ソクラテスの死に神
「皆死ぬのです」と誰かまわずに告げ、死に神と呼ばれる大学教授と新興宗教に入り、カルマなどで死なず生まれ変わり続けると信じ込み、死ねないのだと嘆くようになる学生とのキャンパスライフ。
死が怖い男と死にたい男の出会いと物語
ソクラテスの死に神
一、不可触
ここは沖縄のとある場所にあるR大学の学食である。機械工学の名城隼男教授、四十六才が文学部の先生方の坐っているテーブルに坐った。五十二才の中国古典文学の教授の宇崎栄、三十才の日本文学の准教授の野原春郎が困った顔で顔を見合わせた。
「皆さん、生きていてよかった」と名城が開口一番に冷めた笑顔で告げた。けしてニヒルではない。冗談でもない、大真面目であり、名城の生活習慣から出た自然な言葉である。「コンピューターはどこまで進化するんでしょう」と宇崎が訊ねた。
「おごる平家は久しからず、諸行無常、お二人はどう思われますか」
名城は野原の顔を見た。
「脳波を解析して、全盲の人の目にモノクロの映像は映し出すことに成功したそうです」
「宇崎先生はどうですか、明日に嵐が来るかも知れない桜花です」
「野良の子猫が玄関先で鳴いていたので、飼うことにしました、雄なのでタマ、白地に茶色の斑(ぶち)です」
「その子猫も死へ一歩一歩近づいているのです、実に哀れだ、詫び寂の世界だ、野原先生はそうは思いませんか」
「天気予報士にこの雨は晴れますかと聞いたら、この予報士、よほど機嫌が悪かったのか、『晴れない雨は地球が誕生してからありません』と答えたんだ。笑えたね」と言ったものの、野原は話の糸口を与えたことに気づき溜息を吐いた。
「誕生とは死への招待状を受けることだ。
死なない生物は存在しないのです、よく人類は自棄を起こさないものです、どうせ百二十年以内には確実に死ぬんですよ」
野原は考えていた
「前までは気の毒な名城先生と思っていた。空を見ても、あの空もいずれは消える、それどころかずっとその前に、私が消える。花を見れば、あのハイビスカスも自分が死んでも子孫を残すために、生殖器の花弁を開いて、受粉するために蜂や蝶を誘う。それを美しいと思う、人間の哀れさ。人間そっくりの花のどこが美しい。名城先生の人生は嘆きばかりかと同情を寄せたりもした。
だがそれが一年に一度、せめて三度ぐらいならいいが、会う度に《死》の嵩が増し、毎度毎度同じ《死》のことばり。
もう、うんざりだ、いい加減にしてくれ」「ああ、マナーモードの携帯に着信がありました」、ジャケットのポケットに右手を入れて、「これで失礼します」と野原は席を離れた。だが気分がすっきりしない、何で嘘まで吐かなくてはならないんだ。
宇崎はやられたと思い、独りで逃亡かよと野原を恨んた。名城が対談モードになり、爆走するのはご免被りたい。だが席を立つ理由が見つからない。
「死は寄り添っているんですよ」
「夫婦は寄り添っても、離婚が成立します。アメリカでは結婚の前に離婚の契約をするそうです。
道徳はどうなったんでしょう、道徳の立場がない。
飛躍しているかな、人が信じられないから、銃を手放せない、ああ、アメリカは正義のヒーローはどこへ行くんでしょう、もう開拓地はありません、でも敵を作って、国家のドンパチをすぐに始める、実に憂慮すべき国家の性質ですな、実に困ったものだ。そうは思いませんか、名城先生」
「知ってますか、かつては交通戦争と呼び、交通事故の多さを嘆いたものです。それが今では自殺者は三万人を超え、交通戦争の死者の数を超えたのです。自殺者が戦争を超えたのですよ。もう国家存亡の機に晒されているのです。
自分から《死ぬ》んです、自分からですよ。それも彼らは死のうとは思ってない。生きているのが死ぬよりも苦しいからと死ぬのです。おかしいですよ、これは病気です、公害ですよ。死にたくて死ぬのが本道です、そうですよね」
「門外漢ですから」
名城はかちっと来た、誰も死から逃れられる人間、生き物はいないのに、門外漢とは何だ、永遠不滅の魂でもあるのなら、冥土の土産に見せて欲しいものだ。このように死から逃げ隠れして、これで中国古典学者とは、それも名著と謳われた「日本における朱子学」の論文で博士号まで取っている、理解に苦しむ、人間としての深みが人徳が全く感じられないからだ。学問と人間が乖離している、嘆かわしい風潮だ。また雑音が飛び込んできた、このようなことは《死ぬ》ことに比べれば、大洋の一滴にもならない。そのようなことに惑わされるとは、私も人間が萎縮してきているようだ。
「皆死ぬんです」
『分かり切っている、死なない奴がいるか、孔子、孟子はとうの昔に死んでいる。古典で生きている奴など研究しない。だが他人から死ぬんですと言われたら、気が滅入る。どうしたものかな、八十五までは生きたいな、そこまで行ったら、百才までか、実にバカらしいが、笑えない、漫才のように笑えたらどんなに楽か、ああ、名城のバカたれのために、どうして僕までもが憂鬱にならなければならないんだ』
「昨日、飲み過ぎてね、お腹の調子がおかしいんだ、ああ、我慢できない、失敬するよ」と早足で逃げた。
二、勧誘
「あなたはこのままでは死にます」と中村光彦は見知らぬ学生から、優しく声を掛けられた。光彦は凍り付いた、衝撃、絶対零度を触れさせられた、背筋がぴんと伸びて、金縛りにあった。草臥れたジーンズに、草臥れたジャージの上着を着ていたが、その男子学生の目は穏やかで澄んでいた。
「死相が出ているとか」光彦は足元を見られまいと巫山戯て見せた。
「命の灯火が消えようとしています」男子学生は真面目な顔つきで静かに言う。
「医者でもない君に何で分かるんですか」
光彦は不安になってきた、祖母が死んだときのこと思い出した、中二の時に交通事故で死んだ級友のことを思い出した。友人知人が黒枠の写真となって、脳裏をぐるぐる回った。体から力が抜けていくのが分かった。
「真言金剛会で、修行をして、その力を得たのです。寿命見切り法で一目して瞭然。よくもって、九十三日、三ヶ月です。あなたは大学の卒業を待たずに死ぬんです。実に若い惜しまれる死です。
勉強会に参加しましょう、そうすれば消えかかった命の炎が再び燃え盛り、永遠の命を得るのです」
光彦はアルバイトを止め、そのアルバイト代の十万円を講習料に出して、「真言浄命即長命セミナー」に参加した。
二泊三日の真言金剛会の道場でのセミナーでは、なぜか参加者の会う人会う人から光彦は自分の全てを否定された。そこへ「苦しいでしょう」とOLらしい清楚な女性が背中に手を当てた。
「私は何なんでしょう、私は何なんでしょう」とショック状態の光彦は泣いた、生を受けて初めて死にたいと思った。
「これは産みの苦しみです、次へのステップアップ、『現世顕現眼』を受けるの、教祖様・紫雲様のご慈悲、お導きです。このあなたの涙が歓喜の涙に変わるのです。お布施は十五万、四泊五日。
俗世で苦行して、布施を貯めたら、ここへ来るのよ。あなたはきっと戻ってくる、あなたの心は洗い清められているから」
「ホントですか」と光彦は安堵のために泣いていた。
光彦は実入りのいい夜間の工事現場に絞って働いた。睡眠は三時間で、肉体の酷使は即修行、即菩提であり、「現世顕現眼」セミナーへの思いで実に満ち足りていた。
だが友人や同じ授業の学生の目には異常に見えた。目に隈ができ痩せ細ったのだが元気なのである。ある学生は夜のバイトは覚醒剤ほしさからではないかと訝った。だが光彦は周りの学生達を見て、曇った目でしか現実を見てないのに驚き、それに比べて自分だけは悟りへの道に邁進している、その事で俗世に、学生達に優越感を味わっていた。私は選ばれて救われる人間であり、近い将来には仲間達に現世への引導を渡すだろうと思った。それは真言金剛会へ彼らを入信させることである。
生まれ変わった気がした。人間を除けば全てが新鮮に見えた。人間は煩悩に塗れ、俗事に長けた生き馬の目を抜く輩で満ちていた。今こそ、真言金剛会、紫雲様の教えが必要だ。朝昼晩と静かな心で南無紫雲仏陀と唱えるだけで救われるのだが、傲慢で心の曇った人間にはそれが見えず、却って見下すだけだった。世の中は日増しに末法の世界へと世の中を変えている。進歩、それは賢者から見れば、退廃であり破壊の異名に過ぎなかった。暇があれば、南無紫雲仏陀と唱名する光彦は光に包まれる至福を味わっていた。
私は自分の足でしっかりと立って生きていると言う人ほど実は真理から遙かに遠ざかり、ただ生息している動物のようなものだ。
餌をがむしゃらに求めて、餌を奪い取り、それを人生の成功者だと自画自賛する。するといい給料を貰うために、大学を親の金で出ている私は何だ。社会の寄生虫だ。私は大学を止めるべきだ、勉強してやっと入ったR大だ、簡単には諦めきれない。まだまだ学びたいことがたくさんある。そのたくさんとは結局は金、よりよい就職先を見つけるためである。全ては金のためである。
思考は同じ所を行ったり来たりで、目がぐるぐる回り出し、吐き気がして目を閉じた。これが俗世の真相なのだとつくづくそこにいる自分が嫌になった。
光彦は会員だけが見られる真言金剛会のホームページを見た。
紫の袈裟の紫雲が上下の赤のジャージの三十半ばの女性除霊をしていた。女性は泣き叫び転げ回っていた。
「苦しいか、吐き出すがよい、お前の我利我利亡者霊を吐き出すのだ。そしたらお前は楽になる」
介添えの作務衣の男二人が両側から女性の腕を捕まえ動かないようにすると、前に立つ紫雲に罵詈雑言を浴びせ続けた。紫雲は曼荼羅を嗄れ声で唱え、右手の人差し指と中指を女性の額に当てると、女性は動かなくなり紫雲を見上げた。大きな鳴き声と共に白い煙が女性の口から出ていった。
「見たか、これが我利我利亡者、人類の毒、悪霊だ。お前は解き放たれた。
お前は破滅から救われた。
お前は修行の道を掴んだ。
お前は日々精進し、贅沢を寄進し
菩薩道に入るのだ」
女性は瑞雲に手を合わせて、南無紫雲仏陀と法悦した。
光彦は衝撃をまともに喰らった。霊は存在する、あの煙のようなものが霊である。俗世の些細なことに拘り、真言金剛会を軽く見ていた自分はなんと信仰心の薄いものであるかを悟った。光彦は悪霊退散在家解脱断食行を敢行した。
三、幸運
名城は公園のガジマルの木陰のベンチでいつものように死を黙想していた。だがクソガキどもが死ぬのも知らずに喚き立ててそこいら中を走り回っていた。それを生命の躍動などと言ったバカな学者がいた。死を恐れない支離滅裂な運動に過ぎないのだ。それを美辞麗句で言った、何様のつもりだ、お前は神か、ドアホウ。
砂遊びをしていた四才ほどの女の子が車道の方へ歩いて行く。
小さい子から目を離す親とは無神経であり、未必の故意の殺人犯である。生んだら責任はありますよ、その子がくたばるまで、自分がくたばるまでは…。隣の元吉さんも死んだ、惚けていたから死など分からずに何気なく死んでいったのだろう。死の最良の痛み止めは惚けか、実に嘆かわしい。どうも死が掴めない、行き止まり、そこから何か風景でも見えればいいのだが、電源を切ったパソコンのモニターのように何も映らない。
目を女の子のいた場所へ目をやると、車道の縁を歩いていた。車が来ると危ない、だが誰もあの子に気付いてはいない。名城は轢かれれば即死だ、ぺしゃんこになった元の姿をとどめぬ少女の肉体が路面にあった。轢かれた猫の死骸を思い出していた。
クラクションとタイヤの軋む音がして、女の子に走ってくる車に公園の皆が気付いた。
「可哀想に」と誰もが諦めていた所へ、突然失踪する中年の男の姿が飛び込んできた。
名城は死を賭けて突進していた、無残な死を傍観するより増しだった。いずれは死ぬ、それが今でもいいのか、分からないが、体が、名城の死が反応した。
子供を抱きかかえると、名城の体が側溝の方へ跳ね飛ばされて転がった。
「藍ちゃん」とけたたましい悲鳴と共に二十歳前後の女性が駆け寄った。
「ありがとうございます」と子供抱きかかえて、母親は泣いた。
名城は母親の頬を叩き、気を失った。
病院の個室のベッドで横たわっているのが分かった。名城は生きているのだと実感したが、死は依然として事故の前と同じだった。死んでればよかったのかなと思いもしたが、きっと死ねば肉に変わるだけだ。轢かれた猫の骸のように。意識の境目、気を失う、永遠に、死んだことなど分からない。それが絶望のような恐怖をもたらし、体を震えさせた。
医師がやってきた。
「四五日は痛むでしょうが、打撲だけで骨折はありません。奇跡ですね。
柔道でもなされていたんですか。柔道なら完璧な受け身です、様子を見るために七日は入院して、よければ退院です。
女の子は傷一つありませんでした。献身的な行為でしたね」と医師は頭を下げて、次の巡回へと去った。
退院して三週間後、名城は学長室に呼ばれた。中には高そうな背広を着た初老の口髭を蓄えた大男、一メートル八十前後のが立ち上がって一礼をした。
「こちらは高江洲建設の社長の高江洲是清さん、お礼に伺ったそうだ」
「何のお礼でしょうか」と名城は後ろめたいようなことはしてないが逡巡した。
高江洲、学長、名城と席に坐った。
「この度は娘、藍の命を救って下さり、是非ともお礼をと伺った次第です」
「学長におっしゃるには、上原龍三ホールの改築の予定があるとのことで、我が社がゼロ円で入札することにしました。
美佐子によれば、お礼など要らないと断ったとのことですので、それでは父親の面子が立ちませんので、こうしてお礼の真似ごとしに参りました」
名城は好きでやったことで例えば冬山登山に挑戦した、死を垣間見たくての衝動だとも思い、お礼は一切遠慮した。それに母親の頬を叩いて、その件は完了していた。とやかく言うことはない。
いつまでも返事をしないで、考え込んでいる名城に焦れて学長は言った。
「高江洲社長のご厚意に感謝して、喜んでR大はお受けしたいと思います」
「誠に勝手ですが、これはご内聞にお願いします。那覇の妻に与那町の我喜屋(がきや)美佐子のことが知られると困るのです」
学長は驚きをすぐに隠し、「承りました」と事務的に言った。
死ななかったことはラッキーなのか、アンラッキーなのか、死が喜んで蜷局(とぐろ)を巻いて、何か餌を与えろ、答えを言えと舌を出していた。死など、車の衝撃で吹っ飛んで、考えようと思う前に気を失っていた。千載一遇のチャンスだったのだろうかと考えると悩ましくなった。
カシオのGショックのデジタル腕時計を思い出した。この腕時計は、アメリカでアイスホッケーのスティックでパックのように打ち込んでも壊れないという謳い文句で売り出した。それをギャグの積もりで実際のテレビ番組で腕時計をゴールにスティックで打ち込んだ、だが壊れなかった。それからGショックの人気に火を点いたと言う。
壊れると死ぬは同じ意味なのか、修理、充電、リセット、それは機械だの話だ。だが移植が進めば、脳以外は取り替え可能になる。それでは死なないか。だが惚けてその機能を失い、死ぬ。
四、緊急入院
光彦の携帯は一週間切られたままで、全ての講義に姿を見せなかった。それを心配した同じゼミの誠と真由子がアパートを訪ねた。だが幾らノックをしても呼んでも返事はなく、アパートの管理人に事情を話して開けてもらった。
何も映ってない砂嵐のテレビの画面を前に青のジャージの上下を着た光彦が正座していた。
「何だよ、いるんじゃないか」と誠は近寄った。頬は痩けてはいるが、目はらんらん輝き、にこっと笑った。誠はたじろぎながらも聞いた。
「何をしているんだ」
「彼岸に行き行ける者に幸いあれ」
「何だって」
「誠には分からない、R大の学生にも分からない。それは皆が我利我利亡者に取り憑かれているからだ。
南無紫雲仏陀、南無紫雲仏陀」
「お前、痩せてるぞ、飯は喰っていたのか」
「バカか、君は。僕は断食行をやっているんだ。水だけだ」
「ボクサーにでもなったのか」
「悟りに至る修行だ」
真由子が痩けた頬を見ながら言った。
「バカじゃないの」
唸り声を上げて、光彦は前屈みに倒れた。「誠、病院へ連れて行かなくては。光彦を車に乗せるのよ」
光彦は鎮静剤を打たれ、点滴を受けながら、ベッドで熟睡していた。
「付き添いの二人だね。彼は睡眠不足と栄養失調だ。それはすぐ治る。だが我利我利亡者に憑かれた連中と喚いたり、訳の分からない呪文を唱えたり、これは内科医の仕事ではない。精神科医か、学校の心理カウンセラーに連れて行くべきだ。まずはカウンセラーからだな」
真由子はすでに帰り、目覚めた光彦は誠に怒鳴った。
「何で点滴を打たせた。これで断食行は失敗だ」
「何、お前後何日断食をするつもりだったんだ」
「あと十三日だ、二十日間だ」
「その頃は部屋で一人で餓死して死体になってたよ。何が宗教だ、バカ野郎、飢え死にさせるのが宗教か」
「望むところだ、修行で死んだなら極楽に行ける。それを水の泡にしてしまったんだぞ。
それを勘違いして、命の恩人と言わんばかり、押し付けがましいのにも程がある。
君は頭の天辺から爪先まで我利我利亡者の悪霊に乗っ取られている、それも気付かないのか、それでも最高学府で学ぶ者か、恥を知れ、死んだら地獄で釜茹でにされるぞ」
「その亡者に憑かれているのはお前だ。それでもいいから講義には出ろ、飯は喰え、夜は寝ろ」
「君は俗世を逆立ちして満喫している。これこそ亡者に憑かれた証なのだが、本人には自覚症状が全くない死に至る病だ。
救われたいなら、
『南無紫雲仏陀、南無紫雲仏陀』と唱えるんだ、実に簡単だ、紫雲様のご慈悲によって、それだけでも救われる。実に有り難いことだ、そうは思わないか」
誠は病院での光彦の言動に怒り、大学のカウンセラールームへは真由子が付き合う羽目になった。
「私はカウンセラーの古(こ)謝(じや)瞳です」と四十半ばの白のブラウスに黄色のパンツを着た女性は告げた。
「私は付き添いの真由子、この子が今日のクライアントです。断食して栄養失調で死にかけたんです。
名前は中村光彦、二十歳、経済学部の二回生です、真面目な性格、私が知ってるのはこれぐらいですか」真由子は笑った。
「なぜ断食したのですか」
「修行です。食物連鎖から自由になり覚醒するのです」光彦は得意げに言った。
「差し支えなければ、信仰している宗教を教えてくれませんか」
「教祖・紫雲様、真言金剛会を信奉しています」
「信奉しています、これってあなたの宗教では普通、信じていますでいいんじゃないの、宗教の業界用語ってやつ。順応するのが早いんじゃないの。信仰年数は何年」
「信仰は年数じゃないんだ、半年だ。信じるか、信じないかの問題だ」
「二人のお話はカウンセリングが終わってからにして。
毎日はどうですか、楽しいですか、鬱陶しいですか、悲しいですか」と瞳は平板に言った。
「先生、そのようなステージは終わりました。毎日が満たされています、南無紫雲仏陀、南無紫雲仏陀」
瞳は何も言えなかった。
宗教は病気ではない。だがかなり強迫神経症に近い。生活に支障を来している。だが信仰を捨てろとは言えない。そもそも矛盾を抱えて、それを無視できるようになる、けろりと忘れ去るのが宗教だ。なんと言えばいい。「しかし、学業は続けた方が、現実的です、全ての信者が出家すれば、お布施のできる信者がいなくなるのですから。それとも真言金剛会は自給自足の宗教ですか」
「一日でも早く悟りたいのです」
「バカじゃないの。悟っても、いい仕事見つけた方が生活が楽だし、お布施も多めにできるんじゃないの。それとも坊主丸儲けの、坊主になるの。それなら大卒より高給取りか」 真由子は一気に捲し立てた。
「真由子さん熱くならないで、落ち着きなさい」
「こいつは自分がどんな危険な状態にあるか分からないんです。餓死寸前まで断食をしたんですよ」
「真由子は肥だめの俗世を美しいと錯覚しているカエルだ」
古謝瞳は真言金剛会に中村光彦のカウンセリングを頼むために電話した。
「もしもし真言金剛会の道場ですか。そちらの信者・中村光彦が悪霊退散在家解脱断食行を敢行して、餓死寸前でY病院に運ばれました。ケアーをお願いします」
「確かに、名簿にはありますが、一般聴講者で、内の会とは関係ありません」
それから幹部が対応した。
「監査役の明神です。冷静なご対応をお願いします。たまにいるのです。熱狂的になり、何をしでかすか、分からない信者が。その防止のための一般信徒の欄に名を連ねただけです。中村光彦君は残念ながら真言金剛会とは相容れない過激な思想及び性格であることが判明しましたので、内では関知しないことになります。
ご友人や身内で看護された方がベターかと思います。
いいですか、中村光彦は内のイベントに参加できますが、見学者にはなれますが、実演者には成れません。つまり、中級以上にはなれません。それに三千五百人の中の末端の末端の者の責任までは追い兼ねますので、ご了解下さい。
中村君の一日も早いご回復を祈っています、では、悪しからず」
五、
R大は南国らしく長閑だが、いつも浮かない顔している者が二人いた。宗教に邁進する光彦と死から離れられない名城教授である。光彦は名城教授の授業が終わるのを、講義室の前で待っていた。
「名城先生」
名城は見覚えのない緑のジャージの上に茶色のパンツ姿の光彦をしげしげと眺めた、妙に冷めていると思った。
「何でしょうか」
「先生を死の恐怖から救って差し上げたいと思ったのです」
「君は何を言っているのか、分かっているのかね」
「死の恐怖から救って上げたいと思っています」
「名前は」
「中村光彦です」
「それは面白い、どうやって救うのでしょう。
中庭のベンチでお話しましょう」
名城と光彦はベンチに坐り、名城は興味深げに光彦を眺めた。
「中村君は死に対するどのような特効薬をお持ちですか」
「実に簡単明白なことです、人間は死なないのです」
「君のお祖父さんのお祖父さん、或いは坂本龍馬に会えますか」
「会えません」
「それはすでに死んでいるからじゃないのかね」
「この世では会えませんが、あの世、天国か地獄に行けば会えます」
「私はあの世を信じていません、ですから天国も地獄もないのです。
ただ死ぬのです」
「私が信じなくても、この世があるように、あなたが信じなくとも、あの世はあるのです」
「どこでそのような論法を覚えたのですか、諸刃の剣ですよ、よく考えて使いこなすことです」
「名城先生、論法ではありません、言葉のための言葉を、真言金剛会信徒は使いません、全ては真理へ至る言葉のみを使うことが信徒の誓いですから。
この世も、あの世も実際あるのです」
「ではあの世に君は行ってきたのかね」と名城は止めを刺すつもりで言い放った。
「行ってきました」と光彦は躊躇なく答え、名城は思わぬ返事に面喰らった。
「本気かね」
「私が冗談や嘘を言っている顔に見えますか」
「それを証明できますか」
「ルビンの盃、視点によって盃に見えたり、二人の人物が向き合っているように見える絵です。盃を見れば、人物の横顔は見えません、人物の横顔を見れば盃は見えません、あの世とこの世とはそのようなものです」
「ルビンの絵は全ての人間に同じように見えます、しかしあの世とこの世のルビンの絵は、なぜあなたには見えて、私には見えないのですか」
「現実に囚われて、盃しか見えないのです、それを囲んでいる二人の人物のシルエットが見えない、あの世が見えないのです。実は先生にも見えているのですが、現実に呪縛された知識が見えなくしているのです。それは錯覚なのですが、皆が同じように錯覚しているので、それを唯一無比の事実としてしまっているのです。ですから多数決で真偽を決めているようなものです。それでも日常生活には支障を来さないのですから厄介なのです」
「どうしてルビンの盃がこの世とあの世になるのですか。実際は盃だけで、盃以外の空間を人に見ようとしていることこそが、あの世だと見ることが固定観念に囚われているのではないですか。たとえば心霊写真です。写真の影や光を霊の姿と見る。天井の木目を鬼やら悪霊の顔に見る。だがそれは見る人が思っただけです。それを神霊、魔物、鬼の存在証明とされては困るのです。気持ちの持ちようで、何の根拠もないのですから」
「気持ちの持ちようです、信じることです、それが宗教の始まりです。しかし、錯覚を事実と思い込んでいる先生には事実であるあの世を認めることができない、そのような人間には信じると言うしかないのです。実際は真理は太陽の如く一目瞭然なものなのです。それが見えない、錯覚を錯覚と思わないほど、人間は錯覚に順応してきたのです」
互いが錯覚を事実と受け止め、相手の錯覚を批判する。それをどのように打ち切ればいいのか、分からない。極端に言えば、互いに嘘つきと思っている二人が嘘つきが真理を述べている、嘘吐きのループであった。
六、その他
光彦は中級コース・菩薩七変化の受講料・三十万をやっとの思いで蓄えて、真言金剛会道場に申し込んだが、拒否された。一般コースは審査なしだが、幹部コースは規定に沿わなければ受講できないのだと受付の作務衣の女子信徒は告げる。光彦は雷に打たれたように失神し、目覚めたのは相談室のソファの上だった。
「目が覚めましたか、相談係長の比屋根(ひやごん)洋三です。何のご相談でしょう」
「私はどうして『菩薩七変化』を受講できないのですか、どうしてですか」
「あなたを信徒名簿から除外されて、一般人として記載されています」
「理由は何ですか」
「それが除名理由が『その他』となっているのです」
「その他ですか、それが理由になりますか」
「これには上級幹部・監査役の名に捺印されているので、知る術はありません」
「私は一年半必死に真言金剛会に帰依して、修行して、四つのコースをクリアして、中級である菩薩七変化を受講するまでに到達したのです。それをできませんは無責任でしょう」
「中級からは出家へのコースとなるのです。責任を全て真言金剛会が取りますが、一般信徒はそうではありません。罪を犯しても、職業か無職か、年齢を報じられるだけです。わざわざ真言金剛会信者とは伝えません。宗教には多大なる責任があるのです、そしてあなた以外に多数の信者がいるということです」
「理不尽でしょう、そうとしか言いようがない、私には前科もありません、理不尽でしょう」と光彦は嗚咽した。
「しかし、中級へは進めません、ただし、一般信徒のままでなら、真言金剛会は拒むものではありません、言えるのはそこまでです。
どうかお引き取り下さい」
真昼というのに光彦にはこの世は闇だった。一寸先は闇、このような世の中でいいのだろうかと嘆いた。
カラオケボックス「カボチャの馬車」に入った。ジョニーウォーカーの黒を取って飲んだが、益々頭は冴えるばかりで酔わない。幾ら考えても「その他」の意味は底無しの井戸に落ちて行くばかりで杳としてその意味が掴めない。死にたくなったら、喧嘩別れした誠と真由子が会いたくなった。二人に電話すると、よう元気かと聞き、カラオケボックスで酒を飲んでると言ったら、すぐに来ると返事だった。光彦が思った程には二人とも嫌ってはなかったようだ。
誠と真由子は連れ立ってきた。
「お久しぶり、酒は解禁したの」と真由子が笑って、U字型のソファの右側に、左側に誠が坐った。
「ジョニ黒か、高い酒を飲んでるな」と誠が首を振り、自分と真由子の水割りを作った。
「お金ならある。三十万持っている、飲み食いで使うんだ」と光彦は自棄である。
「いいんじゃないの、それで真言金剛会の禁酒禁煙の誓いはいいのかしら」と 真由子が笑いながら言った。
「真言金剛会は止めた」と光彦は浮かない顔で子細を語った。
「理由が『その他』かきついな」と誠は光彦の顔を見た。
「一般信者で満足しろという訳でしょう。向上心の固まりの光彦には非常にきびしい。でもいいんじゃないの、もう受講料を取られることもないし。今までに幾ら絞られたのよ」
「十万、二十万、三十万、で六十万、今回の受講は拒否されたから、三十万が残った。それでパーティだ」光彦は荒い口調で言った。
「お前はバカだ。中古のいい車が買える金額じゃないの」
「親のように言えば、まあ、いい社会勉強になったと思えばいいか」と誠は溜息を吐いた。「なぜ、その他で一般信者止まりにするんだ。頭が変になりそうだ」光彦は頭を掻き毟った。「簡単でしょう、真面目すぎるのよ、サッカーのフーリガンと一緒で、他人には迷惑なだけの厄介者、ビンゴでしょう、光彦は思い当たらないの」
「真面目が悪いのなら、世の中どうでもよくなってしまうぞ、きっちり仕事をするから、スムーズにシステムは作動するんでしょう。真剣にやる、それが間違っていると言うのは、太陽を月だと言い張るようなものだ」
「遊びがないんだよ、直進して、直角にしか曲がらない、ぎすぎすしている」と真由子は酒を口にした。
「真言金剛会はそんなにバカな団体じゃない」と光彦は断言した。
「相変わらずのバカ。
君はね、悪霊退散在家解脱断食行をして、死に損なったのよ。死んだら、真言金剛会の大きなスキャンダルよ。
光彦は従業員タイプじゃなくて、創業者タイプなのよ、自分の思うようにやる。それが会には危険人物となる。大人しい従順な羊しかいらないの。あなたが教義を御旗に突っ走って、県庁に立て籠もったら、真言金剛会は大打撃を被るわ。そうなる前に除名したかったのよ。
でも熱心すぎるのが理由では宗教の面子が立たないでしょう。だから『その他』」
真由子は「北の宿」を熱唱した。
七、邂逅
光彦はショックから立ち直れずに悶々としていたが、講義だけは出ることにしていた。一人でいるとどうにかなりそうだからである。三日三晩続いた寝苦しい夜の最後の夜だった。
「お前はなぜ生きているんだ」
光彦はその質問に打ちのめされて、頭を抱えて転げ回った。
「お前は何を信じて生きているんだ」
光彦は再び頭を抱えて転げ回った。
「お前はなぜ生まれてきたんだ」
光彦は夢を見た、あの名城教授の夢だ。
「お前は人間失格だ」
「何を偉そうに言っているのですか、そのようなことが言えるほどの人間は現実にはいない」
「私は神の声を聞く者だ、お前に何が分かる」
「神だと、だがお前は人間だ、たとえ神の声を聞こうが聞くまいが人間だ。人間だから分かる、こうして喋っている」
「愚か者が何を血迷っているんだ」
「それでも天に星は輝き、日は昇る」
「お前は地獄に堕ちて、火に焼かれ、永遠の苦しみを味わうのだ」
「私はこの世で命を終える、その次はない」
「地上で最も呪われた者よ、地獄で泣き喚け、だが許しはないぞ」
「それでいい、お前も同じ人間だ、あの世はないんだ。どんな呪いも罪も喜びも悲しみも、死ねば私と共になくなる。それだけのものだ。
たとえ神様と言い張っても、お前も又人間のまま死ぬ、それでも日は昇る」
「名を言え、極悪非道の罪人の欄に記して、地獄行きにする、もう幾ら後悔しても無駄だ」「名城隼男だ、どうせすぐ忘れるだろうが言っておく、脅しには屈しない。私はどう生きようが死ぬ、それまでのことだ」
学長室に宇崎栄教授と野原春郎准教授はいた。
「学長、本校では宗教の学生以外の勧誘は禁止されていますが、それに無視するようなことをしている不謹慎な先生がいます」と宇崎は口を開いた。
「名城先生です。人の顔を見る度に、人間は死ぬんです、結局は死ぬんですと言う始末です。そのようなことに免疫のない学生は危ない新興宗教に走るものです。
そこで学長から厳重注意して頂きたいのです」と野原はしたり顔で言う。
「それならば、もう結構ですとおっしゃればいい、後を追ってまで話しかけはしないでしょう」
「学長は名城先生が学生から『死に神くん』と呼ばれているんですよ、口を開けば『皆、死ぬんです』と言うからです。風紀紊乱です」
「言いにくいんですが、名城先生は大学民営化で経営が危ぶまれる中で目に見える貢献をした方ですよ。文学部の上原龍三ホールの改築をしていますね。あれの費用はゼロです。高江洲建設のお子さんを捨て身で車に轢かれるところを、名城先生が救ったお陰です。
そのような陰徳を積んでいる名城先生にですよ、『死にます』と言っただけで、学長としては注意はできません。
宇崎先生と野原先生個人で相談してみて下さい。それから生徒からの苦情はまだ報告がありませんから」
宇崎と野原は互いに顔を見合わし、学長室を後にした。二人は文学部棟への道すがら、光彦が名城に話し掛ける現場に遭遇した。
「先生、皆死んで、それと同時に皆が持っていた全てを、思っていた全ても、死ぬ、消滅する。
カルマはないのですね」
「そうだ、ない。一人一人が一人分の人生の全てと共に消える」
「ほっとしました。全てが森羅万象に解放される」
「散逸する」
「有り難う御座います、先生は地獄に仏です」
「それはどうかな」
名城も光彦もそれぞれ場所へと去った。
「死ぬのが分かって、安心したって言うんだから」宇崎は呆れた。
「類は友を呼ぶでしょうな、さぞかし希少な友人でしょうね」野原は両手を伸ばして深呼吸をした。
了
ソクラテスの死に神
荘子(そうし)曰く、死を憎まず、生を喜ばず、それらを送らず迎えず。