嵯峨野夢譚(さがのむたん)

あらすじ1

この物語は嵯峨野を訪れた一人の若者が嵯峨野を巡り歩くうちにふと紫式部の歌碑を見つけます。歩き疲れ歌碑の前のベンチでうとうとし始めます。するとその石が若者に語りかけます。
『雲隠れの謎を解いてください。お願いです!でないと私はこの世に戻れません』

あらすじ2

可愛らしい女の子の声ですがとても真剣です。
「雲隠れの謎?なにそれ?」若者は起き上がります。すると・・・・・?
そこは平安の頃の嵯峨野。出家した源氏の庵の中でした。源氏は床に伏し紫式部が寄り添っています。

あらすじ3

源氏の御次男夕霧の大将が現れ楽しそうに法華経講義が始まります。満足そうな笑みを浮かべ夕霧の腕に抱かれてついに源氏は臨終を迎えます。
こうして源氏は雲隠れするかに見えましたが。大いにこの世に未練があって成仏できずに冥府をさまよいます。

あらすじ4

そこに祈り殺した薫の実父柏木が現れ二体の妖怪が天空で戦います。二人は未練がましく薫と匂宮、つまり実子と孫とにまとわりつきます。
さあそこに浮舟の登場!果たして雲隠れの謎は解けるのでしょうか?夢物語は果てしなく続いていきます。

嵯峨野夢譚1

京都の嵯峨野地区は都の西北標高900mの霊峰愛宕山の麓、
北から流れる清滝川と西の亀岡盆地から流れ下る大堰川との
合流地点から、ここはかなり急な崖っぷちが続く難所なのですが、

嵯峨野夢譚2

有栖川までの京都北西部のなだらかな小倉山すその平野を指します。
都が築かれる以前は、今でもそうですが、その地層から幾度となく
大堰川が氾濫していたことがわかるそうです。

嵯峨野夢譚3

平安時代に嵯峨天皇陵が有栖川上流にできたことでこの付近の
ことを嵯峨野と呼ぶようになりました。「さがの」いい響きですね。

嵯峨野にはこの現実世界と何かしら微妙に違和感のある不思議な
空間が各所にに存在しています。

嵯峨野夢譚4

鋭い感性の持ち主ならば五感が
しびれ一巡りするだけで立ってはいられなくなることでしょう。

そのエリアはほぼ五つに分けられます。JR嵯峨野線の線路から
南、大堰川までが一つ。

嵯峨野夢譚5

有栖川から瀬戸川(嵯峨野の中央を
流れる小川です)までの間が二つ目。この二つはさほど
念磁場は強くありません。
三番目は嵯峨野中央部。ここから化野あだしのにかけて
磁場は急速に高まり、瀬戸川の上流、

嵯峨野夢譚6

弁天山と小倉山とに狭め
られた駆け上がり、この一帯が四番目。このエリアはさすが
鈍なる常人でも鳥肌が立ちます。そりゃそうでしょう!
平安以前からここは死人捨て場でした。

嵯峨野夢譚7

死体を焼くなどという
のは平安時代でもまれで、よほど高貴な方に限られていました。
土葬はまだましな方で、そのほとんどはほったらかし、中には
まだ生きてる病人や動けなくなった老人もいたようです。

嵯峨野夢譚8


天災や大火災、疫病がはやると死体の上にまた死体が
積み上げられ風葬とは名ばかりの鳥葬、カラス葬。
そのすさまじさは昔物語にもしばしば出てきます。
そして五番目が実は以外にも小倉山なのです。
この山は標高293m。

嵯峨野夢譚9

裾野には夜は不気味な小倉池から
北に紅葉の常寂光寺さらに膨大な敷地の二尊院。
平家物語の祇王寺と紅葉の名刹が今も続きます。

この辺りの寺々はその昔は貴族の別荘も兼ねていて。
定家もここの尼寺で百人一首を編みました。

嵯峨野夢譚10

裾野には夜は不気味な小倉池から
北に紅葉の常寂光寺さらに膨大な敷地の二尊院。
平家物語の祇王寺と紅葉の名刹が今も続きます。

この辺りの寺々はその昔は貴族の別荘も兼ねていて。
定家もここの尼寺で百人一首を編みました。

嵯峨野夢譚11

小倉山は急勾配でまっすぐにはなかなか登れません。
結構深い山なのでシカやイノシシもいます。
一番怖いのは、どこから上り詰めてもその先は300m
の絶壁だということです。

深い森を抜けやっと視界が開けたと思ったら谷底へ。
そんな悲話が生まれそうなところです。

嵯峨野夢譚12

常寂光寺から一反程の田んぼ、向こうに落柿舎を見やりながら
大きな杉木立、木漏れ日の中を数百メートル歩むと二尊院の
門前に出ます。その山裾に長神ちょうじんの杜があります。

近年荒れ地だったところを数年かけて整備し百人一首の碑が
配置されて

嵯峨野夢譚13

花灯篭の時には行燈も灯り幽玄の杜になっています。

あ、申し遅れました。私は嵯峨文化大学の2回生若林治。
古典が好きでこの大学に来ました。今何を専攻しようかと
考えたりしながらこのあたりをよく散策します。

さわやかな風、芝の香り、杉の大木とこぼれ日。
とても癒される一角です。

嵯峨野夢譚14

この長神の杜は杉並木から
少し外れているので普段は通り過ぎてしまいます。

今日はここで大きく深呼吸。茂みの影を回り込むとちょうど
北山杉を半分に切ったベンチがありました。
すぐ横に歌碑があります。一抱えほどの石に、

嵯峨野夢譚15

「巡りあひて 見しやそれともわかぬ間に
              雲隠れにし夜半の月かな」
紫式部です。『紫式部・・・?』と思いつつベンチに横に
なるとすぐに心地よい眠りが。.....ZZZZZZ。

紫式部と言えば源氏物語。1000年前、ここはまさに
その舞台でした。

嵯峨野夢譚16

明石の入道が建てた別荘は大堰川のほとり。
その頃この辺りは今ほどの竹もなくおそらく周りは嵯峨野
ではなくすすき野だったんだろうな。

ぽつんとたたずむ野々宮の黒鳥居のやしろ。源氏と幼き斎宮、
恋にやつれた年増のお安息所との別れの場。祈り殺された
葵上の怨念。

嵯峨野夢譚17

源氏自らも同じ宿業をたどる柏木を祈り殺します。
『嫉妬の怨念ほど恐ろしいものはないなあ』

そう思いながらうとうとまどろんでいると。どこからともなく
少女の声が聞こえてきます。耳を澄ますと、間違いなく
少女の声です。かなり真剣です!

嵯峨野夢譚18


『雲隠れの謎を解いてください。お願いです!でないと私は
この世に戻れません』
はっきりとそう聞こえました。

そういえば源氏物語には一つの大きな謎が秘められているのは
有名で私も知っています。それは第二十四帖雲隠れの帖です。

嵯峨野夢譚19


御存じのようにこの帖には雲隠れの名ばかりあって中身が全く
ありません。もちろんいろんな説があり初めから意図的に書か
れていなかった。あるいは書かれてはいたけれども発表され
なかった。長い年月の間に紛失、消失した。などなど。

嵯峨野夢譚20

その当時夫を亡くし都に戻った式部と権力の座を
駆け上ろうとする道長との微妙な関係は源氏と紫の上
との関係につながります。源氏物語に登場する女性たちは
全て紫式部の分身のような気がしますね。

嵯峨野夢譚21

当時対抗馬は清少納言を擁し後宮を狙っている。こちらも
負けてはいられない。孫娘をみやびに育て上げねば、という
わけでなかなかなびいてくれない式部を道長は口説きます。

上品で控えめ、教養もすこぶる高く心配りも絶品な式部を
口説き落とすのは、

嵯峨野夢譚22

、いかに権力者といえども大変だったと
思われます。なだめてもすかしてもだめ。プライドをくす
ぐりメンツを立て人に嫉妬されぬよう、特にこれが大事、
気遣いながら必死の誘いだったのでしょう。

さすがの式部も折れてきます。式部三十代初め。道長四十代半
ば。

嵯峨野夢譚23

そこには大人の恋の駆け引きももちろんあったと思います。

この作家とパトロンのコンビは大当たりします。
作品は日ごとに人気を浴び。天皇は入りびたりになります。
この間約十年。すべては道長の思い通りになっていきました。

しかしこのころから道長は体の不調を感じ始めていました。

嵯峨野夢譚24

無性に喉が渇き息切れがするのです。彼はまさかと思い
次の歌を詠みました。
「この世をば 我が世とぞ思う望月の
欠けたることのなしと思えば」

あまりにも有名なこの歌は、これはまさに下り坂の始まりでした。
満月はそうもう後は欠けていくしかないのです。

嵯峨野夢譚25

源氏も当時絶頂期を迎えました。実子は天皇になり自分は
准太政大臣。紫式部は道長との恋にけじめをつける時だと
思ったのでしょう。源氏の死はそのまま式部の創作意欲の死
を意味しました。

2年間の空白が流れ一応雲隠れ(=源氏の死)をもって
源氏物語は終わりかけます。

嵯峨野夢譚26

それが、二十四帖雲隠れの
意味なのでしょう。

ところが道長も紫式部も生身の人間でした。どちらかといえば
二人ともかなりバイタリティーにあふれていました。
隠居した二人にファンは黙っていません。
それは昔も今も同じです。

嵯峨野夢譚27

幸い道長の孫娘に藤式部という才女がいました。藤式部は文才
あふれる数名の若者を集め源氏物語の続編を書くよう運動を
起こします。50代後半の道長と40代半ばの紫式部は当時は
もう老人です。ましてや道長は糖尿病で
眼も見えずいつも誰かが寄り添っています。

嵯峨野夢譚28

しかし二人は続編創作に発奮します。ついにチームは宇治に
拠点を移し宇治十帖の創作が開始されます。若者たちが中心に
なって連日構想が練られます。メインは薫と匂君の恋のバトル。
しかし主役は浮舟。

これを伏線にして女性の自立がテーマになりました。

嵯峨野夢譚29

男に翻弄
される女たち、果たして女性は成仏できるのか?
終盤それが強烈に読者の胸に迫ってきます。

さて藤式部は考えました。もし雲隠れが書かれていたらと。
そして自分なりに老いたる源氏の終盤を思い描いてみました。
ゴーストライターの先駆けです。

嵯峨野夢譚30

『雲隠れの謎を解いてください!
でないと私はこの世に戻れません!』

若林治は木漏れ日の中ではっきりと聞きました。
「あなたはだれ?」
『起きて。夕立が来るわ。こっちよ!』

声にせかされ治は起き上がりました。

嵯峨野夢譚31

みるみる黒雲が空を覆い
大粒の雨が降ってきます。『こっちよ!』声が呼びます。
稲妻が光り雷鳴がとどろいてきました。

嵯峨野から化野への駆け上がり、道は狭くなり坂は急になります。
おそらくこの辺りが死者と生者との別れの場だったのかも
しれません。

嵯峨野夢譚32

なぜならこの一角だけ台地になっているのです。

源氏の庵、"雲隠庵"はまさにこの下手、川に沿って
寂庵さんのあたりにあったのではないでしょうか。
とその時、天地を引き裂く大稲妻と雷が治のすぐそばに落ちました。
「どどどどーん!!!」治は気を失いました。

嵯峨野夢譚33

暫くの時が経ちました。夕立も上がり日が差しています。
読経の声が聞こえます。渋い男の人の声です。艶のあるいい声。
思わず聞きほれてしまいます。

嵯峨野夢譚34

「妙法蓮華経方便品第二 爾時世尊 従三昧 安詳而起
 告舎利弗 諸佛智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入
 一切声聞 僻支佛 所不能知 所以者何 佛曾親近
 百千萬億 無数諸佛 儘行諸佛  ・・・・・・」

嵯峨野夢譚35

「うーん」治は目覚めました。身体は何ともなさそうだ。
ゆっくりと周りを見回します。どうも様子が変だ。
少し体を起こして襖の間から覗きます。
これは驚き!歌舞伎の台本風に書くと次のようになります。

(本舞台三間の間。平安の頃の嵯峨野。小さな庵。
藁葺の二重屋台。たんす、

嵯峨野夢譚36

、仏壇、衝立。中央に源氏窓。
板張り、床敷き数枚。上がり石、土間、格子窓、水瓶、
流し、おくどさん。藁葺引き戸入口。遠見浅黄色山並み。
畑。切株まき割りなど道具収まる。

上手仏間に源氏端座し読経。作務衣。
惟光、外でまき割り。式部、土間にて賄こなし)

嵯峨野夢譚37


今は昔平安のころ、年老いた源氏、雲隠うんいんは
従者惟光とともにこの地に移り住みます。老いたる源氏は
毎日法華経を唱え方便品も寿量品も諳そらんじています。
目はもうほとんど見えません。

嵯峨野夢譚38

惟光は薪を割っています。賄まかないの式部がおぜん
立てをしています。ずっと源氏の読経が響いています。
年は老いても声は昔とちっとも変りません、
艶つやのある若々しい声です。

「雲隠様、夕霧様がお見えのようです」遠見をして惟光が叫びます。

嵯峨野夢譚39

栗毛色の駿馬にまたがりゆっくりと御次男夕霧の大将がお見えに
なりました。年老いた惟光に偉丈夫な息子夫婦が寄り添い狩衣姿の
夕霧様を迎え入れます。

床に伏している源氏。式部に背中を支えられて起き上がります。
大きく咳き込む源氏。式部が優しく背中をさすっています。

嵯峨野夢譚40

源氏は大きく息を吸い込むと居ずまいを正して床敷きに座ります。

「親父殿又参りました。具合が悪いとお聞きしておりましたが」
「何の何のちょっとした冷え込みで風邪を引いたようじゃ」
「どうか無理をなさらないように」

嵯峨野夢譚41

「はは、大丈夫じゃ。法華経を紐解くと元気が出る。これぞ
佛の御力じゃ。はははは」

老いたる源氏は夕霧様のお顔を見るだけでもお元気が出るようです。
ましてや仏道をお求めになる心意気に親としてこれほどの喜びは
ないようです。お顔にも艶が増しておられます。

嵯峨野夢譚42

酒と肴が運ばれてきました。

「どこまで話したかのう?」
「四十余年 未顕真実でございました」
「そうじゃそうじゃ。それは無量義経。正直捨方便 但説無上道 
これは方便品。法華経が説かれる最初の経典で今に至る四十余年
未だ真実を顕さずということは」

嵯峨野夢譚43


「これからが真実の法なのだということ?」
「そのとおり」
「釈迦は最初に華厳経という難しい法を説いたが皆何のことか
わからなかったということでしたね」

嵯峨野夢譚44


「そこで阿含とか方等とかの低い教えから入りなおした。
色即是空とかこの世の無常から説き始めたのや。早合点した輩は
それが仏の教えやと思って後があるのにさっさと自分の宗派を
起こしてしもた」

「そこで四十余年 未顕真実」

嵯峨野夢譚45

「そや、さらに次の次の方便品で正直に方便を捨てて 但無上道
を説く というわけやさらに宝塔品で多宝如来はこれはすべて
真実だから余経を一偈も受けるなと叫ばれたんや」

「今までの教えはみんな嘘?」
「そのとおり。

嵯峨野夢譚46

今までのは皆誰かが質問されて佛がそれに答える
という形じゃったが法華経は違う。佛自らが最後の法をお説き始
められたのじゃ」
「ほう」

大きくうなづきながらお二人はお酒を酌み交わし肴に手を付けて
おられます。まるで目が見えておられるような源氏様です。

嵯峨野夢譚47


「方便品が説かれただ一人舎利弗だけがこの時悟った」
「ただ一人悟った。何をですか?」
「今まで法華経以前ではひねくれ者の悪人、焼きもち焼きの女人、
自信過剰のうぬぼれもの声聞、縁覚の二乗は成仏できないと説
かれておった」

嵯峨野夢譚48

「そうでしたか」
「早いうちに悪人と女人の成仏は明かされるが、二乗はまだ明か
されていなかった」
「なるほど。ここで初めて二乗も成仏できると」
「ただ一人、舎利弗だけが悟ったのじゃ」

嵯峨野夢譚49

「素晴らしい実に素晴らしいですよ親父殿!」
「そうかそうか、それはよかった。はははは」

お二人の笑い声がさらに響き渡ります。
楽しい親子の語らいに日は西に傾き至福のひと時は過ぎていきます。
「南無法華経、南無法華経じゃよ・・・・」

嵯峨野夢譚50

しばし安らかな沈黙が流れます。老いたる源氏はこの至福を
じっと味わいかみしめているようです。

「では、親父殿そろそろ・・・・親父殿、親父殿!親父殿!!」
その声に惟光と息子夫婦が走りこんで来ます。式部は青ざめて立ち
すくんでいます。

嵯峨野夢譚51

夕霧様はじっと老いたる源氏を抱き支えて泣いておられます。
源氏はそれはそれは笑みを浮かべ幸せそうに亡くなっていました。
夕霧様は源氏の遺体を皆で褥しとねに移すとあとは惟光と
女二人に任せて早馬を走らせます。

嵯峨野夢譚52

紫の上の時と同じように涙にくれながらてきぱきとあちこちに
指示を出します。源氏は出家の身ですから僧はできるだけ少な
めに身内だけで葬儀を執り行おうとしておいでです。通夜は
近くの高僧一人を急ぎ招き枕経が始まりました。

嵯峨野夢譚53


「而告之言 汝等諦聴 如来秘密 神通之力 
一切世間 天人及 阿修羅 皆謂今釈迦牟尼佛
出釋氏宮 去伽耶城 不遠 座於道場 得阿・・」

すぐに典侍やがて雲居の雁様とお子達。さらに玉鬘とお子達。

嵯峨野夢譚54

夜明け前に明石の君と中宮が三宮(匂宮)たちを引き連れて
やってきました。冷泉院と梅壺の中宮もお着きです。

薫の君だけがまだお見えになりません。仏道入門のため
今比叡山で学問中だからでした。

嵯峨野夢譚55

夜が明けると高僧がまた一人増えました。
さらにもう一人加わって法華経が庵に響き渡ります。

続々と牛車が雲隠庵に集まってきます。
按察使の大納言もお見えになりました。
比叡山から座主がお見えになり高僧7名による
葬儀が始まりました。

嵯峨野夢譚56

身内の者は皆濃い鈍にび色の衣、棺には白単衣の源氏が
笑みを浮かべて収まっています。焼香が始まり樒しきみを
一人づつ棺に納めて最後のお別れをします。

樒に埋もれた源氏はことさら美しく生きているように微笑んで
いました。

嵯峨野夢譚57

棺の蓋は釘を石で打ち込まれ親族が担ぎ庵の出口に
運ばれます。黒塗りの平牛車に乗せられ家族が取り囲みます。
子供たちも一緒です。

その後ろに高僧たち、さらに多くの僧、総勢20人ほどで
ずっと法華経を唱えています。寿量品は何度も繰り返され
ます。

嵯峨野夢譚58

そのあとに多くの人々が続きます。長い行列は化野
まで続いていました。

大きくやぐら状に組まれた檜と桐の上に棺はのせられます。
巡りながら最後の別れに僧が続きます。大きな読経の声の中
パッと火の手が上がります。
炎はみるみる大きくなり棺を覆ってしまいます。

嵯峨野夢譚59

高まる読経と燃え上がる炎に棺は燃え尽き、煙が立ち上り
みるみる鎮火しました。高僧が清めの酒と水を振舞います。
棺は白い灰の中に燃え落ちます。赤い輝きが中心部に残って
この世に名残を惜しんでいるように見えます。

とその時、ぽつりぽつりと雨が降り出しました。

嵯峨野夢譚60

僧たちは急ぎ骨壺を用意して親族に骨拾いをせかせます。
無常の煙と灰の香りが一帯に広がり、人々はこの世と
あの世の境を漂っているように見えました。

すると突然誰かが大きな声で叫びました。
「薫様じゃーっ!」
皆一斉にはるか東のほうを見つめます。

嵯峨野夢譚61

比叡の空には黒雲がかかり今にもこちらを覆いそうに
迫ってきます。そのわずか手前に砂埃が舞い上がって
います。みるみる近づいてきます。

駿馬に乗った薫様です。水干に髪をなびかせ全力で疾走して
きます。

「父上ーっ!父上ーっ!」

嵯峨野夢譚62

馬を庵の手前でお止めになり、息を切らせて人をかき分け
荼毘だびのもとにたどり着きます。

雨脚が急に強くなってきました。人々は徐々に足早に去って
いきます。骨壺は夕霧様が抱えておられます。惟光様が傘を差し。
高僧も傘の中で読経されておられます。

嵯峨野夢譚63

他の僧はびしょ濡れ
ですがずっと読経されてます。

夕霧様が竹箸を薫様に手渡されます。薫様は息を整え無言で燃え
尽きた白骨を眺めておいでです。しゃれこうべ以外はほぼまだら
に皆が骨を拾われたみたいです。
のど仏が残っていました。夕霧様がこれを拾うようにと示されます。

嵯峨野夢譚64

のど仏を骨壺にお入れになったところで僧が蹴鞠ほどの石を持ってきました。
雨の中残った骨を砕いていきます。しゃれこうべだけが残りました。
夕霧様が骨壺を抱えたまま薫様に目で合図します。

嵯峨野夢譚65

薫様はその石を受け取りしゃれこうべを粉々に砕きました。
「父上は最後に何か言われましたか?兄上」
「ふむ、南無法華経、南無法華経じゃと申された」
「南無法華経、南無法華経、と?」

夕霧様は大きくうなずいておられます。

嵯峨野夢譚66

二人の兄弟は雨の中、しばし黙してたたずんでおられました。
林の影から傘の中、一人の尼宮がずっとこちらを窺うかがっておられます。
それは女三宮の尼君。雨脚はさらに強くなり。嵯峨野は空も人も
すべてが鈍色にびいろに覆われてしまいした。

嵯峨野夢譚67

「父上ーっ!父上ーっ!」
鋭い男の子の叫び声が聞こえます。老いたる源氏はまさに死に
かけておりました。その時冥府から呼び戻されましたが。
肉体がありません。

「これはどうしたことか」
と迷っているうちに、
「あの声は薫?」
と気づかれました。

嵯峨野夢譚68


「薫 薫 薫 かおるーっ!・・・寝取られし愚か者。
わしじゃーっ!桐壷帝の二の前じゃ、情けない。もっと悪い。
向こうは孫じゃが、こっちは、赤の他人じゃ。
ああ、情けない。寝取られし愚か者。それは・・わしじゃーっ!
柏木、柏木、憎っくき柏木を呪い殺してやったぞ」

嵯峨野夢譚69

「父上ーっ!父上ーっ!」
「ああ、よく通る声じゃ。何が父上じゃ。父上は柏木じゃ、
馬鹿者。生まれたばかりの時にわしにそっくりだとぬかした
乳母がおったが、生まれたばかりでどこが似とるじゃ、
大ばか者!わしは抱く気もせなんだ、くそっ」

嵯峨野夢譚70

その時ひゅーっと鋭い横笛の音が入ります。
「まあそうおっしゃらずに」
「そういうお前は?」
「柏木です。その節はほんとにお世話になりました」
「ふん」

「私が蹴鞠の宴の時から女三宮様を見染めていたことは
夕霧から聞いたでしょうに」

嵯峨野夢譚71

「そんなこと知るわけないではないか」
「格式だけで幼い女三宮様を嫁になんて、もってのほかです!」

「それは朱雀院が」
「断ればいいではないですか。紫の上様がかわいそうでした」
「それはまあ」
「若者を不幸に貶おとしめる悪鬼」

「悪鬼?」

嵯峨野夢譚72

「本人には自覚がない。権力をかさにきた大六天の魔王」
「なんと?」
「その犠牲になったのが、私柏木、女三宮、紫の上さらに」
「もういい!自分を正当化するのは止めい!」

源氏はそう叫んだ瞬間大六天の魔王に変身します。
それに対応して柏木は白鬼に変身、空を舞って横笛を吹きます。

嵯峨野夢譚73

「ぴゆーっ!」
大六天も空を舞ます。

妖怪によるすさまじい空中戦が始まります。
大六天の稲妻が走ります。まともに受けて白鬼はよろめきながら
大六天に電撃波を食らわせます。たじろぐ源氏魔王。

更なる白鬼剣が襲い掛かります。

嵯峨野夢譚74

魔王は鋼鉄の腕かいなで
白剣を受け魔王剣を白鬼の胸に突き刺します。

「うふはははは!思い知ったか、柏木!」
「何のこれしき。むむむむむむむむ」
柏木白鬼は貫通した魔剣をぐぐぐっと引き抜きます。
傷口はみるみるふさがっていきます。

嵯峨野夢譚75

態勢を立て直し睨みあう二体の鬼。
白鬼柏木がふっと一回り大きくなります。
それに負けまいと魔王源氏が二回り大きくなります。

さらに白鬼が拡大します。ついに二体は天を覆うほどに
でかくなりました。とその時、天空に大声が響き渡りました。

嵯峨野夢譚76

「何をしておいでですか!お二人とも!」
それは優しくも美しい紫の上のお声でした。

二体の鬼はみるみる小さくなって紫の上の手のひらに
載るほど縮こまってしまいました。

紫の上は二人を元の大きさに戻されました。
二人は両手をついて紫の上にひれ伏しています。

嵯峨野夢譚77

紫の上は軽蔑のまなざしで二人を見下ろしています。

しかしその顔はよく見ると能面こおもてのようです。
「なぜに殿方はそのように争われになるのですか?」
神妙に二人はうなだれています。ふたりの
額からは汗のしずくがした垂れ落ちています。

嵯峨野夢譚78

天空に紫の上の声が響き渡ります。

「女三宮様のお輿入れが決まった時には、正直私は心の底から
落胆しました。それはそうでしょう、私は源氏の正妻だと思って
ましたからね。源氏もそう言ってたし、みんなもそう思ってたと
思います。

嵯峨野夢譚79

だからそれに恥じないように努めて努めてつつましやか
にお支えしてきたつもりです。

ところが、よく考えてみると正式な結婚の儀はしておりません。
ということは源氏が御正室を迎えるということは万が一にもあり
得ることだったのです」

嵯峨野夢譚80


老いたる源氏と柏木は体中冷や汗でびっしょりとなっています。
額の汗は水溜りのようになっています。
二人の頭上に紫の上の魂の叫びがとどろきます。

「ましてや、子ができるなどとはもってのほか!最も恐れていた
ことが起きてしまった。

嵯峨野夢譚81

私はその恐怖に何度も出家を試みましたが
源氏は、私のこの苦しみなどは気づきもしない。
『私を独りにしないでくれ』と泣きついてくる始末、

なさけないったらありゃしない!結局私は死んじまったよ。

嵯峨野夢譚82

おまえたちになぶり殺しにされたんだよ!ああ、もういや、
男の無神経には虫唾が走る」

源氏と柏木は顔面蒼白、がたがたと歯は打ち震え氷の水を
浴びせられたようになっています。

「二人とも!この冥府からはちょっとやそっとじゃ

嵯峨野夢譚83

成仏
できないようにしてやるから覚悟しとき!」

能面こおもての紫の上はくるりと背を向けて暗闇に消えて
いきます、その後ろ顔は般若になっていました。
般若の顔だけが大きくなって源氏と柏木を飲み込んでしまいました。

嵯峨野夢譚84

そこに同じく冥府をさまよっている柏木の声がかぶさってきます。
「私の血筋に似合わずなんと仏道心が篤いことよ」
「柏木か?今に見ておれ。薫が煩悩でのたうち回る姿を」
「そうはさせませんよ。私の子ですから」

      X  X  X

嵯峨野夢譚85


そこに同じく冥府をさまよっている柏木の声がかぶさってきます。
「私の血筋に似合わずなんと仏道心が篤いことよ」
「柏木か?今に見ておれ。薫が煩悩でのたうち回る姿を」
「そうはさせませんよ。私の子ですから」

      X  X  X

嵯峨野夢譚86

ある夜薫はいつものように八の宮邸を訪れました。
ところがその夜は八の宮の姿が見えません。美しい娘たちが琵琶と琴きん
を弾いています。思わず薫は耳を澄ませてたたずみます。

「なんと。ここは田舎と気にも留めてはいなかったが」

嵯峨野夢譚87

垣根から垣間見る限りは雅な姫二人で奏でていらっしゃいます。
見るからに御姉妹とわかります。姉君はおおらかそうでつつましく
妹君は素直でかわいらしく。一目で薫はこの姉姫のとりこになりました。

先ほどからずっと天空の暗闇から源氏と柏木が覗いています。

嵯峨野夢譚88

老いたる源氏は、
「それ見ろ、薫の化けの皮がはがれてきたぞ」

すかさず柏木は、
「いえいえ、薫は慎重ですからご安心を」

二人は天空の暗闇から今にも落ちこぼれそうに薫の成り行きを窺っています。

翌日薫の君は山籠もりの宮と僧のために絹、綿、袈裟、衣を山へ。

嵯峨野夢譚89

八の宮邸の者のために料理の重箱をお届けになります。

天空で源氏が呟きます。
「まめじゃなあ薫は。姫が目当てになったんじゃ」
「そんなことはありませんよ。俗聖の師八の宮のために」
「ふん、将を射んとすれば馬を射よと言うではないか」
二人は天空の暗闇で言い合っています。

嵯峨野夢譚90

宮中に帰ってきますと。
薫と匂宮が楽しそうに話しています。
「人里離れた奥深い所に」
「ほう、そんなところに、みめ麗しき姫がいたら楽しいだろうね」
「ひょっとしたら」
「あるかもしれない」
「ふふふふふ」
二人は意味ありげに笑っています。

嵯峨野夢譚91

仲の良い貴公子二人でした。

それから数日後。薫の君は再び八の宮邸を訪れました。
八宮は大いに喜ばれ、出家の絆ほだしとなっている
この二人の姫を薫の君に託します。

二月の末に匂宮は大勢のお供を引き連れて初瀬の観音参りをされました。

嵯峨野夢譚92

その帰りに宇治の夕霧大臣の別荘にお泊りになります。
そこに薫の君がお迎えに上がりました。川向うが八宮のお屋敷です。

天空の源氏が言います。
「ふたりの下心見え見えじゃ」

夕暮れになって管弦のお遊びが始まりました。
八宮邸からお手紙が来ます。

嵯峨野夢譚93

宮自ら返事を書かれます。

あまりに人が多すぎてなかなか姫たちまで行きません。
とうとう何事もなく宮たちは京へ引き上げられました。

天空で源氏と柏木が話しています。

「もっとうまくやれんものかのう」
「いやいや、深入りは禁物」

嵯峨野夢譚94

「匂宮と遊びのつもりじゃ。まだ子供じゃ二人とも」
「薫は私に似て慎重なのでございます」
「嘘をつけ、何が慎重じゃ。うぶな女三宮姫をかすみ取ったくせに」

「それはあんまりな。打ち捨てられていた姫の心を満たして差し上げ
たのですよ」
「ふん、ならば出家などするものか」

嵯峨野夢譚95

「そもそもあなたとの縁談が無理だったのです」
「そうかもしれんな。あの二人もそうならねばいいがな」

天空の声が地上に聞こえそうです。その夏、八宮様は
「これが最後の山籠もりになりそうです」と言われ、
「くれぐれも二人の姫のことはよろしくお願いします」

と言い残されて山にこもられました。そして間もなく亡くなられました。

残された姫のもとへ薫の君も匂宮も弔いのお手紙を差し上げられます。
薫の君は阿闍梨や宮の者たちへあれこれと御配慮をなさいます。
それはそれは八宮の御遺言をはるかに上回る御気遣いでございました。

八宮の一周忌になりました。薫の君は募る思いを姉の
大君おおいきみに伝えますが、大君は妹の中の君
を薫の君にすすめ自分はその後見になりたいと望みます。

天空で源氏と柏木が言い合っています。
「それ見たことか薫も男よ。初めから大君目当てじゃった。
俗聖も何もあったもんじゃない。むっつりスケベじゃ」

「いえいえ、理性的にすべてが円満になるように心を込めて
対処しようとする結果の自然な成り行きでしょうが?」

「大君にてこずったのが失敗じゃな。力ずくでもよかったのにな。
柏木のように。な?かしわぎ?」

「なんということを?自らも周りもすべて納得させて事を運ぶ、
誰人たりとも傷つけてはならぬという慈悲の表れです!」

「慈悲が大君の我に負けたのじゃ。臆病な女のわがままに負けたのじゃ」
「姫の誇りを守るためです。でなければそこらの女どもと一緒です」
「どうせもてあそばれて捨てられる。面倒見てもらえるだけでも幸せと思え!」

「おんながわるい?」
「薫もわるい!人は変わる。変わるには勇気がいる。大君には勇気が
なかったんじゃ。死ぬ気になれば何でもできたはず、意気地なし!
薫もじゃ!」

「薫は思いやりのあるやさしい子です」
「そうかな?今に見ていろ、自分の勇気のなさを変な策を用いて望み
を達成しようとする。賢者ぶった小賢しい本性があからさまになっていくぞ」

薫の君が廊下の欄干に寄り添って匂宮と話をしています。
今は住まいが近くでよくこうして話しに来ます。

手を合わせて薫に頼み込む匂宮の姿を天空から源氏と柏木が見ています。
「何という情けない匂宮。わしの孫ともあろうものが」
「いやいや。宮様ともなると自由がききませんあなたの時のようには
いきませんからね。おんなたらしですね、うまいこと言って」

「薫も薫じゃ、得意げに恩を売ろうとしている。あさましい心根じゃ」
「根が優しいから万事誰も傷つけないようにそうしているのですよ」
「そうかな?」

欄干の二人はひそひそ話でかなり細かく打ち合わせをしておられます。
夏の終わりのある日薫の君はひそかに匂宮を宇治へご案内しました。
もし中宮のお耳にでも入ったらもう二度と宇治へは来られなくなります。

その年の暮れ、とうとう大君は心労のため病の床に就かれ薫の君に看取られ
ながら静かにお亡くなりになられました。

天空の暗闇から源氏と柏木が現れます。

「なんちゅうやっちゃ薫は?いらいらする」
「まま、そこがまた奴のいいところで」
「結局女を死なせてしもうた。わるいやっちゃ
こういうやつが一番悪い」

柏木は黙って聞いています。

「それに引き換え孫のほうは調子もんの尻軽で
能天気や。自分も周りもそう認めておりゃあそれが
一番幸せかもな。なまじっか真面目ぶると自分も
みんなも傷つく。中途半端が一番いかん薫のように」

どうも地上では匂宮が中の君を京へ呼ぼうとしているようです。
中の君の後見はやはり薫の君ですから親ぶって構わずにはいられません。

かえすがえすも大君の言うことを聞いて中の君と結婚して
おけばよかったのにと今更ながら後悔します。

そして実際夕霧右大臣の六の君がお輿入れになりました。
例によって匂宮はまんざらでもありません。
夕霧邸の監視は厳しくなかなか抜け出せません。

一人ぼっちの中の君は何とかして宇治にこっそり帰ってしまおうか
とお思いになって薫の君にお手紙を出されました。
「昔のよしみで今も変わらぬあなた様のご厚意、
誠にありがとうございます。もしよろしければ
直々にお会いして御礼申し上げたく存じます」

薫の君は胸躍らせて何度も何度も繰り返し
中の君からのお手紙を読まれて、

「お手紙拝見いたしました。昔のよしみなどと
水臭いことはおっしゃらずに。詳しいことは
万事参上いたしました上で。あなかしこ」

と生真面目にお返事なさいました。
さて次の日の夕方、いつもよりは念入りに身づくろい
をされて薫の君は中の君を訪れになりました。

翌日、久しぶりに突然匂宮がお見えになりました。
中の君は昨日そんなことがあったのでお召し物は
すべてお着換えになっておられます。

心の内も開き直っていつになく匂宮にお甘えになります。
匂宮も御無沙汰を申し訳なく思っています。

ところが薫の君の移り香がたいそう深くしみついています。
「ななな、何としたこと?この移り香は?これはこれは情けない」

中の君は申し開きもできずに泣くばかり。匂宮はえも言われず
いとおしくなってそっとやさしく中の君をお抱きしめになるのでした。

天空の源氏が呟つぶやきました。
「あほや、こいつも」

それからほどなく。中の君は薫の君に話します。

「このたび、わたくしには実は異母妹がいてこちらを
頼ろうとして見せに来ました。ちらと見に似ています」
「だれに?」
「大君に」
「えっ?」

薫の君の顔色はいつもの賢人ぶった貴公子から
総崩れにおなりでした。それほどまでに、と
中の君はお思いになり。

「わかりました。こちらに引き取るようにいたしますので、
そのうちにお目にかかることになるでしょう」

薫の君はもう上の空です。それからは宇治のお堂の建築に精を出され、
女二宮のお輿入れも適当になされ、やっと生まれたばかりの匂宮の
若君もそれなりに大切にお見舞いなさいます。

そしてついに春の盛りを過ぎたころ。
宇治に御堂の様子を見に行かれたその帰り山荘で女車に出くわします。

「あれは?」
「前の常陸宮様の姫君で初瀬の御帰りです。行きにもここへお泊りに
なりました」

「ほう。早く中にお入れなさい。こちらは奥に隠して」
薫の君は影からこっそりと姫をご覧になります。
じっと見とれて涙をおこぼしになりました。

「よくぞ生きていらっしゃった。ほんとによくぞ・・・。
浅からぬ前世からの約束と伝えてほしいのだが?」

「まあ、いつの間にそんなお約束が?ではそうお伝え
いたしましょう」
尼君は笑いながら奥へと入っていかれました。

母娘はそのまま中の君のもとへ向かわれました。
積もる話をされた後、

「くれぐれもこの姫をよろしくお願いいたします」
そう言って母君は帰っていかれました。

この姫のふとした表情があまりに大君に似てるので
中の君もほんとに驚くばかりでした。

薫の君はあの姫君が匂宮邸にいることを知りましたが、
どうも母君がほかの隠れ家をお探しのようだと聞きます。

そしてとうとう薫の君はかなり強引にあの姫君を宇治の
新しい建物にお移しなさいました。

「薫はかなり強引じゃなあ、今回は」
「どなた譲りか知りませんが匂宮の不埒な行為に
中の君の例もありますので早めに手を打った」

「なるほど。薫はどこか間が抜けておるからなあ。
うまくいけばいいが・・・・・」

天空の二人は心配顔で地上を見つめておられます。

そうしたある日薫の君から中の君へののお手紙を
匂宮は見つけてしまいます。その中身で薫の君が
姫をかくまっていることがわかってしまいます。

何とかして会いたい。どうしても会いたい確かめたい。
と匂宮はいてもたってもいられずにお忍びで薫の君
のふりをして姫の寝所に侵入します。

姫は人違いだとは分かりましたがその手慣れた愛撫に
女の喜びが目覚め、もう匂宮のとりこになってします。

「ああ、無常。どうする柏木?」
「ええ、罪作りなあなたの血筋であられます」
天空で二人は後の悲劇の予感に、姫浮舟を憐れみます。

また日を改めてと宮は後ろ髪を引かれる思いで京に戻ります。
さあどうしたものか?薫の君も匂宮も京に姫を住まわすべく
急いで住居を準備しようとなさいます。

そうした二月の半ば宮中で詩を作る会が催され、お二人は参加
されます。薫の君の詩が宇治を偲ぶ内容だったのに気づかれた
匂宮は次の日雪の舞う中を馬で宇治へと駆けられました。

文はありましたがまさかこの雪の中ではと思っていたところへ、
泥だらけの格好で駆け付けた匂う宮、息を切らせ体からは湯気が
立っていました。情熱的な宮の御心に姫は身も心も宮のもとへ。

「ようやるなあ、匂宮は。昔のわしでもあそこまでは」
「東宮におなりかというお立場であられるのに」
「明石の血かもしれぬ、あの一途さは」

お二人の行く末を危ぶむ天空の源氏と柏木でした。

その日は事前に連絡がありましたので準備は万端
整っています。

前回の突然の訪れの時のように、
物忌みのための方違えと皆に心得させてあります。

川向うのお屋敷へと小雪舞う中、匂う宮と浮舟は
舟でこぎだします。

「橘の 小島の色は かはらじを
    この浮舟ぞ ゆくへしられぬ」

まる二日の間お二人は誰にも邪魔されずに愛の限りを
尽くされましたご様子です。

そののち薫の君から間もなく京へご引越しの準備が整
いますと連絡があり母君も大喜びしておられます。

ところがある日双方の使いの者が鉢合せをしてしまいました。
薫の君は疑いを起こして警備を厳重になさいます。

とうとう匂宮は山荘に近づくこともできません。
犬にも吠えられ這う這うの体で京へ戻られます。

姫様は匂宮との不倫が発覚した時のことを思うと
もう生きた心地が致しません。考えあぐね疲れ果てて
宇治川へ身を投げようと決心されました。

「だから言わんこっちゃない。薫が油断するからじゃ」
「いえいえ、非常識な匂宮が悪いのです。人の恋路に
割って入るなんてもってのほか」

「あまりに薫がかしこぶって鼻につくからじゃろうな」
源氏と柏木のお二人は天空で大きく溜息をついておられます。

さて亡骸は見つからないまま入水というと世間体がことさら
悪くなりますので母君を中心にあっという間に火葬が済まされます。

これを後からお聞きになって薫の君も匂う宮も唖然とされました。
詳しく姫の最後を聞き出そうとされますがなかなかわかりません。

とうとうお二人とも心うつろで寝込まれてしまいました。
今更いくら悔やんでも致し方ありません。

お二人が立ち直るには相当の時間がかかりそうです。
薫の君は右近から事の次第を聞きます。

薫の君はもう心の底から打ちのめされてしまわれました。
それでも匂宮はもう気を紛らわすために若い女房などに声をかけて
おいでですが、お顔はいまだ悲しみが隠せません。

薫の君の打ちひしがれたお姿にお慰めの文を渡す気の利いた女御も
いましたが、やはりこの方は時間がかかりそうです。

それでもやがて女一の宮や宮の君にひと時苦しみを紛らわせに
なられるようになり、葬儀も身分の低いものはそのようなものかと
やっと気が落ち着いてこられるようになりました。

結局浮舟は生きていました。
横川よかわの僧都の一行に瀕死のところを
助けられ小野の尼寺にかくまわれます。

浮舟は記憶喪失になっていてまったく過去の
ことは思い出せません。

尼寺では亡くした娘の身代わりに授かったと
尼君は必死で看病しますが本人は死に損なった
ので尼にしてくださいとせがみます。

徐々に記憶を取り戻していくにつれ、浮舟は
元の高貴な輝きを増していきます。

よほどの秘密がおありなのだと尼君たちはひた隠しておりました
がとうとう殊勝な娘婿に見つかってしまいます。

しつこく求婚される浮舟は尼君たちが初瀬詣でに
行ったすきを見て僧都の下山の時に出家を願い出ます。

大急ぎで落飾受戒を済ませて僧都は加持祈祷のために
宮中に上がります。そこで僧都は祈りの後、中宮と薫の
愛人小宰相の前で浮舟のことをうっかり話してしまいます。

ついにそのことが薫の君の耳に入ります。

薫の君は浮舟のかたみとして側でつかっていた弟君小君を
連れてお忍びで小野の尼寺へ向かわれます。

小野の里では青々と茂った青葉に埋もれて、夕暮れ蛍の舞い
そうなせせらぎの中に尼君たちの庵があります。

薫の君は駒引き留めて小君に文を手渡します。
小君は姉姫に瓜二つのかわいらしい少年です。

「この文は直に手渡すようにと言われてきました」
取次の尼君は、
「はいはい、あなた様のお尋ねの方はこの奥におられますよ」

「お姉さまでらっしゃいますか?お姉さまですよね?」
「・・・・・・・・」
浮舟は見つめる眼にいっぱいの涙をたたえて、

「お人違いでございましょう。遠い昔にそのようなことが
あったような気もしますが、今では全く思い出せません」
「・・・・」
「どうかご主人様にもそのようにお伝えください。この
お手紙は受け取るわけにはまいりません」

そう言って浮舟は奥へと入ってしまわれました。
落飾された肩までの髪もわびしく、その後ろ姿は
単衣の法衣の中にわずかに震えているようでした。

天空で老いたる源氏と柏木が話しています。

「この後、薫はすごすごと引き返す。ほかに男が
おるんじゃないか?と思ったりする。もう俗聖
どころか俗物丸出しじゃ」

「匂宮、だったらどうでしょうね?」
「そりゃあ、真夜中に忍び込んでかっさらって行くかもな」
「やりかねませんね」

「それに引き換え浮舟のなんと崇高なことよ」
「どこか紫式部の達観が感じられますね」
「男のあほさ加減もな」

「出家したからといってすぐに悟りの境地にとは思われま
せんが?」

「そりゃそうじゃ。尼寺の老尼の姿は実に見苦しく紫式部は書
いている。浮舟は身を投げて供養したようなもんじゃからかな」

「このままこの物語は終わってしまうんでしょうか?」
「さあまだ生きてる生身の人間じゃから煩悩即菩提とはいくまいよ」
「煩悩即煩悩?」
「それが現実よ。だから楽しいのじゃ。衆生所遊楽というではないか」

「ということはこれからが面白くなると?」
「まさにその通り。伝教大師も末法はなはだ近きにありと憧れて
おられた。その末法ももうすぐじゃ。ははははははは」

老いたる源氏の笑い声が天空に遠く響き渡りました。
「さあ、嵯峨野に帰ろうか」
「そうですね」
怨霊のはずの二人は仲良く空をかけて嵯峨野に向かいました。

      ーーーーーーーーーーーー

「先輩起きてください!先輩!」
可愛らしい声が治の耳元で響きます。

「え?ああ、ここはどこ?」
「長神の杜ですよ」
治は北山杉のベンチから起き上がり眼をこすりながらながら、

「きみは?」
と、まじまじとその声の主を見つめます。
「ええっ!浮舟!」
「ええ、浮島舟子です」
「どうしてここへ?」
「昨日夢のお告げでここにお昼に来て眠っている少年を起こしてあげなさい
って言われました。ちゃんとお礼を言いなさいって」
「お礼?」
「どうもありがとうございました」

浮舟そっくりの少女が深々と頭を下げます。
「ちょっとまって、お告げをした人ってどんな人?」
「とても美しい品のある方で紫の上式部と申されました。源氏もとても
喜んでいますとお伝えくださいとも申されました。そして私も。
.....ふふふ」

なんだかよくわからないんだけど。彼女の笑顔がとてもかわいくて。
てれるなあ。とてもうれしくて。思わず治は叫んでいました。

「いえいえとんでもない!どういたしまして!とにかく、おめでとう!」

                         ー完ー

嵯峨野夢譚(さがのむたん)

嵯峨野夢譚(さがのむたん)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-01


  1. あらすじ1
  2. あらすじ2
  3. あらすじ3
  4. あらすじ4
  5. 嵯峨野夢譚1
  6. 嵯峨野夢譚2
  7. 嵯峨野夢譚3
  8. 嵯峨野夢譚4
  9. 嵯峨野夢譚5
  10. 嵯峨野夢譚6
  11. 嵯峨野夢譚7
  12. 嵯峨野夢譚8
  13. 嵯峨野夢譚9
  14. 嵯峨野夢譚10
  15. 嵯峨野夢譚11
  16. 嵯峨野夢譚12
  17. 嵯峨野夢譚13
  18. 嵯峨野夢譚14
  19. 嵯峨野夢譚15
  20. 嵯峨野夢譚16
  21. 嵯峨野夢譚17
  22. 嵯峨野夢譚18
  23. 嵯峨野夢譚19
  24. 嵯峨野夢譚20
  25. 嵯峨野夢譚21
  26. 嵯峨野夢譚22
  27. 嵯峨野夢譚23
  28. 嵯峨野夢譚24
  29. 嵯峨野夢譚25
  30. 嵯峨野夢譚26
  31. 嵯峨野夢譚27
  32. 嵯峨野夢譚28
  33. 嵯峨野夢譚29
  34. 嵯峨野夢譚30
  35. 嵯峨野夢譚31
  36. 嵯峨野夢譚32
  37. 嵯峨野夢譚33
  38. 嵯峨野夢譚34
  39. 嵯峨野夢譚35
  40. 嵯峨野夢譚36
  41. 嵯峨野夢譚37
  42. 嵯峨野夢譚38
  43. 嵯峨野夢譚39
  44. 嵯峨野夢譚40
  45. 嵯峨野夢譚41
  46. 嵯峨野夢譚42
  47. 嵯峨野夢譚43
  48. 嵯峨野夢譚44
  49. 嵯峨野夢譚45
  50. 嵯峨野夢譚46
  51. 嵯峨野夢譚47
  52. 嵯峨野夢譚48
  53. 嵯峨野夢譚49
  54. 嵯峨野夢譚50
  55. 嵯峨野夢譚51
  56. 嵯峨野夢譚52
  57. 嵯峨野夢譚53
  58. 嵯峨野夢譚54
  59. 嵯峨野夢譚55
  60. 嵯峨野夢譚56
  61. 嵯峨野夢譚57
  62. 嵯峨野夢譚58
  63. 嵯峨野夢譚59
  64. 嵯峨野夢譚60
  65. 嵯峨野夢譚61
  66. 嵯峨野夢譚62
  67. 嵯峨野夢譚63
  68. 嵯峨野夢譚64
  69. 嵯峨野夢譚65
  70. 嵯峨野夢譚66
  71. 嵯峨野夢譚67
  72. 嵯峨野夢譚68
  73. 嵯峨野夢譚69
  74. 嵯峨野夢譚70
  75. 嵯峨野夢譚71
  76. 嵯峨野夢譚72
  77. 嵯峨野夢譚73
  78. 嵯峨野夢譚74
  79. 嵯峨野夢譚75
  80. 嵯峨野夢譚76
  81. 嵯峨野夢譚77
  82. 嵯峨野夢譚78
  83. 嵯峨野夢譚79
  84. 嵯峨野夢譚80
  85. 嵯峨野夢譚81
  86. 嵯峨野夢譚82
  87. 嵯峨野夢譚83
  88. 嵯峨野夢譚84
  89. 嵯峨野夢譚85
  90. 嵯峨野夢譚86
  91. 嵯峨野夢譚87
  92. 嵯峨野夢譚88
  93. 嵯峨野夢譚89
  94. 嵯峨野夢譚90
  95. 嵯峨野夢譚91
  96. 嵯峨野夢譚92
  97. 嵯峨野夢譚93
  98. 嵯峨野夢譚94
  99. 嵯峨野夢譚95