清子の首
清子の首
序
根路銘(ねろめ)真(しん)如(によ)は兄・一如の死をきっかけに二十七の年に蓬莱寺の住職となった。
それから五十年近くもの月日が流れたが未だ独身を通し、次の住職は三笠村の萬福寺の次男・瑞鳳(ずいほう)が継ぐことになっている。
蓬莱寺は尚家琉球王朝以前から有ったとも伝えられる沖縄県は北部の山原(ヤンバル)の古寺であるが、四代目住職・安如がその縁起、過去帳なる一切の寺に纏る書を焼き払い、今に至る。
ただ地面に落とされた鐘を叩く鬼の二曲の屏風がただ一つの名残であった。
だがそれも大晦日の朝に煤払いで日の目を見て、夕方には開かずの間に戻されて、白布で覆われて来年の大晦日まで眠ることになる。
その役目も村の人々に任されて、何代もの蓬莱寺の住職がその屏風を一度も見ずに往生した。
一、般若
一如、三十二に二年の行脚を一年と二十六日で打ち切って沖縄に戻って来た。
だが出迎えた者はそれで驚いたのではない。和歌山は熊(くま)野(の)詣(もうで)の折りに拾ったと笑って連れてきた清子という女性が、待ち受けた一座の者の息を飲ませたのであった。
何よりも雪を思わせる肌理の細かい肌が目を引き、瓜実顔で蛾眉(がび)に一重の切れ長の目の余りに澄んだ、その目の湛える深き美しさが南国の濃い顔立ちを見慣れている身内の者を、村の者を驚かせた。
その夜は村を上げての公民館での歓迎会となった。人が死ねば飲み、人が生まれれば飲み、村から去り行く人あれば飲み、帰り来る人あれば飲む。何かに付けて皆で酒を飲む、それがこの雨乞(あまごい)村の美徳である。
村長が場も盛り上がり、清子に一曲歌ってくれと、頼めば、野太い声とかそけき川の流れの声の入り交じり、語るが如く歌えば、山に森に静けさが染み渡り、三線サンシンの名手の爪が独りでに弦を弾きて追いかける。
「鐘が燃え 僧に何ぞと 人聞かば
行脚の僧に恋い焦がれ 庄屋の娘
蛇身となりて、追い駆けて
僧を喰わんと 喰わんとして
この鐘に この鐘に
閉じ込められて 閉じ込められて
現うつつは夢に 現責め
餓え死ねば 火炎昇りて
メラメラとメラメラと
火炎地獄に 淫欲地獄に 耐えられず
火柱走りて 日高川 日高川
現の闇に 月隠し
現の闇に 月覆い」
一瞬、座は静まり返ったが、結局はカチャーシーで場は盛り返り、軽やかなリズムがお開きまで続いた。
然し、その翌日から一如は寝間に籠り、三度の食事を清子に運ばせた。清子に拠れば、兄は百と八日の沈黙の行に入り、清子以外の者の出入りを禁じ、誰もそこへ寄せ付けるなと命であった。
清子は午前六時、正午、午後六時と食を運んでは持ち帰るだけで、誰と口を利くともなく、訊ねられれば受け答えの返事のみであったが、違和感のようなものはなく、ただ口数が少なく、小まめに働くよき女だと真如や下働きの者には思われた。
一如は律を重んじ、肉を食(じ)きせずと女人と交わらぬことを御仏と起請し守り抜いてきた人である。それがわざわざ女人を連れ帰ったのが、弟の真如には腑に落ちなかった。それにも増して、清子の美しくも有り、気立ての良さにも心を奪われた。
或る日の午後、井戸で水汲みをしている清子に近づいて声を掛けた。
「清子さんはどうしてこのような沖縄の山奥に来られたのですか」
「さあ、一如様が沖縄はよい所だと申しますので、それに私は身内の者とは疎遠で、居ないも同然ですので、一層のこと、ここに来れば清々すると思ったからかも知れません」
「兄はどうしてあなたを連れてこられたのですか」
「行き倒れの私の身の上に御慈悲を掛けて下さったのでしょう」
「そうですか、清子さんはご苦労なさったのですね」
「いいえ、よく考えてみれば、父の会社の倒産、借金の取り立て、一家離散、世間にはよくあることで、ただ明日は我が身になっただけのことで。全部捨ててしまいました、だから今の私は清子で苗字などありません」
「清子さんは私よりお坊様らしい方です」
「まあ、お兄様とは違って、真如様はご冗談もおっしゃいますのね」
二、愛染会苦
無言の行が終えた午前六時、清子は真如から貰った薄い紅を塗って、朝食を奥の間に持っていった。
膳の引っ繰り返る音がし、廊下をけたたましく走る音がし、庭先に出たかと思うと、再びけたたましく駆け抜けて、足音は止み、ぴしゃりと障子を閉める音がした。
……女の悲鳴が寺の障子を掻き毟り、暫くして獣の雄叫びのような声が寺を森を震わせた。
首筋を切られ息も絶え絶えに、天上を見詰めているかのような清子が仰向けに倒れていた。それを見詰める怒りに悲しく歪んだ顔の一如が草刈り鎌で腹を一文字に突き刺して正座していた。
けたたましい足音が近づいてきて、障子を蹴破る音がした。真如は号泣し、清子を抱き上げた。
一如はそれを見届けるかのように倒れ伏して息絶え、そして清子も去った。
その夜から真如は、開かずの間である四代目住職の寝間で寝起きした。
三、夢現
紀州は日高川の宿が明け方から慌ただしかった。一如は部屋を出て、女将に訳を訪ねると、「心中です、済みません済みません」と二つ向こうの部屋へ駆け去った。
確かあそこの客は六十四五の男に三十路前後の女だったと一如は思い起こし、親子で心中とは無常な世の中だとつくづく知らされた。
「南無観世音菩薩南無観世音菩薩」
その夕方、一如は托鉢をして帰って来ると、女将が駆け寄ってきて、心中の顛末の話してくれた。
男は妻子持ちの老いらくの恋で、会社を定年退職してから、鬱気味であったと言う。たまたま出会った場末のバーで女と知り合い、三度目の出会いが心中騒ぎとなった。息子夫婦が引き取りに来て、世間体が悪いと早々に病院を街の病院に移し、凄い剣幕で息子の嫁が相手の女性を怒鳴り散らして帰ったとのことであった。
「お坊様、お相手の女性の身内の身元引受人が居ないので、病院の院長が費用は宿持ちかと訊ねるのです。困るんですよ、心中騒ぎで、縁起の悪い部屋まで作られて、何で病院代まで払うんですか、泣きっ面に蜂です」と女将は困り果てた顔で一如を窺った。
「では私が立て替えましょう、これも仏のお導きでしょうから」と一如は合掌した。
「そうですか、助かります」
一如はそのまま病院へ行き、院長に会って、病状を聞いた。
「清子さん、患者さんの名前です、苗字は言いませんので。まあ、睡眠薬もそんなに飲んでいませんので、二三日入院して安静にすれば、退院出来ます。しかし、その後の精神的には不安定な状態は続きますので、誰か見守る人が必要です」
「そうですか、暫く私が面倒を見ることにします」
「お坊様はお国はどちらですか、余り聞かないお国訛りもので」
「沖縄です」
「あの患者さんには沖縄の方が、却っていいかも知れません、転地療養です」
それから一如は四日、付き切りで清子を見守った。
「清子さん、私の寺に暫く厄介になりますか」
「でも、お金は有りません」
「私の寺のお手伝いをしてもらって、返してもらいます。もう一度お訊ねしますが、沖縄ですが、いいですか、海の向こうですよ」
「構いません。ここには何の未練も御座いませんから」
清子が病院から退院して、七日後には沖縄への船の上に、二人は居た。
四、無明長夜
既に真如は七十八、半年ほど前に胃癌の末期と告げられて、病の床に伏し、死を待つばかりの身である。跡継ぎの瑞鳳はこの一月、この老僧の末期を静かに見守っている。だが病の激痛に襲われる度に真如は悶え苦しみながらも、その刹那に御仏と逢われたような柔和な、何とも言えぬ微笑みしょうを浮かべるのである。
十一月二十五日、暁闇に私は死ぬであろうと、その日の七日前に告げて唇を水で濡らすだけで、断食に入った。
「今から私の言うことは一人の僧侶、蓬莱寺の住職として聞くのだ。遺書では死んで悔いを残すことになる。この寺で兄と清子さんが心中したのは知っているな」
「はい、戦後間も無い頃に有ったと父から聞かされました。ただそれだけで仔細は知りません」
「兄、一如はその清子さんを愛していたと思う。だが兄は肉食妻帯を日頃から許さず、日本の坊主の殆どは破戒僧で、仏教の恥だと公言して憚らなかった。兄・一如はそのように生きて死んだ。私とは比べものにならぬほどの立派な僧だ。だが私は今でも殺したいほどに兄・一如を憎んでいる。幾ら憎んでも憎み足りない兄だ」と死期が迫る痩せ細った真如の顔が恐ろしいほどのエネルギーに満ち溢れた不動明王の憤怒の形相となり、虚空を睨んだ。
「真如様が清子さんを道連れにしたからですか」
「そうだ、私は清子さんが好きだった。私は還俗して、清子さんと所帯を持つ積りだった」と真如は震える手を握り締めて涙を零した。
瑞鳳の知っている真如は能面のように喜怒哀楽をけして表に出さない人であった。
この寺の住職となってから、寺の田畑を売り払い、それで軍用地を買った。それでは足りず、幾つもの葬式を掛け持ちするために逸早く自動車を買い免許も取った。その軍用地から米軍の借地料が支払われるようになると、寝たままで金が湧き出して来るようなもので、北部で一番の金持ちと噂された。
又その金で裏山を二束三文で買い、墓地に造成して、再び金を積み上げた。そしてジュークボックスの販売でも儲けた。彼はビジネスを立ち上げては一年か二年で権利を譲渡して大金を手に入れた。
その手際の良さは神懸かりだと商売人の間でも噂になるほどであった。
選挙の度に、議員が頭を下げに来るほどの成り金となっていたが、寺だけは昔のままであった。
誰もがお寺の金庫には金が腐るほど貯まっている思っていた。実際、瑞鳳もそう思っていた。
だが瑞鳳は寺の受け継ぎのために帳簿を見ると、萬福寺と同じほどの金しか、蓬莱寺にもなかった。
その利益の殆どを匿名にするようにして、戦災孤児の施設や福祉団体に寄付をしていたのである。何よりも施設の古びた礼状と受取書がそれを物語っていた。瑞鳳はその寄付の金額の大きさに、そして真如がこの寺を継いだ翌年から一年ほど前まで続けていたことに更に驚いた。
金の亡者として毛嫌いされて、村から孤立しながらも、いつも慌ただしく動き回っている姿が、少年の頃見た真如の姿がありありと脳裏に浮かんできた。
『母は幼い私の目を両手で覆い、あんな坊主にだけはなるな』と叱った。
父は蓬莱寺の住職になるのはいいが、けして真如のような真似はするな、その時は廃寺にして、金だけ持って、消え失せろと言った』
だがそれほどの経営手腕があれば、田舎の村の寺の住職などならずに、企業家になっていれば、きっとこの村の立志伝中の人物として尊敬されたであろうと思われた。それなのに何故に真如は僧侶を全うしたのだろうかと、瑞鳳には怪訝に思われた。
「兄・一如は清子さんに手も触れもしない。だが清子さんを愛していた。それはまるで白衣観音の菩薩像を愛するようにだ。いつも傍にいて、輝いていて暖かい存在であることで、兄の心は満たされた。まるで毘盧遮那仏(ビルシャナブツ)で信仰の対象のようなものだった。だから好きだとも綺麗だとも言わない。清子さんは兄を蓬莱寺を沖縄を宇宙を全て引っ括めたものであり、その中の芥子粒(けしつぶ)ほどの兄でさえ、慈愛を施されていることの無上の喜びを覚えていた。兄はそれで幸せだった。兄、一如は彼なりに最高の敬意を払って清子さんを愛していたに違いない。それは肉欲を好悪をけして示さないことだった、それが僧侶の恋だ」
『拾った女に血迷って心中した、あの一如がだ。女は魔物だ』
けして酒の席で肴になどなるような話しではなかったが、父は酔うと独り言のように一如の非業の死を悔やんでいた。
一体、妻を持ち、一家を養うために、寺を守り、平然と日々を過ごした萬(まん)福(ふく)寺(じ)はどうなのだ。そのようなことを考えたことすら有っただろうか、心を掠めたことさえ有ったろうか。瑞鳳はそれを恥じ、涙を浮かべ、消え行く灯明の光を感謝し見詰めていた。
「一如の無言の行が終わると、清子さんは私が呉れた淡い赤の口紅を塗って、朝食を運んだ。きっと私とのことを話そうと思ったに違いない。化粧をするのは寺を出ますという清子さんの決意を示すものだった。一如にはそれがすぐに分かったであろう。兄はそれを諌めはしなかったに違いない。兄は不憫な清子さんを哀れに思って、邪心なく蓬莱寺に連れて来た。それは兄、一如にとっては翻すことの出来ない暗黙の誓いだった。だが兄は清子さんがこの寺から出てゆくことが寂しかった。愛していたからだ。兄はそんな自分を憎んだ、しかし自分を憎めば憎むほど、清子さんが美しく、離れがたい衝動が沸々と込み上げてくる。念仏を幾ら唱えても、泣き喚いても、清子さんへの思いは消えるどころか、身を焼くほどの業火となって襲い掛ってくる。兄は走り、庭で鎌を見つけ、戻って来て、清子さんを切り、一如はそれを見詰めながら腹を切った。兄・一如の永遠の刹那の愛の証(あかし)だった」
蓬莱寺の前にパトカーが止まり、警察官と刑事が駆け付けたが、凄惨な現場にしては、全てが穏やかであった、清子から畳に零れ流れた血に、正座して前のめりに倒れた一如と右手の深く腹に刺さった鎌とその零れ出た血、覚悟した自殺であることは、争った形跡の無い現場が立証していた。それは警察官と刑事が沖縄戦で洞穴の中で自決した住民の悲惨さを目撃した人達であったから、尚更のこと静かなものに見えたのかも知れなかった。刑事は三十分ほどの真如の事情聴取をして、警察は心中として扱い、村の風評も一月で消えて、一年も立たぬ内に一如と清子はこの村から消えた。
一如は代々の住職が祀られる墓地に納められ、清子は墓地の端のセメントで拵えられた小さな仮墓に収められた。
五、愛別離苦
一如はすぐに荼毘に付されて葬儀は村を上げて盛大に行われた。だが清子の葬儀は密葬にするか、無縁仏として、寺の隅にでも葬れとの村長と村の者の大方の意見であった。
線香を上げたのは寺の離れに住むウシーお婆だけであった。
「戦でも死なない者が、何で平和の世の中で死ぬのか」と吐き捨ててウシーお婆は清子の死に顔を見ることも出来ずに出て行った。
真如は慌ただしい一如の葬式を済ませて、ドライアイスの敷き詰められた棺(ひつぎ)に横たわる清子の顔を見ると、五臓六腑が千切れるような憤りと愛しさに身悶えし、息が詰り、自分も死のうかと思い、包丁を手にしたが、死ぬことは出来なかった。真如は号泣し、涙も涸れて、瞼が重くなったかと思うと、何処からともなく清子の声が聞こえてきた。
『閉じ込められて 閉じ込められて
現うつつは夢に 現責め
餓え死なば 火炎昇りて
メラメラとメラメラと
火炎地獄に 淫欲地獄に 耐えられず』
魂の抜け殻となった真如は棺から清子を取り出して抱き締めて、生きることも死ぬことも出来ずに、呻いて吼えた。
『僧を喰わんと 喰わんとして
この鐘に この鐘に
閉じ込められて 閉じ込められて』
坊主に何故なにゆえ死んだと聞かば、僧に惚れた女が恋狂い、追い駆けて追い駆けてハブとなって咬み殺さんと……坊主が哀れな女の命を救い、肉を踏み潰し、魂(マブイ)まで殺した、坊様が優しく誘って、二人がかりで、魂まで魂まで殺した。一度だけの死を、二度にして玩び壊し捨て去った、
賽の河原の鬼よりも蓬莱寺のお坊様は恐ろしい、優しい菩薩の面(つら)の坊様は鬼より恐い、鬼より恐い、心で鎌を研いでは経を唱えて道を説く、……
「清子さん、あなたを愛しています、愛しています……、生きている時は何もせずに、あなたが死んで、あなたの屍をこの胸に初めて抱き締める、畜生ほどの情けもない私です、卑怯者の坊主の真如です」
六、貧者の一灯
生死の境をさ迷いながらも、真如は六日目の夜を迎えた。浴衣から袈裟に瑞鳳に着替えさせて貰い、真如はふうっと溜め息のようなものを吐いた。
「瑞鳳、僧侶らしい事を何一つしなかった私が、今更神妙に袈裟を着るとは可笑しいと思うだろう、私もそう思っている、だがこれは清子さんへの冥土の土産に持ってゆく、笑い話の種になる。私は兄よりユーモアは有ると言っていたからな」と笑んだ。
「何をおっしゃいますか、私はこの寺に来て、真如様がどんなに有り難い坊様か分かりました。萬福寺は自分から一銭の寄付もしたことは有りません、それで有りながら……」
「それはそれでいい。
私は清子さんを諦めきれなかった。私はドライアイスを継ぎ足して七日も共に過ごした。屍と思っても、時が経つほどに思いは益々深くなるばかりだった。私はやはり死のうと思い、兄、一如と同じように愛の証として包丁で腹を切ろうとした。だがたとえ死んだ清子さんでも私の手の中にいる。優しい優しい清子さんがいる。ふとそう思うと、あの世など分からぬ所で再び会える確信はあるのかと自分に問うと、会えぬと思う苦しさで頭ががんがん痛くなりだした。私は死なない、私は死なない、再び清子さんを手放すような真似など出来るものかと思った」
『鐘が燃え 僧に何ぞと 人聞かば
行脚の僧に恋い焦がれ 庄屋の娘
蛇身となりて、追い駆けて
僧を喰わんと 喰わんとして
この鐘に この鐘に』
私はその翌日、ウシーお婆と一緒に墓地の端に穴を掘り、火葬はせずに土葬にして、清子さんを入れた棺を埋めて、セメントの仮墓を置いて、供養した。たった二人の参列者だ。それも兄、一如を唆(そそのか)して心中した清子として、罪無き罪を背負い、紀州の何処の誰とも知られずに異郷の地で亡くなった」
無表情の真如の右目から一粒の涙が滲み出た。
「不憫な人で御座います」としか瑞鳳には言えなかった。
真如は自分の如何なる言葉でも届かぬ高みか、深みに居る尊い師であり、言葉を連ねれば連ねるほどに尚更礼を欠くことになると、瑞鳳は思ったからであった。
「私は清子さんの首を切り落とし、この部屋でずっと一緒に過ごした。清子さんの目が腐り始めた、醜くて顔を背けた。背けた顔の向こうで清子さんが『もうお墓に入れなさい』と笑うんだ。そして再びそのお顔を見ると、美しいというより恐ろしく見える。だがそれは瘴気(しようき)漂う泥沼の中から咲き出ずる白蓮のようであった。そして涙を零しながら清子さんを胸に抱きしめると、まるで空からガンジスの川の砂の数、五十六億四千万、弥勒菩薩が現れるという年月の花びらが天から降り注ぎ伽羅(キャラ)の匂いがこの部屋に満ちたのだ。私は清子さんを私の枕元の横において、幸せだった。清子さんは干涸びてミイラにしか見えない。それでも清子さんの髪を梳かしてやると、笑った清子さんがありありと浮かんでくる。いや、それは言い様のない美しさを増してくるのだ。まるで極楽浄土に居るという迦陵(かりょう)頻伽(びんが)の声、麗しく気高い谷間の白百合の清子さんだ。これまで感じたことの無い喜びが何処からともなくが沸き上がった。
私は生きていてよかったと心底から思った。いや私は生きてゆけると思った」
「この鐘に この鐘に
閉じ込められて 閉じ込められて
現の闇に 月隠し
現の闇に 月覆い」
「始めは妙なお経のように聞こえた。だが我に返ると、廊下の庭先から聞こえてくるのが分かった。私は恐かった。幽霊というものが居るのだろうかと思って、襖を少し開いてみるとウシーお婆が地べたに跪いて拝んでいた。お婆は清子さんを拝んでいた。私は惚けたのかとも思ったが、そうではなかった。ちゃんと朝食の支度もして、いつもの通りのお婆だった。それが私が部屋から出るようになるまで続いた。それでも清子さんの首の話は一言もしない、クソババアだった、それは雲間から現れた見たくもない月だった。それでもウシーお婆はくたばるまで歌いやがった。
『現の闇に 月隠し
現の闇に 月覆い』
私は金の亡者になることにした、そしたら死ぬまでどうにか生きられると思った。最初は辛かった、それでも夜になり、寺に戻り、清子さんを横にして眠ると、至福の喜びが沸き起こる。ビジネスが苛烈になればなるほど、疲れれば疲れるほど、清子さんは私を慰め、至福の懐で眠らせてくれた。もう私に恐れるものは何もなかった。たとえ無一文で真っ裸にされて世間に放りだされても、幸福だと思った。一日動き回って、清子さんが待っていてくれると思うと、一日があっという間に過ぎてゆき、何かしら家族団欒とはこういものだろうと思えてならなかった。清子さんと所帯を持ったような気分になることも有った。五蘊皆空(ごうんかいくう)なら、何が見えても不思議はない、だが実感なのだよ、清子さんが居る、それが全てなのだ」と真如は目を閉じ、深く息を吸った。
瑞鳳は驚嘆しながらも、真如の一生の記憶が錯綜して、一つの寓話のようなものを作り上げているのでは無いかと思った。余りにも大きかった兄・一如と清子の心中があらゆる記憶、夢や願望までも呼び覚まし、その断片が心という万華鏡に落とされて、何かを思う度に、揺すられて千変万化の色合いと模様を織りなして、一つの絵巻を、曼荼羅(マンダラ)を作っているのだと推測した。しかし、清子さんの首を除けば、自分の一生を真如は淡々と無理もなく語っていた。
「それでも、やはり二三年もすると、清子さんにも慣れてしまって、一度か二度、バーに行って、浮気でもしてみようかとも思ったことも有った。だが、何かしら存在感が無い。上っ面で演技をしているような、金で操られているような人形のようで、全てが希薄なんだ。お喋りをすると益々非道くなるばかりだ。それで途中で家に引き返してしまった。清子さんを出して、それをわざと報告するんだ」
『あなた、柔らかいお女の子の肌にでも触れてみなさいな。そしたら、女のよさが分かりますよ』
「そうか、それでもお前の方が話も分かるし、ずっと綺麗だから、どうしようもない」
『そんなに自分の奥さんを褒める亭主も珍しいわね。あなたは遊ぶことが出来ない性分なのね、もう浮気は諦めなさい、本気ならいいんですよ、私はね……』
「そう言うと、実に寂しそうな顔に一瞬なった。その顔がとても美しく色っぽいんだ。家に戻って、待ってくれる人がいるというのはいいもんだ。好きな人なら尚更だ」
七、御来迎
真如は暫く眠っていた。
瑞鳳は僧侶・ビジネスマン・よき夫としての真如の姿を思いながら、一体どれがこの横たわる老僧の望んだ一生なのだろうかと考えあぐねていた。
人の一生は本当に夢か幻のもののようにも思える、だがそれは臨終の折りに振り返った時のことであり、実際その生きた時の流れを考えれば、夢や幻と高みからでも見下ろすような生易しい他人事ではない。僧侶の自分は当然、仏に縋って、その教えによって生きる。だがそうでないことも、そう出来ないでいる自分や、父母や兄を見れば身に染みて分ってしまう。それでも私は蓬莱寺の住職となる。当然、僧侶として寺を持ちたいという願望、いや、欲望が有り、自分には自力で寺を建立する能力も、ましてや金も無いと知っていたからだ。僧侶となったのは私にとって最も安易な職業の選択をしたに過ぎない。
「瑞鳳」と呼び、開いた襖を閉じるように指図して、それから押し入れを指した。
そこを開けると二段に別れた上の段に金庫が置かれていた。
「もう鍵は掛かっていない。誰も盗んで返ろうとは思わないものだからな。開けて骨壷を入れる箱を私の枕元に置きなさい」
瑞雲が言われた通りに金庫を開けると、プーンと黴の臭いがした。そして枕元へ白木の箱を置いた。
「瑞雲、私が出してやりたいが、私にはその力さえ残ってはいない、もう六日も有っていない、私はお前と話が出来て、寂しくはなかったが、清子さんは寂しかったろう、もうこれからは一秒たりとも清子さんに寂しい思いを、独りぼっちにさせることはない。出して、私の顔の横に清子さんを寝かしてくれ」
瑞鳳は察しは付いたものの、清子の首は説話の喩えのように思っていたので、実物の頭部を見てたじろいだ。
「瑞鳳、まさかの時にこそ平然として、些細なことに喜怒哀楽を示すものだ、それがお坊様だ。そんなことでは、いいお坊様にはなれないぞ。人の屍を拝んで商売するのもお坊様だ。これくらいのことで、驚くな、私の連れの清子さんの首だ、少しは敬意を払って、扱ってやれ」と目を潤ませて優しく叱った。
瑞鳳は両手で干涸びた頬を包んでんで取り出して、そっと枕元に横たえて、その黒こけた肌が頭蓋骨にへばり付いているだけのミイラを見た。清子という見たこともない女性の、多分自分と同じ年くらいで亡くなったであろうミイラの首がこうして在ることに涙は頬を伝って畳へ零れ落ちた。
「瑞雲、そんなに涙脆くては、葬式を上げることなど出来ないぞ」
「そんなものでは有りません」と正座して袈裟の袖を握り締めて俯いた瑞雲はそれでも泣いていた。
「やっと、私達が夫婦であること認めて下さるお人が現れた。清子さん、これからはいつも二人で何処へでも好きなところへ自由に誰に気兼ねもせずに……大手を振って行けるよ。まずは和歌山の日高に行こう。とうとう、この真如は生きている間に清子さんの古里へも行かなかった。清子さんを鞄に入れてでも、旅行すべきだったな……。でも行けば、余りに悲しくて、力が、生きていく力が無くなりそうで恐かったんだ。
許して下さい、清子さん。ホントはあなたを抱いて川に飛び込んで死ねないのが恐かった。あなたへの愛情がこれだけかと思うことが恐かった。兄の思いの丈に届かぬ惨めな自分が恐かったのです。私には死を飛び越える勇気が無かったのです、許して下さい。
それなのに清子さんはいつも私を慰めて励まし、連れ添ってくれた。ホントにいい人と巡り合えて、真如は幸せです」
瑞鳳は二人を眺めながら、萬福寺の阿弥陀如来像を思い出していた。朝のお勤めの度にお香を焚かれ経文を唱えられ、崇め奉られる。
『私は阿弥陀様に話しかけた事も無い、一緒に遊んだ覚えもない、怒ったこともない、泣いたこともない。それなら値の張った只の木彫だ。真如様が一生賭けて、守り通した清子さんの首の方が遥かに尊く神々しい、いや、清子さんの首は仏様だ、その只お一人の弟子が真如様だ。本堂の仏様を殺しているのは自分達なのだ。金の亡者と蔑まされるような真如様ではない』
「瑞鳳、後ろに有る屏風の布を払って、屏風が見えるように前に置いてくれ」
あの鬼と鐘の屏風は真如の足下に開かれて、鬼が鐘を撞いていた。
「もう四五十年は経っている、随分久しぶりに見る。とてもいい絵だ。私は憤怒で鐘を搗いていると思っていた。だがそうではない、詫びながら生きるために悲愴な顔で鐘を搗いている。鐘の中には思いを遂げられず、閉じ込めれてしまった清子さんが居る。届かぬ人へ私は此処にいます、私は此処にいますと搗き続けているんだ。それがこの鬼が閉じ込めれてしまった清子さんに対する、ただ一つ残された愛の証なんだ。諸行無常などと響くのではない。『それでもこの愚かな鬼を生かして下さい、鬼を生かして下さい』と響く。そして私は天寿を全うし、鐘の中に入ることを許される。私は八つ裂きにしたいほど兄、一如を憎んでいる。でもそれもその愚かな鬼が哀れみを乞うための鐘の響きの一つなのかも知れない。この鬼は私だ、それだけは瑞鳳、どんなことが有っても忘れるな、そして鐘の中にはこの世から消されてしまった最も哀れで慈悲深い清子さんが居る」
真如は最後の力を振り絞り横向きになり、清子の首を胸に掻き抱いて、嗚咽して旅立った。
八、鬼子母神(きしもじん)
真如が去った翌朝から墓地にショベルローダーの音が鳴り響いた。
掘り起こされた土の中から出て来た遺骨を瑞鳳はベニヤ板の上に置いて、洗(せん)骨(こつ)し、丁寧に汚れを拭き取り、白木の箱に入れた。
「住職、もうお墓の整地にかかってもいいですか」
「もういいだろう。立派な亀の甲墓を作ってくれ、石工も腕のいい人を頼んで下さい」
「今時、亀甲墓とはいいですね、こちらもやり甲斐があります」
瑞鳳は真如の棺に清子の首と洗骨した骨を並べて置いた。その後ろに鬼の屏風を置いて、三日三晩の祈祷を捧げ、荼毘に付した。二人の遺骨は大きな厨子甕(ずしがめ)に入れて、開かずの間の真如の部屋の屏風の前に安置した。
それから三月後、瑞鳳は亀甲墓に二人の遺骨を納骨した。それには村人のお偉方が参列し、墓の庭でお祝いとなった。
「瑞鳳さん、大きなお墓を造られましたな。それもいいですよ、でもどうして、あの清子まで納骨するのです」
「そうだ、兄、一如を誑(たぶら)かして、心中させた女だぞ、それを弟である真如のお墓に入れて、これでは根路銘真如、清子とは夫婦ではないか、筋が通らぬ」
「そうだ、何処の馬の骨とも付かぬ清子という女に誑かされて兄は自殺に追い込まれたんだぞ、それを、その女を弟が嫁にするとは何事だ」
「清子さんは前のお住職が一生慕った方です。それに心中は兄・一如の無理心中です。その日の清子さんは一如様に真如様と一緒に寺を出て、夫婦になると告げに言ったのです。そしてあの惨劇です。けして清子さんが悪いのでは有りません。これは清子さんを一生通して愛し続けた真如様から聞いたことです。お二人ともそれぞれが清子さんを愛されたのです。
ですからあのような小さなお墓にいつまでも住まわせる訳には行きません」
「まあ、お金儲けの上手な人だったから、何をしようがしまいが、こちらは構わんが」と村長はごちた。
「瑞鳳、どうして寺のために何もやらなかった真如の墓が、あの沖縄の仏教界の逸材と言われた兄・一如より立派な墓を作るのだ、それは逆であろう。金儲けに走った真如より、仏門に帰依した一如の墓をここにすべきだろう」と瑞鳳の父、瑞雲は悟ったような口調で諭す。
「真如様はこの寺を再興した人だからです」
「何、金を儲けたからか、お前は寺の住職になったら、もう金の亡者か、恥ずかしくはないのか」と瑞雲が大きな声で叱咤した。
「あれほど儲けた真如様がこの寺には萬福寺ほどの金も残さなかったからです」と諌めるような静かな声で瑞鳳が返した。
それを見兼ねたのか末席に坐っていた白人との混血児であると思われる五十前後の女性が立ち上がった。
「真如にはアメリカーの子供もいたのか」
「オメカケだろう」
「そう言えば、英語も話せたからな」
「金儲けのためなら、何でも出来る人だったから」
と酔いの回った村の者がどよめき始めた。
「いいですか、皆さん、私は沖縄人(ウチナーンチュ)と米兵との合いの子です、孤児院で育ちました。それに妾ではありません。私は愛之園孤児院を代表して、ここに来ました。私は一度だけ、故人となった園長先生に連れられて、このお寺で真如さんにお会いしたことが有るからです」
すうっとざわめきは消えて、皆がこの混血の女性に目を向けた。
「真如さん、孤児院を援助して貰いたいのです」
「それは慈善家に頼まれたらいいでしょう。私は慈善家では有りません」
「この子の母親は沖縄人です、父は米兵です。誰もこの子のよう境遇の者を助けようとしません。米兵は憎くても、その子供達には罪は有りません」
「そうですか。私も父や母を戦争で殺した米兵が憎い、その子まで憎いですよ、母親が米兵に体を許して出来た子供は尚憎いですよ。私はそのような人間です、それでもいいのですか」
「構いません」
「君は何歳だ」
「七つです」
「ではオジサンが言っていることが分かったね。オジサンは好きか」
「嫌いです」と混血児の子は泣いた。
「この子の言葉ですっきしりしました。この子は嫌いです、と面と向かって言いました。私はお金は出しますが、情けはびた一文出しません」
だが真如の対応は早かった、すぐに建設業者を向かわせて、愛之園の空き地にバラックでは有るが、七軒の家と一件のチャペルを三月で作らせた。落成式には招かれたが、宗旨が違うと真如は辞退した。
それから五年が経ち、その混血の女の子は真如宛に手紙を出した。
「拝啓、
真如さん、
私は愛之園の金城百合子です、あなたを嫌いと言った混血児です。
用件はチャペルの古いオルガンが壊れて、讃美歌の伴奏が出来ずに、ナオミ園長先生が困っています。
私には園の外で知っている人は真如さんしか居ないので、こうしてお手紙を書きました。
神様の祝福を
金城百合子」
真如はすぐに日系二世の将校に頼み、オルガンはアメリカ本土で購入され、軍の輸送機で沖縄の基地に運ばれた。それには価格の五倍のドルが支払われた。真如はトラックを借りて、孤児院へ輸送した。
わずか二週間で新品のオルガンは愛之園に届けられた。
チャペルの中に運び込まれたオルガンの周りではしゃぐ子供達の中から、一人の女の子が抜け出し、外へ出てトラックを見ると助手席に坐っていた男が急に顔を背けた。
「いいですか、皆さん。戦後間も無い頃、誰が米兵との間に出来て、捨てられた子供に慈しみをくれたのですか。あなた方は私のような子供を、白い目で見る代わりに、優しい言葉の一かけらでもかけてやりましたか。
園長先生に手を引かれて、この寺からの帰り道に聞いた、真如さんが撞いて下さった、あの鐘の音は、あの鐘の音は……
私の耳には今でもはっきり聞こえます」
清子の首
愛するとは、仏道とは