見立て密室の殺人

中学生とのときに「獄門島」を読んで以来、金田一耕助のファンなのですが、実際にミステリーらしきものというか、それを目指したものを書いてみて横溝先生というか、辻褄のちゃんと合う作品を完成させるプロがいかに偉大か痛感しております。というのも種を解説しながら手品を披露するような感覚を味わっておりまして、特にファンの方はたちどころに真相を看破して金田一舐めんなと怒りだすんじゃないかと戦々恐々、それも(奇特にも)お読みいただければの話ですが。

1 ケータイ問答

「どこのドイツかオランダかァ」
「なんですと?」
「いえ、どこのどいつか知りませんけどもね。厄介なもんをこしらえてくれたもんですよ。こいつのせいで、ホント、みんな迷惑してる」
 くたびれたサラリーマン風の男が、カウンターに置いたスマートフォンを爪でくるくる回していた。
「ほう、そんなもんかね」
「そうに決まってますよ。こいつのせいで僕たちは年中無休、二十四時間で働かなきゃいかんのですよ」
「ふむ。菊田君はそう考えているのだね」
 島崎警部補は曖昧に相槌をうった。
 ホトケの―――と異名がつくほど温厚で人当たりのよいこの老刑事が、誰かの主張に異論をさしはさむことはあまりない。
 もっともそれ以前に、まともに議論をするには相手が酔いすぎてもいた。
 新宿駅の東口から歩いて十分、歌舞伎町の区役所通りを大久保方面に進み、幾つめかの路地を右に入って三件目、新宿ゴールデン街のやや北側にある雑居ビルの二階。
『セトネエケ』という、へんな名前の小さなバーは、そこにある。
「けど、そこが便利なんじゃない」
 森川楓―――正義感と向こう気が強い、島崎警部補の部下にあたる女性で、巡査部長―――が反論した。
 彼女は上司ほど温和ではなく、こういうことを受け流せない性質のようだった。
「携帯電話が普及したおかげで、何時でも連絡を取り合えるじゃない。このメリットは大きいでしょ。待ち合わせ場所を勘違いして相手に会えないってこともないし、急なスケジュールの変更を外出中の人にも伝えられるし」
「そう、そこ。そこなんですよ」
 菊田は水割りで喉を湿らしてから、
「そこが問題なんですね。いつどこにいても捕まっちまう。携帯電話のなかった頃には、連絡のつくところに着いてから聞いていたことを、いつでもどこでも聞かされるんだから堪りませんよ。おかげで一日に二つ三つやっていればよかった仕事を、五つも六つもやらなくちゃ怠けてると思われる」
「いいことじゃない。五つでも六つでもそれ以上でも、どんどん仕事できて何が悪いの?」
 傍らで聞けば、ふたりの会話はまったく噛み合ってなかった。酔っ払いの会話などというものは大概こんなものかもしれない。
 見れば楓も頬のあたりが上気して、菊田ほどではないが、あまり素面とはいえなかった。
「だって損じゃないですか。二つ三つやればよかったところを五つ六つで同じ給料じゃ、こっちはやりきれませんよ」
「わかった、要するに菊田さん、サボりたいだけでしょ?世間は甘くないの。菊田さんの五つ六つの間にライバル会社の人が七つ八つやったら、所属する会社全体が負けちゃうわけよ。だから―――」
 楓はそこでふと口をつぐんだ。やや酔いの廻った視線で菊田を見据え、しばし考え込む。
「会社―――給料―――?」
「なんです?会社や給料が、どうしたっていうんです?」
「ねえ、菊田さん。給料もらってるの?」
 真顔で訊くと、菊田はたじろいだ。
「そりゃ、まあ、もらってますよ。もらってると、いえなくもない」
「いえなくもない、って何?どういう意味?もらってるならもらってる。もらってないならもらってない。いえなくもないとかあるとか、そういう問題じゃないでしょ?」
「それはですね―――あれですよ。ねえ島崎さん。僕、給料もらってますよねえ?」
「人に振るなんて、ずるい。そのくらい自分ではっきり言えないの?自分のことでしょ?」
 一途、ひたむき、前向きが楓の身上だった。追究も生真面目で容赦がない。
「まあまあ、そのくらいにしてあげましょう」
 笑顔もやんわりと、島崎警部補が助け舟を出した。それからやや小声になって、
「ほら、彼はね。我々にとって重要な戦力ですから」
「それはまあ、わかってますけど―――」
 森川楓が新宿署に配属され、一課のヌシとも古狸とも呼ばれる島崎警部補の組んでほぼ一年がたつ。
 それでもまだ、島崎警部補が時おり会っているこの菊田という男について、彼女はほとんど知らなかった。
(情報屋―――)
 の類いであろうことは想像がつく。
 中肉中背、一見するとくたびれたサラリーマンのような外見だが、昼に夜に現れるところをみると会社勤めのとは考えにくい。
 新聞か雑誌の記者かとも思ったが、取材しているような様子もなく、そもそも何かを嗅ぎ廻りそうなほど勤勉に見えない。
 また情報屋といえば裏社会の人間をを連想させるが、菊田の物腰からはその手の人間が持っていそうな、張りつめた雰囲気も感じられなかった。
 だから、
(暴力団関係―――?)
 という推測は、会った早々に打ち消している。これほど迫力のないヤクザもいないだろう。
「誰なんです?」
 何度か島崎警部補に尋ねたが、どういうわけか、その度に柔和な笑顔ではぐらかされていた。
 おかげで月に何度か現れて、警察当局が掴み得ない情報をもって来る男が何者なのか、彼女はまだ知らないのだった。
 確かにそうした情報のおかげで、難航していた捜査が解決にむかって進みだしたこともあるのは事実である。
 が、楓としてはやはり面白くはない。
 情報源の保護ということもあるかもしれないが、自分だって孫みたいの介護みたいの言われながら、このベテラン刑事と一年コンビを組んだ身である。
 そろそろ、
(情報屋の身分くらい明かしてくれてもよくない?)
 という気分は否めなかった。
 そういう気分が議論と酒の勢いで、少し出すぎてしまったところはあるかもしれない。
「ねえ、マスターなら教えてくれますか?古くからの知り合いなんですよね。菊田さんって、どこに勤めてるんですか?」
「え?わ―――私ですか?」
 急に話を振られて、グラスを磨いていた『セトネエケ』のマスターは狼狽えていた。
「おやおや、聞き込みがはじまりましたね」
 島崎警部補は依然として穏やかに笑っている。
「こうなると彼女は、なかなかしぶといですよ。久保マスター、覚悟したほうがよくありませんかな」
 マスターは久保といった。
「といっても、私も菊田さんに会ってからまだ二年くらいですし、そんなに詳しく知ってるわけでは―――」
「二年なら私より一年も長いです」
「菊田さんは、あまり自分のことをおっしゃいませんからねえ」
「ご存知のことだけでいいんです。ほんの些細なことでも。是非。是非とも」
 楓はむきになって食い下がった。
 当の菊田はというと、ばつの悪そうな顔で縮こまっている。
 気の毒なのはマスターの久保氏で、本人を目の前にして何を話してよいか、困惑したような愛想笑いを浮かべていた。
 誰かの携帯電話が着信音を発したのは、その時だった。
 最近、チャートを賑わせている人気アイドル・グループの新曲を携帯電話用にアレンジしたものである。
「―――誰の?」
「私のです」
 と、赤くなって答えたのは久保マスターだった。
 思わぬかたちで窮地を脱したかたちになったが、折りたたみ式のガラケーを開いて発信元を確認したものの、賑やかな着信メロディが繰り返されても電話に出ず、かわりに困ったような表情を浮かべていた。
「出ないんですか」
「いや、お恥ずかしい。ちょっとその―――女性と揉めてまして」
 しばらく鳴ってメロディは切れた。
「なかなかテンポのいい、若者らしい曲ですな」
「島崎課長、彼女達が何を歌ってるかわかります?」
「しかとはわかりませんが、元気があって実に結構だと思います」
「これはですね。身近な年長者に憧れる少女が、精一杯の背伸びをして、自由奔放に想い人のハートを獲得しようという、なかなか深い曲なんですよ」
「へえ。菊田さん、こういうの聴くんだ」
「こいういうのも―――ですよ。知識として。昭和の国民歌謡からアキバ系アイドルまで、幅広くカバーしております」
「ふうん。えらいんだ」
「茶化しちゃいけませんよ。本当なんですから。あくまで知識としてですね―――」
「そんなこと言いながら、CDを何百枚も買い込んじゃうクチでしょ」
「残念!この曲はCDじゃ売ってませんから。シングルの別テイクをS社のスマホ限定でダウンロードできるレア・バージョンなんですよ」
「やたら詳しいじゃない。キモ!」
 また揉めはじめたふたりに久保マスターが、
「すいません。着信音、消しておきますね」
「それにしても久保マスター、なかなか隅に置けませんな」
 島崎警部補がからかうと、久保マスターは狼狽のあまりか、携帯電話を取り落としてしまった。
「か、からかわないでくださいよ」
「はは、これは申し訳なかった」
「マスター、動揺しすぎ」
「いやもう、本当に参ってしまいますよ」
 久保マスターはしきりと頭を掻いていた。
「ところでマスター、喧嘩の原因って、何なんですか」
「いやあ、まあ、その―――よくある話ですよ」
「電話にも出たくないほど、相手のひと怒ってるわけ?」
「どっちがより怒ってる、という話でもないんですが―――お客様の前でする話でもありませんし」
「それは、そうかも」
「営業時間中はかけてくるなと言ってあるんですが。まったく」
 それを聞いた菊田が得意気な顔をした。
「ほら、これですよ」
「これって、何よ」
「かかってきてはまずい時にも、かかってきてしまう。携帯電話のよくないところが、またひとつ出たじゃないですか」
「まだその話?馬鹿馬鹿しい―――出なければ済むことじゃない」
「すると相手は無視されたと思って、気を悪くするかもしれません。そうなったら、こじれなくてもいい話が―――いや、もうこじれてるのか―――こじれた話がもっとこじれて、揉めた話がさらに揉めて、やがて取り返しのつかないことに」
「これこれ、ご本人を前に」
 苦笑いしながら島崎警部補がたしなめた。
 その時、入口のドアにつけてある鈴が、りりん、と鳴った。
 入って来たのは小太りの中年男である。
「清水さん、いらっしゃい」
「やあ、マスター。毎度」
 常連客らしい清水という男は、カウンター席に腰を掛けると、おしぼりで顔を拭いた。
「清水さん。こんばんは」
「あ―――島崎さん、来てたんですか」
「はは、お久し振りです」
「ってことは菊ちゃんも」
「ここです。ここにいますよ」
 菊田が手を挙げた。
「あれ、そちらにおられるお嬢さんは」
「ああ、彼女は私の課で働いてもらってる―――」
「森川と申します」
「へえ、こんな美人がいるなんて、羨ましい職場ですねえ」
「仕事のほうは、まだ半人前ですけれど」
 情報屋の素性も知らされないくらいのね、とでも言いたげな視線で森川楓は島崎警部補と菊田を一瞥したが、それ以上は言わない。ここでは便宜上、島崎警部補と森川楓の勤め先は商事会社ということになっていた。
「ところで、マスター」
「何でしょう」
「最近、『」HON-JIN』の宮田マスターと会わなかった?」
「いえ―――お会いしてませんが、どうかしましたか?」
「いや、下の路地にある自販機の陰にね、これが」
 言いながら清水は革製の財布を取り出してカウンターに置いた。
「これ、宮田マスターの?」
「そう、見覚えがあるなと思ってね。ちょっと失礼して中身を確かめたら、免許証やクレジットカードが入ってて、やっぱり宮田マスターのだった」
 財布は黒の二つ折りで、紙幣の他にカードや会員証が何枚も挟まれて厚ぼったく膨らんでいた。ポケットのいちばん手前に「宮本庸治」名義の運転免許証が差し込まれている。
「電話してみてはいかがです?」
「もうしたんだよ。店にかけても出ないから携帯電話にもかけてみたけど、やっぱり出ない。何かあったんじゃないのかね」
「待っていれば、そのうち折り返しかかってくるんじゃないですか?」
「だといいけどねえ―――実はこっちもヤボ用があって、さっき店に寄ってみたんだけど、閉まってたんだよ、これが」
「それは珍しいですねえ。我々の商売にとっては大事な金曜日だというのに。ご病気ですかねえ。お元気なお方ですのに」
「あそこで雇ってるバイトは割と長くやってる子だから、宮田マスターが休みでも店はあけられるはずなんだがな―――そうだ、菊ちゃん」
「はい?」
「菊ちゃん、あの店は常連だったっけ」
「常連てほどじゃありませんが」
「そのバイトの子と、連絡がつきやしないかい」
「ああ、そういえば携帯電話の番号を教えてもらってましたよ―――ええと、なんていう名前だったかな―――」
 菊田はしばしスマートホンをいじくっていたが、
「ありました、ありました。そうそう、キトウくん。確かM大学の学生さんでしたっけ」
「連絡つくかい?」
「ちょっと待っててくださいね、かけてみますから―――もしもし?こんばんは、こちら菊田ですけれども、今日お店のほうは―――」
 多少、ろれつが回らないながらも菊田は目的のことを聞き出していた。
「あ、やっぱり休みなんだ。電話で?ふうん、メールで連絡してきたのか。いつもそうなの?店を休んだことじたい初めて?だろうねえ、僕もちょっと記憶にないもんな。心配だねえ。君のほうから電話してみたりとかは?ああそう、してない。それにしても、どうしたんだろうねえ。声も出ないほど弱っちゃってるのかな」
 しばらくそんなやり取りをして、
「うん、そうだね。そういや暫く行ってないような気がするな。今年、何回くらい寄ったっけ?いや、こっちは数えてない。そうだね。近々、顔を出すよ。もちろん行くよ。それじゃ宮田マスターに会ったら、お大事にって言っといてね。それじゃあ、シクヨロ」
 菊田は電話を切った。
「ええと、聞いての通りでして。宮田マスター、体調不良ってことで休みだそうです。ひとりで店をあけましょうかって言ったら、こっちの都合で休むんだから、ちゃんとバイト代を払うので、今日は来なくていいと言っていたそうで」
「厳密には言ってたじゃなくて、メールにそう書いてあったんですね?」
 島崎警部補が補足した。
「そうです、そうです。メールでやり取りしたんだそうで―――最近はこう言うのもメールなんですかね。それにしても変だな。この財布、いつ落っことしたんだろ」
「路地にある自販機の陰とはいえ、新宿のことですからね」
 島崎警部補も職業柄、つい思案顔になる。
「一両日以上そこにあったとは考えにくいですな」
 森川楓も身を乗り出した。
「ということは、声も出ないほど体調が悪くて店を休むのに、歌舞伎町まで来て財布を落っことしたってことになりますね」
 らしくない詮索を始めた“商事会社の社員とその知り合い”に較べて、久保マスターはあっさりしたものだった。
「まあ、あまり知られたくない用事でもあったんでしょう」
「どうしようか、この財布。持ち主がわかってんのに交番に届けるってのも、ねえ」
「ああ、それなら私が預かっておきますよ、清水さん」
「久保マスター、頼めるかい?」
「どんな事情かわかりませんが、明日にはお店も開くでしょう。こちらも明日は営業しますから、店をあける前に寄ってみますよ」
「それじゃあ、頼もうかな。会ったら清水が連絡を欲しがってたって伝えといてよ」
「かしこまりました」
「それにしても理由を隠して店を休むほどの用事って、なんなのかな」
「まあ、そのへんは―――人にはいろんな事情があるもんですよ。お返するときに、あまり深く詮索しないようにいたします」
 そう言って同業者をかばったが、結局のところ財布が持ち主のもとに戻ることはなかった。
 宮本マスターの死体が発見されたのは、翌日のことである。

2 繁華街の密室

 森川楓が非番の土曜日に呼び出されて“現場”に入ったのは午後三時半だった。
 現場といっても昨夜もいた歌舞伎町なので、何だかおかしな気分だった。ただ昨夜呑んでいたのは区役所通りの東側、管轄でいえば四谷署の管内になるが、事件現場は歌舞伎町二丁目なので新宿署の管轄になる。
「お疲れさん」
 島崎警部補はもう到着していた。
「警部補、お疲れ様です」
「早速、加わってくれるかね」
 機動捜査員や本庁一課の一部はもう現場に入っており、担当班の残りも追っ付け到着するとのことだったので、森川楓はその間に被害者との対面を済ませることにした。
 現場は靖国通りからさくら通りに三十メートルほど入った左手にあるビルの二階で、驚いたことに昨晩、話題になった「Hon-Jin」だった。
「警部補」
「うん」
「これって―――」
「被害者は宮本マスターだそうだ。もちろん昨夜の件と無関係ではあるまいね」
 森川楓は表情が強張るのを感じた。詳しくは司法解剖の結果をみないとわからないが、もしかしたら店を休んだ宮本マスターに連絡がとれないと別の店「セトネエケ」で訊いた時、彼はもう死んでいたのかもしれない。ともかくも関係者、とりわけ当夜に被害者と連絡をとりたがっていた「セトネエケ」の常連客・清水などは、関係を徹底的に洗われるだろう。昨日、会ったり聞いたりしたばかりの人々だが、そんなふうに事件の関係者と関わるのは初めてだった。
 複雑な心境で島崎警部補をみると、警部補は泰然とした表情で、
「とにかく、ホトケさんに手を合わせて来なさい。詳しくは、それからだ」
「はい」
「奇妙な現場だよ」
 島崎警部補はそうつけ加えた。
 ところが現場に辿り着くのが大変だった。ただでさえ人の多い歌舞伎町を非常線封鎖した一角に、何事かと押し寄せる物見高い群衆だけでも厄介きわまりないが、その上あの手この手でライバルより早くネタを仕入れようと侵入を繰り返す連中が後をたたない。さすがに報道協定を結んでいる大手マスコミの記者はいないが、各社と繋がっているフリーは大勢いた。
 さらに最近はマスコミとは関係のない若者までスマートフォン片手に殺到してくる。自身のブログやSNSに投稿して注目を浴びたいのだろうが、中にはマスコミに買い取らせて小遣い稼ぎをする素人もいるらしく、その手に限って知る権利が云々と揉めるから始末に悪かった。
「まったく、質が悪いったら・・・」
 こんな状況だから現場保全も並大抵ではなかった。怒鳴って揉まれて髪をボサボサにした森川楓はやっとの思いで現場のビルに到達した。
 ビルの二階、殺風景なコンクリートの壁に分電盤が埋め込まれ、その横に木製のドアがあって「Hon-Jin」と書かれたプレートが貼られていた。入るとそこは五メートル四方ほどの小さなスナックで、カウンターが右手前から中央奥に向かって緩いS字を描いていた。島崎警部補の、
「奇妙な―――」
 という言葉が引っかかっていたが、はたしてまず一番に目に飛び込んできたのは、一枚板のカウンターに突き立てられた折り畳み式のナイフだった。ナイフは刃の三分の一ほどが隠れるほど深く刺さっており、刃がこちら、つまり入口に向いていた。
 どういうことだろう?と考えるのを後回しにして、薫は現場のあちこちに目を走らせた。
 カウンターの手前には腰の高い丸椅子が並べられており、目で数えると六脚あった。カウンターの背後には大小様々な洋酒のボトルが並べられ、奥の壁際には一口のガスコンロが置かれていた。
(揚げ物は無理。茹でるか、簡単な炒め物ならできそうだけど)
 と楓は観察した。換気が気になったがガスコンロの真上、天井に近い位置に換気扇があり、また部屋の左奥には換気扇と同じく高い位置に小窓があった。隣のビルと隣接しているので採光の役には立ちそうもないが、そもそもここを日中に使うことは想定していないのだろう。
 カウンターから目を離すと、入口付近から向かって左手に傘立てが置かれていた。楓はその位置に違和感を持った。ドアから離れすぎていないか?
「何をじろじろ見てるんだ」
 声は低いが鋭い叱責に、森川楓はピンと背筋を張って敬礼した。
「申し訳ありません。臨場お疲れ様です。新宿署の森川です」
「貴様が森川か」
 部屋の中央で屈み込んでいた刑事ふたりが立ち上がっていた。顔は知っている。警視庁捜査一課の永井警部補と飯山巡査部長。島崎警部補も警部補だが、もちろん本庁のほうがぐんと格上だ。ここにいるということは永井警部補の班がこの事件を担当するわけで、
(ちぇ、この人たちか―――)
 という内心が表情に出ないよう楓は努力しなければならなかった。
「島崎さんから話は聞いている。本来であれば貴様を真っ先に事情聴取して締め上げてやるところだが」
「恐縮です」
「だいたい被害者と関係のある場所を普段から出入りしていただと?それが偶然だったとしても、そもそもだな―――」
 と、まだ文句がとまらない永井警部補をおさえて飯山巡査部長が、
「こちらの身分は明かしてないんだろうな?」
「間違いありません」
「ならいい。島崎さんなら仕方ない。さっさとホトケを見ておけ」
 あちこちに顔のきく島崎警部補だが、本庁に対してもそうらしい。それがどんな理由によるのかはわからないし、教えてはくれないだろうけど。
 被害者である宮本マスターは部屋のほぼ中央に倒れていた。死因は絞殺とみられ、首に細い紐で絞めたような痕が残っている。奇妙なのは着衣で、仰向けに寝ている宮本マスターはワイシャツやズボンをつけておらずランニングとトランクスの下着姿だった。
「顔をあからめたりしないのかい、お嬢ちゃんは」
 永井警部補がしつこく嫌味をいった。
 誰がホトケさんにドギマギするか。内心で悪態をつきながら楓は手を合わせた。目を開けると、遺体の傍らに鍵束が落ちてるのが気がついた。この店の鍵だろうか?
(まさか、下着姿で出入りしていたわけでもないだろうし―――)
 奇妙なのは被害者だけではなかった。カウンターに突き立てられたナイフに目をやると、ナイフの場所から三十センチほど右、被害者が倒れていた部屋の中央から見れば入口に近いところに、何か鋭利な道具でカウンターを穿った跡があった。
(これは?)
 下を見ると、椅子の間にアイスピックが落ちていて、チョークで囲ってあった。断言はできないが、これでカウンターを傷付けたとみるのが妥当だろう。
「キョロキョロするな。見終わったらさっさと出て、初動がはじまるまで大人しく待ってろ!」
 永井警部補がまた癇癪を起こした。
「申し訳ありません。ちょっと気になったものですから」
「貴様らにうろちょろされて、現場を荒らされちゃ堪らんのだ。えい、鑑識はまだか。何をしているんだ!」
 苛立つ永井警部補は外の様子を見に行くつもりか、部屋の奥から足早に出ていこうとして傘立てに足を引っかけた。
「痛ッ!」
 自分で荒らされちゃ堪らんとか言っといて―――と聴こえないように呟いた時、楓はふとおかしなことに気がついた。飯山巡査部長も同じらしく、傘立ての傍に屈み込む。
「こいつはおかしい―――」
「なんだ。どうした」
「永井さん。この傘立て、床に固定されてます」
「傘立てを床に?嘘をつけ!それにドアから一メートルも離れてるじゃないか」
 しかし事実だった。奇妙な現場にまた「奇妙」が増えた。

 その後、永井警部補の指揮で本庁一課、機動捜査隊、所轄を地区ごとに振り分けて初動捜査が実施された。だが人の動きが激しく騒音もひっきりなしの歌舞伎町では、こうした場合に情報を得るのが難しい。おまけに脛に傷をもつとは言わないまでも、商売柄、警察との関わりを嫌がる人間も多く、
「知らない」「見てない」「聴いてない」
 以外に得られた話は何もなかった。
 くたびれた薫が署に戻ると、大会議室で捜査本部の設営作業が待っていた。現場の遺留品や鑑識結果から直ちに容疑者を特定する情報は得られず、翌朝から捜査員を増員することが決まったのだった。

 午後十一時、最初の全体会議があった。
 まず捜査本部長に就任した新宿署長の訓示があり、担当する強行犯捜査係の管理官、本庁一課長が挨拶したあと、飯山巡査部長から状況の説明があった。
「被害者について情報を共有します。只今配布した資料にありますが、被害者は氏名を宮本庸治。男性。四十二歳。スナック「Hon-Jin」の店主。同店は死体発見現場でもあります。以下、住所本籍等、詳細は資料をご覧ください。発見は本日の午後四時頃。発見者は被害者と同じくスナック経営者の久保義人と「Hon-Jin」の入っているビルの所有者であり、同ビル最上階に居住する被害者の実兄・宮本雄市の二名。経緯については後ほどご説明します。死因は絞殺で死後およそ一日。誤差は前後二時間程度で、つまり昨日の午後二時から六時の間に死亡したと推測されます。凶器は被害者の頸部に残された傷痕からみて細い紐のようなものと思われますが、まだ発見に至っておりません」
xzcxSp ここで飯山巡査部長は、質問は?という顔で捜査員達を見回した。手を挙げるものはいなかった。
「では遺体発見の経緯を説明します。本日午後三時から三時半ごろ、前述の久保義人が発見現場に到着。これは前日に取得した宮本庸治名義の財布を本人に届ける為だったと供述しており、さる方面からの情報で裏が取れています。またその正確な時刻についてはビル、及びさくら通りに設置してある監視カメラで判明すると思われます。現地に到着していた久保は店舗が施錠されていた為、自身の携帯電話を使用し被害者宮本庸治に電話をかけています。これは発信履歴及び携帯電話会社の通話記録でも確認されています。ところが宮本が電話に出ず、施錠されているスナック「Hon-Jin」の店内から着信音がするのを不審に思い、同ビル最上階に居住している被害者の実兄・宮本雄市を訪れ、宮本雄市が保管してするマスターキーによって「Hon-Jin」に入り、被害者の発見に至っています」
 途中から―――「Hon-Jin」は施錠されていた、のあたりから捜査員達がざわつきはじめ、
「静かに!」
 と水永井警部補が一喝した。飯山巡査部長は警部に目礼して先を続けた。
「皆さんが知りたいことはわかります。ご存知のように被害者所有の鍵は遺体の側で発見されています。発見者の宮本雄市によれば、当人が所持していたマスターキーの他に、同型の鍵は造られていないとのことです。つまりこの証言が正しければ、遺体発見時「Hon-Jin」は密室だったということになります」
「合鍵でも造られたんだろう」
 周囲のどよめきが気に入らないのか、永井警部補が吐き捨てるように言った。
「可能性はあります」
 飯山巡査部長はそう受けると、大会議室が静まるのを待って再び説明をはじめた。
「密室であることの他に、事件にはまだ奇妙な点があります。まず、なぜ被害者は下着姿だったのか。着衣はどこにあるのか。現場である「Hon-Jin」店内には私服はもちろん、店で着るはずのユニフォームもありませんでした。次にカウンターにナイフを突き立てたのは何のためか。また同じくカウンターにアイスピックで傷をつけたのはなぜか。さらには、傘立てはなぜドアから離れた位置に固定されていたのか」
「犯人に訊けばわかることだ」
 永井警部補はあくまで気に入らないようだった。
「少なくとも、ひとつひとつの遺留品を丁寧に追っていけば、自然と理屈にあうよう証拠は上がる。ガイシャが下着なら着衣を捜すことだ。ナイフがあったのなら販路の特定。傘立てが固定されていたのなら、方法の確認だ。そっちはどうなってる?」
「傘立ての底部に瞬間接着剤を塗りつけて、床に固定したものと思われます」
「そら、またひとつ糸口だ。一刻もはやく接着剤のメーカーを割り出すよう科捜のケツを叩け。その間、こっちはこっちであることがあるはずだ」
 永井警部補のいう「糸口」ごとに捜査員は幾つかの班に分けられた。まず人員の半数を割く一班はかき集めた制服警官と合流し、遺留品、取り分け被害者の着衣を発見すべく現場付近の捜索に全力をあげる。
「捜索開始は明朝午前六時からとする。日曜ってのは幸運だ。いくら歌舞伎町とはいえ、比較的人出がないだろうからな。だがまず午前中が勝負と思え。山林ならまだしも、繁華街で遺留品がいつまでも同じ場所にあると思うなよ」
 一方、二班はナイフの販路を特定すると共に、実際に販売されている店舗をしらみ潰しに訪問。三班は接着剤について同じことをやり、四班は家族や仕事上の取引先、店の客、交遊関係を廻あたってトラブルを抱えていなかったか洗う。五班は土曜日に引き続き、現場周辺を聞き込むローラー作戦。
「一班と五班は分担区域の振り分けを明朝までにお願いします。一班には被害者の体格などの身体データと、店で着用していたユニフォームのカタログをお渡ししますので、人数分コピーしてください。二班と三班はメーカー確定次第、取扱店のリストを作成。四班は家族など判明している関係者から始め、同時に取引先リスト作成の為に店の帳簿を
明朝一番で確保してください」
 と飯山巡査部長がてきぱきと指示を出し、永井警部補が、
「分担振り分けとリスト作成者以外は今のうちに身体を休めとけよ。暫く帰れないかもしれんからな!」
 と発破をかけて最初の会議は解散となった。

見立て密室の殺人

見立て密室の殺人

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 ケータイ問答
  2. 2 繁華街の密室