溶ける
ビーチで金髪男が溶けるのを目撃した男が、それを伝えようとすればするほど、周囲の人に見間違いだろうと一笑に付され、笑いものに、果ては変になったのでは疑われる。
だが一人の女性が接近してきて、それはUFOに乗った宇宙人が攫ったのだとまことしやかに説明する。
割れ鍋に綴じ蓋のコンビの騒動の物語。
何が起こっても不思議ではない
溶ける
作・三雲倫之助
一章
暑かった。
Tシャツはすぐに汗で濡れた。
金髪の日本人がグリーンと青の境目の波間で溶けた。頭から蝋燭が溶けるように消えた。
「ライフガードの人にも訴えました。一泳ぎして戻ってきて、溺れている人はいませんでした、冗談は止めて下さい、私は監視台から監視していたんですからと責任回避です。人一人の命が掛かっているんですよ。
もうとっくに死んでいますよ、二十分も経過しているんです。
『ホテル燦燦』の支配人を呼んで下さい」
駆けつけた二人の消防隊員の内一人は私、花城朔太郎は・三十四歳・与那町立与那中学英語教師の身元を聞いた。もう一人の消防士はライフガードや海水浴客にも聞いて回っていたが、誰も溺れた者を見てはなかった。通報者の思い違いである。たまに起こりうる間違いである。
それを責める消防士はいない、しかし余りにも朔太郎が言い張るので、冷静さを失い、怒鳴りつけそうになった。
ビーチの上は焼けるように暑かった。
集まった海水浴客も退き始めたが、朔太郎だけが溺れたのを見た。正確に言うと、頭の方からアイスクリームコーンのように海に溶け出したのだと言う。
「溺れたのでしょう」と隊員の一人が問い直した。
「いや、海に溶けていった」
三人の隊員は顔を見合わした。
「大勢の海水浴客の中で男が溶けた。だがあなた以外誰もそれを目撃していない。ライフガードも見てないと証言しています。
この大勢の人の中で、ただ一人の目撃者があなたです」
「こんな所で人が溶けたら、大パニックが起きます。ところが、普段通りに海水浴客が泳いでいる」
「誰にも見間違いはあるものです、それでここは納めましょう」
三人は頷き、通報者を無視して、引き返した。
朔太郎は仕方なくビーチに戻り、浜辺に坐って、先ほど金髪の男が溶けた辺りを見た。子供は浮き袋の中に入り、その母親らしき者が捕まり、ぽかっと天を見ていた。人間一人が溶けて無くなったのに、何と非情な光景かと目を疑った。その周りを見れば皆同様の有様で、恐怖が見舞った。
そのあっけらかんとした無関心さに血の気が引いた。
ビーチの喧噪が高まり、人々が遙か向こうに遠退いた思うや、一気にその波が覆い被さり、朔太郎と人々の境界を突破し、ぐるぐる目が、世界が、朔太郎が回り、液状化し、渾然一体となった。
溶ける。
朔太郎は砂浜を転がり四肢を震わせ、拳を握り締めて目を開けた。
真っ青の空に太陽が燃えていた。
人々はのどかに海と興じている。
ビーチに泳ぎに来て、二時間かそこらであの出来事は起こった。
朔太郎の向ける視線の先で金髪でありありと顔まで浮かぶのだが、見覚えのない男が溶けた。
遺体がないのは、冷静に考えれば当然のことなのだ。その男は溺れたのではなく溶けた。溶ければ海水となり、跡形もなく消える。見つかるはずがない。
誰も見てないと言うのは、どうだ。皆が目の前で起こったことを見なかった。
ここにいる人間の全てに死を望むほどに憎まれていた。たとえそうだとしても、人間が溶けるのは不自然だ、ここは塩酸のプールではない、現に人間が泳いでいる、朔太郎も泳いだ。
あの金髪の男は内側から溶けた。そのような完全犯罪の毒薬が存在するのだろうか。死体がなければ、死は確定できない、どこかで生きている。その上、誰かも分からない。
朔太郎は内側から腐って行く肉体を思い浮かべて吐き気を催した。
頭は腐らない、骨は残る。
目の当たりにした現実を現実として受け止めようと必死に思いを巡らすのだが、答えは見つからず、溜息を吐いた。
理由も分からずに男は海に溶けて消失した。
死んだ。
生々しく不吉だ。
人間一人が死んだからと大騒ぎすることではない、交通事故で毎日、便利のために毎日車で殺されている。人間死ぬのに他人が納得する理由が見つかれば悲しむには及ばないか。万人が納得する交通事故死。そんなことではない。溶けて無くなる人間は悲しみどころか、死んでも生きたままだ。いや全く知られないままだ。溶けて無くなるのを見たのは朔太郎一人だ、これから誰かと会うことはない。どう言えばいいのだ、あの男の身の上を、初めから存在しなかった人間。この文は矛盾している。存在しないものを人間と呼べるか、それに存在しないものは認識できず、知りようがない。
実に狡猾で残忍な殺人事件だ。
ばらばら殺人事件よりも残忍だ。無実を確信し、安心して殺した。
だが一人の目撃者がいたことに気付かなかった。
人が死ぬのは誰かに見られているからだ。山奥でハブに咬まれ、一人の人間が死に、腐れ、骸骨になる。情景は浮かばないが胸を掻き毟った。
そのような殺し方をする奴は冷血動物である。殺した瞬間に、殺しを忘れている。
それこそが完全な犯罪なのである。
記憶にない、自白しようがない、死体がない。
死人に口なしではない、死人はいなかった。一体、この世の中はどうなっているんだ。
ビーチは輝く太陽で目映く、海水浴客の叫び声や笑い声が聞こえた。
何もなかった、何もなかったと朔太郎は呟いて、虚ろな目で空を見上げ目を閉じると、瞼の毛細血管が鮮明に映った。赤はあの金髪の溶ける顔を思い起こさせた。もうあの男ではなく、溶けた男だった。どんどん流される浮き輪のように生々しさが遠退いて、ぽつんと男が立っていた。そして溶けて、青い海が広がっていた。
助けも求めきれずに死んだ人間を不問に付した。朔太郎の言葉に説得力がなかった。目の錯覚だった。皆の死角で男は溶けた。
どろりと顔から溶けた。一瞬にして腐った。新しい人喰いウィルスを感染させられた。
野鳥が運んでくる鳥インフルエンザ、確認されて、一挙に養鶏場五万羽の鶏が処理された。
人喰いウィルスなら、とっくに白い防護服を着た人々にここの海水浴客は捕まえられて、隔離されているはずだ。
空は青く澄んで輝いて、真昼である。
誰も金髪の男が溶けて行くのを見なかった。だが朔太郎は人が死ぬのを目撃した、殺されるのを目撃した、どちらかだが、いずれか、あやふやになる。不気味な兆しだ、不吉だ。ここで常套句「なぜ私だけが…」とは思わなかった。ジェットが頭に落ちても、朔太郎はそうは思わない。それは運だからである。偶然である、それにつべこべ言うのは自由だが、エネルギーの無駄であり、しかも気は晴れない。
頭は溶けたのではなく炸裂し、身体が一気に沈み込み、消えたのを、朔太郎は溶けたと捉えた。ホテルの屋上から発射された弾丸が金髪の男の頭に炸裂し、浜辺のスイカ割りのように砕け散った。
朔太郎はおかしな気分になった。
「私は何を人に信じてもらえるのか、私だけが誰にも何も伝えきれない、誰も私が言うことを信じない。
この世は以前のままだが、人間、人類が変わった、豹変した。だが天変地異は唐突だ、天災は忘れた頃にやってくる。だが今のケースは前代未聞の人間だけが何かXによって、変わってしまった。
だが一人だけその難を免れた私がいる。
皆が嘘を吐けば、実となる、一人だけ真実を語れば、嘘吐きになる。これが世の中だ」
二章
ビーチの一件から二週間ほどして、金曜日の午後九時に六歳の小百合を寝かしつけて、朔太郎の妻、恵子が夫に怪訝そうに、どうしたのと聞いた。
『打ち明けてみるか。夫婦は一心同体だからな。最近独り言がめっきり増えた。人間不信、そうじゃない、揺らいでいる、何だか知らないけど、心身ともに揺らいでいる。いや、そうじゃない。あれから日増しに確信が持てなくなった』
朔太郎は深く息を吸い思い切って言った。「今日、ビーチで金髪男が海に溶けるのを見た」
「あなたって、ジョークのセンスほんとにないわよね、だから幼稚園の小百合にも『パパ、ツマラナイ』と言われるのよ。もっと楽しいジョークを言いなさい、これでよく思春期の生徒を教えられるわね」
「バカか、お前は、私は本気だ、消防署にも連絡したが、隊員にも見間違いでしょうと、一蹴された。それにビーチの客も間抜けばかり、誰も、金髪の男がちょっと沖の方で溶けるのを見てない。
私が嘘つきにされた。
この年になって、オオカミが来た、オオカミが来たのオオカミ少年か」
鼻歌が止み、恵子が固まり、ぽかんと朔太郎の顔を見た。
「そうだろう、驚くよ、人間一人が溶けて、誰も知りませんでした。
法治国家を疑ったね、いや、人間性だね、触らぬ神に祟りなしって、言うだろう、見て見ぬ振り、無関心、事なかれ主義、私はこの時代の風潮に大いに疑問を感じるよ」
「あなた、それって、男の人が一人死んだってこと」
「そうだろうな、あっという間に溶けたんだ。だからライフガードの奴にも言ったんだが、影も形も見えません、それにああなた以外の目撃者もいませんと胡散臭そうに、私を見たんだ、正直者が馬鹿を見る、まさに時代の象徴的出来事、今を映す事件だった。情けない世の中だ。
教育者として、どうしたものかと苦悩するばかりだ」
恵子は開いた口が塞がらなかった、目を見張った。
「真実は一つなんだが、その一つを私一人が知っている。世の中は難しい、学校ではそうは教えないんだが、それが厳しいリアリティだ。
私は金髪男が海で溶けた事実を、自分の胸にだけ仕舞ってはおけないんだ。
真実は何人たりとも隠し通せない、それは真理だ。
真理と真実はどう違うんだ同語反復か。
真理は真理だ、真実は真実だ。
それをあのビーチの客全員が否定した。
私は花城朔太郎ではないと言われたも同然だ。実に不愉快極まりない、そのような暴挙が許されたいいのか。
彼等は白を黒と言った、今思い出しても腹が立つ」
恵子は鼓動が激しくなった。
『狂人は自分が異常だということを知らない。普通、人が海で溶けるか、疑問に思うものだ。それをしないと言うことは…。
でも学校にも行って、いつものように教えて帰ってきている。何かあれば、すぐに電話が来るだろう。
朔太郎は思い違いをしている』
「朔太郎、お熱ない、風邪気味じゃない」
「いや、健康そのものだ」
「ビーチに行った日はどうだった」
「バカだな、気分の悪い日に海水浴に行くか」『ご尤もだが、変だ、人が海で溶ける、天地がひっくり返るより怖い、いや、恐ろしい。人間の頭部が溶ける、吐き気がしてきた』
「あなた熱中症のような感じじゃなかった」
「ただ暑かった、海辺じゃなければ、我慢できないね」
『つまり、熱に浮かされたような状態だった。そこに金髪の気に障る男が出てきた、学校の先生は髪を染める男を毛嫌いする、それで、その気に食わない金髪の男の頭が溶け出した。しかし、気が咎めて、皆に救いを求めたが、取り合う者はいなかった。
そして晴れぬ罪の意識を私に打ち明けた。となると、罪の意識をそれとなく解いてやらねばならない』
「でも金髪の男が溶けても不思議はないわ。水難事故で溺死体が上がらないのはよくあることよ。
たとえ誰が何を言おうと、あなたは間違ったことをしてないわ、通報までしたんだもの、良識ある選択だわ」
「そうだろう、死体なき死者だよ。あれは熔解死、そんな単語があればだが、どろっと溶けた、それとも他殺、実に不可解だ。
怖さより驚きだ、不思議だ」
「そうよね、誰でも同じような経験すればそう思うわよ、絶対にね。
でも楽しい思い出じゃないから、忘れましょう、それがいいわ。ビール飲む」
朔太郎は自分が巻き込まれた重大な事件に対して、結末が「ビール飲む」、それが大学まで出た教師の妻が発する言葉かと、かちんと頭に来た。だが無知の者に付き合うのが教師の義務だと自分に言い聞かし、引き攣った笑顔を浮かべた。
「そうだな、一杯飲んで寝るか」
朔太郎は悲しかった。人が一人溶けて完全に地球上から抹殺されたのに、誰も関心を寄せない。ある日、誰かが完全に消える、溶けるのだ。知り合いは行方不明、失踪者としか思わない。地球上のどこかで身を隠して生きている。と暗々裏に期待して、安心している。実は溶けたのだ、或る暑い日の海の中で。私が溶けて死んだのを知らずに、失踪したと思い込む。死んだのか分からずに死んでいる、殺されている。何という無残さだろうか。死んでも死にきれぬとはまさにこのことだ。実は世の中ではそんな人がうようよしているのではないか、ただ生きてる者が知らないだけだ。なんと窒息しそうな世の中だろう。
明日からどうすればいいんだ。
『私はこの世界の極秘を知ってしまった、目撃してしまった、それは誰にも理解されない。きっと上層部が有るに違いない。日本政府か、アメリカ、ヨーロッパ…、そんなものではない、いや非現実的だ。彼はお忍びできた大物スパイだったのでは…。フィクションではない、現実を目の前に突き出されて、私は右往左往しているのだ』
三章
朔太郎は一時限目の授業を終えて職員室に戻り席に座った。周りを見渡し、向かいの国語教諭、喜屋武幸子の無造作なパーマの頭からすっぴんの顔が目に入った。
離婚して、子供なし、四十一歳である。いつもパンツにスーツである。ピンク系統で統一している。熟女の色香はない。体は細いがなぜかオリンピックの女子柔道選手を連想させる。酒豪がそう思わせるのだろうか。しかし、体格のいい人や体育系が酒好きとは限らない。限らないと言えば、限られる物がなくなるのではないか。
「花城先生、何かお話でも」と幸子はパソコンのキーを打つのを休めた。
「喜屋武先生は神を信じますか」と朔太郎は聞いた。誰も会ったことのない見えない神を信じるのなら、人間が、それも目立つ金髪が海で溶けた事実は信じられるだろう。妻は内心、馬鹿じゃないの、と思っているのは見え見えだった。それは優しか、冷たさか、分からない。妻は果たして私を愛しているのか。「ええ、信じています。これでも私はクリスチャンで、日曜日は礼拝に行く、四代目のクリスチャンて、母が言ってた。信仰に何代目もあるもんですか」と幸子は一瞬笑顔を見せた。きっと神様への帰依が醸し出す精神的オーラだ。神も仏もない花城先生が神様の話を、私に言い出してくるんだから。彼の信仰の告白、私は牧師様ではない。でも良いことだ、目覚めない者が神に目覚める。この奇妙なぞくぞく、異風に吹かれてか。
ピンク好きなスカート嫌いの×一幸子先生がクリスチャン、そんなことはクリスチャンとは無縁だ、だがイメージ、個人のイメージは防ぎようがない。新興宗教ならまだ頷けるが、虚を突かれた。兎に角誰も見たことのない神様を信じているわけだ。
「表の花壇に出ませんか」
こんなに内密な話を、何で花城先生がするの、まさか、奥様一筋のうだつが上がらない小心者が、教育者の自覚を持ってよ、男は盛りが付くと見境、規則をど忘れする。前の夫がそうだ。酔っぱらっては浮気をした。相手はソープだのキャバクラだのコスプレパブだの、セックス産業だったけど。職員同士、大胆だ。相当飢えているのかしら。
「いいですよ」と幸子は余裕の笑顔を浮かべた。
花壇を前に二人は並んで佇んだ。赤いガーベラが何本か咲いていた。幸子が一息吐き、朔太郎が深く息を吸った。
「先々週の日曜日、『ホテル燦燦』のビーチで金髪の男が海で溶けて消えて行くのを目撃したんです」
「新聞には載ってませんでしたね」と幸子は訝った。
「死体が発見されないから、消防もセーフガードも無視ですよ。ですから、記事にもならなかったのです。その陰で、一人の男が地上から完全に消え去ったのです。人権侵害ですよ、善意の第三者をどう思っているか、大いに疑問です」と朔太郎は訴えた。
『変』、溺れたのではなく、海に溶けた、人間が、金髪が、目撃者は朔太郎だけ、その他大勢の海水浴客は見てい
ない。
「男ですか、女ですか」
「男です、日本人です、二十代です」
「どのように溶けたんですか」
「プシュと音がして、そちらへ向くと、金髪の男の肩のちょっと下まで見えた。頭が少し傾いて、髪が泡立ち、上から下に流れ出して、消えて行く、あまりの光景にスローモーションのアップで見えた。ブクブク、海の水に混じって、海水になり、波になった。苦しそうな顔ではなかった、何だと戸惑いながら溶け出した。恵比寿さんの顔に見えた。圧倒的な恐怖の極みに人は笑うことを知った」
こんなに喋れたかしら、英語授業の癖で、コミュニケーション、コミュニケーションと言うには、話し下手だ。酔っている状態、お酒、飲まない、そしたら自分に、酔うだけの物は持ち合わせていない、何かに憑かれている、海で狐に憑かれる、そんな馬鹿な、水死者に憑かれた、それにしては陽気で、陰の気配がない、霊気が皆無。夏の暑さに壊れた。ずいぶん支障のない壊れ方…。でもその様な人は刺激してはいけないと報道特集のコメンテーターが言っていた。
やはり神を信じる人は、真実を見つける目がある。もし金髪が海中に溶けたのが、信じられなければ、キリストの蘇りなど信じられるわけがない、それも二千年も前のことだ、私のはわずか二週間前だ。それも人伝ではない、私のまさに目の前で起こったことを事実に即して再現している。信じる者は救われる、その有り難みがよく分かる。
「そうなんだ」と言い、幸子は二の句が継げず、目を合わせないようにして三度頷いた。
『そうなんだ』、なんと軽い同意だろう、そういうことですか、そうです。私の言った事実を認識しているとは思えない。人間一人が溶けて無くなったんです、『そうなんだ』当て違い、大誤算、過剰な期待、青天の霹靂、『そうなんだ』、塞がらない口に肩透かしを喰らった。見事な顎への一撃だった、眩暈で倒れそうになった。凹み萎えた。
「それだけです」
「一時はどうなるかと思いました」
自称芸術家ほど胡散臭い者はないが、自称クリスチャンも同様のようだ。奇跡など信じてないのだ。
「ああ、ゴキブリ」と幸子の足下を指した。
「キャアー」と雄叫びを上げて、職員室へ逃げ込んだ。
怖がられたゴキブリが迷惑だ。いもしないゴキブリに仰天するぐらいのセンスの持ち主に奇跡など信じられるわけがない、即座に失神するが関の山だ。
幸子は職員室のドアに隠れ、朔太郎を窺った。大きく溜息を吐く、屈み込んだ。
いい気なもんだ、海の中の軽い熱中症で幻でも見たんでしょう、それを「金髪が海に溶けた」。神は信じても、そう簡単に人は信じない、そうでなけれ財産丸ごと寄進して、新興宗教の餌食にされて出家するのが落ち。ゴキブリと言えば、女性は怖がると思っているの、何世代前の人間なの。素足では潰せないけど、サンダルでなら潰せるわよ。殺虫剤で殺せるのに、サンダルで殺せないの変でしょう。害虫駆除。暑くなると、変な人間があちらこちらに出没する。「神を信じますか」と言うから、福音を求めているのかと思ったら、男が溶けた、頭でも冷やしなさいよ。なぜ、そんな朔太郎の頭に「神」という言葉が浮かんだのかしら、それこそ、前代未聞。
屈み込んだ朔太郎の脳裏に溶けて行く金髪の頭がフラッシュバックした、ブクブクブク、断末魔の声、ブクブクブク、死んだ、消えた、一人の人間が抹殺されたが、何事も起こらなかった。金髪の全てが済んだ。その様なことが許される世界に非情を覚えた。
そこへ山入端元助教頭が遣ってきて、一言言った。
「花城先生、君はいつからファーブルになったのかね」
「ちょっと休んでいるだけです」
私のファーブルはどこへ行ったのか、英語教師でアメリカンジョークを解しないとは、英語を書けても話せない子供たちが増えるわけだ、まずは教師から変われだ。だが花城先生には荷が重い。
「イッツファイン、トゥデイ、イズントゥイットゥ」と教頭は詩らしき物を口ずさみながら離れていった。
あれで英会話は得意だと思っている、アメリカンバーに通い詰めているらしい。中でも一メートル八十で胸と尻が大きなスーザンに入れ揚げているとのことだ。彼女達は日常会話程度なら日本語を話せる。教頭の連れとのひそひそ話からデタラメな英語を推測して、話をしているのだ。それで英語でコミュニケーションしていると思っている。その国際交流から沖縄の英語教育を嘆いている実に幸せな教育者だ。それに英会話スクールに行く金を浮かすために、教頭の頻繁の英語授業参観は、英語教諭らの顰蹙を買っている。
四章
中城(なかぐすく)湾に陽炎で揺れるオレンジ色の日が上がった。埋め立ての東新区の歩道をジャージ姿の元気な婆さんや爺さんがウォーキングをしている。足腰が丈夫なのが健康の秘訣であり、自由に出歩けることを保証していることを身に染みて理解している一群である。ベッドに縛り付けられる仲間を見舞っては、思っては、つくづく考えることである。
その中に混じり、下腹と太股の贅肉に脅かされて、散歩を始めたのが日の出建設の社長夫人、平良末子、六十歳でUVカットの可動式のフェイスバイザーを被っている。同伴しているのは朔太郎の妻、恵子である、二人は海に向いたベンチに坐り、首に巻いたタオルで汗を拭きながら、フェイスバイザーを越しに会話を始めた、無論顔は互いに見えないが、紫外線は互いの肌の外敵なので気にはしない。
「運玉森にUFOが出たのよ、お皿型じゃなくて、葉巻型だった。ピュッと光ったら一瞬に南へ、南へ移動して、消えた。
その前はここで夕方頃、犬の散歩をしていたら、お皿型のが回転しながら飛行していた。オレンジのライトが点滅してたわ、きっと光のモールス信号ね。私はもしかしたら祖先は宇宙人か知れない。キリストも宇宙人よ、天に昇って、また降りてきたのよ、復活よ。インカ文明も宇宙人が移住してきて、また別の星に旅立ったのよ。そうなるとタンカーより巨大な葉巻型のUFOの船団で大移動したのよ。地球版がノアの箱船ね」末子は熱く語る。
熱くなるのには理由がある。恵子だけが真面目に聞くからである。その他は冷たい笑みを殺した顔で聞いている。聞かれている方にもその見下した冷気が伝わってくる。酷いのになると「このお話は私だけにして下さいね」と優しく念を押す人もいる。
はっきり言って、恵子もUFOを理解しているかは分からないが、広い宇宙で地球よりも高度な知能を生命体がいても、おかしくはないとの見解の一致がある。人間が飛行機に乗るのに地球外知的生命体が飛行物体に乗っていたとして不思議ではない、理路整然としている。恵子さんは女子短大出だが、与那町ではハイレベルな話のできる極めて数少ない人物の一人である。天下国家の政治の話をしている酒飲みの酔っ払い男達とはレベルが違うのである。彼等は崇高だと酒と己に酔えばいいのである。自己満足である。後は仕事仕事と言っては威張り、給料貰っているから当然でしょう。ボランティアではないのだから。週末の朝は早くから起きて、ゴルフ場へ、全く馬鹿の付くほど似たような習性を持つ従業員に経営者である。嗜みのない人々である。 昨年の母の日、「沖縄を歌う夕べ・伊波真吉の民謡ライブ」で恵子のたまたま隣に坐ったのが、末子であった。紫のワンピースに大きな真珠のネックレスをしていた。公民館に盛装で来る人も珍しいが、高価なことが一目瞭然で、一人だけ浮いていた。
幕間に末子が言った。
「あなたシンディーローパーは好き」
「はい、好きです。マドンナよりずっと好きです」と言ったものの、民謡ライブでシンディは懸け離れているような、寿司を食べに行って神戸牛はお好きと言われたようなものだ。だが気にはならなかった、退屈だったからである。
一体、この奥様はどこのお金持ち、オペラでも聞きに来る出で立ちだ。それで弾けて跳んでいるシンディーローパー、ファニーフェイスだが魅力のある顔だ、とくに白い肌に真っ赤なルージュを塗った唇がいい。この人、TPO音痴じゃないの、明るくどこか抜けている。そこがシンディーローパーに通じているのかも。身に付けている物の全てが豪華、それが場違いだ。宝飾、服、靴と国産の普通乗用車三台分を身に纏っている。冠婚葬祭以外はいつもジャージの私には立ち暗みのしそうな贅沢品であった。
「『ガールズジャストウォナハブファン』がお気に入り、まさしくシンディなのよ。黄色に髪を染めての赤いハットに、白い肌の背中、セクシー、キュート、エキサイティング、ホッティストなのよ」そしてハイヒールを見せた。右が赤で左が黒だった。
「シンディはバスケットシューズの黒と白をライブで履いてたわ」
それが私の拘り、ちょっとした違い、意外性を取り入れる、マイファッションの嗜み、ただのブランド好きとは違うのよ、保守的な自民党の夫ではなく、ここは那覇市だったら、髪を紫に染める、夫の時計はロレックス、車はベンツ、誰もが認めるブランドしか眼中にない、因みにイタリアの高級車は格好はいいが故障するのでブランドとは認めない。マニアックなのだと言う。スニーカーはナイキよりミズノである。
ブランドで遊ぶ、リッチな感覚、お金持ちの感性、違う、ただの変わり者だ、いつも白タイツ姿でテレビに出る女社長がいた。しかし、あれほどの灰汁はない。少しは洗練されている。だが公民館には不適当である。
「よいアイデアです、素敵です」、それ以上の言葉を、恵子は探し出せなかった。
そのようなことで顔見知りになり、とある日道で出会ったら、親しくなっていた。そこで朝のウォーキングをご一緒にとなり、二つ買うと安い通販のサンバイザー、ジャージ、服やらを恵子に良ければどうぞと差し出した。無論、恵子は金持ちから貰うことに躊躇はなかった、見栄でそしているのではない。主人の会社、日の出建設は県下で五本の指に入る建設会社であることも知った。それは与那町では誰もが知っていた。それからは末子が若い時に着たというブランドの服も遠慮無く頂いた。実際は末子がデパートの雰囲気、光線、店員、雰囲気などでは気に入っていたのだが、家で着ると見栄えがしない代物である。家に置くのが嫌で、恵子へ流れるようになった。
末子は服のセンスが悪いのではない、ファッションモデルのように目は肥えて、普通の色やデザインの服はしっくりこない。だが要望に応える服は、一般の要望から遙かに懸け離れていた。東京、上海、パリ、ロンドンなら受け付けるが、与那町にはそのような素地などない。
「そうですね」「そう」「仰るとおり」「はい、はい」とUFOを延々と語る末子に恵子は見事なタイミングで合いの手を入れる、末子は段々と調子は良くなっていき、公衆の面前で演説するかのような高揚感が訪れる。
宇宙人はいると思う、だがこの果てしないと思われる宇宙で、宇宙船が地球に遭遇する確率は天文学的に低い、沖縄の一匹の蟻でもブラジルのサンパウロまで行き着くだろうか、無理である。それより遠いのだ。しかし、宇宙船だから、可能か。宇宙人が鳥のように飛んでくるのではない。確率は低くても当たりは出る。年末ジャンボがワンユニット一千万枚で、一等二億円が一枚である、一千万分の一、それでも二億円を手にする人が一人はいる。一千万回買ったわけではない。そう考えれば、UFOが地球上に現れると言われても、不思議ではない。そのようなことではなく、ファンタジーでいいではないかと思う、正誤の問題ではない、感性なのである。お伽噺を嘘つきだと笑う人はない。花は美しい。まともな答えである。だが生殖器の花が美しいわけがないと主張するのは少数の変人である。
二人はフェイスバイザーを上げて、手にしたペットボトルのミネラルウォーターを飲み、顔を合わせて笑い、ガードを下ろした。ちょっとの紫外線に油断はしない、肌年齢の若さを保つ秘訣である。
五章
恵比寿通りは寂れている、シャッター通りのようなものである。今では個人商店は消え、殆どの人が会社勤めか、公務員である。そこで人通りもない。できたのは国道沿いのコンビニに、スパーマーケットである。
その恵比寿通りに昔と変わらず店を構えているのが「仏具の奥山」である。
与那町で、沖縄で昔から変わらぬ物、祖先崇拝と琉球民謡である。だから仏具屋は生き残った。あの世は誰もが行く場所であり、その入り口が仏壇である。
「幸子じゃないの」
「末子姉さん、どうしたの」
「板御香(イタウコウ)を買ってきたの」
「姉さん、いつもオシャレして、どこから見ても、すぐ分かるよ、シャネルの黄色のスーツにタイトスカートにワインレッドのパンプス。こんなにオシャレして、疲れないですか、何時間掛けてるの」と幸子は従姉ながら呆れた様子で全身を窺った。
いつもズボンしか穿かないこの子はどうしたかしら。キリスト様と結婚しましたととんでもないことを言う。離婚したらからって、そこまで凹む必要があるのか。どうも悲劇のヒロインになってるらしい。そうでなければ、離婚と同時に教会に熱心に通い始めるものですか。癒されたんでしょう。
「オシャレを楽しみなさい、いい男も逃げるよ、結婚しなくても、ボーイフレンドはいないと、いい事ないわよ。何の楽しみで、生きているの」
迷える子羊を救い給えと幸子は十字を切った。
「誘惑を遠ざけた給えとでも祈ったの。あなた、裸に初めて服を着たのはイブよ、無花果の葉っぱであそこを隠したの、その子孫で、しかも女性よ、私達は」
理解がある上に金持ちのご主人、お金は使い放題、家政婦さん二人、暇の有りすぎ、世俗に塗れて、真理を見失っている。悪意有る誤読を許し給え。このハブの舌を持つ女を、神よ、どうか信仰へとお導き下さい。
末子には幸子が宇宙人よりも不可解に見えた。キリストは宇宙人だと言ったら、幸子は腰を抜かすだろう。末子のような思考の柔らかさがない、昔は夫しか目に入らなかったが、今はキリストしか目に入らない。俗言う重たいのである。キリストは神だから耐えられるが、人間の男には耐えられない、苦痛となる。
夫は好きな女が出来たから別れると、言ったが、それは優しさで、実は幸子の重さ、独占欲に耐えられなかったのだ。そのストレスは夜のネオン街で晴らすしかなかったが、それでも無駄と悟った。残ったのは離婚の二文字だった。
「一緒に、教会に行くねー」
「教会の話ではないでしょう。もっとオシャレをしなさい、一人で年寄りになるか。神様は体をさすってはくれないでしょう」
「もう姉さんは男の話ばかりして、そんなに男はいいねー」と幸子は呆れ果てた。
肉欲に溺れている、快不快で、快を求めるのは当然だ。だがそれが一方的に男の肉体から与えられるのが問題なのだ。一個の独立した人間として存在しにくくなる。快楽はアヘンだ、いあや、快楽のためにアヘンを吸うのか。兎に角、末子従姉は肉欲依存症で悪びれることもなく、堂々と雄の孔雀の羽の広げるように着飾って闊歩している。それが悪徳でなくて、何だろうか。自覚もないのが重傷の証拠だ。有れば、このように無駄に着飾りはしないだろう。それも善良な町民の前でだ、ここは東京の原宿や渋谷ではない。不作法だ。不愉快だ。
「幸子、この世は男と女だけよー、男を気にしないで、誰気にするねー、お巡りさんを気にするのは痴漢でしょう」
どうして末子従姉がお茶の水女子大出なのか分からない、それこそ無用の長物だ、豚に真珠だ、猫に小判だ。名門女子大、それもブランドの一つで入ったのかも知れない。悔しいが、私は一生懸命勉強してその女子大を落ちた。きっと頭が良すぎて馬鹿なのだと思う。だからいつも着飾って、町を歩けるのだ。
「姉さんとはもう話はできない、又ねー」
「待ちなさい、すぐ逃げる、あんたは」
「何で私が逃げる」
「短気は損気。教育者が話し合いを嫌うか」「姉さん、話は済んだでしょう」
「済んだのは、あんただけでしょう。あんたは世間話というのも知らないか。色々とあるでしょう、与那町では何も起こってないの、生活してないの」
幸子は一々最もなので怒りが込み上げてきたが、反発する言葉が出なかった。「この糞野郎」と思った。だがそんな言葉を出せば、縁が切れる。幼い時は可愛がって貰った姉さんだった。それでも許せない何かがあった。だがその何かには思い至らなかった。腹が立ったので一番馬鹿らしい話をしようと思い立った。
「姉さん、PTA会長もしていたから、花城先生、英語の先生知ってるでしょう」
「知ってる、奥様の恵子さんとはお友達で、一緒にウォーキングしているわ。見かけたことはあるけど、知り合いではないわ」
「ホテル燦燦のビーチで金髪の男が銃声がしたかと思うと、溶けたんですって、それを花城先生は目撃したんですって」と幸子は笑った。だが、結果は裏目に出た。
「人間一人が一発の銃声と共に溶けた、これは重大なことですよ。それでどうなったの」
何で喰い付いてくるの、逆でしょう。
「それで消防とライフガードに連絡しただけど、花城先生を除いては人集りのビーチで目撃者はいなかった。海には何も遺留物はなかった。見間違いで決着したらしいけど、人騒がせにも程があるわ」
「あなた、人一人を完全に消す、溶かす意味を知っているの、それは恐怖よ。今、あなたが目の前で溶けて液体になり、蒸発する。目撃者は私一人、警察に通報する。きっと勘違いでしょう、錯覚でしょう、もっと主張すれば、病院を紹介される。何の病院課は知っているでしょう」
何でしょう、この真剣な響き。見間違い、思い違い、勘違いでしょう。このまともな驚きが嫌だ。隣の爺さんが撥ねられたとい言われるよりも、吃驚して、馬鹿馬鹿しい、神経を疑いたくなる。それとも馬鹿にしている。その様に陰険な繊細さは持ち合わせてない。 話はして見るもの、幸子からビッグニュースが聞けるなんて、今年はいい年で終わる、ラッキーだ。神様の話ばかりしないで、こう言うのも話せたら、男も寄ってくるのよ。自分は何も努力しないで、化粧も、オシャレもしない、その上に会話も教会並、それで寄ってくる男の顔を拝みたいぐらい、それこそ、救世主だ。そんなに顔も悪くないのに、男に振り向かれないのは、自己責任、他人のせいじゃない、いつもズボンばかりの、女性が持てますか、持てないようにしている、その挙げ句、教会詣でが始まった。思えば寂しい女だ。昼メロの世界だ。
「姉さんは金髪男が海で溶けていなくなったと信じているの。誰も花城先生を信じなかった。当然でしょう、花城先生が一人いるだけだからよ。まだジョーズに飲み込まれたと言った方が、信頼できる」
「誰も見てないから、事件は起こってない。完全犯罪ね、でも一人だけに見られてしまった。誰も彼を信じない。悩む真面目な男は好奇の目に晒されるだけ、男は笑い物よ。でも目撃談をした、苦しいわね、誰も信じないんだから」
何が苦しいの、見間違いで終わりです。それを見た見たと言う神経の方がどうにかしている。夢をいつまでも現実と思うのは、おかしいでしょう。わがままな子と同じでしょう。とてもじゃないけど、付き合えないわ。まあ。変人の末子姉さんにはまともでしょうけど。類は友を呼ぶだ。二人が話しているのを想像したら、背筋が凍るわよ。人間が溶けたのを真剣に話し合うのだから。
「姉さん、焦らないで、近い内に花城先生に紹介するわ。それからビーチの事件にとても興味を持ってたと伝えるから。
又ね」と幸子はすぐに踵を返し、そそくさと立ち去った。
六章
校長室には机が入り口の正面にあり、ソファが縦に向かい合って置かれている。
花城朔太郎は朝礼が終わると校長室に行き、椅子に坐った我喜屋誠校長に一礼し、前に進み出た。
「君、小説はいいけど、作り話は行けないよ。いいかい、フィクションはどんな嘘でもいいという条件がある。だが世間話でそれを実行すればデマになる。特に教師が作り話をしてはいけない。本当だと信じ込む人もいるからね。口は災いの元だ」
何だ、ソフトに言ってやれば、何も分からないのか、デリカシーがない。鈍感だ。だから人が死んだ作り話までするのだ。いい青年だがな、なんで人が溶けて死なないと気が済まないんだ。世の中に恨みはなさそうだし、夫婦仲も良い。どこで転んだかだ。人の上に立つのは心労が多い。
「何のご用件でしょうか」
「君、それぐらい察しないと出世しないよ。君、殺人現場を見たと言い触らしているんでしょう。新聞に載らない、殺人事件をなぜ君が分かるんだ。君は捜査第一課強行犯係の刑事かね。どう考えても、良識のある人にはおかしいだろう」
「見たんです。海でプシュとなったら、金髪の男の頭からブクブク溶け出したんです。義務ですから、消防署に通知しました。誤認識でしょうの一言です。やはり一一〇番すべきでしたか」
「君、何を暢気に考えているんだ。男の全てが水の泡でしょう、どうやって殺人を立証するんだ、科捜研が海の水の分析をするか、どれだけやればいいんだ、海の水に、コップ一杯、ドラム缶一杯か。死体がなければ、殺人は成立しないんだ。死体から捜査が始まるんだ。それとも君は行方不明者の課億写真のリストを全部見るきかね。見たいなら、休暇届を出すことだ。そこまでせずに殺人事件だと大騒ぎする権利は君にはない。もっと身を捨てて掛かるべき物なのだ。
群衆のいる海の中で殺人は一発の弾丸が頭部に当たり、人体の溶解が始まった。ブクブク溶け出した人間、相当なPTSD、心的外傷後ストレス障害を被るだろう。だがこの一月、君の行動言動を注意深く観察していたが、全く持って健康、表彰したいぐらいだ。とても悩みがあるようには、何かを背負っているようには見えない。
殺人は密室を持って究極とする、それが『金科玉条なんだ、それを何だ、大勢の海水浴客のいる海で殺され、目撃者は一人で、遺体は溶けた。
五キロ先のホテル燦燦の一室からライフルで一人の男を狙撃した。
人間を溶かす弾丸か、そのような小さな物質で人間一人を溶かせるか、塩酸のプールでなら可能かも知れないが。被害者ただ一人で、塩酸の痕跡もない、それに近くにいた君はピンピンしているしね。
溶ける臭いはしたのかね」
「しませんでした、海ですから。見て見ぬ振りは教師としてして、又は一人の人間の尊厳としてできません」
「ご尤も。死体無き殺人は君一人の頭の中だけにある。普通の人間が溶けて行く人間を余りに惨く凝視できるとは思いませんが」
「目にしたら、動けなかったのです」
「今、ありありとその時に姿を思い浮かべて下さい」
「いいですよ」と朔太郎は校長を見た。
金髪の男がブクブク溶け出した光景が浮かんだが、過去のテレビ番組を見ているようにリアリティがなかった。作り物の安心があった。一発の弾丸で人間が溶ける。新兵器かも知れない。でもわざわざ海水浴場を選ぶか。山の中でウサギでも鹿でも、豚でも鶏でも撃てばいいだけだ。成功か失敗は分かるはずだ。しかし、これは一般論だ。殺人兵器を作る人間に、使用する人間に通常の感情移入をして、精神のバランスを保とうとするのは間違いだ。彼は殺人者なのだ。被害者と加害者に利害関係はなかったかも知れない。たまたま金髪が照準器に入ったから、見舞った。私でもよかったのか。そんな馬鹿な。だが通常とは違う思考の人間なら、有り得る、何でも有りなのだ。
「何も苦しそうじゃないな。そうたいした悲惨でもなかったわけだ。その程度なら一時的誤認識だ。警察の手を煩わせるまでもない。いいか、今後、弾丸に打たれた金髪が海で溶けたなどと人前で言わないことだ。どうしても言いたいのなら、奥さんの前だけにしなさい。無用に風気秩序を紊乱(びんらん)するからだ。それに君、生徒の耳にでも入ってみたまえ、納得するように説明できるのか。学校のトイレのお化けと同じじゃないか。言うだろうな、僕は確かに見たんです。それを間違ってないと押し通すと、普通教師は彼を虚言癖があると見なす。
君は虚言癖のある教師と、同僚に、生徒達に思われたいのかね」
脅しですか、ガリレオのように異端審問で、渋々天動説を認めさせる、見なかったことにする、何もなかったことにする、いいですよ、それで、『それでも地球は回っている』。見たものは見た、そうとしか言いようがない。荒唐無稽だが、私はまさにそれを見た。喉に刺さった小骨のように無視できない。いくら説明しようと足掻いても、誰も納得はしない。好奇な目で見られるだけだ。校長の言うように、波風立てるなか。密室と全く逆だから、校長は苛立ってるのか、意味が分からない。「今後慎みます」
「それでいい。いいか、ミステリーはトリックが説明できてこその事件成立だ。君は事件すら起こしてないのに、事件、事件と言い立てるから、間違っているんだ。万が一、納得するようなトリックを見つけたら、まず私に知らせてくれ、いいかね。校長としての管理能力が与那町教育委員会に問われるからね」
「モルグ街の殺人」、煙突に突っ込まれた娘の死体、窓から投げ捨てられた母の死体、滅茶苦茶にされた部屋、獣の毛。
この異様な事件をデュパンは分析的に解決する。それも可能なのは、死体が二つ有り現場が有ったから、推理できたのだ。犯人は人間ではなく、船員の連れてきたオランウータンだった。これこそ、ミステリーの祖、畏怖すべき作家、エドガー・アラン・ポーの作である。無論、日本のミステリー大御所・江戸川乱歩も彼に因んで付けた筆名だ。しかし、いかにエドガー・アラン・ポーでも江戸川乱歩でも、海の上に連れて行かれ、ここで人一人が溶けて死にました。推理して下さい言われても、推理しようがない。見渡す限りの海をどう分析するのだ。
それはいかに花城朔太郎の話に無理があるか、証明である。誤認識、困ったものだ。彼には合理性が欠けているのだろうか。いずれにしても困る。そういう性格、人格をどういう風に矯正するのか、又矯正されるものか、疑問だ。
朔太郎は頭をちょこんと下げて、校長室を出て、背伸びをし、溜息を吐いた。そこへ授業を終えたピンクのパンツルックの幸子がやってきた。
「校長の訓辞はどうでした」
「臭いものには蓋です」
藪蛇、金髪が溶けた、こんな話、なぜ私にしたのかしら。触らぬ神に祟りなし。
「そうですか、余りに気にしなくていいですよ。職員を叱るのが校長ですから」
「何言ってるんですか、言論の自由の弾圧ですよ」
そこまでは思ってはいないが、口から出てしまった。勢いだから、叱られたに過剰反応だ、そのような言葉は生徒や子供に使うべきだ、私はどうしても大人にその言葉を使うのか、感性を疑う。でもピンクが好きで、ズボンしか穿かない幸子先生だからな。それとは関係ないだろうが、それを思い起こさせる。
流言蜚語の流布を窘めたんでしょう、言論弾圧は逆恨みだわ、百人が百人、そう言うわ、男にヒステリー、女のヒステリーもセクシャルハラスメントだが、ジェンダーの問題か。いつもこうなのよ、朔太郎と話すとこんがらがるのよ。話に節操がないのよ。これでよく英語を教えているわ、でも「これは机です」、を英語で言うだけだから、どうにでもなるか。それにアメリカ人ならガキでも英語を話すんだから。深みはない。生活に困らない程度の日常会話では教師はやっていけない。そこまではないが、朔太郎は思考のどこかが抜けてるか、ずれているに違いない。
まずいな、誰にでも話す、内緒話を知らない人だ。金髪事件もきっと幸子先生が発信元で回り回って校長の耳に入った。悪気はないから手に負えない、言っても、秘密を守るのは悪い事だと思っている。悪事なのである。どう思っても、人の口には戸は立てられぬ、言った私が悪い。
同僚だから、親身にならないと、でも思い違いを本気にしろ言うのが無理な話でしょう、でもお付き合い、お付き合い、和をもってたっとしとなすか、聖徳太子だったかな。
七章
先週の日曜日に、酒を飲んで道路で眠ってしまった新垣吾郎・十八歳が撥ねられて死んだ。葬儀に出たのは遠い昔のようだ。
人は死ぬ、一人の人間が溶けて死んだ。誰も彼の名を知らない。容貌ももう全く分からない。怖かったのかも分からない。金髪が海中で溶けた。ただそれだけ。もしかしたら沈んでいったのか、それなら消防隊が見つけたはずだ。水死体が発見されたという報道もない。誰か一人が確実に目の前で溶けた、死んだと言っても間違いはないだろう。人が溶けたら死ぬのは明白だ、焼けても死ぬのだから。一体、目の前で起こってしまった事を否定する事などできるだろうか。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ではない。真夏の真昼の海で起こった事件だ。遮るものはなかった、視界良好、突然金髪が溶けてしまった。誰も信じてくれないから、記憶の箱に片付けられない。新垣吾郎はすでに故人となっている。周知だからだろう。
自分に嘘は付けない。見たという事実は動かしがたい。ええ、見ませんでしたと校長に言っても、心では見たと思っている。世の中がまどろっこしくなってきた。なにかぼやけた様な、怠い様な、ぴんと来なくなった。
結婚詐欺師は本当に相手を愛している思い込み、お金を貢がせ、消えるそうだが、警察に捕まっても、本当に愛していたと、詐欺を否定すると言う。詰まり、自分を騙し切れなければ、一流の詐欺師ではない。彼の言葉に嘘はない。それは「私は海で金髪が溶けた」と自分を騙している、誤認識している自分に気付かない、詐欺師と同じだ。それも一理有るが釈然としない。
「嘘吐きが私は嘘を言わない」と言った、嘘吐きのパラドックスに陥ってしまう。
災難だ、突然の不幸に見舞われた最も一般的反応、「何で私が…」、他人なら良いと言う事か。仕方がない、だから災難なんだ。人を選ぶ災難など聞いた例しがない。
しかし黒い猫を見て、黒い猫だと私は疑わない。疑えば切りがない、青信号ですか、ここは与那町ですかなどと、一々尋ねて、賛同を得なければならない、これでは生きていけるはずがない。白は白だと皆も自分で決めているはずだ。そうでなければ、車の運転などできはしない、右か左かどちっがどっちだか一人では分からないからだ。一事が万事で、物事は、行動は前に進まない。これは黒だと決める根拠は個人に備わっていなければ、独立など有りはしない。しかし、分からない者が幾ら集まっても、分かるにはならず、分からないのだ。それでも、皆分からないから、安心感はある。しかし、金髪事件は私だけが分かって、他人は金輪際分からない。物的証拠、私以外の証人もいないからだ。説明すればするほど、口を慎めなどのようなサインを送る。居た堪れない。孤独などと文学上の用語が我が身に降りかかった。「咳をしても一人」の尾崎放哉のようだ。
「何を言っても一人」
でも何が好きで、こんな事に大切な時間を奪われているのだろう。人は人、私は私でしょう。人が一人死んだからと、一部の人が悲しむだけでしょう、毎日新聞の黒枠にはたくさん載っているのだから。金髪が死んだ、あら、そう、で終わる話でしょう。近所の爺さんが死んだって、それは残念ね。死んだにそれは残念、ただそれだけの事だ、ちょっとした悲しみは一瞬過ぎるだけか、何とも思わない、所詮他人だもの。
それから、妻が「ミステリーのトリックを解く」を買い、ミステリーの類の小説を町立図書館から借り出して、何冊も読み始めていた。夫の不幸さえ楽しみに変えてしまう妻、何と不謹慎だろう。
妻が私を尋問した、敏腕刑事にでもなった積もりだろう。本当に底が浅い。
金髪が殺された。見たの。
見た。海で溶けて消えた。
どうして殺されたの。
容疑者にしか分からない。
捕まったの、死体がないから、事件にならないんだ。
そう、それでいいんじゃない、殺人者、氏名年齢性別不明、海外逃亡、死亡者同じく、氏名年齢性別不明、遺体無し、有るのは海の大量の水。目撃者はあなただけ。もう一つあなたが口にしなかった事がある。目撃者と殺人者は同一犯。このケースではそれしか選択肢がありません。犯人は詰まり、あなたよ。消防隊員だったから、見間違いで済ませた。
警察だったら、私が犯人扱いにされていた。可能性は有るが、それは冤罪だ。
あら、もう一つ、浮かんだ。ホテル燦燦のビーチであなたは溺れかけた。その時、金髪、光る波の色、がブクブク溶け出したのを見た。消える金髪は溺れるあなた自身の入れ替えだったの、パニクっていたのよ。溺死寸前から脱出したあなたはそんな事とは知らず、殺人現場を見たと信じ込み通報した。これが事件の真相よ。これでどうして警察じゃなく、消防を呼んだか、分かるでしょう。金髪は、あなたは溺れたから、事件ではなく水難事故だった。
何かしら、筋が通っているようで、通ってない。どんな事件の目撃者でも、その時正気ではなかったと言われたら、全て証拠とはならない。何でもかんでも精神鑑定か。私は溺れていなかった。それを間違いだという、それをどう否定すればいいの、私は正気じゃなかったと言われたら。君は正気じゃなかった、丸ごと人格を否定する。無神経だ。
又、別の推理が浮かんだ。
あなたは溺れていた。それを見た金髪の男が助けようとして、あなたに抱き付かれて、逆に金髪の方が沈んで、あなたは浮かんだ。落ち着いて見渡すと、金髪はどこにも見えない。あなたは自責の念で、違う話を無意識に自分の記憶に入れ込んだ。ピュッと音がして、金髪は溶け出して、海の藻屑となった。無論、溺れた者を救おうとして、逆に溺死する人はいる。このケースでもあなたは犯罪者ではない。だが自分だけが助かった罪の意識にあなたは耐えられなかった。
この件に関する私の意見は以上です。もう金髪の話は私の前でしないでね。私には話す事がないんですから。
私も妻に相談する気はない。デリカシーを必要する会話が性格上できない。鈍感、大らかとも言う。
「神が死んだ」とニーチェが言って、ヨーロッパが大騒ぎした。おかしい、もともといない神が死にますか、想像上の麒麟が死んだと言いますか。私は生きていた金髪が溶けて死んだと言ったら、妻にまで正気じゃなかったと言われる始末、立つ瀬がない。
しかし、日ごとに印象は薄れ、金髪・溶ける・死んだになった。だが死という負のイメージが全くなくなっている。夏目漱石は死んでいる、その程度の死だ。去る者日々に疎(うと)しと言うけれど、諺というのは的を射ているものだと頷いた。だが、自分が信じられなくて世の中が成立するのか。見るもの聞くもの触るもの臭うもの、全てが虚構だとしたら、他人と意思の疎通などできるはずもなく、独り、絶対孤独、絶対零度のような絶対、をあじわうのだ。詰まり、私は人間でありながら、動物のような存在になってしまうが、私は人間としての自意識はある。まさに苦痛の極みだ。すぐに死にたくなるのは目に見えている。誰がそのような状況で、生など全うできるものではない。
しかし、金髪を目撃しただけで、ここまで考えさせられるのは大いに迷惑だ。でも、諦めるしかないよな…、考えるのは自分だから。
八章
白いジャジーの上下に黒いフェイスバイザーを被った女二人、朔太郎の妻・恵子と日の出建設・社長夫人の末子が中城湾沿いの東新区をウォーキングしている。そしていつものベンチで休憩し、水分補給をする。フェイスバイザー越しなので互いに顔は見えないが、何かしらいつも笑顔のように思えるのである。たがいにウォーキングで素顔を見る事は希である。紫外線対策のためにフェイスガードを上げるのを極力避けるためである。無論、美顔のためである。人間で最も露出するのは顔であり、そこが美しさの殆どである。後はスリムである事、肥満は論外である。
恵子の夫はあの金髪事件の当事者だ。事件は当事者から聞かないと尾鰭が付いて、とんでもない話になっている。特にショッキングな事件はそうだ。人間が溶けたのだ。その時点で世間の人は目撃者の精神を疑う。そんな馬鹿なである。そういう奴が馬鹿なのである。世の中が不思議に満ちている事を浅知恵で否定している。
与那国島沖の海底遺跡だって、超古代文明の遺跡だ。自然があそこまで岩をカットし、並べられるわけがない。自然現象、偶然が成した業だというが、余りに人工的すぎる。写真を見れば一目瞭然だ。なぜ否定するか、文献がないからである。文献以前の文明はあった。それがまさしく海底遺跡である。文献と言うが、邪馬台国は二千字程度の魏志倭人伝に載っているだけで、他に記述はない。ただそれだけで、卑弥呼云々、九州説や機内説を侃々諤々の論争である。ところが超古代文明となるとアカデミックの蚊帳の外である。考古学のように恐竜の歯一本に驚くぐらいの情熱を超古代文明に持って欲しいものである。
「恵子さんのご主人、事件に遭われたんですって」
隣近所に付き合いのないハイソの末子さんの耳まで入るなんて、相当な噂になっている、なんて恥ずかしい事なんでしょう、穴があったら入りたいぐらい。フェイスバイザーで顔が真っ赤になっているのが気付かれない分だけ、末子さんの怪訝そうな顔が見えない分だけ救われる。朔太郎の馬鹿、場所を弁えず、喋り散らかしているのだ。真面目な馬鹿ほど手に負えないものだ。真実を伝える新聞記者にでもなった使命感だろう、言論の自由、報道の自由、英語の教師だけにアメリカかぶれしているのか、「自由」が好きなのだ。
「私は信用していませんけど、朔太郎は勘違いしているのに、気付かないんです。それを話し回って、言い笑い種です」
朔太郎さんもお気の毒、でも一番身近な人は信じないのが常、普通にいつも一緒にいるから、天変地異など信じない、波風立てず穏やかに、それが夫婦に常。でもUFOの事も聞いてはくれるし、理解はある方よね。他人だから聞いていられるのかしら、身内だったら絶対認めない、内の亭主のように。『冗談は程々にしておけよ』何様の積もりなのよ。
「私は旦那さんが仰る事も一理有ると思う。実際目の当たりにしたものを、みんなで寄って集って否定するのはフェアーじゃないと思いますよ。周囲には火の気がないのに、人間が突然燃えて灰になる事も有るんです。人体自然発火です。色々な説はあるけど、原因はまだ特定できてない。
与那町民はその様な事を理解しようとしない、自分の理解を少しでも超えようものなら、変人扱いですよ。考え方が実に閉鎖的です」
困った、末子さんは不思議な事が好きなのだ。人体が自然発火するのなら、人間が自然溶解する事を否定はできない。燃えるのなら、溶ける事だって有るでしょう。そう言われれば、そうだ。しかし、こんなのをどんどん信じていったら歯止めが効かなくて、何でも有りの無法状態になるだろう。例外は作らないに超したことはない。朔太郎は頭が固い、柔軟考えの末子さんと馬が合うとは思えない。会わせたくはない。だが人間が溶けるに、思わぬ展開だ。物好きな擁護者が現れた。
「末子さんはどうしたいのですか」
難しい問題は単刀直入に聞いた方がいい、変に気を遣うとややこしい事になり、話が拗れて互いに気まずくなっては元も子もない。
「お話がしてみたいわ、恵子さんがお嫌でなければ」
はっきり言わないと、誤解を招く、躊躇うと、恵子の夫に気があるのではと疑われては、破廉恥な女と思われかねない。無論、これは最悪シナリオだが、よき司令官は常に戦いにおいて最悪のシナリオも考えるものだ。些細な事で駄目になるのが、女同士の付き合いだ。癇に障れば、どうであれ、言った人が悪い。この年で他人の旦那に会いたいとは、傍目には何事だろうと思うだろう。だが噂を聞いた以上、本人から聞きたくて聞きたくて、うずうずしていたのだが、今日やっと打ち明ける事ができたのだ。胸の閊えが下りて、すきっとした。
「末子さん、生真面目な変人です、いいですか。会って、気分を害しても、私とはこれまで通りお付き合いして下さいよ。それでも宜しければ、結構です」
やはり、朔太郎は取扱注意人物だから、大事な人には前もって伝えないと、私までいざこざの巻き添えにされては堪らない。朔太郎は朔太郎、私は私の一線を引いておくべきだ。
確かに、知り合いの夫と会いたいなどと、いかに社長夫人の末子でも気が引ける。だがそれより勝る好奇心がある。UFOとの関係だ。ホテル燦燦の海はUFOポイントとして仲間内では知られている。そこで人間が溶けた、食指が動かないはずはない。末子の頭の中では未知のロマンがふつふつと沸き起こり、止め処なかった。千載一遇のチャンスであった。できるなら、朔太郎とは一人で会いたかった。話の邪魔になるからだ。恵子は朔太郎が失礼な事を言わないかと気が気でない。だから自分の友人知人から朔太郎を遠ざけている。そのような朔太郎に、大事な友の末子が並々ならぬ興味を持った。会わせないわけにはいかない。腹を括るしか術はない。
「ご主人に失礼でしょう。私は日の出建設の社長の妻ですよ。あなたは建築の現場の人達がどんなに荒っぽいかご存じないでしょう。私はそういう人達とも遣り合ってきたんですよ。生真面目な変人ぐらいに驚きはしませんよ。失礼な事も横柄な事も、何食わぬ顔で捌くぐらい、お手の物ですよ。日の出建設は親から継いだ会社ではありません。信成と私で一代で築いたものですよ。職業が先生ではびくともしませんから、ご心配は御無用です」 言われてみれば、そうだ。現場の荒くれの社員とも互角に渡り合えなくては、立ち上げたばかりの建設会社の社長の妻は勤まらないだろう。だが鉄火なところが微塵も見えない。ゴージャスなドレスをいつも身に纏っている世間を知らぬお姫様のようなのである。確かに、中学の教師の妻よりは波乱に富んだ人生を送り、幾度と修羅場を潜ってきただろうが。
「いつが宜しいでしょうか」
「何気なく会える場所でもあればいいんですけど。そこからは私が話を進めますから」
「私の家か、末子さんのお宅でなくともいいのですか」
「勿論。私は朔太郎さんからお話を伺いたいのです。できれば二人で。家だと、いつぶらっと理解のない夫が帰ってくるか分からないから、お招きしたくないの。あなたのお宅には小百合ちゃんがいるでしょう。だから、二人の家以外ならどこでもいいわ」
「土曜日の十時に町立図書館に行けば会えます。主人が言うにはアカデミックの満喫とリラックスに行くのだそうです。結婚してからずっと続いている習慣です。
ところで、末子さんは中学のPTA会長でしたから、朔太郎は知っているとは思いますが、末子さんは朔太郎を分かりますか」
「ええ、以前中学校でお見受けしました」
「それなら、今週の土曜日の十時に、図書館はその時間に開きますから。
朔太郎に伝えて置きますか」
「いや、何も言わないで下さい。その方が気軽に話せますから。あなたが変なプレッシャーを与えたら困るもの」
九章
与那町立与那中学校の殆どの生徒は下校して、グランドでは部活の生徒が声を上げている。元助教頭は茶色のハンカチで手を拭きながら、校長室に向かい、そこへ白のブラウスにピンクのスラックスを穿いた幸子教諭が遣って来た。
「教頭先生も校長に呼ばれたのですか」
「はい、厄介な話でなければいいんですがね。みんな押し付けますからね」
校長室に入ると、二人はソファに坐り、校長は向かいのソファに坐った。
いつもピンクの色ばかり、四十過ぎのキティちゃんを思い出して、気分が滅入る。いくら校長でも、ど派手な服装ではないのだから、注意はできない、パワーハラスメントになってしまう。教頭は白の半袖シャツに紺のズボン、代わり映えしない服装が向上心のなさを語っている。
こんなに熱いのに、いつも背広で、いかに体を動かさないかが窺える、トップは汗をかかないものだと考えている。たまには花壇や庭園などの美化にも取り組むべきだ。それを雑用として、同じ管理職である私にさせる。労使の関係ではないからだ。教諭にさせるには、教職員組合が怖いのだ。
校長は私に、同僚の不祥事でも教えろとで言うのかしら。校長も教頭もそうとう草臥れている、覇気がない、老いるには若すぎる。平穏無事が教職の信条だから、仕方ない面も多々ある。退屈な日々、学校運営が適切に行われている証左である。苛めがないのが、この校の特筆すべき点だ。先生と生徒もゆったりしている、のたりのたりしているとの表現がより近い。
「教頭先生、喜屋武先生、聞きましたか。一年四組の大西望君が、花城先生は殺しを見たって本当ですかと聞いたんだよ。嘘だと言えば、花城先生が嘘吐きになり、そうだと言ったら大騒動になる。どう言えばいいか、分からんから、溺れたのを見ただけだと言った。そしたら水死体を見たんですかだ。子供達は好奇心の塊だからね。ああ、そうだと言って、逃げた。あのようすでは、生徒にも広がっているみたいですね。
花城先生も口が軽くて困る。教頭、どうする」
「見たものは見たと言うしかないと開き直るんです。それを止めろとは言えません。見間違いではなく、純然たる事実と言いますからね。人が溶けたんですね」
「何を暢気な事を、人間が海の水で溶けますか、ナメクジじゃないんですよ。私は太田先生から聞きましたが、太田先生は喜屋武先生から聞いたと言っていました。喜屋武先生が広告塔じゃないんですか。困りますよ、もう生徒にまで広まっているんですから。常識が有れば分かるでしょう。人間が溶けて、死体はない、目撃者は一人、大勢いた海水浴客は誰も見てない。腹が立ってきましたね」
人を広告塔なんて、人聞きの悪い、悪いのは私なの。花城の言う事をそのまま伝えただけだ。太田先生はどうなの、校長に喋ったじゃないの。それで知ったんでしょう。知らないよりは喜ぶべきでしょう。子供子供と神経質なのよ。子供は怪獣ものや戦隊ヒーローもので育っているから、殺しぐらいではぐらつかないわよ。それに死体は毎日テレビのミステリー劇場で見ているわよ。
「おかしいじゃないですか。本人を呼んで、直接聞き質して注意すれば済む事じゃありませんか。何で、教頭先生と平の教師の私が説教されるんですか。教頭はいいですよ、まだ管理職ですから。私は別の先生を指導する立場にありません」
「まあ、そう興奮しないで下さい、喜屋武先生、校長には校長の立場があるんですから」
「そうですよ、私には私の立場がある、だから私の立場を言明したのです」
これだから、離婚されるんだ、理路整然とかっとなる、救いようがない、可愛さがない、慎みが欠如している。これが男なら、どうにかなったんだが、不運にも女だ。こういう女性はどMの男性でなければ一緒に住めないだろう。部下には持ちたくないのだが、不運にも部下だ。校長とは言っても、話せば分かるの世界だからな。互いに教育者だからな。女房ならぶん殴っているところだ。
「教頭先生は誰から聞いたんですか、嶺井加乃子先生からです。消防隊まで呼んだそうですが、見間違いで収まったそうですが、花城先生が収まらないようで」
「誰から聞いたは問題ではないでしょう。もう花城先生の話は広がっていて、止めようがない。それに止めなくてもいいのではないですか。その内、皆忘れますよ。それにアイドルの恋人発覚などと報道されたら、子供達の関心はそっちへ行きますよ。大人は呆れているだけですから、気にする事はないでしょう。馬鹿にされるのはご本人だけですから。それにこの件に関して、花城先生は教頭先生や校長先生のようなご心配は全くしていませんから。世間から噂されるのは本人ですから、本人が気に留めなければそれでいいんではないですか。」
喜屋武先生は話しにならん。私と闘争しているように思えてくる。びんびん響く。
校長、そのような合図を送らないで下さい。学校は教諭の立場と校長の立場の二つがあり、どの立場にも与しないのが教頭の取るべき立場です。ご自分だって、教頭の頃はどっち付かずだったとのお噂は耳にしていますよ。噂は誰にも立つものです。その辺はご自分でお気づきになられないといけません。意見は求められるまで沈黙です。私の流儀ですから、悪しからず。
花城先生と同期赴任だからと言って、気の強い、負けず嫌いの喜屋武先生を呼んだのが間違いの元です。それは校長もご存じのはずではありませんか。誰にも止めようがありません。
三人は柔和に顔を見合わせながら、互いの腹の探り合いのような険しい沈黙を続けた。
「喜屋武先生、そう言われますが。殺人現場を見たは穏やかではないでしょう」
「被害者の遺体も溺死者も発見されておりません。これは事件ではありません。もしそうなら、当然警察が学校にも捜査に来たはずですよ。もう半年も立っているんですよ。
その事を注意したいなら、校長先生はもっと早く対処すべきではありませんでしたか。もうその噂は時効ですよ、季節外れです」
「まあ、そうでしょうが、もうこの事は他言無用にしてくれと、私から花城先生に頼みますから。
これは全て花城先生ご自身の不徳の致すところです。誰の責任でもあり得ないのです。
時が全てを解決します。
連続婦女暴行殺人の大久保清だって、今では誰も語りません」
「教頭、例えが不謹慎だよ、ここは神聖な校長室だよ」
自分の部屋に神聖とはよく使えるものだ。国語のレベルが低い。これでは花城先生を黙らせるのは不可能だったでしょう。半年立ってする話じゃないわよ。いい迷惑だ。
「殺人現場の噂はすでに下火になっています」「そうですか、それなら結構です。
皆さんにとっては些細な事のようですので、校長の私より教頭先生からお願いして下さい。
言っときますが、我が校の最終責任者は校長です」
教頭と喜屋武は立ち上がり、ちょこんと頭を下げて、校長室から退席した。中庭の枝を伸ばした琉球松の下を通りかかると、二人は同時に笑顔を見せた。なぜ人間が溶けるなどとの事で、真剣に言い合ったのかと間抜けのように思えたからだ。
十一章
中学校の廊下で教頭と朔太郎が何やら小難しい話をしているようだった。互いに困ったような笑いを浮かべていた。
「花城先生、ビーチ事件の件では口を閉じて貰いたい。折角、下火になっているんですから、再燃しては困るのです。校長の耳に入っって、ずいぶんご心配しているようでした」「教頭先生、今は誰も興味を持ちませんよ。聞かれれば、事実を話しますが、聞かないのに話す事はありません。真実をを語る私を疑いと好奇の目で見るのですから、堪ったものじゃありません。話するたびに、笑い物にされたようで、気が滅入ります。目撃したのが運の尽き」
まだ錯覚だとは露程も思ってないようだ。何がそこまで信じさせるのか、皆目見当が付かない。不自由な足が歩けるようになった、見えなかった目が見えるようになった、悪性の癌が治ったとか、奇跡ならいいが、人が溶けたでは、信じられないのが常識というものだ。しかし人間が溶けたのも奇跡、神秘だと言われたら、返す言葉がないが、そういう奴は非常識の輩だ。教師にあるまじき人格だ。「花城先生と教頭先生、何をひそひそ話なさっているんですか。奥様には内緒の話ですか」と通りかかった幸子が興味津々で絡んできた。
教頭は不意を突かれびくっとなった。これで何が起こるか分からなくなった。朔太郎は幸子を煙たがってはいないが、他人事ながら服装のセンスが納得行かなかった。女性と思わなければ、話しやすい同僚である。女として気を遣うだけ、疲れて損するだけである。
「教職員は淫行はしませんよ」と京都はむっと来た。
「それはバーやキャバレーも含むんですか」
「それはお店に寄りけりです」
「教頭先生は冗談が通じませんね、すぐ向きになられるんですから」と幸子は笑った。
「そのような冗談ばかり言うから、男性教諭に煙たがられるんですよ、悪い癖です」
「これ又失礼しました」
「そういう風に茶化すから、余計に疎まれるんですよ」
「私は与那中の嫌われ者ですか、分かりました、はい、よく分かりました」
その応答が嫌いだ、きっと誰でも嫌いだ。私は教頭として、喜屋武先生よりは好かれていると思う、そうでなければ、管理職失格だ。彼女は他人の気に障る話し方をマスターしている。聞いていると、気が萎えるのだ。
「例の件の話です」と朔太郎が苦笑いをした。「否定されたんですか」と、幸子が弾んだ声で聞いた。
「しません、その様な事はけしてありません」「喜屋武先生、焼け木杭(ぼつくい)に火を付けたいんですか」
「いいえ、花城先生のお気持ちを聞きたかったんです。孤立無援でしたからね、降参したのかと思いまして」
明らかに面白がっている。嫌な性格だ、嫌がる事を、聞きたくない事を蒸し返し、プライドに訴えかける。計算尽くで、よくできるものだ。どエスだ。
「降参も何もないでしょう、花城先生は或る日の出来事を語っただけですから。それに孤立無援とは何ですか。村八分にでもされたのですか、苛めたと言うのですか」
「教頭先生、花城先生が苛められて、はいそうですかと黙っている玉ですか、二倍返しですよ」
「どうして、国語の教師が選んで下品な言葉を使うんですか。川端康成の美しい日本語はどうなったのですか」
「古くは吉本のばななに、現在は山崎のナオコーラの女流小説家がいるんです。文法的に間違ってなければいいんです。但し、話し方で嫌われても、ぶん殴られても自己責任という事ですが。美学はないです、その言葉自体過去の遺物化されようとしています」
「どうして嫌われるのを選ぶんですか。普通なら好かれるのを選ぶでしょう。喜屋武先生の意識の問題ですよ」
「私は平等を尊ぶんです、TPOの問題です。私だって若くていい男の前では可愛くなりますよ。教頭先生の前でもやって欲しいんですか」と幸子が科(しな)を作った。
教頭が身震いし、怒って幸子を睨んだ。
「遊ぶのはそれぐらいにしときましょう、喜屋武先生」と朔太郎が呆れた。
「コミュニケーションを楽しもうは、花城先生の口癖でしょう」
「冗談がきついんです」
そのような会話ができるのに、なぜ朔太郎は人間が溶けた話をするのか、教頭は理解に苦しんだ。人間誰しも見間違いや、勘違いはあるものだ、それを認めようとしないかのように見受けられる。「信じる者は救われる」、本人だけ迷いがなくて救われるが、周囲の者は傍迷惑だと言う事だろうと教頭は思い至る。
「それはお互い様でしょう。人が溶けたの方がインパクトがあるでしょう」
この馬鹿、なぜ危険物に触れるような真似をするんだ。折角、話が花城先生と付いたのに、これでは水の泡だ。疫病神だ。
「インパクトの問題ではないでしょう。泳いでいたら、目の前で金髪の男がブクブク溶け出した、事実無根の絵空事などではありません。喜屋武先生はどうお思いか知りませんが」
出た、二度と聞きたくない事を誘導尋問したような物だ。寒気がしてきた。何のために、私をからかうために、魔物だ。
「では賛同者は出ましたか」
「喜屋武先生は誤解している。これは提案ではありません、賛同を得る必要はない。なぜなら見たありのままを述べただけですから」
「それは失礼」
失礼には聞こえない、皮肉に聞こえるんだ、喜屋武先生が言うと、可愛くないと言う奴だ。花城先生も生真面目だから、向きになると加減を知らない、素人の喧嘩状態になる。この場から逃げ出したいぐらいだ。
「先生は神を見た事がありますか」
「ありません」
「でも信じておられる」
「二人ともいい加減にしたまえ。ここは教育の場です、言い争いをする場所ではありません。よく教育者として自覚を持ちなさい、いいですか」
「折角ヒートアップして、今からが山場だったのに、教頭先生の野暮な声で醒めてしまったわ。まあ、痛み分けにしますか」
「リベートはアメリカのよくない面でもありますから、それがベターでしょう」
そうだ、それが分別ある大人だ、それまでの事は水に流して、仲直りする、それを美徳と言う、だが言い争いをした後にしては互いが軽い、世代の差かな。昔はよく命懸けで論じているなどと言ったが、今では冷や汗ものだろう。
「さあ、それぞれの仕事に行って下さい」と教頭は別れて行く二人の後を目で追いかけて、胸を撫で下ろした。
十二章
土曜日の午前九時、朔太郎はダイニングで目玉焼きとトーストと牛乳の朝食を取る。六才の娘の小百合も同じメニューだが、恵子は牛乳嫌いでインスタントだが必ずフリーズドライのコーヒーを飲む。いつもの花城家の風景である。
九時四十五分になると、朔太郎はママチャリに乗って町立図書館に行くのが習慣である。実はいつも性格に同じ時間に散歩をするカントを真似たのだ。詰まり、町の人間が朔太郎の姿を見て、今は九時四十五分だと言われたいのである。普段は午後一時頃帰るが、気に入った本と出会うと、昼食は図書館の近くのコンビニで済ませ、午後五時帰宅の時もある。原則として、朔太郎は借り出しをしない。学校の仕事をそっちのけで、借りた本に手を伸ばしてしまうからである。
十時に図書館に着くと、司書がドアを開けるところで、朔太郎は挨拶をして中に入った。受付カウンターで別の二人の女子職員に軽くお辞儀をし、書架へと向かった。
「イスラエルとアメリカ」の本を手に、受付の前のロビーを丸く囲むように配置されたグリーンのソファの左端に坐った。
一瞬、図書館のロビーにいる人が息を呑み、入口の自動ドアの方へ顔を向けた。
白のシルクのチャイナドレスに赤のクロコダイルのバッグを左手に、赤と白のローヒールに、髪はおかっぱ、ボブカットの平良末子が颯爽と入ってきた。朔太郎は上目遣いで一瞥し、再び本へ目を落とした。ヒールの音が近づいて、赤いヒールと白いヒールの二本の足が見えた。朔太郎は訝りながら上を見た。
「私は平良末子で奥様とはお友達付き合いをさせて頂いています。土曜日はいつも図書館においでと聞き、朔太郎さんとお話がしたくて参りましたの」
朔太郎は末子の姿を見て、なぜか、狐が人間に化けたら、こうなるのではと思った。妖しいのである。朔太郎が立ち上がった。
「私に何のお話でしょう。平良さんが興味をお持ちになるお話など見当が付きませんが」
「ここでは何ですから、二階の会議室に行きませんか、午後の時まで借りて置きましたから」
前に演台があり、二脚の細長いテーブルが合わされて、両側にパイプ椅子が七脚ずつ置かれている。入口の壁際には温水と冷水のあるウォーターサーバーが置かれている。奥のテーブルにバッグを置き、サーバーから二個の紙コップに冷水を入れ、入口側のテーブルの一個を置き、向かい側に行った。
「ありがとうございます」と言うと、末子は頷き坐り、朔太郎も坐った。末子の服装は会議室には不釣り合いだった。
互いに目を合わせたが、朔太郎は何を話されるのかと気が気ではなかった。
縁のない富裕層の奥様はどのようなものなのか分からない。わざわざ、出向いて人と話すクラスの人間ではなく、呼びつける方だろう。噂通りの盛装の外出だが、艶やかでもあり、嫌みがない。きっとお姫様が城下町に出た感じだろう。
「何のお話でしょうか」
「ホテル燦燦のビーチでの出来事を知りたいのです」と末子は真顔で言った。
フェイントだ、しかし冷やかしではない、それが目的ならロビーで聞くはずだ、そうすれば周りの者に嫌でも聞こえ、笑い物にできる。このような人がなぜ興味を持つのか、好奇心を擽られる。
「なぜ聞きたいのですか」
「興味があって、当事者から聞きたくなったのです」
UFOとの関連性があるからと最初から言っては、警戒されて口を閉ざされたらお仕舞いだ。UFOは関連性がはっきりすれば話してよいが、話次第でのことにしよう。
朔太郎が客観的に私情を交えずたんたんと語ると、末子は息を凝らして聞き入った。
「非情に興味深いお話です。伝聞ですと眉唾物のように聞こえるのです」
「珍しい事です。与那町に真面目に聞いてくれる人がいて、ほっとしました。どうも自分一人だと思うと、事実なのに間違いだと訂正したくなるんです。
どうして信じられたのですか」
「私には全て納得が行く事でしたから」
どのように納得したのだ、私は納得しようとしたが、正誤を揺れている。日の出建設の社長夫人はどういう御仁なんだ。世間で言うただの変わり者ではないようだ。
「どのように納得されたのですか」
「金髪の男は確かに溶けたのです。
いいですか。青虫から紋白蝶へ変わる際に蛹に変わるのです。ここでは完全変態するために、蝶になるために、青虫の古い体を壊し、液状にして成虫へと変わる準備をし羽化して、紋白蝶となるのです。いいですか、体を液状にしても、蛹の中だと生きているのです。そこで思いつきませんか。
つまりあなたは成虫から蛹へと変わる、逆のパターンを見たのです。詰まり人間を細胞又は分子の状態まで液状化したのです。
金髪の男は死んだのではありません、連れ去られたのです。目的地まで着くと液状化された物は元の肉体へ戻るのです。遺伝子が全ての設計図である様に、遺伝子に復元しろとシグナルを送るのです。詰まり蛹の中の液状化と考えれば簡単な事です」
殺されたのではない、殺人事件ではなかった。発想が尋常ではなかった。青虫が蛹で液状化して羽化して紋白蝶となる。それを考えれば、人がブクブクと溶けていった理由が分かる。しかし……。
「人間を分子レベルまで解体し、生きたまま保存し、再生する科学技術を、現代の科学は持ち合わせていますか。それに連れ去られるとは、一体誰に、どうしてですか」
私が想像していた以上に、教師として柔らかい頭の持ち主だわ。私の持論をぶちまけるしかない。久しぶりにぞくっと来た。これを私は待っていたのよ。同士が生まれるか。
「いずれはそうなるでしょうが、現在の人類の英知を超えています。
地球外知的生命体、異星人、宇宙人の仕業です」
確かに地球のような星があっても不思議ではない、だから宇宙人はいる。だが私はそれを信じ切れない。しかし、それ以上の説明を私はできないでいる。反証不可能なのは科学ではない。神様を信じるのと同様に、宇宙人を信じるのも非情に難しい。信じられない、その一言だ。それではただの好悪問題に成り下がってしまう。人間だけで考えよう、或る種の人種差別ではないだろうとも考えられる。それとも人知が考え付く物は全て存在しうるのではないか、しえない物は思いつかない。そうなると神様はいるになってしまう。やはり考え付いても存在しない物はある。
遂に言ってしまった。この勢いで、宇宙人は存在する、その乗り物がUFOだと世の中に向かって叫びたい気持ちだ。
「彼はどうなったのでしょう」
「まず、分子のまま瞬間移動させたの。彼等の秘密基地、又はUFOの中へ。それから元の姿に再生された色々なデーター、文化的、人体的を取り出すのでしょう。
情報収集ですね。一定期間を置いて、動物を捕獲して追跡調査するようなものです。現在環境ホルモンを調べているのではと思われます。微量で人体に影響し癌などを発生させるからです。癌は宿主が死ぬまで増殖し、自分も死にます。詰まり、生命に重点を置いている物と思われます。」
おかしい、異星人と会ってもないはずなのに、環境ホルモンで、癌の研究と特定できるのか。
「どうしてそこまで限定できるのですか、異星人にでも聞いたのですか」
「会った事などありません。UFOはたびたび見るんですが、異星人はないんです。大体が飛んでいますからね。それから生命を脅かすものに、同じ生命体として興味を抱くのは当然です。
彼等がUFOに乗っているのは、故郷の星が高度文明で自然界を汚染し、破壊したのが原因で、星を出なく得ざるなったのではと仮説を立てました。それから私の意見の大部分が導かれています」
末子は久しぶりの持論の披露に胸が高鳴った。
仮説、そう考えれば全てが辻褄が合う、大胆な論理の展開だ。この人はいつもUFOの事を考えている。そうでなけれこれだけの事を堂々と言えるはずがない。彼女の確信は揺らぎないが、私のは揺らいでいる。この差が大きい。UFOか、大学時代に胡散臭い物好きのサークルがあったが、オタクの集まりだった。しかし、私には末子さんの仮説に反論する説がない。
ブクブク溶けた。これが細胞分子レベルまでの分解であり、蛹の中の状態にあり、瞬間移動した後に同一人物が再生される。何と美しい話だろう。参ったとしか言いようがない。後学のために聞いて置こうか。UFOと言うだけで拒否反応を起こしていたからな。今日は反対に打ちのめされた。
「しかし、異星人はなぜ降りてきて、人類と会わないんでしょう」
「降りてきていたんです。ですが超古代文明も人間がある程度異星人の知的レベルまで達すると、戦争を起こし衰退の一途を辿ったのです。同種が殺し合う、異星人から見れば、最低のモラルさえない生き物に移ったのです。それから人間にタッチしなくなった。
人間はチンパンジー程度の知能で終わっていたら、地上で一番幸福な生き物であっただろうと判断したのです。
それでも一度だけ人類を救おうとしたのです。キリストが人間の全ての罪を被り、十字架に磔にされ、神に許しを求め叶えられ、再臨した事です。しかし、地上から争いの火種が尽きる事はなかった。キリストは異星人でした。それを最後に人類の前から姿を消したのです」
おかしい、キリストは人間の格好をしていた、そうでなければ悪魔だと思われただろう。
熱心に聞いている。納得するのにも、跳ばなれば、辿り着かない知的地点がある。
「異星人はどのような姿をしているのですか」
「彼等には固定された形がないのです。いいですか、烏賊が状況に応じて色を変えるのと同じように姿形、声まで変えるのです。特殊擬態とでも呼べばいいでしょうか。これは蛹の液状化から羽化して、完全変態するのと同じ原理です。ですから、異星人と言えば、却って人間に頭の変になった人間と思われてしまうのです」
いとも簡単に答えてしまうのは、UFOオタク内では教義問答集があるのではないだろうか。あらゆる角度からの疑問を想定した模範回答集。オタクにもそれなりの歴史はあった。
「もしかしたら、長い歴史の中で地球人として、生きているのかも知れません。そしてその子孫は異星人として自覚も能力も失われ、完全に人間に同化してしまった」
馬鹿にはしてないようだ、どうしても知りたかった溶ける人間は納得してもらえたようだ。UFOを見てから、話せば話すほど煙たがれ、私が異星人の様に思われる。話が通じないという意味で冷やかしのリスナーは言う。人間が飛行機に乗っているんだから、宇宙人が円盤に乗っても、否定する理由が見つからない。船がなく、陸続きでなければ会えなかった時代の海に隔てられた大陸、島の人々の存在が現在の異星人と考えてもよいのでは……。
人間と宇宙人の違いが分からない、臆測か推測のグレイゾーンである。しかし、これも否定する論拠がない。しかし、迷いがない、洗脳されたのではないか。異星人に、それはあり得ない。本人もあった事はないと言っている。異星人に洗脳された記憶を消去された。だから本人に自覚はない。このように考えるとどうにでも言えるのである。証拠なしで言っているからである。
殆どは末子の話だったが、二人の話は延々と午後五時まで続き、会議室の借り受けの終了時間となりそれぞれの帰路に就いた。
エピローグ
与那町の日は落ち、又上った。
図書館での末子と一太郎の密会は思わぬ波紋を投げかけた。町長選挙に、一太郎の立候補の説得に当たったのではないかとの噂だった。東江町長は三期目でそろそろ代えた方がいいのではとの声がちらほら同陣営の議員からも出ていたからである。それで新人の抜擢ということで一太郎だと決めつけた。朝から晩まで話すとなると、町長選挙しかないのが与那町民の意識である。天下国家だの大それたことでは時間は浪費しない。そのような与那町民にとって、UFO論議、人間ブクブク溶け出し事件論議だったとは、想定外の想定外で到底思いつく物ではなかった。無論町長はその噂を聞くなり、日の出建設本社へ出向いて、社長と歓談した。日の出建設は町長選挙には中立の立場を取るとの言質を取り、町長は恵比須顔で帰った。
「恵子、平良社長夫人とは朝のウォーキングで何を話しているんだ」
「色々よ」
「UFOの話もするのか」
「よくするわよ。無論、私は聞き役」
「どう思う」
「末子さんの考えだもの、末子さんの勝手でしょう。全然気にしないわ」
朔太郎が学校に入ると、校長と教頭が駆け寄った。
「君、教職を辞めるつもりか、嘆かわしい」と校長が怒鳴った。教育委員の町長派からの圧力があったのだ。その傍らで教頭が項垂れている。
教諭よりは町長がいいかも知れん、この与那町の舵取りをするという男のロマンがある。教頭と来たら、校長に頭を下げ、教諭達には突かれる実入りの少ないポジションだ。かと言って、校長になれる保証もない。
「私は公務員ですよ、止めてまで町長に出馬する馬鹿がどこにいるんですか」
「そうか、安心した。だが口は慎め、与那町長の下に与那中もあるんだ。
それから平良婦人との不純異性交遊はないよな」
「校長、そこまで考え付かないですよ」と朔太郎は職員室に向かった。
職員室に入ると、幸子が給湯室に手招きした。
朔太郎もやるわよ。あの末子姉さんと朝から五時までデートするなんて。しかし、うまい手だわ。公共施設でオープンを隠れ蓑にした密会、今でもむちむち色気たっぷりだから、朔太郎なんて手玉に取るのは簡単よね。あの鬼の日の出建設の社長を手の平で転がしているんだから。嫌だ、末子姉さんのファッションを思い浮かべると、言葉遣いが乱れるから。
「朔太郎、末子さんとどうしたの」と幸子の目が光った。
「話し合いですよ」
「男女の仲で」
「幸子先生も男女の仲に興味がおありなんですね」
「そうでもないけど、社長夫人にはだいぶ興味があるの」
幸子先生もミーハーだ。
「週刊誌は読みますか」
「美容室で暇潰しに見るだけ。何で会った事のない相手の恋愛関係に興味を持つのかが分からない。実感がないでしょう」
「UFOとビーチ事件の関連に付いて、話をしていました」
「あなたって馬鹿なの」と幸子はそそくさと自分のデスクに戻った。
平良社長宅のリビングでは、夫婦揃って大画面のプラズマテレビを見ながら、アイスクリームを匙で食べていた。
「お前な余り派手な行動を取るな、町長が心配してきたぞ」
「馬鹿じゃないの、平良家は町長選挙しか興味がないとでも思っているのかしら。あなたの選挙好きだけで、うんざりよ。国政を動かす、衆議院議員を誕生させる会の理事までなって。日の出建設で手一杯だったはずでしょう。信茂に任せっきりで会社は大丈夫なんでしょうね」
「自分の会社になるんだから、潰すわけないだろう」とアイスクリームを三度続けて掬って口へ運んだ。
「お前、朝から五時まで、酒も飲まずに素面で友人の旦那と何を話すんだ」
私の亭主ながら、この人は馬鹿だ、金儲けと政治、力の見せ合いにしか、頭が回らない。きっと私が高尚なUFOと人間ブクブク溶け出し事件を語っていたと知ったら、目を丸くするだけだろう。まあ、そんな夫にUFOなどと高次元の話しをする気は金輪際ない。もしあるとしたら、雲の彼方からUFOが現れて与那町に着陸した日だ。
溶ける
見た物は見た。だが誰も信じない、あなたはそれを押し通せるか。