ウツボカズラ

余命幾ばくも無いと癌を宣告された男が、旅に出て、紫館で死を超える快楽を求めて、縊死する。
それが他殺か自殺・事故かで警察と揉める。
そして縊死した男の婦人も同じ経験をさせるように紫館の女主人に頼み、同様の経験をする。

臨界=最後の生の横溢

   臨界

 沖縄は南部、那覇からバスで二十分ほどに人口一万五千の長閑な与那町がある。
 そこに玉城村・大里村・知念村・南風原町・佐敷町を管轄する与那警察署がある。
 二十年ほど前までは町と付くの与那だけだったのが、今では二つ増えたが、相も変わらず長閑で平和な地域である。
 事件らしい、事件もなく、有るのは交通事故ぐらいで、刑事一課は暇である。
 たまの事件はこそ泥ぐらいで、傷害と言えば大事件のように聞こえるが、酔っぱらい のケンカがぼちぼちで、殺人事件などは皆無である。
 そこに課長の警部補の上原政孝・五十二歳に、巡査部長の我喜屋(がきや)実(みのる)・四十七歳、新米刑事の新垣正宗巡査長・二十八歳は属している。
「我喜屋さん、殺しを扱った事は有るんですか。
 与那署では無理ですよね」と紺の安っぽい上下の背広の正宗が嘆いた。
「そうだな、俺も五六件だ。それも那覇署に居た頃だ」と煙草を吹かした。
 我喜屋は一メートル六十八、ずんぐりむっくりでバーコードのようなハゲを隠すために坊主、スキンヘッドにし、トレードマークの紺のフィールドハットを被り、今流行のカリユシウエア、沖縄版アロハを着て、お気に入りの紺か茶のコットンパンツを着ている。
 スーツを着ればそれでいいと思っている上司や同僚の服装のセンスには呆れている。
 内心では与那署一のお洒落だと自負している。
「コラ、新垣、与那署の管轄で傷害や殺人、強盗が無いということは、我が刑事一課の睨みが利いているという事だ」と上原課長は一喝し、カラオケでいつも聞かされるお得意の喜納昌吉の「花」を口ずさみ出した。
 部屋にじっとりと蒸し暑さが滲み出た。
 その時、電話が鳴り、上原課長が受話器を取った。
「お前等が禄でもないことを言うから、傷害事件だ。
 運玉森(うんたまもり)の紫館(むらさきやかた)だ」
 我喜屋と新垣はにんまりして、出てゆき、覆面パトカーで紫御殿に向かった。
「我喜屋さん、あそこの女は新興宗教の教祖だとか、占い師とか、言われる三十過ぎの女が一人で住んでいるんですよ。
 二百坪の屋敷に百坪の二階建て、趣味の悪い紫のペンキですよ。
 臭いますね」
「それに悪趣味の紫のベンツだ。
 名前が勅(て)使(し)河(がわ)原(ら)桜子だ、如何にもお公家様と言わんばかりの名だな」
「三十過ぎで、大金持ちですよ。
 世間をバカにしていますよ」 

 五分もしない内に町の西側にある運玉森の紫館に着いた。
 ドアをノックすると、紫のロングワンピースに銀縁の眼鏡の勅使河原桜子が出て来た。
 二人は警察手帳を出し、中に入った。
「勅使河原さん、傷害で署へご連絡頂いたんですよね」と我喜屋は落ち着き払った桜子を奇妙な思いで一瞥した。
 リビングを横切り、三つ有る部屋で一番奥の部屋のドアを桜子が開けた。
 我喜屋と新垣は固まった。
 紫の壁に深紅のベッドが置かれ、その中央の両横にはチタンの柱が二メートルほど延びて、その上から桁が架かっている。そこにはリモートコントロールのクレーンが吊り下げられている。
 鉄工所などのクレーンのダブルベッドサイズ用と思えば分かりやすい。
 その下で真っ裸の六十過ぎの男が首輪を掛け、そこから縄は背中を這い足枷に結ばれて空を飛んでいた、宙に浮いていた。明らかな絞殺体だった。
「遺体に手を付けましたか」と我喜屋は聞いた。
「いいえ」と勅使河原は穏やかな顔で言った。
 それを見ていた新垣が切れた。
「おい、人一人が死んでるんだぞ。よくも平気な顔で言えるな、どういう神経の持ち主なんだよ」
「仏さんの名前は」と我喜屋が聞いた。
「犬養さんとしか知りません」
「犬養さんはどうしてここに居るんですか」
「見ての通りで、二日前からのご滞在です」
 我喜屋は苦虫を噛み潰した顔をした。どう見ても勅使河原が拷問して殺したようにしか見えない。
 『拷問』と頭の中で繰り返し、美しく静かな勅使河原を見ると背筋に寒気が走った。サイコサスペンスの快楽殺人者かとまじまじと勅使河原の顔を見つめた。今度は現世を諦めた修道女のようにも見えた。
 我喜屋は上原係長に連絡し、変死体であり鑑識を寄越すように頼んだ。
「勅使河原さん、重要参考人として署まで同行して貰います」

 与那署の取調室で我喜屋と勅使河原は向かい合った。
「あなたは犬養さんを知らない。宿泊するまで面識はなかった。そうですね」
「なぜ、犬養さんはあなたのお屋敷を尋ねて来たのですか」
「我喜屋さん、マゾ、被虐趣味をご存知ですか」
「ええ、サドマゾの興味本位程度ですが」
「彼等は妻や家族にその嗜好を徹底的に隠すのです。いいですか。交わって、子供を作り、よき家庭を作っても、性的満足は一切無いのです。
 もし我喜屋さんが奥様に夜の営みの途中に首を失神するほど絞めてくれと頼んだら、どうなりますか」と勅使河原は猫撫で声で訊ねた。
「女房は子供を連れて、離婚届を置いて実家に帰るでしょう」と我喜屋は呟いた。
「そう出来ない方々が訪れる場所が私の家です」
「ですが、あなたは今の状況をお分かりですか。
 殺人、又は自殺幇助、未必の故意の嫌疑を掛けられているんですよ」
「それは仕方のないことです。
 死と隣り合わせの遊技ですから。
 私はそれで仕事をしているのです。我喜屋さんの意見に異議は有りません」
「ではあなたは今までに相手が死に至るまでお付き合いした事は有りますか」
「初めてです。
 普通は柔道で言うオトス前に両手を、紐を緩めたり、枕を相手の顔に押し付けて、窒息死寸前に止めるのです。
 まず本気で死ぬまでやる人は居ません」
「そうなるとあなたが殺したことになるのでは有りませんか。それか、判断ミスです」
「我喜屋さん、私はこの道のプロです。自分のミスは認めます。
 でもあれは犬養さんがお一人で行ったのです」
「なぜそこまで言えるのですか」
「私はプロですから、値の前で死ぬまでの遊技などさせません、としか言えません」
「そういうものですかね」と我喜屋は朧月夜の禿を隠すためのスキンヘッドをハンカチで拭った。
 我喜屋は殺しではないと思うものの、首を絞め、或いは口を塞ぎ、窒息させて、男に快楽を与える因果な商売をする勅使河原に同情と共に異様さを覚えた。
 修羅場を凌いできた組員、殺人事件の場数を踏んだ刑事はある種の突き放した死への冷静さを身に付ける。だが目の前の勅使河原は理性を取り戻すための突き放した冷たさとは何かが違っていた。菩薩と鬼が同居している、妖気が漂っている、そんな雰囲気であった。
 それに勅使河原は殺人罪で起訴されてもいいと腹を括っている。
 半日が過ぎて、取調室に上原課長が慌てて入り込んできて、我喜屋を外に出した。
「我喜屋、仏の例の所有物の白瀬紀一郎県警本部長宛の手紙は偽物では無く、署長が持参し、確認したところ、被害者は本部長の大学の恩師だそうだ。
 そして自殺と断定したそうだ」
「あれは本物だったのですか」と我喜屋は取調室に戻った。
「勅使河原さん、犬養さんの持ち物を調べましたか」と我喜屋は訊ねた。
「お客様のプライバシーに一切立ち入りません。そうでなければ私の仕事は出来ません。
 もし私が顧客の素性を知り、万が一、私が脅されれば白状しないという自信は有りませんので、これでも拷問には弱いんです」と勅使河原がねっとりと頬笑んだ。
「勅使河原さん、自殺の線も出ましたので、今日はお引き取りになって下さい。
 ですが事件の方が付くまで、余り遠出をなさらないで下さい。
 そして署の者がお送りし、別の殺人犯のいる可能性がありますので、あなたをそのまま警備しますので」
「我喜屋さん、警備じゃなくて、見張りでしょう」
「解釈はお任せします」
 勅使河原は午後八時、警察の車で自宅に送られ、見張りが付けられた。

 翌朝、刑事一課では上原課長が喜屋武と新垣を眺めた。
「我喜屋、仏様は犬養芳忠、七十二歳、住所は京都市、元京都大学法学部教授で、本部長の恩師だそうだ」
「それでは趣味を楽しむことは出来ませんね」と我喜屋は苦笑いした。
「でも課長、あの勅使河原は同意にしろ、自殺幇助になりませんか」
「頑張れば、なるかな」と課長は素っ気無く言った。
「課長、立派な犯罪ですよ。知らぬ振りでもするんですか」
「いや、犯罪にはならないだろう。
 新垣、お前は仏の体の下の写真まで見なかったろうが、年配の女性の写真が有ったんだよ、奥さんらしい」と我喜屋は呟いた。
「でもあのクレーンで吊り上げたのは勅使河原ではないのですか」と新垣が噛み付いた。
「新垣、二人は同意の上で、マゾかサドの遊戯をしていた。これは確かだな」
「そうですね。タクシーの領収書を持っていましたからね、そして確かに空港からあの紫館まで送ったとタクシー運転手は証言していますから。それにロープ以外の傷、薬物などの反応も有りませんでしたから。
 それでも人一人が死んで、無罪放免は無いでしょう」と新垣は続けた。
「だがな、もし勅使河原が事故死を主張したら、どうなる。
 遊技に夢中になって、気付いた時には死んでいた。
 きっと勅使河原の弁護士は事故死を主張するだろう」と上原課長は新垣を睨んだ。
「課長、現場に有った養命酒の件はどうでしたか」と我喜屋は言った。
「犬養さんが買って行かれたそうだ、ヘルシー薬局で、レジの係もレシート通りに午前十時十五分に犬養さんが買って行ったと証言し、店の前を掃除していた店員が徒歩で帰ってゆくのを確認している」
「これで監禁の線は消えた。
 新垣、変だとは思わないか。ご隠居の元教授がタクシーの領収書に、養命酒のレシートを持っていた」と我喜屋は溜め息を吐いた。
「我喜屋さんは奥さん任せだからですよ。一人暮らしの私はレシートを貰い、家計簿を付けていますよ。
 きっと犬養さんも若い頃からの習慣ではないですか」と新垣は語気を強めた。
「お前、若いのに細かいな。それを方言ではニジヤー、握って放さない奴のことを言うんだ」と我喜屋は呆れたが、一理は有る。

 部屋に電話が鳴った。
「我喜屋、署のシーサー門の前に、紺の背広の男性を乗せて、紫館に行け。
 それからこれを持ってゆけ」
「何ですか、この袋は」
「現場の写真だ。
 我喜屋、これはプライベートだが失礼のないように扱え。
 分かったな」
「分かりました」と我喜屋は出て行った。
「変では有りませんか。もしかして勅使河原の顧客のお偉いさんではないですか、政治家とか」と真顔で言った。
「新垣、お前の執念は認めるが、もう少し柔軟な頭の回転は出来ないのか」と上原課長は頭が悪すぎてこうなのか、良すぎてこうなのかと新垣を見た。
「課長、揉み消しは一切無しですよ」と新垣は仏頂面をして、部屋を出た。
「こいつは、バカ、だ」と上原課長はごちた。

 与那署の門の上に町の石材会社から寄贈された高さ一メートルの白色コンクリートをクリーム色に染めた一対のシーサー・獅子が全面を睨んでいる。沖縄県警のマークはシーサーである。それを鑑賞するように立っている男がいた。
 我喜屋は車を一旦外に出し向きを変えて、クラクションを鳴らした。白瀬は助手席に乗った。
「互いにプライベートだから、さん付けだけで結構です、我喜屋さん」と白瀬は告げた。
「どうして自殺と判断したのですか」と我喜屋は車を走らせた。
「手紙の中には医師の診断書とガン保険金の受取書が入っていたからです」
「しかし、それだけなら与那署への電話一本で済むことでは有りませんか」と我喜屋は訊ねた。
「そうですね。しかし、それと一枚の便箋が入っていのです。
 犬養先生は教え子から年賀状を貰っても、送りはしないのです。送るのなら全員の教え子に送ることになるからです。
 所が今年の正月に県警宛で私に達筆な毛筆で年賀状が送られてきた。
 そして毛筆で書かれた手紙です。
『貴殿を信頼し、私の一切を一任する。
 出藍の誉れを嬉しく思う。
   犬養芳忠 拝』
 どちらも墨で書かれた葉書と手紙で、誰が見ても分かるような同一人物の筆跡です。
 それと住所と電話番号が記されていました」
 我喜屋は運玉森に入り、五百メートル手前の曲がり角で停車して、ルームランプを点けた。
「私は現場写真を呈示してものか、どうか迷っているのですが…」
「見せて下さい。
『私の一切を一任する』と頼まれたのですから」
 白瀬は袋を我喜屋から受け取り、一枚ずつ写真を凝視し、深く息を吸った。
「行きますか、我喜屋さん」

 我喜屋が警備の警察官に手帳を見せ、紫館の敷地内に車を止めた。
 喜屋武が玄関のチャイムを押すと、黒い上下のジャージの勅使河原桜子が現れた。
「このような格好で済みません」
「現場を見たいのですが、いいですか」
 桜子はどうぞと白瀬には一瞥も呉れずに、事件の有った部屋に歩き出し、ドアを開け、明かりを点けた。
 白瀬は紫と赤の部屋を、クレーンを見ながら、五分ほど立ち尽くし、「これで充分です」と部屋を出た。
 リビングは壁は白でソファとテーブルはロココ調の白と金色で統一されていた。
「お二人ともお坐り下さい」と勅使河原が無機質な声で告げ、向いに坐った。
「勅使河原さん、ここのお部屋は全てあのお作りですか」と白瀬が聞いた。
「いいえ、一階にあの一つだけで、上に一つだけです」
「もしご遺族が来られたら、別のお部屋へ案内して貰えませんか」
「二階には中城湾が見下ろせるホテルのスイートルームのようなお部屋が有りますので、そこにご案内します」
「勅使河原さん、与那署には傷害で通報なさいましたね、どうしてですか。
 自殺と分かっていたのではないですか」と我喜屋は聞いた。
「自害・他害、どちらも傷害ですからね」
「勅使河原さんは罪に問われても良かったのですか」と我喜屋は聞いた。
「ええ、ビジネスですからね。
 お部屋の外では犬養さんは明るくて無邪気な優しい紳士でした。
 それでも吊るされたまま息絶えてたのですが、嬉しそうで、安らかなお顔でした。
 全て満たされたような気持ちになって…」
 白瀬が立ち上がると喜屋武も立った。
「明日、もしご遺族が参りましたら、ご配慮をお願いします」と白瀬は深々と頭を下げて、踵を返した。

 我喜屋は那覇に向けて車を走らせた。
「白瀬さんは教授に覚えられるほどの秀才だったのですね」
「反対だよ。犬養先生のゼミではビリだ。
 同級生の殆どが、医師か弁護士か、大手会社の重役か、金持ちの家だ。
 私は大学に入って初めて、自分の家は貧乏だと思ったよ。
 お金持ちの子供達は小さい時から家庭教師が付いている、京都なら京都大学が一番高い、東京なら東京大学だ。だがその子達の家庭教師をして学生時代には金に困ることはなかったがね。
 犬養先生に言われた。
『君は弁護士になるのに、二三年浪人できるかと言われた。なれたにしても金持ちなら別だが、すぐには稼げない。
 君は全ての学科に優秀だ。
 だがな、他の奴等は司法試験だけに照準を合わせている。
 家庭が裕福だからだ。
 君なら上級国家公務員に一発で合格する。
 何も弁護士と検事だけが法を生かしている訳じゃない。
 警察も法の要だ。
 但し、警察は傍から見れば常に保守的だ。国家が有って法を執行出来るのだからな』」
「それはどういうことですか」
「要するに司法試験は受からないと犬養先生はおっしゃったんだ。
 そして私は公務員試験を受けた。
 出来の悪い生徒も教育者の記憶には残るものだ」
「勅使河原さんが言うには、犬養さんはどのような方でしたか」
「どんなに泣きついても、単位をお情けで呉れることはしなかった。
 それに法律の話しかしない。それだけしか知らないのに、知っている振りするのは間違いだ。知らない事への正解は沈黙しかないと言った。頑固者だ
 だが一度だけウソを吐いた」
「それはどのようなものでしたか」
「手紙に私のことを『出藍の誉れ』と書いたことだ」
 喜屋武は那覇の国際通りで車を止め、白瀬が降りようとした時、声を掛けた。
「白瀬さん、宜しければお手紙を私がお預かりしましょう」
「どうするんですか」
「一応、遺留品は全て記録されていますので」
 白瀬はスーツの内ポケットから手紙を喜屋武に差し出した。
 喜屋武は手紙を受け取り、敬礼して車を走らせると、白瀬本部長の後ろ姿がサイドミラーに映った。
「私の一切を一任する」というセリフが我喜屋の耳に心地よく響いた。

 翌朝、JALの第一便で駆けつけた犬養美耶子・六十五歳と長女美春四十一歳が与那署を訪れた。
 我喜屋は霊安室に二人を案内したが、取り乱したりはしなかった。ほっとしているようにも見えた。自分の死を宣告された者とそれを知る身内が一人旅に出るいう故人を引き止める訳には行かない。せめて最後は自分が好きなことをさせてやりたいと思うのが心情である。だが一人旅ともなれば、自殺はしないかとの身内の不安は家に戻るまで続く。
 三日の旅、それが犬養芳忠がどうにか家族の者が堪えることの出来る時間と考えた。
 我喜屋は切なくなった。
 霊安室を出ると、美耶子と美春は喜屋武から少し離れて話し合っていた。
「美春、ここと京都の葬儀社で全て、手はずは済んでいますからね。
 あなたはお父様と一緒に帰りなさい」
 美春は我喜屋に会釈をして、立ち去った。
 そして覚悟を決めたように、美耶子が我喜屋の所へやって来た。
「我喜屋さん、ちょっと時間を頂けますか」
「ええ、ここでは何ですから、ちょっと裏手の丘に有るクララ修道所まで歩きますか」と喜屋武は自販機からサンピン(ジャスミン)茶のペットボトルとブラックのコーヒーを買い、手にしたまま歩き出した。
 修道所の芝生の庭からは北に町並みと中城湾が眺望できる。我喜屋はお絞りのようなハンカチを敷いて、横に坐った。
「我喜屋さん、お優しいのね」と美耶子は笑って坐った。
「この度はご愁傷様で…」と言い、我喜屋は言葉に詰った。
「いいえ、いつ死ぬかと怯えて暮らすよりは犬養にとってはよかったのでしょう」
「犬養さんは生前はどんな方だったのでしょう、大学の先生をされた方からですね」
「家でも外でも立派な学者さんでした。
 まあ、今の若い方なら窮屈でしょうがね。
 実は私の父親も大学の先生で、孔子・孟子の儒学の研究者で夫より窮屈な人でした。
 でも私はその反発で谷崎潤一郎の愛読者の文学少女でした。
 谷崎はお読みになりました」
「読みましたが、私の場合は興味本位で一、二作です」
「私も同じですわ。『細雪』以外の方がずっと面白いんですよ」と美耶子は笑顔を見せた。
 我喜屋は誘導されているのでは思った。真っ先に浮かんだのが谷崎の「痴人の愛」、次が「卍(まんじ)」で、犬養の趣味に接近していた。
「犬養さんが末期の癌で、さぞ辛かったでしょうね」
「我喜屋さん、男の方はお優しい。
 私の父もよく『武士の情け』とかとよく申しておりました」
 我喜屋は聞こえぬ振りをした。
「父はね、我喜屋さん、漢学の泰斗と言われる人でしたけど、脳溢血で急死しましたもので、私が大学の父の研究室の私物を片付けに参りましたの。
 机から何が出て来たと思います」と頑是無い顔で我喜屋を窺った。
「手塚治虫の漫画本ですか」
「違いますわよ。お情け深いのね。
 ビニ本です、それもモザイクなしのです。
 ポカンとして、笑っちゃいました」
「そうですか、息抜きは必要ですからね」と我喜屋は声を出して笑う下手な芝居をした。
「我喜屋さん、私を犬養が亡くなったペンションとやらに連れて行って貰えませんか」

 我喜屋は美耶子を後部座席に乗せて、紫館に走らせた。
「途中でお花でも買いましょうか」
「いいえ、ご迷惑おかけした上に、お花では失礼を重ねる事になりますから」
「奥様、ご結婚をして何年目でしたか」
「四十年ほどです」
 我喜屋にはわずか五分ほどで着くはずの館がやけに遠いように思え、脂汗のようなものが滲んだ。
 犬養さんの『私の一切を一任します』との文字が脳裏から離れなかった。
 車は館に着いて、我喜屋がドアを開けると、美耶子は背筋を伸ばして、館に目をやった。
「紫とは高貴なお色ですね」と美耶子が一人で玄関へ向かってゆく。
「奥様、私もご一緒しましょうか」
「とんでも御座いません。お詫びとお礼に行くのですよ、刑事さんがご一緒では館の主が恐縮なさいますわよ。
 刑事さん、もうお帰りになられて結構ですので」と軽い会釈をした。
「ここは人里離れて、物騒ですので、散歩でもしながら待っています」
「お好きに、どうぞ」と美耶子はチャイムを押した。
 玄関のドアが開くと、挨拶を交わし、二人は館の中に消えて、我喜屋は「民事不介入」と呟いた。

 深緑の紗のワンピースに黒真珠のネックレス、右手に黒のバッグの犬養芳忠の妻・美耶子は二階のスイートルームから海の緑から青のグラデショーンに上へと続くスカイブルーに一個の白雲を窓際に立ち眺めていた。
 その横で黒字に白のハイビスカスのムームーを着た勅使河原が同じように眺めていた。
「桜子さん、夫は癌でした。
 安らかな死に顔でした」と美耶子は前を向いたまま、独り言のように呟いた。
「私にもそのように映りました」
「今の癌保険は保険金が生前に支払われるのですよ。
 その人の命の終わりに、そのお金は身内にも気兼ねせずにやりたい事に使えます。
 犬養はここで何をしたのでしょうか」
「奥様、お客様のプライバシーは守らなければなりません」
「そうですか。
 ずっと昔のお話ですが。仕事で行き詰まっていたのでしょうね。
 研究者は書斎に誰が入るのも嫌うものですが、夜中に夫の書斎で物音がしたので、気になってそっと覗いてしまったのです。
 夫は書斎のトイレのドアノブにタオルを巻き付けて捩り自分の首を絞めてへたり込んでいたのです。
 自殺したのではと思い足が竦みました。
 でも荒い息遣いが聞こえたのです。
 それにパジャマのズボンもトランクスも下ろされているのです。
 それはけして見てはいけないような胸騒ぎと違和感、いえ異様なものを見てしまった畏怖とでも言うようなものでした。
 すると男の人が放つ臭いが漂って来たのです。
 私は気が動転し、その場を立ち去りました。
 そう、私は夫の性的嗜好を今の今まで気付かぬ振りを通してきたのです」
「そうですか、犬養さんがですか。
 そのような趣味は大多数の人々の好奇心を煽るだけで、理解もされません。
 秘密にするのは当然でしょうね」
「ご覧なさい、我喜屋さんを、手持ち無沙汰でサトウキビ畑の農道を行ったり来たり…。
 可愛らしいものです。
 男同士の連帯というのか、男の情けですかね。
 桜子さん」
「あの人は与那署が暇なので、公務をおサボりしているのか、ハブはいないかと安全確認でもしているのでしょう」
 美耶子がハンカチで口を押さえて笑い、桜子も頬笑んだ。
「このような南国の光の満ち溢れるお部屋では犬養の趣味を楽しむのには不適当です。
 犬養は北国趣味で、哀れな女の演歌が好きでしてね。
『着ては貰えぬセーターを涙堪えて編んでます』
 今思えば、編んでいたのは犬養自身だったのでしょうね」
 桜子は淡々と語る美耶子の言葉に、長年連れ添った女性の意地を見た。犬養は良き夫を通して果てた。美耶子は妻として、犬養の全てを受け止めて、余生を全うする。
 末期ガンで死期が迫っているのなら、夫の首を絞めながら最後の夜の営みをやって上げたいとの覚悟を決めていたのかも知れない。だがあれこれと逡巡している内に犬飼はあの世へ旅立った。
 美耶子には犬養の性的趣味を目撃していながら、知らぬ振りをしていたとの後ろめたさ、慚愧の念が残された。
 『妻一筋、夫一筋』、桜子は時代錯誤の言葉を心の内で軽蔑した。
 だがそれも二人の愛を散らした何でも有りのエロスの万華鏡を一振りし覗いた一つの模様だと思った。
「桜子さん、お客様は居ないようですし、今晩だけでも泊めて頂けませんか。
 犬養の妻で、一見さんという訳でも有りません」と美耶子は告げた。
「奥様、犬養様が隠し通して、お亡くなりになられた事を考慮すれば、そっとして差し上げるのが、唯一のご供養では有りませんか」と桜子は無難な言葉を投げ返した。
「桜子さん、私は立つ鳥跡を濁さずなど、問題にしません。
『私はあなたの全てを知っていますのよ』と私の冥土への手土産に、犬養に真っ先に言ってやりたいだけですよ。
 全て都合よく亡くなったのですから、故人にとやかく言われる筋合いは有りませんわ。
 そうでは有りませんか、桜子さん」
「そうでしょうか」
「そうですよ。犬養は桜子様にも、世間にも、家族にも迷惑が掛からぬように、配慮して亡くなったのでしょう。
 自分では抜かりなく遣り遂げた積もりでしょうよ。
 きっと全ての面目は立ったでしょう、妻の私を除けば…。
 詰り、私は面目の内に入らなかったのですよ。法の下では妻も夫も男も女も平等です。でも長年連れ添った妻だけは阿吽の呼吸で理解しなければならないのですか。
 この世にサヨナラするならば、私は誰の面子を潰しても、伴侶の面子を守ります」と美耶子はサトウキビ畑を歩き回る我喜屋を見た。
「ではあの人には少し待って頂きましょうか、美耶子様」

 美耶子はスイートルームの隣に有る紫の部屋に案内された。
 階下の犬養が最期を遂げた部屋と全く同じ作りで、紫の壁に、深紅のベッド、その上に跨がるクレーン、観音開きの箪笥に引き出しにはサドとマゾの小道具が並べられている、そして浴室。
「奥様、ジャージにお着替えなさいますか」
「その方がいいですわね」
 美耶子は紫の上下のジャージを持って来て、手渡すと、美耶子は丁寧に服を脱ぎ、畳んで箪笥の上に置いて、ジャージに着替えた。
「いいですか、美耶子様。
 けして死ぬような事は有りませんが…、その代償の苦しみは覚悟して下さい。
 お止めになりますか」
「いいえ、続けて下さい」
「では横になって下さい」
 美耶子は言われるままに枕を下にして横になった。
 桜子が妖しい笑みを浮かべながら、優しく添い寝したかと思った瞬間、片方の枕を持ち上げ、美耶子の顔に押し付けた。
 死と顔にぴたりとくっついた柔らかな枕は美味しそうな真っ赤な魔女のくれた毒リンゴを想起させ、夫との初夜が思い浮かび、体が異様に火照るのを覚えた。そして美耶子は幼い頃に川で溺れて必至にもがいても沈んでゆく自分を見ていた。
『犬飼は死んだのよ、美耶子』と溺れる自分に叫ぶ美耶子の呟きが視覚だけの世界を破った。
 頬を叩かれると、桜子が鼻先で見詰めていた。それと同時に窒息で死にそうになった事実はぱっと消え去り、怯えより生きている驚きが美和子を犬飼の未亡人に、現実に引き戻していた。
「そのように犬飼が亡くなったのなら、桜子さん、今でもあなたは警察に拘束されているのでは有りませんか。
 桜子さん、どうか一部始終、全てをお話になさって下さいませんか」
「それはご想像にお任せするしか有りません」
 美耶子は桜子の斜め上のクレーンに目を留め、指差した。
「あのクレーンも使って頂けないかしら」
「首に痕が残りますよ」
「一生残るものですか」
「いいえ、首の傷だけは一週間では完全に消えるでしょう、ですが恐怖は消える保証はありません」
「構いません」と美耶子はじっと桜子を見つめた。
 革の手錠を掛けられ、鎖で繋がれた足枷が足首に掛けられ、首輪が掛けられ、美和子は俯せにされた。首輪から伸びたリールは背中の上を這い足かせの鎖を回り、クレーンのフックに掛けられ、頭と足のバランスを決めてフックは下方のリールに掛けられる。
 モーターの作動する音がして、クレーンのフックが上がり始めた。
 微妙な親指のリモコンのボタン操作でフックが上がって行き、美耶子の首は確実に絞められ、足と首は背面へ反って行き、お産のような脂汗が滲み、耐えに耐えていたが呻き声を上げそうになった。
 何かが突発した、ふわっと全身が浮いた、浮遊感と共に我を失っていた。
 美耶子は裸にされ、バスタブでシャワーを浴びせられて、意識を取り戻した。
「美耶子さん、アンダーウエアーは用意されていますので、ご自由にお使い下さい。
 古い物はビニール袋に入れて有りますので、お持ち帰りになられても、こちらで処分しても結構ですので、お好きなようにして下さい」
 桜子はリビングへ降りて行った。
 それから十分ほど経ったろうか、訪れた時と同じような姿で美耶子は軽く会釈をして、テーブルを挟んで向いに坐った。そして白い封筒をテーブルの上に置いた。
「お収め下さい」
「これは私から藍染のスカーフのプレゼントです」と桜子は美耶子の首に巻いて、「お似合いですわ」と席に戻った。
「そうですわね、誰も年寄りの首など見ないでしょうけど、我喜屋さんは気をつけませんとね。
 男同士の情けも大切でしょうから」

 美耶子が玄関から出て来ると、我喜屋はドアを開け、美耶子を車に乗せ、見送りの桜子に右手を上げ、那覇空港に向かった。
「キャンセル待ちでお帰りですか」
「もう全て片付けましたから」
「犬養さん、スカーフをなされていましたか」
「していませんでしたよ。桜子さんが琉球藍染ですからと、下さったの。
 我喜屋さんは少しはお洒落を理解なさるのね。
 犬養は一週間同じ服を着ても、着飾っても、気付かない人でした」と美耶子が笑んだ。

ウツボカズラ

死とエクスタシー、死を笑い飛ばせるか。

ウツボカズラ

最後に一回きりの抑えつけていた自分の趣味を堪能する。 嗜好による死からの逃走は成功したか。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted