スクランブル交差点
安谷屋(あだにや)美佐子の目に会社は鬱蒼とした緑の葉を滴らせる木々と原色の花々が毒づき咲き乱れて、ジャングルと化していた。
人間は天狗猿、コリー犬、ニシキヘビ、ハイエナなどに見える。 そして世の中は魑魅魍魎が跋扈していた。
揺れている美佐子がその世界を闊歩するまでのストーリー。
揺れるあなたから見える遠近法
スクランブル交差点
安谷屋(あだにや)美佐子の目に会社は鬱蒼とした緑の葉を滴らせる木々と原色の花々が毒づき咲き乱れて、ジャングルと化していた。
何種類もの香水を撒き散らした臭いが鼻を突く、茎の無いラフレシアの大きな赤い粘膜の五枚の花弁が捲れて地面に横たわって咲いている。
その真横の小さなスペイスに事務機器を置いて、パソコンを叩いている。会社のユニフォームまで着ている。このジャングルとは場違いのものであった。
枝にぶら下がった錦蛇の首が美佐子の顔の前にぬうっと現れた。
「課長、会議の書類が出来上がりました」と美佐子は顔を摺り寄せて覗き込む錦蛇に告げる。
「そう、ご苦労さん」と二股に別れた赤い舌を伸ばし顔を舐めると、美佐子の頬がぽおっと赤くなるが、姿勢を正して書類を読み始める。
何ともなしに横を向くと、欲求不満の♀天狗猿がその隣の同様に欲求不満の♀眼鏡猿と私語を交わしていた。
あの子よと、鼻息の荒くなった天狗猿が目で合図した。
喘ぎながらパソコンに跨りポーズを決める新入社員のコリー犬がいる。血統書付きの家柄が自慢で吠えるのが癖である。
「あの子、初心(うぶ)でいいんじゃない」と天狗猿が涎を垂らすと、
「駄目よ、あの子は結婚前提で、私がキープしているの、便利屋さんの彼にしてよ」と、 眼鏡猿は卯建の上がらぬハイエナを顎で指した。
「彼、自分を知っているから、奢ってやれば、一泊するわ、でも応急処置よ、誤解しないでね」と彼氏のいない天狗猿は溜め息を吐く振りを忘れない。
実は満更でもないのだが、数を威張るだけで♀に評判が悪いのが気に掛かる。
ハイエナはいつ獲物に有り付けるかという不安で、どんな獲物にも飛び付き、一晩、相手が黙っていれば無礼にも三日三晩も貪り尽くす習性がある。
それが気に入っているのだが、ハイエナと同じ視線で見られることは天狗猿のプライドが許さない。
天狗猿は、
「今夜ステーキをご馳走するわ」
とハイエナのパソコンにメールを送ると、ハイエナはOKとニコニコマーク付きで返事を送る。ハイエナは引出から秘蔵の三千円もする蝮ドリンクを飲み、
「キョウモガンバルゾ」
と遠吠えをする。
出世を考えないから、♂よりも♀が大胆なのである。避妊さえ忘れなければ、♀がハンディを負うこともない。
美佐子は冷めた目で彼等を一瞥して、仕事に取り掛かると、画面に滲むように文字が浮き出て来た。
「乙に澄ました、あなたは何なのよ!」
「仕事を腰掛けにはしないわよ」
「偉そうにお高く止って、部長の元・愛人じゃないの?!これって笑えますよね」
「いいじゃないの、それはそれで、恋愛の自由でしょう、少しは仕事でもしたらどうなの」
美佐子の奇妙な症状は改善しなかった、ただ睡眠薬のために夢は見なくなった、二三日はそれでだけでも喜んでいたが、眠った気がしないのである。目を閉じるとすぐに朝になっている、だが時計だけは午前二時から午前七時になっている。
そして青汁を飲むように牛乳を胃に流し、職場へ行く。
致命的なミスをしない、弱みを見せない、それが美佐子の意地であり、プライドであった、それは振られても私はびくとしないと言う、同僚、上司への顕示であり、何よりも増して、私は正常だとの自分への事実としての証明であった。
しかし、午前十一時きっかりに極度の眠気が襲う、抓っても、押しピンを刺しても、その痛みより眠気が勝り、うとうとしてしまう、すると、
「お前は落後者だ」
との嘲笑が耳の奥で響き、ぴくりと顔が引きつる、そして誰かに見られたのではとの不安が渦を巻き、眠気は治まる。
数日後、地元から遠く離れた宜野湾市の南野メンタルクリニックへ逃げ込んだ、那覇だと、知人・友人・同僚・顔見知り・知っている全ての人に会うのが怖かったからだ。
診療室の壁は緑で木製のデスクと木製の椅子が置いてあり、向かい合うように穏やかな青のソファーがコの字型に配置されていた。
医師の椅子にはローラーが着いており、時折前後に揺するのが癖らしい。
優しくも怖くも無い中年の少し太りぎみの男性の医師である、カジュアルなグリーンのジャケットに同色のスラックスに白のワイシャツ、この部屋の壁と同色の擬態である。森ならぬ診療室のカメレオンである。
美佐子が入るとソファに坐るように「どうぞ」と手で指し示した。
美佐子は医師に向かってソファに坐った。
『私は異常ですか』
との叫びが胸奥で何度も繰り返される、隠そうとするが足は小刻みに震えて止まらなかった。
「初診ですね、まあ緊張なさらずに、深呼吸して下さい、横になった方がいいのなら、それでも結構です、向こうを向いても構いませんよ。ボクは話が聞ければいいのですから」
美佐子は横を向いた、目線を合わさずに済むからだ。
言ってることは優しいのだが、無機質で冷めた感じがした、能の面を見ているような気もした。
できれば、最も行きたくない病院であり、いい第一印象を持つ事は至難の業である。
「いいえ、このままで結構です」と、美佐子はこれだけ言うのにも声が裏返ってしまっていた。これでは容疑者が刑事に取り調べを受けるようなものだと、ここに来た事を後悔し始めていた。
「ここには私とあなたしかいません、けして外に漏れる事は有りません、日頃感じている事を話せばいいんです、ちょっと変わったお茶会、デートとでも思えばいいんです」と南野医師は笑顔で話すのだが、却って相手を強ばらせてしまっているのに気付き、沈黙を行使することにした。それは両方にとって重苦しいものだが、当然の如く重圧の感覚は美佐子の方に伸し掛かる、これは単に馴れの問題である。
何も喋らないと言う圧迫感に堪えられず重い口を美佐子は開くことになる。
「鬱なんです、……、気が滅入って、仕事に集中できないのです……」
「何か嫌なことや、ショックを受けたことを話してくれませんか、些細なことでも構いません、喉に小骨が刺さっても苦痛でしょう、何処に刺さったかが問題なんです、大きさは無責任な他人の言うことです」
「彼氏に振られたんです」と美佐子は大胆な事を言った、それが不倫であることを隠したかったからである。
「そうですか、何があなたの心に纏わり付いているのですか、詰まり、忘れ去りたいとか、消えて欲しいものですね、慌てて答えなくてもいいですよ」と一本調子の静かな声で南野は話す。
「蛇、……蛇です、蛇が体の中で、頭の中で繁殖、いや増殖するんです、ぞっとするんです」
カソリックの懺悔室で罪を告白するする娼婦のイタリア映画のシーンを思い出した。
それを見て美佐子は『告白で罪が消えるのはウソだ、教会の人集め、金集めの手段だ、都合のいい話』と考えた。
私は教会に来ているのではない、ここに罪はない、だが正常と異常とを下す、美佐子は戦いた。
「蛇ですか、好きな人は少ないですからね、私も嫌いです、その蛇が現れる前に、あなたに何かが起こっているのです、それをきっかけに蛇と表現されて現れてしまったのです。
その辺の出来事をフランクに話して下さい、あなたには些細で詰まらないことでも、とても重要な鍵となるものが多々有るものです、ですから、あなたが言うことに下らないとか、洒落にならないとか、ネガティブな感情は一切持ちません、それが精神科医です、私達は言葉に依って、深い井戸の底に潜んだものを見ることができるのです」
蛇・ペニス・父親・父親殺し・エディプス、安谷屋さんは父親を否定し、乗り越えられたのか、蛇に消えて欲しい、或いは蛇に消えて欲しくないのか、抑圧され願望が否定として言葉が発せられる。悩むと言うのは、所詮大岡越前の二人の母親が子供を引っ張り合い、どちらかが諦めなければならない、だが主体であるはずの子供が相反する欲求であるはずの二人の母親に翻弄されているのだ。『』引き裂かれた自己』、確か名著だが、誰が書いたのかな、忘れてしまった、最近は忙しくて本を読む時間も無い、青年期の葛藤を病気でないと証明しようとして、統合失調症としてしまったと今では批判されている。
精神の病と葛藤、何処で誰が線を引けるんだ、精神分析機とか、内科と違って客観的測定器が有る訳じゃない。
キャリアウーマンか、上昇志向が強いのかな、心の中を開いてみる訳じゃない、推論だ、だが手掛かりが無くて、知ることはできない、いや、下手な鉄砲も数打ちゃ当たるだ、駄目元って訳か、因果な商売だ。
「蛇を消して下さい」と美佐子は横を向いたまま縋るように小さな声だがはっきりと言った。
「蛇を消すには、もっと詳しい話を聞かなければなりません、外に在る蛇とは違いますからね、いつ頃から、それは現れたのか、その頃の嫌な出来事ととか、想起したものを言って下さい、思い付くままで結構ですから」
精神科医とすぐに友達と話せるような人は希だ、酒が飲めないので憂さ晴らしに来る人は別だが、かといって、私が旧友の如くに話し掛ければ、馴れ馴れしいと逆に反発を買い、警戒心を抱かせ、貝のように口を閉じたままで、結局は安易な安定剤を処方して終わり、その患者は二度と姿を現さない。だから私はどのようにも見える顔、詰まりポーカーフェイスとなるしかない、役者気取りで演技力を威張る同業者も在るが、自分だけで納得しているように見えて、興醒めがする。
それに精神病、躁鬱病とか統合失調症など患者の完治率が低い、これも医学部で精神科医になり手が少ない理由だ、だがいつかは有効な薬が開発されれば完治する病だ。
しかし今の所、精神科医、殊に担当医など見たくもないだろう、狂ったと言う禍禍しさがネックとなる、一人なら兎も角、世間一般がそうなのだ。
人々は彼等が二十四時間も休むこと無く味わっている恐怖や心の痛みを知ろうとしない。
それを理解できる人は希だ。愚痴を言っても始まらない、誰かが言っていた、
『芸術にも惹かれず、神も信じられず、残ったものは精神科医だった』
美佐子は諦め掛けて、病気じゃないものを治せと言う方が間違っている、魚屋に行ってキュウリを下さいと言ったも同然の話で、チャップリンなら分かるが、私が言ったのなら、ただの大バカだ、顔から火が出るようだ、しかし、苦しいのだ、ここまで来たのだから言わなきゃあ、ラジオで人生相談するよりは増しだ、見る前に跳べ、跳んで谷底か、川の中、屋上からダイブして地面に叩き付けられるより、川で溺れた方がいい、生き延びる確率も高いし、何よりも痛くなさそうだ。
でも、何かを言わなければ体裁が悪い、何でも言っちゃえ、先生もそう言ったんだから、当たって砕けろ。
「人気のラーメン店で食べたラーメンの麺が蛇のように思えて、家で吐きました……実は彼氏は上司で、妻子持ちで不倫でした、別れて当然ですね」
美佐子は笑顔を作り、医師を一瞥した、ポーカーフェイス、反応を窺い知ることは出来なかったが、バカにしているのだとの確証は掴めなかったが、心の隅っこの擦り傷のように実際は鼻で笑っているのだとの疑いが顔を覗かせひりひり痛んだ。
前まではこんなに僻んで人を見ることなど無かった。いや、そんなことなど考量に値しないものだった。
貧すれば鈍する、泣きっ面に蜂、悪いことは幾重にも重なるものだ。そして私は押し潰される、蛇の群れのラーメン、吐き気がした。
不倫、そうじゃない、道徳的に、倫理的に悩んではいない、別れたことで既に決着は付いているはずだ。
戦前の人なら兎も角、現代っ子の悩みにしては空想的だ、今の人間にゲーテの若きウエルテルの悩みなど失笑物で、悲劇にはならない、ヒロインを演じなければならないのだ、道化師でない。
何に躓いたかを彼女は知っているが、明らかにしない、自分でさえそれを言明することが怖いのだが、意識の前で蓋をされて、蛇となって現れた。
しかし「当然ですね」と言う気の強さ、プライドの高さで、蛇を否定しようとすれするほど、裂かれる両極端にもがいてもがいて、苦しみの深みへと入ってしまう。
精神の病には柳に風のような撓う木は部分的に曲がっても致命傷とはなりにくい、所が自信に溢れた大きくまっすぐ伸びた堅い樫の木は曲がらず折れるから命取りだ。
腕のいい脳神経外科医になるだろうと誰にも嘱望されたあいつは芸術学部の彫刻の生徒のアトリエで詰まらぬ具象の裸婦の制作現場を見て、自分に失望した、呟いた理由は呆気なかった、
「ボクはあれほど器用ではない」
そして
「不器用なボクに繊細な脳神経外科医など勤まらない」と言い出した。
病院の屋上から卒業もせずに飛び降りた、無残な死体となった。
あいつは冷静ではなかった。それに不器用でもなかった、誰も芸術家のしなやかでよく動く指で人体を切ったり縫ったりしない。
周りにはあいつより不器用な外科医のヒヨコが一杯在た、私もその一人だった。
あいつの弱みは全てに抜きん出ていることだった、高価な宝石ほど小さな傷が気になるものだ。
あいつは死んで決断を宙に浮かせた。
いや、何かを落としてしまった、見てしまった、その何かを拾わないようにか、見ないようにか自殺した。
その何かは未だに分からない。
だからどうした、残ったものは、私はあいつのために指一本動かせなかったという事実だ。
悪い癖だ、きっかけを見つけ、過去を慰めようとする。
フロイトの言った、「平等に漂う注意」
ビオンの「記憶も無く・理解も無く・欲望も無く」
過去・現在・未来が解消する、そのような態度で患者に接することが精神科医の理想的態度であると言われる、だが至難の業である、仏教の無になれと言うことで、無を体験した僧は在るのか、ゴーダマ・シダルッタは別として。
言葉は言葉を触発する、個人的な感情の度合の回路で、蛇は喩で、炎を情熱、嫉妬、怒りなどを表す、そのように彼女の無意識の示した隠喩なのである。だがそれがどうした、それは特効薬かと聞かれれば、いいえとしか言えない。
「両親とはご一緒に住んでいるのですか」
突飛な質問である、フェイントだ、まあ精神科医としては最初の誰もが味わったはずのあの有名な「父の否定」、詰まり、挫折したかを探るのだとの自己弁明をする。
美佐子は一瞬呆気に取られた、人生相談かと錯覚した、ラジオのパーソナリティの模範的解答
『自立しなさい、早くギャンブルから足を洗いなさい、そんな恋人とは早く別れなさい、人生は甘くないんです』
との人生を終わってもない奴が達人のように自身たっぷりと語る、
『額に汗して汗して働くのが一番です』
ならお前が道路工事の作業でもしてみろ、クーラーの入った部屋で無責任な解答をしやがって、それも相談相手向けではない。
その人の弱みを面白がるリスナー向けの言葉を巧みに操りながら、人生評論家が喚く。一体、この医師は何を考えているのだろうか。
「父と母は私が二歳の時に円満に離婚しました、養育費も大学まで父は払ってくれました、恵まれた母子家庭でした」
「お父さんとはよく会いますか」
「いいえ、一度も会ったことなど有りません、父は好きな女の人を選んで家を出たんですよ、父も母も私も会わない、それが約束です。契約に一切の感情を持ち込みません。
父の方にも家庭が有りますからね。お節介な人の噂に依れば、三度目の結婚で落ち着いて、二人の娘さんと一人息子が在るとかで。父は死んだとは思いませんが、南極観測隊で働いて、お金を送ってくれる人とは思い、大学を卒業するまでは一応感謝はしましたわ」
何で父のことなどで感情を害するのかしら、アメリカでは離婚保健に入るのが常識だわ、その常識の無い日本で、殆ど養育費さえ払わない慣習のこの風土で健気に毎月仕送りするなんて表彰もので、驚嘆に値する。お互いに顔さえ知らない都合のいい他人同士じゃないの。
先生は何を企んでいるの、毒には毒で、父で蛇が退治できるなんて短絡的なことを考えているんじゃないでしょうね、少しは精神科医に期待して、社会的信用を賭けてここまで来たのだから、それに見合ったものを頂いて帰らなければ、ビジネスが成立しないわ。そうでなければ、道端の手相占いとちっとも変わらないじゃいの、段々と何かしらかっかして来ちゃった。
つい今し方までポーカーフェイスでクールなんだわと思っていたものが、EDUCATED-FOOL、高学歴馬鹿じゃないの。
「食事は三度きちんと取られていますか、ちょっと細いように見えるものですから」
父を諦めてはいない、詰まり、否定する段階を踏むことさえできなかったのだ。
普通の女の子なら、会いに行くとか、会いたいと思うものだ、自分の描いた父親像を壊したくないからだ、祖国を去った移民ほど、祖国を熱烈に愛する者は在ない、古里は遠くにありて、思うもの、だとか、古里を追われた啄木でさえ、古里の山に向かいて言うことなし、古里の山はありがたきかな、と謳っている。
南米移民の日系二世や三世はその祖父母の祖国に来て失望する、もっといい国だった、それを乗り越えた者がここで働けるのだ。
父や母はそうは言わなかった、祖父母もそうは言わなかった、だが目の前に映った日本が現実なのである。
それでも尚愛するのか、そんなものだと捨てるか、二者択一の住み着く術である。
彼女は父を意識しなかったが、その安穏を揺さぶる事が起こったのだ。だがその危険を察知した気付かれぬ意識が隠した。
しかしその意識の検閲を擦り抜けて密入国した、それは蛇に姿を変えて、彼女に事実を知るように迫っているのだ。
幾ら父親が欠如しているとは言え、保育園で、幼稚園で否が応でも直面するはずだ、だが聡明な彼女はそれを躱わした。言葉に依って、自分を健気に鼓舞したとも言える。
それは彼女の強さとなり、アキレスの腱ともなった。
「お母さんの気丈な方でしたね、女手一つであなたをお育てになったのですから」
母は立派だった、塾にも通わせ、習い事もさせた、それも早期教育、幼稚園の頃から、そのために名門国立女子大学出の肩書きで都でも屈指の予備校に就職し、御飾りの語学留学のお蔭で日常英語などは素人には流暢な英語に聞こえ、英語のエキスパートしての御墨付きとなり、人気者の講師となった。
五歳の私の目にも活き活きしているのが分かった。
私のために再婚もしないで仕事をしているかのような素振りを見せる、言葉で言うより子供には効果的だった。
母は美しく着飾る予備校の講師にしては珍しいタイプだった、大物女優のIに似ていると評判なのよと、中一の頃、母は何気なく言った。知的で綺麗なお母さんのような安谷屋先生、受験競争の男の子には女神のように映った事でしょう。
そう思えば思うほど息抜きも出来て、勉強にも身が入る、母のコースはいつも定員をオーバーした。塾の先生も、何よりも経営者はいい拾い物をしたと厚遇した。
離婚して仕事をして初めて、母は我が世の春を知ったのだ。
或る意味では子供は欲しいが結婚はイヤとの意図した訳ではないが、働くインテリ女の理想的な模範例となった。
ちょくちょく頭の軽い奥様連中がうっぷん晴らしにディナートークショーのような講演会にまで招かれる事になった。
その副収入は大学卒の初任給を越え、棚から牡丹餅、予備校のPRと言う事無しである。お手伝いさんまで雇えたわ、料理は母などより数段上だった。
まあ、働く女がお嫁さんを貰ったようなものだった。炊事・洗濯・掃除、人間はロボットより有能だと分かった。
「ええ、私のためによく働いてくれました、今でも現役です」
自我に目覚めず終わるのもいい人生だ、まあ人生などと泥臭いこと考えないだろう。
彼女は確実であった母にもそっぽを向かれ、父を演じる華麗な宝塚の男役の女性と家族として住み続けなければならなかった。少なくとも、彼女はそれを肯定的には捉えなかった、『今も現役です』。それは年老いた父に対する労ねぎらいの言葉であり、母親に向かって発する言葉ではない、憎しみの響きを包んだ感謝の言葉である。
「母を愛しています」
と言えば
「母を憎んでいます」
と認めることだ。
精神科は科学ではないと言い放った哲学者がいたが、聞き慣れないマイナーな名前の西洋人だ。
詰まり証明はしなくとも、クライアントを納得させればいいからである。
しかし彼女が神経症ならフロイトでもいいが、躁鬱の可能性は少ないが、統合失調症なら、フロイトも耳障りなだけだ。
美佐子は紺のジャケット、白のブラウス、紺のタイトスカートに、ショルダーバッグを提げて、パレット久茂地前のスクランブル交差点の人込み中に入りオフィスへ向かった。
《一体私にが起こったの、全てが異様になってしまった》
[いいですか、蛇は脱皮する。
今はあなたが生まれ変わる、再生しようと、格闘、葛藤している状態だと考えられます]。
『傷害事件の容疑者に精神病院に通院歴有り』【心を覗く聴診器もカメラも超音波もスキャナーも無いのです、その全てを担っているのがあなたの発する言葉です】
〈初めて出会った人に洗い浚いぶちまけろと言うの、来るんじゃなかった〉
!私は銀河天法であって、銀河天法でない、救い主・イエスキリストである。悩める者は我に触れよ、忽ちに救われるであろう、さあ、至福天下教会へ来たれ、
さらば汝は救われる、汝は救われる!
?僕には皆が悪魔に見えるんです?
南野メンタルクリニックは反りが合いそうにないので、近くて行きやすい隣町の大きな県立の清風病院に代えた。
三度目か四度目の診療を終えて、美佐子がグランドに出ると誰かが名前を呼んだ。ギクッとした、知り合いにここに来たのがばれる、身が竦んだ。
上下黒のジャージの男が近寄ってきた。美佐子は精神異常であることを吹聴され世間に知れ渡るのではと怯えで足が震えた。
その男は小中高と同じ学校の同級生だった屋良修三だった。秀才で陽気で、変わっていた。高三の時、六時限目のホームルームをしたいかしたくないかの評決を取り、したくない生徒の数が多ければ、それではホームルームは続行できませんのでと、先生が来る前に皆を帰した。彼は悪びれずに先生に翌朝、有りの儘を報告した。先生の気持ちはどうだったのか分からないが、そうかと言っただけだった。そして修三は評決を取るのをその一回で辞めた。
先生への気配りもあった。
修三はアメリカのカリフォルニアだか、テキサスの大学で消え、音信不通で今まで来ていた。だが皆は彼がアメリカか、南米で思うがままにに暮らしているのだろうと信じていた。
そのような修三が精神病院にいた。
二重のショックで、美佐子は金縛りに遇ったように動けなかった。
「美佐子、最初の時から、お前だと思ったけど、話しかけなかった。一度だけなら、ここに用は無くなるからな。
でも二度三度となると、クラスメイトとして知らぬ振りはできない。
心配するな、お前のはただの神経の疲れと、肉体の疲れがダブるで来たから弱っただけだよ。
お前は俺のように院生、詰まり病院の入院患者のにはならないよ。
一度罹って、治って二度と罹らない麻疹のようなケースだよ」
「修三が一番ここに縁遠い人だと思っていたのに、びっくりするわよ、三十八歳だから、二十年振り、再会するには、場違いで、一番悲しい所じゃないのよ」と美佐子がバッグからハンカチを出して涙を拭いた。
「お前は昔から、可愛い顔して、野蛮なこという癖、治ってらんなー。
ここの何が悲しいところなんだ、俺は十二年住んでるんだぞ。外で暮らすより、ここの方が俺には向いているんだ。
でも、泣き暮らしてはなかったぞ」
「御免なさい、そういう意味で言ったんじゃないの」と美佐子はパニック寸前になった。
「バカか、お前は、その位は分かるよ、冗談だよ。それをまともに取るなんて、オテンバの美佐子もオバサンになったか。そんな年じゃないだろうが、俺もお前も」
それから四週間後の診療日に、一人で俯いてグランドのベンチに坐る修三に、美佐子が声を掛けると、修三は声の相手を確かめて俯いた。
「まだ諦めてないの」と美佐子はだるい声で言いながらベンチに尻を落とした。
「お前、もっとあっちに坐れ、対人距離があるんだから。
ゴキブリの件か、今、悩んでる、私はカフカのグレゴール・ザムザのように甲虫に変身したらどんなに助かるだろうかと思った、だが外見が変わっただけで、中身は不幸にも人間のグレゴールである、それに甲虫ではなく、ゴキブリだと思う、その方が街では生き易いとの推測に因る、家族にも捨てられ、完全に自由の身となった、そこでカフカはペンを置いた、しかし私が目指しているのはグレゴールのように人間の言葉を話し、理解できるゴキブリじゃない、それなら今と変わらず、この世の人全員に罵倒され、裁かれるのと変わらないじゃないか、もう変身は望まない、同じように怯えがあるのなら、未知のゴキブリの怯えより既知の今の姿形の怯えがまだいい」
スクランブル交差点のアスファルトに白線の道路が波のように揺れ始めうねり、美佐子は行き交う人込みの中で蹲った。
海が忽然と現れた。
三ヶ月前…
石垣から西表へのフェリーが紺碧を突き進み、後尾には白いラインが棚引いている。深く暗い青の海をデッキから間近に見ると、どうぞ飛び込んで下さいと眩しい光の中にできた波の陰影が様々な海で遭難した人々の断末魔の顔を浮かび上がらせ、美佐子は覗き込んだ顔を上げて遠くに目を移した。
瑠璃色の絨毯が何処までも何処までも敷かれて波打ち、別乾坤の王宮を思わせた。
その踝まで沈むほどの絨毯の上を、細身だが胸と尻は豊満だが、異様なまでに括れたウエストの女王が威風堂々と歩き、玉座に坐った。色取り取りに熟した果実の盛られた銀の器から一房の葡萄を掴み、口に入れ甘い香りを漂わせ汁が零れ落ちる。
女王は昨晩夜を共にした手枷を填められた屈強な赤銅色に日焼けした奴隷を連れ出させ、目の前に跪かせ、頬笑んで、『首を斬れ』と臣下に命じた。
臣下は手を叩き斬首官を呼ぶ。現れた斬首官は華奢で不釣り合いなほど大きな中華包丁を左手に、右手に俎板を持っていた。男の首を俎板の上に突き出させ、包丁を真上から振り降ろし、血が飛び散り、首の皮一枚で残した首は辛うじて胴体と繋がる妙技を披露し満足の笑みを漏らした。
斬首官は首をもぎ取り、俎板の上に垂直に立て、恭しく女王の眼前に差し出した。
女王は子供のような喜びで目を輝かせ、その首に魅入られ、恍惚となり、嘆息した。
「もう少しだったのにね、この男の顔にも死の苦悶の表情があってよ。一瞬の死の激痛の後の痙攣にも、歓喜、エクスタシーの笑いがないとダメなものよ。
これで何人目かしら、どいつもこいつもライオンのディナーに放り込んだほうがよかったわ。
いつになったら死を飛び越えてしまった淫奔の男の首のミイラのお人形さんとベッドでお眠りすることができるのかしら。
もっと強く雄々しい男を生け捕ってこい、この臆病者の腑抜け共」
凍えるほど美しい女王はけたたたましく笑い、数知れぬ男の首から流れた血を吸い込んだ青の波の絨毯を気怠るく踏み躙り閨に戻っていった。
青の海の底で赤のどす黒い血の色に変わってゆく、そして水死者の苦悶の顔が水泡となって沸き上がった。
美佐子は激しい吐き気に襲われ、吐こうとしたが吐き出すものはなく、その度に虚しく胃が収縮するだけである。
真っ青な波の下で今も血を流し続ける人々の群れを見た、冥々とした海底に足を取られ藻となり絡み僅かな届かぬ天空の光に餓え、夢見ながら永遠に漂う。
その血が美しい青に変わるのを見た、デッキでは五十人ほどの乗客が空と海の青の狭間を満喫していた。
この青さは無数の死者の血なのです、海は屍の行き着く子宮、あの空は魂が行き着く胸、あの雲はこの世に未練を残したものが漂っているのです、あの鬱蒼とした藻は人間の喜怒哀楽の染み付いた肉を浄化しているのです、その様なことを真顔でこの乗客の一人に告げたらきっと軽蔑の眼差しを返されるだけだろう、以前は自分のことを他人に話すことはなかった、
『自分は強かった』。
だが今は一人だけでも美佐子の言うことを真剣に聞いてくれる人が欲しいと切に望んでいた、もう蛇を消して欲しいとは願ったりはしない。
それを口にできず、胸奥に閉じ込めなければならない、閉じ込めてしまえば最早それが飛び出て行くこともなく、かといって、それを克服する力も持ち合わせていない、だから消え去ることもない。
記憶の底に日々の苦悩は堆積し、なにかの拍子に怒り・憎しみ・恐怖がどろどろに溶け岩漿となって吹き出してくる、目覚めた時にか、眠りの時にか、何時の間にか私は静かに発狂する、美佐子の足ががくがく震え出していた。
だが魚の群れが海が地面が建物が群衆が死者の群れが一切が連珠となり漆黒の闇の蛍のように明滅した。
「既に生まれたもの、今から生まれようとするもの、一切が幸せであれ」
記憶の泥の底に沈んでいた昔読んだ本のフレーズが稲妻のように閃光し、キーンと鋭い金属音が美佐子の耳に走った。深呼吸をして立ち上がり周りを見回した。
「みんなが、私が、魑魅魍魎だわ」
と呟き歩を進め、雑踏に飲み込まれながら、美佐子は揺れるアスファルトの海の上の道をオフィスへと向かった。
スクランブル交差点
そのように見えるなら、そのままでもいいか。
幻ならいつか覚めるでしょう。