愛神

  星彦は小三の時、ビーチでのアメリカ兵との経験で、潜在的なホモセクシュアルが芽生えるが、同時にアメリカ兵から貰った亡きマリリン・モンロー雑誌を見て、彼女を愛し続けるジレンマに陥った。
 平田星彦は美貌の高校教師であったが、度重なる女子生徒との有らぬスキャンダルに嫌気がさし指刺して退職する。
 父の保険金と財産で悠々自適にパチスロ三昧の生活をするが、パチンコホールでアルバイトをしている高木今日子、二十一歳・学生に一目惚れされ、平田星彦の家に居候してするが、彼は全く今日子に興味を示さない。
 その鬱憤晴らしのつもりでパートしたクラブ「雨蛙」で飲食店オーナーの新城健二・四十歳に出会う。
 健二は遊びのつもりで今日子と夜を共にするようになるが、今日子にとって彼とのセックスはテニスをしたようなもので、ただのストレス解消である。だが、健二はそんな今日子に惹かれ、一緒にいて、今日子の指さえ触れない星彦に異常な嫉妬を覚え、年に一度の大事な家族の行事を顧みずに、星彦の家へ会いに行く。
 一方、毎晩帰りの遅い夫に業を煮やした妻の薫はクラブ「雨蛙」に行き、今日子の存在と居場所を突き止める。
健二は星彦と会うが、彼の全くの今日子への無関心さに驚きくが、彼の美貌と魅力に惹かれるであろう今日子は自分の元へ戻って来ないことを知り、台所のシンクにあった包丁で、星彦の胸を刺し、放心状態となる。
 星彦は這いながら部屋に戻り、天井に貼ってあるマリリン・モンローのポスターを見ながら息絶える。
 放心状態で右手を包丁に持った健二を見て、今日子は慌てて星彦の部屋に行って、星彦の死を確かめる。
 星彦の愛を受けることが不可能となった今日子は怒りで、呆然とする健二から包丁を取り、突き刺す。今日子はその場に倒れ込み泣きじゃくる。
 そこへ薫がやってくる。薫は健二が家族や自分を捨てたままの死を確認する。健二が星彦を殺し、星彦を殺した健二を今日子が殺した。
 薫は床の血糊を辿って星彦の部屋に、そしこの忌まわしい事件の根源である平田星彦の姿を見る。苦悶の影すら見えず、まるで何から解放された顔をしていた、そして固唾を飲むほどの美貌だった。
 薫はこの家を出て良き母として、息子と娘の待つ家へ戻るかどうか考えるが、既にそのようなものはどうでもよかった。薫は今日子から包丁を奪い、刺し殺し、星彦の部屋に行く。
 私も美男子が好きだと星彦にキスをして、包丁で自分も喉を刺し、重なるように倒れた。
 「好き」だということだけに余りに一途なな四人は腐乱臭の屍を残して、愛神となった。

愛と憎しみが溶け合う時

   愛神(あいじん)
       作・三雲倫之助

   序
現場には男二人、女二人、計四人の腐乱死体が横たわっていた。

 沖縄の祖国復帰(一九七二年)前まで、中城湾を望む与那原町は海水浴場として賑わっていた。水着を着た子供たちや若者、そして一際目立つ裕福なアメリカ兵のカップル、彼等は羨望の眼差しで迎えられた。それに加え、人前でキスをする行為は地元の老若男女を問わぬ関心の的であり、思いも寄らぬ実演ショウであり、それを目撃した者は自慢げにそれを吹聴して回ることが楽しみとなっていた。
 その海岸沿いの一角に、平田星彦の家は在った。
 三年前まで、某県立高校の国語教諭をしていたが依願退職していた。その理由を誰も知るはずもないのだが、町では誰もが猥褻行為に因るものだと噂した。
 星彦はすらりとして知的な美貌の人であり、学校においては、思春期の女生徒達の憧れの的で、レディーズコミックの主人公が抜け出てきたような存在であった。転任するごとに、表沙汰にはならなかったが、多感な乙女達が屈折した色恋沙汰の事件を起こしていた。例えば、ラブレターの返事が貰えなかった子が酔った勢いで、星彦の家に押し掛けて、結婚してくれだの、抱いてくれだのと、喚いて酔い潰れた。それが火の無いところに煙は立たぬと、職員会議で取り上げられた。その都度、迷惑を被り神経を擂り減らすデリカシーがあるのは星彦だけで、残りの者にとっては退屈な日々のいい刺激であり、誂え向きのストレス発散の場であった。
 だが、教師を断念させるに至った事件センセーショナルなものとなってしまった。
 夢見がちな文学少女が妊娠を苦に、お腹の子は星彦であることと、林芙美子の「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」とノートに走り書きして、睡眠薬で自殺を図ったのである。未遂に終わった者の、PTAと職員会が騒いだ。当事者である女生徒は騒ぎが大きくなり、今更相手が茶髪のそれも年下の不良少年だとは口が裂けても言えない。それでも全く身に覚えのない星彦は否定するしかない。両者は平行線のまま相譲らず、どちらとも決めかね、結局、これだけ追求したのだから、痛み分けで日本式のお得意の有耶無耶の内に解決を見た。所が好奇心は何も無かったでは承知するはずもなく、それぞれの関係者が勝手な空想を描くには十分過ぎる結末であった。又、星彦が三十一で独身であることも火に油を注ぐ種となってしまった。
 星彦は学校での好色な目に嫌気が差したのと、父親の入院をきっかけに辞職を決意した。それは渡りに船だった。
 星彦の母親は心筋梗塞で小学校へ上がる前に呆気なく亡くなった。幼い星彦には母が一人でハワイの親戚会いにでも行っているような気分であった。それ故に最後の肉親である父親は最後まで看取って、死を素直に受け止めたかった。医者の診断通りに半年後に亡くなった、癌であった。そして、父親の小学校の校長としての退職金と少なからぬ保険金と二階建ての家屋と百五十坪の土地を相続した。その税を払っても、手元には一人なら一生十分に遊んで暮らせる金額が残った。
 一人となった星彦は隣町に在るパチンコホールに通い、日中はパチスロで過ごし、夜は広い家の自分の部屋で酒を飲む。誰にも気兼ねしないで済む、自由気儘な日々を享受していた。それでも、生活が荒んでいる訳ではない。朝は八時に起き、シャワーを浴び、トーストとコーヒーの朝食を取り、九時には車を走らせ、開店の九時半に間に合わせるのである。
 そして勝敗に関係なく午後六時には打ち止めし、帰りの途中にあるスーパーで弁当とウイスキーを買い求めて、帰宅となる。
 ダイニングで弁当を平らげると、ウイスキーを持って部屋に入り、備え付けの小型の冷蔵庫から、グラスと氷を出して、十一時まで飲み続ける。いつもBGMは森田童子の曲である。少し気分を変えたい時には中島みゆきとなる。この二人のミュージシャンのCDしか星彦は持ってないが、全てのアルバムを揃えている。酒が回るとベッドの上に横になる。
 真上にはマリリン・モンローが憂い顔にも見える微笑みを浮かべている。

 マリリン・モンローを知ったのは一九六四年、祖国日本では高度経済成長を誇示するために東京オリンピックが開かれていた。
 その日は炎天の真夏日であった。
 星彦は小学三年生で浜辺で遊んでいると、海水浴に来た三人の米兵の一人が手招きをして、アイスボックスからコカコーラを取り出して見せた。星彦は釣り寄せられて、コカコーラを手にした。その米兵がアメリカの雑誌を開いて、モンローのヌード写真を見せた。
「キレイナ・オンナデショウ」と訊ねた。
 星彦は顔を赤くして頷いた。
 「OK」と米兵は雑誌を閉じて左手で渡すと、いきなり抱きしめてキスをした。星彦は動転したが、同時に熱いもやもやとしたものを下腹部に覚えていた。コカコーラが手からストンと砂の上に落ちて零れ、泡立ち弾ける音がした。
 星彦は一目散に家へ逃げていた。部屋に入ると、涙がポロポロ独りでに落ちた。それから握り締められたアメリカの雑誌を恐る恐る捲った。
 モンローは限りなく美しく、輝きの中で笑っていた。
 しかし、その美しい女性の名を星彦は知らなかった。知ったのはそれから四年後の中一の春、野球部の三年生の先輩に部室に呼ばれ、アメリカの女性のヌードを切り取ったスクラップブックを見せられた時であった。先輩はこれがマリリン・モンローで女優だと上擦った声で告げながら、身を擦り寄せ、星彦の体を撫で回した。星彦は先輩を突き飛ばし、バケツに入っていたボールを手当たり次第投げつけた。ヒステリックに泣き喚く先輩を尻目に、星彦は部室から逃げ出した。それっきり野球部に行くことはなかった。

 八月の太陽は昔と変わらず青一色の中から容赦なく照り付けて、駐車場からパチンコホールまでの僅かな距離を歩くだけで汗を滲ませた。ホールの端台に坐ると、五分もしない内に7が斜めに三つ並んだ。今日は付いていると星彦は笑った。
 彼にとって、ここにいることは独りで在る事とパチスロにのめり込む事であり、何を考えなくてもいい、群れの中での心地よい独りの時間と空間を所有する安らぎであった。それぞれのパチスロの台は客のそれぞれの敵娼(あいかた)
であり、隣の客は枯れ木も山の賑わいの一本の枯れ木であり、清々しい無関心で満ちている。
 熱中する星彦の背後から肩に触れる者がいた。振り向くと、メイドのピンクのコスチュームを着てワゴンでコーヒーを売る若い女が立っていた。
「十分も後ろで待っていたんですよ」と女は親しげに言った。
「アイスコーヒー、砂糖もミルクも」と星彦は八枚のコインを渡した。
 若い女はコーヒーとナプキンを手渡して、目配せして立ち去った。
 ナプキンの拙い文字がその青さを示していた。
「私はアナタを一目で好きになりました。その日から十日も立っているのに、私に気付いてくれません!ですから、私からアタックします。アナタが帰るのを待っています、六時にね
        今日子より」
 星彦は高校生の青臭い恋愛観に、教師の頃を思い出し嫌な気分になり、ナプキンを握り潰して灰皿に詰め込んだ。そして、パチスロに向かうと、女の事などは頭の中から綺麗さっぱりと消えていた。
 六時になると腕時計のアラームが鳴り、星彦はコインの入った箱をカウンターに運び精算した。一万二千円で二千円の勝ちで、一日の遊び代を考えれば悪くない数字である。外へ出て、車に乗り込み発進しようとすると、女が現れ助手席の窓を叩いた。星彦は嫌な顔を隠さずに窓を開け、「どうしました」とぶっきらぼうに聞いた。
「あら、デイトの約束をしたでしょう」と、女は冗談なのか、本気なのか見当の付かないトーンで喋り、ドアを開けて助手席に収まった。
 女子高生のような「恋は盲目」、他人と自分の見境なく、踏み込んでくる無神経を愛と勘違いしている。要するに、面の皮が厚い、厄介だと星彦は車を走らせた。
「ねえ、何処に行くの」
「スーパーに寄って、帰る」
 今日子はワイルドターキーのバーボンとカシューナッツの缶をレジに置き、星彦が弁当二個の代金と一緒に払った。
 家に着くと、今日子は自分から先に中に入り、「大きなお家」と弾んだ声を上げ、星彦はダイニングのテーブルに坐り、「冷めない内に食べたら」と告げ、一人で食べ出した。
「そうね」と今日子は嬉々として星彦の隣に坐って、弁当に箸を運んだ。
 食事が済むと、今日子が勝手に酒の支度をして、リビングで飲む事になった。
「音はないの」と父親が死んでから、そのまま放って置かれたオーディオに喜多郎の曲を掛け、「BGMが無くて、よく過ごせるわね」と星彦に触れるかのようにソファに坐った。そして適度に酔いが回り、頬が赤くなると自己紹介をした。
「私、高木今日子、二十一歳、琉球大学国文科、三回生、東京出身、沖縄の青い空と海に憧れて来ちゃいました、いつも観光気分でーす。三ヶ月前に彼と別れて現在は独り身の身の上ございやす、宜しゅう御願い致します、以上、次はあなたの番でございやす」
 星彦はちらっと今日子の顔を見て、「平田星彦、独身、無職」と素っ気なく、酒を飲み干し、自分の部屋に去った。

 今日子は星彦の無関心を若さと明るさで、全てを承諾されたものとして引っ越して来た。部屋は八つ有り、使われているのは一階の星彦の部屋だけで、残りから中城湾を望む、ベランダの隣の部屋を選んだ。
 それから一月も立つが、一向に星彦との進展はなく、その兆しすらなかった。星彦はけして自分のライフスタイルを変えなかった。いつものように九時にはパチスロへ出かけ、午後六時には切り上げて戻ってくる。そしてスーパーの弁当を食べ、自分の部屋で酒を飲み、午後十一時に就寝、百年一日が如しである。今日子が共に過ごすのは朝食ぐらいで、星彦は気が向いた時だけ、聞かれた事に最小限の言葉を発するだけである。
 今日子はこのような日毎であろうが、星彦を目の前にすると不思議な甘い充足感で満たされた。それでも、一人、夜の懐で眠りに就こうとすると、星彦は自分を愛しているのかと自問自答しては、暗い不安の深みへと填って行く。
 星彦は私を愛している、好きだとさえ言っていない、それでも、一緒に居ることに嫌な顔を見せた事もない。どんなに言葉を紡いでみても、答えは出て来ない。
 私の愛は虚しい、体が、肉体が無い、愛の亡霊ではないか、体、この現実が無いのだわ。私は十八歳未満の未成年の子供ではない、父や母や兄弟などの愛で満たされるはずもない。成熟した体は星彦さんを、その現実である肉を求める、それが自然だ、砂漠で渇いた喉が水を求めるように。こんな当然を悩むのはなんと馬鹿げた話だろうか。
 翌朝、今日子は大学に行く気になれず、タンクトップにショートパンツでベランダにサマーベッドを出して横になった。
 目映い煌めきの静かな海の青のグラデーションの移ろいと空の狭間の吐息が微熱を運び、気怠さを覚えさせ、風景は揺籃の微睡みとなっていた。
 目を閉じると、今までの恋が鮮明に浮かび上がった。甘いケーキの落ちた欠片に蝟集する黒い蟻、それから一撮みして口に放った、味も素っ気もないのに、ちやほやされて付き合った、それを私は選ばれてあることの美しさと勘違いしていた。星彦は明らかに彼等とは違っているのは分かるのだが、際だった美形、それを超える何かを持っている、その何かが掴めない、でも私からこの人だと思って好きになった唯一の男性だ。
 今夜こそ、彼と同じベッドで過ごす、これでも学園祭ではクイーンに選ばれた。
「私は美しい」
 星彦との熱帯夜を夢想しながら、指を這わせて自らを慰撫した。
 午後六時半、星彦はいつも通りに戻って来た。弁当を食べて、居間で酒を飲んだ。そこへ蜻蛉のような薄紫のネグリジェを着た今日子が加わった。
 酒を飲むと、今日子は黙っていることに不安を覚えたのか、饒舌になった。星彦は透けて見える均整の取れた今日子の裸が目に入らないかのように、いつものように自分の世界で酒を飲んでいる。しかし、そこに無視している雰囲気はなかった。そして、十一時になると、星彦はぷつりと糸が切れた部屋に消えた。
 今日子はぐいぐい酒を呷り、「当たって砕けろ、駄目元だ」と鼓舞した。
 星彦の部屋までの距離がやけに遠く、ネガティブな事ばかりが頭の中でぐるぐる回った。
 部屋の鍵はかかっていなかった。そうっとドアを開け中に入ると、闇に目を慣らすために目を瞑り立ち尽くした。鼓動が部屋中に響いているようで、足が震えた。
 ぼんやりと星彦の姿が闇に滲み出た。今日子はゆっくりと近づいて、ベッドに潜り込み、眠る星彦を両手で抱き締めると、涙が零れていた。
 暫くすると、星彦が何も言わずに今日子の体を離し、「出て行ってくれ」と小さな穏やかな声で告げた。
 仄暗い中で、虚ろな目で部屋を見回した。 ウォーターベッドと小さな冷蔵庫、それ以外何も無かった。いや、天井にマリリン・モンローのポスター、ベッドの上にぽつんと星彦の丸めた背中が見えた。
 今日子は息が詰まった、泣いた。
 部屋に戻った今日子は煩悶し、星彦を諦め切れずに、儚い望みに縋り、世が白むまでに二度望んでみたが、いずれも徒労に終わった。
 今日子は疲れ果て、いつの間にか眠っていた。眠りの中は白一色の雪原で、小さく見える今日子が立っていた。空は低く、飛べばその中に入って行ける安堵感があった。
 紘高くなった頃に目覚めた今日子は、あれほど悲しかったはずなのにすやすや眠っていた自嘲気味に笑い「現実はこんなものよ」と呟いた。
 琉球大学のキャンパスは長閑である。
 馬鹿を装っている積もりの煮ても焼いて食えぬ金魚と、軽いリゾートの乗りの熱帯魚と、地味で鈍重な亀の三種類が棲息している。その中でも大学の目玉は野暮ったくて見てくれの頂けない亀で、喰らい付いたらとことんやる学究肌の一群である。彼等には金魚や熱帯魚が嫌悪する志のようなものが有った。
 今日子は木訥な亀を恋人にしようとは思わなかったが、それでも一目置いていた。それはスローなキャンパスによく填っているからだ。

 午後八時、今日子は着替えをして、三月から始めた夜のバイトに出た。
 クラブの名は「雨蛙」。気晴らしのはずが、思った以上にお金になるので、ずるずると半年も続いている。八時半に那覇にあるレストランで待ち合わせて、食事を済ませ、九時半の同伴出勤である。
 客の名は新城賢二・四十歳・三件の沖縄そば屋の経営をしている。五年前から店が流行り、今ではツアーの団体客まで呼べるようになった。順風満帆である。
 賢二は濡れ手で粟の飲み屋の女などに、溺れないという自信があった。
 ちょっと金を貢いで臭いを嗅がせて、一晩過ごせば冷淡に投げ捨てるお遊びである。
 ただのコック見習いの時代に結婚し、独り立ちして、今の店までに二人三脚で築き上げた妻を裏切る事はないとの自負があった。
 飲み屋に通い、女を口説き、手にするのはベンツに乗るのと同じで、ステイタスシンボル、勲章であり、けして、妻に対する不実などではなかった。
 しかし、世間知らずのお嬢様と見下した今日子と一夜を過ごしてから、賢二の中で何かが変調を来していた。
 それは今日子が素人であり、若さ故に、常識という世間の囲いを知らない自由が、美しい肉体を肉体で充足させることに躊躇いも何らの精神的意味を付与しない、おおらかさが有ったからに過ぎない。
 それは賢二にとって、親に学費を生活費を面倒を見てもらう国立の女子大生の、まさに悪徳であり、淫乱であり、甘美であった。
 今日子は賢二を嫌いではないが、好きな訳ではない、しかしいいお客さんである事は明白であった。それは一つの社会的魅力、金であった。彼は今日子にとって彼との一夜など、ディスコで出逢って踊っただけのようなもので、店を離れれば、顔さえ覚えていない男の一人に過ぎなかった。それは感情外の対象である。
 賢二も遊びをそう割り切っているはずであった。
 しかし、若さ、容姿、気品、知性、どれを見ても、今日子は妻より遙かに勝っていた。だがこのいずれもが賢二が今に至るまで伴侶に求めもせず、見向きもしなかったものである。それは苦しかった時代の事であった。賢二も妻も身を粉にして、店を大きくし、いい家庭も築いた。それは夢の実現であった。
「楽になるために働く、苦労するために働く者などいない、楽になってあるものは金となに不自由のない家庭。
 それで終わってしまうのか」と賢二は自問し落胆した。
 週に三度、月水金と賢二は暁暗の帰宅となった、「雨蛙」への今日子との同伴の日である。
 嘗て家庭は仕事からの解放であり、安らぎの場であった。
 高一の息子は進学校に入り、それなりの大学に入ることは間違いないだろうが、大衆食堂と見下していた店を継ぐと言い出した。
 周りのクラスメイトの教師や公務員の親よりも高給を取っている事に気付いたのだろう。だが弁護士や医師になるほどの頭はないと弾いたのだ。計算高いのか、親孝行なのか、分からないが、賢二は自分より店を大きくする事はないだろうが、潰す事はないぐらいの器だと推測した。
 中二の娘は美しくもなく醜くもなく、人並みだが、小二から三弦(サンシン)と琉球舞踊を習わせ、躓いても師範にはなれる素養は十分に持ち合わせている。
 ピアノを習いたいと駄々を捏ねたのを、妻の薫が宥め諭し、三弦と舞踊に変えさせた。
 当時の薫にとって、ピアノは高いものであり、育ちの良さで弾くお金持ちのお飾りに見えた。それに引き換え、三弦と琉球舞踊は本家本元の沖縄のものであり、金を余り掛けずに、一流の芸を習う事のできるものであった。
 薫には琉球民謡を歌わせたら、玄人にも負けない自負があった。カチャーシーでも結婚式の余興や祝いの席で踊れば、観衆の目を釘付けにするほど巧みに踊った。しかし、師匠について教わった事のない見様見真似の芸と半可通の客に軽くあしらわれる自己流の悔しさがあった。
 娘のピアノの才能は知らないが、三弦と踊りには少なからぬ才が有ると信じた。それは金銭的にも精神的にも、薫の唯一の贅沢であった。そして、娘が薫をもっと喜ばせたのは県立芸大に入り、沖縄の芸能を学びたいと進学にもお稽古にも意欲を見せた事であった。
 賢二と薫は同じ年で違う高校を出たが、同じレストランで働いた事で知り合い、二十一の時に結婚した。
 二人の夢は自分の店を持つ事で、その夢を語り合うだけで、嬉々としたものであった。
 或る日、薫が二人でやると半分の時間で店が持てるね、と言ったのが結婚のきっかけで、それ以来無くてはならないパートナーとなった。そして、いつの間にか店を持ち、二人の子供にまで恵まれた。
 全てに多くを望まず、少なきも望まない堅実な道があり、知恵があった。
 薫は度重なる朝帰りで女ができたと気付いたものの、男なら一度は罹る麻疹のようなものだと受け流していた。それは長年連れ添った妻のプライドであった。しかし、そこには父と母からなる両親というものはあったが、薫という女と賢二という男がいつの間にか抜け落ちていた。
 薫は掌で孫悟空を遊ばせるお釈迦様のような気でいた。それが出来ると思った。十九年の積み重ねて来た日々が、愛が一瞬の油断で落としてしまったガラス細工のように砕け散るとは夢想だにしなかった。
 今日は第三日曜で賢二と薫の休日である。
 薫は子供達を起こして、家族揃っての朝食を取らせる。年中無休の店が動き出せば、いつ電話がかかって来るか分からない、その前の顔合わせである。
 賢二はまだ眠たそうな二人の子供の顔を見て、挨拶代わりに、「勉強はしているか」と言い、自分の席に坐り、いつものように母とこの会話を聞く、退屈でしかなかった。それの当て付けるかのように、薫は一家団欒の喜びを一身に詰め込もうとする。子供はまだ面倒を看て貰わなくては困るという現実を認識する賢さはあるらしく、親への義理のサービスとして、仕方がないと笑顔で参加する術を心得ている。そして頃合いを見計らい、「勉強があるから」「お稽古があるから」とそれぞれの部屋に退散する。
 二人は取り残された恰好となり、薫は後片づけを始め、食器を洗うのに躍起になり、賢二は新聞を読み出す。
 暫くして、賢二は新聞から目を離し、シンクの前に立つ薫の後ろ姿を眺めた。生活力旺盛な肥満気味な寸胴に大きな尻、これがために今まで来られたのであり、これがために今この女を捨てようとしている、今更ながら自分の薄情に驚いていた。そして失う物と得る物を考えようとしたが、既に片恋の熱に浮かされている者が理性を求めるのは、八百屋に肉を求めるように無駄なことであった。再び、薫の後ろ姿を見た。
『一体自分は、今日子に何を求めているのだろうか。店に行き誘えば付き合ってくれる、体も物にした、後は捨てるだけじゃないか』
 賢二は薫をドライブに誘った。薫は一瞬たじろいだものの、「いいわね、気晴らしになるわ」と素っ気なく答えた。
 二人は車に乗り、三十分ほどして、佐敷町の高台に着き、綺麗な入り江を見下ろした。しかし誰も浜辺まで行こうとはしない。そこまで行けば、生活の残滓が浮沈しては無垢で無抵抗な海を汚しているのが見えてしまうからである。
 賢二も薫も車から降りようとはせず、黙って海を見下ろしてた。その無言に耐えかねた賢二は「行くよ」と告げ、モーテル街のある泡瀬に向かった。その途中にある今日子から聞いていた海沿いの白い二階建ての家を探しながら運転していた。それは与那原町の端、西原町と隣接する区にあった。
 これがあの星彦という何を考えているのか分からない男が棲み付いて所かと歯軋りした。一つ屋根の下に暮らしながら、若くて魅力的な体に指さえ触れようとしない男、女に何を囁かれようと嫉妬の翳すら見せない男、それでいて女の心を捕らえて、離さない、……、性的不能者だ。
 山手にあるモーテル街に入ると、賢二は薫の顔を窺った。喜怒哀楽も、驚きもない、全てを賢二から諦めているとの意思表示に見えた。そしてピンク色のけばけばしい西洋の城を真似たモーテルに乗り入れた。車庫から二階に上がると個室で、深紅の大きな丸いベッドが中央に横たわっていた。セックスのみに作られた空間、音も闇も光も人間も一切が快楽への供物とされる、恍惚と禁忌の万人の阿片窟である。
 浴室で薫が一枚ずつ服を剥ぎ取り体を洗う様子が、マジックミラーで丸見えである。
 店で売る沖縄そばがありありと浮かび上がった。そばの上に載った大きな三枚肉・細かく刻まれた緑の葱・千切りの紅生姜、それが店一杯に混み合った腹を空かした客の口へ次々と放り込まれ、噛み砕かれ、飲み込まれ、膨らんだ喉を通り、胃袋へ……。
 でっぷりとした裸を隠そうともせずに、薫はゆっくりベッドの脇まで辿り、身を投げ出して仰向けになったが、目は見開いたままで天井を見詰めていた。

 賢二と薫は久しぶりに交接した。互いの冷めた感情を認めながらも、その行為に引き摺り込まれて行く。二つの肉塊がぶつかり合う肉弾戦であり、一つに繋がってしまった相手を徹底的に無視する不満と憤りの異形な愛であり、その醜さに興奮する肉の奇妙な悦楽に、薫は新しい愛の形を夢想していた。
 心などという目に見えず掴む事の出来ないものを追う虚しさよりも、二児の父親であり、同じ姓を名乗り、肉欲の疼く時に手に入る夫という確実な肉が同じ屋根の下に在るだけでいいと思った。
 それ以外の何を望んで、私は思い悩むのか、それは十七八の小娘の高望みではないか。そうは思いながらも、浅ましいと思う自分を否めなかった。
 賢二は食傷しきったはずの同じ肉を相も変わらずむしゃむしゃ貪り食う餓鬼の自分を思い知らされ、それは下腹部が弛んだ妻から叩き付けられた屈辱であった。すると更に激しい淫欲が沸き起こり、今日子の凄艶な裸体が鮮明に素っ裸の妻の上に蘇った。
 今日子を貪り喰う衝動が賢二の満身を駆け抜けた。それにはいつも一緒にるために、心さえ、捕まえなければならない。
 容貌、体だけを狙って近付き仕留めた獲物に馬鹿のように愛を求める肉欲、狡知の逆立ちに賢二は狼狽えた。だがその渇きは治まるどころか、どんどん激しくなり、今日子を独り占めにする夢想に酔い痴れた。それから現実の障碍だけが頭の中で空回りして、立ちはだかったのは、今日子の固執する捉えようのないノッペラボウのツルリとした風変わりな男だった。それは人間ではなく目の上の瘤、そのものであった。
 女、それも美しく、若い、女の赤裸々の淫靡を前にしても、尻尾さえ振ろうとしない、人畜無害の安全牌、番犬代わりだと罵り見下せるはずの男。だがそんな奴が今日子を夢中にさせている。所が時間も金も、誠意までも尽くして交わった、その相手である自分は翳すらも留めない。その肉である賢二は番犬すら出ない事に怒りが込み上げた。
 待ち侘びた翌日の夜が訪れると、賢二は「雨蛙」に行き、今日子を指名し、黙り込んで酒を飲み続け閉店を待った。
 そして那覇から遠くなるのだが、薫と泊まったモーテルに行き、同じ部屋に入った。冷え切った薫の肉を貪った自虐を今日子との交接で吐き捨てたいと思った。一方の今日子は一瞬でも星彦の事を忘れてみたかった。そうすれば星彦への苦しみの呪縛から解き放たれると信じた。この快楽の館で、賢二と今日子は悦楽の共食いに没入し、この時間に終わりがなければいい願った。しかし、時の流れに肉体は呆気なく圧し潰され疲労の中で眠りに落ちて、それぞれの思いの夢の中を彷徨した。
 二人は目覚め夢魔の手から逃れると、つかの間の放心、安らぎが訪れた。外に出ると太陽が輝きを失った黄色の風船に見えた。
 それから三日後、賢二は毎年恒例となった食産業組合の頼母子講の仲間で視察旅行の名目で三泊四日の台湾旅行に飛んだ。
 沖縄に残された薫は、賢二がこの島にいないという隔絶が最早二人の心が二度と出逢う事はないとの暗示のように思えた。
 その元凶は何処の馬の骨とも分からぬ、たかが水商売の女である。それを見たから夫の病が治る訳でもないが、その汚らわしいスピロヘータは一個の人間であり、手術で取り除く事も、薬で殺す事もできない、更に悪い事は、この菌も自分と同じように頭を使う事であった。「車に轢かれて死ね」と薫は罵った。
 その夜、薫はジャケットにスラックスの軽装にミスマッチのダイヤが鏤められた腕時計をして、「雨蛙」のマッチを手にタクシーに乗り込んだ。ドライバーは、金持ちの旦那が金を捨てに行くところですよ、と軽蔑気味に言い、バックミラーで薫を窺った。
 そのクラブは天井を除けば全てブルーパールと呼ばれる御影石が貼られ、ステージにはグランドピアノが置かれていた。ボーイは薫を一目で場違いな女だと慇懃無礼に迎えボックスに案内し、ご指名はと訊ねた。
「話し好きな女の子」と薫は答えた。
 ブランドを着込んだマネキンのような甲羅を経た客が付きそうにない嘗てのナンバーワンホステスがやって来て、薫を一瞥し服飾の一々をチェックした。
 この女にとって最も美しいのは自分であり、そこから見下ろせば、その他の女共はどんぐりの背比べであり、容貌など取るに足らぬ物で、何を身に付けているかが全てであった。女は鼻で笑いメニューを差し出した。
 薫はそれを受け取ると見もせずに「一番安いボトルを」と告げ、メニューを返した。
 その時、左腕のジャケットの袖からちらりと腕時計が顔を覗かせた。その瞬間、時を刻むに過ぎないちいさな金属に、女は自分が負けた事を即座に認めた。逆立ちしても変えない高級品であった。
 薫は酒を飲みながら、それとなく沖縄そば屋の名前を出し、社長の話をし、相手の女の事を聞き出した。そして化粧室に行く途中で、今日子という女を見た。鏡の前に立ち、自分顔の艶と皺の一つ一つに時の移ろいを、老いを見た。戻る時も、その女の顔を見た。
 それは華やかな盛りの花であり、自分は種子に望みを託すしか術のない二度と咲き匂うことのない枯れて行く嘗ての花であった。
 席に戻ると、薫はグラスの酒を飲み干して、紙で金を包みテーブルの下からそっと手渡した。女は頬笑み、「ボトルのお名前は」と聞き、薫は、「K・花城」告げた。ここに来たことを隠しておきたい思いと相反するものであったが、それは咄嗟に出た賢二への沈黙の面当てであった、花城は薫の旧姓である。 

 賢二は台湾での二昼夜に及ぶ買春の乱痴気騒ぎが尾を曳いていた。
 今日子と交わる度に、金に換金される肉を、平和通りの市場の肉屋の店頭に一斤幾らで売り捌かれるフックに吊された豚の赤肉の塊、を思い出させた。
 それは生きた人間から一滴の血も流さずに肉を切り取れと命ぜられたベニスの商人の困惑を超えていた。
 賢二は肉だけで満足できない人間というものに、自分に苛立った。夜を待ちかねて街に出ては酒を呷り、朝昼と眠り、目覚めると嘔吐と頭痛が襲い、その肉体的苦痛は今日子から逃れられる束の間の安らぎであった。それでもアルコールが切れかかると、今日子の肉が、裸体が嘲笑うかのようにフラッシュバックした。
 ネオン街はジングルベルと共に年の瀬へと慌ただしく雪崩れ、酔いどれの季節、一年を忘れる事に没頭する奇妙な終わりの月である。毎年打ち鳴らされる煩悩・百八つの除夜の梵鐘が、今になってこの苦しみから逃れ得ぬ事を告げているのだと知った。
 新城家では商売柄一足早い恒例の忘年会を開いた。何はともあれ、賢二も薫も一家揃って無事に過ごせたこの年に感謝した。だが薫の隣の空いているはずの席に裸の今日子が無邪気な笑顔で坐っていた、固唾を飲んだ瞬間にすぐに消え、はっとして目を逸らすと、満ち足りた顔の薫が映った。
 賢二は自分が場違いな場所に居る事に気付き、不安が沸き起こり、呼吸をするのさえ躊躇われた。
「あの家に行こう、行かなければならない……、それで白黒が付く、全てが終わる……」
 青ざめた賢二は席を立ち、あの家へと向かった。
 薫は賢二を諦めようと思った。
 今日子が交わった後の寝物語に語る「あの男」、靄に包まれた平田星彦は眠れる美女にけしてキスをしない白馬の王子様である。その美女のその場限りで忘れ去られる道化の賢二は待つことさえ与えられてはない。それは道化の終わりのないメルヘンであった。
 タクシーの中で、様々な重いが錯綜し胸騒ぎとあの家へ向かっている事だけが現実であった。
 賢二はドアノブに手を掛けると開いたので、チャイムを鳴らさずに中に入った。リビングで酒を飲んでいた星彦は驚く様子もなく、「今日子は居ませんよ」と小声で告げた。
「そうですか」と賢二はソファに坐り星彦を眺めた。何も読み取れぬ静かな全てを忘れ去った、全てを受け入れてしまった顔で、能の面を思わせた。
「待つんですね」と星彦はぽつりと言った。
 賢二はやけに喉が渇きキッチンへ水を飲みに行った。コップを取り蛇口を捻ると、水が勢いよく飛び出し、ステンレスのシンクに当たり鈍い音を立てた。その横の俎板の上には包丁が放り出されたままで横たわっていた。それは店の厨房ではあり得ない事であった。目の前に研ぎ澄まされた鋭角の鋼が光っていた。それ右手で握ってみた。
「待つんですね、待つんですね……」と星彦の言葉を繰り返し、賢二はリビングへと歩き出した。時間が淀み、止まり、星彦との距離は永遠に縮められない長さに思えた。
 星彦は賢二の右手の包丁を見て、立ち上がったが、動こうとはしなかった、微笑しているように見え、美しいとさえ思われた。
 電話が鳴った。
 星彦はちらっとその方向を向いた。
 賢二はその顔が奇妙に歪むのを見た、鬼の顔であった、その刹那、右手の包丁は星彦の腹を刺していた。
「……、生きるっていうのは下手なお笑いで、いざとなると誰かが捨てたバナナの皮に滑って転ぶんですね、笑いましょう、せめて最後ぐらいは」
 右手の包丁は再び星彦の腹を抉った。
 星彦は這いながら自分の部屋に向かって行く。その血の跡を、賢二は青ざめ立ち尽くし見ている。
 夜のバイトを終えた今日子が戻って来た。ドアを開けると、放心した賢二が包丁を持った右手を挙げて、泣き出しそうに笑った。
 悲鳴を上げた今日子は泣き叫び、罵り、恨み辛みを捲し立てた。それから奇妙な静けさが訪れた。
「包丁を渡すのよ、渡しなさい」
 今日子は星彦の部屋に恐怖と希望を抱えながら近付いて行く。
 白いシーツのベッドの上に、星彦は牡丹のを描いたように血に染まったワイシャツを着て、仰向けに横たわり、天井のマリリン・モンローへ目は見開いていた。
 見えず、聞こえず、語らず、動かず、今日子は星彦が死んだ、のを認め、嗚咽した。
 リビングに戻ると、放課後、罰として一人だけ教室の前に立たされた小学生のように立ち尽くす賢二に、今日子はぼそりと告げた。
「全ては終わったのよ」と、包丁は賢二の腹を突き刺し、賢二は泣きながら床に倒れた。

 子供が生まれてから続いた年に一度の加須の大切な一夜さえ守ろうとしない賢二を、薫は心底軽蔑し、憎んだ、たかが青臭い小娘一人のために。様々な感情の糸が縺れ絡まり、ぷつり、と切れた。矢も楯も堪らずに、外へ飛び出し、タクシーを拾い、あの女の家へ乗り込む事にした。
「この馬鹿騒ぎの役者が全部揃う、水をぶっ掛けなければ、犬の後尾のように離れやしない」と薫はクラブの女から聞き出した情報を反芻し、罵り、呪詛の言葉を考えることで、不安を紛らわしていた。
 深呼吸をして、ドアのチャイムを鳴らすが、応答が無くドアを押してみると、開いたので中に入った。女の啜り泣きが聞こえた。その方へ目を向けると、俯せになった検事を前に坐り込んでしまった今日子の姿が目に飛び込んだ。
 血の気を失い、薫はぶるぶる震えながらそこへ近付いて行く。
「賢二の心には私も子供もなかった、もう何も望めない」と薫は賢二の屍に涙を零した。
 二人の屍に向かい身を震わすしかなかった今日子は薫の出現でしばらくの正気を取り戻した。誰でもいいから生きた人間に自分の悲しみを訴えたかった。
「この人が大切な人を殺したのよ。私があの人から愛の言葉の一つも掛けられない前に、その欠片さえ貰わない前……。その欠片さえあれば、私はこの人を殺さなかった、憎いとは思わなかった、殺しはしなかった、…しなかったのよ」
『殺したから、殺す。何と単純な憎しみなの、それだけで私を感動させる、私を悲しませる、私を喜ばせる、何という憎しみだろう、これは』
 薫が踵を返しこの家を出さえすれば穏やかな家庭が生活が待っていた、だがそこは既に色褪せた生気の失せた灰色の世界で、戻る気などにはなれなかった。
「私はね、あなたが賢二を殺したのが憎いんじゃない、賢二があなたを愛したまま死んだのが許せない、この私を忘れ去ったことが許せない、私を殺してくれたら、賢二はまだ私を愛してくれたでしょうよ。少なくとも、私は賢二を愛したままで死ねた、悩み傷つく事もなく、永遠に。その望みを私から奪った、私と賢二の今までを根刮ぎ奪った」
 薫は喚き、今日子から包丁を奪い、首筋を切りつけると、今日子は血飛沫を上げてぺたりと倒れた。
 永い時が二人の屍と薫の涙の中に流れた。薫は覚束ない足取りで星彦の血痕を辿り、星彦の部屋に入った。
「私は未亡人、詰まり、独身。
 星彦さん、私はね、元来ハンサムな二枚目が好きなの、ジェイムズ・ディーンのファンだった」
 横たわった星彦を眺め、忽然と甲高い声で笑い、薫はうっとりした眼差しで、耳元で囁いた。
「私も良妻賢母にはうんざり、本当の私は身も心もぽいと捨てられる奔放な女……あなたは私のタイプなの、初めてのときめきに胸が破けそうだわ」
 薫は星彦の唇を吸って、包丁を喉に突き刺し、星彦に重なった。

 それから二三週間ほどして、新聞料金を受け取るために訪れた集金人が異臭に気付き、ノブに手を掛けるとドアは開いた。

愛神

登場人物が男二人・女二人が、愛の神に変身すると殺しの連鎖が起こった、そして皆が死んだ。

愛神

男二人、女二人が互いに違う相手を愛し、そのために殺し合い、四人の登場人物が全員死ぬという結末を迎える。三人は他殺で、最後の一人は自殺である。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-04

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