孤個幻現(ここげんげん)

目次
「私」より
   一、蚯蚓
   二、ガジマル(榕樹)
   三、ゴーヤー(苦瓜)
   四、鰹の烏帽子(かつおのえぼし)
   五、トウトウメー(仏壇)
   六、先島蘇芳(さきしますおう)の木 
   七、火之神(ヒヌカン)
   八、機中
   九、再びの東京
   十、沈める記憶
   十一、聖母子像
   十二、あいつが在た
   十三、皆が死ぬ
   十四、大いなるもの

私が見えますか

   弧個幻現(ここげんげん)
     作・三雲倫之助
 目次
   「私」より
   一、蚯蚓
   二、ガジマル(榕樹)
   三、ゴーヤー(苦瓜)
   四、鰹の烏帽子(かつおのえぼし)
   五、トウトウメー(仏壇)
   六、先島蘇芳(さきしますおう)の木 
   七、火之神(ヒヌカン)
   八、機中
   九、再びの東京
   十、沈める記憶
   十一、聖母子像
   十二、あいつが在た
   十三、皆が死ぬ
   十四、大いなるもの
「私」より
《あなたが見えるということは、他の人が見えないということで、誰かを見ているということはあなた自身が見えないということで、あなたは私ですか、それとも私ではない私ですか、あなたは闇夜に光る月のように、私の私を、どうかあなたの手の平に載せて見せて下さい、一生のお願いですから》
   一、蚯蚓
 いつものように伝票を整理しパソコンに打ち込んでいると、目がちくりと痛み霞んだ。画面の伝票の数字が蠕動するように思われた。目の錯覚、疲れだと常備薬の目薬を差した。それから再び画面に目をやると、夥しい数字の蚯蚓が這いずり回っていた。白黒の画面なのだが、蚯蚓は光沢を帯び、その滑めりさえもが伝わってくる。四角い水槽にバケツ一杯の蚯蚓を放り込んだかのようであった。小雪は目を逸らしたいのだが、もしそうすれば、蚯蚓の群が画面から這い上がってきて、体に纏り付くのではとの戦きで、釘付けにされていた。1という数字が次第に膨らみ、9と6となり、男と女の体となった。手足をもがれ、その皮膚を矧がれた男と女が縺れ合う。8になり離れては○と○となり、蠢いている。合体と分裂を繰り返して増殖する蚯蚓の群。脈絡もなく蠢くおぞましい粘膜の微少な人体の営み。
 一昨日の夜、小雪は十歳年上の妻子のある後藤と同じベッドの上にいた。
 営みが終わると、後藤は起き上がり、その口を開いた。
「私は…妻と子供とは別・れ・ら・れ・な・い」
 三年も離婚するからと、付き合い、いざとなると、妻と子供を引き合いにして、自分の都合が道徳的であり、世間の指示も得られるとの宣言であった。不倫も三年続けば妻のようなものであり、飽きてくる。
 それなら、離婚などと騒ぐ必要のない不倫の相手を棄てたほうがいい。体面を保ち何度も浮気をする、合理的である。それに三年の間に、後藤には子供が一人できていた、扶養家族が増えて、サラリーの税金が控除されると内心喜んだに違いない。三年も、よくもこの後藤と付き合ったものだと思うと、何の感情もわかなかった、ただ疲れがどっと来た。
 パソコンの画面には蚯蚓がのたうち回っている。
「小雪、怖い顔して、何睨んでいるのよ」と隣のデスクの沙織が肩を小突いた。
 我に返り振り向くと、沙織が、何、考えてんのよと笑った。
「何でもないの」と小雪は答えたが、『蚯蚓が映ってんのよ、見て』と叫びたかった。しかし、錯覚だとしたら、神経症、アタマオカシインジャナイノ、と噂されるのではと言い出せなかった。
「そう、それならいいの、美しき乙女があまりきつい顔をするものじゃないわよ」と、沙織は自分のパソコンをうち始めた。
 恐る恐る画面に目を移すと、今先まで蠢いた蚯蚓は干からびて死んでしまったかのようにアラビア数字となり、整然と並んでいた。小雪は動揺していた、あの蚯蚓は幻覚だったのだと知らされたためであった。今までに、その様な経験は一度もなかった、霊やお化けの類にも出会った試しはない。すると、狂い始めたのかと現実の狂暴な不安が胸に広がって行く、小雪は親類縁者に狂ったものがいたかを頭の中で探し回る。疑心暗鬼となり、数字を幾つも幾つも打ち出すが、動き出すことはなかった。
 6・9・8……嫌らしい数字にみえる、仲のよい嘘で築き上げたカップル、ベッドに裸で横たわる男と女、棺の中の屍、家族という絆にがんじがらめにされて身動きが取れず死を待ち侘びる夫婦。
 数日後、小雪はいつものようにパソコンに文書を打ち込んでいる、漢字が雪崩て、蚯蚓が這いずり出す、醜い生き物がミンチの塊から出没する。一昨日食べたハンバーガーを思い出し吐き気がして、化粧室へ駆け込んだ。吐いたものの、蚯蚓は消化され黄色の胃液が出るだけであった。口を漱ぎ、ハンカチで拭き、鏡を見た。いつもの私の顔だと小雪は呟く。首の辺りが痒くなり掻くと、滑った感触が走った。そこをよく見ると、微小な蚯蚓が湧き出している、髪がもぞもぞしたかと思うと、蚯蚓が蠢いている、目から一匹が、口から耳から鼻からも、小雪は失神した。
 会社の医務室で目が覚めると、軽い貧血ですと、今日は早退したほうがいいでしょうと保健室のナースに言われ、小雪は上司に許可を貰い早退した。
 通りは人で満ち溢れていた、この中の一人である小雪だけがどうしてここにいるのかとの問いとそれに答えられぬ不安に驚いていた。その様な問いは考える前に、何よこれと思考の屑箱に捨て去られるものであった。そうでなければ、この長い人生を生きてはゆけないとの使い古されても磨耗しない世間知が幅を利かせていた。だが、小雪の心のその普通であるとの防波堤が決壊しようとしていた。それは最も単純な疑問、私に、世界に、何が起こったの、何が起こっているのであった。小雪はそれを笑い飛ばそうと胸奥で試みたが徒労に終わった。できるなら道行く人々の一人一人に訊ねてでも答えを見つけたかった。
「見ての通りよ、変わるわけないでしょう」と誰かが笑った、それが違うのよ、以前とは違うのと小雪は吐きそうになった。
   二、ガジマル(榕樹)
いつの間にか小雪は都会の見知らぬ行人に、知人友人親戚、遭う人全ての人間に罵られ裁かれて、蔑視されていた。
 それに忌まわしい蚯蚓からも逃れられず、仕事も続けることができず、精神病院へは入り口のドアの前で足が震えて入れず、自分が壊れてゆく恐怖に目の前が真っ暗になった。
 会社には何日も行けず、結局は辞める羽目になった。それで症状は良くなるどころか悪化した。そして八方塞がりの小雪は自暴自棄の状態で、死ぬのも楽なような気がした南へ、暖かいところへ兎に角逃げてきた。それ以上東京にいることが、同じ所にいることが耐えられなかった。
 行き当たりばったりの逃避行で袋小路に陥ったのが八重山は西表だった。
 民宿「山猫」のおばさんとおじさんは何を食べても戻す青白い顔の小雪に、尋常ならぬ状態を悟り、宥め賺して神人の住む蓬莱島に行くことを納得させた。
 翌朝、小雪はポカリスエットだけを飲み、おじさんの軽貨物で三嶽集落へ向かった。黙っていることに気まずさを感じたのか、おじさんは琉球民謡を歌い出した。歌詞の意味は全く分からないが、小雪をほっとさせるメロディーと声であった。
 三嶽の浜辺に水牛車が止まっていた。その傍らに円錐の檳榔(びろう)の葉で編んだクバ笠を被った老人がサングラスをかけ煙管でタバコを吸って佇んでいた。その背景の海と空、これが南国の長閑な風景だと小雪は感心していた。
 おじさんはボストンバッグを手に車から降りてその老人の所へ歩きだし、「信吉おじい」と呼びかけ、何やら話して、ボストンバッグ荷台に置いて、小雪を手招きした。信吉は御者台に坐り、小雪が来ると「ここに坐りなさい」と隣の席を指図した。小雪は従い、乗ると「ゆっくり休んできなさい」とおじさんは右手を上げ軽貨物に乗り去った。
 信吉が手綱を揺すると水牛が蓬莱島にのんびりと重そうな歩み始めた。サングラスをかける老人が珍しくて、小雪は笑みを漏らした。
「お姉さん笑ったろう、名前は何と言うか、儂は信吉だが、おじいでいい、おじいさんという意味だな」
「三上小雪です、小雪と呼んで下さい。サングラスがとても素敵です」
「そうか、恰好いいか、内地の女性が使う日本語は柔らかくていいね。小雪は美人だね、しかし儂は目が見えんから、本当のところは分からん」と信吉は笑った。
「目がご不自由だったのですか、済みませんでした」
「どうして謝るんだ、サングラスが恰好いいと褒めただけだ、気にすることではない。それより、この牛車が蓬莱島に辿り付くかどうかを心配する方が先だと思う。海で迷子になるのは陸とは比べものにならんほど、怖いぞ。小雪は泳げるか」
「泳げます、でも着くんでしょう」
「どうかな、満ち潮になるとここら辺は歩いては渡れん、流れも速い。桃太郎に聞いてみなさい、水牛の名だ、でも、これは雌牛だ、どうも女の名前を毎日呼ぶのは照れ臭いからな」
「着きますと言いました」
「どうして水牛の言葉が分かるんだ」
「首を縦に振ったんです」
「面白い人だな。確かに、桃太郎は蓬莱島と三嶽を繋ぐ海の道が分かる。賢くて気立ての良い子だ、儂の自慢だ」

 蓬莱島でただ一件の家、コンクリートの赤瓦の平屋の前庭に着くと桃太郎が鳴いて、立ち止まった。中央には大きなガジマルの木が四方八方に濃い緑の葉をつけた枝を広げて、木蔭を作っていた。
 信吉は牛車から降りて、集落で求めた食料や日用雑貨が入った箱を下ろし、家の勝手口から台所へと運びだしたが、とても目の見えない人とは思えない歩き方である。小雪が手伝おうとすると、信吉は自分の荷物を持ちなさい、部屋に案内すると、どんどん歩き出し縁側から上がり、広間の裏の横に三つ並んだ部屋の間近の一つのドアを開けた。
 部屋は六畳でテレビもラジオもあったが、テレビは衛星放送しか映らないと告げた。何もない寂れた孤島をイメージしていた小雪にとっては驚きであったが、反面ほっとしているのも確かであった。
「ここは若い人の部屋だ、窓からは森の風が吹き込んで涼しい。この島ではのんびりとのんびりと過ごしなさい、昼寝もしなさい、島もぶらぶらしなさい、思い通りにしなさい。比屋根さんとはその内自然に顔をあわすだろうから、その時に挨拶すればいい。ここでは何でも簡単に済ませる。えーっと、トイレと風呂はここの奥の方だ」
 ボストンバッグから衣服を取り出して、箪笥に入れ、小雪は畳の上に寝そべって、窓から森を眺めた。亜熱帯の鮮やかな緑の広葉樹が吹き抜ける風と戯れていた、テレビで見たアマゾンの森のように人を拒む厳しいものではなく、大らかな森であった。その森の一角を借り受けて、この家が建ち、現在信吉と小雪と比屋根がいた。この島をプライベイトな避暑地にしてしまったリッチな気分であった。それでも、森の上に雲が影を落とすと小雪の気分は一変してしまった。
 この島には三人しかいない、何が起ころうと二人が黙っていさえすれば、誰にも知られることはない。もしかして、民宿のおじさんとおばさんは同情を隠れ蓑にして厄介払いのためにこの島に送り込んだのではないか。神人とは言っていたが、ここは実は狂人を押し込める自然の牢獄で、二人は看守なのだ。手に余れば、あの大きな中華包丁で首を刎ねるのだ。首は喰えないからと、森の大きな木の下に埋めて、蚯蚓の餌とする、私の首は生きていて、蚯蚓に集られ貪られる苦しみを味わっている。胴体は解体され、冷蔵庫に保存されて日々の蛋白源となる。それか森の奥に棲む大きな蚯蚓の生け贄となってしまう。ここではまだ人身御供の風習が秘密の儀式として行われている、それを司るのが神人、比屋根であり、その補佐が信吉だ、だから村人に大切に保護されている。だが、それでは余りに荒唐無稽のお話しで、私は狂っていますと、神経を病んでいます、触れ回ったことにされて、口実を与えてしまう。それでもこの考えを空想ですよ、そうではありませんよと誰か言ってくれないだろうか。誰もいやしない。
 小雪は居た堪れずに、部屋を駆け抜け素足で外に飛び出した。
 蓬莱島の朗らかな色の海と空がゆったりと横たわっていた。
 感情が窒息し、小雪の目から涙がぽろぽろ落ちる。それさえ出来ないようになれば自分は狂うしかないのだと震えが止まらない。
 そこへ、ランニングシャツ、半ズボン、ゴム草履の真っ黒に日焼けした比屋根樸(あらき)が現れた。
「小雪さん、夕食にしよう。足は井戸で洗いましょう」と頬笑んで、何事も無かったかのように小雪の手を握り立たせた。
 勝手口の横にある井戸のポンプの蛇口の前に立たせ、樸はポンプを漕いだ。足元に掛かる透明な冷たい水が小雪を何故かほっとさせていた。
「家の中まで運んでやるよ」と樸は小雪をひょいと捕まえ抱きかかえ、「軽すぎる」と呟いた。
 無骨に驚きと新鮮なものを覚えた。男の体に触れるのは後藤と別れて以来の出来事であった。雄の体臭のようなものはなかった、磯の、海の臭いがした、嘔吐感に襲われることも無かった。
 信吉も比屋根も人喰いの鬼ではなかった、ないはずだ。
 一人になりたいが、一人になると不安の妄想が一人歩きをする、小雪は自分が正常なのか異常なのかという自問自答で両端に揺れていた。この疑問はすぐに消え去るが、すぐに火が点いてしまう。 
 樸は縁側に小雪を優しく降ろした。
「僕は比屋根樸です。小雪さんのことは『山猫』のおじさんから電話で聞きました。ここも女の人が居てくれると華やいでいい。寛いで下さい、それから小雪さんは痩せ過ぎだ、適当に太りましょう」
「電話もあるんですか」
「ありますよ、テレビ、冷蔵庫、洗濯機、そうでないと町の人には不便でしょう。それに電話は携帯で、衛星を使って何処にでもかけられる最新型だそうです。小雪さんが使いたいき時にはいつでもどうぞ。仏壇の前に置かれて、僕もおじいも使ったことはない、かけるところがないからね」
「あのう、宿泊費は一泊お幾らですか」
「そんなものはありませんが、五百円ぐらいなものじゃないですか。でも、ここに働いている者はいませんから、貰えないんですよ」
「それでは一日五百円払います、安くはないですか」
「いいえ、金を使うことはここではないですからね、この島にあるものは全て三嶽や近隣の村から寄進されたものです。食べ物も衣類もそうですよ。だから、小雪さんも遠慮することはないんです。
 僕とおじいはずうっとその厄介になっているんですから」
 小雪は笑ったが歪な感が否めなかった。
 樸は仏壇の前の広間にテーブルを出し、料理を並べた。それから仕上げに、信吉が泡盛の一升瓶を持ってきた。
「小雪、坐れ」と信吉が言い、小雪が坐り夕食となった。
「ジュースを飲んで、お粥と蒸したさかなを食べなさい」と信吉は小さな孫にでも言いつけるように指図する
 コップの緑のジュースを飲んだ、苦くて、不味いのか旨いのか分からない、このようなものは一気に飲むものと飲み干した。
「苦いだろう、ゴーヤー、苦瓜のジュースだからな、夏ばてに効く、美容にも良い」と信吉は嬉しそうに笑う。
「苦い、一杯で十分です」
「次はお粥と魚を食べなさい、残さず食べなさい」
 小雪は俯いてくすくす笑った。
「何が可笑しいか」
「いえ、食べます。お料理はおじいが拵えるんですか」
「黙って食べなさい。そうだ、儂は好き嫌いが多いから、自分で作らんと不味いのを喰わされるからな、だから、この家のものは勝手に動かさないようにしてくれ。儂の覚えた所に在るべきものがないと困る、無いものがあっても困る」と信吉は得意げである。
 小雪が信吉のメニューを摘み終わると、樸が酒でも飲みますかと泡盛のお湯割りを三つ作り、それぞれにコップを置いた。
 飲むと吐くだろうなと危惧して、小雪は躊躇した。
「小雪さん、飲んでも、きっと食べたものを戻すことはありませんよ」と樸がぽつりと言った。
「酒は飲んで覚えるんだ、初心者がそんなことは気にするものではない、吐くのなら、吐きなさい、体がそうするんだから。ここは酒に寛容な所だ、特に比屋根さんと儂はな、酒飲みだからな」と信吉は実に旨そうに飲んで見せた。
 小雪は信吉と樸の飲みっぷりに釣られて、飲み始めていた。酒を造るタイミングがいいのである。小雪がもうちょっとだなと思うと、気付かぬ間にコップは満たされ、まあ言いかと再び飲み出してしまう。それは意識的に遣っているのではなく、酒飲みの自ずと身に付けてしまった習性である。酔いが回り、小雪の樸と信吉に対する緊張が少しずつ解け、ほんわかとして、束の間の心のバランスを取り戻していた。
「こうして人間と話すのも久しぶりの様な気がする。東京では今よりずっと喋ったけれど、家に帰ると何もない、その場限りで喋る、聞く、見る、弱音はけして吐かない。それを言ってしまえば、その場は繕って聞いて上げるけど、その子がいなくなったら、何よ、あれ、白けるわよと鼻で笑っている。私もその一人だった。いざ自分が本当に苦しくなると、独りぼっちだとか、薄情だと思っちゃうのだから、身勝手もいいとこ」
「儂も目が見えなくなるまでは真面目な話しや辛い話を聞くのが嫌いだった。そのぐらいのことは自分で片付けて、人に言うほどのものではないと思ったものだ。
 自分は腕のいい大工の棟梁で、一所懸命働いて、誰にも負けぬ仕事ができると自惚れも手伝っていたな。所が、建築現場の屋根から落ちて頭を打ち、目が見えぬようになると、毎日酒を呷って、家族に八つ当たりをして、その内に見捨てられた。
 だがな、それでも来てくれる奴が一人いた。ナチブサー三郎、泣き虫三郎と呼んでいた奴だ。
 不器用で仕事の遅いナチブサー三郎は、その様なことを実際に経験していたんだ。建築現場の人間は荒っぽいものばかりだから、気の弱い三郎は目立ってしまうし、目障りなんだ。だからいつでもどやされていた。それでも他に働く場所がないから、ずっと雑用係でもやり続けていた
 その三郎が或る日、カマドおばあを連れてきた。蓬莱島の前の神人で、名前だけは知っていた。『酒は好きか』と聞いた。好きだと言うと、『死ぬまで飲ませてやるから、蓬莱島へ来い、ここにいては皆に嫌われて、住みにくいだろう』とカマドおばあは言った。儂は自棄になって、いいだろうと答えた。すると、カマドおばあはすぐに待たせてある牛車を呼んで、三郎が荷作りして、その日にこの島に連れてこられてしまった。一月ぐらい、ここで酒浸りの生活をした。そして、夕食の時にカマドおばあが言った。『お前は泣きたいか、泣けばいいだろう、泣いたことのない奴はウフッチュ、大人にはなれん。お前は働き者だった、だが生活のために働いていた、大体がそうだ。だがな、天の神はお前に、生きるために生活してみなさい、生きるために動いてみなさいと告げているんだ。天の神は、今のお前になら分かると信用して告げたんだ』儂は大声で台風の雨みたいに泣いた」
 体力のない体の弱っている小雪は酒盛りの半ばで眠ってしまい、目覚める頃には已に日は高く、窓から外を見ると、樸が掛け声をあげるながら老人のようなラジオ体操をしている、視線が合うと、照れ臭かったのか、「熱いシャワーにでも入ってすっきりするといい」と言う。小雪も何だか照れ臭くなり、浴室に消えることにした。
 シャワーを一浴びして、Tシャツに半ズボン、小雪はサンダルを突っ掛けてガジマルの木蔭に入った。横たわって海が見えるように筵(むしろ)が敷かれ、籐で編まれた枕まで用意されている。高校の国語で習った俳句の、終日(ひねもす)のたりのたりかな、の海である。風光明媚、観光用のパンフレットの海ではない、吸い込まれそうな海であり、その上を駆けて行けば天まで昇って行けそうな海である。風の通り道なのか、ガジマルのこの下だけを吹き過ぎる。小雪はごろりと横になり、涅槃のポーズを取ると一休みの海と空に掛けられたハンモックに揺られているかの、心地好さが吹いて来る、微睡み、眠りの懐に落ちた。
 ガジマルの木から赤い髪を背中まで垂らした裸の小人がするする降りてきた。
『コロポックル、アイヌの人々が蕗の下に休む人と呼んでいる小人だ』
「バーカ、ここは南国沖縄だぞ、キジムナーと呼ばれているんだ」
 小雪は空港の出店のキャラクターグッズを思い起こした。
「お前、小雪と言うんだって、珍しい名前だ」と庭を飛び跳ねて、「ボクは小雪が気に入った、ここにいていいよ」とキジムナーは眠る小雪から衣服を剥ぎ取り、真っ裸にして、「お前だけ、服を着るのは失礼だぞ、小雪は女の子、小雪は女の子」と囃し立て股間を突き出した。
 小雪は顔を背けたが、そこには男の印、女の印もなかった、ノッぺラボウなのである、肌色の剥いた卵、均整の取れたキューピー……。驚いた顔を見ると、キジムナーはガジマルに駆け登り、両手で枝にぶら下がり揺らしながらキャッキャキャッキャと喜んでいる。
「服を返してよ」
「そうしたら、お前は逃げるじゃないか、ボクはお前が気に入った」
「そうじゃないわよ、恥ずかしいじゃないよ」
「どうしてだ、ボクも裸だ」
「あなたは子供で裸でもいいのよ、おませなガキね」
「バーカ、ボクはこのガジマルの木と同じ年だぞ、この世でボクと同じ年の人間はとうの昔に死んで、あの世の人だぞ」
「意地悪ね、比屋根さんやおじいに見られたら、どうするよ」
「あいつらか、痩せてる割には、いい体してなって思うぐらいだな、それにおじいは目が見えないから、まあ心配するな」
「君にはね、女が分からないのよ」
「知ってるよ、天女の羽衣を隠したのはボクだよ、お前より美人だったね」
「そう、そうなの、その天女がどんなに不幸だったか、君を見て分かったわ、天女に同情して泣きそうだわ」
「もう怒った、お前を嫌いな蚯蚓にしてやる」とキジムナーはちんぷんかんぷんな呪文を唱え出した。
 小雪の体があの滑った粘膜に覆われて一匹の大きな蚯蚓となって筵の上に横たわっている、その上肥満で身動きが取れない、醜く変わり果てた姿を目の当たりにして怖じ気づき、眩暈がしてきた。
「どうだ、蚯蚓になった気持ちは。それでもな、今は蛹の状態で蚯蚓だが、ボクに済みませんでしたと謝れば、すぐにでも元の小雪に変身させてやる。どうだ、鼻っ柱の強い小雪」
 小雪は歯軋りしたが、蚯蚓の姿はそれ以上に堪え難いものであった。
「ゴメンナサイ」と小雪はべそをかいた。
 すると、蚯蚓の粘膜が硬化して中央から縦に罅(ひび)が走り、二つに割れ、白い肌の裸の小雪が現れ、粘膜が消えた。
「ボクは意地悪じゃないんだ、ただ遊び相手が欲しいのさ、じゃれているだけなんだ。お前も天女もそれを意地悪と考えるんだ。おじいも樸もバカだから笑っているばかりで、あいつらとは遊んでも楽しくない。子供や小雪のように泣き虫がいいんだ、遊ぼうよ」
「意地悪しないって約束するのなら、いいわよ」と小雪は目を擦りながら笑った。
 すると小雪の体がキジムナーのように縮みふわっと浮き上がり、ガジマルの枝の一つに立っていた。それから鬼ごっこが始まり、四方八方縦横無尽に伸びる枝を駆けて飛び移り、風のように枝を揺らし、ガジマルの木がざわめいた。息を切らし疲れた二人は天辺の枝に腰掛けて、周囲を見渡した。広大な海と空にサンドイッチされた島々があった。
「綺麗だね」
「綺麗だ、でもこの地球に、この自然に醜いものはないんだ。本当は全てがこの海と空のように美しいのに、小雪にも人間にもその様に見えなくなってしまっているんだ」とキジムナーが突如消えてしまった。
 辺りを見回すと、小雪は自分の体が大きくなり元の大きさに戻っているのが分かった。
「小雪、驚いたろう、自分で降りな、登ったのだから降りられるだろう」と宙からキジムナーの澄んだ笑い声が聞こえる。
 下を見ると卒倒しそうなほどの高さで、小雪は泣き喚いた、それでも木の幹に抱きつき、震える足を恐々と一段下の枝に掛けては降りながら、キジムナーにバカ、バカと心では罵っていた。
『小雪』「小雪」と遠くから懐かしい人の声がして、小雪は眠っている自分に気付き目を開けると、鼻先に大写しの覗き込み笑うおじいの顔があった。
「いい夢でも見ていたか、寝息で分かるんだ、遭ったか」
「誰によ」と小雪は安心も手伝ってにこりと頬笑んだ。
「言うまでもないよ、この木の主(ぬし)にだよ、挨拶に来ただろう」と信吉がガジマルを見上げて笑った。
   三、ゴーヤー(苦瓜)
 時計など見ることも無く、蓬莱島に小雪が来て十四回目のお日様が昇っていた。朝日を見に東側の海岸まで行ったこともあった。そして西側の海に空をオレンジ色に滲ませ沈み、そろりそろり黄色のお月様が顔を出す。その一日の循環に馴染んできていた。それを示すかのように白かった肌はひりひり痛む赤い色から小麦色の地元の人の肌の色に変わっていた。それは外に出る煩わしさが無くなった証しでもあった。この島で散歩することは一人になれる安らぎを保証する、人に会うことの緊張がないからだ。ぶらぶらするのが時間の無駄、罪悪のように見下していたものが、穏やかという自然の懐を覗かせてもくれていた。島を先へと遠くへと歩いて行くと、ガジマルの木の下に着いてしまう当然の帰結だが、不思議な感じがする。それでも、先祖代々の神人となる女性にしか顕現しないと言われる神木の先島蘇芳(さきしますおう)の生える拝所の森の中には足を踏み入れてはなかった。
 亜熱帯と言うより、緑の夥しい熱帯の密林の奥深くには人を丸呑みにしてしまえるほどの大きな蚯蚓が蜷局を巻いて待ち構えているような恐ろしさを感じないではいられないからだった。考えるだけでもおぞましく総毛立ってしまうのだが、この森は何かの拍子に頭の中に潜り込んできてしまう。
 日はいつものように照り付けている、今ではそれも苦にはならない。今日は丸いパイナップルのような黄色の実を付けた阿檀の木蔭に筵を引き、海と遊ぶことにした。水着もちょっときつくなり、少し重くなったような気がする、肋骨も隠れてしまっている、痩せるのは苦労するがどうも肥満になるのは容易なことらしい。それでも沖縄に来て水着姿にならないのは、ファッション感覚が許さない。おじいは海に行くと告げると、ゴーヤージュースを持って行けと命令してペットボトルを渡した。おじいのお蔭で、ゴーヤージュースが小雪の水代わりとなってしまった。
 小雪は綺麗なクロールで海を捌き、一休みに阿檀の下でごろりと横たわった。散歩でもしていたのか、ふらりと樸が白い歯を覗かせて現れ、傍らによいしょと年寄り臭く坐った。異性を始めてみる少年のような恥じらい、阿檀になった実を見つめながらぼそっと言う。
「小雪さん、海と喧嘩でもしているような泳ぎだな、それとも鮫に追いかけられたのか」と樸は自分のジョークに自分で笑った。
「クロールよ、フォームもいいと思うけど」と小雪は突っ慳貪に答えた。
「いいかい、海のど真ん中で船が沈んだらクロールなどしないよ、長く海に浮くことだ。海の水ばかり見ないで、海を背にして浮いてごらん、空が綺麗だぞ。雲に乗ったような気分になる、海と仲良しにならないとな」と言い終わると、右手を上げ、じゃあとてくてく家に戻って行く。
 この麗しきレディの水着姿に一瞥も与えず、一言の礼賛の言葉も発せずに戻って行く後ろ姿を見ていると、腹が立ち中々治まらない、そして樸はホモかもと納得することにした。海で遭難することなど考えたことも無かった、痛いところを突かれた悔しさもあり、海に入りラッコのように海にぷかぷか浮く練習をするのだが、すぐに沈んでしまう、それに手足も動かさず浮くというのは胡散臭い気もしてきた。バカみたいだわとぼやき、小雪は浜辺に上がり筵の上にどたりと横たわった。
 信吉が抱瓶(ダチビン)―三日月型の徳利で両側に耳があり、それに紐を通して肩に下げる携帯用、をぶら下げて遣って来るが、転びはしないかと心配で声をかけた。
「小雪が溺れてはないかと心配して来たんだ、儂のことを心配するのはもっと大人になってからしなさい。儂はお前に声なぞ掛けられなくとも、風や音や臭いでお前のおる場所ぐらいは分かる。ここは儂の庭だぞ、知り過ぎるほどだ」と、信吉は抱瓶から泡盛を飲んだ。
「おじい、昼間からお酒を飲んでいいの」
「小雪、お前はまだまだ若い、年寄りはな、この島ではいつ酒を飲んでもいいんだ。もう生きている時間も少ない、楽しみしなさいと天の神が言ったんだな、これは酒飲みにしか聞こえないお言葉だな。小雪はそれを聞くにはまだまだ青い、ガキッチョだ」
「前から聞きたいと思っていたんだけど、比屋根さんは本当に神人(かみんちゅ)なの、神様の声が聞けるの。何だか、いつもぶらりぶらりで、掴もうとすると鰻みたいにぬるっと逃げるし、おじいなら分かるでしょう」
「小雪、儂は天の声が聞けない、そんな儂が比屋根さんが天の声を聞けるかどうか分かるか。しかし、亡くなった前の神人カマドおばあが選んだ人だということは誰もが知っている。皆は信じた、儂も信じた、疑うこともない。それも又天の声を聞くことなんだ」と信吉は酒を飲んで笑う。
「おじいはいい人なのね」
「この世に悪い人がいるのか、何かの都合でそうなっただけのことだ」
「おじいはそう言い切れるの」
「いや、全然そうは言い切れん、じゃが、そう信じたほうが気持ちが楽になるのは知っている」
「比屋根さんは偉いの、間抜けな質問だけど」
「小雪はのらりくらりの鰻みたいな人だと思ったんじゃろう、そのぐらいの人だ」
 小雪は信吉と話している内に、樸に縋ってでも蚯蚓の呪縛から逃れたいとの希望を求めている自分に気付いた。それでも蚯蚓のことを話して狂人扱いされることが、独りぼっちにされることが、怖かった。神人という絶対的な、言い換えれば絶対に治してくれるという確信が欲しかった。
「それでは普通の人と変わらない、神人と言えないでしょうよ」
「小雪、神人はネクタイに背広を着た立派な恰好をしているとでも思っているのか。そんなものは捨てて最も見窄らしい姿をしているのが、神人だとおじいは思う。普通以下だよ、見た目にはそう映ってしまう」
「それじゃあ、もし神様がいるのなら、どういう恰好をしていると、おじいは思っているの」
「それだけでも分からんか、何も着けてはいらっしゃらない」
「どうしてよ」
「目の見えぬ儂の前にも同じように立ちなさるからだ」
 小雪は笑ったが、目頭が熱くなっていた。「神様か」と呟き海へと駆け込んた。冷たいと思っていた海は昼の熱を貯え暖かく小雪の全身を包み込んだ。空にはプラネタリウムでしか見たことのない満天の星々が輝き、大きな月も黄色に鮮やかに懸っていた。昼間は聞こえなかった波の囁きがハーモニーとなって水面に煌き軽やかに漂よい、闇に朦朧として消え入る肌は海の息吹を感じていた。その懐で小雪を気遣う信吉の息遣いが鼓動が風に乗り聞こえて来そうな気がした、確かに聞こえた。とてつもない広がりの感触に浸されて、自分が海となって行く、不思議な、或るいは奇妙な溶解の感覚を、一つとなることの痛みにも似た喜びが体を震わした。夜の影であった、天と地と海が交錯する声であった。
「小雪、もう上がって来なさい」と信吉の野太い声が闇のしじまを突き破った。
 突然の大声にどきりと目が醒めた小雪は知らずの内に沖へ沖へと泳いでいた、はるか遠くにぽつりと家の明かりが灯っていた。『溺れる』……あの愛らしい熱帯魚が獰猛なピラニアとなり喰い千切られる肉のグロテスクな戦きの光景がフラッシュし、海がどす黒いゼリー状の不安・蚯蚓の塊となった。先程まで美しいと思っていたものが恐怖へと豹変する衝撃をまともに受けてしまっていたが、それを打ち消してしまう小雪、小雪と怒鳴り付ける力強い現実の信吉の声が鼓膜を震わせる。
 小雪はやっとのことで浜辺に辿り付くと倒れ込み、号泣した。信吉はバスタオルで小雪を包み、抱き締めた、信吉と触れたところから切れるような冷たさの体が熱くなり、その温もりが満身へと広がって行くに連れ、小雪は自分に返って行くのが分かった。
「死を垣間見るのは誰でも怖い、自然なことだ、でも、大丈夫だ、心配するな」と信吉は叱り付ける。
 この島々の人々は海で溺れた人を海が呼ぶ、海神様が呼ぶという、泳ぎのできるできないの問題ではない、人は呼ばれると安心して浜辺とは逆の沖へ沖へと進み、力尽きて沈むのだと伝える。
 目の見えぬ信吉の目に窺い知れない不思議な力を小雪はひしひしと感じてた。だがそれよりも、いつの間にか温もりをなくしてしまった小雪は押入の奥から子供の頃の絵日記を見つけたようにありがたいと思った。
「家に戻って、風呂に入って、夕飯だぞ」と信吉は小雪を抱き起こした。

 夕飯はパパイヤの炒め物、ゴーヤーと玉葱とランチョンミートのチャンプルー、中身(豚の腸)の汁、もうお粥ではない、普通のご飯である。それにいつも付き物の泡盛の一升瓶。
「小雪、出されたものは全部食べなさい、豚みたいに太ることはないから。調子が悪いと思ったら、泡盛を飲みなさい、喰いたくなるから」
 樸が現物のゴーヤーをテーブルの下から出した。
「ジュースの元はこれか、ぶつぶつしていて格好悪い、やっぱり苦い」
「もっとヤナカーギー、醜女(しこめ)だろう、でも毎日食べても飽きが来ない、ヤナカーギーはそれなりに努力をしているんだな」
 出されたゴーヤーは緑のいぼいぼの腹の膨らんだ蚯蚓を連想させ、いつもなら吐き気が襲って来るはずだった、おじいと樸が気持ちよさそうにどんどん頬張るのを見ていると逆に笑えた。
「汁を食べなさい、これは手間がかかるから毎日は喰えないから、一杯食べなさい。それからパパイヤもいいぞ、果物のパパイヤは臭いがきつくて、儂は好きでない」
 小雪は出されたものは全て平らげ、泡盛に入った。
「小雪、汁の具はな、豚の腸だ、内地の人はそれを言うと、びっくりして喰わない人もいる、中にはお客様に出すには失礼だと怒り出した人もいた」
「呑み込んでしまってから言われても手遅れでしょうよ」
「小雪も頑丈になったな、嬉しいよ、この島の人になってきた。それから、比屋根さん、小雪が海に掠われそうになったよ、びっくりしたな、ちょっと油断している間に、引っ張られているんだから」
「この島の人達は海に誘われて、それを乗り越えて大きくなって行くんだ、島の人間になりつつあるんだ、仕方がないよ、おじい。海神様が綺麗な女性だと気に入って呼んだかも知れないね。この辺では見掛けぬ顔じゃ、所望いたすとか、心が動いたんだな、きっと」
 小雪は辛い思いを何事でもないかのように酒の肴にされてかちっと来た。
「何よ、それは。人が死ぬほどの怖い思いをしたと言うのに、他に言い方があるでしょうよ」と小雪は一気に酒を呷る。
 信吉は楽しそうににやにやしながら酒を飲む。
「何よ、おじいまで、私をからかってここの男達は喜んでいるの、癪に触るわよ」と小雪の怒りは治まらず更に酒を飲んだ。
「海神様に誘惑されたから、お月様に向かって泳いだんだろう」と樸がぽつりと言った。
「そう、そうなの。私は海神様に気に入られたのね、もう海には入れない訳」
「いや、もう心配ない、海神様は小雪さんのことは忘れてしまっている。移り気なんだ、それにプライドが高いから、一度振られた女性には興味を持たないらしい」
 信吉が笑った。
「小雪、なぜ沖の方に泳いだ。小雪の心の何処かにこの世から逃れたいとの気持ちがあったのではないか。幸いにも、小雪は死がどんなものか見ただろう、怖いと思った。だから、遠くにいても儂の声が聞こえた、必死に泳いでこちら側へ戻って来た。海神様は優しいから全てを受け入れて下さる。だから、怖いんだ。心が疲れると、その優しさに誘われてしまう。海は美しく素晴らしい、だが儂等を飲み干すほどの魔力も持っている。それでも海の幸を惜しみなく与えてくれる。人も自分もその様なものだ、どちらも手に終えなくなる時がある、上手に付き合うことだ」
「東京から逃げた、人々から逃げた、でも一番逃げたかった自分からは逃げられないのよ。逃げることに必至だわよ、それでも私には最後の切り札が有った、逃げて逃げて、駄目な時には死の安らぎの懐へ飛び込めばいいと思った。でも、暗い海で死の形相を見た、悶え・苦しみ・醜く歪んでしまった顔で、生きたい生きたいという自分の望んだこととは反対の私がいた。死ぬことも怖い、生きることも怖い、どうやってこの世にいなさいと言うのよ、辛いだけじゃないよ、苦しいだけじゃないよ。だからここまで来たんじゃないよ」と小雪は蚯蚓が現れる恐怖を言えない事に、人を信じることのできないでいる悲しみと恐れを抱いて信吉と樸を見た。
 だが信吉の目にも、樸の目にも、涙が零れていた。
「苦しいな、小雪。それでも三度の食事だけは取るようにしなさい、今のように頑張って食べなさい、体力が落ちると、余計に気が滅入る。自分自身と向き合うことは辛いことだが、誰もが逃れることはできない。心は果てしなく広く深い、だが小雪という一人の体に収められている、だからどうにかできる」
「おじい、でも明かりが見えないのよ、それでも我慢しなさいと言うの、どうにかできると言えるの」と小雪はか細い声で呟く。
「どんな時でも、儂と比屋根さんはそう信じ祈っておる、たとえ何が起ころうといつでも小雪の側にいる。小雪はただひたすらにお祈りしたことはあるか」
「ないよ」
「そうか、悲しいことだよ」
 悲しいことだよ、その響きは懐かしく柔らかな肌触りを思い起こさせたが、その感情が湧き出る場所は、小雪の心には無かった、いつも蚯蚓に脅かされる自分がいるだけだった。もし酒を飲んでいなければ、この場から逃げ出し、独りで部屋で転げ回っていることだろう。それでも、ここには少なくとも自分がいても許してくれるスペイスがあるように思われた。だが、それも酔った時だけに限られていた、醒めると二人にさえ違和感を覚え、居場所を失ってしまう。辛いが、ここから逃げてしまえば、酔った時であろうと得られる他人との共有感さえ失ってしまう、小雪は小雪なりに崖っぷちで踏み止まっていた。
   四、鰹の烏帽子(かつおのえぼし)
 信吉の家の裏手の池では桃太郎が首だけを出して温泉のように浸かっている。桃太郎の立てる音を楽しみに、少し離れた所に信吉が煙管で煙草を吹かし、どてりと地べたに坐っている。
「清(チュラ)姿(カーギー)の匂いがする、小雪、来たのか、すぐ側に坐りなさい。都会者には暇はあるかも知れんが、おじいにはそんなものはないぞ、寛いでいるだけだ。遠慮するな、坐りなさいと言われたら、素直に坐りなさい、目上の人を敬いなさいと学校で習わんかったか、これは基本だぞ」と信吉は手招きをする。
「おじいを敬いなさいとは教わらなかったわ、但し、体の不自由な老人は労りなさいって言ってたわ」と小雪は横にべたりと坐った。
「学問をすると口だけは達者になる、困ったもんだ。おじいは老人ではないぞ、健康体だ、五十や六十の若造には負けないぞ」
「おじいこそ、もう少し優しく女性を扱うマナーを覚えたらどうなの」
「儂が知る女性は桃太郎くらいだから、桃太郎のように扱っておる。人間も余り変わらないものだ、どうだ、小雪」
「あの大きな水牛の桃太郎と私が同じだって言うの、失礼ね、私はか弱き乙女で、皆にお淑やかだと言われていたのよ、本当に失礼しちゃうわね」
「小雪、桃太郎は打っては絶対言うことを聞かんぞ、宥め賺して扱うのがコツだ。女はそこが難しい。小雪もそうだ、自分でもそう思わんか」
「思わないわよ、男の偏見でしょう」
「難しい言葉はおじいには分からん」
「おじいは知ってるのに、自分の都合が悪くなると、難しい言葉は分からん、と言うのよ」

 太陽が謳歌している真っ盛りの昼、信吉が九十一になる芭蕉布の絣の着物を着たおばあを付き添って来た。おばあは家の広間に案内されるとテーブルに坐った。
「信吉、お茶も出さないのか、お茶菓子も忘れるなよ」
 信吉はこのおばあが何かに付けて、死にそうだとか、夜も眠れぬとか、魔物が憑いているとかで来るのを煙たがっている。だが自分より目上なので、このおばあを立てなければならない。早く、くたばれとも思うのだが、寿命は天が定めることで文句の言い様がない、それにしても腹が立つ。
「おばあ、香片(サンピン)(ジャスミン茶)と黒砂糖です、美味しいですよ」
「そうでなければ、いけないよ。お前はもういいから、比屋根さんはどうした。年寄りは待たすものじゃないよ、いつ、あの世からお迎えが来るかも分からんからさー」
「もうすぐ来ますよ、儂は失礼しますから」
と信吉はそそくさと逃げ出した。それを縁側に腰を下ろしながらのんびりと眺めていた小雪には面白いものであった。 
「姉さん、大和(ヤマトゥ)の人か、ここは良い所だから、よく遊んでから帰りなさい」とおばあが退屈凌ぎに話し掛ける。
「ええ、ごゆっくり」と小雪も逃げ出した。
 樸がにこやかに現れてテーブルに坐った。
「おばあ、元気そうだね」
「そうではないよ、比屋根さん。夜眠る時に、沖縄(本島のこと)に行った太郎に何か有ったのでは、肝(チム)が騒いで居ても立っても居られん。あのバカ、手紙も寄こさん、どうしているかねー、比屋根さん」
 実はこのおばあは本島にいる息子から孫達と一緒に暮らそうと再三再四勧められているのだが、今更、長男の嫁に気を使って暮らすより、隣近所よく知ったここで暮らす方が気が楽で、断っているのである。それに、戦争で亡くなった主人と息子二人の遺族年金でなに不自由無く暮らせる。だが、寂しくなると、こうして理由を携えて、樸の所にお喋りをしに遣って来るのである。
「おばあ、太郎さんから電話が有ったよ、おばあは元気にしているかねーって。太郎さんがおばあのことを心配して夜も眠れんくらいだよ、おばあ」と樸は真顔で作り話をする。
「そうでなければいけないよ、親から子は生まれた、子から親は生まれんよ。これが道理だ。あの太郎がそう言ったか、少しは親のことを思っているか、ゆるりとしたよ。所で、
戦争で亡くなった夫(ウトゥ)と子供達はどうしているかねー、比屋根さん、拝んで下さい」
 樸はトウトウメーに三本の線香を上げ、おばあが心配してここに来ていること、家族のことを亡き家族に報告して、後生(グソウ)のことを訊ねる。おばあもぶつぶつ何やら唱えながら拝んでいる。
「おばあ、おじいと子供達は仲良く暮らしているってよ、だから心配するなって。いつも天の上からおばあと家族を見守っているって後生にはゆっくゆっくり来て下さいって、急がないでいいからって」
「そうか、それで肝も晴れた。年を取ると、色々な考え事するから、大変よ、比屋根さん。年は取るものじゃないよ、そうは思っても、皆おばあ、おじいになるから、仕方がないさー」
とおばあは満面に笑みを浮かべた。
 おばあは縁側に立ち、七十四のおじい、信吉を、信吉、信吉と大きな声で何度も呼び付ける。信吉は急いで駆け付けて、おばあを水牛車に乗せる。三嶽集落に着くと、おばあは信吉に、手を出しなさい、と告げ、五百円硬貨を手のひらに載せて、酒でも買って飲みなさい、と言う。信吉は使い走りの子供のように扱うこの仕草がいつも頭に来るのである。

 海と遊んでいると、淡い青の半球の小さな風船が濃い青の糸を伸ばした美しい生き物が波間に漂っていた。今までに見たことのない珍しい素敵なイアリングだった。小雪は間近まで寄り見入った。すると、青い糸が小雪の右腕に巻き付いたかと思うと、鋭い痛みが走った。小雪は大きな悲鳴を張り上げて浜辺へ駆け上がった。溺れなかったことに、海に馴れたのだと自信のようなものを感じたが、右腕がひりひりと焼け付くように痛い。悲鳴を聞きつけて、おじいと樸が駆け付けて来た。痛い、痛いと右腕を出すと、おじいが砂で巻き付いた糸を落とし、樸がペニスをぽこんと出して小便を引っ掛けた。突如顔を出したペニスと迸る小便に呆気にとられ、唖然と口をあんぐり開けて、暫く痛みを忘れたほどであった。
「臭い」と信吉が一言言って手を離した。
「応急処置だ、臭いのは我慢するしかない」と樸がくすくす笑う。
 我に返った小雪は右腕の痛みと共に小便を掛けた樸に腹が立って来た。
「オシッコを掛けるなんて、野蛮で下品だわ。それにあんなものを露出して、変な趣味でもあるんじゃないの、許せないわよ」
「仕方がないさ、タカヒラー(鰹の烏帽子)に刺されたのは小雪さんだから、二三日はひりひり痛むぞ」
「でも、直接掛けることないでしょうよ」
「人が苦しんでいるのに、その痛みよりも格好を気にする奴は優しさがない奴だ。痛みを和らげることが何よりも先だ。そうじゃないか、小雪さん」
「そうね、でも二人とも笑ったじゃないよ、面白がってた癖に、言うことだけは偉そうに。オシッコを掛けた効き目はあるんでしょうね」
「さあ、僕は医者じゃないから、分からんな、でも、島では昔からそうしている。そうして死んだという話は聞かないから、効くんだろうな。お呪いのようなものだと思ってもいいんじゃないか、死なないから心配しなくていいよ」
「誰も死ぬことまで心配してないわよ」
「さっきまで、死にそうな顔をしていたぞ」
「当たり前でしょう、綺麗だと思って近づいたら刺されたのよ、焼け火箸に手を振れたようなのよ、誰でも驚いて取り乱すわ。本当に今日は災難ばかり、厄日だわよ」と小雪は剥れながら引き上げた。
 冷たいシャワーを浴びて、右腕に付着した樸のアンモニアを、本当に失礼な奴、原始人だわ、とぼやいて洗い流した。小雪はもう誰と口を利くのも嫌だと服を着けると、ガジマルの下で不貞寝することにした。
 外に出ると何処からか、「小雪、元気になったか」と憂いのない抜けた声がしたが、小雪は無視して、ごろりと筵の上に横になった。ふわりと微睡み、眠りがすうっと訪れた。

「小雪、小雪、遊ぼう、遊ぼうよ。ボクに会いたいから、ここに来たんだろう、バーカ、眠るな。真っ裸にしてやる、狸寝入りはよしてよ、可愛くないぞ、小雪。お前、女の子だろう、恥ずかしくないのか、それに優しくしたらどうだ」
「君と付き合うほど暇じゃないんだよ、この悪戯小僧、眠っていた方が楽しいよーだ」と小雪は横になったまま五月蠅そうに手を振る。
 キジムナーは怒り、大きな蚯蚓を地中から引き摺り出して、裸の小雪の上に這わせ、自分はひらひらとガジマルの枝に舞い上がっては見物した。
「蚯蚓が大好きな小雪のお中の上でダンスしている、ぬるぬるした感じがいいな」
 目を閉じて、蚯蚓を無視しようとするのだが、あの粘膜の滑りの気持ち悪さがお腹を中心にして伝わり、とうとう堪え切れずに飛び起きて、庭の真ん中に逃げ出した。筵の上で蚯蚓がS字に身をくねらせ蠢いている。
 一方、枝の上ではキジムナーが欣喜雀躍としている。
「見ろ、ボクを苛めるから、そうなるんだ。ボクは寂しがり屋なんだ、それくらい分かってくれないとな。もう小雪はここに来て長くなるじゃないか、一緒に遊んでやってもいいじゃないか」
「冗談じゃないわよ、私を裸にする、ここまでなら、まだいいわよ。どうして、蚯蚓まで出すのよ、苛めているのは君じゃないよ。可愛い顔して、鬼みたいなことを平気でやるんだから」と小雪はしくしく泣き出した。
「そうか、蚯蚓の奴が、小雪を泣かしたか、永久に地中へ追放してやる」
 キジムナーが呪文を唱えると、筵にぽっかりと暗い穴が開いて蚯蚓は吸い込まれ、穴は閉じた。
「あいつは悪い奴だから地面に閉じ込めてやったよ、もう心配することないよ、一緒に遊ぼう」とひらりと小雪の右の肩にキジムナーが舞い降りた。
「そうよ、あいつは地面の中にいるべきよ」
「そうだ、絶対そうだ、ボクもそう思った」
「もう、蚯蚓は出さないって約束する、約束するなら、遊んで上げる」
「しないよ、ボクも蚯蚓は嫌いさ、何処が頭か尻尾か分からない奴は嫌いさ」
 小雪は笑って、キジムナーの頬にキスをした。すると、キジムナーの顔が赤提灯に火を入れたようにぽおっと赤くなった。
「ボクは人間の中では、どちらかと言うと、女の方が好きだな、お礼にいい所に連れて行ってやる」
 キジムナーがぶつぶつ呪文を唱え、小雪を小さくし、右手を握ると、風船のように浮かび、風が二人を森の上へと運んだ。鳥瞰する蓬莱島は青に抱かれた一粒の緑の真珠であった、それからふうわりと下降して森の奥の一本の木の枝に止まった。
 そこでは数十人もの双子のようなキジムナー達が枝々を跳び回り遊び戯れていた。
「小雪、ここでは死と言うものがない、年も取らない。自分が木に戻りたいと思った時に、生まれた木の根っこを枕にして眠るんだ。すると体が小さくなって、二滴の樹液となる、両親の樹液だ。その樹液は土に吸い込まれ、それを産み出した木の根が吸い上げて、幹へと送る。そこには宇宙が在る、生命の海だ、だから誰も死んだとは思わない。故郷へ帰ったと言うだけで、喜びも悲しみもない。小雪は大学まで行ったか」
「行ったわよ、勉強して、私立の一流大学を出たわ、でも、エリートにはなれなかった。いつまでも事務職よ、高望みだったのね」
「それなら二十二年間は勉強したことになる。ここでは十四日だけ勉強すれば成人する、つまり成人して生まれる。両親、ここでは男も女もないから、好きになった者同士が森の気に入った木を見つけて、その木の枝で二人の手を合わせるんだ、すると二人の合わせた中指が光り、青い透明の滴が出て来る。それを二人で木の叉に塗り込める。その滴は一つとなり、木の中の宇宙を、根、幹、枝、一つ一つの葉に至るまで隈無く巡り、その木や、木に戻ったキジムナー達から知恵を授かる。そして八日目に両親が同じ木の同じ叉を撫でて上げると、そこから赤ん坊のキジムナーが頬笑みと笑い声と共に生まれる。
 そして、七日間、両親は生まれた木の樹液のネクトルを与え続け、体の成長を助ける。心身共に一人前になったキジムナーは好きな奴はここで暮らしてもいいし、別な所へ行きたい奴は風に乗り別の木のある所へと旅立って行く。しかし、この世界は十分だと思ったら、生まれた木の根元で眠り、すぐに木の世界へと戻って行く。だがな、生まれた木が伐採されて、仕方なく別の故郷へと旅立つ者も最近では多くなった、残念なことだ」
「悲しいよね」
「小雪も優しいじゃないか」
「今頃、分かったの、鈍感じゃないの。キジムナーは人間には本当は見えないんでしょう」
「見える奴には見える。でも昔は殆どの人に見えたものだが、自然から人間が逃げ出した時から、見えなくなり始めたんだ。人間は愚かだから、自分達が自然の一員である事を忘れてしまった。それでも小雪にはボクが見える、まあ、僕がアプローチしたせいもあるけどな。感謝しろよ。小雪……お礼にオッパイ触らせろ」とキジムナーは両手で小雪の双の乳房を鷲掴みにした。
「何よ、この変態、スケベなガキッチョ」
「小雪、自然に帰れ。綺麗な花を見ると、匂いを嗅いだり、触れたりする、それと同じ事だよ、それの何処がスケベなんだよ、このバーカ」
 怒った小雪は飛び上がり風に載り家の方へと向かったが、キジムナーは頭を小突いたり、足を引っ張ったり、悪戯を仕掛ける。それでも相手にされないと、ガジマルの木の天辺で、小雪を元の大きさに戻してしまった。キジムナーは筵の上で小雪の服を振ってははしゃいでいる。
「バーカ、命懸けだぞ、気取らずに、恰好など気にせずに、木に抱き付いて下りてこい、落っこちるぞ。小雪、大事な所が丸見えだぞ、樸でも呼んで来ようかな」
「それだけは止めて、お願いだから、恥ずかしいじゃないよ」
「何だよ、急にお嬢様になって、変だぞ。樸のオチンチンを目の前でまじまじと見たのによ、自分の物見られたって、おあいこだよ、気にするな」
「バーカ、女はオッパイとあそこで、二つもあるのよ、損でしょう。君は女ってものを分かってないよ」
「そうか、二つか、一つと二つでは不公平だな、それなら樸を呼ぶことは止めた。早く下りてこい、日が暮れるぞ」
 小雪が必至の思いで下りて来ると、キジムナーから服を奪い取り、慌てて着けた。
「君はどうしていつも私を裸にしちゃうのさ」
「裸の小雪の方が好きだからさ、ボクも服を着てないぞ、お前だけ隠すのは変じゃないか。小雪、野の花が恥ずかしいからと、花にパンツを着せるか。着せたら、それこそ気色悪いよ」
「君と話すと、今まで信じていたものが混乱してくる。悪いことに、君が正しいんじゃないかと思っちゃう。いいこと、人間の女性はデリケートで複雑な生き物なのよ、お分かり」
「小雪、他人の前ではだろう。ボクも六百年ぐらいは人間を見て来ているからさ、ちょっとぐらいは女を知ってるさ」とキジムナーが突如笑い転げた。
「何よ、知ってるなら、私と遊ばなければいいでしょうよ、全部、全部知っているんでしょう。きっと分かり過ぎて詰まらないでしょうよ。お生憎ね、長生きすればいいと言うものでもないでしょう」
「小雪、お前、怒ると可愛いよ。それからね、キジムナーに死ぬということがないから、長生きもない」と腹を抱えて笑った。
「何よ、人の揚げ足ばかり取って、下品だわ、コミュニケーションの仕様がないわよ、頭に来るな、もう」
「島ジョークだよ、沖縄ジョーク、ジョーク、会話の潤滑油とでも言うの、でも、ごめん」
「分かればいいのよ、本気で怒ってた訳じゃないのよ」
「小雪、機嫌直ったよね。オッパイ触ってもいいか」
「どうして、そうなるのよ」
「そこが好きだからさ、触らしてくれたら、いいこと教えて上げるよ」
「いいわよ、でも本当にいいことを教えてくれるんでしょうね」
 キジムナーは満面に笑みを浮かべて両手でぐりぐりと小雪の二つの乳房を揉み始めた。
「君ね、何でオッパイが好きなのさ、まるで赤ちゃんね」
「小雪、お前は病気じゃない、神ダーリーになっているだけだ」
「カミダーリー、何よ、それ」
「あの鈍感な二人に聞け、彼等はその橋を渡る人を待っていた。
 それから森に入れ、お前は全てを見るだろう」
   五、トウトウメー(仏壇)
 信吉が池で桃太郎をススキの葉を束ね束子代わりにゴシゴシ擦っていた。
「おじい、おじい、カミダーリーって何ね」
「何と言ったか」
「カミダーリー」
「そんな事、どこで聞いたか」
「キジムナーからよ」
「いいか、魔物か、神様が憑り移ることだ、死にそうになるほど苦しむぞ、その苦しさの余りに死ぬ者もおる」
「意味分からないわよ」
「分かってるさ、今、お前がいる状態を言うんだ、他に何か言わなかったか」と信吉が怒鳴るように叫んだ。
「橋を渡る人をおじいも樸も待っているって言ってたわ」
「分かった、儂は忙しい、どこかで遊んでこい」と信吉は叱るように言い放ち、小雪の足音が消えると、安里屋ユンタを楽しそうに口ずさみながら桃太郎を洗い始めた。

 広間へ行くと、樸がコップに水を入れてトウトウメーに供え、黒い板状に数個の溝の走った三本の島御香(シマウコウ)を香炉に立て、ぶつぶつ唱え始めた。一日の樸がやるべきこと、することはそれだけであった。気楽な神人(カミンチュ)だと小雪はつくづく思う。
「暇なのね」と小雪は態わざと皮肉を言った。
「そうだな、病院と火葬場は暇なほどいい、ここが暇なのは天がこの島の住民の願いを聞いていると言うことで、天下太平、いいことだ」と樸は皮肉と受け取らず、真面目に答える。
「比屋根さんは一日に一度トウトウメーを拝むだけで、退屈ではありませんか」
「退屈なほど幸せで、これより良いことは有りませんよ」と樸がにんまりとする。
 いよいよこれはバカだ、蒟蒻に釘だと思うのだが、軽く往なされているようで頭にも来る。
「お祈りは朝に一度と決まっているんですか」
「いや、決まってない、気が向いた時に、すればいい。それに一度お願いすれば、トウトウメーのご先祖には届くらしい、頭もいいんだろうな、何回もせがむと嫌がるみたいだ。ただし、話し合うのは無制限で、祈る人が気が済むまで付き合ってくれる。便利なものだ」
「そんなことが分かるんですか、ご先祖がお聞きになっているとか、霊験あらたかだとか」
「それは誰も分からない、しかし、祈る、愚痴を零す、誰かの悪口を言う、思ったことを包み隠さず告げる、それをトウトウメーは静かに聞いてくれる。少しは気が晴れるかな。うーん、それでいいんだ」
「それでも、気が晴れないと、どうするんですか」
「その時はここに来る、このトウトウメーに祈る、ここには代々の神人の位牌が祀られているからな」
「それでも駄目ならどうするんですか」
「大体はこのぐらいで納得するが、次は僕が聞く。それでも駄目なら、一緒に苦しむ、悩む。それでも気が晴れないのなら、全てを忘れるように、ここに住みなさいと勧める。でも、月日が経つ内に、皆ここを後にして、自分が望む所へと行く。
 本当のことを言うと、おじいも僕もその落ち零れでここに棲み付いてしまったんだ」と、樸は子共のように笑った。
 神人が落ち零れだと告げる本人も可笑しいが、少なくともこの近隣の集落の人々には敬われているのは確かだ。そうでなければ、民宿「山猫」のおじさんやおばさんがここに行くように勧める訳が無かった。又、三嶽の人々が生活を保証するはずがない。「神人」とおじさんとおばさんは呼んだ、「一緒に苦しめる人だ」と言ったことが、小雪の耳に木霊した。
「神人は特別なんでしょう、霊視ができるとか、霊障を取り除くとか、未来が見えるとか、特別な能力があるんでしょう」
「困ったことに、僕にはそんなものが全くない、皆無と言うの。でも一般の普通の人でなければ、ここには住めないよ、皆と同じ思いになれないだろう。確かなことは、能力が却って皆より劣っていることだな」
 下手な問答で掴み所が無く、疑問が募るばかりである。
「一緒に苦しむとはどういうことですか」
「小雪さんが悩んでいることを、僕も悩み、おじいも悩む、そいうことだろうな」
 小雪はむっと来て、「ああ、そうなの」と外に出た。
 ガジマルの木の下に敷かれた筵にべたっと坐り、悩んでも、苦しんでもいないじゃないよとごちた。蚯蚓から一生逃れないのだとの思いが胸を占める。
 幸せになれると思うと、蚯蚓が私を食べる。心も体もあの滑った粘膜で覆い、美しさを奪い、醜さで満たし、心を持った一人ぼっちの蚯蚓に変えてしまう。きっと森の奥の腐った木の葉の下の湿った土の中で、死ぬまで過ごすのだ。心まで蚯蚓になればいい、そしたら私が人間であったことを忘れるはずだ。脳裏に無数の蚯蚓が団子状になって湧き出して来る。かさかさと葉音を立てるガジマルを見上げると、鈴生りに蚯蚓が枝々にぶら下がり今にも落ちて来そうなほどであった。これまでの人生で何もやりたいこともせず、一流企業のエリートお茶汲みを三十過ぎて独身で、これといった喜びも無く、蚯蚓となってしまうのかと思うと、大きな悲しみのうねりが小雪を呑み込んだ。泣いた、泣くしか残されているものなど無かった。無人島で一匹の蚯蚓と化する自分を不幸を嘆いた。あれもこれもしたかったのにと、後悔が渦となって、心を掻き毟る。望みが全て消えたと知った刹那に、蚯蚓になる前に小雪として、人間として尊厳を以って死ぬことが篝火となって闇に輝いた。
 小雪は海に向かって駆け出していた。
 期を同じくして池で水浴びをしている桃太郎が鳴いた。信吉は咄嗟に浜辺へ向かった、だがそこには已に樸が海を見つめて立っていた。
「小雪が危ない、比屋根さん。
 小雪はこの島の神人なる人だよ」
「分かっています、でも小雪のは神人の苦しみで、私の力では及ばない。あの人自身の神人の力に頼るしかないんだ。 
 海は死も、生も拒まない、拒む物がない、それも神人だとカマドおばあは言ったんです。だから簡単に手が出せない。
 もうタイムリミットです、僕が行きます。
 おじい、毛布を出して、家で待っていて下さい」
 樸は駆け入りダイビングして、鮮やかなクロールで波を切って、パニックとなりしがみつく小雪にビンタを食らわし、首を左腕で抱え込んで浜辺へと泳いだ。波打ち際で放された小雪は何をしようとしていたのか気付いた。樸は震える小雪を抱き締めて、海は怖いよと呟いた。
 家に戻ると、信吉が小雪の手を取り、熱い風呂に入れ、バスタオルで体を拭いてやり、服を着せてやった。小雪は頭の中が痺れているような気がした。
 広間ではトウトウメーに線香を上げ、樸が一心不乱に拝み、その後ろで放心状態で虚ろな目をして小雪は坐っていた。祈りが終わると、樸は躙り寄り微笑した。
「小雪さん、苦しかったね」と樸が両手で小雪の手を包み込みむと、人前で泣くことの無かった小雪が突如赤ん坊のように泣き出した。
 信吉は泣き止み、一旦平静を取り戻した小雪の両肩を抱き、広間の隅へと連れていった。
「小雪、比屋根さんから目を逸らすな、一緒に苦しもう」と信吉は小雪の手を強く握り締めた。
 樸の身に異変が起きた。
 体が硬直し、痙攣し、震え出し、口からは泡を吹き出した。
 広間に野獣が呻くような声が響き、転げ回った。普通なら目を背け、見てはいられない光景であった。小雪に何処かの寺で見た地獄絵図を思い出させた。
 あの至福浄土教会の阿久津千里の言う地獄だと怯んだが、そうではなかった、小雪の耳には樸の呻きの中で絞り出す声が耳元で呟くようにはっきりと聞こえていた。
『蚯蚓が私を苦しめる、私は蚯蚓にはなりたくはない』と樸の哀願する声は間違いなく自分の声であった。
 顔が引き攣り醜く歪む、笑う、怒り、怯え、あらゆる感情が次々と吹き出して来る、青ざめた樸が子共のように恐怖にのたうち回る、「狂っている」という小雪の最も恐れた言葉が胸の中で転がり大きくなってゆき雪崩れ、卒倒しそうになった。
『私には蚯蚓が見える、でも、他人には見えないの、バカらしいと思っても、とてもとても苦しい、助けて下さい、助けて下さい』
 それから、突如声は幼い女の子の可愛らしい声に変わった。
『オジちゃん、もう帰らないとママに怒られるから、帰る』
 すると女の子は倒れ手足をばたばたさせてもがいた、恐怖に戦く目、それからすうっと目の光が消え、凍り付き身動ぎもせず目を大きく見開きながらも何も映しはしない、全てを投げ捨てた、惨たらしく、悲しみさえ喰い尽くされた者の虚ろなどす黒い洞となった目、があった。
『コユキハワルイコ、ママニシカラレル、ママモコユキモコロサレル』
 そしてシングルマザーの小雪の母の叱る声がした。
『コユキ、ママがどんなに心配するか分かっているでしょう、お洋服もこんなに汚して、ママには小雪しか在ないのよ、小雪にはママしか在ないのよ』
 拷問でも受けているかのような姿に耐え兼ねた。だが、それは樸の体を借りた小雪の姿に他なら無かった。蚯蚓に対する怯えで満たされ、喜怒哀楽などの余分な感情の入る間隙など無かった心に、憐憫の情が、悲しみが込み上げた。
 それは蚯蚓に、あの男に幼児が私が……自分が悪戯された事を、幼い心の精一杯の知恵は隠し通す事を選んだが、大人となった今の小雪にはそれこそが蚯蚓の正体であることが分かった、後藤との社内不倫などが原因ではなかったのだ。
 小雪は七転八倒する樸に怯える自分の全てを見た。
 樸はふらりと立ち上がり、柱に頭を打ち始め、鈍い音が響く。小雪はこのままでは樸が死んでしまうと信吉を見た。信吉は見えないはずの目で静かに樸を見ていた、睨んでいるようにも見えた。信吉の握る手が震えていることに小雪は気付いた、泣いていた。それは樸のためではなく、小雪の苦しさを我が物として感じているのだと小雪は悟った。
『小雪、小雪、自分で助けなさい』
 脳裏に誰の声でもない声が聞こえた。
 小雪は信吉から離れ、自分を痛み付ける樸を後ろから抱き締め、涙をぽろぽろ零した。暫くして、信吉が小雪の頭を撫で、手で涙を拭った。
「もう、いい。比屋根さんはちょっと休めば、元に戻る、神人だ。心配するな」
 樸は俯せになり、激しい息遣いを整え、痛そうに額に触れ、小雪を見て恋人と視線が合ってしまったかのような照れ笑いをした。
「おじい、大きい瘤だよ、氷で冷やさないと」
「いや、これぐらいの瘤は放っておけば勝手に癒る」
「見えないのに、よく言うね」と樸がぼやいた。
「これぐらいは音で分かる」
   六、先島蘇芳(さきしますおう)の木 
 蓬莱島の真上に虹が架かっていた。俄雨が通り過ぎ、木々の葉の滴がガラスの砕片のように輝いていた。樸も信吉も桃太郎と同様に雨に濡れてはしゃいでいたのか、已に乾き始めてはいるものの濡れた服を着て、ガジマル木の下で退屈げに空を仰いでいた。二人と一匹にとっては傘を刺して天の恵みを拒むことは失礼なことであるらしい。小雪はゴム草履を履いて、ガジマルの木の下へ頬笑みながら行った。この木の下では皆がリラックス、詰まりは怠け者になってしまう。信吉も樸もそれを知っている。風で揺れる木々の葉のざわめきは、あのキジムナーが飛び跳ねているのだと小雪は思っている。木の精霊だの、水の性だの、海神様だの、霊木だの、きっと人間だけでは寂しいと感受性の強い最初の人が遠い昔に考えた、そしてその人は見た。それから遥かなる時が去来し、今ここで暢気に三人並んで空見上げている者達にも見えた。
「小雪、綺麗な虹だ、何故分かるかって言いたいんじゃろう、大体小雪の聞きそうなことは分かっとる。虹の香りがする、七色の花々の匂いがな。小雪はまだ青いから、そこまで納得するのは難しいがな。綺麗なものはいい匂いがする、覚えておきなさい」
「おじいは何にでも尤もらしいことを言うのが好きなのね、私にもおじいが言いそうなことは推測できるわ。醜いも野どういう臭いがするのと聞くでしょう、そしたら、『儂は目が見えぬから、醜いものなどない、だから全ていい香りがする』と答えるのよ。分かってしまうんだな、この頃は」
「当たってはおらんが遠くはない、少しは成長したようだが、まだまだだ」
「おじいは素直じゃないんだな、負けず嫌いと言うのよ」
「この年でか、儂がよほどの変わり者に小雪には映るらしいな、まだまだだ。一所懸命、勉強しなさい、道は長いぞ」
 樸は未だに空を見上げにこにこしているのである、空が可笑しくてそうしているのか、小雪と信吉の話が可笑しくてそうしているのか、判別が付き難く、どちらにせよ第三者が見るならバカに見えるに違いないと小雪は思った。
「樸さん、何をにやにやしているのよ、間抜けに見えるわよ。少しは恰好良さとか意識したら、どうなの」
「こんなにいい日和で、にこにこしているだけだよ、涙を流していたら、それこそ場違いじゃないか」と言い、樸はそれでも空を見上げにこにこしている。
 小雪はこいつが本当のバカでないことが不思議な気がしてならなかった。いつも樸はピントがずれている。
「青いお空が可笑しいですかね、樸さん」
「空が笑っている、海が笑っている、その真ん中にいる僕が笑わないと、仲間外れになるんじゃないかと思ってね。ハーモニーとで言うのかな、小雪さんも笑ってごらんよ」
「樸さん、おじい、私、散歩してくる」と小雪はそれ以上付き合えないと二人から離れた。
 浜辺を歩く。紺碧の空と海、いつも風景である。それが笑うなどとは到底思えない、逆に、果てしない海を見ていると切なくなるのはどうしてなのだろうと思う。その果てのない海に小さくぽつんと浮かんだ小島に、三人が暮らしている、この蓬莱島。その更に小さな私が大きな大きな海と向かい合っている、不思議な奇妙な心持ち……
 小雪は阿檀の木蔭に腰を下ろした。黒くなった腕を見た、こんがりと焼けた小麦色とかいう観光用のもではない、この島での生活が与えたものだ。内地の人が見たら島の人と勘違いしてしまう。Tシャツのネックを広げて乳房を覗くと依然と変わらぬ白い肌が映る、もう肋骨も見えない、太ったのだ、食べれば戻す癖もいつの間にか消え、泡盛を飲んでもびくともしない丈夫な胃になった。憂鬱でも食べる逞しさも具わった。
 小雪は島草履を二つ重ねて枕代わりにして目を閉じた。すうっと眠りの懐に落ち込んだ。
 そして鵯(ひよどり)の甲高い泣き声が小雪を目覚めさせ、青空が目映かった。起きて歩くのが面倒で、疲れることだと思えた。この島に馴染み過ぎてナマケモノになってしまった。それでも、枝に一日中しがみついているのも大変な労力をようする、歩いて帰るしかない、それが最も消費力の少ない行動だった。立ち上がり、尻に付いた砂を両手でパンパン叩いて、歩いた。

 縁側に腰掛けて、小雪は森を見ていた。鬱蒼とした薄暗がりの木々の集落は何かしら浮かばれぬ霊が淀み屯しているようで、おどろおどろしい感が否めない。しかし、神人であるカマドおばあが拝んでいたと言われる聖なる木も見たかった。それはカマドおばあが選んだ樸にさえその真実の姿を現すことがない。特定の女性にしかその姿を発現することがない。おこがましいことに、見えなければ落胆するだろうとの高望みもあった。普通の人には普通の木にしか見えないことが、普通のことである。ミミズが好みそうな場所に思える、湿り、落ち葉が重なり腐葉土となり、そこを這いずり、その木の下に大きな肥満の蚯蚓が棲んでいる。
 だが何かが背中を押した。小雪は森に入ろうと思った、見えるにせよ、見えないにせよ、入らなければならいとの心をつき動かす何かがあった。怯えから逃れようとする気弱な自分を奮い立たせ、小雪は森へと向かった。
 信吉が池で桃太郎前にして坐って煙草を吹かしていた。小雪が、おじいと呼ぶと、信吉は答える代わりに頭をこくりと下げ、桃太郎の方を見た。
 小雪は小径に導かれるままに森を進む。生い茂る木々の隙間から白い光が射しこんでくる、ひんやりとした空気が森の臭いを運ぶ。この森に迷い餓死すのでは突拍子もないことが浮かんだ。小径は木の根元の所で途絶えていた。そこには手頃な石灰岩に穴を穿っただけの緑の苔むした香炉が置かれていた。
 小雪はその前で立ち尽くしていた、悲しみも、喜びも、怯えも、何もないのだが、涙が勝手に溢れ止めなく流れた。
 先島蘇芳の木が聳えていた。地中から板根と呼ばれる根の襞が幾重も曲線を描き突き出し、二つに別れた幹を支え、幹は空を目指し伸びて幾つもの枝が無数の楕円の葉を付けていた。その襞は陰唇であった。地中の重さを突き破り、白日の下に姿を現した産み出して行くもの、地底の闇から地上へ、降り注ぐ光へと続くものであった。地元の人はこの木になる実の形状からウマダニーギー(馬のペニスの木)と呼んでいた。
 小雪の体が震えた。
 森は俄に闇に包まれ、森が震えていた。先島蘇芳の葉の一つ一つが輝き、森が輝き、天空の星が輝き、月が輝いた、落ちて朽ちた葉までもが輝いた。それは幾千、幾億もの螢が輝いているようであった。海が空が地が続き、森羅万象が一切が輝き合い、そこから零れ落ちるものは何一つとしてなかった。
 小雪は坐り込んで、その木に向かって目を閉じ、手を合わせた、ただ手を合わせていた、願うこともなかった、望むこともなかった。
 小雪はどのようにして家に戻ったのかを知らなかった、そして部屋で五日間眠り続けていた。
 広間へ行くと、珍しく樸がトウトウメーに向かって祈っていた。樸は小雪を認めると喜び笑った。
「樸さん、何よ、その顔。暑さで頭のネジが緩んでいるんじゃないの」
「楽しいから、笑っただけのことだよ」
 小雪の声を聞いた信吉が庭を小走りで駆けて来て、縁側に坐った。
「おじい、ここに来るのに急いでどうするのよ、転んだら大変よ」
「儂は転ばん、何年生きとると思っている。小雪、元気になったな。おまえが眠り込んでしまうから、魂を向こうの世界に置き忘れたのではと心配しておった。眠った人間とは話ができんから儂は好かん」
   七、火之神(ヒヌカン)
小雪が蓬莱島に来てから、一月と十日が過ぎていた。青と瑠璃、そこに浮かぶ小さな緑の地で、樸と信吉と桃太郎との日々が脳裏に去来した。
 昨夜、東京に戻ることを二人に告げた。そうかと樸も信吉も笑み、遅くまでの酒盛りとなり、そのための二日酔いで頭が疼いていた。それから、もう一人の友を思い出し、はっとなり、なおざりにしたようで悪い気がした。縁側をから降りて、小雪はガジマルの木陰の筵の上に坐り、眠ろうとはせず、キジムナーの姿を思い描き呼び続けた。
 信吉は存在しないものを心に思い浮かべることはできない、何故なら、人間はないものを創り出すほど偉くはないからだと告げた。それなら、きっと夢でしか会えなかったキジムナーがこの木の何処かにいると小雪は確信していた。
 風が枝や葉と交わす囁きが聞こえる。
 ガジマルの赤く丸い実が一つぽとりと小雪の頭に落ちた。見上げると、キジムナーが細い枝に坐り、笑っていた。
「とうとう現れたわね、本当はね、君は夢の中にしか居ないのではと半分疑っていたんだ。でもこれで安心した、君はいた方がいいもの」
「女は疑い深いからな、それでも男よりはいい。夢でないと、ボクは君を裸にできないから残念だな、服を着ていると詰まらないよ、美的じゃない」
「エッチなだけでしょうよ、何が美的なのよ、物は言い様か」
「デリカシーと言って欲しいね」
「あのさ、明日、東京に帰るからね」
「そう、元気でな」
「それだけ、友達じゃないの、もっと言うことはないの、君は薄情だ」
「バーカ、だから小雪のお尻はまだ青いって言うんだ。肉体の距離と心の距離は同じじゃないんだぞ、たとえ小雪が東京にいても、皆のことを思い出し、元気でいますようにと思ったら、いつでも君の側にいるんだ。樸や信吉も、桃太郎さえもが小雪のことを日々祈るだろうよ。それが友達で光よりも、どんなものよりも速い人間の乗り物なんだ。寂しいとか、悲しいのは、きらきら輝く人間の心のお星様みたいのもので、いいものなんだ。でも、ボクは寂しいとは決して言わないよ、小雪の新しい旅立ちだから。じゃあ、オッパイ触らせろ、お尻もな。小雪は前よりずうっと綺麗になった」
「君はどうして最後は変態になるのよ」
「バカだな、口説くのは人間界の女性へのエチケットだろう、これでも六百年も人間を見ているんだぞ、その優しさが分からないのか。―あっ、邪魔が入って来やがった」
 信吉が煙管を銜えて遣ってきた。
「今日は昼寝はしていないんだな」
「おじい、キジムナーが枝の上に坐っているよ、あいつはどういう奴なの」
「そうか、キジムナーが見えるのか。悪戯小僧のようなものだが、全てを見渡せるものだ。木の主だからな。もっと偉いものに成れるが、成らない。だから、キジムナーは人間にとっては有り難いものだ。それ以上のことはキジムナーに聞きなさい、あいつは女が好きだろう、だからおじいと一緒で女には優しい。しかし、男には悪さをして面白がるから、手が付けられないんだ」と言い、「小雪に持たすのを作らんといかんから」と信吉は去った。
 するとすうっとキジムナーが現れた。
「あいつは可愛くないな、無愛想だ。でも、小雪、あいつはあいつなりに幼稚に敬意を表すんだ、素直じゃないよ。あいつはキジムナーに託(かこ)つけて、神人のことを話したんだ、分からなかったろうな、お前には、鈍いからな」
「分からなかったわよ、どうせバカです」
「いいか、お前は神人だ、でも偉くはなるな、いつも人の後ろに居なさい、しかし心は人の一歩前を行きなさい、その様に人を導くのが神人だと言ったんだ。いいか、百歩も千歩も先を行くだけで自慢する愚かな神人とはなるなと言うことだ。
 小雪は手取り足取り教えないと分からないから、でもその余りの愚かさがあの神木の本当の姿を見させた。なあ、オッパイ吸わせろよ、もう行くんだろう、乳も出るといいんだけどな、そしたら赤ん坊の楽が分かるんだけどな」
「どさくさに紛れて何を言うのよ、この変態。……でもありがとう、もう行く、忘れないよ」
 キジムナーは去って行く小雪を風となり追い、乳房を思い切り掴んで、ひゅーっと消えた。
 信吉は人の踏まぬ浜辺の砂をビニール袋に入れて、台所へ帰る途中であった。小雪が話し掛けるが黙ったままで足早に歩いて行く。小雪はその様な信吉を訝って後を追いかけた。台所に入ると信吉は窓の所に置かれた香炉を取り出した。それを沖縄では火之神(ヒヌカン)と呼び、家内安全、無事息災を祈願し、家の出来事を報告する女性の主(あるじ)の拝所であり、家を守る女性の心の拠り所でもある。信吉はここから旅立って行く小雪に神人の家である火之神を分けて持たせようとしていた。棚から新しい香炉を出して、誰も踏んでない汚れのない浜辺の砂を入れ、火之神から三度灰を摘まんでは移して元の場所へ戻し、香を三本立てて、跪いて短い祈りを捧げた。
「小雪、これを持って行きなさい、東京の台所の窓際に置いて祈りなさい。線香は三本だ。供え物は水でいい、何か特別な事があったら三つの茶碗に炊き立ての最初のご飯を入れて、供えて祈りなさい。気が向いたら自分の好きなものを供えてもいい。家を家族を守るのは女性の計り知れない力であることを小雪は知るようになる、これは火の神、ヒヌカンだ、女性の神様だ」と信吉は小雪に香炉を手渡した。
 火之神を手にすると足から頭の天辺へ痺れが走り総毛立ち、あの森の拝所(ウグァンジュ)の先島蘇芳の木が光り輝き、天・地・人、一切の命が煌めく姿が蘇った。

 広間では樸が汗を滲ませながら大の字にあっけらかんと眠っている。小雪はこいつには感傷と言うものがない、のだと悟った。それでも腹が立つので大きなくしゃみを一つした。眠りが足りないのか、目を擦りながら間の抜けた顔を開陳し、緩慢に身を起こした。
「小雪さん、明日の準備は済みましたか」と言うと「寂しくなりますよ」と寝惚けた声で言った。
「心にもないことを言ってくれて、どうもありがとう」
「そんなことはないよ。小雪さんは東京に戻るけれど、いつの日か、この島に帰ってくる。その時には蓬莱島の正統な神人となる。僕はカマドおばあと小雪さんの繋ぎ役にしか過ぎないからね」
「だから、寂しくないと言いたいの。冷たいのね。それに私がここの神人になるか、分からないじゃないの」
「既に成っているんだから、成れないと言っても、もう遅い。心配するなよ、小雪さんはここに戻ってくるんだから」
 旅立とうとしているのに、もう戻って来ることを言える神経が樸の救いだと小雪は呆れていた。
「小雪さん、これから送別会をするよ」
「まだ外は明るいわよ、酒には早いんじゃないの」
「ここにはね、守るべきものがないから、破るものもない、そう思ったら、そうする、それが自然だろう。雨も降りたい時にしか降らない、雪は決して降らないだろうけど、だから小雪さんがここに現れたのかな」
 樸は訳の分からぬジョークに一人で勝手に笑い、準備にかかった。
 小雪はこの島で生まれ変わったのだ。

 翌日、空は青く晴れていた、見慣れた空であった。小雪は黄色のワンピースを着た。沖縄に来て初めて着けたスカートだった、淡いピンクのルージュも引いた。信吉に見て貰えないのが残念だったが、樸はその姿を見て、唐変木らしく白い歯を覗かせただけであった。赤いヒールには目も呉れなかった。期待はしなかったが白けた気分になっていた。信吉は桃太郎に荷車を繋ぎ終えていた。火之神を片手に、東京から来た時と同じようにボストンバッグ一つで帰るのだと、小雪はガジマルの下で立ち止まっていた。すると、一陣の風が吹き小雪のスカートをまくり上げ、キジムナーが枝の上ではしゃいで飛び跳ねていた。
「君は寂しくないのかよ」と小雪は呟いた。
「バーカ、どうせ戻って来るんだ、どんな小雪になっているのか楽しみだよ」とキジムナーはひらりと小雪の右肩に坐った。  
「可愛くない」
「六百年も生きているんだ、少しの別れぐらいどうってことないさ、……小雪、頼みがあるんだけど、ボクにお別れのキスをしろよ、天女は気位が高くて、そんな下品なことはできないって断りやがってよ。まあ、小雪は人間だからどうってことないだろう。ほっぺにキスしろよ」
「スケベな割にはまともな事も言うのね」と小雪はボストンバッグと火之神を地面に置いて、両手でキジムナーを優しく包み、頬にキスをした。
 キジムナーは顔を真っ赤にしてロケット花火の様に手を離れ、風を切り高く舞い上がった。
「口とは似合わず純情なのね、君は」
「まだ青いな、小雪。その大きな口に喰われるかと思って、びっくりして飛び跳ねただけじゃないか。キジムナーとキスした奴はいないぞ、誇りに思え。それから東京に行っても、木々と話す事を止めるなよ、ボクの仲間だ。そうすれば風と水と話せる様になる。するとボクにも小雪が見える、小雪にも見えるようになる。暇だったら会いに行くよ、まあ、元気で暮らせ」とキジムナーはガジマルの木の全ての葉をざわめかせては消えた。
 信吉がボストンバッグを渡しなさいと取り、後ろの荷台に載せ、小雪は信吉の傍らに坐った。桃太郎が歩き出し、海の道を悠然と進んで行く。島が大きな海にぽつりと浮かび、更には青の広がり、空に抱かれている。海と空の狭間で小雪の目から涙が溢れていた。桃太郎が立ち止まり、信吉が空を見上げ狐の嫁入りだと呟いた。すると激しい雨が降り出した。何気なく小雪が後ろを振り向くと、樸が膝まで海に漬かり、雨の中で手を振っていた。
「恵みの雨だ、小雪」と信吉は桃太郎を歩ませた。
 蓬莱島から三嶽村に差し掛かった時に雨は止み、空は澄み渡り、虹が二つの島の頭上に架かった。
 三人と一匹が蒼穹を見上げた。
   八、機中
 飛行機が上昇する際の耳鳴りのようなものが半年前の少女のことを俄に思い起こさせていた。目の前でその光景を見ているように鮮明であった。

 仕事からの帰り、駅を出て三分歩いた。
 募金箱を両手に持った薄汚れたジーンズにTシャツの痩せた十代後半か二十代前半の萎びた男と少女が小雪に歩み寄って来た。
「署名をお願いします」
 小雪は断るのも面倒でバッグから財布を取り出し百円玉を一つ募金箱に入れ、署名は首を横に振り断った。男が笑い、少女が連動して笑みを浮かべる。
「大震災に愛の手を、あなたの心が一粒の麦となり、多くの実を結ぶべし」と男が確信に満ちた声で告げる。
「ハレルヤ、ハレルヤ」と少女の祈りの呟きが男の声を追う。
 小雪は二人の目の輝きに驚いた、この疲れ果てたような様子と身なりからは思いもしない力強さを感じていた、前までは仕事もせずに布教活動をする者に侮蔑の眼差しで一蹴し気にも止めなかったが、今は或る同じ根から発せられる親近感を覚えていた。それは何かを必至に探し求めている者とその何かを見つけた者の内なる叫びの共振であった。
「あなたは絶対なるものを持っていますか、全てを捧げて悔い無き方を知っていますか、何よりも今、あなたは幸せですか」
「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」と少女は男の言葉の響きに感応しエクスタシーの忘我の甘い虚ろな目を潤ませている。
 突然、雷に打たれたような痺れと恐怖の悪寒が背筋を走った、蚯蚓の現れる前なら、何を間抜けなことを言っているのと歯牙にも掛けないことが、大きなエネルギーを持ち神経に送られ、心で増幅して、この子は私の心を見透かしている、不安定な心への錨となる絶対なるものを彼等は知っている、との怯えと期待への感情、一刀両断に蚯蚓を斬り殺す、その刀を彼等は少なくとも持っているとの驚き、それを小雪は隠せなかった。それは更に貧相な彼等に心の内奥を抉られるのではとの不安をも齎し、目眩がし立っているのもやっとで、顔は青ざめていた。だが、小雪はそこを立ち去ることが出来ないでいた。
「私達は生きているのではありません、生かされているのです。お金で心は癒されないのです、悩まないで一生を過ごす、そのような人は死に際して笑えますか、一億の貯金が有ったとして、何かの足しになりますか、大きな葬式が待っているだけです、偉い戒名のお値段は払えるでしょう、坊さんは値段分のお経を唱えるでしょう、葬式仏教です、酒興の堕落、退廃です、それで大儲けの牧師に神父に坊主。特に坊主は戒律無しで、飲酒・色欲・肉色、太った豚で僧侶で、税金は格安、苦労しないで、欲を満たしたいのなら、聖職に就け、僧侶になれです、欲望のエリートコースです、きっと彼等が地獄に落ちるぞと脅して信者からお布施を巻き上げ、地獄で釜茹でにされているのは聖職者・特に成り金坊主でうようよしているでしょう。でも、彼等は地獄など信じてはいません、あの世を信じるほどのロマンチストでは有りません、欲が人間の皮を着ただけです、ご本尊はお金です、それも世襲で末代まで受け継ごうとするのですから、地獄へのところてん式入学の一門です。いいですか、仏教もキリスト教も回教も堕落はしないのです、それで私腹を肥やそうとする人々が在るだけです。宗教に目覚めるとは経典に帰ることです」
 小雪の耳にはヘッドフォーンをしてマキシマムの音量で聞くかのように鳴り響き、身震いが間欠的に訪れる、一種の脅迫的な物を感じていた、それは声の大きさに依るものではなかった、実際男は普通の人の喋る音量の域を越えるもの出はなかった、ただ一つ違うことは言葉に迷いが無く、自信に満ちていることであった。それに小雪は圧倒され身が縮む思いで聞かねばならなかった、逃げ出したかった、しかし金縛りに遇ったように身動きが出来なかった。
「『私は山田妙作であって、山田妙作ではない、ボディサドヴァである』あのバカ、自分は黒であって黒ではない、白であると信者を前に言い放った。それを信者は涎を垂らしながらうっとりと聞いている、その中の一人に私も在た。所が部屋で一人で般若心経を唱えていると、山田妙作は策士であり、総理大臣やノーベル賞などとただの野心家だと稲妻が脳裏に走った。すると、潰れ掛けた鉄工所の経営者に仏像を売り、南無観音菩薩と毎朝拝み、経を唱えれば工場は盛り返します、と仏具一式を売りつけ、七十五万をせしめ、工場は潰れ経営者は夜逃げ、支部長にそれを話せば、功徳を積んだだけでも彼と家族は救われた、決めは南無観世音菩薩。葬式を出せば、隣近所から貰った香典はそっくりそのまま至福浄土教会支部へ、そこから本部へ。質の悪いネズミ講だ、そこでお金を拾い集めて来るネズミの一匹がこの私で、本部は税金対策で四億円を金庫に入れたまま、ゴミ処分場へ、何をしても、《ヤマダキサク、ヤマダキサク、ナムカンゼオンボサツ、ナムカンゼオンボサツ》全てが一件落着、これにて一件落着、考えることすら出来ない、私は誰かに慈悲を施したか、私は救われたのか、私は救われたいと思った、しかし私は私と同じ思いの人を騙して金を奪い取っただけだった、これが信仰ですか」
 男は拳を握り顔を赤くして絞り出すような声で語り掛け、小雪を険しい目で凝視しているものの、だがその小雪の肉体を通り抜けて見える自分に問い詰めている、それは奇妙な平安を小雪に齎していた。懺悔室で告白を聞く神父を思い起こさせた、罪を聞く喜びではない、無垢であることの罪を犯した者への優越でもない、気が触れるのではと不安の波に呑み込まれようとする小雪が自分に真剣に話してくれる、同情や哀れみでもない真摯な気持ちが醸し出す何かしらほのぼのとしたゆとりのようなものが有り難く思えるのだった、怯えとは違う、以前にも経験したことのない『何か』。
「ハレルヤ・ハレルヤ・ハレルヤ」
 か細い少女の声が小川のせせらぎのように耳に響く、小雪は男の傍らに済まなげに慎ましく立っている少女の存在に目を向けた。男の視線が見る者を射るかのような視線なら、少女の視線は彼女の目に映る全てに放射して、焦点が無かった、パノラマとして全てが映った映像であり、そこに人が在て、建物が有り、薄曇りの空が広がっている、確かなことは彼女が男の声に連動して呟く『ハレルヤ』、抑揚なの無い平坦な小さな声。小雪はカソリック系の幼稚園に通っていた、そこの厳かな礼拝堂で磔はりつけにされ血を流す主イエス・キリストにシスターが呟く「ハレルヤ」、歓喜の声に似て、哀れなイエスを目の前にしての異様な所作に思えた。園長先生はその意味を「神を誉め讚えよ」という意味だとおっしゃった。意外な所で聞いた「ハレルヤ」はノスタルジーのためか、物悲しく耳に響いた。
 男は少女を一瞥した。
「済みません、時間切れです、宜しければ一緒に私のアパートでお話しませんか」
 虚を衝かれた、シュールな、突飛な言葉で人格を疑う前に、何なんだろうと思った。軟派にしては地味で暗すぎ、宗教への勧誘にしてはあからさまで稚拙である。どちらにしろ悪い人ではないことだけは分かる。それでも小雪はきょとんとするしかなかった。
 その様子を見た男は顔を赤らめた。
「彼女のタイマーが切れそうなのです、彼女が外界で活動できる時間が決まっているんです、彼女の体内時計が私には分かるんです、簡単に言うと、ウルトラマンが三分間しか怪獣と戦えないのと同じなのです」
 何をうろたえているのだろうか、理路整然と話していた彼が突然変調を来し、却って年相応で可愛げが有るものだと小雪は男を冷静に見詰めていた、少女は怯えた顔でぶるぶる震えていた、いや、怒っているのだと考えが二転三転し、無表情の顔からいずれかを導きだそうとするが無駄であった。すると男は少女の手を掴み足早に歩き出した、振り返っては小雪を見て、再び振り返り、「付いて来い」と願っているかのようであった。
 小雪は確かにそう思った。見知らぬ男に付いて行くための自己を正当化するための合理化だと心理学を齧った者は思うに違いないが、直感は危機の時や人生の岐路に立つ際に冴えるものである。無論、それが吉と出るか凶と出るか分からない、確実なことは、直感がそれほど余裕の有る人の胸の扉をノックすることはないと言うことだ。溺れる者は藁をも掴む、その藁が直感に他ならないのである。小雪は手を繋ぎ家路を急ぐ彼等の後を追った。
 二人のアパートは巨大なビルにサンドイッチにされた木造二階建は都会の落とし物のであった、日は真上から屋根にしか当たることがなく、一階の路地から四つ目の一番置くに在る部屋であった。男は鍵を開け、蛍光燈を点け、少女を入れてテーブルに坐らせ使い込んで傷みの激しい広辞苑を置いた。外で待たされる羽目になった小雪は置いてけぼりを喰らったのではと幼い頃の遊園地で迷子になった心細さを味わっていた、その最中にいつか見た洋画の葬った死人がクロス無き奥津城おくつきから次々と生き返るゾンビのシーンを垣間見ていた。
「どうぞ」  
 男がドアを開け顔を出してにっこりした。
 六畳一間にキッチンに二畳ほどのカーテンで仕切るバスとトイレがリフォームされて備えられていた。小雪が驚いたのは綺麗に片付けられた部屋であった。書棚には華厳経・般若心経・仏教語大辞典・百科事典・漢和大字典・外来語辞典・三年前の現代用語の基礎知識が並べられている。それから畳の上のブックホルダーにクロスワードパズルの雑誌が十数冊ほど並べられいる、それからCDプレーヤーが一つ、テレビは無い、広辞苑を広げて熱心に読んでいる少女。
 男は少女の向かいに小雪を坐らせ、キッチンへ行き、甲斐甲斐しく冷えた麦茶の入ったコップを三つ盆に載せて、小雪、少女と置いて正座で坐った。二人のコップにはサヤカ、アンゴと白のマーカーで書かれ、素材はプラスティックであった。保育園の情景と重なり小雪の顔から笑みが零れた。
「先程の話を続けます……、先ずは、私の名前は三塚安吾、彼女は霧島サヤカ、あなたのお名前をお聞かせください」
 小雪は躇らっていた、名前を告げるとなぜかしら自分の全てを知られてしまうような不安が有ったからだ、きっと自分が精神に異常を来していることも、蚯蚓のことも、プライベートなことも全てが晒される、真っ裸にされるような気がした。しかし、自分を納得させる的もであろう告げぬ理由は見つけられなかった。
「三上小雪です」
「三上さん、話を続けます。宗教は私腹を肥やすための地位も名誉も欲しがってはならないのです、あの山田の政治団体への、貪欲な権力へのご執心、至福浄土教会の票集めに依る圧力、そんなことをする人材とお金があるのなら、海外の発展途上国に人材と技術とお金を注ぐべきだ、慈悲の一欠片も無い。宗教は大きくなれば権力を欲しがり、私腹肥やしの浄土教会と零落れた。末端の信者は金集めの働きアリで、出世が唯一の励みで何が大乗仏教ですか、自分さえ救えないでいる、それで南方仏教を小乗、小さな乗り物、自分しか救ってはないかとふんぞり返って、皮張りの安楽椅子に肥満で気に掛けることは糖尿病、まずは自分を救え、山田妙作。しかし何を言っても堪えやしないのです、『私は山田妙作であって、山田妙作ではない、ボディサドヴァである』実に奇妙な責任逃れの神様のパラドックス、いや、詭弁です、それが大手を振って至福浄土教会では通用するんです、それが或る意味では宗教の一面なのです」
 安吾は最後の一言で押し黙り、考え込んでしまった、その傍らではサヤカが一心不乱にクロスワードパズルを解いている。小雪は二人の沈黙に馴染めず口を開いた。
「どうしてサヤカさんはウルトラマンなのですか」と小雪は無理をして笑みを浮かべた。
「サヤカは自閉症で、外に何時間も在ることに耐えられないのです」

 或る時期まで歌舞伎町で安吾は至福浄土教会のパンフレットを配りながら布教活動をしていた。ネオンと酔っぱらいと客引きでごった返している中で、安吾は「あなたには清らかな魂が宿っています、南無観世音菩薩」「あなたには清らかな魂が宿っています、南無観世音菩薩」と何百、何千回と声が出なくなるまで行人にビラを配り合掌する。勿論、いい顔をする者は在ない、返って来るのは嘲笑と罵声だけである。そこに突然獣のような呻きとも悲鳴とも付かない甲高い声が響き、人の波が真っ二つに分かれ、セーラー服に化粧をした女の子が駈ける、その跡をタキシードの大男が追いかける。女の子は奇声を上げる。安吾は往来の真ん中に立ち、両手を上げて男を阻んだ。男は安吾の両肩を掴み、頭突きを喰らわせ、腹に三発見舞い、蹲る安吾の背と腹を革靴で蹴った。そして安吾のショルダーバッグから教会へ届ける一月の布施を取り出し、数えて「兄ちゃん、その身なりにしては小銭を稼いでいるじゃねえかよ」と腹を蹴り、「あいつはバカだ、お前がおまんまを喰わせるか、それとも女房にでもするか、施設にでも捨てるのか、どっちにしても一人では生きられないスケだ、俺はな職を恵んだ、今度はお前が喰い物にする番だ、しっかりやりなよ、厄介払いができて、清々したよ」と倒れた安吾に唾を吐き掛けた。
 医師である父親は国立女子大での母親とは見合いで結婚した。そして安吾、妹、弟が生まれ、物心付くまで絵に描いたようなマイホームの環境で育った。
 しかし看護婦長は父が母と結婚する前からの愛人であり、高卒の看護婦長より学歴の高い女を子供を産む妻として選んだ、そして高級クラブでは若い女を漁っていた。母は全てを知っていた。だが顔色一つ変えなかった。専業主婦であり、三人の子供の母親である、そして子供に対しては厳しい教育者であった。世間体を憚る三塚医院の院長夫人である。母にとって三人の子供は人質であり、院長は金蔓であった。贅沢できる金と社会的地位に買われた高級売春婦であった。
 中二の時、母の用事を言い付かり病院へ行った時たまたま夜勤であった看護婦の茉莉奈に誘われて病院を回った。看護婦のロッカールームは甘酸っぱい女性の匂いがした。学校ではスチュワーデスを抜いてナースの白衣が制服ナンバーワンの地位を占めていた、早熟で好奇心旺盛なクラスメートからは羨望の的であれこれと聞かれることが休み時間の日課であった。茉莉奈の真意を測りかねた霊安室へ連れて行かれた。生活保護を受けていた老人の遺体が安置されていた。ほの暗い明かりのひんやりした密室であった。開いていたストレッチャーの上に茉莉奈は腰掛けて頬笑んで横に坐るように手招きした。
「驚いたでしょう、安吾ちゃん、看護婦は毎日亡くなる人を見ているのよ、もう慣れてしまったわ、そうでなければ神経が参ってお仕事なんか出来ないわよね、お休みも不規則だしデートする暇もないのよ、クリスマスイブの日にボーイフレンドと一度も過ごしたことが無いの、同窓会では皆その事を楽しそうに話しているのよ、私だけ取り残されたような嫌な雰囲気……」
 白い布で覆われた老人の沈黙が二人を占拠した、奇妙な甘く蕩けるような悪寒が背筋を走り安吾はぶるっと震えた。茉莉奈の右手が安吾の太股に触れると痺れが走った、手を握ると凄まじい熱が襲った、唇と唇が触れると霊安室が炎に包まれた中一の時亡くなった祖父を火葬するガスの炎が四方から吹き出して来る音のする窯の中に在るような気がした、「死ぬ」のだとの怯えが捲れて粘膜の快楽に変容した。炎に包まれて焼き尽くされながら得も言われぬ凍傷の喜悦にかじかんでいた。遺体の老人だけが永久凍土の中で静かに横たわっていた。茉莉奈はヌード写真集から抜け出したような美しい体をしてた、それよりもマシュマロのような体の感触がいつまでもいつまでも埋み火のように残った。けして悪い出来事ではなかった、しかしいつからか茉莉奈も母と同じような哀れで軽蔑すべき姿に変わってしまっていた。女性全てが醜い軟体動物に映った、売女、怒りと朦朧とした了解不能をその言葉にぶつけて解消した。その頃の安吾には女性は売女と聖女の二つしか存在しなかった。
 安吾は教会の支部へ布施を取られたこと告げた。支部長は安吾の肉体の傷は魂の救済に比べれば取るに足らぬものらしく、気にかける言葉も無く、「大事な浄財を取られた、それも歌舞伎町でか」と苦笑いをした。
 支部長は安吾が教会以外の出版物を読んでいることを憎んでいた、邪教、外道の教えだと安吾の弁を真っ向から否定したが、納得させることはできなかった。それに問答と称して、議論を他の信徒に吹っ掛ける安吾は危険人物であり、教義に疑念を齎す疫病神であり、ここでしくじれば本部への栄転も消え、布教と呼ばれる地方の片田舎へ飛ばされる、流刑と幹部達が恐れるものであった。そこへ下っ端の信者が支部の前で立っていたセーラー服に化粧に香水と三拍子揃った女の子を連れて来た。
「歌舞伎町の信者か、いい趣味だ、破門です、出て行きなさい」と支部長は「問答無用」と一喝した。安吾の至福浄土教会は女の子と安吾を摘まみ出した。安吾は自分心の中で何かが消えたことを感じたが、それを捉えることはできなかった。安吾は支部の建物に一礼し、合掌してアパートへ向かった。女の子は一メートルほど後を子犬のように付いて来る。  安吾はアパートに着くと女の子が在るのを知りながら扉を閉めて、明かりも点けずに万年床に潜り込んで眠った。
 阿修羅が悪人を法の剣で、ばさばさ斬って行く、心が躍った、そして赤い血だけが地上に溢れ零れだし、安吾がアパートの蛇口を捻るとその血が流れ出した。血の中で溺れる安吾は失神した。豊満な乳を露にした鬼が村人の赤子を攫ってはむしゃむしゃ喰い、何百と在る自分の子に美しい笑顔で乳を与えている。安らかな心持ちで浄土に在るようだと思った。すると突如狂ったように鬼が泣き喚いた、百何人目かの赤子が消えた。野を駈け山を駈け探しに探してもその赤子は見つからない。その鬼が地に跪き天に向かって「我が子を返せ、我が子を返せ」と慟哭した。漆黒の天に光の玉が現れ、その中で鬼の赤子が笑っていた。鬼はその姿に七転八倒し、悶え苦しみ、のたうち回っている。光は消え、そして赤子は鬼の懐で泣いていた。
 安吾は跳び起きてドアを開けると、暁闇の中でセーラー服の女をじっと何事も無かったかのように立ち尽くしていた。近づいてよく見ると本当の少女だった、大人の女性ではなかった。

「サヤカは自閉症なんです、精神病院に連れて行くと、施設に預けなさいというだけでした。
 誰とも喋らないのですが、皮肉な事に、サヤカは言葉の天才なのです。広辞苑を読んで、覚えているのですからね。
 所が小説を読ませたら暴れました。人の感情の起伏に耐えられないのです、それはサヤカの神経がとても傷つき易くなっているということです、無論、私の推論ですが。
 生きるためにはシェルターの中に住むしかないのです、宇宙飛行士のように、地球に住む異星人のように。そうなるような家庭で育てられたのです、幼い子を親は捨てても、幼い子は親を捨てる能力も、野蛮も無いのです。喜怒哀楽を捨て去った、仏様です。人間は老人として生まれ赤子となって死ぬべき運命を間違って授けられたのです。サヤカは私の布教する口調に合うんでしょう、突然、『ハレルヤ』と声を出したのです。私の方が説法されているのです。彼女の一言は私の全ての言葉を使い尽くす事よりも勝っているのです、サヤカの陀羅尼(だらに)、真言です」
「ハレルヤ、ハレルヤ」と広辞苑から目を離さずにサヤカが呟いた。
「余りお引き止めしても悪いので、祈らせ下さい、あなたには清らかな魂が宿っています、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」
「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」
 三塚と会ったその翌晩、新宿駅近くで、小雪は中年の小奇麗にした身なりの男女の二人に声を掛けられ、三塚と女の子のことで話したいと、言葉巧みに誘い込まれ、着いたのは至福浄土教会新宿支部であった。
 支部長のルームには革製のソファーが二つ向かい合って配置され、中央の壁に山田妙作が淡い青のスーツを着た上半身のポスター、肥えて脂ぎっている顔が笑っている。その下に支部長の大きな事務デスクが置かれている。阿久津千里と言い、取って付けた笑みが女性を意識した二枚目アイドルのナルシストのブロマイドを想起させた。いいスーツを着ていた、会社で言えば部長クラスである。
その冷静さとは裏腹に、小雪に宗教の持つ独特な雰囲気、結束と自信が異様なプレッシャーを与えていた。がんじがらめにされ自由を奪われるのではとの恐れ。阿久津は精神的悩みを抱えているか、不安定な状態であるかを察する長けている、そうでなければ五百名もの信者を獲得し、詰まりお布施をさせる、ことは不可能である。相手の精神の弱みに付け込み、揺さぶり、黄金の実を地面に落とさせる。金の無いものは奉仕という肉体と時間で金を産み出させる。小雪の目の焦点は定まらなかった、決め手は何よりもコウモリが闇の洞窟で壁にぶつからないために発する超音波と同様な気の波動が四散することで阿久津は弱っている事を嗅ぎ付けていた。これは経験と勘であり、天性の山師の特性でもある。
「あなたはお困りになっている、でなければ三塚と変わり者の女の子、サヤカでしたか、と話し合える訳が無いのです」と穏やかなトーンから力強い断定のトーンへ移行して「悪魔は優しく語り掛けるのです、大きな声も出さない、周りが気に掛るからです、そして赦しの言葉を囁く『あなたの心は清らかです』三塚は誇大妄想です、自分をキリストか予言者だと思い込んでいる。駅での、震災募金活動は、客寄せパンダです、あのバカは日蓮上人の辻説法だと思い込んでいる。そして知恵送れのサヤカと同棲している。私は個人の活動を否定はしません、しかし我が至福浄土教会を中傷誹謗する事は許しません。絶対にです。
 地獄をご存じですか、腹を透かした餓鬼、排泄物さえ喰う亡者、針の筵を歩く畜生、赤く煮え滾る溶岩の鍋に投げ込まれる守銭奴、もっと恐ろしい事はその地獄には死が無い、死んで解放されたかと思うと、蘇生して同じ責め苦を味わうのです、それに比べれば人の一生は瞬きの時間よりも短いのです、それを潜在的に知りながら、知らぬ振りで生きているのが我々です。
 そこに大悲の観世音菩薩がこの世に現れたのです、山田妙作先生はその化身です。先生はこの地球を飢餓から救い、戦争をこの地上から吹き消してしまわれる唯一の方です。その先生の弟子でありながらダバイダッタ、ユダとなったのが三塚です。もう二度と会わない事です、彼は地獄への入り口です。先生のご本を進呈しましょう、お読みになれば再び光明を求めて、ここに来られるでしょう、南無観世音菩薩、南無観世音大菩薩」
 小雪が「万人の、あなただけの書物『至福経験・雷鳴の甘露』山田妙作」と記された本を手にすると、阿久津が呼び鈴を鳴らし、二人の信者が現れた。
「小雪さんは、悪魔払いをしたので、お疲れになっている、車でお送りしなさい」と阿久津は頬笑んだ。
 小雪は断れずに家の前の道路まで送られ、お礼を言って足早に戻った。二人の信者は小雪が部屋に入り明かりが点くのを確かめて、住所を手帳に記入し、車を走らせた。
   九、再びの東京
 電車に乗り、新宿の京王プラザ、スクエアタワー、新宿アイランドタワーを見ると、やはり懐かしいものがあった、古里だ。
 アパートに戻るとボストンバッグから火之神を祀る香炉を取り出し、ビニール袋に入った蓬莱島の浜辺の誰にも踏まれなかった砂とカマドおばあ、幾人もの神人が守り続けて来た火之神の灰を入れた。そして台所のガスコンロの上の窓の框に香炉を置いて、コップに水を入れて供えた。
 信吉は若い一人暮らしの者が線香など持っているはずがないことは知っている、気が利く、さすが年の功だ。
 タッパーには黒の板状の島御香(しまうこう)が入れらていた。小雪は島御香を三本取り出し、火を点けて、三度振り、香炉に立て、床に正座して目を瞑り拝んだ。香の煙は上には昇らず、四方に分かれ東西南北へと紫の蛇、龍となって部屋を駆け巡る。
 香の匂いが立ち込め、小雪の脳裏にあの森の先島蘇芳の木が立ち現れた。幾重もの板根が天をも覆う枝葉の茂る幹を支え、昼夜を問わず天と地と海が連綿として宝珠のように煌めき呼吸していた。紺碧の海の底の岩間にアコヤ貝がひっそりと当たりを気遣うかのように呼吸をしていた。その閉じられた永遠の暗夜の厚い殻の中には少女の柔らかな体が押し込められ、その胸には両手で包み込んでいる光り輝くもののけして人の目を眩ませることのない真珠が育まれていた。目の見えぬ信吉が三線を爪弾き歌う吉屋チルの琉球短歌(八八八六)が天地人のエーテルを震わせる。
「一回(ちゅけーん)二回(たけーん)
  読ゆでぃどぅ遊あしぶたる
  何時いちぬ間に里(さとぅ)や 大人(うふちゅ)なたが」
  (一つ、二つと数えては遊びしも、君、何時の間に大人なれし)
 森に海に空に漂っていた小雪は目を開けわびしい自分のアパートに在た、だがそれさえも全てが満ち足りて輝いていた。
 小雪は母が「会いたくなったら、いつでも行きなさい、特にお金に困ったら」と皮肉を交えて渡した名刺を思い出した。
 今まで見向きもしなかったが、捨てもしなかった、曰く付きの品、「父さんとコユキのナイショ」
 忌まわしい埋もれたあの男の記憶が父を遠ざけていた、一度も会わず、思い出す事さえなかった父が突如蘇り、抗えない何かがそこへ行けと命令しているかのようであった。
 名刺の裏には自宅の住所と電話番号が記されていた。田園調布、金持ちのお坊ちゃま、自分の資質から見て、一代で財を成す商才、裸一貫の気迫も無いからであった。電話をすると帝国ホテルで会う事になった。
 互いに事務的なもので、冷静であった、今更瞼の父などと求める気も求められる気も無かった。
 午前十一時、目印の黄色のワンピースを着て行くと、アルマーニに身を包んだ如何にも金持ちだという雰囲気で痩せぎみのインテリを窺わせる初老の男が立ち上がり行儀良く手を振った、皇室スタイルだ、それに似合わぬ口髭まで貯えて、髪は七三にリキッドで決めている。これはお坊ちゃん大学出だわと諦めと溜め息が一緒に転がり落ちた。ロビーのソファーに坐った。
 小雪は安心していた、「コユキと父さんのナイショ」と言ったあの男は父さんではなかった、顔が違った、どんなに変わろうと今目の前に在る男の顔ではなかった、それからあの獣が出すような異様な臭いが無かった。案ずるより産むが易し、二十五年の疑惑、不安の消滅、呆気なかったが、何かしらこの父であることが有り難かった。
「私の名前は伊集院薫、君の父であることは私は認めている、だが父、君の祖父と三上綾子さんが籍を入れる事を認めなかったからだ、二人とも困るくらいの頑固者で、どちらも干支は虎、吼えて手が付けられなかった」
「三上小雪です、シンプルな疑問ですが、なぜ二週間で別れたんですか」
「そうですね、十四日というのは人を知るのにも嫌いになるのにも足りない日数です。三上綾子さんは中国人です、中国名を朱雪梅と言います、勿論帰化していますから法律上は日本人です。所が、父、清春が名前を変えるなどと騙し討ちだ、山師だと怒ったのです。結婚後にそれが分かったのです。父は青雲商事を取るか、綾子さんを取るか迫ったのです。綾子さんは清春に時代遅れの日本帝国主義者だの、差別だの、堂々と渡り合って、こんな腐った伊集院の家もその家のバカ息子も要らないと出て行ったのです。立派なものでした。私は貧乏になるのが怖くて伊集院家の財産にしがみついたのです、その時三ヶ月目のあなたが綾子さんのお腹の中に在たのです」
「中国人であるだけで、結婚した若い二人を引き裂きますか」
「そうですね、しかし、一昔前は外国人であると言うだけで、殊に韓国人、中国人は一流会社には入社できませんでした、今も世界の流れを知らぬ企業はそうでしょう。しかし、それだけではなかったのです、父は満州鉄道の職員で中国からの引き上げの際に二人の子供と前妻を亡くしているのです、父は軍部の描いた大東亜政権を戦時中は少なくとも信じていたのです、中国への逆恨みです、いや、中国で日本人が行った非道な行為を知っているだけに余計に中国人と同じ家に住むということが許せなかったのです」
「確かに祖父は間違っています、しかし正直です、それだけでも私は許せます」と小雪は言い切った。
「亡き父も喜んでいるでしょう、嫁や子供には憎まれても、孫には憎まれたくないものです。これは父がもし綾子さんか孫が会い来たら、執行するように言われた遺言です。八王子に二百坪の土地に百坪の二階立てのレンガ造りの洋館を譲るようにとのことでした。自然は豊かなのですが、ちょっとアミューズメントに欠けます、それは小雪さんのものです、他に綾子さんが受け取らなかったあなたへの養育費と生活費があなた名義で預金されています、これが通帳に印鑑、八王子の屋敷の鍵です」
 母親は父から大学を卒業するまで養育費が送られて来るから、お金の事は気にせず好きなだけ勉強すればいいと言っていた、合理的な彼女にも古風な「女の意地」が有ったのかと感心。
 八王子の屋敷の庭に生えている大きな銀杏の木が見えた、その老木が風に戦ぎ、枝々をぴょんぴょん跳び回っているあの悪戯っ子の赤い髪のキジムナーが在た、そして小雪の視線を感じると、その方角に向かって大きく口を開けてベロを出してアカンベーをして、尻を突き出した。
 小雪がいてもいなくてもいい父に突然会いたくなり居ても立っても居られない感情は、キジムナーがそいつ会えと念じていたのだとは臍を噛んだ。
「八王子の家には大きな銀杏の木が有りますね」
「ええ、有ります、千里眼ですか、いい勘していますね。明るい子に育っていて安心しました」
 小雪の父の社交術である当たり障りの無い四方山話が続き、小雪はじれて、では失礼しますと一礼すると、伊集院薫は慌てて立ち上がった。
「小雪さん、私も許せますか」
「いいえ、死ぬまで許しません」
「そう、そうですか、有り難う」
 薫は小雪の心に片隅にでも父としての自分の居場所を与えてくれた事を喜んだ、嫌われても、忘れられるよりはずっと素敵だ。

 小雪は銀行でカードを作り、引っ越しセンターに連絡して、七日後には八王子の家に移っていた。明治の洋館風だが、中はモダンで機能に趣を置いていた、それからメンテナンス会社が管理を依頼していたようで、いつでもすぐに住めるようになっていた。
 居間には紋付袴で椅子に坐った祖父のポートレートが一枚、生活の臭いは全く無かった、頑固な祖父の気持ちが却って伝わって来た。
 その日の夕方、小雪は新宿の安吾とサヤカのアパートへ行った、どこか現実離れした遠い夢の記憶の場所を二つの高いビルを夜の底に潜り込ませる。その扉の前で二時間ほど待つことになった。
 安吾は募金箱をぶら下げ、サヤカの手を取り、仲のいい兄妹が遊んで帰って来るようである。だが、急に二人のシルエットが立ち止まり、その一人が拳を握り締めて駆け寄って来た、そして、小雪である事を知ると、「至福浄土教会の奴等が嗅ぎ回っているんです」と言い、振り向いてサヤカに大きく手を振って来るように催促した。サヤカはぽつりと安吾より半歩下がった横に立って脇のシャツを掴んだ。
 中に入るとサヤカは広辞苑に集中した。その傍らで参加する事の無いサヤカの問題を小雪は安吾と話さなければならない。
 安吾の同意が無ければサヤカはけして八王子には来ないだろう、極端に言えば命を託した暗黙の信頼があるからである。
「もう来ないのかと思いました」
「私もそう思った、サヤカちゃんを見るのが辛いからね、逃げたの、自分から、沖縄の果てまで逃げたわ、三ヶ月の逃避行」
「逃げられましたか」
「いい人達と巡り合って、自分を捕まえたわ、それが大したことないの、ああこのサイズかと思っただけ」
「私にも分かりました、何かしら吹っ切れた清々しさが伝わりました、前のようにぴりぴりして近寄りがたい雰囲気が消えて、和らいだ波長が流れています、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」
「ハレルヤ、ハレルヤ」
「用件に入りますが、安吾さんとサヤカちゃんと一緒に八王子の私の家へ移りませんか、住んでいるのは私一人ですから。サヤカちゃんも過ごし易いと思いますが。家賃も食費も要りません、それに至福浄土教会の事も有りますし、どうでしょう」
「どうして私達にそこまで親切になさるのですか」
「あなたは新宿駅近くで、どうして私に声を掛けたのですか、それと海底に沈んでいる真珠貝の夢を見ました」
「そうですか、助かります、布教も大切ですが、生活費も捻出しなければなりませんし、サヤカを独りぼっちにしなくても済みますから、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」
「ハレルヤ、ハレルヤ」
 安吾は合掌した、布施は一切を要求しない、無条件である、与える側も与えられる側もである、それが安吾の求道であり、二人がそれぞれに布施を受けたのである。
 翌朝午前十時には安吾がバンをレンタルして午後三時には完了した。安吾とサヤカの持ち物と言えば、辞典類と僅かな衣服だけであった。二階に階段側から安吾、サヤカ、小雪のそれぞれの部屋となっている。
 午後七時、小雪は台所の窓際に置かれた火之神に香と水を供えて祈りを捧げた。
『三塚安吾と霧島サヤカがこの家の新しい家族となりました、二人の健康とサヤカがここの生活に早く馴れ、彼女の病を癒す力を私に、安吾に、サヤカにお与え下さい』
 サヤカはリビングの書棚のカラー写真の入った日本語大辞典を見つけ、ソファには掛けずに床に坐り見入っている、どんなにこの家が広くとも、いや世界が広くとも狭くても自分の居場所が有るか無いかが全てなのである。それとは対照的に、安吾は家を隈無く見て回り、外に出て屋敷を探索し、裏がちょっとした雑木林で森の匂いがして気に入った様子で、ぐるりと回り、前庭の銀杏の木の下で深呼吸をして暫く佇んだ。
 日も暮れて一段落して、リビングでピザの宅配で引っ越し祝いをした。サヤカは最小限の職を取り、辞典を読み始めた。
「台所で祈っていましたが、小雪さんも祈るんですね、それは何に祈っているのですか、香炉だけですから見当が付きません」と安吾は苦行僧のような沈鬱な趣で訊ねた。
「火之神(ヒヌカン)、火の神様にです、沖縄では家庭の主婦が祈る場所で、家族の出来事を報告し、願い事や愚痴を零す神聖な火の空間、人が家に自然を招き入れる唯一の窓なのです」
「火の神様に、教えは有りますか」
「少なくとも一日に一度祈る事は私は神ではない事と謙虚である事を示す事、それが教えだと思う」
「私は納得したいのです、仏陀でも、神様でも在る事を、大いなるものが存在していること知りたいのです」
「蓬莱島で面倒を看てくれた目の不自由な信吉おじいがこう言ったの『儂はカマドおばあから教えられた、仏様の言葉だと《近いもの、遠いもの、長いもの、短いもの、既に生まれたもの、今から生まれようとするもの、生きとし生けるもの、一切が幸せであれ》』失明して酒浸りなって家族に見放されていた時に、『この言葉有り難かった、こんな儂のために和紙に生まれる前の大昔から祈ってくれた人が在たと思うと涙が出て止まらなかった』と話してくれた」
「私はその言葉を経典で読みながら、悟りも感動もしなかった、愚鈍だ、救いようが無い。きっと幸せに違いないだろうが、その感覚さえも無い、愚鈍だ、救いようの無い哀れな有情だ」と安吾は悲壮な顔付きになった。
 小雪は安吾が哀れに見えたものの、彼なら何時の日か必ず自ら「仏様」を見つけるだろうと確信していた、そのひた向きで愚かにさえ見える真摯に因って、そして話題を今急務のサヤカの事に転じた。
 安吾はなるべくサヤカから遠ざかり、小雪と二人きりにして一緒に過ごさせ、小雪に馴れてもらい、心の扉を開くようにする。
 安吾は以前の冷たい理知でガードして人を拒む雰囲気の小雪が掴み所は無いがゆったりとした海の波のような穏やかさを感じ、小雪に同意した。
 明日から職を探しに行くと告げ、安吾は自分の部屋に戻った。そこから般若心経の読経の声が幽かに聞こえた。
 サヤカを部屋に連れて行ったが、眠ろうとはせず、部屋にある広辞苑を読み始めた。
「一人になるのが怖いの」と小雪が聞いても、反応は全く無い、椅子に腰掛けて、小雪も漢和大字典を開き「一」の漢字の字体・音・訓読み・四声・中国語音・意味・解字・熟語が林立している、しかし一個ずつ眺めると整然と並んでいることが分かる。それでも十分もすれば飽きて、バカらしいと結論付けて投げ出すのが普通である。一時間読んで見たが、耐え切れずに辞典を閉じたが、サヤカは文字に吸い込まれるように一心に読んでいる、彼女が静かに佇める文字の海の畔なのである。
 サヤカ、明かりを消すわよと言うと、小雪は着替えもせずに辞典をテディベアのように抱きかかかえてベッドの中に潜り込んだ。目頭が熱くなった、両親にパジャマに着替える事も教えられずに育ったのか、長い放浪の生活のために家庭を見ずに生きて来たためか、いずれにしても悲しい推測しか出て来ない。ドアを閉めて廊下を歩いていると、突如金切り声が響いた、サヤカの悲鳴だった。胸を衝かれ急いで引き戻し、ベッドに横たわるサヤカを小雪は力一杯抱き締め、頬に後悔の涙が伝う。
 私はこの子を守ると言いながら、部屋に閉じ込め、一人にして、サヤカの両親がしたようなこと、そのことを知っていながら永遠に閉じ込められる恐怖と独りぼっちを味わわせた、無神経だった。
 蓬莱島で繰り返し励まし慰められ守られていたことが樸と信吉おじいの笑顔と共にありありと蘇った。誰にも見つからぬように自殺をしようとして海へ入った時、助けも求めず、声さえ上げなかった私を見つけた、樸も目の見えぬ信吉おじいも知っていた、いざとなれば二人が在た、詰まり樸も信吉おじいも二十四時間私のことを心配して一時も忘れなかった、小雪の胸に無力と情けなさが込み上げた。
「バーカ、お前はサヤカと友達にもなっていないんだぞ、悩む暇が有ったらボクがお前と遊んでやったように遊べ、お前がキジムナーを見た時より変な奴か危険な奴と思っているのかも知れないぞ。
 わざわざ八重山の蓬莱島から庭のイチョウの木を経由して話しているんだ、さすがのこのボクでも疲れるぞ、それからこれが一番気にかかった、どうして樸や信吉の後にこのボクを思い出すんだ、順序が逆だぞ、どっちが年上だと思っているんだ、こう見えても六百歳だぞ、まあボクは蓬莱島の青い空と青い海のような広さの心の持ち主だから許せるけどな、まだまだ青いな小雪。
 いいことを教えてやろう、心に思うことはどんな乗り物よりも早く、どんな所にでもあっという間に行ける、それからボクの優しさが必要だな、小雪は鈍いからボクが面倒看てやるか、大人の関係だからな、困った、困った」
『大人の関係って、肉体関係があったと誤解されるじゃないの、ただのオトモダチでしょうよ』
 サヤカの部屋でそのまま眠った小雪の息遣いが心拍数がサヤカに近づき重なった。
 何も見えなかった、何処までも続く闇だけが支配していた、だが果てしなくはなかった、少し這うと壁にぶつかり、方向を変えては頭を壁に打ち付ける。閉じ込められたのだ、二畳ぐらいの広さ。蹲るしかなかった。
 闇に目映い光が溢れ、仁王立ちの天井まで頭の届きそうな大男が現れ、五歳の女の子の手を掴まえて引きずりだした。綺麗な服に身を包んだ母が在た。
「俺はガキは嫌いだ、手間暇掛けて、こいつが玉の輿にでも成るか、可愛げの無いガキ、施設にでも預けろ」
「いいじゃないの、大きくなれば、掃除に炊事に洗濯、いい家政婦になる、私を見捨てないで、あなただけが頼りなの」
「お前は鬼みたいな女だな、怖い女だ、そこが俺は好きなんだ」
「当たり前さ、女と蒸発した男の子供を誰が好きになれるものか、この子の犠牲になるよりは鬼の方がまだ楽しいさ」
 ドアは閉じられ再びの暗闇が女の子を襲う。むしゃむしゃと狼に食べられる赤頭巾ちゃんが狼の口の中に在る、同じくらいに暗くて赤頭巾ちゃんも泣いている。
「ドロリトロトロ・ドロリトロトロ、ドキドキドキン・ドキドキドキン」
 鼓動だけが相手をしてくれる。暖かいお風呂の中に在る、静かに静かに揺れる、揺りかごの中、眠るように優しく優しく水が流れている音が聞こえる、母さんのお腹の中の赤ん坊はいつも笑っている、いつも笑っている、いつも、どこでも母さんの抱っこ、赤ん坊はいつも、どこでも笑っている。
 小雪の寝入った笑顔が段々と凍り付いて行く、この母の胸は四角い箱の闇に漂う惨たらしい至福のこの四角い箱の中だけで生きて行くための眠りだった、闇の底は光り輝いていた、貝の殻に閉じ込められたサヤカの肉体が抱きかかえた生きるための真珠・光り、理性も感情も通さない、誰にも傷つけられはしない安全な温もり、サヤカはそこで眠り続けようとしている。眠りに閉じ込められた小雪の目から涙の滴が流れ落ちる。
 その涙に恐る恐る触れるサヤカの手の温もりで小雪は目を覚ました。それでもサヤカは涙に触れて不思議で堪らない好奇心を幼子の目のように輝かせている。
 サヤカは泣くことを忘れている、涙がなぜ出るのか知らない、泣けば母が誰かがすぐに着てくれて抱き締めて、愛情を与えてくれた記憶さえないのか、それとも泣けば情け容赦無く叩かれ、怯えるごとに泣くことを、涙を見せなくなった。
 小雪の背筋に悪寒が走った。
   十、沈める記憶
 三人が銀杏屋敷で暮らして二月が立った。安吾は某デパートの宅配係に就職した、布教で得た土地勘と二輪と普通と大型二種の免許が役に立ったと喜んでいた。朝の九時から午後六時まで、時間通りに終わり、交代制で週に一日は休みが取れるので気に入っていた、都内をドライブして回りながら流れる都会の風景も好きだった。それから土日の出勤を嫌がらずに代わってくれるので、既婚者や恋人の在る同僚には重宝がられていた。
 サヤカが銀杏の木の下のマットに俯せになり日本語大辞典を読んでいる。その横で小雪が転がって眠っているのか、起きているのか分からない状態で半日が過ぎ去って行く。安吾だけが乗り遅れて、プラスティックのテーブルの椅子に坐って女二人を漫ろに眺めていると、きっと人類が類人猿と袂を分かって以来、このようにしていたのだろうと思えて来た。
「大きな木の下には気が溢れているの、瞑想の時に出るα波が流れて、人間を万物をリラックスさせるのよ」と眠たげな小雪が転がったままでだるそうに安吾を見上げて告げる。
 安吾は退屈が苦手である、小雪がぐうたらに見えて仕方が無い。二人揃って嫁入り前の娘が海岸で横たわるトドに見える。心頭滅却すれば火も亦涼しと椅子の上で座禅を組む。
 目を閉じ精神を集中し無我の境地に没入する安吾だったが、その寂静の世界に闖入者が遣って来る。釈迦は菩提樹の下で悟られた、木は元来聖なる者を助ける質なのだが、銀杏の下での瞑想となると奇妙な者が出没する。赤い髪を肩まで垂らした童顔の性別不祥で裸の小人である。
「おい、お前、何をしている、若いのに坊主の真似か、君は小雪のオッパイが気にならないのか、サヤカのシンプルな青い蕾の美しさ、清らかさが目に入らないのか、この野暮天の愡け茄子、不感症で人が救えるか、お前がお前を救えるかも疑問だ、観世音菩薩は七変化だぞ、サヤカも小雪も、言いたくはないが、このボクもその化身かもしれないぞ、何だその目付きは疑い深い目で見ては失礼だ、畏敬の念を持って接すべきだぞ、特にこのボクにはな」
『妄執雑念邪気淫奔退散、妄執雑念邪気淫奔退散』と安吾は首を振って目を開けた。
 サヤカは辞典を読みながらこくりこくりと夢現の状態で、薔薇という文字が霞んで、コーヒーにミルクを落とし拡散して行く感覚があり、光景が浮かんだ。
 頭髪が赤く輝く小人が洞窟へ入って行くと、大きな桃が転がっている。小人は桃をノックして「お外に出たいか、お外に出たいか」と訊ねた。すると小さな声がした。
『オソトハイヤヨ、オソトハイヤ、オニガイルノ、オニガイルノ』
「おーいおいおい、お前が出ないと、鬼退治はできないよ、できないよ、犬とキジがきび団子を待って、腹を透かしている、おーいおいおい、お前が出ないと、鬼退治はできないよ、できないよ」
『オニハコワイ、オニハコワイ』
「おーいおいおい、お前が出ないと、鬼退治はできないよ、できないよ」
『ウルサイ、オマエハナニヨ、モモタロウニハデテコナイデショウ、アア、七三四ページノニバンメ、コロボックルダ、ホッカイドウニカエリナサイヨ、デシャバリ』
「バーカ、ボクは沖縄の八重山の西表の蓬莱島のガジマルの木の主(ぬし)のキジムナーだよ、辞典より海や山や川はずっとずっと大きいんだ。あの小雪、お前にべったりの女、あいつもお前と同じで『ミミズが怖い、ミミズが怖い』って言っては泣いていたよ、それが今ではグースカピースカ。サヤカサヤカ、出て来いよ、出て来いよ、遊ぼう、遊ぼう」
 小雪は口半開きに完全に眠り込んでしまっている。
「小雪、小雪、女を捨てたか、おばさんみたいな間抜けな格好で眠りやがって、百年の恋も冷めてしまう、言いにくいけどね、ボクと君の関係はサヤカに内緒、焼き餅焼いてばらしっこなしだぞ。サヤカはボクのタイプなんだ、何と言ったらいいのかな、月並みだけど初々しい」
「内緒、私と君は隠すほどの仲でもないでしょう、ただのお友達でしょうよ、あーあ、分かったスケベなことは内緒って訳」
 三人同時にきょとんと銀杏の木を見て飛び跳ねるキジムナーを見た、そして三人とも同じ仕草をしている事をそれぞれが知り、小雪を除いた安吾とサヤカは呆気に取られた。
 安吾は修行が足りずに二人に対し淫らな欲望が有るためだと赤面し、サヤカは逸る気持ちを抑えながら辞典の蓬莱島の項目を開いた、確かにその島はあった。サヤカは銀杏の木を見上げた。
 その一つの枝の一枚の葉がまだ九月の初めだと言うのにビデオの早送りのように紅葉し、ふわりふうわりふわりふうわりと舞い落ちて、風に辞典がぱらぱら捲れ
「蘖(ひこばえ)]
というページに栞のように入った。サヤカは「蘖」という字を眺めていた。【伐られた草木の株から出た芽】そして人にけして懐かないはずの雀が一羽舞い降りて、開いたページの上をちゅんちゅん跳ねながら遊んだ、不思議そうに眺めるサヤカの目を立ち止まり不思議そうに見る雀の目がかち合った。
「海や山や川はずっとずっと大きいんだ、海や山や川はずっとずっと大きいんだ」
 キ・ジ・ム・ナ・ーとサヤカの頭に浮かんだ瞬間、雀は飛翔し銀杏の木の天辺に止まり踊っていた、高くて見えないはずなのだがサヤカの目には確かに見えた。
『飛び回り、喋る、可愛いお人形』
 サヤカは懸命に「き」のページを捲り穴のあくほど見詰めながら「キジムナー」という単語が探したが見つからなかった。ぽっかり空洞ができたような気がした、辞書に載らない生き物、外国語なのだろうと思って諦めようとするのだが、なかなか諦めきれずに心にこびりつき、むしゃくしゃしてきて大事な辞典を放り投げた。安吾はびっくりして椅子から降りて辞典を拾い上げ、サヤカの前に置いた。
「どうしたんだ、サヤカ、大切な辞典じゃないか」
 サヤカは不機嫌そうに俯き、辞典に目もくれず、拳を握り締めている、辞典は彼女にとって何でも出せる魔法のランプであった、欲しいもの全てが詰まっている宝箱でもあった、自分の見たキジムナーが無いのは裏切られたようなものであった。それでもキジムナーが残した綺麗な黄色の銀杏の葉は辞典から頭を覗かせている。心のバランスが今にも崩れそうな不安が胸を突き上げる。
 母さん、母さん……、母さん「父さんはどこに在るの」「お前に父さんなど在るものか」母さん、許して、許していい子にしますから。「お前は口先だけの、うそ付きだ、この口を取ってやる」
 母さん止めて、止めて下さい、押し入れの中は嫌です、押し入れの中は嫌です。
 ……暗くて暖かい、誰も誰も在ない、私も在ない、誰も在ない、暗いのは暖かい。お花が一杯、お人形も一杯、お腹も空かない、お布団に挟まれて、ふわふわふわ、暗いのは暖かい、暗いのが柔らかい、マシュマロは甘い、しーんしーんしーん、押し入れはいつも晴れ。
 小雪はサヤカの前に屈んで砂に、落ちた小枝を拾って「キジムナー」と書いた、すると表情を変えない小雪の顔が驚きの表情を見せた。けして理解しえないはずの他人が自分の中に侵入した、自分の思いを理解した、どうしてなのか……嬉しい反面、又しても「母さんのように」冷たい仕打ちをされるのではと再び無表情のポーカーフェイスに戻った。
 小雪はサヤカのために自閉症の本を数冊読んでいたが、先天的自閉症ではなく、幼少の頃の心的外傷、トラウマに依って、サヤカは自らの生命を一人で守るために魂の根源が外界をシャットアウトしたのだと思った。現にサヤカは「キジムナー」という言葉に反応した事は、言葉の認識機能の障害も認められない。早期自閉症の人達は数字、時刻表、電車、車などの無機質的な物に関心を示すからである。サヤカは数字や形より言葉に夢中になっている、まるで正常な子供が沈黙を守り、自閉を敢えて実行しているかのよう見えた。それから、精神分裂症の自閉の現実との生きた接触を失ってはいない、なぜなら妄想の中に棲む者が生きた人間、安吾を信用するはずがない。
 僧は修行として何年もの無言の行を嘗ては行っていた。現象は同じだが、サヤカは否応無しにそれを選ぶしかなかったことだけが悲劇なのである。一方は聖者と呼ばれ、一方は精神障害者と呼ばれる。
 サヤカは怯えを消す他人への無関心の憎しみの泥土の中で一縷の望みを託して異常な言葉への執着を示す事でSOSをまだ遭えぬ、いつか遭えるであろう、遭えぬかもしれない未知なる人に送り続けていたのである。
 それを希求する事が安吾のひたむきな説教と共鳴し幼い頃に教会かどこかで聞いた
「ハレルヤ、ハレルヤ」
という言葉となって口を衝いて出る、それは「生きとし生けるもの一切が幸いであれ、生きとし生けるもの一切が幸いであれ」と祈った仏陀と同じであり、自らを救おうとする真摯な叫びである、小雪はそう思い信じ切った。
「キジムナー」と声を出して読むと、「この意味は何ですか、どこの外国語ですか」と安吾が珍しそうに聞いた。
「この言葉はね、沖縄の方言なのよ、赤い髪を肩まで伸ばした小さな人間で木の精であり主なの、伝承の想像上の生き物と言われいるけれど、私は蓬莱島で遭ってお友達になったの、悪戯好きなのが玉に瑕(きず)ね、子供に見えるけど、お友達は六百歳でガジマルの木と同じ年だと威張っていたわ。でも子供っぽい。
 例えば縄文杉で生まれたキジムナーが生きているのなら、縄文時代から生き続けているのよ、彼等は年も取らないから死ぬまで子供の姿で、私達には全てのキジムナーの顔が同じに見えて見分けが付かないのよ、面白いでしょう」
 安吾は夢の中のあの小人がキジムナーだと知り驚き、空想上の生き物とお友達と平然と言ってのける小雪の精神状態に再び驚き、彼女はなぜ私の夢の中を知っているのかと三度驚く羽目となった。
 だが、サヤカは全く違った反応をした、視線こそ避けているがキジムナーの小雪の話を聞き漏らすまいとする雰囲気は鈍感な安吾でさえ気付いた。
 安吾は二人を不思議な生き物を見るように見回し、これでサヤカの病は癒るのか、それとも余計に非道くなるのでは、いや、似た者同士だから治せるのだとの相反する思惑に挟み撃ちにされ困惑した。
 キジムナーは存在するや否や、
「色即是空空即是色」
 目に見える物は物質的存在である、しかし確固たる実態は無く空、空ならばこそ現象の森羅万象在り、ならばキジムナーも空、空ならば色、故にキジムナーは存在する。千変万化、夢も現(うつつ)、現も夢とは言っても信じるに至らず、愚昧なり、愚昧なり、と安吾の蒟蒻問答が始まった。
「面白い生き物ですね」と安吾は笑った。
「そんな事を言うとキジムナーが怒りますよ、人間よりずっと聡明な生命体ですよ」
 冗談で言った積もりの質問に、真面目な受け答えが返球されて、更に戸惑う安吾である。
「安吾君、君はキジムナーが荒唐無稽と、その人間の小さな小さな賢さで思っているんでしょうね、人間は在ない物を頭で想像できるほど偉くはないんですよ、たとえそれが夢の中であろうとね」とからかうような調子で言って小雪は笑った。
 何かしら小雪が教祖めいて来た、一体、沖縄で何が起こったのだろうか、以前は人を寄せ付けぬほどに沈鬱で暗く、悩みを抱えていた、それくらいは宗教の勧誘をしている者、街のインチキ占師にさえ分かる、所が今は朗らかさと落ち着きに満ちて、来る者を全て包み込んでしまう優しさを全身から醸し出している、小雪は変わった、確かに変わった。それに荒唐無稽な事をすんなりと真面目に語る事は凡人には出来ない事だ。
 神秘体験をしたのだ、安吾はどんなに座禅を組み、断食をしても観世音菩薩を見る事も体感する事も出来なかった、悟りを開く事など一生費やしても叶わないものなのだろうか。そう思うと憧憬と悔しさで、安吾の目から知らずに涙が零れて落ちていた。
 サヤカはお人形のようにキジムナーが自分傷つけはしない事を察していた、それもキジムナーはお喋りもする可愛い妖精だ。
 辞典で調べたかったが、それは本にも載らない不思議な生き物で、小雪だけがそれを知っている。
 それを知りたくて知りたくてサヤカは感情が爆発しそうであった。知るには小雪に自分から訊ねなければならないからである。
 もし話せば、小雪がどんどん自分の中へ入って来て、怖い想いをさせるのではとの恐怖が好奇心と戦っていた。
 サヤカは辞書を開いて、黄色の銀杏の葉を取ってしげしげと眺め、顔を上げ小雪の顔を見詰めた。小雪もサヤカの顔を見詰めた。サヤカは指で土の上に「キジムナーのことを話して」と書いた。小雪はサヤカの手を握り締めた。
 サヤカを銀杏の木に背を持たせて坐らせ目を閉じさせて、小雪は両手を握り坐った。
「サヤカちゃん、この銀杏の木は何百何千もの木の精を宿している、キジムナーはその木々からのメッセージを告げてくれる、根は地中を四方八方に伸ばし、地を知り、幹は風を受け地上を知り、伸びた枝葉は空と星と宇宙と繋がり、果てしない宇宙を見る事が出来る、キジムナーはこの青い水の地球が哀れな傲慢な人類に恵んでくれた不可思議の命、サヤカが念じればいつでも現れてくれる、キジムナーはね、優しくない人にはけして見る事が出来ないんだ、この銀杏の木の鼓動を背で感じてキジムナーを心で呼んでごらん、あの悪戯好きなキジムナーがひょっこり現れるから」
 小雪が手を放すとサヤカは背を銀杏に凭れて眠っていた。
 サヤカは頭を小突かれた瞬間に叩かれるとの恐怖で跳び起きた。すると上の方から風鈴の音のような澄み切った子供の笑い声がする。見上げると、赤い髪を垂らしたキジムナーが枝に坐って笑っていた。サヤカは黙ったままで見詰めるだけである。すると胸の内側からキジムナーの声が響いた。
「ボクを呼んで喋らないのは失礼だぞ、ボクは六百歳だぞ、だが若いからそれは許そう。サヤカ、笑ってごらん、イナイイナイ・バアー、イナイイナイ・バアー」
 サヤカははにかみながら微笑した。
「お前はバカだな、こんな素敵な笑顔を隠しておくなんて、ボクのために取っておいたのかな、照れるな、お礼に願い事を言いたまえ、しかし、口に出して言わなければダメ、可愛い声が聞きたいんだな、それなら叶えて上げる、遠慮しなくていいよ、もうボクはサヤカのボーイフレンドだからな」
 サヤカは困惑していた、声を出す事は自分を投げ出す事であり、その相手からの反応への怖さに怯んでしまった、手足が勝手に震え出した。
「遠くへ連れて行って下さい」
「ダメだ、サヤカ、サヤカ、君はもっと自分に誇りを持っていいんだ、君が思っているより君はずっとずっといい子で、ずっとずっと強いんだ、小雪のオバさんなどの味も素っ気もない声ではなく、君の綺麗な声で話すんだ、ボクはどんな時でも君の味方だ、それがボーイフレンドだ、ボクは強いぞ、ライオンだって大人しくさせるぞ、蛇だって、サソリもカエルもだ芋虫もだ」
 サヤカは怖くて泣き出したくなった。
「サヤカ、泣くのは弱虫じゃないぞ、涙を零してごらん、ボクは君のボーイフレンドだぞ、いつでも君と一緒に在る。泣いていたって、サヤカは自分の言いたい事は言える、勇気が有るんだ、怖くたって、自分の思いが言えるんだ、それが本当の強さなんだ、それはライオンを倒す事よりずっと難しいんだよ」
 サヤカはもうこんな苦しい所から離れたいとの思いで胸は充満して、口からぽとりと零れ出た。
「遠くへ連れて行って下さい」
 キジムナーはひょいと枝から飛び降りると銀杏の葉のようにひらりひらりふうわりとサヤカの前に下り立って、呪文を唱えた。するとサヤカの体を熱い物が流れ出し、見る見るうちに小さく軽くなって三十センチほど、キジムナーと同じくらいに縮んで行く、周りがどんどん大きくなって行く、サヤカの胸は弾む。
 弾む心にサヤカは躇らった、何か悪い事が起こらないかしら、押し入れに閉じ込められる、母さんが怒って私をぶたないかしら、手足がぶるぶる震えた。その震える右手をキジムナーが掴むとテレビのスイッチを切るように怯えがぷつりと消えて、体が浮いた。
 嬉しい嬉しいとサヤカは自分の心の状態を頭で確かめ、感情で嚙みしめた。
 ずっとずっと一瞬も訪れる事の無かったサヤカの圧し殺された感情の発露であった。
 二つ風船がゆらりゆうらり昇る、家が小さくなって、山の天辺が見え、青い空に近づいて雲に乗って、綿飴のふうわり、飛んで跳ねて転がってもふんわりふわり、サヤカの目から喜びの涙がわあっと溢れ出して止まらない。その一滴一滴の涙がさあっと広がり柔らかな霧となって山を包み込み、町に降りる。
 雲は二人を乗せて大海原へ、青の波打つ絨毯に真っ白の波頭、キジムナーの手を取りひょいと飛び降り、波間にごろり、横になりゆらりゆうらり、ハンモック、広い広い空に白い雲がぷかぷかぷうか、飛魚が次から次へ飛び跳ねてびゅんびゅんびゅうん、サヤカも跳ねてぴょんぴょんどぶうん、キジムナーもぴょんぴょんどぶうん、『サヤカ、アブナイゾ、アブナイゾ、テヲツナゲ』、泡がぶくぶくぶく、透き通った真珠のネックレス、クラゲがぷるぷるぷるりん、ゼリーのパラソル、銀色の魚の群れがすいすいすうい、スキップスキップらららんらん、あのねあのねうふふふふ、涙が一杯、しょっぱいしょっぱい海の胸、いつの間にか、空には星々がぽつぽつぽつり、きらきらきらり、黄色の三日月がどかどかどしり、黒い色は空の祈りの時間、光がしんしんしんみり。
「サヤカ、サヤカ、いいだろう、窓を開くと素晴らしい事がごろごろり、涙も優しさになる、きらきらきら、人間で一番美しいものだ、分かるかい」
 サヤカは堪らず海を思い切り駈けていた。
「キジムナーって、木の精の名前でしょう、あなたの名前は何と言うのですか」
「無いんだな、キジムナー同士はすぐにどこそこの何の木の生まれか分かるんだ、だから名前など要らないんだ」
「じゃあ、私が名前を付けて上げる、いいかなあ」
「そうだな、ボクもサヤカと呼ぶんだから、人間界のルールに従うのが礼儀だな、付けててもいいよ」
「フワフワに決めた、とても優しい名前だよ、君にぴったりだよね」
「念を押さなくていいよ、サヤカがいい名と言えば、絶対いいい名だ、ボーイフレンドだからな」
「フワフワとはもうお友達だね、初めてのお友達」
「それは違うな、小雪や安吾とはサヤカはお友達だが、ボクはサヤカのボーイフレンド、ボーイフレンド、違いは分かるだろう、サヤカにも」
「ボーイフレンドじゃなくて、フレンドボーイよ、サヤカはまだ未成年よ」
「まあ、いいか、しかし小雪や安吾よりランクは上だよね、サヤカ」
「子供ね」
「そうだね、サヤカより五八六歳も年上のな、そろそろ帰ろうか、小雪のオバさんが心配しているからな、サヤカ、いつもボクは君の味方だよ、苛める奴はボクが退治する、桃太郎より強いぞ」と、フワフワは別れ際にサヤカの額にキスをしてロケット花火のように空に舞い上がり瞬く間に消えた。
 安吾はサヤカの額に自分の額を当て続ける小雪に、熱で苦しむ子供の痛みを和らげようとする健気な母親を重ね合わせていた。
 目を開けると、小雪が目と鼻の先で笑っていた、近くで見ると見慣れた人の顔でも奇妙なものだと思ったが、怖くはなかった。
「キジムナーに会えたかしら、サヤカは」
 サヤカは頷いて小雪の質問に答えた。
 あっあっあと言葉にならぬ声を安吾は発して、驚きの目で小雪を見詰めた。
 数年も一緒に暮らし、一度も反応を示さなかったサヤカが小雪の言葉に応答した。
 一体、小雪はどんな摩訶不思議な神通力を具えたのだろうか、あの荒行に明け暮れる山伏でさえ神通力を得たとは、伝承では残っていても、現代では皆無である。
「南無観世音菩薩・南無観世音菩薩」
「ハレルヤ・ハレルヤ」とサヤカが唱える。
 
 夕食を済ませて、リビングには小雪と安吾が向かい合ってソファに坐り漫然とバラエティー番組を見て、サヤカは絨毯に腹這いになり百科事典を見ている、八重山の項である。蓬莱島へ牛車に揺られて海を渡る風景に見蕩れている。長閑にも手綱を放して、三線を弾いて民謡を歌っている牛方の茫洋とした朗らかさに後ろの観光客が呆気に取られているのが小さな写真にも拘わらず見て取れた。
 サヤカが言葉の指示するものへ関心を示している、内なる世界の閉ざされ揺れる事の無い安心な世界より開かれた外の現実の変化に富んだ世界へ入りたいと思いながらも、苛められ、呆気なく粉々に砕け散るガラス細工の自分の身体、その破片を一つずつ拾い集めてサヤカ自身を修復する白い影となってしまった自分が浮かんだ。そして声が聞こえた、『だから言ったじゃないの、調子に乗ると痛い目に合うのよ、あなたを愛してくれる者がこの世に在るとでも思っているの、このバカ』
 サヤカの体がぶるぶる震え、硬直し苦悶の表情となり呻き声を上げた。
 安吾は呆然と立ち尽くしこの痛ましい現状から目を背けない事だけが彼の憐憫の情を表していた。
 小雪はマッチ棒のように痙攣するサヤカの体を精一杯に必至に抱き締めた。
 それが暫く続いたかと思うと、痙攣と苦悶が小雪の体に吸い取られサヤカの体の震えは止まり、心配げに小雪を見るサヤカが在た。
 安吾は再びパニックに陥るのではとサヤカを起こして肩を抱き、小雪の成り行きを成す術も見つからず今にも泣き崩れそうな顔で見入った。
 小雪の痙攣がぴたりと止まり、大きく目は見開かれ虚空をぼんやりと眺め、起き上がって両膝を付いたまま、怯えで凍った蒼白の表情で後退りをする。
「母さん、ぶたないで、ぶたないで、掃除も洗濯もする、学校にも行かない……、お料理もするから、ぶたないで」と激しく嗚咽する声が大きな家を揺るがす。
 サヤカの光景であった。
「春美もいい子にします、母さん、母さんぶたないで、ぶたないで下さい、何でもしますから、お願いだから、ぶたないで下さい、私を助けて下さい、助けて下さい……」
『春美』、サヤカにとっては完全に忘れ去りたい鬼も同然の母親の名前であった。しかし、サヤカの怨みと恐怖だけの記憶の荒野に何かが芽生え出していた、地中深く二度と現れないように閉じ込めていたものが……
「お前はどうして言う事を聞かないんだ、ぶってやる、ぶってやる」『どうしてなの、私は自分の母にやられた事をこの子にやり返している、むしゃくしゃする、自分の子だと思うと余計に腹が立つ、それでもこの子を叩くとすきっとする、叩かないと気が治まらない、それからこんな自分の腹が立つ、すると又この子に手を上げて、私が上げた悲鳴を上げさせて聞いてしまうんだ』
「お前は悪い子だ、厄介者だ、それでもオマンマが喰えるだけ、幸せさ、そうだろう、そうだろう、笑いなさい……」と幼い春美は母親に頬を横にぐいぐいと引き千切れんばかりに引っ張られている。
 安吾は余りの悲惨さに目を瞑り、ナムカンゼオンボサツナムカンゼオンボサツと唱え続けた。だがサヤカはその光景を凝視している。幼い頃の母親の仕打ちが鮮明に蘇る、それを追って、母が祖母に罵られ叩かれる場面が現れる。眼前ではサヤカ自身を虐待する母が在る。サヤカの乾いた心の奥底で眠っていた涙が吹き出して目から止めど無く温もりの涙が降り注ぐ、サヤカは号泣した。
「母さん、もういいのよ、十分苦しんだのよ、母さん、もういいの、もういいの、もういいの、終わったのよ、母さん……」
 瞑目し唱名する安吾の耳に観世音菩薩の声が響いた、『もういいの、もういいの、母さん』、そして頭を強く振り、目を開けると、小雪を抱き締めて、「もういいの、もういいの」と泣きじゃくるサヤカの姿が飛び込んだ。その時、安吾の追い求めた燦然と輝く神妙の黄金の観世音菩薩が雷鳴の轟きと疾風怒涛で獅子吼する中で木っ端微塵に砕け散った。
   十一、聖母子像
 泣き喚く幼い母・春美を見た、又母親となって幼い自分に当たり散らし足蹴にされ打たれ押し入れに閉じ込められて凍り付いてしまった怯えの極限を暗やみの中の沈黙の漆黒の温かい深海の海底に見た、一匹の提灯鮟鱇、押し寄せる感情の喜怒哀楽が一気にその平和な誰も入れぬ海底を奥の奥から突き上げて激しく揺さぶりカオスの灼熱のどろどろしたマグマが噴上げ、サヤカの一切を呑み込んだ。ちりちりと肉が焦げる臭いがして顔が足が手が溶けて行く体が炎のように熱くなりサヤカは床を呻きながら丸太のように転げ、真っ赤な顔が青ざめたかと思うと、胎児のように円くなりぶるぶる震え唇は紫になり雪原捨てられた乳児であった。寒さと熱が巴となって交互にサヤカを襲う。安吾は恐ろしさと憐愍のために涙を流して合掌するだけである、それでも目を離さなかった、精一杯の優しさであった。サヤカが苦しみだすと同時に小雪は苦しみから逃れて息を切らしながら七転八倒する彼女を瞬きもせずに安吾の優しさと悲しさに満ち視線とは対照的に冷徹なほどの厳しい目で凝視していた。安吾はおどろおどろしい鬼子母神の射抜く目を思い出していた。そこはまさに鬼と鬼の修羅場であった。安吾の魂は根底から震え戦いた、
「南無観世音菩薩南無観世音菩薩南無観世音菩薩南無観世音菩薩……」
 小雪は睨み付けるサヤカの錯乱の叫びの向こう側で蹲っている健やかな彼女の心の発露に光明を見出していた、拒み続けた外界との接触の中で平安と引き換えに感情を殺した灰で覆われた埋み火の熱が着実に息を吹き返して行くのが見える。小雪はもっともっと怒れ身体が疲労困憊し失神するまで怒りを憎しみを言葉に出来なかった屈辱と恐れと無力をその細い体を粉砕してしまうほどに発露にしろ、それを私は受け止める、必ず受け止める、どんなに凄まじかろうと私は体を張ってサヤカと共に何処までも堕ちて行く、絶対にサヤカから離れない、もっともっと憎悪を燃やせ、今までの沈黙の憎悪の火柱で全てを燃やし尽くせ、母も父も私も安吾も、サヤカを侮蔑した全てのものを焼き尽くせ、私はその火の真っただ中に喜んで飛び込み、サヤカを咬み殺し火だるまになり、そこから再生する、熱の痛みが寒さの痛みの極限で二人は血みどろに踊り、抹殺の歓喜に至る、それからが……。
 傍観していた小雪の顔が歪み薄ら笑いを浮かべサヤカに近付き、かじかみ震え、戦き蹲るサヤカの尻を容赦なく蹴った。
「何が子供だ、私はお前を十月十日も腹の中で愚痴一つ言わずに育てたんだ、何から何まで私の体を喰いながら生きて、私に激痛を与えた逆子の難産の激痛を私はお前みたいな子のために耐えたんだ、私はね命を賭けてお前を生んだんだ、それを忘れて暗い顔して恨めしそうに私の顔を覗きやがって」
 小雪はサヤカの髪を掴み顔を向けさせ憎らしげに唾を吐きかけビンタを喰らわした。
「お前の父親は何だ、猫可愛がりしていたくせに好きな女とお前を置いてとんずらか、その子に飯を喰わせているのはお前が嫌いな母と継父のろくでなしか、瘤付きの女を好きになる優しい男は在ないんだよ、やっと巡り合えたあの人にその膨れっ面は何だよ、母親に焼き餅を焼いて、お前は、お前は末恐ろしい、この淫売のバイタ」と小雪は倒れた泣き喚くサヤカの顔を右足でぐいぐい踏み付ける。
 サヤカの顔が恐怖で歪み体を激しく痙攣させて白目を剥いたかと思うと雷鳴のごとき叫びとも咆哮とも付かぬ声を張り上げた。サヤカは脚を両手で顔から引き離しがぶりと咬んだ、小雪の悲鳴が耳をつんざき倒れ込むと、サヤカは透かさず立ち上がり腹を蹴り尻を鈍い音を立てながら蹴った、蹴った、そして顔を踏み付けて憤怒の形相で睨み付けた。
「母さんだって、いつも私を打ちやがって、殺してやるよ、何が母親だ、あの男の言いなりでめそめそ泣いて、捌け口はこの私か、このメス豚、誰がお前を好きになるものか、逃げた父さんはお前にうんざりヘドが出るほどうんざりして逃げたんだ。お前はそんなにいい女か、その面で、オマケに性格ブスで、誰が豚と一緒に暮らせるのかよ。あの男はなお前が稼いでくる金が目当てで、そのためにお前と寝ているだけさ、私に言ったよ、お前の母さんよりお前の方がいいってな、自分のその面で、何が男だ。金を貯めてその顔、その体、丸ごと整形してから男を捕まえろ」
 嗄れた、抑えた声の一語一語に憎しみが迸る。それからサヤカは腹部を蹴って、屈み込んで襟元を掴んで女とは思えぬ力で首を締め上げ自分の顔の前に引き寄せて唾を吐きかける、小雪が間欠的な声にならぬ唸り声が推し出され目は憎しみで赤く充血し、「誰がお前を生んだんだ」と吐き捨てると、サヤカがにっこり笑ってぐいぐい首を締め上げる。
「お前だよ、犬でも子供は生めるさ、豚は十匹も生む、本当は堕ろしたかったんだろう、それをカワイイ子振って生んじゃったんだろう、男に捨てられないように、これはあなたの子よ、あなたの子なのよ、と人質に生んじゃったんだろう、お前は、それでもポイと投げ捨てられて、道端のタバコの吸い殻と同じさ、踏み付ける奴は在ても、拾う奴は在ないよ、この人間のクズが、クズが死ね、死ね死ね」とサヤカが勝ち誇り大声で笑った。
 小雪の憎しみの顔が怯えの青ざめた子供の顔に変わった。
「母さん、母さん、私はいい子にする、いい子にするから、ぶたないで、ぶたないで下さい」と泣きじゃくる。
「このアバズレが、今度は泣き落とし、男に縋るバカな女の一つ覚えか、オイオイオイ」
「母さん、母さん助けて助けて助けて下さい、ぶたないでお願いだからぶたないで」
「何だよ、その今にも死にそうな声は……。十月十日だって、臍の緒を首に巻き付けて絞め殺しそうなり、押し潰されそうなになり、言葉も分からない私は独りぼっちで袋の中に閉じ込められて死の恐怖でいたぶったのはお前じゃないか、無抵抗な私を窒息させようとしたお前に母親面された私は恐怖の海に引摺り込まれ溺れ死にさせようと必至にもがいているお前が獣のように吠えている憎しみがビリビリと感電するように皮膚から体内へ刃となってブスリブスリと滅多刺しにされたんだ、お前は死の恐怖だけを私に与え続けた、いたぶった、死なないように餌をやってはこき使い、踏み付けた私の全てを全て踏み付けた、眠ろうとする私を揺さぶり起こして踏み付けた、泣き喚く私を踏み付けて踏み付けて笑って喜んだ、お前は私を殺せなかった、刑務所に入れば男に会えなくなる、捨てられる、それに八つ当たりできる生きたリカちゃん人形は私しかいない、いいペットだった、殴って蹴って、それでも縋ってくる生きた人間のペット、殺せなかった。でも私はお前を春美を殺せる」とサヤカは両手で首を締めた。
 小雪の形相が夜叉となり、サヤカの右の頬を拳で殴り、髪を掴み立ち上がると引き摺り回して殴り蹴る、サヤカは両手で足を掬い倒すと首に噛み付く、悲鳴とともに小雪の拳が鼻を打つ、小雪とサヤカの果てしない暴力と罵声の中で全てが凍り付いてサヤカと小雪だけが憎悪の中でのたうち回っている、それから身動き一つ出来ない金縛りになった安吾の目だけが失意と落胆と怯えの泥沼で蓮の花のように一つ灯っていた。
 泣きじゃくり悲鳴を上げ鼻水を流しお互いを罵り取っ組み合う二人には相手を殺すしかない状況だけが支配していた、与えられたものも望むものも生き延びる全ては相手を殺すことしかなかった、母であり娘であり母である、ウロボロスの蛇の毒牙は互いに相手の尾を咬み呑み込もうとするエンドレスの断末魔のテープの空回りであった。
 安吾は死ぬのが怖かった、中一の時愛していた祖父が死んだ、「人間は必ず死ぬ」怖かった、どんなに喜んでも笑っても人間死ぬ、どうしてそれなのに生きていられるんだ、安吾は眠るともう翌朝には死んで、お棺に入れられて火葬場で焼かれて灰になり消え去ってしまう自分が見えた。人間死ぬ。怖かった、恐ろしかった、両親に告げたら当たり前だと言われ、叱られて空手の道場に行かされた。死に物狂いで夢中になった、有段者にもなった、瓦を素手で十枚割った、それでも「人間は死ぬ」と誰かが耳元で囁き嘲り笑う。生きているのが無意味に見えた、虚しく感じられた、相談をすれば変な奴と陰気な奴と薄気味悪がられ避けられていた。
 高校を卒業すると至福浄土教会に入信し、布教活動に勤しんだ。どうして死ぬのですかと幹部に聞けば、修業が足りぬと断食に写経三昧、それでも「人間死ぬ」と囁く耳元の悪魔が笑っていた。それを打ち消すように忘れるように布教にお布施集めに奔走する。死の怯えの中で安吾を救ったのは自閉のサヤカだった、その沈黙が死と生の冥界の温もりを感じさせた、雨の日でもかんかん照りの火でも雪の日でもサヤカは安吾から離れなかった、「ハレルヤハレルヤ」と神を讚えて呉れるサヤカは地獄にさえ着いて来て下さる地蔵菩薩であった。だがそのサヤカの清らかな「ハレルヤ」を異教徒、外道異端の教えだと安吾を教会は激しく非難叱責した。サヤカを見捨てることはどうしてもできなかった、自分を頼って全てを任せた者を拒絶することは殺生と同じ仏への冒涜であった。
 安吾が教会の信者に喰い下がると「地獄に落ちるぞ」と一喝されて冷笑されるだけであった。「人間死ぬ」その事実を打ち砕く悟りの真理は安らぎは生きる尊厳、生きる意味の尻尾にさえ触れることは出来なかった。生きることの醜さがサヤカと小雪の罵詈雑言の暴力中で火達磨となって安吾の「人間は死ぬ」との呪縛の縄をぐいぐい締め上げて焼き尽くそうとしている、安吾はこれが人間だと転げ回る二人を見た、目を背けようとしても見ずには在られない。生と死の陰と陽が安吾の体を右と左に引き裂く途方もない力が加わった、安吾の叫びが泣き声が逆さ稲妻となって暗闇を切り裂いた、雷鳴と風と雨が激しく激しく僅かばかりの居間に打ち付ける。安吾は悲鳴を上げてサヤカと小雪の憎悪の中に飛び込んだ。二人には安吾が影さえ見せずに逃げ去った父親であり、あの男であった。
 罵倒の中で安吾は滅多打ちにされて芋虫のように転がっているだけである。沈黙のサンドバッグであった。だが泣いていた、泣いていた、ひたすらに泣いていた、涙を零していた、安吾は人間の畜生にも劣る本能にその理不尽に泣いていた、どうして生きるのかと泣いていた、人間死ぬのだと泣いていた、この世の一切が血みどろの地獄であることに泣いていた、死に切れぬ自分に泣いた、鳥の囀りの救いさえ見つけも出来ず与えも出来ぬ、朝露の儚き輝きの一瞬も見出せぬ自分に、全てに泣いた、家が揺さぶられぎしぎしと音を立てた、泣いていた、安吾が慟哭していた。
 サヤカと小雪は憎しみの目で無抵抗のか弱い生き物を見た、男は全身を震わせながら両手を合わせ涎を垂らし鼻水を垂らし涙を流し合掌していた、木にぶら下がっていたミノムシが木から落とされてその蓑を脱がされて転がっていた、本当の虫けらだった、それは人間だからであった、身の毛がよ立った、命乞いをする哀れな人間の成れの果てであった、憎しみに怒りが燃え上がる、だがその一捻り死ぬ裸のミノムシは溢れる涙の目で瞬ぎもせず二人を仰ぎまるで観音様を拝むかのように見詰めていた。
 懐かしい懐かしい目であった、怯えている目ではない、怒りの目でも憎しみの目でもない、全てを預けた目であった、赤ん坊の母の乳を弄り吸いながら仰ぎ見る母への眼差しであった。それが二人の鬼に向けられて微動だにしないミノムシの目、震えながらも精一杯に合わされた合わされた両手。
 小雪とサヤカが突然転げ回り激しく嗚咽し噎び絶叫する、憎しみが自分自身を襲った、出口の無い苦悶が身も心も八つ裂きにする痛みが爪先から頭の天辺に難度も何度も突き抜ける、咽喉が絞められ呼吸が困難になる、憎しみを怒りを向ける相手の見えぬ拷問に不安が豪雨のように体に水嵩を増してゆく、死が手招きをして頬笑んでいた。するとその水底から一つの泡が浮かんだ、跪き合掌し涙を零すミノムシのあの男が、あの女が、あの子供が見えた、金色に輝きを増した気泡は水を押しのけてその中へ二人を呑み込んだ、するとミノムシは消え、サヤカが、小雪が、安吾がいた。その瞬間に水がどっと堰を切って流れ込み暗い暗い暗渠から吐き出され、目の前には果てしないさざ波の漂う海が輝いていた。振り向いても何もなかったたゆたう青の青い透明な海だけが何処までも何処までも続いていた。
 透明な時間が光が体を抜けていった。
 安吾は失神していた。抱き上げられて口から水を飲ませるサヤカの青い痣だらけの顔と腕が見えた、だが無言無表情のサヤカが微笑していた。マットが敷いてあり、氷枕にアイスノンが頭に当てられた。
 小雪も枕元で痣だらけの体でにこやかに覗き込んでいる。あんなに暴れ回った二人は前よりも生気に満ちていた、殊にサヤカは顕著だった、抜けた青空のような目映かった。安吾の心は落ち着いているものの体は独りでに震えていた。
「安吾ちゃん、もう体が弱いんだから、サヤカと二人でナースしちゃうわよ」
「安吾は優し過ぎるのよ」とサヤカの風鈴のような声が啓示の如くに響いた。
「そうよね、お人よしだもの、何でもかんでもいい方にいい方に受け取って、傷付くのは安吾ちゃんだけなのよ、傷付くことだけ上手になっちゃって、それで真面目に落ち込んでうんうん唸っているんだもの、抛って置けないよねえ、サヤカ」
「母性本能を擽るって言うんでしょう、弟みたいな所が有るからなあ」とサヤカはもどかしげに恥ずかしげに言葉を口から発する感触を自分の声を味わっていた。
「サヤカ、よかったね……」と言っているのだが声が出なかった、口をぱくぱくさせているだけで酸素不足の金魚、驚いた安吾は口を指刺しておどおどしパニック寸前である。
「安吾ちゃんはね、あれから夜通し泣き叫んでいたのよ、最初はね、一緒になって悲しくなったけど、途中からはね、小雪さんもサヤカも草臥れて呆れて眺めていたの、人間どれだけ泣けるんだろうねとお話ししていたのよ、安吾ちゃん、だから声は出ないの、でも心配しないでね、サヤカさんが面倒見てあげるからね」とサヤカはよしよしと小さい子供の頭を撫でるようにあやした。
 安吾の顔が見る見る内に真っ赤になり唸り声を上げて怒り出した。
「ワガママなのね、安吾ちゃんは、困った時には御互い様、遠慮しないで、恥ずかしがらないでいいのよ、リンゴジュースが欲しい、それともバナナ」
「安吾ちゃんて失礼よね、サヤカ、折角親切で言って上げているのにね、素直じゃないのよね、自分がどんなに体力を消耗したか、この人鈍いから気づいてないのよ」
「そうそう、男の子は女の子と違って難しいのよ、反抗期って言うの」
『何を言っているんだ、昨日はあんなに暴れ回っていたのにもうケロリ、私が声を出せないことをいいことに、言いたい放題、女は子供を産む宿命を背負っているから鈍さと生命力がきっと男より勝っているんだ、それに二人はさっきから見ていれば、リンゴを齧り、ポテトチップスをパリパリ、コカコーラをゴクリ、まるで私を酒、酒じゃなくて、おやつの摘みにまるでピクニックでもしているように、はしゃいで陽気でむしゃむしゃ今に肥満になって青ざめた顔でぶるぶる震えながら幽霊でも出くわしたように体重計を見るんだ。それにしても労りの情がまるで伝わって来ない。色気より喰い気、いつまで立ってもお嫁に行けないぞ、サヤカ、小雪』
「サヤカ、可愛い可愛い安吾ちゃんがもぐもぐ何か言ってるぞ」
「ヨシヨシヨシ、シーシーですか、ネンネンですか」
   十二、あいつが在た
 サヤカが自閉の壁を乗り越えて、既に一年が過ぎ、再び夏が訪れた。
 安吾は夜学で建築の講義を週三回受講し、殊に土木、下水道や井戸の専門書を図書館から借りて来ては読み耽っている。サヤカは大検の勉強に励んでいる。専攻は医学部か看護大学校と決めてはいるものの、小雪には未定だと言っている。そうよ、そうよ、大学は考えるにはいい場所と時間を提供してくれる所だから、それでいいのよと、費用は私の父親失格の父親の私の学資預金を回すから心配しないで、そしたらあのオヤジも喜ぶかと小雪は笑う。
 小雪沖縄から戻って半年目から銀座の路地で水晶占いをして、結構な収入を得ている。水晶とは言っても、ガラス玉の大きな奴である。水晶は格好だけで、客の雰囲気、気で大方の察しは付くので、慰めと励ましの適切な言葉さえ見つけられたら、それで占いは成功しているのである。
 悪霊・水子・前世などを捲し立てて恐喝紛いの脅しで、金を巻き上げることはしない、それがエチケットである。
 或る土曜日の夕暮れ、急に人の波が引けて、カラスの群れが街路樹に止まり一斉に鳴いて路上を睨んだ、ここには彼らが餌を物色するゴミ箱はない、小雪が見上げると西の空が赤く焼けていた、夜も間近と言うのに山の方へ一向に返る気配を見せない、
「カラス、なぜ鳴くの カラスは山に かわいい七つの子がいるからよー」
 ブランド物で身を包んだ、武装したいかにも山手の若奥様ですとの身なりで両手に高島屋の袋を抱えて、赤いワンピースを着けた小さな女の子を連れ立って歩いて来る、女は蔑んだ一瞥を占い師に与え足早に過ぎ去ろうとした所が、女の子は立ち止まり、小雪をちらりと見て、水晶球に見入った。
 カラスが再び一斉に鳴きビルの谷間を突き抜けて大空へ舞い上がった。
「おばさん、この水晶玉で何でも分かるの」と女の子は作った弾んだ声で訊ねた。
「分かるわよ、でもオバサンじゃなくてオネエサンでしょう」と答えながら、小雪の足が震え出していた、この子は『見える』とは聞かなかった、分かる、理解してくれますかとお伽の国の魔法の鏡に訊ねるように頼んでいるのである、『ダメでも仕方ないけれど、それでも聞きたいの』奇妙に大人びていた。
「麻里奈、何をしているの、いかがわしいものを信じては行けません、お父様に言い付けますよ」と静かな陰険な口調で当て付けに女が子供を叱った。
「お嬢ちゃん、この玉に思いをぶつけなさい、私にはそれが見えるの、静かに静かに思い出してごらん」
 女の子は手を握り連れ去ろうとする母親の手を怒ったように振り切り、水晶玉の前で両手を組んで固く目を閉じて念じ続けた。
 水晶玉の中の光と影が初老の男を映し出した。男は女の子を言葉巧みに公園の裏に誘い込んでいる。
「お嬢ちゃんはリカちゃん人形は好き、おじさんは一杯持っている、見てみる」と近くに止めてある黒のスクリーンで覆われたワゴン車に連れて行き、乗せた。
 映像が途切れて、家の前の交差点で女の子は下ろされた。 
『この事はママに言うと叱れるぞ、パパに言うと嫌われて、捨てられる、パパとママが在なくなってもいいのか、ナイショだ、口に出したら、お日様が沈んだ夜中にコロシニイクヨ、クビヲキリニユクヨ、分かったな、いい子だね、いい夢を見るんだよ』とリカちゃん人形の首を出刃包丁で切り落とした。
 小雪は女の子を手招きして耳元で囁いた。「分かった、このオジサンは絶対に警察に連れて行かれるわ、もう二度とそんな事をしないようにお仕置きされるから心配しないでね、よく頑張ったね、お嬢ちゃんの保育園の名前を聞かして」
「アリス保育園」
 母親は千円を掴んだ手で台を叩いて置くと小さな子まで喰い物にするのかと侮蔑を込めて小雪を睨み付け女の子のを守るかのように連れ去った。
「赤い靴履いてた女の子異人さんに連れられて行っちゃった、あんな母親を異人さんと呼んだんじゃないの」
 アリス保育園、小雪が通っていた保育園であった。そして初老の男の顔が浮かび上がる甘すぎるアイスクリーム思わせる蕩けた笑顔と言葉遣い、眠っていた暗い井戸に女の子の投げた小石が水面に当たり記憶の波紋が広がってゆく。どろどろした泥のオブラートで包まれた蚯蚓のあの粘膜の滑りが体の内側からせり上がり蘇って来る。食中毒のような吐き気がして目まいがして、頭がずきずき痛みだす。
 セピア色の公園のブランコに女の子が乗ってスカートの裾を翻し黄色い声を上げて遊び興じている。青空の風景が公園の風景に、その隅の公衆トイレの建物にズームインする、壁にへばり付くヤモリのように保護色に包まれた男が異様な静けさで息を呑みながら獲物を狙っている、視線の先には女の子がブランコで遊んでいる、青い空が、公園が、地面が次々に変わってゆく風景の中に……
『悪戯(いたずら)されているのはこの幼い私だ』
 日曜日の夕食を済ませた三人がリビングに集まっている。
 小雪があの女の子の事を告げ、破廉恥な男を掴まえる相談を持ち掛けた。
「ボディガードが必要よ」とサヤカがぽつりと言った。
 安吾はその一言にプライドを傷つけられて、あの鳴き喚きの事件以来、泣き虫の安吾ちゃんとからかわれ千載一遇の汚名返上のチャンスとほくそ笑み、勢い立ち上がり殿様かヤクザのどちらかの歩き方で木のバットを部屋から持って来て、小雪とサヤカを雄々しく呼び捨てにしてその両端を掴ませ、足で蹴って割ると宣言した。
「安吾、バー街でめちゃめちゃにやられたのを忘れたの、手も足も頭まで出ないでひっくり返されたカメさんになっちゃって、又見るのは辛いわよ、それに今度は凶悪犯よ、もしもよ、ナイフを持っていたらどうするの、サヤカは安吾ちゃんが怪我するのは見たくないわよ」
「ああ、あの時はやられたさ、赤ん坊を捩じ伏せるように私が簡単に勝てる相手だったからさ」
「そう言う、論法も有るの」と小雪がくすりと笑った。
 突如安吾が何を血迷ったのか、気合を入れて空手の型を披露した。
 小雪とサヤカは呆気にとられ呆然と眺めていた。何かしら三毛猫がシベリアンハスキーに逆毛を立てて向かっているような気がした、それも大真面目に、本当に有り難いのだが……笑うに笑えぬ寒い心持ちになった。
 それを察したこの頃二人に神経過敏の安吾のプライドは既に我慢の限界を越え、顔を真っ赤である。
「黙れ、しっかり握っているんだ」
 気合を入れて右足を蹴り上げるとバットが鈍い音を立てて折れたが、拍手喝采は無く、二人は目を円くして安吾の右足を大丈夫かとなぞった。それから安吾はゆっくりと泰然とソファに坐って、サヤカ、小雪と見回した。
「いいですか、私は松林流の空手三段です、空手に先手無し、いいですか、武器を持たなかった沖縄の人々が身を護るために編み出したものです、無闇には使いません、喧嘩は逃げるが勝ち、どちらも怪我をしないで済みますから。本当に強い人間は優しいので弱く見えてしまうものなのです、古来琉球ではそれを讚え、そのような人を『隠れ武士』と呼んだのです、それも知らずに二人は好き勝手なことばかり言って、今に口が腐りますよ」
「自分でそんな事言うかなあ」とサヤカが呆れた顔で笑った。
「言わなければ、か弱い女性二人に私は頼り甲斐の無い男としか思われないでしょう、私は軟弱ではありませんよ、二人とも大分私を誤解しているようですから」
「仰天、仰天、安吾でも女性を意識するの、仏教徒でしょう」
「当然です、人間は愛すべきものだからです、その片方が女性なだけですから」 
「安吾はサヤカちゃんにからかわれているのよ、それも気づかないの、真面目なのよねえ、ホントに」
「人間真面目で結構じゃないですか、それの何処が悪いんです、不真面目な者ばかりでこの世の中が成り立ちますか、ええ、小雪さんにサヤカ」
 小雪とサヤカは暫く顔を見合わせて笑うのを堪えていたが、堪えきれずに腹を抱えて笑ってしまった。それを見た安吾はソファーを蹴飛ばそうとして途中で思い直してチョコンと蹴ってドアをパタンと思いきり閉めて出て行った、それでも二人は笑っている。
 銀杏の木の下で安吾は「可愛い顔して女は冷酷だ、魔性だ、冷酷だ、魔性だ、外面菩薩内面夜叉外面菩薩内面夜叉」と地団駄を踏んでいた。
 三人は明日の午後二時からアリス保育園を中心にしてその近辺の保育園を安吾の愛車の軽貨物で巡回しながら張り込む事になった。二人はサヤカを外そうとしたが、私だけ除け者にするのは共同体の倫理、社会正義への貢献を拒否するものだと理路整然と聡明なサヤカが熱弁して結局加わる事となった。
 翌日の早朝、朝寝坊のサヤカが早々と起きてリビングで遠足を待ち侘びるように浮き浮きしながらうろうろしている。安吾の部屋からは朝のお勤めの読経が聞こえる。サヤカは退屈である。そこへ小雪が現れたので話し掛けようとしたのだが、火之神にお祈りしてからと無視して台所に行くので、サヤカはむかつきながらも退屈凌ぎに小雪の後を付いて行く。
 小雪は火之神の茶碗の水を入れ換えて、線香を三本取り出しマッチで点けて、香炉に立て、床に正座して目を閉じて合掌しぶつぶつ呟き出した。サヤカの目には途方も無い年の枯れ木のようなお祖母さんが祈っているようで奇異に映った。
 火之神を祀った窓の向こう側の木にフワフワが枝を揺らしながらお尻を向けて叩いて、あかんべをしておどけている。笑いそうになった、その刹那に、フワフワはサヤカの右肩に腰を下ろしてにこにこしながら小雪を眺めていた。
「小雪もすっかりこの家の主(ぬし)になったな、しかし可愛げが不足している、まあ、サヤカがいるから潤っているけどな」
「その通り」とサヤカはにんまりして、「今日は鬼退治に行くのよ」と告げた。
「そうらしいね、あいつは捕まるよ、人を傷つければ、それ相応の罰を受ける。それでもサヤカは車の中でじっとして、覗くだけにしろよ、ボクの大事なさやかに何か有ったら困るからな」
「それじゃあ、小雪と安吾は」
「小雪も、安吾も頑丈に出来ているから、少々殴られても、蹴飛ばされても、落とされても、壊れなどしないんだ、でもサヤカは繊細だから、別だ」
「五月蠅いわね、フワフワにサヤカ、お祈りの邪魔をしないで、外で遊びなさい」と小雪が凄い剣幕で怒鳴った。
「女のヒステリーは鬼より怖いや、言われなくとも外に出ようと思っていたんだ、誰がそんな顔など見たいものか、なあ、サヤカ、お外に緊急非難、緊急非難」
「そうよ、そうよ、そうしよう」とサヤカはフワフワを肩に載せてわざとダッシュして銀杏の木の下へと立ち去った。
「ああ、疲れた」
「何でフワフワが疲れるのよ、走ったのは私でしょう」
「ああ、サヤカはまだまだ青い、私は人の気持ちがとても分かるからだよ、詰まり優しいと言うことさ、だから君や小雪や安吾の二倍、いや三倍は疲れている、それでも顔にも出せないんだ、君達が変に気を使う事を躇らってね」
「キジムナーって、人間よりずっとずっと優れていたんじゃなかったの」
「そりゃあ、そうだよ、でも劣った者に合わせるのが優しさのマナーだからな、まあ言ってみれば基本だよ」

 安吾が運転する軽貨物の助手席に小雪、後ろにサヤカが乗り、アリス保育園を中心に半径五キロ以内を巡回し、やはりアリス保育園が、遊び場、公園、裏手の林と子供を誘うには一番適していた。詰まり、子供が遊べる環境が整っていると言える、それを逆手に取る、あいつは知能犯である。それに公園の真ん中に植えられた緑の葉を付けた桜の木の天辺キジムナーが立って、辺りを窺うわざとらしいポーズ取っているのをサヤカが発見したからである。車は公園の遊び場と保育園から続く道が窺える道路脇に駐車して張り込む事になった。
「フワフワよ、目立ちたがりやね、小雪」
「あれでも遠慮している積もりなのよ」
「桜の木の上だろう、二人が見えるのに私にはどうしても見えないんだ、夢ではちょこちょこ現れて説教までするのに、それは不公平ですよ」
 三時間が立ち、夕暮れが迫る頃、窓には黒いシールの貼られたワンボックスカーが公園の横脇に停まった、二三十分もドライバーが姿を見せず中に入ったままである、不自然である。
 保育園の制服を着た女の子が小さな鞄にリボンの付いた青い帽子を被ってスキップで歩いて来た。ワンボックスカーから現れた男はスラックスに白の開襟シャツにニューヨークヤンキースの野球帽を被り、ゲームボーイを片手に女の子に近付き、気を引いて、車の後ろの扉を開けた。中はちょっとしたゲームセンターで、二十一インチのモニターにスーパーマリオが映し出されて、ソファーにはリカちゃん人形の着せ替えセットに、テディベアーの縫いぐるみが三体に、クレヨンしんちゃんの漫画、内装は薄いピンクで統一してある。それを見た女の子は躇らいも無く喜んで中に入った。
「お家まで送って上げるからいい子にして遊んでいるんだよ」と静かにドアを閉めて、男は何食わぬ顔で運転席に乗り発進させた。
 男を凝視する小雪は記憶の開かずの間の重い扉がぎしぎしと軋みながらも開いて行く。
『私が公園で悪戯されている、悪戯されいている』
 悪戯した男の顔が炙り出しのように浮き上がり、目の前の男と重なり現実となり、今正に同じ犯行を繰り返すために幼児を人知れぬ場所へ連れて行く、あの時のシーンが脳裏にフラッシュバックし恐怖が襲いかかり、激しく体が震え出し、サヤカが後ろから両手で抱き締める、涙が小雪の首筋を伝う。
「安吾、あの車を見失わないでよ、あの子の将来が掛っているのよ、それから現行犯逮捕で警察に突き出すのよ」と小雪がいつもの口調で言った。
「私の腕を信じなさい、それに東京の道はあいつより私の方が熟知している」
「それでも何かしら頼りなく見えるのよ、安吾はね」とサヤカが大人っぽく冷静に言って退けた。
 男の車は郊外に在る廃寺となって朽ち掛けた玄耀寺の境内に停まった。男は車から降りてハッチバックを開けて、出て来るように告げ、危険を察知した女の子は奥の方で蹲り、泣き出す事さえ出来ない恐怖で放心状態に陥っている。男はにやりと顔を歪ませて中に入り、青ざめた女の子を抱きかかえて寺の裏手へ運んで行く。それと同時に安吾が小雪が降りて、暫く間を置いてサヤカが携帯電話を片手に掴んで追って行く。
 男は女の子の上着のボタンを外す、スカートを脱がせる、着ている物を汚しては両親にばれてしまうので細心の注意を払っているのである、後ろから近づく安吾には気付かない。安吾は首を絞め落としに掛ったが、男はもがきながらも安吾の右腕に激しく噛付き、安吾は悲鳴を上げ右手が緩むと男は境内の方へ駈けて行く。
 小雪は呆然と立ち尽くす女の子を抱き締めて、「もう大丈夫、もう大丈夫」と目が潤む。サヤカは服を拾い、警察に電話する。
「警察ですか、幼女に強制猥褻をした男が玄耀寺にて暴れています、至急来て下さい、大至急です」
 男は車からサバイバルナイフを取り出して、奇声を上げながら闇雲に振り回し襲いかかるが、安吾はひらりひらりと身を躱す。しかし、蹴りや突きを出そうとはしない、サヤカは見ている内にもどかしくなり、「こんな悪人、叩きのめせ」と怒って叫んだ。その方へ目を逸らした一瞬、サバイバルナイフが胸を目掛けて飛び出したが、安吾は紙一重で躱し、男の右手を掴まえ、足払いで倒し、気合と共に右手が男の顔面に向かって風を斬る、だが鼻先でぴたりと止まった。男は観念するかと思ったが最後の悪足掻きで罵り始めた、安吾は許せなかった。安吾が右手を伸ばし、男の顎に触れたかと思うと、悪態が呻き声に変わった。安吾がサバイバルナイフを奪い、立ち上がると、顎を外された男は地べたで藻掻いていた。
 サヤカが寺の影から飛び出し駈けて来て、横たわる男を見下ろし、「お前は人で無しだ」と涙を零した。小雪は女の子に服を着けさせ手を引いて寺の前に立って、その様子を見ていた。安吾とサヤカは男を抛って置いて、女の子の方へ歩み寄り頬笑んだ。
「おねえちゃんの肩に森の小人さんが止まっているよ、カワイイ縫いぐるみみたい」だと女の子はサヤカを見て笑った。
「なぜ私にだけフワフワが見えないんですか、依怙贔屓です、絶対にね」と安吾が苦虫を噛み潰したような顔になった。
「仕方ないでしょう、フワフワは女性と子供がお好みなのだから、それより安吾、車もダッシュボードを調べて、あいつの犯罪を示す物が有るはずだわ」と小雪が催促する。
『何ですか、仮面ライダー並の活躍をしたんですよ、一言くらいご苦労さんとか労いの言葉が有って然る可きなのに、すぐさま車を調べて来いですか、私に対する優しさが全く見受けられない』と安吾はごちてしぶしぶワンボックスカーに向かう。
 サイレンの音が聞こえたかと思うと、パトカーが境内で急停車し、駈け降りて、三人の警察官が顎を外されふがふがと指で顎を差す男を一人が抱き起こし抱えると、残りの二人は作業ズボンにTシャツで車でごそごそしている安吾を掴まえて外に引っ張り出した。
「君は、幼児に猥褻な行為をしたな、したな、素直に認めれば罪も軽くなる、何だ手にしたその幼児の裸の写真は、いい若い者が、もっとやるべきことはあるだろう、だから平和惚けした日本が嘆かわしい、お金を出せば慰めてくれる場所はゴロゴロしているだろう、もっと成熟した大人を相手にしろ、このバカタレが」と派手な私服の刑事が頭を小突きながら怒鳴る。
「刑事さん、私があの倒れている破廉恥な男を捕まえたんです」
「この期に及んで、ウソを吐くか、署まで連行する、警察をなめるんじゃないぞ、優しくしてやれば付け上がりやがって、このバカタレ」
「刑事さん、この人は犯人ではありません、犯人はあの倒れている男です、この車もあいつのです」とサヤカが慌てて告げた。
「あなたが警察に通報なさった方ですね、感謝します、ああ、あなたには失礼、……」
「警部、あの男の顎が外れて受け答えが出来ません、どうしましょう」
「このアホウ、俺は接骨医じゃないんだ、自分でどうにかしろ」
 安吾は怒りを抑えて男の方に屈み、顎と頭を両手で掴み、顎を上に押して元に戻してやり、これでも私が犯人かという顔で刑事を睨んだ。

 取り調べで、五十一歳の男は十七八の頃から幼児に猥褻な行為に及び、親にたとえ知られても子供の将来を心配し、泣き寝入りする事に味を占め、犯行に犯行を重ねた。
 更には、淫らな格好をさせた子供の写真を裕福なその親に送り付け、恐喝まで行い、この十年はその手の写真やビデオを雑誌広告で宣伝し、高額で売りつけ、マンション・車とキャッシュで購入して、自称映像作家と語っていた。インターネットでホームページを開き日本とアメリカのマニアに売り捌き相当な荒稼ぎをしていたらしい。そしてマンションからは膨大な幼児ポルノのビデオ、写真などの証拠物件が摘発された。

 一月ほどして夕飯時に、あの似合わぬ口髭を貯えた派手な関西系のヤクザルックの刑事が部下の一昔前の学校の用務員風の若い部下を引き連れて雷おこしを一つ携えて小雪の家の家のチャイムを押した。応対に出た作業着の安吾は露に嫌な顔をした。
「イヤイヤイヤ、先日は失礼しました、身なりで人は決めますからね、私なんか、歌舞伎町や銀座を歩けばお巡りさんに職務尋問を受けるくらいですから。まあまあ、お互い様で気にしないのが健康の秘訣です、小雪さんに事件のご報告とお礼かねがね遣ってきた次第で、ナニナニ、お気は使わなくて結構です」と小雪を捜しながらづかづか奥へ入ってゆき、リビングで小雪を見つけると一礼して。
「小雪さん、詰まらないものですがどうぞ、遠慮無く」と雷おこしをテーブルに差し出した。
「そうですか、それはご丁寧に、お坐りになって下さい、お茶、お酒がいいですか」
「ええ、非番ですから、どちらでも」
「人麻呂さんですよね、いいお名前で」
「ええ、父が趣味で短歌を齧っていたものですから、それでも田中には不釣り合いな名前で田んぼの中ですからね。それでもね、文学の素養が有るのか、俳句などを嗜んでいますよ」
「人麻呂さんはどんな俳句を、一句聞かして貰えませんか」
「これは署で金賞を取ったものです、では《汗しとど 氷イチゴのツツツーン》所長はねNHKの俳句の番組に投稿しろ言ったんですがね、署長によりますと、刑事の地道な捜査の苦労を抑えてユーモラスに捻った所に妙があるとか、何とか」
 サヤカが腹を抱えて笑った。安吾も笑った。
 部下の刑事もソファーの後ろに立って口抑えて笑っていた。
「サヤカちゃん、ウィスキーを取ってらっしゃい」
「何で私なの、安吾ちゃん、取ってきてよ、立っているんだから」と膨れて小雪を睨んだ。
「あなたもお坐り下さい」と小雪が後ろで立っている部下に声をかけた。
「藤原ちゃん、俺が苛めているように見えるだろう、坐れ」と猫なで声で言う。
「もしかして、定家と言うんですか」とサヤカが間髪を入れずに聞いた。
「いいえ、野球好きの両親で貞治って言うんです」
「こいつは運動音痴で何で刑事になれたのか不思議でしたよ。所が変な特技が有るんです。女のホシはどういう訳か、藤原にはコロリと自白するんです、それも中には涙を流す女までいるんです、私は男相手で吠えられて咬まれてそれに怨まれ、貧乏籤ばかり引かされて、なあ藤原」
「ええ、まあ」
「こいつはね、刑事でなければスケコマシになって歌舞伎町辺りを遊んで暮らせたものを。何でナヨナヨしたこいつが女の持てるのか七不思議の一つですよ」
 安吾が酒の支度をしてやって来る。小雪が酒を作り人麻呂刑事に差し出すと鬼瓦が笑ったような顔となり、藤原刑事にもと作り出すと「そこまで気を使わなくとも、藤原、小雪さんに気を回させるな、自分で作らんか」と機嫌を悪くした。
「事件のことですが、小沢を強制猥褻罪の他に恐喝でも上げようとしたんですが、子供のこともあり中々証言しようとしないんです、中には子供のことで、恐喝されて……お子さんは席を外して」
「何ですか、失礼しちゃうわね。事件解決に協力した一人です、子供扱いにされては心外です」
「宜しいんですか、小雪さん」
「ええ、結構です、サヤカちゃんはミステリーの愛読者ですから」
「子供の写真を送り付けられて、母親から金まで脅し取り、体まで強要されたケースも三件有りました。上流階級の奥様方も変わり者でそのスリル、詰まり不倫の味が忘れられなくて愛人みたいになってしまった奥様も在るのですから、世も末です、でも恐喝では結局上げられませんでした、バックには金目当ての政治家が在て圧力までかけるのですから。……所で小雪さんは独身ですか」
「はっ」
「いいえ、お子さんにしては育ち過ぎじゃないかと思いまして」
「独身です、サヤカは妹です」
「そうですよね、早い結婚、早い離婚、早い後悔のヤンママの走りだったのかななどと藤原がね、詮索好きが彼の悪い癖でして」と人麻呂刑事は鬼の恵比須顔である。
「人麻呂さんは独身ですか」と悪戯っぽくサヤカが聞いた。
「私も独身でして、離婚歴も有りません、今年四十歳、体は健康、身辺は綺麗なもので、浅草のアパートで独り暮らしをしております」
「お寂しいでしょう、人麻呂さん」とサヤカが優しく訊ねる。
「ええ、もう秋から冬は心まで寒くなります、人恋しくなります、殊にクリマスと正月は切なくて……、所で、小雪さんのお誕生日はいつですか」
「七月七日です」と小雪はサヤカのお尻を強く抓った。
「ラッキーセブン、フィーバーですね、運命の出会いの日です、ロマンチックな日ですな、さすが小雪さんのお誕生日」

 小雪が沈黙し否定し続けた年月の時間をあいつは我が物顔でのさばっていたのだ。私は記憶が消せた、その分の痛みをあいつは子供達にばら撒いていた、小雪は胸が詰まり、吐き気がした。
   十三、皆が死ぬ
 その事件から半年が過ぎた。犯人と間違えられて、この頃は凶悪犯の顔なのかと塞ぎ込み、今までは見なかった鏡をしげしげとぽつねんと見入る安吾の姿が小雪とサヤカの目に留まるようになった。二人はそれを避けていた。それもそのはずで、大きな声で呼び止められ、「私はそんなに悪い顔では無いでしょう、中学の頃は、安吾君、寂しげな顔がジェイムズ・ディーンに似ているわね女生徒によく言われたものですよ」と何度も念を押し頬笑んで見せる安吾が気色悪いからである。
 その安吾が手鏡に映る二人を見つけ振り向こうとした瞬間、サヤカと小雪は庭へ飛び出し銀杏の木の下で互いに顔を見合わせ、呆れた顔をして、くすくすと笑い出す始末である。安吾は一人リビングに残され、もう一つの本当の恐れ「人間は死ぬ」、この問いを小雪にぶつけることは出来なかった。
 最も単純明快な普遍的な事実、「誰でも死ぬ」、消える、人生朝露の如し、浮かんでは消える川の泡の如し。そのような言葉は他人事として、裏を返せば「飛行機の墜落事故が起きても自分だけは大丈夫だ」と乗り込む能天気な客の戯言である。
 祖父は確かに中一の時死に、この地上の誰もが見つけることは出来ない、消えた。交通事故で日々消えてゆく人々、死ぬなんて考えても無かっただろう。それでも結局は誰もが、私も小雪もサヤカも死ぬ。
「雌鳥は卵が次の卵を作るための手段に過ぎない」と或る学者が言って退けた。
 人間は次の赤ん坊を次のDNAを作る手段に過ぎない。より多くの♀と交尾してより多くの赤ん坊を生むことだ、少なくともその子は環境と状況に於て進化はしている。だがそれでも死ぬことは免れない。それでも皆は日々を喜怒哀楽中でも楽しく過ごしている。小雪に、「君もいつかは死ぬのだ」と告げたら彼女の幸せは粉微塵に砕け散ってしまうだろうか。至福浄土教会の会長・山田妙作はマホメットや釈迦や孔子やノストラダムスの霊を呼び出して会話をする。山田妙作の霊は誰に取り付くのだろうか。それでも火葬にされて灰となる、観世音菩薩の化身は優れたスーツを着たビジネスマンだ、一族郎党のイベント、出版、インターネット……、マルチな商売人だ、宗教ほど甘くて素敵な金を儲ける商売は無い。それでも私に「人は死ぬ」との呪縛を断ち切ってくれたなら身を粉にして至福浄土教会のために尽くしただろう。その答えは「そんなバカなことを考えていると、無間地獄へ落ちるぞ」との恐喝であった、その一喝にうな垂れる信者が哀れだった。
 人間は死ぬ、地獄も天国も私にとっては「人間は死なない」という解答にはならない。或る区の信者が亡くなった、葬式は教会が仕切り、お布施は全て教会へのお布施となって吸い上げられる。浄土へ行く者に現世など、遺族など慮る暇はない、執着して成仏出来ないからだ。葬式宗教のいい見本だ、スーツを着た幹部と紫の衣を纏った坊主だけが肥え太る。扱き使って眠りこけさせて考えることをさせないのが、救いなのなら、彼らは正しい。
 どんなに過去に反論しようとどうもがこうとその過去を変えることが出来ないように、「それでも人は死ぬ」、安吾は中一以来怯え続けている。
 鏡に映った自分、それは虚像であり何かしら「死」を垣間見る道具のようで手鏡を抱いたままソファで眠り込んでしまった。
「コラ、コラコラ、凶悪犯の人相の安吾、安吾、起きろ、起きろ、フワフワだぞ」
「人が気にしている事をよく口に出来ますね、無神経だ、凶悪犯を掴まえて、凶悪犯にされそうになったんです、傷付くのが当然ではないですか」と安吾はぷりぷり怒り出した。
「安吾、素直になれ、『死』が怖いか、小便ちびるか、お前はいみじくも求道者だぞ」
「なぜ死ぬのですか」
「お前はな、故郷を思い出しているだけだ、ホームシックにかかっているだけだ、異郷に来て、故郷を思い出さぬ奴は息を引き取ろうが死ねない、なぜ故郷である『死』が怖い、雨が降りその一滴が山に降り地に染みて川に交わり流れとなり海に注ぎ水蒸気となって天に昇り再び雨の一滴となって地に出会う大地をこの地球を潤している、ではその一滴はいつ何処で死んだ、鳥を見ろ、彼らは死も生きるも知らない、だが囀りを忘れない、安吾が見た鳥はいつ死んだ」
「人間だけには不幸にも意識が有ります、だから死が怖いのです」
「どうして死んだ事の無いお前が死を怖いものだと確信できる訳を聞かしてくれ、見せてくれ、死は幽霊か、安吾、笑って死を迎える人々も一杯在るのだぞ。
 安吾、人間だけは意識が有る、それは正解だ、だが死を恐れるのはその根底に深く刻まれた聖なる傷の記憶ためだ、君は人間の出産のシーンを見たことが有るか、その母親のお腹にお前は戻り赤ちゃんになる、深く息を吸って大洋から生まれた川へ帰巣する魚となり深く深く眠り母親の子宮へ遡及する、母のリズムが波がハンモックを揺らす、君は透き通る肌をして眠りと目覚めの境も無い水の中で穏やかに呼吸する至福の胎児になっている」
 安吾は眠りの中の更なる眠りの奥の懐へ抱かれる。全てが和んでいた、その全てには内も外も遅速もあれもこれも私もあなたも無かった、全てが幸福に満ちていた。その無窮が揺らぎ収縮弛緩を繰り返す毎に暗いどろどろとした感触が締め付けマグマとなった暗赤色の血が煮え滾り凄まじい叫びを全てが一斉に上げた、最早見えざる全てが全てを圧縮し窒息させようと唸り呻き声を上げ闇が咆哮する、見えなかった、聞こえなかった、叫べなかった、無力が降りてきて、阿鼻叫喚の震えが四方八方に打ち当たり撥ね返されて雷鳴となり谺する、それでも容赦なく押し潰す力だけが見えざる一切が全てが伸し掛かった、何処からかもがき苦しむ悲痛な怒りと憎しみの膿が染み込んでくる、腐爛臭が充満し、全てを八つ裂きにしてばりばり貪り喰う全てが暴発する、蚕の繭の中で怒り憎しみ殺し破壊する小さな繭が蚯蚓が蠢いている、それを同じ怒り憎しみ殺し破壊する全てを包む全てが牙を剥き互いの血が煮え滾って行く、殺せ、殺せと刃を向ければ、お前こそ死ねと見えざる大きな手が首をぐいぐい締め上げる。怯えの粘膜の中で力なく横たわり闇が腐臭が血がせせら笑う。全てが憎しみで怯えであった。ぷつんと切れた……闇は崩れ落ち温もりがあった、死に損なった赤ん坊の泣き叫ぶ声が温もりを突き抜ける。
 汗だくとなった安吾が叫びを上げて首を振り跳ね起きた。
 人を貪り喰う殺人鬼の圧倒的な己が本性を唖然となって反芻していた、親を呪い親に呪われた赤ん坊、安吾が無縁と思い込んでいた人殺しの怒りと憎悪が渦巻いていた、殺生を禁ずる己の信仰を前にして己が已に宗教を冒涜していたとの自覚の暗雲が立ち込めて今までの一切合切を打ち壊す雷が脳天を直撃した。再び怯えと行き場の無い無明の闇が安吾を呑み込んでゆく、アスファルト上に投げ捨てられたアイスクリームが蕩ける、闇に溶けて行く自分を触感が味わっていた。すると漆黒の闇に見えるはずの無い影が動く。
「母親を喰え、お前を喰え、人間を喰え」と影が揺らぐ。
「それは出来ません、それは出来ません」
「お前はそのような人間としてこの世に生を受けたのだ、どうしてが腐った人間の亡き骸が累々と横たわる上に在ながら蓮の華の台(うてな)の上でお前一人が安穏と胡座がかける」
 安吾は頭を抱え屠られる羊の目をして地べたを転げ回る、精神が千切れる苦しみに涙さえ出ない、絶望さえ見つけられなかった。救い難い哀れな人間の畜生が転げ回っていた。
「どうした安吾、なぜ観音様は現れぬ、なぜ南無観世音菩薩南無観世音菩薩と唱名しない、なぜ縋らない」
 安吾は苦しみ悶え痛みの極みで失神した。
「お前の頭では無理かな。お前は一生そのままかも知れないな、まあ、一寸の虫にも五分の魂、人は生まれに非らず、育ちに非らず、その行いにあり、仏の言葉だ、そのくらいのことは知っているはずだぞ。残念な事に、お前にはサヤカや小雪のような第六感は眠ったままだ、きっとこの世とサヨナラするまで目覚めないに違いない。死ぬのにも一生恐れ続けるだろう。坊主としての位は下の下だ。だがそんなものよりもっと大事なものが有る、それが分かるか、言ってみろ」
「そんな事まで分かりません」
「そうだな、お前の頭で答える全てをボクは否定しようと折角待ち構えていたのに肩透かしだな。いいか、お前はカンボジアに行って、下水道や道路や家を戦火で未だに立ち遅れた地域の村で彼等と共に歩こうと発心し、その準備に金も知識も貯えている、そしてお前はそこへ行く。
 お前は苦しむ、その現実に苦しむ、死に怯える、空腹に泣く、だがそれでもお前は一所懸命になる、動き回る、汗を流す、だがその落ちた汗の跡には井戸が、下水道が、家が出来上がる、そこには人が住み畑に作物が実り日々の糧が実る。お前はバカだが真っすぐだ、大きな山が在れば回り道をすればいいものをそこに鶴嘴を奮ってトンネルを掘って進んでゆく、傍から見れば間抜けに映る、だがな……」
 ソファに眠る安吾の右手から鏡が落ちて、目を覚ますと、いつもの家の、いつものリビングに、いつものソファにテーブルにテレビに家具が有った、それから足元に転がる鏡を拾い、テーブルの上に置いた。茫漠模糊とした夢現の中で、安吾は夢を反芻していた。だが思い起こそうと言葉にしようとすると、するりと思考の網を潜り抜けて行ってしまい、苛立って来る、自分の馬鹿をつくづく思い知り涙が零れてしまいそうになる。すると外から梵鐘の如くに声が聞こえた。
「安吾、安吾、安吾のクソッタレ、外に出ろ、アホウな頭は捨てちまえ、クソッタレの安吾、外に出ろ、外に出ろ、外に出ろ……」
 安吾は素足のままで大声を張り上げながら外に飛び出した。
 銀杏の大木の根元に小雪とサヤカが安吾を見て笑っていた。
 銀杏の木の枝々の葉が黄色に染まり、日を受けて金色に輝き、風に戦ぎ波打ち、美しい波紋が四方へ八方へ広がり、蒼穹は澄み渡り、鳥は囀り天翔けて、小さな一木一草が潤い緑を滴らせ山が遊ぶ。
 小雪とサヤカが在た。それを見る安吾が在た。全てが有り難かった、全てが尊かった。
「安吾は間抜けよね、靴も履かないで、百メートル走、何を考えているのかしら、小雪」
「変人、奇人はどこにでも在るわよ」
「小雪、変人とか、奇人とか言っては駄目よ、凶悪犯を思い出させるわよ」とサヤカが安吾を目配せして、小雪の耳元で呟いた。
 その時、空を仰ぐ安吾の耳がぴくりと動いて、銀杏の木の下に立つ二人にゆっくり近づいて行った。二人は妙に落ち着いた安吾の醸し出すムードに何が起こるかしらと気が気でなく鼓動が激しくなる。サヤカは小雪の腕を揺する。
「だから言ったでしょう、安吾は今神経過敏なのよ、参ったな」
「何よ、もう遅いわよ、噛付きはしないわよ、理性は有るのだから」
「分かるものですか、普段は優しい人が切れると、一番恐ろしいと言うでしょう」
「来たわよ、サヤカ、黙って、普通の顔、普通の顔」
 安吾は二人の真正面に立ちはだかり、大きく深呼吸をして、サヤカ、小雪と見詰め、にんまり笑った。
「私はね、大きな山があったらツルハシでそこにトンネルを掘って進むんだ。でも私はそれでいいんだよ、私が望んだことをするのだからね。柳は緑、花は紅(くれない)、蘇東波の詩の一節です、笑いましょう、羊は丘の上、魚は水の中、今日は実にいい天気です、私はこれから益々勉強します、井戸・下水道・家屋・道、マスターしなけれならないならない事が一杯有ります、少年老い易く、学なり難し、サヤカ、勉学に共に励みましょう」と安吾は堂々と踵を返し家の中に引き上げた。
 小雪とサヤカは暫く呆気に取られ、顔を見合わせると腹を抱えて笑った。 
「勉学に共に励みましょう、今時、若者がそんな事言うかなあ」
「間違ってはないわよ」
「何よ、小雪だって笑っているじゃないの、小雪、共に励みましょう、時代を間違えてんじゃないの、遅く生まれ過ぎたのね。プッツンしたね、安吾は」
「跳んじゃったね」
 二人は寂しげに空を見詰めた。そして安吾が語ったカンボジアの僧侶の話を思い出していた。
 
 僧侶はポル・ポト政権下での迫害を逃れて生き延びた。僧侶の或る仲間は宗教を捨てずに虐殺され、又或る者は女性と無理矢理に関係を持たされ、僧侶を離れざる得なかった。だが、もっと安吾を震えさせたのは、テレビに映ったその僧侶の言明であった。
「確かに、僧侶はポル・ポトに目の敵にされ、虐殺されました。しかし、あの頃は全ての国民が農民が強制労働を課され、村から町から在なくなったのです。お布施でしか生きてはならぬ僧侶は、もしポル・ポトの政権がもっと続いていたならば、餓死するしかなかったのです。私は運よくベトナムで生き延びたのです。ですから、今は貧しいこの村で僧侶として、村を豊かにしなければならないのです、それが又村人に支えられて生きる僧侶の唯一の道です、田や畑に作物が実り、子供達は教育を受けられるようになり、この国を栄えさせるのです、それが戦火で亡くなった全ての人々への僧侶の私の一生のただ一つの祈りであり、一生のただ一つの誓いです」
 安吾の語るカンボジアの僧侶が安吾に何千キロもの時空を超えて、語り掛けた、それは優しさであり、何よりも力を秘めたものであり、千言万語の美辞麗句、絵に描いた理想論で国民を不幸に陥れたポル・ポトを遥かに凌駕するものであり、一人一人を包んでも尚尽きない人間の慈しみの顕現であった。少なくとも安吾はそれを感じ、受け入れ、自分のものとした。だからこそ、カンボジアへ行く決意をしたのである、そしてそこの土となる覚悟を決めた。
   十四、大いなるもの
 二年後、安吾はカンボジア語を覚え、土木技師となり、二級建築士の資格、重機の免許も取り、成田国際空港の待合室でカンボジア行きの飛行機を待っている。サヤカも小雪も並んでソファーに坐っている。サヤカは目を腫らし泣きっぱなしである。悲しいと思った。だが、自分を救ってくれたようにカンボジアの援助を必要とする人々の所へ行くのだと頭では笑って見送るはずだった。やはり、悲しかった。
 小雪とサヤカが発起人となり、カンボジア友の会というNGOを設立し、小雪の父の会社のイメージアップにとサポートさせて、金銭面での支援の目処を立て、その初の派遣員を安吾とした。
 安吾は実用書以外の物は何一つ持って行かないことにした。仏教の経典さえも古本屋に持って行き金に換えた。村の人々と歩むことが、黙々と歩むことが、安吾の求めるものである。お経も頭に残ったものだけでよかった、それが自分に与えられた分相応である、それに頭の悪い自分が経典を理解し尽くそうと思ったことが浅はかに思えた。それさえも、忘れていいと思っている。
『私は用水路や家や道路を立てる、その技術を共に働く人々に伝える、それ以外のことは、村の人々がする』
 安吾は突然閃いた。
 この世に菩薩は居ない。
  だが一人残さず人間を救うまで仏にはなりませぬ誓願した菩薩の、人民救済の心が有るのみだと。
 安吾にとってそれはカンボジア復興の道であった。
 すると「死・死・死」と騒いでいた心が、そんなものどうでもいいかのように、気にならなくなっていた。
 それは満天に輝く星々だけが生きていて、それを浮かべる闇の空は死と呼ぶようなものだろう、それは間違いだ。輝く星も、広がる闇も一体の宇宙なのである、生は輝いているのか、闇なのか、どうでもいい、今、生きている、もしかしたら、死んでいると考えることもできる。生死は宇宙のようなものなのだと天空を安吾は仰ぎ見た。
 そこに慈悲があればいい。

 しんみりと別れの憂いに身を浸している三人の席の後ろから「こゆきさーん、こゆきさーん」と辺りをはばからぬどら声が、空港ロビーのざわめきを消し去り、恥ずかしさに小雪とサヤカが凍り付いた。
「いやいやいや、野暮用が有りましてね、奇遇ですな、小雪さん、安吾君もカンボジアですか、いい事です、海外雄飛、日本男児はこうでなくては行けません、いややいやいや、ご立派」と苦笑いした安吾の手を取り力強い握手を交わしながら、有りったけの力を出して締め付けて力を鼓舞しようするのだが、逆に締め付けられて照れ笑いをする人麻呂刑事であった。それを見た藤原が笑うと睨み返して頭を小突いた。
「サヤカ、隣に寄ってくれない、ボクは小雪さんと大人のお話しが有るの、藤原、気が利かんな、サヤカが寂しがる」
 サヤカは安吾の隣に席を移ってその隣に藤原が坐った。
「人麻呂の奴、私を子供扱いにして、あれで恋する本能が有るのが不思議だわ」
「以前相手にしていたのが、暴力団ですから、優しそうで綺麗な人に弱いんです、仕方ないですよ、今までまともに素人の女性でお話してくれたのは小雪さんだけなんですから、キビシイですよ。高校の同級生の女性に二十万円貸して、とんずらされても一晩泣いて自棄酒呑んでそれで終わりですからね。
 女性に優しいのは私より田中刑事の方ですよ」
「そう、藤原さんはどうなんですか、持てるんでしょう、ちょっと聞かして下さいよ」とサヤカが悪戯っぽく笑う。
 女殺しの藤原と署でその異名を取ったのは結婚詐欺師の容疑で捕らえた三十五歳の黛美和子を自白させたことに因ってであった。
 人麻呂刑事が三日四日と脅し賺し宥めても平然とタバコを燻らして、或る時は顔を近付けてうっとりと彼の顔を見詰めて頬笑むのである、だが一言も口は聞かない。黙秘である。それに金を巻き上げられた二十一から六十八歳までの被害者の男達は怨みを抱いてはいなかった。いい思いをさせて貰ったのだから、飲み屋に一年通ったと想えば帳尻は合うなどと言う者まで在る始末である。どうしても自白が欲しかった。黙秘の美和子が心の中で甘く囁きかけて、『もし外であなたにお会いしていたら、あなたの貯金も月々のお給料まで、私に貢いでいるわよ、藤原さん』と勝ち誇ったように人麻呂警部の鼻先まで顔近づけてウインクしているように思えた。「女はウナギの化け猫だと」と吠えてととうとう六日目に人麻呂警部は藤原お前が遣ってみろと匙を投げた。藤原は美和子に向かって坐ると、静かに映画の話をした、チャップリンの「街の灯り」「ローマの休日」「ある愛の詩」
「私は純愛物が好きなんです、『失楽園』など見る気もしないいんです」
 次は漫画の話で「タッチ」「アラレちゃん」「銀河鉄道999」と延々と二時間も淀みなく楽しそうに話し、自分の世界に入り込んで行く。
「絵は綺麗な方が好きです、メーテルに本当に恋してしまって困りました、本当に美しいと思いましたよ、この世に無い美しさです、漫画だからですよね、それに私は姉のお陰でキティーちゃんの筆箱を持たされてね、仲間によくからかわれました」
 人麻呂は調書のデスクに坐り、美和子に背を向けてうんざりしながら本題に一向に入る気配を見せぬ藤原のバカの長話を聞いていると腹が立ってきて貧乏揺すりをして、藤原のバカを蹴飛ばして首を締めて落としてやりたくなってきた。所がヒョウタンから駒が出た。あの百戦錬磨の詐欺師の美和子がうな垂れて泣き出したのだ。
「私も世間話をしたかったのです、たわいもない話をして泣いて笑って過ごしたかったんです。所が誰も私に振り向かなかった。或る時同僚に言われたんです、大人になってオママゴトでは男は付いてこないわよ、全てアレから男は始まるのよ。捨てられて傷付いているばかりの私は変わったわ。この男は私の一晩に幾ら使うかしら見下して付き合うと入れ食い状態で引っ掛かった、でも餌は一つ色仕掛け、それしか選べないのよ。幼稚園の弁当の日のキティーちゃんのピンクの弁当箱を思い出したら、抑えていたものが込み上げて涙がぽろぽろ出て来るの」
「誰でも魔が差すことはありますよ」と藤原は優しい声で告げる。
 人麻呂は美和子の急変に驚いた、今泣いているのは弱くて今にも崩れそうな哀れな同情すべき女だったからである。
「そしたら、藤原さん、署内に触れ回って、今では少年課の課長さんも手の付けられない女の子だと頼みに来るんですよ」
「いいじゃない、持てないよりは。人麻呂では私だって口を利かないわよ、あの顔ではね、小雪さんはマムシに愛されたカナリヤ、恐ろしいカップルだわ」
「サヤカ、人麻呂さんはいい人だよ、口を開けた仁王の凄みの有るいい顔立ちだよ、嘘の吐けないいい人だ」
「安吾はもしかしてホ・モ、仁王さん、あんなにカッコよくないわ、ビール腹のお不動さんよ」
「どうして悪い言葉ばかり覚えてくるんだ、ビール腹とかスケとかヒモとか、今にブスになるぞ」
「だって辞典に載ってなくて、フレッシュなんです」
「お嬢様が物珍しさにタコ焼きを人前で食べるようなもので、可愛いものですよ、安吾さん」
「お嬢様ね、聞いたか、サヤカ」
「女あしらいが巧い人は女心を擽るように叱るものなのよ、安吾のようにどこかの親父みたいにダサクはないのよ」
 人麻呂はウーロン茶を二つ買ってきて、一つを小雪に渡して、すぐに手にしたウーロン茶をがぶがぶ飲み干した、已にサヤカと安吾は人麻呂の管轄外の区域となっていた。
「藤原、飲み物ぐらい買って来ないか、お前は気が利かないな、走れ、安吾君は異国の地に旅立つんだぞ、間抜け」
 藤原は済みませんと自販機の方へ駆けて行き、ほくそ笑んだ人麻呂刑事は小雪に見蕩れ、一人の世界で悦に入った。
「小雪さん、心配せんで下さい、男手が無くなった小雪さんの家はわたくしは、田中人麻呂が不惜身命、粉骨砕身、守ります、今の世の中、若い女性の二人暮らしは悪党の標的です、しかし、心配しないで下さい」と小さな声で話す習慣の無い人麻呂の声は高らかに響く。
『そう言うお前が一番怖いちゅうの』とサヤカは呟いた。
 藤原は足早に戻って来て、安吾、サヤカと缶ジュースを手渡して坐り、暇を楽しむ老人のように缶ジュースを啜る。
「藤原さん、女のホシをどんな手管で落とすのよ」
「何もしませんよ、お茶を出して世間話をするだけです」と藤原は気弱そうに笑う。
「苛められっ子だったでしょう、藤原君」
「いや、いつも番長クラスの生徒にだけは可愛がられていたから、誰も手出しはしないんだ。特にデートとなると私にこっそりと頼むんだよ、その時のために特別待遇されてね」
「それは共生だな、イソギンチャクとクマノミのようなね、藤原君。強いお姉さんだけの家族の末っ子でしょう」
「よく分かりましたね、強いもんて言うものじゃないですよ、ヤンキーの寸止めです、選んだ職業が長距離のトラックの運転手ですよ。なぜか私の家族は女が強かった、祖母・母・姉とね。私だけが男の子で上の三人には可愛がられ過ぎました。だから高校は無理して男子高に行ったんです」
 カンボジア行きの便の搭乗案内のアナウンスが流れ、安吾が小さな手荷物を片手に立ち上がると今まで笑っていたサヤカが安吾の胸に抱きついて声を上げて泣きだした。
「安吾、安吾、安吾と別れたくないよ。安吾はいつも側に居てくれた、けして私を怒らなかった、自閉の私を見捨てなかった、本当はとてもとても寂しいんだ、安吾はいつでもどんな時でも私を守ってくれた、私には誰よりも優して強い安吾がいた、だから私は今の私になれたのよ、こんなに幸せになれた……どんなに感謝しているか、口では言えないけれど……有り難う御座いました」
「サヤカ、私が助けたんじゃない、信仰を捨てそうになった時、サヤカが現れた、こんな私にでも縋がってくれる人が在ると思ったら救われた気がした、サヤカがいつも私の側に居て見守ってくれた、私の方がサヤカに救われたんだよ、私は強くなりたいと思った、でも優しい人は強くなれるけど、強いだけの人は優しくなれない、人と共には歩けない、サヤカは優しかった、そして強かったんだ、少なくとも至福浄土教会でも救えなかったこの弱い私を救ってくれた。感謝しているのは私の方だよ」
「三塚安吾君、カンボジア雄飛を祝し、万歳三唱、バンザーイ、バンザーイ、バンザーイ」と鬼瓦が泣いていた。
 安吾が乗客ゲートに入り、見えなくなった。
 小雪とサヤカは飛び立つジャンボの機体が消えても、青空を仰いでいた。熱いものが一気に込み上げて、小雪もサヤカも、嬉しいの悲しいのか分からないが、涙が溢れ出た。

孤個幻現(ここげんげん)

自分を救うことをシミュレートする、『それでも生き延びよ』

孤個幻現(ここげんげん)

サイコサスペンスファンタジーである。 蚯蚓(みみず)が見える神経を病んだ主人公が死ぬために沖縄の八重山行き、そこで神人(かみんちゅ)と出会い、神秘体験を経験し、自分を取り戻すと共に、相手の痛みに共鳴する能力を身につける。 600歳のキジムナーともであい、キジムナーの不思議な世界を知る。 東京に戻り、宗教に邁進するアンゴと彼に付きそう自閉症のような症状の少女サヤカと行動を共にする。その中でサヤカは回復し、アンゴは宗教の目的を知って行く。 そして蚯蚓が見えた根源である幼い時の性的虐待を受けたことを知る。その男が未だに児童ポルノで儲けていることを知り、捕まえる。 アンゴは宗教とは人を助けることであるとして、カンボジア復興のために飛び立つ。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-27

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