりは論理的だが、死への恐怖感を軽減することはない。
 まだ輪廻転生と言えば分かりやすい。原子になるのならそれが離散集合して、鳥や動物や人間になっても構わない、だが前世は全て原子であることだけしか、浮かんでは来ない。私は前世は豊臣秀吉だったと思う雀はいない。私は梟だったという記憶のある人間はいない。無論、ペテン師は何だって言う、私は天草四郎の生まれ変わりだと吹聴するのに躊躇いはない。だがそれがどうした、今目の前にいるのがお前だよと思うだけである。輪廻転生、よく思い付いたものだと感心はするが、納得はしない。
 閃いた。死ぬのが怖いから生きている。いつでも自殺はできますよと言った記者に、今死ねと言った芥川龍之介は正しい。そのような人間は自殺などしない。いつでも自殺できますよとほざいて、天寿を全うするのに、死にたくないと死に際に喚くに違いない。
 死にたくないのは、私も同じだが、いつでも死ねますよと悟ったようなことは口が腐っても言わない。いつ死んでもいいように、生きるのが悟った人の生き方らしい。刹那主義、この一時を充実して生きる。明日のことは考えないが、明日もそのように過ごして、一生が過ぎる。いつ死んでも悔いはない。今が楽しければいいと、今日に溺れる者とは違う。
 しかし私は死ぬのが怖い。あの世もないらしいのに、この世から消えるのが怖い。ただこの世から消滅する。ゴミ収集車に投げ入れられる紙くずだ、明日は我が身。生きるぞと思うと、頭の隅から小声が聞こえ、どうせ死ぬのに、と水をかける。中国の杞の国の人が隕石がぶつかって地球が破壊されると心配して、夜も眠られず、食欲もなく、隕石が衝突する前に死んでしまった。それからする必要のない心配を杞憂と呼ぶようになった。自分の死を恐れることは必要のない心配か。違う、最も切実な問題だ。誰にも必ず降りかかってくる問題だ。
 無論、死が怖くない人はたまに出る。二〇〇一年に詫間守が大阪の池田小学校に刃物を持って押し入り、児童八人を殺し、教師を含む十五人が重軽傷を負った。理由は「死ぬのなら道連れは多い方がいい」。死刑になりたくて、人を殺した。死ぬのは怖くない。
 死も怖くなく、死にたいのなら、山奥に入って、自分で包丁で首を刺してひっそり死ねばいいが、こういう人は世の中に馴染まなかった仕返しをして、殺されたいらしい。
 彼は死刑の判決を不服とせず、上告もせずに絞首刑になって死んだ。自分が死ぬから、何人殺してもいいという犯罪者に、自分も後から行くから何人兵隊が死んでもいいという大将。
 死ねば自分だけは全てからちゃらにされる。
 彼らには生き得死に損はなく、死に得があるのか知れない。百人殺しても、死ぬのは一人である。命の惜しくない人は突然変異の厄介者である。だが少数で何よりだ。死ぬのが怖い、これが普通の人の感覚である。だが殆どの人間が衣食住を喜々として楽しみ、死の恐怖など感じてはいない。死ぬのは死ぬ前に考えればいい、あっと思ったらすっと逝く、短ければ短いほどいい。そうだろうか、突然死、パソコンを打っている内に脳溢血で倒れ救急車で救急隊員の、大丈夫ですか、大丈夫ですかとの声を聞きながら、意識が遠退き、救命センターのベッドの上で死んでいる。家族はただ呆然とするばかりだ。浮かばれるだろうか。死人にそのような考えはしない。死んだ、意識はない。生きている人間は私だったら浮かばれない、誰だって浮かばれない、それならば遺体の人もそう思うと結論を憶測する。ベッドから動けない状態でどのくらい生きていれば充分なのか、身近な知人や家族に別れを告げられるだけ。余裕を持って二日、危篤の知らせで二日で来なければ親密ではなかったとのことで、切っていい、そうしなくとも死ねば切れるが、生き残った奴の気持ちの分がある。生きている人間をとやかく言うのも、未練たらしくて嫌である。すっきり死ぬ、それが最高の死だ。と思うが、それは生きてる奴ら勝手だと指摘されればその通り。死ぬ者の気持ちは分からない。私の死の想定はあくまで老衰であるので、惚けて死の怖さは麻酔を打ったように、エンドルフィンが出て、躁の状態で最後の会話をするだろう。死は気付かれないほどの足取りでやってきて、それで臨終を迎える。
 死は私の脳裏で増殖し正常な細胞を占有してゆく。恐れるな、実態はない。死は殺し屋ではない、何かが原因で、死は自ら手を下さずにやって来る、事故死、老衰、病死、突然死。
 死、それは人の最後である。死が頭から湧き出しそうだ。窓から外を眺めると壁が塞いでいた。
「手を出すと窓際から手が消えた」
 最近から、このような幻視のような文字のイメージが泳ぎ始めていた。
 私はロジカルでなければならない。そうでなければ暴走し、自分の世界が頭の底の泥中から蓮のように茎を伸ばし、死の花開こうとする。だがそれは罌粟(けし)の花だ。
 恍惚にして、最後は理性が蕩け、感情だけが湧き出して、枯渇する。骨と皮になり果てる。そこには生死が分からない人がいる。剥き出した暴力、残酷が人を恫喝する。ふうっと息をするとぷくぷくと泡が水底の方から上がり出した。螺旋状に上がる。なぜか生命の発生を連想させた。成分は知らないが液体から生まれたのだ。
 その頃は紫外線を吸収するオゾン層はなく、紫外線は命取りになった。三十五億年前のことらしい。RNA、DNAの出現、遺伝、そしたら果てには猿から人間が出来上がった。約四万年から一万年前のクロマニョン人は葬式をしたらしい、遺体には花束が添えられていたからである。死は特別なものだった。
 記を落ち着かせるために、余計なことが頭に浮かぶ、昔のことなどどうでもいい、へばり付いた死の恐怖を全部剥がして呪縛から逃れたい。
 窓から見える壁がシルバーメタリックで輝いていたかと思うと、光の具合で干渉縞が見える、虹色の油が浮いているようだ。窓から壁に向かって叫んでみる。
「向こうはどうですか」
 何もなく壁の影が移ろいで行く。死人に口なし、死人は一切が不自由であり、答えるわけがない。死ぬと魂が抜けて、魂は透明な気体であの世に行く。
 向こうでは、思うとすぐに現実になるらしい。だから強姦魔は一秒も明けずに強姦し続ける。相手は強姦魔のイメージで作られる。あの世では誰も一切を関知しない、本人だけが分かることである。会社勤めでだった経理の女性は経理に生き甲斐を感じて、仕事をし続ける、暴走族は単車を乗り回して奇声を上げダンプにぶつかっては、すぐに同じこと繰り返しながらも、心底から楽しくてならない。汚職国会議員は議員会館で数億の金を受け取り、我が世の春を謳歌する。金を受け取るたびに喜色満面である。金を壺に貯めて床下に隠した老婆は毎夜毎夜床下から壺を出しては金を眺めては目を細め至福の時を味わう。一番心に残ったことをやり続ける。だから止めようなどと余計なことは微塵も浮かばない。あの世など信じない。
 信じる者は救われる。都合のいい言葉だと鳥肌が立つ。その言葉は論理を全て否定する。その先は行き止まりである。だがぶくぶくと死後のイメージは沸き上がる、死という言葉はそれ自体を呼び起こさずに、死後を雄弁に語らせる。
 死んでからは他人の行動であり、死は生命の最終結果である。私の全部がなくなる。二度と人と会うことはない。浴槽の水を抜かれるように死へと吸い込まれる。きっと貧血のような症状だろう、気持ちよく倒れる。意識を失うのに気持ちがいい、死もそうかも知れないが、死を意識していればその間はずっと怯えている、詰まり生きている、
 何もない、それが死だ。どうして断定できるのか、全部推量だろう。
 私は昨日死にましたは有り得ない話だ。幽霊だ、ゾンビだ、人魂だ、死霊だ、往生して極楽へ行けが皆の考えだ。皆とは生きている人を言うのだが、死人の勝手でしょうという理屈もある。が、あなたはすでに死んでいる。あなたの体は消えて、この世にはない。火葬にされました。あなたがいるのは変です。だから、幽霊又は死霊だ。幽霊の足は語れない、ないものは語れない、ないから。どんな足か描けるはずがない。西洋のは足があるらしいと聞いた。ゾンビも西洋物だ。大体か腐りかけて生々しいのが気に食わない。だから火葬がいい。よく考えたら、全て絵やテレビや映画で見た物だ。実際には見てない。民間伝承だ。
 ギロチンは一瞬だ。代々死刑執行人のギロチンが苦しまないように処刑するために考案したものだ。絞首刑でロープが切れて、死刑囚が死んでいない時は、刑務官が首を絞めて、死刑を執行する。腹を切るのは痛いので、介錯人がいる。憂鬱だ、死に方を考えているのではない。死を考えたいのだ。
 死を恐れない勇敢な行動、武士の魂、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と山本常朝の「葉隠」で言っているが、怖い。乃木陸軍大将のように明治天皇の崩御とともに殉死するのは真似できない。三島由起夫のように自衛隊市ヶ谷駐屯基地で蹶起して、腹は切れない。
 死ぬ気で生きる、一旦その意味に拘ると意味不明になる。死ぬ死ぬ死ぬと思って生きて、何が真っ当なのだろうか。
 「死ぬ気で生きろ」
 死ぬ気では生きられない、死ぬ気なら溌剌と健康であるはずがない、瀕死の状態だ、死ぬ気の状態ではベッドに横たわっているのが必然である。
 死は感性に訴える言葉らしい。生と死はコインの裏表、死なず、生きず、矛盾を受け入れろ、禅の言葉のようでもあるが、だが執着の余りに発する言葉だ。死んでりゃあ、いいこともあるさ、生きてりゃあ、いいこともあるさ。死は全てを閉ざす状況であり、生きているぎりぎりの周りを包み込みながら閉塞している。だが死が我々に反応するはずがない。生が宇宙という死の中を体という防御服を着て動いている。
 私は腐って行く死体になり、火葬される、それが問題である。だが死体に意識はない、だから火葬されるのである。生きた者を燃やせば殺人罪に問われる。本人は死ねばどうでもいいのである、死んだら終わり。八十年生きて、誰かが言う
「終わった」
 深海の闇の中で泳ぐ異形な生き物たち、死後の彷徨える魂を彷彿とさせる。なぜそのようなイメージが埋め込まれるのか。陰陰滅滅。では燦然と輝き渡る日本晴れ、そのような死はどうであろうか。それでも空しい。遺影を見たことがあるだろうか、背景は何もない水色、空色である。あってはならない異様な世界が顔を覗かせる、死が一層深みへと転がって行く。死が境目なら向こう側があるはずだが、実際はない。あの無色透明から見た風景が青空が広がっているだけだ。思い出す度にぞっとするが、それでも気にせずに生きている時間が殆どだ。
 無論、なぜ生きるのかも考えたことはあるが、なぜなど無用だと感付いた。遊び、寝て、仕事をし、一家を養う、一家もそれで動いている。
 人生の大義名分、私は何々のために戦います、は代議士の戯言である。使命感もそれが生きやすいのであれば、それで結構である。だが他人まで巻き込むな。だが救い主か予言者と思っているのなら止めようがない。宗教の自由で、権利は尊重されなければならない。彼は指名に命を捧げることに怯まない、それは天に召されることを意味するからである。天とは楽園である。しかし、新興宗教の教祖は違う、我が世の春を味わい尽くして、怖がりながら仕方なく死ぬ。それでも青空が澄み渡っている日和である。死んでも本望である、若いときに憧れはしたが、今ではそうは思わない。早く死ぬと、死ななくてよかったとの感慨はできない。そのような年まで生きなくていい、太く短く散るのが花、桜の花のようにぱっと咲いてぱっと散る。それが人生だ。死して悔いなし。何もかもが新鮮だった。死のうと思わないのに、スピードの出し過ぎでポルシェで死んでジェイムズ・ディーン、革命で死んだチェ・ゲバラも同じ土俵で飛び跳ねていた英雄だった。見事な散り方であった。だがジェームズ・ディーンは役者を続けたかった、チェ・ゲバラは世界革命を実現したかった、どちらとも思わぬ死であった。
 そのようなことではない、好きなことをしている最中に思わぬ悲劇が起こる、それが英雄の条件だ。死ぬのが怖くなった年になった。曖昧な表現である。
 十七八で死ぬのを恐れる人もいる、七八十になっても女好きで死を忘れた人もいる。悟れば何歳で死のうが、充実している人生であり、悟らない者が居残りで補習を受けるために長生きすると喝破した和尚もいた。それは仏教徒のケースでしょう。
 悟りもいいでしょうが、肉食妻帯で世の中をエンジョイしていますから、そのままで生きたい。
 ところががいつの間にか「死」の一文字が根付いてしまった。楽しい一日の終わりの就寝時になると、その「死」が目の前をふらつき始める。さっと一日の余韻が冷めて、鳥肌が立つ。このように死んでいくのかと思うと、私の人生が見る見るうちに枯れていくように思われる。
 こんなものかと味気ない思いで、大きな息を吐いてみる。少しは落ち着く。どうせ皆死ぬんだから右の耳から聞こえると、左の耳から死ぬのは一人ずつだと聞こえ出す。
 死ぬんですか、ええ、死にます、あなたも私も世界中の人が死にます。それが歴史です。でも学校で習うのは戦争のことばかり。それは死ぬのではなく、殺されるの間違いでしょう。徳川家康は長生きして天麩羅喰って中毒で死んだとか、ほんとかやっかみか分からないが、いい気味だと思う。
 死んでもいいことはないが、悪いこともない、そのようにして現実から逃れるために死ぬ。
 一体ネットで自殺志願者を集って、或る場所に集まり練炭自殺をするのはどういうものだろうか。一人では死ねないが、複数なら励まし合って死ねる。互いに背中を押し合って一線を越える。知らない者同士が知らないままで固まって死んでいる。世の中がそれほどまでに酷いのなら、死ぬ方が楽だ。それだけが共通点だ。
 それは鬱だと思うので、メンタルクリニックに行って、抗鬱剤を処方して貰い服用した方がベストである。世の中が悪くなったのではなく、あなたの見方が悪い方へ悪い方へと考えてしまう思考回路に成ってしまい、悲惨な世の中が頭の中で膨れあがって行くのだ。そう見た方が自然だ。世界一安全な日本が急に変わるはずがない。だが自分の精神を疑うのは客観的認識を要するとともに勇気を要することである。自分を疑うより、社会、他人のせいにした方が我が身は安全だからである。だが落とし穴がある。
 目に映る非道の世界を変えることは不可能であり、逃げ場は死になってしまう。もし自分の精神が異常だと思えば、咳が出て、熱があるのなら、病院で風邪薬を処方して貰うように、精神病院に行き、心の診断をして貰って薬を貰うことだ。世の中を否定されるより、自分を否定されるのが最も怖い、それが精神科医の敷居を高くする。精神の風邪引きで、早とちりで死ぬのは不本意であるはずだが、その時には消えて無くなっている。
 そのように思うのは、死んだ者たち以外の人である。後のことなど考える余裕がない、考えたところで、自分で葬式を出し、火葬されて、骨壺に納骨し、遺族へはいどうぞとは行かない。
 生前葬などやるのはいいが、現実になくなったとき、人は悲しむのであり、本音を言うのである。色々やるのはいいが、生きて死を覚悟はしても、知ることはできない。だから怖い。
 谷底を見れば足が竦む、だが死を見れば、何も見えない、自分がいなくなるという視点消失の世界が広がっているとは全く分からないということだ。だがそこに私は絶対にいない、死んでいるから、消える。何物かである私が何物でもないと考えるから怖い。
 両親が私を生んだ。両親の両親が両親を生んだ、そのようにして生殖して子孫を残す。生まれ死んで生まれ死んで生まれ死んで…、それが続いてきた。このまま無事に続けば子供が生きている内に死ぬ。それが順番だ。次は私の番です、死にますから、誰に向かって言うのだろうか。神様に、神様も死と同じぐらい分からない、だが信じられている、いや自分から信じ込んでいる、自己催眠、洗脳、色々あるが信じたいから信じた。信じられずに、死を怖がっている私がいる。かと言って、今日にでも教会へ行ったならばと、信じられるものでもない。迷える子羊と言うけれど、信者の中にも死を怖がっている者がいるに違いない。それでもいつかは天国が信じられる日が来て、死から解放されると縋る思いで教会に通っている。同じように悩んでいるが、彼がポジティブだ。私は死を引っ繰り返しては、壁にぶつけては考えてすきっとするような答えは得られず、昨日も、今日も結局は明日も同じように溜息を吐く。これを不幸と呼ぶのだろうか。暮らしにも困らず、家庭にも恵まれ、高望みもせず、平穏無事の中産階級でやってきた。
 そして降って湧いたのは、私はいつかは死ぬ。
 誰に死を教えて下さいと頼めばいいのだろうか。たとえ聞いても、返ってくる言葉は、「あの世」「天国」「極楽浄土」、うんざりだ。死に損なうのはいいが、生き損なうのは嫌だ。暗くなるに連れて、通い慣れた死が我が物顔でやってきて、一言だけ言って黙る。「死」
 どんなに追求しようと絶対に口を割らない殺人犯である。
 分からない、どう考えても分からない。それなら放っておこうとしても、向こうから額に白い紙を貼った白装束の男が、女が、性別不明の人間がやってくる。紙には「死」の一文字が書かれていて、私はそれを剥がすように七転八倒した。紙を引き破ると、のっぺらぼうが顔を見せたかと思うと、消えた。この想像は何を告げたいのだろうか。死は起伏がなく、どこまでも平面である。何を言いたいのか分からない。ただ浮かんできた、それでいい。要らないことで思考を摩耗させたくはない。
 だが一つだけ死がもたらす一つの奇跡を聞いたことがある。
 死が訪れようとするとき、病から解き放たれる時間があるそうだ。その精神科医はどうしようもないほどの妄想に悩まされ、家族に迷惑をかけ続けた患者が息を引き取るとき、自分の人生を振り返り、迷惑を掛けたことを詫びて去ったと言う。
 そう言えば、祖母も死ぬ前の二日ほど前に息を吹き返し、友達や家族に一人ずつ呼んで話をして去った。エンドルフィンが出て、一時的に死ぬ間際の人間を活性化させるのだとも聞いた。狂気は死に近い、生きてはいるが世界とは断絶した世界に立っているからだ。もう一つ不思議がある。精神病院の重病棟の患者が隣の家から流れてくる宮城道雄の「春の海」を聞いて、治った。そういうことも起こりうる世界でもある。これはここ数日の図書館通いで見つけ出したグッドニュースであった。
 だが数分もすると希望は儚く消えて、死が這い出してくる。ランナーズハイ、肉体の限界に達するとエンドルフィンが分泌され、気分が高揚する。死も肉体の限界である。それを超えると肉体の腐乱が始まり、もはや精神などない。死体が横たわるだけである。やはり厭世観で早くこの世からおさらばしたいと思いながら死にたい、死にたいと願いながら死ぬのが、一番死を怖がらずに済む方法だろうか。
 しかし、そのように辛い日々を送る一生は私はご免だ。衣食住足りて、余暇を楽しむ日々、それでこそ私の人生だ。人生に悩むものなどない、解決すべきことと、しなくてもいいことがあるだけだ。決断の問題である。だが死は違う、何もなくてべとっと私に張り付いて、じわじわ染み込んでくる。死はあるが中身はない、それをどう捌けばいいものなのか、誰か教えて下さい。何もないことが分かっているのに、悩ましいのはどうしてだろうか。
 普通の人なら「死にたいよ」と叫ぶところだが、私には言えない。右の耳から即座に、「死ねば」と声が掛かるからだ。死にたいよ、身の程知らずが言う言葉の類であるが、それを知らずに使っている無神経さが死を死として感じていない証拠である。私は神経症なのだろうか。たとえば何度手を洗っても、手が汚れているようで、繰り返し手を洗う人のような潔癖症ではないだろうかと。毎晩、死のことを考える。月に一度セックスをしようが、三十日ずっとやっても、異常ではありませんと本で読んで、ここで私は納得してしまった。回数の問題ではない。詰まり全く死を考えない者が問題なのである。私は極めて健全である。実家には仏壇があり、祖先崇拝である。私も線香を立てて家族の健康を祈る。そう言えば神社に初詣に何度か行った。死んだらそれまでと思っている私が何で拝むのか理不尽であるが、すがすがしく拝んでいる。
 やはり神様はいないよりはいた方が生きて行くには便利かなと思う。
 便利だからと交通事故で人をひき殺すかも知れないのに、マイカーを運転するのと一緒だ。いやこじつけだ、でも近いかも。試行錯誤でも、座して死に我が身を乗っ取られるよりはいい。それでも結局は死ぬしかない。ちちんぷい、死ぬの、死ぬの、とんでけー、子供だと泣いて忘れる可能性もある。
 人間は生まれたときから死へと歩き出す、身も蓋もない言葉である。死が先か、生が先か、鶏と卵論争になる。鶏は次の卵を産むための手段であると或る学者が言っていた。生は次の死を生むための手段である。何かしら哲学っぽい。生が先だ、生物がいてこそ、死は始まる。
 バクテリアの命は非常に短いが、その代わりに当然進化は速くなる。プラスティックを食べるバクテリアが発見された。進化は生きるために行われている。食べるものが捨てられたプラスティックしかない場所で、それをを食べるしか生き延びる道がなく食べ始め、何世代か目にそれを食べて分解できるようになった。何世代かがプラスティックを食べて死んだ結果が環境適応である。それを考えると、あの卵の学者の言うようにDNAの伝達のために生きているのかとも思えるが、そうではない。生きるためにDNAを伝えるのである。長寿の遺伝子は発見されたが、不死の遺伝子はまだ発見されてない。眠ったら死んでいた。これほど怖いことはない。いつまでも目覚めない、眠るのが怖くなるはずだが-+、私はよく眠れる。神経が図太いのだろうか。眠ったら死んでいた。
 詐欺に合ったようなものだ。一発で最後、この恐怖感だけが死が意味するもので、嘆きの奈落へ突き落とす。死んでみますかと試せたらいい。臨死体験があるが、体験者に共通に見られる、光り輝く場面、花畑、川、亡くなった家族が妙に気に掛かる。自分の経験を何一つ超えてない、そうあって欲しいものが現れただけだ。怖い思いは一つもせず、逆に癒されて、生きる意味を知ったとか、随分めでたい話である。あなたの都合じゃないのが死なのです。それは脳のある部分を刺激すると同じ現象が起こる、それを突き止めたカナダの学者はその装置まで作った。だがもう一つの不思議を人間は作った。無意識である。この無意識を探査できるかということである。なぜなら分かれば意識があることで、無意識ではない。それと無意識はマグマのように活動しているのだという。だが死は活動しもしなければ、人間の体に属するものでもない。無意識、死、得体の付かないもの同士に引きつけられているだけだろうか。もし人間が死と匹敵するものを持っているというのなら、それは確実に狂気である。私は死ぬ夢を見るが、死ぬ前には起きている。夢で死んだら、死ぬと言うが本当なのだろうか。動ける内は人生を謳歌して、体が言うことを聞かない年になったら、惚け初めて、死など頭に上らない。これこそが長寿の恩恵である。だが私は四十五から死がぶら下がっているが、壮健である。むしゃくしゃしてくる。生きていることに意味があり、死に意味はない、これもどこかで聞いた台詞だ。死に意味があると、生きていることは意味がないという婉曲表現か。
 死ぬまで生きる、死は生き方ではない、生き方の強制終了である。その瞬間からあなたは、私は存在しない。
 あの世がある、それは甘く蕩ける蜂蜜のようである。ではそれをどのように喩えるのか、過去を振り返る。
 自転車に乗っていると、邪魔な人や車に出会すたびに、
「死ね」
 と罵っている。何かが晴れたような気になるが、一日の終わりなどには、罵ってばかりで何が楽しいんだろうと落ち込む。だが止められない。
 道端の跳ねられて死んだ猫には般若心経の触りだけを諳んじる、葬式の案内看板を見たときもそうだ。何か御利益が期待できるのでは思ってのことだ。神聖な気がして、宝籤にでも当たりそうな、一万円札でも拾いそうなハッピーな気分になる。
 私の死も他人にはそのようなものだろう。とても軽い。死を全員、生きとし生けるものの分まで受け止めれば、その瞬間押し潰されて死ぬか、おかしくなるだけだ。他人の死はどうでもいい。
 だが、私はいずれ来る自分の死が怖い。赤ちゃん、子供、若者、中年、初老、老人、死因、老衰、死ぬ。それが人生だ。私に降りかかる死が怖い。その死を納得したい、だが納得できない。その中身が「死」それ以外にないからだ。喰う、寝る、遊び、仕事、休憩、一杯飲むとか、そのようなものが一切ない。だから「死」です。この世をはかなんで死ぬ、この死をはかなんで生きる。言葉の収拾が危うくなってきた、ショートしそうだ、焦げ臭い臭いがしてきた。
 死が怖い私だが、露出の多い大嫌いな芸能人が死ぬといい気味だと思って清々する。暗い、とても暗い、それが死だ。
 だがとても明るいもので肉体の衣を脱ぎ捨てて、すかっとした気分だという人もいた、その人は死ぬのが待ち遠しいぐらいだと語り、笑って死んだ。笑って死んだ個人としては構わないが、あの世で魂が蘇るというのは他人にまで勧めるものではない。霊界の宣伝マンと言ってたが、あの人しか行き来できなかったのだから、これ又怪しいが、気が晴れた人もいただろう。あの人が再びテレビに出れば、にわかに霊界の存在が取りざたされるだろう。だがその日は消して訪れない。
 私は死ぬのが怖いから、自殺もできない、逃げようがない。
 傍目から見れば普通の高校教師として、夫して、父として、ごく一般の一人のよき社会人として生きてゆくのだ。
 そう言えば、孔子が、まだ生きることも知らないのに、死など知る必要がないと言っていた。ところがある坊主が、孔子が死んでから二千年経つ、そろそろ死について考えてもよい頃だろうと。私もその時に出くわしたのかもしれない。

どうせ死ぬんです

死はいくら考えてもどんなものか分からない、だから考え込んでしまう、だから考えない。どっちになるかは、出くわした状況による。

どうせ死ぬんです

この小説は最初の一行から最後の一行まで、死が怖くなり、死を考えるようになった主人公の死とは何かを捉えようとする独白である。他人の遺体を見るしかできず、自分では経験できない死を、捉えようとする滑稽だが真摯な主人公がいる。

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-24

Copyrighted
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