桃花源記

妻は肥満で醜女だが、一度も嫌だと思ったことはない。なぜか。

毎夜、あらゆる秘め事を貪り尽くす…

   桃花源記

 私はかまくらのような白い家の立ち並ぶ街にいた。道らしきものはあるのだが、大人が一人通れるくらいの幅しかなかった。人影もなく、犬も猫も見えず、生き物の気配すら感じられない、白一色の景観であった。雪が降り積もったわけでもないらしい、なぜなら、寒さを感じないからだ。無理のことだが、冷たくない雪が降りこの地を覆い尽くしたかのようだ。少し冷静になり、この家をぐるりと回ってみた。道の反対側に、私が這って入れるほどの暗い半円が、深い洞を思わせるかのようにぽかりと口を開いていた。光はそこで断ち切れていた。窓らしきものもなく、あんぐり開いた出入口だけが見える。中へどうぞと誘っているかのように思えた。しばらく、その前で胡座をかき眺めていた。そうっと右手を伸ばし中に入れた、腕がばさりと斬られたように見えて奇異な感じがした。私は手を引き戻し、誰かいませんかと二度、三度と呼んでみたが、返事はなかった。声も光と同様に暗い半円の所で消え去り、中まで届きはしないようだ。
 それから、四、五軒の家で同じことを繰り返したが結果は同じであった。どうなってしまったのかと坐り込んでいると、暗い半円の内側から寝息のようなものが聞こえた。それは微かな風がこの半球の家に入り込んで発した音かとも思われた。規則正しいリズムを取っていた。躊らったものの、好奇心と独りでいることに耐えきれず、四つん這いになり中に入り、すぐに右手を内側の壁に付けた。生暖かい闇に包み込まれてしまっていた。すこし壁を頼りに動いてみた、ぶつかるものは何もないようだ、しかし、闇は視界を閉ざすことで異様なまでの広さと永い時を押しつけてきた、膝が独りでに震えた。人間に飼い馴らされた都会の闇ではない、太古の闇があった。右手を壁から離せば狭いはずのこの家で迷い、二度と出ることはできないように思われた。それから、何かが潜んでいるという生き物の生暖かさの確かさと奇妙な感覚。壁に触れる右手は温度を感じさせない氷のようであった。闇は私の脳裏にさまざまな形を紡ぎ始めていた、パニックに陥ろうとしている、パニック、その言葉が脆弱な神経が切れるのを辛うじて防いでいた。慌てないことだと呪文のように唱えながらも、迷宮とは闇の異名でしかないことを知った。吐息のような鈍い風が動く、これが闇の声であった。
「姉さんのお部屋に黙って入っては行けませんよ」
 母の声であった。甘い切なさと驚きと畏怖があった。
 『姉さんのお部屋に黙って入っては行けません』と耳の中で木霊する。
 しかし、ここは姉の部屋ではない。
 右手の触れる壁はアリアドネの糸であった。そうは思いたいものの、このまま円い闇をぐるぐる回るだけではないかと回転し続けるメリーゴランドが浮かび、冷たさが背筋を走り、悪寒を覚え瞼が熱く重たく感じられた。このままずっと右手を頼りに回り続けるのかと息苦しくなり胸が詰まるようであった。
 オープンザセサミ、オープンザセサミ、開け胡麻、開け胡麻。ミミチリボウジガタッチョンドゥ、ナーチュルワラベー、ミミグスグス、ナーチュルワラベー、ミミグスグス(耳の切れた坊主が立ってるよ、泣いている童は耳をグスグス切られるよ。泣いてる童は耳グスグス「沖縄の童歌」)
 もう泣くことで恐怖を飛び越える力を持っていた子供の頃には戻れない、それに母も誰もいない。思考は横道へ横道へと逸れていった。しかし、怯えはあの半円の出口を探せと私の歩を進めさせた。
 突然、右手が滑ったかと思うと、横向きにつんのめり、光の白が両眼に充満した。それから、外に横たわる自分の体を見つけ出し、ぐらりと立ち上がり、白い街並みに見入った。
 今し方の不安は波に浚われる浜辺の足跡のように消え、満天の青が薄い墨で覆われてゆき、かまくらの家の入口の奥に淡く鈍い赤が現れた。街は墨汁を注いだかのように暗く、半円の入口だけが鈍い赤を宿していた。
 私は闇の一部となった。
 目を閉じれば、視線を逸らせば全てが闇となる、そのために、入口の鈍い赤と石像のように向かい合っている、あの闇の不安が私を立ち尽くさせている。
 蛇が這うような秘かな音が聞こえる。
「こっちは明るいですよ、暗闇は嫌いでしょう、ぽつんと立ってないで入りなさい」
 と、鈍い赤が女の声で囁いた。
 躊われたものの、外の闇への怯えが私の体を鈍い赤の中に放り込んだ。仰向けになった体を温もりが包み込んでゆく、足の指先から緩慢に確実に頭の方へ匍匐していく。あの蛇の這う音が耳に届く、血管が膨らみ、熱がそこに注ぎ込まれていゆくようである。鈍い赤の裸体の上を無数の透明のガラスの蛞蝓が蠢いている。蛞蝓は透き通る肌の中で突発的に青白い光を発し、放電した。その光と共に、私は発作のように快楽を感受する。それは一瞬よりも儚いものだが閃光のように満身を駆け巡る。脳髄へ針を一刺しされたようである。蛞蝓の群れは小さな稲妻をその肉の中で放ちながら私の肉体の上を這い、一つの波をなしていた。そして、この鈍い赤の室(むろ)を夥しい蛞蝓が満たし、空気はゼリー状になり蠕動し、この半球の室自体が一つの生き物となった。足元を見ると、そこから蛞蝓が次から次へと湧きだしていた。そして、私の肉体の間隙という間隙から中へ入り込んでいき、その蛞蝓の放電は快楽のバイブレイションとなり四肢を震わせ、治まったかと思うと痙攣が起こり、一本の棒のように硬直し、一匹の蛞蝓となった。すると、充満していた蛞蝓が一箇所に蝟集し、もう一匹の大きな蛞蝓となった。二匹の蛞蝓はぬめぬめとした粘膜を合わし、快楽の放電を間歇的に交互に発し、痙攣に漂う。その粘膜で包み込もうとしウロボロスの蛇となり相手を互いに貪り尽くそうと快楽の放電と充電を大きくしていく。敏感な粘膜と化した二匹の蛞蝓は縺れ合い、捩じれ、絡み合い、一本のロープとなり、そこから白い粘液がぶつぶつ吹き出し、萎縮しては白み、膨張しては赤らみ、青白い放電は快楽を伴いながら旋回し螺旋を描きながら肉を抉っていく。蛞蝓は反転昇降し、締めつけては緩み、二匹の蛞蝓は溶け合い一匹の蛞蝓となり再生した。半球の室の鈍い赤は強弱を示しながら、光を強めていた。それを吸い込みながら一つとなった蛞蝓は快楽を貪り喰い膨張してゆき、中では無数の放電が発された。それは快楽を拡散しているようだが、凝縮に凝縮され塊となり、その塊が加速し成長していっているのである。蛞蝓の粘膜は室の壁に圧えられ、暴発の半歩前で立ち止まり、快楽は恍惚になった。緊張した粘膜は激しい歯痛のような痛みに晒され、内なる恍惚を突き刺し、快楽と苦痛が頂点へと駆け登ってゆく。半球の形態となった蛞蝓は快楽と苦痛の埋み火は鈍い赤となり、幸福の極みに達し、自壊し渾沌の坩堝と化した。
 気が付くと、私は暁闇の外に横たわっていた。緩慢に白い町並みの半球の家が現れ、半円の入口は闇の眠りに隠れた。

   骨盤

 白い街を背に、一本しかない道を歩いて行くと、黄の紗のカーテンがオーロラのように空から垂れ下がっている所にぶつかった。黄色のサングラスを掛けられたようであった。爪先を入れると、その部分だけが黄色に変わった。毒ガスではないだろうかと思いながらも、入らねば前に進めないので、首を少し突っ込んでみた、何でもないので、何でもなさそうに入った。空気の粒子が黄色なのだと考えた、色など息さえできれば何でもいいのだった。周囲を見回すと、遠くにぴかぴか光るブリキの三角の屋根らしきものが見えた。そこを目指して歩いた。
 道から二百メートルほど奥に入った所にその家はあった。小さなバラックの体育館のように見えた。近づいて、入口を探して巡っていると、元の場所に戻ってしまっていた。三角柱の三角屋根の建物である。この家には入口がなかった。モニュメントなのだろうかとも考えたが、それにしては余りに陳腐である。誰も住めない家というものがあるのかと感心したが、念のために、もう一度扉を探して回った。扉はどこにもなかった。展覧会に陶器の水洗便器を出展したアーティストや三分何秒とかいって、演奏会でピアノの前で何もせず、沈黙が演奏だと言ったピアニスト、理屈だけの一回きりのパフォーマンスに白けた観衆の気持ちが分かるよな三角柱の家であった。しかし、家らしきものはここだけのようなのでそうですかと去って行くには不安で、考えあぐねている内に、黄色の粉雪がひらひら舞い降りてきて、冷たさだけを残し地に吸い込まれていく。
 三角屋根の軒下に身を隠し、壁に背を凭れて、菜の花の花弁のように降る雪を眺めた。冷たさと美しさが増してゆく。
 山小屋に現れた吹雪の中の雪女を思い出した。その息の香を吸い、凍死する妖かしさを思った。雪女の美しさは凍死した男の目の底に刻みつけられ、雪女は永遠にその眼球の中に閉じ込められるのです、男はこうして雪女を自分だけのものにしたのです。雪女は凍った眼球の透き通る湖の中で踊り続けるのです、その青白い妖艶を振り撒きながら。そして男の目が笑うのです。
 心なしか、私の背に温もりが壁から伝わってくる、そして、そこからゆっくりと壁の中にのめり込んで行くような気がした。それが現実となり、慌てふためいて体を引き抜こうとしても鋳型に嵌められたように身動きが取れなくなっていた。固いはずの壁がぐにゃっとしたように体は埋まってゆく。呑み込まれると、黄色、黄色、黄色の波の中にあり、重力は外に捨て去られ、私は漂っていた。そして、尻から吸い込まれ、すぽんと黄色から抜けて、尻餅を突いた。
 そこはオレンジの光に満ちていた。三角屋根の中は三角形の回り廊下があり三つの部屋があった。廊下を歩いていると、床から四、五十センチの所にダイヤの形の朱が見えた。触れると、そこだけが熱を帯び、微かな臭いがした、嫌な臭いではないが、心を妙に掻き立てるものであった。朱のダイヤを撫でていると、指を凄じい力で吸い込んだ。そして頭が全身が引き込まれ、床に転げ落ちた。だが、クッションの上にでも落ちたかのように痛みはなかった。
 その部屋には全裸の女がいたが闖入者に驚く素振りも見せず、笑みを浮かべていた。
「あなた、変な物は脱ぎなさい」
 少し嗄れた甘い声で囁いた。
 妖艶豊満な女で顔は少し崩した感じで色気がストレートに向かってくる。女は脱いだ服を汚なさそうに摘んで、壁に押しつけると、壁が呑み込んでいった。
「服は外に棄てたわよ」
 ここまで来てごらんと誘うので、足を踏みだすと、水の余り入ってないウォターベッドのように足を取られて倒れるしかなかった。そこへ女が跳びつき、抱きしめられ、愛の行為が始まった。変幻自在のテクニックの肉体のデモンストレイションであった。何もする余裕も間隙もなかった、ただこの女に任せておけば、快楽に導かれ肉体は痺れた。そして、休息が訪れる。女は疲れた様子もなく微笑んでいた。
「あなたは愛を知らない」
「なぜだ」
「顔を見ているからよ」
「それはいけないのか」
「幼稚なの、今に分かるわよ」と女は唇で私の口を閉じた。
 交わりが始まると女は小学一年の担任の万里子先生になっていた。
 乳も尻も一回り小さくなり、少し垂れていた。済みませんと呟くと、馬鹿な子だと叱った、しばらくして、顔を見ると、高校の一期上の薫子さんだった。嬉しくて、薫子さんにむしゃぶりついた。
「あなたは高三の時、生きていて済みませんとノートに書き残して、校舎の屋上から飛び下りたのではないですか」
「あなたは夢を潰してしまうリアリストだわ」 薫子は笑い、二人は絶頂に達した。
 再び肉欲が湧きだし、抱きついた。
 幼な馴じみの香穂ちゃんだ、顔は当時のままだったが、体は大人だった。一つ上の香穂ちゃんは増せていて何でも知っていて、甘い驚きを教えてくれた。それが小二の時に突然大阪へ引っ越した。雀のようなキスをしてはときめいていた。香穂ちゃんの体が、幼い体に、娘の体に、主婦の体へと変わっていった。会えなかった空白の充足であった。私はぐったりとなり、離れた。
「弱いのね」と、すくっと立ち、壁の方へと歩いてゆき、手招きをした。そして香穂ちゃんが壁を中指ですうっと縦になぞった。
 その場所に朱のダイヤが現れた。覗いてごらんと香穂ちゃんは白い歯を見せた。ホモセクシュアルとレズビアンの秘め事が演じられていた。香穂ちゃんは別のダイヤを作った。サドとマゾの激しい痛みを快楽に変える行為が営まれていた。第三のダイヤを作りこれが最後よと言った。スカトロジーの胸を突く、顔が張ち切れそうな快楽が充満していた。
 両手をダイヤから離し目を閉じると血の気がすうっと引いていった。
「気が弱いのね、あの人達はあなたと私より自由と幸せが多いだけなのよ」、と香穂ちゃんは私の耳朶を噛んだ。
 それに驚き、目を開けると、部屋は蛻もぬけの殻だった。耳鳴りのするような静けさが支配していた。
 波打つ床を歩いていると、角の方にほんのりとした桜色の豊かな骨盤があった。触れると、温もりがあり、それは今し方まで生きていたかのようであった。私はこの部屋に出口がないことを思い出し、ここで一人で過ごし、あの骨盤のように骨になるのかと考えると恐ろしくなり、骨盤に顔を押しつけて涙を零し、香穂ちゃんの温もりにしがみついた。
「出口はダイヤ」と啜り泣く声が聞こえた。
 私は坐り込んだまま、香穂ちゃんがしたように中指で壁を縦になぞった。すうっと朱のダイヤが浮かび上がった。私はそのダイヤを両手で力任せに開き、頭を捩じ込み、黄色の中に入り込んだ。
 外に抜け出ると、やはり外はいいよと都合のいいことを言っていた。
 それから二三メートル向こうの壁の下に服が落っこちていた。やはり裸で外は歩けないものだ。黄色の雪はすでに止んでいた。歩きながら、最初に現れた女は誰だったのだろうかと考えたが、思い出せなかった。

   紫陽花

 ブリキのぴかぴかの三角屋根だけの黄色の村を歩く。前を向いても黄、下を向いても上を向いても黄、横を向いても黄、菜の花、向日葵、蒲公英の黄。黄の中の一匹の金魚、外が見えますか、外に水はないのです、そこを跳び出たら、自分の重みで死ぬのです、黄の中に入ろうとしても戻れないのです。金魚は足と手が鰭になっているのに気づくのです。誰もが水槽の一匹の金魚です。井の中の蛙を笑う大海の鯨も、一匹の金魚です。とにかく歩こう、どこへと問わなくてもいい、ちょっとそこまでで、いつの間にか人は生まれたり消えたりするのだから。なぜにこんなに陽気なのか、不思議だ、きっとこの黄も少しは関係しているだろう。前方にアーチが見えた、城壁はない。だから、どこからでも通れるのだ、可笑しなことだ。だが、アーチには、「此の門を潜らずに、行く者なし」と刻まれていた。
 冗談にしては見事な御影石のアーチであり彫刻である。そんなことはないだろうと、アーチの外から入ると、陰鬱な黒く厚い雲が沸き起こり、風と雨が相争う嵐となり、稲妻の走る荒野となった。前に進むこともできずに引き返すしか術はなかった。そこから見る風景は黄色の穏やかな起伏ののどかな地であった。アーチの前に立ち、文字を読み直した。人間がいることは確かで、荒野ではなく紫陽花村と記されていた。入口から入るのが礼儀ということなのだと、アーチを潜ると、紫のマシュルームの形の家が静かな風景に点在していた。三四組のカップルが歩いていた。先頭のカップルにちょこんと頭を下げると、二人は驚いたような顔をして、男がいきなりにじり寄り、胸ぐらを掴み、顔を殴った。吹っ飛んで倒れると、男は女の所に行き、腕を組み、二人は嬉しそうに通り過ぎていった。他のカップルは自分のパートナーの顔しか目に入らぬらしく、この珍事にも全く反応しなかった。誰も手を差し延べてくれる者はいないと諦め、自分で立ち上がりズボンの尻を払った。馬鹿はどこにでもいると怒りを静めながら歩いた。マシュルームの家の前には紫陽花の植え込みがされていた。どの家もそうである。入口はそれぞれ好きな方角を向いていたが、円い覗き穴らしきものだけは通りの方を指していた。窓か通風口かは分からないが、それは屋根の下に三六〇度ぐるりと取り付けられているようだ。勿論、高い所にあるために、外など見ることはできない。カップルが歩いてくる、楽しそうに笑っている。知らない振りをして遣り過ごした、又、別のカップルが楽しいのか、その表情しか知らないのか、同じように過ぎていった。そして、気づいたのだが、どのカップルもペアールックであることだ。まるで鴛鴦の契りをそのままコピーしたようで、空々しく見えた。カップルが猿まねのように歩いてくる。面白くなさそうに睨むと、意に反して、カップルはとても嬉しそうな顔をしてマシュルームの家に入った。狐に摘まれたようであった。十人十色と言うが、ここでは十人一色で、他人のことなど興味が持てないのかもしれない。それにしてもへんちくりんな番つがい達である。
 そして、一軒の家の前を通りかかると、「あなた」と声がして、黒い帽子、黒いシャツ、黒いスラックスと黒づくめの女が息せき切らして駆けてきて、いきなり腕を掴み、「待っていたのよ」と顔をくしゃくしゃにして喜んだ。馴れ馴れしい仕種に驚いたものの、一日千秋の思いで待ち焦がれた恋人に出逢ったようなこの女の幸せそうな顔を見ると悪い気もしなかった。それに顔もそんなに悪くはなく、親しみを感じさせるものであった。どちらにしても、ここまで歓迎されると多少の欠点は帳消しになり、その気になることは間違いない。しかし、私には見覚えのない女であった。女は腕を引いてどんどん家の方へ歩いていく。ドアを開け、女と私が入ると、前の紫陽花の花の色が白から赤に変わった。それを見て、女は頬笑み、ドアを閉めた。
 家は二人を察知したかのように紫の光を発し明るくなった。女は黒の衣服を脱ぎ捨て、全裸になった。そして、ほっとしたのか、絨毯の上に胡座をかき、深く息を吸った。
「八日も一人でここにいたのよ、それに黒を身に着けなければ、外に出てはいけないのよ、上品な私にはそれは屈辱よ」と女は零した。
 このピントのずれた女を見た。スリムだが、付くべき所には申し分のない実がそれなりに具わっていた。それにしても、この女は何を考えているのかと思うと奇妙で、理解の範囲を越えていた。
「変な人ね、人の家に上がったら、服ぐらい脱ぎなさいよ、エチケットでしょう」と、女は怒った。
 そこまで言うのなら、脱いだ方がいいに決まっている、だが下心を見透かされてはいけないと気を付けたのだが、下半身は馬鹿正直に直立不動の姿勢を取っていた。顔が熱くなった。女は近寄ってきて、私を坐らせ、眉一つ動かさずに聞いた。
「ポイントはどこなの」
 まるで、お茶と紅茶、どちらになさいますと聞くかのように訊ねた。戸惑いながらも、凸を指した。
「ここだけ、まだまだね」と、女は自分の頭の天辺から爪先まで指し、凹を二度指した。
 据膳喰わぬは男の恥との教訓が頭の中でぐるんぐるん回りだした。この女は私に一目惚れしたと喜んではいるものの、恋は盲目をいいことに付け込んでいるのではと小さな良心が疼く、持てない気の弱い男の見本のようなものである。これでは、好きだけど愛せないのと告げる厚顔無恥な女の美辞麗句である。こんな大事な時に、へんちくりんな考えが我が物顔に飛び込んでくる。それでも我慢できずに
 『乳、胸、尻、凹』
 と呪文のように唱え、女の凹に突進し、我に返る頃には、女の手の平で転がされていた。喘ぐ女の囁きは聴覚を刺激して、更に激しくなる。このまま二人して消えてしまいたいと奇妙な昂りを感じていた。ぱたんと女が私の背中を叩き、その行為は終わりを告げた。そして、横向きになり私の顔を見つめながら喋りだした。愛しているという意の異なった表現の洪水であり、それ以外の言葉は一言もない。女はその愛を告げる言葉に敏感に反応し、それらの言葉と交歓しているのが見て取れた。そこには性交の後の冷めた虚しさを味わうという愚かな習性はなかった。女は愛の言葉を巧みに紡ぎ続け、愛の営みの曼陀羅を作り上げていた。それらは女にとって蝶のように軽やかに舞う飛翔であり、私にとっては鈍重に動く亀の歩みのようなものであった。
 女は囁くことを止めて、別の部屋に行き、赤のワンピースを着て出てきた。そして、私に赤いシャツと赤いズボンを着せて、腕を組みながらの散歩となった。女は笑みを絶やすことがなく、肩に頭を凭れ夢を見ているかのようである。しばらく散歩をしていると、黒づくめ女が寄ってきてウインクをした。すると、女は黒づくめの女の頬を二三度叩いた。黒づくめの女は私が動かないのを見ると気落ちして去っていった。女は再び腕組みをして、嬉しさの余りに顔が赤く上気していた。行き交うカップルのいずれも楽しそうな顔である。それから、一つのカップルの男が近づいてきて、顔を殴りつけた。その相手の女は男が離れると、顔色を変え泣きだしてマシュルームの家へ去った。男は手加減を知らなかった。このままでは体が持たないと思い、反撃に出た、五分と五分で決着は付かず、男が離れ女に手招きをしたが、女は動かなかった。それを見て、男は大きな叫び声を上げて去っていった。女は喜び首に両手を巻きつけてキスをした。胸に熱いものが込み上げ、充足感に浸っていた。女が前よりも一層綺麗に見えた。
 女は帰りましょうと踵を返した。どれもこれも相似のマシュルームの家で、見間違えてしまう。ただ、植え込みは紫陽花の色が白、赤、紫と違っていた。家に入ると、女はハミングしながら服を脱ぎ、仰向けになり、潤んだ目を覗かせた。愛していると言ったが、その言葉には馴染めそうにもなかった。交わって、交わって、交わった。
 女の愛の囁きも尽きたので、村のことを聞いた。女は驚いたかと思うと寂しい顔をして話してくれた。そして、女はシャツとズボンを私に着せた。
「短かったけれど、楽しかったわ。又、好きな人が現れるまで、ここで待つしかないわね、それまでの辛抱か」と、女は精一杯の笑顔を見せて、「さよなら」と言った。
 家の前の紫陽花の花が紫から赤へ、そして白へと変わった。
 歩きながら、女の話したことを反芻していた。この村のマシュルームの家は植物であり、男と女の営みを吸収して生きているのだと女は言った。食物はその中になる胞子だけで充分であり、排泄もその穴のある部屋で済ませて、後は根によって分解されるらしい。子供は村の奥にある生殖の年齢を終えた男女に引き取られ一人前の男と女になるまで育てられるとのことだった。そこには親などいう観念すらない。ここではマシュルームの家と紫陽花と人間が共生しているのだと言った。それを支えるのが、「愛」、それは男女の交わりだと断言した。しかし、そこにも止まることもできずに、こうしてマシュルームの家とカップルを何喰わぬ顔で横目で見ながら歩いている。

   夜鷹

 村外れまで来ると、二本の丸太が川に架かっていた。川の上には紫の霧が立ち込め向こう岸は見えなかった。丸太の上を這いながら前へ前と進んだ。頭の中にまで霧が侵入しぼうっとなり、時の感覚がぷつんと切れた。何を忘れたのかを、何かを必至に思い出そうとしたが、苦しくなるばかりであった。そうしていると、右手の支えがなくなり、前に転がった。
 夜の街があった。かつて住んでいたかのような懐かしさがあった。街はどこでも同じような顔をしている、鉄筋コンクリートのビルディングの林立、何百人もの人間を呑み込む大喰いの容器。そして、夜に近くなると、この容器から掃き出され小さな見窄らしい寝床へと返されるのである。妻や子が待っている、恋人が待っている、孤独が待っている。大通りには誰もいない、ビルが人間を拒絶する空白の夜が訪れる。それにも拘わらず懐かしいのである。
 二三キロ行くと、ネオン街にぶつかった。その路地で女に逢った、リサだと言った。彼女は娼婦であった。かつて、リサという娼婦がいた。その名の響きは一人残らず娼婦の源氏名のように聞こえた。リサは居酒屋へ連れてゆき、食事をさせてくれた。プロが作ったのは美味しのよと言い、煙草を吸った。それから、久しぶりの酒でかなりの量を飲んでいた。勘定は女がサインをするだけで済んだ。タクシーに乗り、女の住むマンションに向かった。互いに何も言わずじまいにそこに着き、女は足早にエレベーターの方へ歩き、ボタンを押すと早く来いと手を振った。そして、何階かの部屋に入った。
 いつ眠ったのか、目覚めると、陽光がベッドの上に差していた。寝室を出ると、ベランダで女が洗濯物を干していた。私が目に入ると、女はコーヒーとトーストがあるわと言った。ダイニングに行き、ポットからカップにコーヒーを入れて飲んだがかなり苦いコーヒーであった。酔い醒ましにはいいかもしれなかった。化粧を落とした素顔の女は清楚な感じがした。そこへ、女が洗濯物を片づけてやって来て、椅子に腰を下ろした。今言っておかないと気まずくなると思い、済まないけど、お金がないんだと詫びた。
「あなたの恰好を見れば分かることよ、どう見ても金持ちには見えないでしょう」と、女は意外な返事をした。それなら、どうしてここまで私を連れて来たのかが腑に落ちなかった。
「ショッピングに行きましょう」デパートに着くと、女は紳士服売り場に行き、次々と服を買った。金をばら蒔いて楽しんでいるように見えた。女は古いズボンとシャツの入った袋を処分してと売り子に手渡した。
「もう、あなたは違う人になったのよ」
 私は服の入った箱と袋を幾つも持ち、通りへと出た。女はタクシーのドライバーにトランクを開けてもらい、荷物を入れさせた。
 マンションの部屋に入ると、女は買ってきた服を着せ替え人形のように次々と着せては喜んだ。
「モデルが着ける服は、マネキンに着せた服と同じで温もりがないのよ、ちょっと不恰好な体型の男が着ると、服は踊るのよ」と専門家のようなことを言い、自分で頷き、満足しているようであった。そして、カレーを作るとキッチンに立った。なんだか、その後ろ姿を見ていると、意表を突かれた感じがした。作ったカレーを女は口にしなかった。ただ美味しかったかと訊ね、美味しかったと答えると、頬笑んで後片付けをして、部屋に入った。盛装をしてきた女はホテルに行くからと、一万円札を三枚渡して出ていった。昨夜逢ったばかりというのに、女は二年も三年も時を共にしたかのような信頼を見せた。不思議と不安が混じり、奇妙な心持ちになった。何も思い付かないときは酒を飲むに限る、下手の考え休むに似たりである。棚からブランデーを取り出して飲み、ソファーにごろんと横になり眠った。街に明かりが灯るころに、女は戻ってきて、食事はまだでしょうと寿司の折り詰めをテーブルの上に置いた。それから、すぐにバスに入り、一時間ほどしてパジャマの姿で出てきた。女はビールを冷蔵庫から出して、マッグに注ぎ旨そうに飲んだ。
「退屈も二人だと楽しいものね」話すことを見つけきれずに、私も風呂に入ってくるとぼそりと言った。
 浴槽に湯が満ち溢れだすのを待ち、中に入った。自分の体積が分だけ流れたのだとアルキメデスを真似てみたが、素っ裸で跳び出すほどの喜びは発見者のものだけであった。その水は排水口から下水道に流れ、街の地下を縦横に走る暗渠を経て海へ辿り着く。それは地上の人々の巨大な内蔵であった。見なくてもいいものを見たようで、奇妙な感じがした。ドアを開く音がして、入るわよ、と女が裸で二度目の風呂に入ってきた。
「二十年ぶりかしら、男の人と一緒にお風呂なんて、でも、弟だったから、男に入らないわね」
 二人で向かい合って浴槽の中にいた。女は手で水鉄砲を作り顔にかけ、あなたもやるのよとふざけた。その内に、女が両手で水を掛け出し、真顔で、参ったと言うのよと強制する。参ったと降参するしかない。すると、そうなのよ、そうなのよと両手で抱きしめた。なんにでも泣けるものねと女は身を離し、湯で顔を洗い、体を洗って上げると浴槽から引っぱり出した。女は私の体を丹念に洗うと、何を見ているのよと鼻を小突き、悪い子ねと出ていった。女よりは私の方が年上のはずだが、女はどうしても私を弟にしたいようである。浴室を出ると、女が鏡に向かいながらドライヤーで髪を乾かしていた。私はリヴィングに行きソファに坐り、リモコンでテレビを点けた。アイドルと呼ばれる少女が奇妙な色気を振り蒔いて下手な歌を歌っていた。それは見るものであった、だから、可愛くなくてはならない。ぶつぶつ言いながらも見入っていると、女が肩を叩いた。
「いい年をして何を見ているのよ、変な人ね、寝るわよ」
「ここで寝るから、いいよ」
「分からない人ね、一人で眠るのは寂しいのよ、そんなことも知らないの」
 私は女と共に寝室へ行き、ベッドに入った。女は私の手を握ったまま、目を閉じ、何を緊張しているのよ、昨夜のように眠ればいいのと言った。しかし、私は寝つけなかった。女は眠り、いい夢でも見ているのか、笑っているように見えた。微睡に、羊水に漂う男女の二卵双生児が見えた。それは私と女であることが分かった。皮膚は透き通り、心臓の動きが見えた。二人は沈黙の会話で笑い、泣き、共振していた。一緒になろうよと描くと、女は×印を見せた。?を続けると、母さんは一人なのよと観音様が浮かんだ。二人は三角の家から流れ、海の中にいた。双頭の人魚となり遊泳していたが、疲れて洞窟で休んでいると、地響きがして、大きな岩が落ちてきて入口を塞いだ。永い闇の時の内に、女は阿古屋貝になり、私は小さな一粒の石片となり、その中に入り込んだ。深い深い眠りに私は安らぎを覚えていた。
 翌朝、女はすでに起きて、朝食を作っていた。私は服を着て、キッチンに行き、女を後ろから抱きしめて、男と女のキスをした。
 女は青い顔をして、体を硬直させた。私は出て行くしかなかった。 

   少女

 マンションを出ると、太陽が夏を燃やし秋へと移る日々を縮めていた。それは身を焦がす蛍に映った。いつの日か燃え尽きてしまう人間の永遠というものの丸い具象であった。それは肉体の快楽の遙か彼方に不変の愛を、女は見ていた、又、娼婦として生きて行くことをも意味していた。女はあれか、これかに生きていた。黄昏の街から離れた立派な建造物を誇る郊外に出た。あちらこちらのお屋敷に明かりが灯り始めていた。坂道を、取り乱したセーラー服の中学生が登ってきた、足元もおぼつかなく茫然と歩いていた。少女は私を見つけると、あなた、と強い口調で呼んだ。
「どうしたのですか」
「負ぶうのよ」少女は当然のように背負われると、自分の家を指図し、野良犬に咬まれたのよと軽蔑を冷静に吐き棄てるように言った。
「何か喋りなさい、退屈だわ」と、少女はぽこんと頭を叩いた。
「何を喋るのですか、お嬢さん」
「頭が悪いのね、仕様がないわ、お歌でも歌いなさい」
 赤とんぼを歌うと、湿っぽい歌と、少女は声を出して笑った。そして、大きなお屋敷の門のブザーを押させ、少女が自分の名を言うと、扉は開き、負ぶわれたままで玄関に入った。お手伝いが迎えに来た。
「この人、私の家庭教師にしたから、お部屋に案内するわ」と、少女は靴を脱がさせた。
 少女は背負われたままで、肩を叩き、前に進めと手を伸ばした。小さなホテルには十分になる広い家であった。三番目の部屋を通りかかると、ここが君の部屋だと言い、背中から降り、後で来るからとぷいっと消えた。中はまさにホテルに一室であった、バス・トイレ付きである。しかし、長くは住めそうにない無表情な部屋である。ベッドの上で横になった、寛ぐには一番いい姿勢だ。ノックの音がして、お手伝いの女が食事を運んできて、テーブルの上に置いた。
「又、取りに来るのも面倒ですから、ここで待たせて頂きます」と、女は椅子に坐った。食事を取る私を、昆虫採集箱の甲虫を見る理科の教師のような冷めた好奇心で眺め、そして、何かを思い起こしたのか、顔を赤らめた。食べ終わると、女は器を片付け、にこりと笑い引き上げた。一人になると、満腹感は眠りへと変わった。
「起きなさい」とコバルトブルーのドレスを着た少女が肩を揺すった。そして、白い学生服のような服を渡し、バスルームに人指し指を向けた。着替えて出てくると、少女は別人のようだわと私の手を取り、ワルツを踊り、テーブルに着いた。
「私の名前は可子、十四歳、あなたの名前は八一、私の見つけた付き人よ、分かって」
 中二の少女にしては大人の言葉を使い熟なし、その言葉に閉じ籠もろうとしているかのようにも見えた。しかし、その言葉で考えることを知り、それに反応する鋭敏で早熟な頭を持っていた。十四歳の自分の体を、少女の言葉は意に介してなかった。
「八一、ドレスを脱がせなさい、レディは脱がされるものよ」と、少女は命じた。「次は、ベッドまで抱き上げて行くのよ」
 少女はベッドの上で仰向けになり、目を閉じた。中学の頃、隣の同級生の女の子が風呂に入るのを覗いた。一目見て逃げだしたが、同級生の裸は目に焼きついていた。いつも顔を合せる度に、その裸が浮かんでは顔を赤くした。少女の裸はあの同級生の裸体を思わせた。しかし、あの頃の異性の体に痺れるような興奮はなかったが、蕾のような体を前にした私は年の差に禁忌の昂りを覚えていた。
「あなた、その年で童貞ではないんでしょう、臆することなどないのよ、しっかりなさい」と、少女は目を閉じたまま言った。
 あなたは十四歳なのですよと呟きながらも、まだ熟するには早い華奢な体を貪っていた。少女の呻きは短距離走を終えたばかりの激しい息使いのようであった。
「セックスはどうでしたか」と、少女は紅潮した顔で訊ねた。「よかったです」「それは礼儀として、言っているのですか、それとも本心ですか」「本心です」幼稚な質問だと頭を掠めるのを見抜いたのか、少女は早口で喋りだした。
「男の人に歓びを与えられるかが大切なのです、つまり、この女は私の手中にあり、完全に支配されている、或いは、征服されたと思わせるのが肝心なのです。この女が口では何と言おうが、自分の手にかかればたわいもなく官能に溺れてしまうのだと信じ込ませることです。私は旧帝大のバッジを付けた富と地位のある人と見合いをして結婚するのです。その人との愛は先ほど言ったもので、手に取ることのできる確かなものです、私は女としてそれを具えなければならないのです。後は、その環境、舞台でそれなりの役を熟なすだけです。それ以外の愛と呼ばれるものはゲームです、フィクションです、楽しいコントです。いいですか、愛は抽象です、ですから、形で捉えなければ見えないのです、それがセックスです、セルモニーです。この儀式を私は男の人と契約する前にマスターするのです。それを、あなたは愛と呼べば納得しますか、それとも怒りますか」と、少女は笑い、部屋から出ていった。
 十四歳の肉体とアンビバランスなロジックは甘いエロスを漂わせた。そこに私は言葉のロープに雁字搦みにされた少女の被虐的な青い裸体を見ていた。そのような解釈は弁解のようで、それを紡ぐ思考の回転は鈍り眠りを誘った。
 お手伝いの女がレモンティをお持ちしましたと、私を揺り起こし、ベッドの縁に坐り、あたしが飲ませますから、『そのままでいいのよ』とにこりとした。女はレモンティを口に含み、赤い唇を合わせ、私に飲ませた。その冷たい液体は胃の中で熱となり体が火照り、高揚と強烈な性欲を齎した。
「三十分間だけ愛して下さい」と、女は服を脱ぎ捨て絡みついてきた。
 朦朧とした意識に刺すように肉の痙攣の痛みと歓びが凹から凸に移動した。肉のジェットコースターは夜空の見えぬ満月への軌道を疾走し、恐怖と歓喜の嗚咽が不規則に沸き起こる。それは肉体の消耗を強いたが、抗しきれない快楽の渦の前ではブレーキなど効かなかった。二人は振り落とされるように果てた。女は陸に打ち上げられた鯉のように喘いでいた。私は非道い二日酔いのように頭がずきずき疼いた。二人の肉体が二本の箸のように横たわっていた。ピッピッピと女の腕時計が場違いな音を出した。すると、女は疲れなど置き忘れたかのように起き上がり、手際よく衣服を着けた。
「もう、御用は済みましたわね」と、女はコップとコースターを片手に済まし顔で出ていった。
 遅い朝食をお手伝いの女が持ってきて、少女と共に食べた。女は眠たそうだが頬笑みながら二人を眺めていた。二人の女性に昨晩のことを暗黙の内に咎められているようで気まずい思いが祟った。
「そろそろ帰ります」と、席を立った。
 少女がキスをした。そして、玄関から出ようとすると、
「もう一人、お忘れでしょう」と、少女はお手伝いを顎で指した。
 お手伝いは近寄ってきて、遠慮しなくともいいのよ、私はこれでも可子の母さんなのだからと囁き、両頬にキスをして、さよならと思い切り私の凸を握った。
 二人は玄関の前に立ち、又、会いましょうよ、と笑った。

  女族

 坂道を下り、しばらくすると小さな居酒屋が軒を連ねていた、四五軒はあった。赤い大きな提灯がアンティークにぶら下がっている。懐かしい仄かな明かりで寂しげな温もりのある赤だ。中からは羽目を外そうと必至にもがいている嬌声や笑い声が聞こえてくる。そこを通り過ごそうとすると、後ろから女の声がして振り向くと、時間はありますかとOLふうの女が聞く。苦笑して、時間はありますが、先立つものはありませんと小声で答えた。
「そんなことは構いませんよ、一人では入れないんで、困っていたところなんです、では一緒に入りましょう」と、女が手を取り暖簾を潜った。
 三人の女性だけのテーブルがひっそりと浮いていた。そこに、女と私は坐った。三人の女性は喚声を上げ、冷やかしと歓迎のエールを送った。早速、大ジョッキのビールが四つ運ばれてきた。
「乾杯しましょう、乾杯。乾杯。ミズホの彼に乾杯」
 ジョッキがぶつかり、旨い、最高、快感などとビールへの讃辞が飛び交った。きっと、このような讃辞を同性に向けることはないだろう。しかし、ただ一つの例外がある、結婚式のスピーチである。その時ばかりは、たとえ憎かろうが、砂の一粒の美徳を探してでも最大限に拡大して褒め讃える。こんなことが人の一生の内に一度はあってもいいはずだとの万人の暗黙了解の祝福の椀飯振舞いである。きっとこの四人のOLはまだその祝福に浴してないに違いない。そうでなければ、二十代中半と思われる女性が四人揃って酒をこれほど楽しもうとは思わないだろう。四人の女性が乾杯に次ぐ乾杯で、それぞれに遠慮なしに喋り出した。
「もっといい男だったら、良かったのに。いいわよ、ないよりは。なんでもありって言うことなの。僻んでるぞ、こいつ。私の彼は左向き。誰だって、そうだわよ。ズボンの作りがそうなっているんだから。右利きが多いからでしょう。男がいるといいわ、そうでなきゃ、こんな所で飲めますか。一人で、お部屋でやけ酒。美的じゃないわよ。寂しさに負けたってか。演歌ってか、鈍臭いわね」
 四人の女性は機関銃のように喋り、笑った。
 頃合いを見計らい、幹事らしい女性が時計を見た。
「そろそろお開きね、今日はミズホのお手柄で、残りの三人で当分、さあ、献金、献金」と勘定を払い店を出ると、私はミズホと同居人の女性の二人と行くことになり、後の二人は明日の晩にねとはしゃいで帰っていった。
 瑞穂が、この子はミサ、と紹介した。二人はアパートへ連れて行くのだと笑う。
 十四五分ほど歩くと、コンクリートの平屋が二十数軒並ぶかつての米人住宅地に着いた。そこに住む米軍統治下の特権階級のアメリカ人は祖国復帰を境に殆どが本国へ帰った。
 ミズホがその中の一つのドアの鍵を開け、嬉しそうに入った。ミズホはビールと言い、ソファに坐り、ミサも坐った。
「もう、身内のようなものだから、遠慮しないでね」と、ミサはからから笑った。
 缶ビールを三つ冷蔵庫から持ってきて、一つずつ取るようにと差し出した。ビールを飲み干したところで、ミズホが私に向かって、シン君、シャワーを取ってらっしゃい、キレイ、キレイにしましょうとウィンクをした。
「シンちゃんか、いい名前だわ。でも、ミズホ、早く済ませてよ、待つ身は辛いからね、ぱっぱっとね」と、ミサは缶ビールを片手に自分の部屋に消えた。
「シン君、私の部屋のドアは開けとくからね、お部屋を間違えないでよ」と、ミズホが言った。
 シャワーの音がシン、シン、シンと呼んでいるように聞こえた。どんなものにも名があり、なければ付ける、そうしなければ落ちつかない、社会の習性だ。ミズホが勝手にくれた名前だが、堂々と呼ばれるとその気になるから奇妙なものである。出逢いから全てが始まるという若さの自由があるのだ。そんなどうでもいいことが、気になるのは老いた証拠なのである。
 ドアの開いた部屋に入った。ベッドサイドテーブルの赤のミニランプが点いていた。ブランケットを剥ぐと、エアロビックスでシェイプアップされ筋肉の付いたミズホの裸体がその均整を誇示していた。瑞穂が両手を開いて誘った。襲いかかった。汗まみれになりグレコローマンスタイルのレスリングをベッドの上で繰り広げているかのようであった、ミズホの体はよく撓(し)なり、動きを休めようとはしなかった。快楽という餌を求める飢えた獣である。ミズホの体は敏捷に反応し呻き声を上げる。それに釣られ、二人は激しさを増しピークに達した。ミズホはごろんと大の字になり小刻みに四肢を震わせた。激しいミズホの息使いがとても艶めかしく耳に響いていた。終わったばかりというのに、欲情は沸き起こるばかりだった。それはミズホの魅力であった。
 突然、激しくドアが叩かれた。
「シン君、ミズホ、随分遅いじゃないの」と、ミサが怒鳴った。
「ミサがぷんぷん怒っている、喰い物の怨みより凄まじいのよ、早く行って、隣の部屋よ」と、ミズホはトランクスを拾っ放った。
 私は隣の部屋に着くまでに、ミズホとのセックスも顔も余韻もどこかに飛び去ってしまっていた。思い出そうとすると、テレビや映画の美人女優の姿だけが浮かんでくるだけであった。どういう訳か、忍び足でミサの部屋に入っていた。
 インド香を焚いた匂いが部屋には満ちていた。厚いカーテンが懸かっているのだろう、中は真っ暗であり、臭覚だけが刺激され葬式とヒンドゥーの神々を連想した。怖さと美しい夜叉に喰われたいとの肉欲が起こってくるのだった。
「シン君、ここ、こっちよ」と、ミサの小さな声がする。目隠しされたように声のする方へ行くと、ベッドに当たり、そのまま倒れた。柔かく温い体に胸が触れた。
「慌てないで、逃げはしないわ」群盲が象を撫でるのは味気ないものだろうが、一人の目の見えぬ者が初めての女性の体を撫でるのはときめくものである。
 一番の神秘で不可解であり、快楽(けらく)という具現、それは凹で、熱く、柔らかく、ぬめり、ずぶりと中に入り、どこまで行っても底がない。呻き声が、インド香の匂いが、溶けだし、自分とミサとの肉体の一線が消えてゆく。ロートレアモンの呟きが聞こえる、解剖台の上でミシンと蝙蝠傘とがはからずも落ち合ったように、美しい。そして、醜い。声をミサの顔と置き換えながら激しく唸りを上げる。巻きついたミサの手が背中を掻きむしる。午前十一時にセットされたジュピターの曲がステレオから流れ、目を醒ました。居間に行くと、テーブルの上に服が畳まれていた。それに、メモがあった。

 シン君へ、お目覚め、いい夜でしたね。
 午後五時半、マミとカンナ(昨晩会った、二人のお友達)が迎えにきます、よろしくね。
 ファイト!
 ミズホとミサより

 服を着け、冷蔵庫からオレンジジュースを出して、飲んだ。会社での四人の仕事ぶりを想像した、クールで妙に連帯感のあるOL。女同士でこんなに仲がいいのなら、主婦となるのは夢の中の夢だ。しかし、このままいてはこの四人に骨と皮にされ路上に捨て去られるのではとの安達ケ原の鬼婆伝説を思い出し、私はそこから逃げ出した。

   母子像

 米人住宅街の芝生の庭を越えると、アスファルトのコールタールの臭いがする道が続き、次は両側にごった返したアメリカンバーが立ち並ぶ。ペンキが剥げ落ち僅かに残った看板の絵とアルファベッドは昔の賑わいを偲ぶかつての老女となったホステスの脱け殻であった。彼女等はここから立ち去り、ミサ、ミズホ、マミ、カンナのような女たちにバトンを渡した。
 通りから横道に入った所に公園らしきものが見えた。ガジマルを囲むようにベンチが四つ置かれていた。その一つには老人がステッキを片手に眠り込んでいた。その右隣のベンチには赤ん坊を乳母車に乗せた三十五六の白い帽子を被った女が肩の凝りそうな婦人雑誌を読んでいた。私はその隣のベンチに坐った。涼しい風が通り過ぎる、いいお日和ですねと頭の中で呟いた。ガジマルは集う人々の憩う緑葉のパラソルであった。そこへ一匹の野良犬がだるそうに歩いてきて、ガジマルの根に小便を引っかけた。女は雑誌から目を離し、呆れ顔で一瞥して、再び雑誌を読み始めた。
「しっ、しっ、しっ、あっちへ行きなさい」と、女の小さな声がした。
 犬が女の足元の臭いを嗅いでいる。慌てた様子をするのを躊いながらも困っているようであった。私はそこへ行き、犬の頭をこつんと拳で叩いた。犬は何だろうかときょとんとした目玉を覗かせ、だるそうに離れて行った。
「有り難うございました」と、女は頭を下げた。ベンチに戻り、再び漫然とガジマルの木を見ていた。
「あのう、宜しければ、お茶でもいかがですか、家が近いんですの」
 退屈凌ぎにはいいと立ち上がり、乳母車を押した。眠った子供は重たいんですのよと、女は横になって歩いた。
 他人が見たら親子ってとこだ。
 赤ん坊、虎もこれを襲わず、終日泣いても、疲れず、と耳の大きな老人、老子は讃えた。
 新築の住宅に入った、まずは赤ん坊をベビーベッドの中に移した。
「お茶をどうぞ」と、女は黒砂糖と一緒に出した。
「サンピン(香片)ですね」「ええ、主人はジャスミンが好きですの」
 女のご主人は単身赴任で八重山に行き、半年に一度、子供に会いに来るだけだと言う。そうでもしなければ家のローンが払えないらしく、今度来るのは正月とのことだった。それから、沈黙があり、息苦しく感ぜられた。
「召し上がって下さい、それから、ベビーベッドを押してきて下さいな」と女は立ち上がり歩きだした。
 黒砂糖を一欠片を口に放り、ベビーベッドを押して、女の後を付いていった。入ったのは子供部屋で玩具が箱から溢れ出していた。そして、奥の壁に沿ってセミダブルのマットが置かれていた。
 女は寝室では眠らず、いつもこの部屋で休んでいるものと思えた。女はマットに腰を下ろした。
「あなたは優しい、子供がよく眠れるようにしてくれた。私は寂しいの」と、女は真昼の光の中で服を脱ぎ始めていた。
 ベビーベッドでは赤ん坊が眠っていた。女は私が近づくのを知ると、床に敷かれたマットの上に横たわった。長い愛撫は日照りの慈雨のように女の孤閨を潤し、寝言のように譫言をぽつりぽつり零していた。
「あなた、あなたが、現地妻など作るから、こうなったの、春彦も元気。愛しているの、愛しているの」
 女の口から漏れる言葉に聞き耳を立てる自分が情けなくも愚鈍に見えた。その反動で凹に突入し揺さ振りをかけた。禁断の実は一番甘く、崩れかけた赤い果実は必至にもがいていた。
「どうしましょう、ミルクの時間よ」
 女は私の肩を両手で押し退けてすくっと起き上がり、哺乳ビンにポットから湯を注ぎ、白湯を入れ、ミルクを加え、二振りし、頬に当て、赤ん坊に吸わせた。満腹になると赤ん坊は吸い口を口から離し、けろりと眠った。哺乳ビンを取り上げると、女は小走りで来て、ごろんと横になり、目を閉じて膝を立てて開いた。むしゃむしゃと狼を喰う赤頭巾の鮮明な画像が浮かび上がった。喰われるのを思うと、新たな肉欲が沸々と沸き起こり、再び挑んでいた。女の譫言が激しくなり、すぽっと思考が抜け落ちて、凹と凸が激しく動いていき、それ以外の肉体は存在しないかのように希薄となり、ふわっと体が浮遊し、全てが空白に近づいてゆく。
「シッコ、オシッコだわ、オムツを換えて上げなくちゃ」
 女はしゃあしゃあと体を離して、出ていった。凸は凹から見放されきょとんと虚空を突くオリベスクとなり、どたりと崩れさった。
「お尻をキレイ、キレイにしましょうね」と、女はひょいっと赤ん坊を抱き上げてバスルームへ連れて行った。
 一人だけ蚊帳の外で取り残された私は服を探して着ると、ベビーベッドを押してリビングに戻った。真っ裸の女が真っ裸の赤ん坊を抱いてどたりとソファに坐った。人間の裸を美しいと再認識させたのはルネサンスだった。砕けた所のない、あまりに明るい肉体だ。壁に飾るにはいい、だが、物差しで測ったようで面白味がない、色気がないのである。『ソファに坐る母と子』
「どうして服を着たの、せっかちなのね」と、女はオムツを換えて、ベビーベッドで眠らせ、向きを変えて近づいてきて、服を脱がし始めた。
「失礼ではないですか、一人だけ服を着るなんて」と、女はソファに横たわった。
 女は優雅に網に懸かるを極楽トンボを待ち受ける女郎蜘蛛である、艶めかしい口が裂け、術中に陥り、私はぜんまい仕掛けの玩具のように動きだす。赤ん坊がベビーベッドの柵を掴んで立ちはしゃいでいる。お母さん、見ていますよと頭を過(よぎ)るのだが、ぜんまいが切れるまで止まらないのがこの最も古い玩具の特徴である。泣く女よりも泣かぬ男が身を焦がす。疾駆する自分の身が雄々しくて惨めに思えるのも奇妙なものである。
「そうよ、そうでなければいけないことだわ」と笑顔を作り、女はモンローウォークで浴室に去った。女の弾んだ鼻唄が聞こえ、赤ん坊はそれに合わして満身ではしゃいだ。女はバスタオルを体に巻きつけて戻ってきた。私は急いで服を着た、何度も雨天中止となる試合は一試合だけでいい。
「ペパロニ、ペパロニのピザが食べたくなくて、オーダーして下さらない」
 電話をすると、若い女の子がマニュアル通りに注文を取り十五分後には届くとのことであった。性欲はこの女性の頭脳によって食欲に変換されていた。あの色気のあった同一の女性がただのおばさんに見事に変身していた。お金を渡され、私がピザを受け取り、代金を支払い、テーブルの上に置くと、ビールもお願いしていいかしらと言った。女は持ってきたビールでピザを流し込み、むしゃむしゃと三分の二を食べ尽くした。しかし、最後の一切れは、女性の嗜みで、残すと勿体ないから食べてねと勧めた。その一切れが私の口に入るのを見届けると、女性は眠気を催したようでうとうとしたかと思うと、するするとソファの背持たれから器用にずり落ちて横になり眠ってしまった。赤ん坊も退屈したのか眠ってしまった。女性のバスタオルが解けて、大事な場所が露になった。いつ見ても奇妙で不思議な形であり、神秘なものだと思う。それでも、あまり見せる所ではないので、寝室からブランケットを持ってきて、掛けてやった。もうここは赤ん坊と母の部屋であった。女は弱し、されど母は強しとどこかのお姫様の台詞を呟きながら、家を出た。

   老若

 家を出たはいいが精力使い過ぎで疲労困憊し、ガジマルの公園まで辿り着くのもやっとのことで、そこで一休みする羽目になった。老人は同じベンチで同じように午睡を楽しんでいた。
 麗らかな日和、眠るには丁度いいと老人の横のベンチにごろりと眠りの仲間入りをした。サンニン(月桃)の匂いがする。サンニンの森の小径をどんどん歩いていた。この森から抜け出ることはできないよ、できないよとの声が聞こえてくる。気を紛らわそうとサンニンの花を口に含み時々鳴らすのだが、不安は増し、いつの間にか走っていた。どこまで行ってもサンニンの濃い緑の葉が覆い被さってくる、押し潰されそうな匂いの重みが攻めてくる。もう走れませんと地に伏すと、そのまま人事不省に陥った。
「もう起きろよ、起きろよ」
 あちこちのサンニンの根元から聞こえてきた。サンニンの森の奥深くに一際も二際も大きなガジマルの木が一本聳えていた。そして黄色い声の主も分かった。
 赤い髪を肩まで垂らした三十センチほどの木の精、キジムナーであった。どれもこれも同じ顔つきで男女の判別が付きがたい中性のように思われた。その中の一人が話しかけてきた。
「お前は十一回目の満月でやっとこの里に迷い込んできた人間だ、一人前の男だ。そこで頼みがある。我々の姫が村の若者に恋をして、赤い血を流して眠り続けている。いいかい、姫は五百年に一度しか生まれないのだ。その姫が赤い血を流せば次の姫を生まなければならぬ、それができなければ、我々は木の内なる世界に帰ることも、再び木の叉から生まれることもできない。不幸なことに、姫が血を流せば、眠りの中で我々の三倍、人間の少女の大きさになり、姫を再び目覚めさせることのできるのは人間の男の野蛮な力、生殖能力に頼るしかないのだ。もし、お前が我々の頼みを聞いてくれるのなら、このサンニンの森から再び人間の世界に戻して上げよう、その道はこの里の住人、お前達がキジムナー呼んでいる者にしか見えない。このガジマルの気の裏に回れ、そこに洞があり、姫が眠っている、行け」
 裏に回り、洞の中に入った。髪の赤い少女がサンニンの花と葉に包まれて眠っていた。本当に起きないのだろうかと腕を思い切り抓てみたが、ぴくりともしない。だが死んではいない、呼吸もし、温もりもある。汚れを知らぬ淡い水彩で描かれた少女のようであった。気が引けてなかなか手が出せない、強姦を思い出させた、そんな嗜好も、ロリータの趣味もない、色気がない、清らかすぎるのだ。水清ければ、魚住まずだ。情欲の充血した目にも何かの方便で神々の一人が少女の形をとったのだと思われた。しかし、このサンニンの森に居続けることなどできはしない、そうでなければ、私はサンニンの夥しい花とその匂いの森の中で独りで静かに発狂するしかないことは自明のことと思われた。狐か蛇の化身だと思え、そうだ、その少女の凹だけを見ろ、凹に美醜貴賤もない、お前は一個の凸に過ぎないのだ、狼狽えるな。少女に被さるサンニンの花と葉を払い、その足を拡げ、凹を見た、凸は頭の思惑とは裏腹にいきり立った。目を閉じた闇のなかで、こんなものです、こんなものですと交わり続ける、時が重くなり緩慢に流れてゆく。
「もういいよ」と隠れんぼの鬼の耳には聞こえた。
 その声に縋るように目を開けると、少女が起き上がり、何をされていたのか気づかないかのように澄んだ声で、ありがとう、と言った。私はちょこんと頭を下げて、洞を出ると、キジムナー達が笑っていた。
「サンニンの花の向いた方へ辿って行けば人間の住む場所へ着くだろう」
 その声が途切れた刹那にキジムナーも大きなガジマルの木も消えてしまった。
 私は怖くなり、サンニンの花を道標に駆けだした。
「兄さん、兄さん、日も暮れたよ、物騒だ、起きなさい、起きなさい」
 はっとして起き上がると、朦朧とした視界にステッキを片手に、にこやかな顔をした老人が現れた、あの坐りながら器用に眠っていた老人だった。
「いい夢でも見ていたようだね、若い内はいい、色々な夢を見るからな。年をとると、そうは行かないんだ、夢の中でも惚けているんだよ、面白いものだ。これは一番大事なことだが、飯は喰ったかね」「まだです」「一緒に喰おうよ」と、老人はステッキを突きながら歩きだした、なかなかの健脚であった。
 場末の盛り場に着くと、老人はすでに決めていたらしく、すぐに「宝寿司」に入り、板前さんに、二人前握ってくれと声を掛け、カウンターに坐った。「歯が弱くなると、寿司がいいね」「そうですか」と、相槌を打ち寿司を頬張った。
 老人はお土産にと折り詰めを二つ注文し、それを左手にぶら下げて、嬉しそうに店を出た。それから、二十メートルほど行った所にあるストリップ劇場に入った。
 チケット売りの男は頬笑んで軽く頭を下げて中に入れてくれた。ステージには原色の光が差し、その中で踊り子が衣装を一枚ずつ脱いでいた。老人は販売機から缶ビール二つ買って来てくれと五百円玉を二枚渡した。戻ってくると、老人はエプロンの脇に坐ってかぶりついていた。ビールを開けて渡すと、にこりとして、これを見ながら飲むのが楽しみなのだと言った。全裸になった踊り子がエプロンを回り、老人を見つけると歩みを止めて悩ましく踊り、おじいさんのお友達なのとウィンクをして、体を揺すりながら屈むとぱこんと両足を開いた。
「照れるな、見て上げんと失礼だぞ」と、老人は叱った。
 それではと正直にしげしげと見入った。いつ見ても摩訶不思議な不思議な形象だ。足は閉じられ、踊り子は立ち上がり、舞台の裾にバックステップで軽やかに消えた。
「いいものを拝んだね、初日の出よりいいね」と笑い、「楽屋に行くから」と老人は席を立った。
 派手な舞台とは程遠い粗末で小さな楽屋はぷうんと甘い脂粉の匂いが鼻を突いた。ショウは休憩に入ったらしく、五人の踊り子はガウンを羽織っただけで、鏡を前に化粧をしている者、煙草を吸っている者、立て膝で花札をしている者、色々である。仕事が嫌いでなくとも、一段落すると嬉しいものだ。
 鏡に向かった年長の者が、おじいちゃん、いらっしゃいと言うと、踊り子達が一斉に楽屋口に向き、挨拶をした。老人は右手を少し上げ、差し入れだと折りを二つ置いた。まだ十代に見える頑是なさの残る踊り子が二つの折りを開けて車座の中央に置いた。
「遠慮しないでいいわよ、一つはカナちゃんのものなのよ、私たちはおまけで頂いているのだから、それでも、嬉しいのよ」と、乳房の大きい踊り子が言った。カナはその一つを引き寄せ摘み、それから、残りの踊り子達も頬張った。
「おじいちゃん、帰ろう」と、寿司を平らげたカナは満足気に言った。
 三人で劇場を出て、夜の散歩と洒落ながら老人のアパートへと向かった。
「この人は私の友達だ、カナ。今日、出逢ったんだ」
「じゃあ、私のお友達ね、仲良くしましょう」
 一階の右端の部屋に入った。二DKの小綺麗な部屋だった。老人が畳に坐ると、カナがテーブルを出してきて、酒の支度をした。老人は早く酔いたいのかぐいぐいと飲んだ。一方、カナは太るからとちびちびと泡盛を舐めるだけである。老人は薄い頭を二三度撫で上げた。
「じいちゃんの話が始まる、頭を撫でたでしょう、それが癖なのよ」と、カナが面白そうに告げた。
「いいかね、あなたは愛というものを考えたことがあるかね。私は定年の一年前まで考えたことがなかった。こう見えても、私は銀行員である町の支店長だったんだよ。三人の子供も大学まで行かせた。ところが、ある日を境に自分が今まで生きてきたことに疑問を持つようになった。女房は大病を患い、死ぬと思ったんだろうね、昔の話をした。十八の時、一度だけ過ちを犯したと言う。相手は旧制高校の学生さんで、学徒出陣に行く前夜のことだった。その人はサイパンで玉砕した。私はその日から酒を飲むようになった、だが妻を一所懸命に看病もした。幸いに、妻は回復し元気になった。私は家を妻の名義にして、長男夫婦を一緒に住まわせ、家を出た。私には処女でなかったことが許せなかった、そんな自分は何者だろうと思った。それでも妻をどうしても愛せないんだ。そして、家を出た」
「じいちゃんは本当に非道い人だわ」と、カナが笑った。
「そうだ」と、老人は呟き、安心したようにテーブルの上の両手に頭を凭れて眠った。
「お兄ちゃん、じいちゃんをそおっと持つのよ、隣のお部屋に、そおっとよ」と、急にしっかりしたカナが指図した。老人を寝かせると、カナが明かりを消し、静かに襖を閉めた。そして、ひょいっと向きを変え、にこりとして、ダイニングに行き、赤ワインとワイングラスを持ってきた。カナはワインの詮を抜かせ、自分の手にしたグラスに注がせ、一口飲んだ。
「赤は情熱の色、薔薇の色、愛の色、君の瞳に僕が映る、もう僕は君の虜、」
 映画のラブシーンの男の台詞だろうが、真剣なのか、冗談なのか分からず、顔を見れば笑いそうなので、俯いて泡盛を飲んだ。
「飲みすぎたの、お兄ちゃん」
「いや、ちょっと考えてた」
「くよくよするなよ、飲もう」と、カナはワインを飲み干し、グラスにワインを注いだ。カナはグラスに映る自分の顔をうっとりした目で見入り、小指を立てた手で唇へと運んだ。踊り子になる人は真面目なナルシストでなければなれないだろうが、カナを見て、私は笑いを堪えるのに必至なのである。
「じいちゃんは寂しいのよ、今でも奥さんを愛しているわ。でも、支店長だったかは疑問よ、そんなにお金持ちには見えないもの。そんなことはどうでもいいのよ、今のじいちゃんが好きだから。じいちゃんには守って上げる人が必要なの。じいちゃんは嘘つきなの、でも好きなの。三年前、逢った時にね、私と寝ようとしたけど、できなかったの。きっと、奥さんに悪いと思っているのね、奥さんを愛する人はいい人なのよ。それから、じいちゃんと私は子供と母さんの関係なのよ。ああ言葉は疲れるわ」カナはテーブルを片付け、踊り出し、朗らかにリズミカルに服を一枚、一枚と脱ぎ捨てていった。そして最後の一枚を放ると、ぱたんと倒れた。
「私は心は寂しくないの、でも体が寂しいの、お兄ちゃんはじいちゃんが選んでくれた人、だから、抱いてよ」と、カナは泣きだしそうな声で呟いた。
 ストリップ劇場で見るカナは多くの客の一人として見る水族館の人魚なのだが、一つの部屋で一人と一人となると、美しさの中に情欲の埋もれ火を見つけだすのである。テレビで眺めるだけの女優と今は二人きりで居るという千載一遇のチャンス…。カナに被さり、その肉を貪り尽くす満身の行為となる。カナの体は全てにおいて私の肉体を圧倒し、溶けた。男女の肉の塊がうねり、その熱が沸騰点を目指して、一人歩きをする。これでも死なないのだからと呻きながら、泥のように眠っていた。
「兄さん、兄さん、起きなさい」と、老人が肩を揺すった。横を向くと、カナが真っ裸でおおらかに眠っていた。それから、自分も真っ裸であることに気づき、慌てて服を着てバスルームで顔を洗った。昨夜のことは老人には悪いと思ったものの、なぜか罪悪感のようなものがなかった。
 ダイニングに行くと、お早うと老人が笑った。午前十一時、よく眠ったものだと、我ながら恥ずかしくなった。
「フレンチトースト、野菜サラダ、ミルク、簡素な健康食です、長生きしますよ」と、老人は手を合わし、食べ始めた。信心のない私はすぐ食べるのが習慣だが、なにもしないのも悪いと思い、ちょこんと頭を下げて頂いた。
「カナが君に話しただろう、カナはね、どうしても私を妻に追い出された、可哀相な金のないじいさんにしたいらしいんだ。カナはね、現金と貴金属しか信じないんだ。だから、株券や預金も信じない。カナのお金はここのどこかに隠されているんだ、おかしな子だ。そして、買うのは金のネックレスか指輪だ。他の宝石には見向きもしないんだ。それでも、カナの生きていくための知恵なんだ。天は二物を与えずで、カナは小学六年生ぐらいの頭で十分だと、それ以上は与えなかった。カナの母親は亡くなる時に言ったそうだよ、お前は頭が悪い、だから、あなたの可愛い体を使いなさい、それだけでも、生きて行けるからとね。カナはね、頭の不足をあの嘘のつけない心で補っているんだ、だから、同僚に可愛がられ、誰も彼女を利用しようなんて思わない。在るとすれば、本当の極悪人さ、こいつには普通の人でも敵わないんだから、その時は諦めるしかないけがね。カナはね、お前の母さんは素晴らしい人だったねと言うと、わんわん泣いた。あっ、もうこの話はよそう、カナが起きたらしい」
 目を擦りながら、カナは今にもお漏らししそうな子のように小走りでバスルームに向かった。老人はそれを頬笑みながら、煙草に火を点け、柔和な顔になり吸った。カナはシャワーを浴びたらしく、まだ乾かぬ長い髪をタオルで拭きながらやってきた。
「カナ、お客さんの前で裸か、何か着けなさい」
「違いますよ、この人はもう身内よ、裸でもいいのよ、じいちゃんが嫌なら、じいちゃんが取ってくるべきでしょう」と、カナは楽しそうに椅子に坐った。老人は席から立ち、ガウンを持ってきて、カナに着せた。
「ストリッパーに服を着せたがるのよ、変人よね」と、カナは口を尖らせた。
「変な知恵ばかり付いて、本当に困ってしまうよ」
「じいちゃん、覗いた、ちょっと襖を開けておいたの。じいちゃんはインポだから、サービスしたのよ」と、カナはくすくす笑った。「カナはブスだから、孫みたいに思えてインポになるんだ、他の女の人とは充分に役立つんですけどね」
「こういうのって、へらずくち、って言うんでしょう。じいちゃんにメガネを買って上げるね、こんな美人がブスに見えるって、可哀相だから」二人の会話は途切れることもなく、何をいっても毒にはならぬ配慮を保っていた。私はこの遣り取りになぜか一抹の郷愁を覚えていた。それは忘れ去ろうとしたものだった。
「帰ります」と、私は老人とカナに告げた。
   鬼

 朝は容赦なく訪れる。
 日曜日を除けば、晩ともなると、手ぐすね引いて待ち構えていた愚妻に夜の勤行と明け方まで。
 愚妻はトドのように横たわりたわわな脂肪の太股をタオルケットから食み出させて眠りこけている。それに鼾までかいている。
 愚妻は醜女で太っている。
 同衾などとても出来そうにも思えないのだが、抱きつかれると愚妻の姿は忽ち消えて、様々な女が、私の欲した女が現れて夜伽をしてくれるのだ。そして私は我を忘れて憑かれたようにこの肥満の脂肪の塊を相手に昏睡するまで交わり続けるのだ。
 私は琉球王朝の時代から続く満願寺の婿養子で山の修業の後に初めて目にした女が見合いでの愚妻であった。
 その時の摩耶の姿は天女で、その声は迦陵頻伽(かりょうびんが)の囀りで、観音菩薩の化身のように思われて、その場で一目惚れしてしまったのだ。
 逃げ出したいといつも娑婆を夢想していた永平寺の修業の時代の方が懐かしく、年甲斐もなく目頭が熱くなる。
 安達ケ原の鬼婆なら、法力で退散させることもできるのだが、こいつは同じ鬼婆でも妻という鬼婆。家事の一切はお手伝いさんがやってくれるのだが、私の食事だけは漢方の薬剤師でもある愚妻が特別に拵えてくれる。痩せてはいるものの極めて健康で、風邪を引いたことも一度もない。八人の子供の母という鬼婆……、手の施しようが無い。

『ギャーテイ、ギャーテイ、ハラソウギャテイ、ボージーソワカー』
 私は般若心経を唱えていた。
       

桃花源記

眠る前に秘伝の飲み薬をくれる、すると耽美な夢を見る。
目覚めるとトドのように妻が眠っている。

桃花源記

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted