アノニマス

アノニマス

プロローグ 「円卓」

20XX年 7月25日 18:55 大阪府中央区 某ビル18F


「三井さん、あなたが決めて下さい」

広く薄暗い部屋の中央に大きな円卓があり、いかにもクセのありそうな厳つい風貌の男達が、濃く濾しすぎたコーヒーを一気に飲んでしまった時のような苦々しい表情で向き合って座っている。
その部屋の薄暗さと相まって、解決不可能な深刻さを醸し出している雰囲気の中であったが、その内の一人はこう切り出した。

「私どもはこの件について管轄は致しますが、現場で実際に指揮をとって頂くのはあなたですので」

その男はこう付け加え、円卓の反対側に座っているこれまたいかにもクセのありそうな男の方を直視した。

「そうですね、やはり実際に現場を仕切って頂くのですから、私もその方がよいと考えます」

「散々話し合いましたが中々まとまりませんしね....最終的な決断はあなたに委ねますよ、三井さん」

一人の男が沈黙を破ったことに触発されたのか、
残りの男達が矢継ぎ早に口火を切り始めた。
この男達の辞書には「責任感」という三文字の日本語はどうやら存在しないらしいことが判明したようだ。
一切の人間的なあたたかさだけを排除した凍てつくような張りつめた空気が、ただでさえ薄暗いこの部屋の陰湿な雰囲気を異質なものに変えていっていたが、
この無責任な男達の視線はその中で最も厳つくクセのありそうな一人の男に向けられた。

「三井さん、あなたが決めて下さい」

その男の名はどうやら三井というらしい。
彼が街を歩いていればすぐに見つけることができるであろうといった特徴を持つ男である。
右目には縦方向にかけて走った傷があり、年のせいにしてはしわの多い顔をしている。
だが、どう見ても老人には見えない。
苦労の多い経験をして来たのであろうか?
ボサボサの髪は全て真っ白で、ところどころがまるでスパイキーヘアのように逆立っている。
身長は高くもなく低くもなさそうだが、中々立派な太い腹をしていて、俗に言うメタボ体質というものに見えなくもないが、
半袖のクールビズから覗かせている筋肉質でこれまた立派な両腕がその可能性を否定している。
この三井という男は、かなり深刻な決断を迫られている最中のようで、
うつむきながら、ただでさえ特徴のある顔にさらにしわを寄せて手元にあるタッチパネルの液晶ディスプレイを眺め、深い熟考をしている。
ディスプレイには何人もの若い青年の顔が映し出されており、年齢から学歴から職業に至るまで、ありとあらゆる個人のデータを閲覧することが可能であるようだが、この常識では考えられない膨大な量の個人情報が三井を悩ませている主な種であるようだ。

「やはり優秀な人材でないと勤まらないのではないですかね?学歴を基準にすれば良い気もしますけどね。少しは信憑性がありますよ」

「いや、最近の若者には頭でっかちで実務では使い者にならない人材が多いとも聞きますよ。体育会系はどうですか?彼らは部活で優秀な功績を残しておりますので、多少頭が回らなくても弱音を吐くことは少ないでしょう」

「頭がよく回る若者であれば、少し悪びれた素行の悪い者も以外に良いかもしれません。俗に言う不良ですよ。....あっ今ではDQN と呼ぶんでしたっけ?
言うことを聞かないというリスクはありますが、彼らの適応能力は目を見張るものがありますよ」

相手に決断を委ねておきながら、次々と自らの先入観に基づく身勝手な注文を寄越す男達の主張は、裏づけなど皆無で何の信憑性も説得力もなく、薄暗い陰湿なその部屋に空しく響き渡るだけであったが、
三井はそんな無責任で投げやりな他の男達のことを、まるでその空間に存在しない無機質なモノであるかのように、気にも留めずパッチパネルを凝視し続けて
岩石のような堅い熟考をやめる気配がまるでなかった。

そんな中、隣のビルが明かりをつけたのか、カーテンの隙間から薄暗い部屋にも少しずつ光がさし始め、男達のやり取りを部屋の片隅から見守る不思議な細いシルエットの影が現れ始めた。
その影の正体は、どうやらこの凍てついた異質な空間にはおおよそ場違いであるようで女性用のファッション雑誌に登場しそうな人気モデルさながらの綺麗な形をしている。
そう、女だ。ただし、身長はあまり高くないようで、標準的な日本人の女といった印象である。
しかし、その可能性は彼女のモデルさながらの綺麗なシルエットを見れば一瞬で薄れてしまう。
なぜなら単純に見て日本人では到底あり得ないカラダをしているのが一目で分かるからだ。
これ以上ない細身な体型は、本当に臓器が全て揃っているのかということを疑わせるほどで、なにより、その体型に対してあまりにも不釣り合いで大きなバストである。
胸だ。男が女を見るときはまず胸であると認識している不埒な輩は多数派だと憶え聞くが、彼女のそれはまさに世の不埒な多数派の男が追い求めるそれであるようである。
髪はセミロングで真っ直ぐなストレートヘアをしている。
彼女は決して動じることもなく落ち着いているようで、
横から見るとちょうど漢字の「女」の形で壁にもたれ掛かって、冷静に事の成り行きを観察している。この場違いな一人の若い女が見守る中、
三井はようやくため息混じりに口を開き始めた。

「この青年にしましょう」

男達はこの三井の唐突で完全に予想外な答えに戸惑い、動揺し始めたようだ。

「三井さん、あなた正気ですか?」
始めに口火を切った男が言う。

「ちょっとそれは流石に....ねぇみなさん?」

「三井さん、もう少し考えられた方が....」

再び三井に対して無責任な注文が投げつけられ始めたが、
この伊達男は全く動じる様子もなくこう切り返した。

「あなた方は先程、私に決めろと仰ったではありませんか。私の結論がこれであります。異論があるならば、この件に関する最終決定権が誰にあるのかという点について再度、私ども全員で話し合いますか?」

決定打である。
まるでパンチの応酬を受けていたボクサーがカウンターパンチを繰り出して
相手にクリーンヒットさせた時のように、
その場の全員は黙り込み、それ以上何も言えなくなってしまった。

「分かりました。ではその方向で話を進めましょう。
 三井さん、まずは作戦Aを実行して下さい。
 万一失敗した場合は私どもの方で立案した作戦Bに移行致します」

「ええ、承知しております」

このやり取りを終始眺めていた、
綺麗なシルエットの女はその瞬間、何かを理解したかのように何も言わずその薄暗い部屋の扉を開けて、男達を尻目に外に出て行ってしまった。
部屋を出ると長い廊下が階段に向かって伸びておりその中央にはエレベーターがある。
女はかけ足気味にエレベーターのところまで行くと「下」のボタンを押した。
すると、すぐにエレベーターが止まっている階を示す光は移動を始めたが、
二階上の二十階で一度止まってしまったようだ。
誰かがそこで乗り込んでいることはどうやら明白であるようで、
女は軽くため息をついた後、さらに向こう側にある階段の方を向くと、
風のようにそちら側へ走り去って行ってしまった。


「あれ?誰も乗って来ないな....まぁいいか」

そんな声が廊下に軽くこだました後、エレベーターの位置を示す光はさらに下の階に向けて移動を始めた。
光の移動テンポを見る限りこのエレベーターの速度はかなり速いようである。
あっという間に一階に到着したエレベーターの扉が開いて中にいる男が外に出ようとすると、突然、横から金髪のストレートヘアの女が現れた。

「うわっ、何っ!?危なっ!!」

女と衝突してしまうのは明らかで、どうしようもない声を漏らすしかない男であったが、
金髪の女は軽く右にサイドステップを踏むと軽々と男をかわして、そのまま出口に向かってさっさと走って行ってしまった。

「ア...ゴメナサイッ..ワタシ...イソギアル....」

かなり不自然な日本語であったが男は気にもとめなかった。
いや、そんなことを気にする余裕がなかったと言うべきであろうか。

「どこの会社だろう?...外人?...随分と可愛らしいのがいるもんだ.....」



ビルの外はかなり賑わっており、浴衣姿の女と手を繋ぎながら歩く平凡な男達や学生らしい若者たち、小学生くらいの子供を連れている母親達など、
あらゆる層の人間で埋め尽くされていた。
そんな雑踏の中を、ストレートヘアの女が様々な姿の障害物達を華麗にかわしながら風のように駆け抜けて行く。
ただでさえ目立つ金髪をなびかせながらさっさと過ぎ去って行く綺麗なシルエットは、ただの涼しい夜のそよ風のような親切なものではなく、
どうやら、その場にいた若い平凡な男達を振り返らせるには十分な威力をもっているようで、浴衣姿の女達は今日のバディを自分の方に引っ張り寄せなくてはならなかった。

「ちょっと...今日、天神祭りやから来たのにっ....」

「ん?そうやで。何でちょっと怒っとるん?」

そんな今日という日の為に特別に結成された二人組の男女のやり取りが聞こえた後、大きな爆発音が聞こえて、多彩な火花をかき集めた見事な華が上がった。

第一幕 「過去からの呼び声」

20XX年 9月7日 17:15 大阪府寝屋川市


「涼しくなってきたな....」

夏の終わりを告げるような、初秋のそよ風を感じるようになり始めたある日、優二はため息まじりにそう呟いた。
八月を過ぎると何かに急かされているような寂しい気分になる。
そんな、何とも表現しにくい誰かに後ろから引っ張られるような不思議な感覚に毎年悩まされるが、
今は普段通り実家の周りで愛犬の散歩をしている最中であった。

「あっ、こらっ!そこにションベンすんなっ!」

愛犬が何とも間抜けな顔をしながら粗相をした場所は近所にある小学校の正門であった。
優二の、一応の母校である。

「お前は知らんかもしれんけど、
ここの警備員はな、うっさい奴なんやで....元から汚ねぇ学校なんやけどな」

一応の母校をこき下ろすようにチラリと見た後、優二は愛犬の方を凝視して、こう言った。
愛犬は相変わらず人なつっこい顔をしながら何食わぬ顔をしていたが、彼の少年期はどうやらあまり充実していなかったらしいことが伺える。
優二は他にも何か言いたそうなな顔をしていたが、 愛犬のリードを引っ張り実家の方に引き返して行った。

(そういやぁ、あのクソども今頃どうしとるんやろう?)

そんな自分以外の人間を全て否定しているかのような言葉を心の中で呟きながら歩いていた時、
優二はボロボロの自転車に乗った奇妙な女とすれ違った。
髪は背中辺りまで伸びていて、お世辞にも綺麗とは言えそうにない。
着ている服は何日も着替えていないのではないかと疑わせる程のものであり、
顔にはアザのようなものがあって、それを隠す為にマフラーのようなものを巻いている。
そのお世辞にも綺麗だとは言えない顔は、なぜか優二の方を一瞬だけ見て、何かを心配しているような悲しい表情をしていたが、
彼には全く身に覚えのない女であった。

(何やろ?あの陰気そうな女。同い年くらい...いや、多分もっと上だな)

自分のことを棚に上げて、
そんなことを考えながら実家に帰ると、バッタリと父親に出くわした。

「あれ?親父、今日は帰ってくんの早いな」

「今日は残業がなかったからな」

そんな、どこの家庭にもありそうなやり取りをした後、見た目が全く瓜二つなこの二人は少し早い夕食に向かった。
母は祖母の介護の都合で田舎に帰っている時で、優二はあらかじめ用意しておいた夕食を電子レンジで温めて
父親と二人でTVを見ながら食べ始めた。

- 安全保全法案が可決されましたが、街の反応はどうでしょうか? -

そんなアナウンサーの声がTVから独り言のように聞こえてきた時、
無言で飯を食うのも不味いと思った優二はこう切り出した。

「これ、明らかに戦争法案だよね。アメリカに頼まれて作ったんやって」

「ん?そうか?」

「知らないの?」

相手の知らないことに対して、自分の知識をひけらかすのが優二のいつものやり方であった。
それは例え、常識では逆らうことが許されない、自分の父親に対しても同様である。


「もうすぐ経済崩壊が起こるから、日本も戦争できるようにさせられたんやってさ」

「また、Mr.三井の話か?疲れているんだ。勘弁してくれよ」

「陰謀論じゃないよ。日本はデフレからは絶対に脱却できへん。だから後は崩壊するしかないんやって」

「ったく...佐藤主相は統率教会、津波は人口地震、ユダヤ人がどうとかの次は世界大戦か?
 それよりも再就職先は見つかったのか?」

それらは全て優二の趣味であった。
半年前に営業職として一年間勤めていた会社を退職し、世間で言うニートになった今は友人もおらず
部屋に引き籠って世界情勢や陰謀論の本を読みあさる生活を送っていた。
唯一の特技は英語と射撃で、
前者は先日、GOEICという試験で900点を取った程度の実力であり、
後者については大学三年の時に警察から許可をもらい、なけなしのバイト代で愛銃を購入したが、
弾代が高く、あまり撃ちに行く機会に恵まれなかった。
しかし、腕前は中々のもので、射撃場に行くと毎回、年配の愛好家達を唸らせる程の腕を持ち合わせている。
そんな一般的な日本人の若者とは若干かけ離れた世界を持つ優二は
夕飯を食す度に父親に余計な心配をかけて困らせていた。


「この間、GPに履歴書を送っといたんやけど、まだ返事が来ないんよ」

「GP?...あー、ジェネラル・プリンセスか。あの新しくできた会社だろ?」

「出版社だよ。ちょっとは英語に関わる仕事がしたいから....」

「それよりも、友達はいないのか?一人で引き籠ってても、ふさぎ込むだけだぞ.... ほら、あのコはどうしてるんだ?よくウチに遊びに来ていた.....」

「あぁ、南野のこと?あいつどうしてるんやろう?中学のときまでは一緒に遊んだりしとったけど
 今は何してるのかさっぱり」

「そうか。この間、お母さんが話してたけど、谷渕くん...かな?あの昔、少し悪かったコ」

「ん?誰?そんな奴いたっけ?」

「ほら、お前もよくケンカしてたじゃないか。あのコなんかもう結婚していて子供もいるって。
 あんなに悪びれていたのに、今は随分と立派になったって...みんな言っているらしいぞ」

「.........」

「お前も早く自立しないとな。この間行った精神科医の先生も言っていただろう?
 いい大人になれないぞって」

今の自分が持つ最も痛い弱点を突かれた優二は、
内心では反論することができていても、実際にそれを口に出すことはできなかった。

「もう飯いいわ。寝る」

そう言い残すと、優二はそそくさとリビングから出ていき、二階にある自分の部屋へと戻って行ってしまった。

「そうか」

たったそれだけのことを自分の息子に対して軽く言ってやると、
優二の父親は、特に何かを気にすることもなくそのままTVで流れているニュースのほうに視線を移したが、
彼も同様に父親のことなど気にも留めず、自分が今最も心地よく感じることができる空間へとさっさと逃げて行った。

しっかりと憶えていた。
暗記力が良い優二は、たった十年ほど前の出来事を今でも鮮明に、まるで昨日のことのように再生することが可能であったのだ。
「谷渕」は当時のいじめの主犯格で、俗に言うDQNな奴。
「南野」とは南野貴志という名の男で、優二の幼き日の親友であり戦友であった。
そしてなにより、彼の記憶の中心には一人のストレートヘアの女がいた。
そんな今ではどうでも良くなってしまったことを考えながら自分の部屋に戻った優二は、
小学生の頃から何も変わっていない学習机に向かい、そこに置いてあるノートパソコンを起動した。
やることは決まっている。オンライン英会話で外人の「おねぇちゃん」と文字通り英会話をするのである。

“Hello,Yuzi-san How are you doing today? ”
 (こんにちは、ゆうじさん。ご機嫌いかがですか?)

パソコンの向こうでいつも相手をしてくれているストレートヘアの綺麗な女が現れる。髪の色は金髪だ。

“Well...pretty good.”
 (いつも通りだよ。)

そんな英語の初歩的な挨拶をお互いに交わした後、
いつもと変わらない英会話の授業をしていたが、しばらくすると、
そのストレートヘアの女がそれまでと少し違った話題を振ってきた。


“By the way,You are a bit shy,Why?”
(あなた、少し恥ずかしがりやね。何でなの?)

優二は不意を突かれて一瞬戸惑ったが、そう自分に尋ねてきた女の顔が少し魅力的に見えてしまったので、本音で答えることにした。


“Ah....It's just my character,but I was a bit bullied when I was a child.”
(あぁ...単に俺の性格なんだけどね......まぁ子供の頃に少しいじめられてね)


そう答えると、その魅力的なストレートヘアの女は少し、はにかんだような笑顔を見せてこう返してきた。

“ Me too,....We have similar experience in the past.”
   (私もですよ。似ていますね。私たちって)

優二はその瞬間、嬉しさとも興奮とも言えない形容しづらい懐かしく甘酸っぱい感覚に襲われたが、
残念ながら一コマ三十分程度の安上がりなオンライン英会話はそこで終わりの時間を迎えたようだ。

“Yuzi-san,Thank you for joining my lesson today,I'm glad to meet you again and really enjoyed our time. see you soon,Bye-bye.”
(ゆうじさん、ご利用ありがとうございます。またお会いできて嬉しかったです。またのご利用をお待ちしておりますね)


唯一の話し相手であり、一瞬で優二の童心をかすめ取って行ったその魅力的な女は、
そう言い残すとただの何もないピクセルの集合体へと変わっていってしまった。
一日の中で最も楽しみにしている時間が過ぎ去った後、優二は次のお楽しみに移る。

- 経済崩壊は近い!目覚めよ日本人! アメリカによる支配から脱却する時が来たのだ! -

パソコンの中でそう叫んでいるのは巷で有名な陰謀論者Mr.三井だ。
優二の中で彼の言葉は絶大な影響力を持ち、それは外の世界においても同じで、
大学生の時に彼の著書に出会い、そのことを話すと一瞬にして友人が一人もいなくなってしまう程の絶大な破壊力を持っていた。
そんな優二の中で最強の人物は直接会ったこともないのに、
彼の話をするとフェードアウトしていってしまうような薄い付き合いの友人達より、自分にとって不思議と親近感の沸く人物であった。

- 理由もなくドルが上がっている....おかしいと思いませんか?みなさん -

そんな、パソコンから聞こえてくるMr.三井の言葉を聞きながら、だんだんと眠くなってきた優二は
机に突っ伏して目を閉じ、金髪の女のことを考えていた。

(文法通りのキレイな英語....薄化粧やったなぁ....可愛い...あんなんが彼女やったらなぁ....)

気が付くと意識は遠のいていき、そのまま脳の電源をシャットダウンしていった。

第二幕 「予期せぬ再会」

20XX年 9月8日 9:34 大阪府寝屋川市


「たまには撃ちに行くかぁ.....」

唯一の楽しみを最大限満喫した翌日、
優二は、ぼやくように独り言を言うと、身支度を始めた。
今日は約一か月ぶりに射撃場に行って愛銃を「使用」することにした。
弾代が高く、中々発砲する機会に恵まれなかった愛銃だが、年に何度か発砲しておかないと免許を維持することができないからだ。
銃規制の厳しい日本では発砲する方が大変だと思われがちだが、不思議なことに、発砲した回数が少ないと「眠り銃」として扱われてしまい、
「撃たないのに何で持っているの?」という話になってしまう。

身支度を整えた優二は部屋の片隅に置いてあるロッカーから愛銃を取り出した。

< ミクロMSS-20 >

それがこの銃の名らしい。ライフルのような形をした散弾銃で、 「スラグ弾」という一発弾を使用する、いわば狙撃銃だ。
国産の高い命中精度を誇る銃だが、既に生産ラインは閉じており、現在手に入れるのは至難の業だが、
優二が今、射撃場に持っていく為に大事そうにケースに入れているそれは
愛想の悪い銃砲店の店主と良い関係を築き上げた優二の営業スキルと地道な努力による賜物であった。
普段通りの間抜け面でしっぽを振る愛犬の頭を軽く撫でてやり、玄関の鍵をしっかりと閉めた後、
実家の外に出た優二は、目の前をボロボロの自転車がゆっくりと通り過ぎるのを目にする。

(あっ.....あれ昨日の女や。よう見るなぁ)

そう心の中で呟いた瞬間、自転車の後輪リフレクター辺りに手書きの汚い文字で
ひらがなの名前が書かれているのを見た。

      ------ は や し ---------

(っ!!!!!!!?)

優二は一瞬、死神が急に現れて自分に死刑を宣告していったような感覚に襲われる。
「はやし」の三文字は二十四年分の優二のちんけな検索エンジンにはたった一人しかいない。
細身なカラダに小さな顔。そしてクリクリの大きな目と流れるようなストレートヘア......

(えっ....嘘ぉ!?...はやしさんっ!?...いやっ...んな訳っ....ぇえっ!?)

よく分からない黒人のプロボクサーから不意打ちを受けたような衝撃と、
懐かしい恥ずかしさの間にかすかな嬉しさがあって、金縛りにあったように動けなくなってしまった優二だが、
今日は射撃場に行くという目的で出かけたことを思い出し、挙動不審な動きをやり始めた。

(あっ...今日は射撃場に..でもはやしさん!?..人違い!?..いや...えっ!?...嘘やろぉ!?)

幸運なことに一般的な日本人の通勤時間はとっくに過ぎており、辺りには一人もいなかったが、
もし誰かがそこに居たなら、覚醒剤か何かを間違って大量に摂取した不審者と間違われて確実に通報されていただろう。
酸素を求めて水面で口をパクパクさせている魚のような優二の顔は、結局、はやしさんとおぼしき女の方を再度見たが
彼女がこぐボロボロの自転車は十字路で、左へと曲がって行ってしまった。

(あの、はやしさん!?....ちょっ...まっ...嘘やぁ...)

「林まりな」、その女の名前は優二の検索エンジンにおいて常にランキング一位に躍り出ており、
彼の中で永遠のマドンナであった。恐らく、どこかのイケメンと結婚していて子供の一人くらいはいるに違いない。
そんなことを考えていたので、彼にはつい今しがた見た光景を受け入れることなど、到底不可能だった。


      <   パチンコ 750cc    >
              (ナナハン)

優二は、気が付くと大きな看板のあるパチンコ店の前にいた。
結局、ボロボロの自転車に乗った女の跡をつけてしまっていたのだ。
「はやし」とひらがなで名前が書かれた、ボロボロの自転車が置いてある。
どうやら彼女は、この広いパチンコホールの中に消えて行ってしまったようだ。
妙な胸騒ぎを覚えながら、優二も店の中へと潜り込んで行く。
「パチンコ750cc」....優二は業界最大手のこの名前をよく知っている。
このパチンコチェーンの大株主は、東証一部上場企業で、今や誰もが知る大企業、「キングコング・グループ」。
優二が営業職として約一年務めた後、退職した因縁の会社だ。
彼が「キングコング・グループ」を退職したのには、ある“事情”があったのだが、
それは同時に彼が、今、目撃している光景を人生最悪な気分の悪いものにさせるには十分な可能性を秘めていた。


(おい...ぉぃぉぃおいぃぃっ....まじかよ林さん、ここは相当やばいところやでぇ....)

ただの小学校の同級生で、あまり話したこともないこちらが一方的に好意を寄せていただけであろう初恋のマドンナ......
今、優二が考えを巡らせて危惧しているようなことは全てお節介を通り越して、ただの変態的な感情に思えないこともないが、
そんなことは今の彼にはどうでもいいことだった。
得体の知れない胸騒ぎを覚えながら「林まりな」の姿を探していると、
優二はホールスタッフとおぼしき派手な色の制服を着た男とすれ違う。

      --パチンコ750cc寝屋川店 店長--
       -------盧 正泰--------

その男の名札にはそう書いてあるが、読み方の見当がつかない。

(ノ.....?.....何て読むねん?アレ)

背がかなり高く、特徴のある顔をしている。
きつめのパーマがかかった髪が長く、
誰かを嘲笑っているようなニヤけた不気味な顔.....
そんなことを思いながら、男とすれ違った優二だが、これまでにない妙な胸騒ぎがして、そのニヤけた男の方を振り返ってしまう。

(あっ!林さんっ!!)

優二が振り返ると、そのニヤけた男と林まりなが何やら話をしているようだったが、
何を話しているのか予想を立てる暇もなく、二人は店の隅へ歩いていき、そこにある扉を開け、奥へと消えて行ってしまった....。
耳をつんざくような騒音の中、優二も二人を追い、その扉の方へ走って行く。
扉には、「スタッフ以外の立ち入りをお断り致します」と、はっきり書いてあったが、そんなことよりも「林まりな」のことで頭がいっぱいであった。
優二が扉を開けると、中は細長い廊下になっていて、左右に二つずつと、奥のぶち当たりに一つ、狭そうな部屋がある。
中に入ると真っ暗で、ホールの騒音はほとんど聞こえなくなったが、そんなことよりも、まず目に入ってきたのが一番奥のぶち当たりにある一室である。
扉が少し開いていて、室内の明かりが外に漏れている。
優二が恐るおそる近付いてみると、その部屋の中から何やら人の声が聞こえてくる。

(えっ....何してんねんやろう?)

左右に二つずつある部屋の一つ目辺りに来た、次の瞬間、優二は凍り付いた。

「ぁあっ...はっ....はぁぁんっ.....」

女の喘ぎ声だ。

先程、つい数十分前に実家を出てから目撃してきた到底信じられない事象の全てが、まるでジグソーパズルのようにかみ合い、
優二の中に、ドクロのような、地獄から蘇って来た悪魔のような、最高に気分の悪い絵が完成してしまった。

初恋の相手であり、優二の中で最強に美しかったマドンナ「林まりな」は、つまり...........

「こらぁ!ここで何しとんじゃぁあっ!!われぇぇえっ!!!!!」

優二が今までの人生で最も気分の悪い光景を噛み締めていた最中、
突然、男の怒号がしたかと思うと、
左にある扉が勢いよく開き、中から派手なスーツを着たいかにもな、その筋の「おにいさん」が三人出て来てしまった。

(ぇえっ!?...ちょっ..なっ..嘘やんっ..はぁぁあ!?何これぇぇえっ!?)

         *

その時、「パチンコ750cc 寝屋川店」の入口に群青色のセダン車が停まり、中から綺麗なシルエットの女が舞い降りた。

第三幕 Shall we dance?

20XX年 9月8日 10:15 大阪府寝屋川市


「何しとんじゃって聞いとんじゃあ!われぇぇぇえっ!!」

(うわっ......うわぁぁぁあっ!!やっべぇぇぇえっ!!!!)

予想外の展開に、うろたえることしかできない優二。
本当なら射撃場に行って数少ない趣味の一つを満喫している筈であったのに、
目の前で繰り広げられているのはVシネ系映画さながらの信じられないような光景である。

「はっ...ははっ....」

「....?....何笑うてんねん?」

最早、笑うことしかできない優二は得意の営業トークで、
今にも襲い掛かって来そうな猛獣のような男をなだめにかかる。

「あっ..あのぉ...やり方、聞こう思うて......」

「はぁ?なんじゃってぇ?」

「ははは...あのぅ...僕、初心者なんっすよぉ....どうやったら上手いこといくんかなぁ...って...」

「.......ぁあ?」

「ほらぁ..アレでしょぉ?...あの、なんか、ひねり具合とか...どないしたら上手いこといきますん?あれ」

「..........」

「あっ...お兄さん、良かったら教えて下さいよぉ...めちゃめちゃ上手そうですよね!あの、ひねるやつ!
何かひねり方のコツとかあるんでしょぉ?いやぁ、あれ、ひねっただけで玉出す人、すごいわぁ!
僕、ずっと尊敬してたんですよぉ!」

「なめんとんのかぁ?小僧ぉ!」

(ひぃぃぃぃぃぃいっ!!やばぃ、やばぃぃいっ!!!!)

苦し紛れのトークは逆に相手を逆撫でしてしまったようで、
状況は一向に良くなりそうにない。
この後予想されるであろう最悪のシナリオが頭の中を駆け巡る中、優二は先頭の男が開いた扉の内側にいることに気が付く。

(あっ....そうや.....いけるかも.....)

突然、冷静になった優二の頭の中に一連の動きがスローモーションのように再生される。
男に歩み寄るフリをした後、ドアノブを掴んで、扉をこちら側に引き寄せて、そのまま......

「ぁあっ?...なんのつもりじゃ......ぁぶぁがっ!!!」

もうすでに体が動いていたようだった。
開いていた扉はもとの場所に戻りはじめて、そのまま男の顔面を直撃した。
先頭にいる男が鼻を両手で覆い、悶え苦しんでいる姿を尻目に優二はそのまま逃げ出す。

「待たんかいっ!こらぁぁあっ!!」

残りの二人が怒号を上げながら追いかけてくる。
まるで、ゲームに出てくるゾンビに襲われているような感覚を味わいながら、パチンコ台が並んでいる通路に逃げ込んだ優二。
耳をつんざくような騒音が聞こえる中、「山物語」をプレーしている客が、何事かと振り返る。

(あかん......追いつかれるっ!!)

二人の男が優二との距離を縮めてきた。
やっぱり素直に謝っていた方が....でも、ただじゃ済まなかったはず.....
そんな、後悔のような表現しにくい感情を抱きはじめたとき、優二の視界に綺麗なシルエットの女が現れる。
不気味なお面を被った、群青色のパーカーにプリーツスカートの女......

(えっ....何この女?....アノニマス....?)

その女は素早く優二とすれ違うと、そのまま凶暴な男二人と対峙して華麗な舞を披露し始める。
男の一人が細身の女を相手に拳を振り上げるが、彼女は軽く体を傾けて相手の攻撃をかわし、そのままステップを踏むと、パチンコ台の前に設置されている椅子に手をかけてアクロバティックに空中を舞う。

「なっ.....なんじゃっ...この女っ!?...ぁわぁあっ!!」

その女は、そのまま足の甲を男の首に引っ掛けると、椅子の回転を利用して左にある「山物語」のパチンコ台に相手の顔面を勢い良く突っ込ませた。

「ぁがぁあっ!....ってぇぇえっ!..なにすんっ..ぁっががががぁっ!!」

綺麗なシルエットの女はさらに足で男の顔面をパチンコ台にめり込ませると、台についているハンドルを右にひねる。
すると、本来であればパチンコ台の穴を目がけて飛んでいく筈の小さな無数の鉄球が男の顔面のあらゆる部位に飛来して、
男は痛さのあまり情けない声を上げた。

「ががぁぁぎぎぃぃいっ!!っぎぃたぃぃいっ!.....っがぁぷっ!!!」

哀れな男の悲鳴が聞こえたかと思うと、
彼女は、右足で飛び蹴りを入れて一人目の獲物にトドメを刺した。

(えっ...何この女?....強ぉ....ってか、ヤクザざまぁw...)

パチンコの正しい遊び方はこういうものかと優二が関心していると、
二人目の男はナイフを取り出し、綺麗なシルエットの女に襲い掛かろうとしていた。
一人目の男がめり込んだパチンコ台のお蔭で、店内の警報器が耳うるさく鳴り始めたが、
相手は容赦なく攻めてくるようだ。

「この女ぁ!何もんじゃぁぁあっ!!殺したるわぁぁあっ!!」

迫り来る男の動きを冷静に分析しているような彼女は、チラリと右下に置いてある箱に目をやると、
つま先でそれを軽くひっくり返した。

「うわぁぁあっ....なんっ...ぁごぉおっ!!」

床にばら撒かれた無数の小さな鉄球が迫りくる男の足を捕らえ、そのままひっくり返らせる。
あまりに勢いよく転倒したのか、男は床に後頭部を激しく打ち付けてしまい、そのまま泡を吹きながら情けない顔で気を失ってしまったようだ。

「ユウジサンッ!!コッチッ!!」

「えっ...ちょっ...何っ!?」


優二は戸惑いながらも綺麗なシルエットの女に手を引かれて、その場から逃げ去っていく。
何でこの女は自分の名前を知っているのか疑問を抱きながら、パニックに堕ちいっている客達を尻目に店の外に出ると、群青色のセダン車が停まっていた。

“ Yuzi-san,Get in! ”
(ゆうじさん!乗って!)

(あれ?....英語?...そう言えば、この声...どっかで.....)

どこかで聞き覚えのある透き通ったような声の綺麗な英語に違和感を覚えながら、セダン車に乗り込んだ優二だが、その声の正体はすぐに判明した。

“ Kristina-Stroganov. Nice to see you again,Yuzi-san. ”
(クリスティーナ・ストロガノフよ。やっと会えたわね。ゆうじさん)

「あっ!...ぇえっ!?クリスティーナ!?何でぇ?嘘ぉ!!」

あの魅力的な女だ。今、黒いアノニマスマスクを外しながら自己紹介をしてくれた女は、
いつもオンライン英会話で優二の相手をしてくれている、あの金髪の魅力的な美女、クリスティーナその女だった。
あまりに不自然で非現実的な出会いに、ただ戸惑うことしかできない優二だったが、
クリスティーナは素早く車を発車させ、運転しながら事情を説明してくれた。

“ Ah...ワタシッ...ニホンゴ..スコシ..アー..trying to study...ハナセマス...but...スコシ.....”

“Yeah...Yeah,Yeah. But...What?...WHy?...What is going on? ” (あぁ...うん..それは分かったんだけど...何これ?何で?何がどうなってんの?)

“Ah....I'm sorry to say this,but we were monitoring you for a couple of months in order to observe. ”
(あー....すごく言いにくいことで、申し訳ないんだけど、何ヶ月間か、あなたのことを観察させてもらっていたの)

“Huh....?.....What do you mean by that ?”
(えっ...それってどういうこと?)

“Yuzi-san,listen very careful to me.Our society is on the verge of collapse including Japan. ”
(ゆうじさん。あたしがこれから話すことををよく聞いて! 今、世界は窮地に立たされているの。日本も含めてね)

“.......?”

“So many things which are unprecedented will happen. This is just beginning.”
(これから、信じられないようなことがもっと起こるわ。これは、序章に過ぎないの)

“........”

“We are spy,and you are my buddy.This is Mr.Mitsui's decision.”
(あたし達はスパイなの。そして、あなたは、あたしのバディ。三井さんに選ばれたね)

優二は試しに自分の太もも辺りを軽くつねってみたが、しっかりと痛みは感じた。
どうやら夢ではないようだ。
それと同様に、この金髪の美女が言っていることもどうやら本当らしい。
オンライン英会話で授業をしている時、Mr.三井の話や、世界情勢についてのマニアックな話もしっかり相手をしてくれ、
色々と教えてくれていた、クリスティーナの綺麗で整った顔がすぐ隣にあるのを見て、これが今、実際に起きていることであり、現実であることを受け入れた。
もっと、彼女に詳しい質問をぶつけようと口を開きかけたとき、背後から銃声が
して、黒い車が追いかけて来ていることに気が付く。

“....They are firing....! ”
(撃ってきたみたいね!)

クリスティーナは険しい表情でそう言うとハンドルを左に目いっぱい切り、二人の乗るセダン車を百八十度反転させて、
「パチンコ750cc 寝屋川店 」の方向に向かってアクセルを踏み出した。
不意を突かれた黒い車は遅れて反転したが、しつこく追ってくる。

“Yuzi-san,We will explain the further detail afterwards,when we reach HQ ”
(ゆうじさん、もっと詳しい話は後でするわ。本部に着いてからね)

“...........”

“Follow me ! Yuzi-san!”
(ゆうじさん、あたしについて来て!!)

“Ok,I'm still confused,but anyway may I give you a hand with that ? ”
(あぁ、分かった。まだ大分、意味分かんないけど、取りあえず手伝うよ)

“Of cource,please.”
(ええ!お願い!)

やるべき事は決まった。そして、それと同時に、日本の法律というものが現段階で彼とクリスティーナに対して一切機能せず、
ここから生き延びて彼女からもっと詳しい話を聞く為には自分達の手でこの戦いに終止符を打つ必要があることを優二は十分理解した。

(まぁ...アレかぁ...林さんといい...クリスティーナといい....ってこたぁ、始めっから....地獄だったってことか..んじゃ..死ぬよりはマシだな)

優二はケースから愛銃の「ミクロMSS-20」を取り出すと、ボルトアクション式の薬室を開き、「スラグ弾」の弾薬を一発しっかりとつめた。
クリスティーナが運転する群青色のセダン車は、そのまま全速力で、「パチンコ750cc 寝屋川店」の事務所がある場所に向けて直進して行く......
後ろから追って来る黒い車は食らいつくのに必死で、どこに向かっているのか分かっていないようだ。
時速百キロで爆走するセダン車の中で、優二はこれまでにない程冷静であった。
恐らく、隣で運転しているのがこの金髪の魅力的な美女でなければ、持前の恐怖心で発狂していたに違いない。
「パチンコ750cc 寝屋川店」の建物が近付いて来た。壁が目の前に迫る。ぶつかる........

「ユウジサンッ....ツカマテッ!!」 

クリスティーナはたどたどしい日本語でそう叫ぶと、急ブレーキをかけ、ハンドルを左に切る。
そして彼女は絶妙なドライブテクで、車体の向きを九十度、変えたところで再びアクセルを踏む。
すると、
群青色のセダン車は、「パチンコ750cc 寝屋川店」の建物に対して平行に向きを変えた後、衝突することなく離脱して行くが、
後ろから追ってきた黒い車はその軌道についていくことができずに、ものすごい音とともに事務所がある場所に突っ込んでしまった。

“We did it! Yuzi-san!”
(やったわ!ゆうじさんっ!)

クリスティーナがそう叫ぶと、優二はバックミラーで後ろの光景を確認する。
拳銃らしきものを持った男二人がクラッシュした車から出てきて狙いをこちらに定めようとしているところであった。

「あばよ!ヤクザさん達っ!!」

優二はセダン車の窓から身を乗り出し、「ミクロMss-20」を構え、スコープの照準をクラッシュした黒い車の燃料タンクの辺りに定める。
そして、引き金をゆっくりと引いた。

“Oh........!!!!!”

「うわっ......すっげぇ爆発ぅうっ!!」


抜群の射撃技術によって「ミクロMss-20」から放たれた「スラグ弾」は、一発で正確に目標を捕らえていた。
そして、クラッシュした黒い車は大爆発を起こし、その炎はまるで映画のワンシーンのように「パチンコ750cc 寝屋川店」を飲み込んでいく。
巨大な煙幕が上がるいびつな景色が後方に流れ去っていくのを確認しながら、クリスティーナと優二が乗る群青色のセダン車はその場から離脱して行く。

「ふぅ.....やったか......」

優二は大きなため息をつきながらそう呟き、この作戦を立案したクリスティーナの方を見た。

(それにしても、可愛い...何だこの女...可愛いすぎだろ...つーか胸でかぁ..胸っ!胸っ!胸ぇぇえっ!)

そんな不埒な最低男が考えていることを知っているのか知らないのか、クリスティーナは金髪のストレートヘアを片手で軽く整えると、優二にウインクをした。

“Excuse me,Kristina....Can I ask you another question ?”
(なぁ、クリスティーナ.....一つ聞いていいかい?)

“Yes.”
(何?)

「なぁ......何でセダンなん?」

「アッ...コレ...ミツイサン...オカネ...ナイ......」

(それ、切実やなぁ....おいぃぃ.....)

第四幕 「骨折り仲間」

20XX年 9月8日 11:45 大阪府大阪市中央区 某ビル

“Are you all right?”
(気分はどう?ゆうじさん)

“Yeah. I'm ok.”
(あぁ...大丈夫)

ビルの地下にある駐車場にセダン車を停めて「本部」に向かう途中、クリスティーナは優二のことを気遣い、そう尋ねた。
先程起こった事と自分達が成し遂げた事があまりにも現実離れしていて、優二は道中、車の中で黙りこくっていたからだ。
頼りない男を気遣い、心配そうな表情で優二の顔を覗き込むクリスティーナの綺麗で整った顔はオンライン英会話の授業中、間違った英語を使っても一方的に訂正するのではなく、相手を思いやり、なるべく理解しようとしてくれる
魅力的な女のそれであった。
それはさておき、優二は二人がセダン車を停めたこのビルを知っていた。つい先日、再就職の為に履歴書を送った場所......
クリスティーナに案内されエレベーターを待っていた優二は、このビルに入っている会社の名前が書かれた表示板を目にする。

   -- 18F 株式会社ジェネラル・プリンセス --

“He set up this company to deal with any threat.”
(三井さんは、あらゆる脅威に対処する為に、この会社を設立したの)

エレベーターに乗った後、クリスティーナは十八階のボタンを押しながら、そう説明する。
本来なら出版社であり、優二が得意な英語を生かす機会を与えられる可能性が多い筈の職場。
しかし、彼のこの会社に関する認識は完全に誤りであったようだ。

「アー..ユウジサン...アノ..シンパイワ..モタナイコト...ダイジョブ」

「え?」

「アノォ..ユウジサン...シッテルヒトガ...ア―..ミンナシッテル...」

優二のことを気遣い、たどたどしい日本語で話そうとしてくれているクリスティーナだが、若干、意味が通じていないようだ。
そうこうしている内にエレベーターは十八階に到着し、二人は「本部」に向かう。
廊下があって、真ん中に大きな扉があり、他にはあまり広くなさそうな部屋の扉が四つある。優二はクリスティーナに連れられ、真ん中にある大きな扉の方へ歩いて行き、彼女と一緒に中へ入って行った。

「よぉ。待っとったで優二。久しぶりやな」

「....え?...誰?...」
  
部屋の真ん中には大きな円卓があり、反対側に一人の男が座っていた。
中は薄暗く、その声の主が誰であるのかを確かめるのは困難であったが、相手は優二の事を既に知っているようだ。

「おいおい...忘れたとは言わせへんで。優二君。十年ぶりくらいかな?」

優二は状況が掴めず、クリスティーナの方を見たが、彼女は少し微笑むと部屋の電気をつけに行った。

「....ぁあっ!!はぁあっ!?南野っ!!何でぇ!?」

現れたのは、前髪の少し長い小柄な若い男。優二は十数年前の小学生時代、その男と全くそっくりな人物と親しい友人であったが、
その瞬間、二つの面影が一瞬で重なり、目の前にいる男が十年前の親友である、あの男であることに気が付いた。

「ハハハハッ!驚いたやろ?優二」
  
「そりゃ...っていうかお前ここで何してんの?これは一体.....?」

南野貴志。その男は優二が小学生の時、最も信頼を寄せていた親友であった男だ。
パソコンが得意で、クラスの誰よりも抜群に成績が良く、大阪で一番偏差値の高い私立中学に進学した奴。
しかし、その反面、内向的な性格で、吃り癖があった為、教師から教科書の音読を指名される度に嘲笑の的にされていた。
大阪の公立学校は少し事情が変わっていて、中流層以上の家庭は必ずと言ってよい程、地元の中学を選ばず、
高い塾代を払ってまで中学受験をし、私立中学へ進学する。
この二人も同様で、そういった複雑な事情によってか、教師を含め谷渕というリーダー格のDQNとそのクラスメイト達によって
常に脅威に晒されていた。
そんな当時の戦友は、十数年という歳月のお蔭で随分と性格が変わっているようであったが、
その愛想の良さと人懐っこさは昔と何も変わっていなかった。

─── 今朝、十時半頃、大阪府寝屋川市にあるパチンコ750cc寝屋川店で大きな火災が発生しました。警察は、隣にある餃子屋のガス爆発が原因で、そこから火が燃え移ったと見て、捜査を続けております。 ─── 


南野が、部屋の片隅にある液晶テレビをつけると、ニュースの女性アナウンサーが今朝の出来事を報じていた。

「ハハハ。爆笑もんやろコレ。腹痛いわ」

彼は腹を抱えて笑いながら、優二に歩み寄り、新聞を手渡した。

             <  経済新聞  >
      < 政府が計画停電を実施 深刻な電力不足に対応か?>

その新聞の一面には、そう書いてある。約一年前の新聞で、優二は何となくこの記事に書いてあることを記憶していた。

「ハハッ...あかん..ねーちゃん..横の餃子屋、全然燃えてないのに、流石に無理があるでそれ。ハハハハッ!!」

「....あっ、これ...起こんなかったよな...計画停電」

「ハハハ...え?あー、うん。それ止めたん、実は俺やねん」

「......はぁ?」
    
「あぁ、ごめん言ってなくて、俺、ハッカーやってんねん」
 
「はぁぁぁぁぁあっ!?」

「知らん?アノニマス。俺、あれの一員やねん」

優二は、もう何がなんやら訳が分からず、ただ呆然と立ち尽くしていたが、
クリスティーナが二人の会話に参加して、この状況を理解する為に助け船を出してくれた。

“ He is Hawkeye,very capable reliable colleague. ”
(彼はホーク・アイと呼ばれているの。とても優秀で頼りになる、あたし達の仲間よ)

「あっ、ありがとうクリス。なぁ、それよりウケるで。某電力会社のバカさ加減は」

「.....え?あぁ...」

「社員の一人が、ファイヤーウォールをオフにしてよってん。んでトロイの木馬をぶち込んだったんやけどな.....」
    
「......うん」

「そしたらビンゴ!あの会社、システムが全部繋がっとってん。一瞬でマザーコンピューターのルート権限を奪取してズドンや」
         
目の前にいる南野貴志が、ただ者ではないことはよく分かったが、
優二は、まだ状況がいまいち掴めていなさそうな顔をしていたので、ホークアイはさらにこう付け加える。

「計画停電なんてのは、単なるプロパガンダや。利益を得るのは、電力会社や政府のお偉いさん方。クソったれな権力者どもやろ?
 それで一番困るのは、いつも、一般市民や。そういうのから守るのが俺らの仕事やねん。」

円卓を挟んで、液晶テレビが置いてある反対側に目をやると、キーボードと大きな液晶ディスプレイがいくつも置いてあり、
それらは雑誌等でよく紹介されている高性能なパソコンより遥かに上等な、
映画やテレビドラマに登場するハッカーが巧みに操るような最新式の装備に見えた。

 「どうだね?藤田優二君」

優二は、突然何者かに後ろから肩を叩かれ、驚いて後ろを振り返ったが、その声の主にはさらに驚かされた。
右目には縦方向にかけて走った傷があり、真っ白な逆立った髪、メタボ体質のようなガッシリとした図体.....
「あっ....Mr.三井っ!?」

その人物は優二がいつもパソコンで見ている妙に親近感の沸く中高年の男であった。
巷で有名な、知る人ぞ知る有名陰謀論者。

「はじめまして。藤田優二君」

「あっ....あのっ...本、全部読みました!!」

優二は興奮のあまり慌ててそう答えたが、三井の方は落ち着た様子で軽く微笑むと、南野の方に歩いて行きながら、さらに付け加える。

「君が今日見てきたことを聞きたいのだが、もし良かったら話してくれないか?」

「あっ..あのっ..林さんっ..林まりなっていう同級生に似ている女性を見かけて....」

今朝、実家を出掛けてから目にして来た光景を鮮明に思い出しながら説明する優二。

「パチンコ750ccで...ノ...何とかっていう変な男と怪しい部屋に入って行って......」

優二が、二ヤついた顔の不気味な男のことについて言及し始めた時、南野が資料のようなものを手渡してきた。

「こいつのことか?」
          
「.....っ!!!!!」

その資料には、その男の顔写真とプロフィールが詳細に書かれていた。

          < 盧 正泰 >
          ノ・ジョンテ
   年齢:28歳 国籍:韓国 最終学歴:大阪取引大学 卒業  
   朝鮮総連 幹部     パチンコ750cc寝屋川店 店長

「奴は在日三世で、言わばフィクサ―。親が結構な奴らみたいでな....色々やっとるヤバい奴や」

「....っ!?でもっ..林さんっ...林さんが何でっ!?」

「まぁ聞け優二。お前が見た女は確かに林や。正確にはベトナム人やけどな」

「えっ.....?」

「人身売買や。あの女は、もらい子やってん。あいつの親おったやろ?俺はずっとあいつら怪しいと思っとってな.....」
  
「あー...そう言えば、林さんのご両親だけ、何か印象薄かったなぁ.....」

「林の家は、よく分からん会社やっとってな。恐らくペーパーカンパニーやろう。父親は輸入業やっとる帰化人で、
 ベトナム辺りと取引があったみたいや。恐らくその時に......」

優二には、心辺りがあった。当時、彼らとの間に明確な「壁」を感じていたからだ。
同じ日本語を話す者同士である筈なのに、なぜかそこに存在していた分厚く見えない「壁」.....
その正体も、これで全て合理的な説明がついてしまう。
さらに、南野は容赦なく真実の糾弾を続ける。

「奴らにハッキングかけて分かったわ。林まりなは、十六歳で高校を中退。親に捨てられ、そのまま彼女を引っ張った悪魔が、この盧正泰って言う極悪人や。林みたいな女を何人も使って色々とやってやがる」

「....奴は一体....?」

「テロリストやな。北朝鮮と日本のパイプ役。よう見てみ.....総連の幹部やのに、韓国の国籍を取ってやがるやろ。
何かあったら逃げる為やで。狡猾な野郎や」

「....あっ!大阪取引大学ってあのっ!」

「おっ、流石!お察しの通り。大阪取引大学を運営しているのは、学校法人山岡学園で、キングコング・グループの大株主や。
 .....つまり...これで全てが繋がって行く訳やな」

「嘘やろ....Mr.三井の話、ほんまやったんか....」

「極め付けは、京都駅北側にある材木町、通称“崇仁地区”の一角や。この駅前の一等地は、金貸し業の冨士武が地上げした後、
 しばらく塩漬けになっとったんやけど、あの友住第三銀行が、ここの土地を担保に根抵当権を設定。極度額八十億もの大金を、リウ信用金庫って言う、よく分からん総連系のペーパーカンパニーに融資しとってん」

友住第三銀行は日本国民なら誰もが知る大手の銀行であり、本来であればコンプライアンスの観点から、
そのような怪しげな土地には手を出してはならないことになっている筈である。
多くの国民が預金している大金が、暴力団やテロ組織の手に渡るなど冗談でも笑えないからだ。
世間一般の人間なら、ここまでの話だけでも思わず耳を塞ぎたくなるような内容だが、優二は食らいつくように聞き入っていたので、南野はさらに話を続ける。

「色々なサーバーに攻撃を仕掛けて調べた結果、どうやらこの盧正泰って男が黒幕っぽいねん。最高に臭いわ。しかし、一番の問題は八十億もの大金、日本人の預金が、一体どこに流れてんのかって話やねん」

「そんな....なぁ、警察は?あいつら何してんだよ!?」

「お前もよく分かっとるやろ優二。奴らもしっかりグルや。動くわけないで.....クソったれどもが」

南野が話したことの一部は、既にMr.三井がインターネット上に公開している情報で、優二はその流れを把握していたが、
今朝、目の前で起こった事が、そこに繋がるとは夢にも思っていなかった。
Mr.三井の“陰謀論”は概略するとこうだ、日本には破壊工作活動や情報収集活動に従事している工作員がいて、
その輩達は、暴力団やテロ組織に属しているが、警察は取り締まらない。
日本の経済を破壊し、外国の多国籍企業がより搾取しやすいように、
そして、経済崩壊を起こして第三次世界大戦を誘発する為に活動している日本政府公認のテロリストだからである。
彼らは普段、様々な形に化けて普通の日本人に混じっているので、テロリストであるか分からない。
政治、マスコミ、行政、学校、パチンコ店、風俗店、株式会社、宗教団体etc.....
ありとあらゆるところに寄生し、根を張っているのだ。

「藤田優二君。急ですまないのだが、君をここに呼んだのには理由がある」

三井は真剣な表情で、優二の目を真っ直ぐ見ながら話を始めた。

「クリスティーナのバディに、君を選んだのは私だ。本当なら、丁重に迎えに行かせる筈であったのだが、運が悪く、あのような形になってしまった。すまない。私の配慮が足りなかった」

一連の騒動は誰にも予想不可能で、誰の責任でもないことは明白であったが、
全ての責任を背負い、普通の若い青年である優二を気遣う、この厳つい中年の男は間違いなく度量の広さを他者に感じさせた。

「しかし、君は優秀だった。私が見込んだ通りだ。彼女のバディは、君にしか勤まらない」

優二は、壁にもたれ掛かっているクリスティーナの方を見る。
すると、彼女も薄化粧の綺麗な顔で彼の方を見て、柔らかい笑顔で微笑んだ。

「優二君。君も知っている通り、今、世界は危機に瀕している。経済崩壊が間近に迫り、様々な歯車が狂い始めているんだ」

「.....はい。僕もそう思います」

「状況は、かなり深刻だ。日本の政府は頼りにならない。これは、私達で解決するしかないのだ」

「........分かります」

「私達のセカイを壊そうとしている勢力がいる。そして、同様にそれから守ろうとする勢力もいるのだ」

「.......ロシアですか?」

「それは、正解でもあるが、誤りでもある。正確には、世界各地に存在する、資本主義によって解体されてしまった“王室”だ」

「つまり、僕らは、資本主義による破壊工作に対抗する為に、“王室”側について戦うということですか?」

「そういうことだ」

そして、三井は、優二に歩み寄ると深々とお辞儀をし、右手を差し出した。

「藤田優二君。巻き込んでしまって申し訳ない。君の貴重な人生の一部を台無しにしてしまった。しかし、私達には君の力が必要だ。このセカイとそこに住む人々を守る為にだ。私からの、三井次郎からのお願いです。
力を貸して下さい。よろしくお願いします」

優二は同じくお辞儀をして右手を差し出し、三井と手を取りあった。

「私の実力が....どこまで、ご期待に添えるか分かりませんが...全力で頑張ります!よろしくお願いします!」

クリスティーナは、冷静な表情で二人のやり取りを見守っていたが、二人が手を取り合った瞬間、嬉しそうに、はにかんだような笑顔で微笑んだ。

「“アノニマス(匿名集団)”の誕生やな」

南野がそう言った時、液晶テレビから、緊急ニュース速報を報じる女性アナウンサーの声が鳴り響いた。


── えーっ...番組の途中ですが、緊急速報をお伝え致します。先程、十二時五分頃、日本海上空で自衛隊の戦闘機が二機墜落..パイロットの安否は不明ですが....航空自衛隊は、訓練中の事故だとして、救難活動を開始しております──



「クソ....いよいよ来てもうたか...」

南野は吐き捨てるように、そう言った。

第五幕 「バイパー・ゼロ」

20XX年 9月8日 12:05  日本海上空 空域“G”

どんよりとした曇り空の殺風景な日本海上空を二機の小柄な飛行機が地鳴りのような騒々しい爆音を轟かせながら飛んでいる。
海に溶け込んで見えなくなりそうな群青色をした何かを運搬する為に飛んでいるには不自然過ぎる二機の飛行機。


“ Viper01,Order vecter230, Climb Angels20. ”
(バイパー01、2万フィートに上昇し、南西へ向かえ)

航空自衛隊小松基地第六飛行隊所属の高山隼(はやと)一等空尉は自らが駆るF-2戦闘機の操縦席で舌打ちした。
突然、早期警戒管制機(AWACS)から無線が入ったのは後輩の新米パイロットを育成する訓練を行っている最中であったのだが、
聞こえてきたのは福岡県にある築城基地所属のF-15イーグル戦闘機が二機、日本海上空で墜落したという内容で、
彼らのミッションは「訓練」から「偵察」へと切り替わってしまったのだ。

“ Viper01,Roger. ”
(バイパー01、了解)

酸素マスクに内臓されているマイクで、そう応えた高山一尉は内心、嫌な予感がしていた。
航空自衛隊では、領空侵犯や非常事態が起きた際、戦闘機が現場に到着するまで、詳細な情報は伝えられない。
まず、パイロットに一方的に伝えられるのは今からどこへ向かえといった方位と高度のみで、
自分達が、どういうミッションを遂行しなければならないのかは現場に着いてみないと分からないのだ。
操縦桿を握る高山一尉の表情はヘルメットと酸素マスクに覆われて見えないが、間違いなく険しく、
“Falcoファルコ”と記された彼のTACネームが、ファイターパイロットとしての佇まいを際立たせている。
TACネームとは戦闘機パイロットに付けられるあだ名のようなもので、彼に与えられた空の上での名はそれであった。

(クソ....築城のF-15は、一体、何をしていやがったんだ?....)

内心、そう呟いた高山一尉が操縦するF-2戦闘機を後方から追いかけているのは、同じ第六飛行隊所属の新米パイロット、正木拓馬三等空尉の乗る機体だ。
彼のTACネームは“POCHIポチ”。
正直で、従順で、お人好しな、彼の性格に因んで付けられたTACネームであったが、その名は同様に、彼のパイロットとしての未熟さを表しているいるようでもある。
高卒である航空学生出身の正木三尉は、戦闘機の操縦課程をギリギリの成績で突破してきた人材で、
今日の「訓練」でも、空中戦の達人である高山一尉に付いて行くのが、やっとであったのだ。

「正木、ちゃんと付いて来てるか?......クソみてーなことにならないことを祈ろうぜ」

「はっ...はいっ!先輩!」

そんな二人の駆る二機のF-2戦闘機は指令通り莫大な推力を利用して上昇し、
これから起こることを予想しているような不気味な暗い雲を突き抜け、どんよりとした曇り空の上に出ると、
目標地点に向けて爆音と共に飛翔していく。
レーダーには、まだ何も映っていなかったが、しばらくすると再びAWACSから無線が聞こえてきて、二人に状況の変化を知らせた。

“ Target230/110,HDG45,SPD500,ALT20 ”
(目標の位置は230度、距離110マイル、速度500ノット、2万フィート、こちらに向かって来る)

(何だと.....冗談だろ?)

高山一尉がそう思うのも無理はない。
彼の嫌な予感はどうやら的中していたようだ。
レーダーに「目標」の位置を示す輝点が二つ現れ始めるが、それは高山一尉に、「目標」が「敵機」になる危険性を知らせていた。

“ RadarContact!,230/80,ALT20 ”
(方位230度、2万フィートで飛行する目標をレーダーで捕捉した!、目標との距離80マイル)

経験の浅い新米を率いて今までに遭遇したことのない脅威に対峙しなくてはならない高山一尉も若干二十八歳の若手である。
戦闘機に乗り始めて四年、過酷な訓練の数々を潜り抜け、様々な命懸けのミッションを経験し、自己研磨を重ねてきたが、
今回ばかりは流石に腹にこたえそうだ。

「クソ...何だ?....速い...」

正木三尉がそう呟く声が聞こえて来た時、高山一尉の目に、こちらに向かって来る二つの黒い飛行物体が映る。
その不気味な影はさらに速度を増し、二機のF-2戦闘機に対して一直進に飛来して来るので、徐々に輪郭がはっきりとしてきたが、
その正体を確かめる暇も無く、四機の歪な飛行機は真正面から互いに近づいて行く。

「畜生っ、戦闘機だ!すれ違うぞ!」

高山一尉がそう叫んだ瞬間、その不気味な飛行物体は正体を現し、一瞬で二機のF-2戦闘機とすれ違った。
動体視力が抜群に良い、彼の目に映ったのは大きな黒い戦闘機。
相手のパイロットと目が合った。
そして、本来であれば、両翼に付いている筈のミサイルが一発ない......。

「くっ....目標確認っ!Su-33スーパーフランカー二機!」

そう報告した高山一尉の耳に信じられない応えが返って来る。

“ Enemy target is confirmed.Viper01,Cleared to engage.Kill the target.”
     (バイパー01、交戦を許可する。敵機を撃墜せよ)

(なっ....何だと....?)

そう聞き返す暇もなく、二機の黒い「敵機」は素早く反転し、彼らの乗るF-2戦闘機に食らいつく為に攻撃的な軌道を取り始めた。

“....Ragor,Viper01 engae! ”
(....バイパー01、了解。交戦する!)

必要最低限の応えを返した高山一尉は、そのまま操縦桿を倒し、機体を九十度傾け、敵機を撃墜する為の軌道に入る。
そうすると、彼の駆るF-2戦闘機は腹に取り付けられている増槽タンクを素早く外し、一切の無駄を削ぎ落とした身軽な機体で機敏な旋回を始めた。
“ドッグ・ファイト(空中戦)”の開始である。
その瞬間から、まるで神に抗ったイカロスのように強烈なGがパイロットに襲い掛かり、シートに縛り付けていく。
ファルコが操縦席にある計器に一瞬目を向けると、自分に圧し掛かる重力加速度を示すGメーターの値がどんどんと上がっていくのが分かる。
....4G...5G...6G.....7G...7.5G......
二機の戦闘機は互いに円を描きながら、敵の背後に回り込もうと旋回軌道を続ける。
だが、この「フランカー」と呼ばれる、敵の戦闘機は、高山一尉らの駆るF-2戦闘機よりも旋回性能では上回っていた。
ロシア製の優れた性能を持つ最新鋭機で、西側諸国の空軍やNATOからも恐れられる程の戦闘機。
そう、彼らの「敵機」は最悪の相手であったのだ。

「うわぁっ...ダメだっ!...ロックオンされるっ!!」

僚機である正木三尉の声が聞こえてきた時、ファルコの乗るF-2戦闘機のコックピットに、赤外線追尾ミサイルにロックオンされたことを知らせる、
耳障りな警告音が鳴り出した。
ゲームセット、撃墜される。
ここで、普通のパイロットに残された選択肢は二つしかない。
一つは、機を捨て、命からがら緊急脱出するか、もう一つは、敗北を認め、機と運命を共にするかだが、
やかましい警告音が鳴り響くコックピットの中で、命の駆け引きをするこの男は冷静であった。
機体を素早く水平に戻す.......あきらめたのか?
今にも敵のパイロットがミサイルの発射ボタンを押しそうな中、
ファルコは、スロットルレバーでエンジンを一気に絞り込み、速度を殺す。
そして、上げ舵をとり、スピードブレーキを開いた後、右方向舵を一杯に踏み込んだ。
すると、視界が三百六十度ぐるりと回転した後、スピードを持て余した相手の「フランカー」が目の前へのめり出して来る。

            “クイック・ロール”

形勢逆転である。
まるで、映画の空中戦に出てくるような妙技であったが、
これが、空戦の天才である“ファルコ”こと、高山隼一等空尉の必殺技だった。
そう、この伊達男は劣勢に立たされた困難な状況の中で、性能が上回る装備を持つ相手に対して自らが持つ技術の粋を集め、
三つ目の選択肢を捻り出したのだ。
そして、HUD(ヘッド・アップ・ディスプレイ)に捕らえた「フランカー」を赤外線追尾ミサイルでロックオンした、
独特の何とも表現できない音が相手にトドメを刺せと言わんばかりに聞こえてくる。

   “ RadarRockOn! Viper01 FOX-2!”
(レーダーロックオン!バイパー01、ミサイル発射!)

ファルコが駆るF-2戦闘機の主翼に備え付けられている赤外線追尾ミサイル、通称サイドワインダ―が機体から離脱し、
「フランカー」の巨大なエンジンから発せられる莫大な熱エネルギーを追って飛翔する。
機体を傾け、回避行動を取ろうとする「フランカー」だが、ファルコからの反撃をプレゼントされ、それを受け取ることを拒否するには、
二機の距離はあまりにも近すぎるようだ。
ミサイルは敵機を完全に捉え、そのまま吸い込まれるようにエンジンに潜り込み、そして、爆発した。
炎に飲まれた「フランカー」は、相手のパイロットに脱出する機会を与えなかったであろう。
そのまま地獄に堕ちるような形で、不気味な暗い雲の下に消えて行ってしまった。

「敵機撃墜!.....待ってろ正木。今、助けてやる」

もう一機の「フランカー」が、正木三尉の乗るF-2戦闘機に食らいつき、今にも襲い掛かろうとしているところであったが、
僚機を失った為か、高山一尉の空中戦技術に恐れをなした為か、反転して北の方角へ逃げ去って行った.....。

「ふぅ....助かった...先輩...それにしても....これは一体....?」

「さぁな。まぁ、クソみてーな状況には、変わりねーだろうよ」

第六幕 Ⅰ「準備-PREPARATION-」

20XX年 9月9日 8:30 大阪府大阪市中央区 某ビル


「昨晩は、よく寝れたかね?優二君」

ガッシリとしたメタボ体質のような厳つい男は、エレベーターに乗り込みながら、そう尋ねた。
優二は、昨日起こった一連の出来事があまりにも衝撃的で、普段から持ち合わせている過去との熾烈な格闘戦による寝不足が増すのではないかと不安であったが、流石に、昨晩は疲れの方が勝っていたようだった。

「はい。ご飯も美味しく頂いたので」

それを聞いた三井は、満足そうな笑みを浮かべてからクリスティーナの方を見てこう言った。

“He is satisfied with supper which you cooked yesterday. ”
 (君が作ってくれた晩餐が美味しかったと、彼が言ってくれているよ。)

 “ Oh,That's good.I'm glad to hear that.”
  (良かった。そう言ってもらえると嬉しいわ。)

昨晩は、彼女が美味しいビーフストロガノフを作って振る舞ってくれた。
円卓のある広い部屋にはキッチンや冷蔵庫も完備され、食材も揃っているので、自前で食事を用意するには苦労しない。
一日二食、朝と晩は交代でメニューを考え、皆で協力して作るのがこの会社の決まりらしい。
そして昼は各自、自由に食事を取る。
むろん、クリスティーナは、ほとんどの作業をさっさと一人でこなしてしまい、類まれな腕で素晴らしい料理を作るので、
昨日は、男二人で仕方なく裏方に回るしかなかったのだが....

「親御さんは、心配していないかい?」

「はい。住み込みの仕事を見つけたと連絡しておいたので」

そう、“株式会社ジェネラル・プリンセス”に採用された優二は、“住み込み”で働くことになったのだ。
そして、三人の“社員”には一人一部屋が用意されていて、中には冷暖房、パソコン、シングルベッドといったものまで、
生活必需品は全て揃っている。
広さは六畳程で一人の成人が生活するには十分であり、他にはトイレとバスルームが別にある。
つまり、このビルの十八階は彼らの“寮”であり、“職場”でもあるのだ。
しかし、こんな条件の良い待遇がある“株式会社ジェネラル・プリンセス”には、こなさなくてはならない“仕事”が勿論ある。
今日は、その初日にあたり、優二とクリスティーナは三井に連れられて「訓練所」に向かっていた。

「どの辺りにあるんですか?....大阪には無さそうですよね....」

てっきり、例のセダン車でどこかに移動するものとばかり考えていた優二はそう尋ねたが、
三井は何やらICカードのようなものを取り出すと、エレベーターのボタンがある下の辺りを鍵で開けた。

「えっ.....何ですか?これ???」

「いいや。我々が向かうのは地下だ」

そこには、ATMのキャッシュカードを入れるような機械が備え付けられていて、三井はそこにそのICカードを入れる。
すると、高速のエレベーターは全く予想外の動きで地下一階にある駐車場のさらに下に向けて降下を始めた。

「.....地下....ですか....?」

予想外の答えに、そうぼやくしかない優二だったが、三井が少し微笑むと
クリスティーナも何も知らない子供に笑いかけるように彼に向かって微笑んだ。
そして、エレベーターの位置を示す光が地下一階の所に差し掛かっても扉は全く開く気配を見せずにさらに降下を続け、数十秒後にようやく停止した。

「.......まじっすか......これは......」

「さぁ、訓練を始めるぞ」

エレベーターの扉が開き、優二が目にした光景は、世間一般の日本人には到底信じられないものだった。
まるで地下要塞のような場所。
だだっ広い地下のスペースに、いくつも仕切りがしてあり、建物の入り口やら車といった街の風景が忠実に再現されてある。
そして、天井はそんなに高くはなく、大人四人分程の高さであり、所々に生身の人間にそっくりなゴム人形が配置され、通行人の役を演じている。
天井の高さに限界がある以外は、普通の“街”がそこには広がっていた。
優二は、その信じられないような「訓練所」を目にして、呆然と突っ立っているだけであったが、
その間に三井とクリスティーナは、すぐ隣にある部屋の中に入って行った後、何かのケースを持って戻って来た。

“ This is your gun. ”
(これが、あなたの武器よ)

「........ぉおっ!?スナイパーライフル!!...本物やっ!!」

クリスティーナが彼に手渡してきたものは実戦用対人スナイパーライフル。

            <H&K MSG90>

優二の新しい愛銃の名はそれだ。
ドイツの銃器メーカーであるヘッケラー&コッホ社が開発した対テロ特殊部隊向けの狙撃銃。
優二の愛銃である「ミクロMss-20」との違いは、弾丸の装填方法で、
この実戦向けの狙撃銃は、「ボルトアクション方式」ではなく「セミオートマチック方式」、つまり連射が可能であることだ。
前者の銃では、一発を撃ってから弾を装填し、次のターゲットに照準を合わせるまでに時間が掛かるが、
後者はその必要がなく、すぐに次のターゲットに移行するができる。
そして何より、特筆すべきはその射程距離だ。
この銃は、「ミクロMss-20」とは比べ物にならない程遠い目標を仕留めることが可能であり、
これらの機能は全て、優二にこれから課される仕事がどのようなものになるかを物語っているようでもあった。

“ How is it,Yuzi-san? Do you like it? ”
  (どう?優二さん。気に入ってくれた?)

そして、彼女が両手に持っているものは、これまた実戦用対人短機関銃、サブマシンガン二丁だ。

          <H&K MP5>

彼女が、“職場”で使用する愛銃は、その銃のようだ。
同じドイツのヘッケラー&コッホ社が誇るベストセラーで、
世界中の軍隊や警察で愛用されているサブマシンガン。軽量化が図られていて反動が軽く、女や子供でも簡単に扱うことができてしまう。

“ Why our guns are from Germany? ”
  (なんで、全部ドイツ製なの?)

そう尋ねた優二に、クリスティーナは微笑みながらこう答えた。

“ Actually,We have a distributor in Germany. ”
   (ドイツに業者がいるの)

そして、三井も説明に加わり、こう付け加える。

「ドイツから、あるルートを使って仕入れている。心配ない」

何の心配がいらないのか少し謎ではあるが、優二は噛み切ることができなかった硬いスルメを無理矢理飲み込むような感じで、
三井の発した言葉を自らが持つ懐疑心の奥へと流し込んだ。

“And,This is formal attire.....so called a combat uniform.”
(そして、これがあたし達の戦闘服<コンバット・ユニフォーム>)

よく見ると、クリスティーナはその服装に着替えていた。
群青色のパーカーにプリーツスカート、パチンコ750ccでヤクザを相手に華麗な舞を披露した彼女が身に纏っていた恰好だ。
そして、その下着には黒いスパイスーツを着込んでいて、身体の機動性を確保しているように見える。

(結構こだわってんなぁ...中々イケてるやん)

今風の若者が着ても全く違和感がない。
優二は、てっきり軍隊のような恰好をさせられると思っていたので、クリスティーナの綺麗なシルエットがそのファッショナブルな戦闘服によって、
さらに磨きが掛けられているのを見て生唾を飲み込んだ。
また、彼に手渡された戦闘服コンバット・ユニフォームも、同じく黒いスパイスーツに群青色のパーカーで、彼女のそれと違う点は下がスカートではなく
スノーボードウェアのようなダボダボのルーズパンツである点であった。
そして、その戦闘服と一緒に手渡されたものは黒いアノニマスマスク。
だが、この黒いアノニマスマスクは通販で販売されている安上がりなものでは無さそうで、しっかりと顔に固定できるように高級そうなベルトが備え付けられている。

「そのアノニマスマスクは、中々の優れモノでね。我々が最先端技術の粋を集めて作り上げたのだよ。」

三井は誇らしげにそう説明すると、優二にそれを被ってみるように促した。

“ どうや?優二。中々イケとるやろ? ”

「......っ!?..南野!?」

“ ハハハ。これが最先端技術でっせ。”

その黒いアノニマスマスクは、被ってみると両耳を覆うように設計されていて、中にはマイクと無線機が内臓されている。
その為、急に雑音混じりに南野の声が聞こえてきて優二を驚かせた。

    “ How shall we begin today,Mitsui-san? ”
(三井さん、今日は何から始めればいいのかしら?)

   “ In the mean time,moderate explanation is proper.”
   (取り敢えず、説明から入るのが良いだろう)

群青色のパーカーの上からハーネスを身に着けながら、クリスティーナは三井に「訓練」の流れを尋ねる。
そして、彼女の太もも辺りに目を移すと、いくつかベルトが巻きつけてあり、何かを取り付けられるようになっているようだ。
三井からの指示を聞いたクリスティーナは、ケースからハンドガン二丁と予備弾倉マガジンを取り出すと、それらをハーネスと太もものベルトに備え付けて、
最先端技術が詰め込まれている黒いアノニマスマスクをしっかりと被った。

 “ アノニマス(匿名集団)は、三人一組で構成されている”

「あぁ...それは昨日、聞いたで」

“ まぁ焦んなよ。優二。俺らには一人一人、違う役割があんねんけどな....”

「あぁ」
  
“ 俺みたいなハッカーは敵のサーバーに攻撃を仕掛けることはできるんやけど、
直接、マザーコンピューターの管理者権限を奪えるようなケースは非常に稀やねん。”

「.....それは、何となく分かる」

“ そこでや。前線で戦うスパイが必要やねん。 ”

「どういう意味?」

“ そのアノニマスマスクには、特殊な電波を飛ばすことができる装置が内臓されとる。非常に強い電波や”


南野がアノニマス(匿名集団)の戦略について説明をしていると、
群青色の戦闘服コンバット・ユニフォームを身に纏ったフル装備のクリスティーナが疾風のように走り出した。
あまりの俊敏さに、呆気に取られてしまう優二だが、あっという間に彼女は五十メートル程先まで駆け抜けて行ってしまう。

“ 言うまでもなく、ほとんどのサーバーは無線LAN(Wifi)で繋がっている。いくつものアクセスポイント(AP)を経由してな。
まぁ、これはいわゆるルーターみたいなもんやと思ってもらってもええわ。”

「....つまり?」

 “ 最近の無線LANは、WEPと呼ばれる方式で暗号化されているんやけど、これは無線電波自体を暗号化しとるから、
めちゃめちゃ脆弱性があるねん。アクセスポイントを堕とせばすぐに解析ができてしまう。”

三井が何やらリモコンのようなものを取り出して操作すると、「訓練所」にある仕切りの隙間から四体の黒いゴム人形が飛び出して来た。
それらの黒いゴム人形達には「ENEMY」と大きく文字が書かれていて、顔と胴体に標的が貼り付けてある。
そして、それを見たクリスティーナはハーネスから素早く二丁のMP5サブマシンガンを抜き取ると、その四体のゴム人形に狙いを定めて発砲した。
すると、やかましい連射音がして、黒いゴム人形達はたちまち蜂の巣にされていく.....。

“ 自分ら二人が敵の陣地に潜り込むと、その周辺にある敵のアクセスポイント(AP)に対して、強い電波で負荷をかけて堕とすことができる。”

「っ!!.....そうか!!なるほど」

“ 敵のサーバーは、いくつも存在していて、自分ら二人が敵陣の内部に侵攻してアクセスポイント(AP)を堕とす度に、俺が解析できる暗号と潜入できるサーバーが増えていく。”

「......ハッキングってそういうことだったのか.....」

“ 実は、俺らはロシアから衛星を借りとってな。敵のサーバーを無力化して操作することができるようになれば、その衛星を経由して、本部と前線のスパイ、俺ら三人のデータリンクが可能になるねん ”

「.........!!」

“ まとめるで。話は至ってシンプル。簡単や。敵のサーバーを、どんどんとこちらの手に堕としていく、そして、最終的にマザーコンピューターへ十分な負荷をかけて攻撃し、管理者権限を奪取する。要は、俺がハッキングをかけられるように、こちらの青陣を増やしていくのが諸君らの仕事や ”

クリスティーナは、抜群の命中精度でMP5サブマシンガンを撃ち続けていたが、銃弾を全て撃ち尽くしてしまい、
太ももに備え付けてある弾倉マガジンを装填リロードしようとした。
だが、その僅かな隙に五人目のゴム人形が現れ........

“ Ah!...Damn it! ”
(あぁっ...しまった!やだっ!もう!)

透き通った綺麗な声で、軽く悲鳴を上げた彼女の戦闘服コンバット・ユニフォームには生卵の中身が付着していて、それを汚していた。
五人目のゴム人形には小さな空洞があり、どうやら、そこから“発砲”されたことが推測できる。

「今のところ、クリスティーナが近接戦闘を行うことができる限界は四人までだ」

 冷静沈着に彼女の動きを監督していた三井は、そう説明する。

「そこで、君の力が必要になる。彼女の死角から攻撃を与えてくる敵を全て中距離から狙撃し、排除するのだ」

「........!!」

「アノニマス(匿名集団)の小隊は、FIGHTER(戦闘者)、SNIPER(狙撃者)、COMMANDER(指揮者)の三人で構成される」

Ⅱ 「くーでたぁー?」


20XX年 9月9日 8:30 航空自衛隊小松基地


高山隼一等空尉は、その日も普段通り出勤していた。
戦闘機を駆り、大空を自由自在に舞う「ファイター・パイロット」としてではなく、
「幹部自衛官」として、こなさなければならない仕事が山積みであったからだ。
だが、どうやら基地内の様子は全く普段通りではないらしいことが読み取れる。
すれ違う人間が全員、彼のことをまるで地球外生命体を見たかのような目で見てくるのだ。
普段はきっちりと敬礼を返してくる入口の警備隊員は驚いたような顔で一瞥をくれただけで、
先程すれ違った整備員の三曹に至っては、あんぐりと口を開けてこちらをじっと見てくる有り様だった。

「おはようございます」

高山一尉は第六飛行隊の事務室に入るなり、しっかりと張りのある声で挨拶をした。
しかし、誰一人として返事を返してこない。
それどころか、いつも一人だけ率先してコーヒーを先輩方に淹れたがらない彼に、普段通り嫌味を言ってくる同僚すらいないのだ。
その場の全員が、信じられないといった感じの顔を彼に向けている。

「今日は休めと言っただろう、高山」

彼が所属する第六飛行隊を束ねる飛行班長が、あきれたような声で、そう言った。

「いえ、自分はまだ事後報告が済んでいないので」

「勘弁してくれ。飛行隊長からの指示なんだ」

航空自衛隊において、
飛行班長というのは、いわゆる“現場主任”のような者を意味する一方、飛行隊長は部隊における人事のトップである。

「ですが、報告がまだ.....」

「今日は、ゆっくり休め」

その言葉を承諾することもできずに、高山一尉は黙って事務室を後にした。
そして、彼が向かった先は、この基地内で“仕事”の次に居場所を感じることができる場所。

「あら、高山君じゃない。おはよう」

「おはよう。おばちゃん。今日の朝飯は何?」

張り詰めた空気の息苦しい事務室とは対照的に、愛想良く高山一尉に挨拶をしたのは、背の低い小太りの“おばちゃん”、
基地内の食堂に勤務する、同じ自衛官である給養員だ。
軍隊というのは自己完結の組織であり、戦闘やら、食糧の確保やら、傷付いた兵士の治療に至るまで、全て自前で解決する必要がある。
戦地に赴いた際に、他の組織に助けを求めている余裕はないからだ。
勿論、それは自衛隊も例外ではなく、「戦闘機を飛ばすことはできるが、食事を用意する人間がいない」といったようなことは、あり得ない。

   ・・・・・・
「スクランブルエッグとソーセージ」

「それ冗談?俺、今日は非番なんだよ」

少し困った顔で笑い、“おばちゃん”の冗談に付き合った高山一尉は、目玉焼きとソーセージを自分の皿に入れた。

「昨日は大変だったみたいね」

「え?...あぁ、もう知ってんの?」

「当たり前じゃない。みんな知ってるわよ。戦闘機が一機、ミサイルを“なくして”帰って来たって」


“おばちゃん”の情報収集能力に、参ったといった感じの顔をした高山一尉は、
食堂にあるテレビから昨日の事件がニュースで報じられているのを目にする。


  ── 昨日起こった自衛隊機の事故ですが、これはどういったことが原因だったのでしょうか? ──


若い女のアナウンサーが話題を振ると、何やら“評論家”らしき中年の男が、偉そうに何かを言い出した。


  ── 恐らく、パイロットの人為的なミスでしょう。民家の上でなくて良かったですね。
    それにしても自衛隊は、税金で食べているのに全く頼りになりませんよ。
    戦闘機なんか飛ばすより、もっと国際貢献をするべきだ。例えば、アメリカでは.....──

         *

      同日 10:00頃


「クソが....ふざけやがって......」

日本海の潮風が当たるベンチに腰を下ろした高山一尉は吐き捨てるように、そう呟いた。
そんな彼を尻目に、大きな旅客機が上空を通り過ぎて行く。
小松飛行場は防衛省が管理しているが、自衛隊と民間航空が滑走路を共用している。
その為、離着陸をする飛行機の種類は多岐に渡るが、今日は戦闘機が腹の底まで響く爆音を轟かせながら上空を行き交うことはなかった。
食事を済ませた後、一連の事象を全て飲み込むことができない高山一尉は帰る気にもなれずに、心地良い潮風に晒されながら考えにふけっていた。


(....事故だと?...ふざけんな。交戦したんだよ)

(どこの国から来たのかも分からねぇ「フランカー」と...俺達二人も、危うくあの世に逝くところだったんだ)


昨日、日本海上空で交戦した二機の黒い「フランカー」が描いた恐ろしい軌道を思い出しながら、彼は妙な点に気が付く。
早期警戒機(AWACS)からの指示が、敵機との会敵後すぐに「交戦」に変わったことだ。
そう、まるで初めから敵機の存在を知っていたかのような気がしてならなかったのだ。
つまり、上層部はF-15の墜落が事故ではないことを知っていたのではないか.....?

「飲むか?高山」

「........班長」

突然、後ろから缶コーヒーを差し出してきたのは、飛行班長だった。
普段は愛想の悪い上司が、自分に対して気を遣ってきたことに少し違和感を覚えながら、高山一尉はその温かいモノを受け取った。

「正木はどうしている?」

飛行班長は、高山一尉と少し距離を置いてベンチに腰を下ろした。

「あいつのことだから、多分まだ寝ていますよ」

高山一尉は内心、驚いていた。自分のことではなく、後輩の新米パイロットである正木拓馬三等空尉のことについてだ。
正木三尉は一度、重大なミスを犯してしまったことがあり、そのことを飛行班長から再三、咎められていたからだ。
「このままでは戦闘機を降りてもらわなければならない」と、そこまで言われていた正木三尉に救いの手を差し伸べた人物が、
他の誰でもない、高山隼一等空尉であったのだ。
毎回、訓練で優秀な成績を収める彼は逸材であり、空対空戦闘訓練(ACM)では主力戦闘機F-15を打ち負かす程の実力を持つ、空戦の天才である。
そんな実績のある高山一尉の発言は部隊において絶大な影響力と説得力を持ち、
上司である飛行班長に「一人前になるまで自分が面倒を見ます」と名乗り出たのも彼であった。
そして、そんな飛行班長は部下に対して無頓着な人物だという印象を与えていたようだが、彼はそれを聞くと軽く頷きながらこう切り出した。

「交戦したのか?」

「....ええ。フランカーでしたね。黒いフランカーでした」

「やはり国籍は分からんか.....。撃墜したんだろう?」

「危うく死ぬところでしたよ。もし、一つでも何かが違っていたら今頃ここにいませんね」

「すまなかった」

「何を仰っているんですか。原因は上ですよ」

「そのことなんだが、どうやら例の法案が関わっているらしい」

「安全法ですか?」

その法案とは、この夏、世間を騒がせて物議を醸した「安全保全法案」のことだ。
同盟関係にある国の軍隊がテロ組織や第三国などから攻撃を受けた場合、自衛隊も戦闘に参加して加勢することができるという、
いわゆる「戦争法案」である。
この法案を巡っては様々な議論があるが、一般論で言えば明確に「憲法違反」であり、国民のほとんどが反対であったにもかかわらず、
日本政府は採決を強行した。
言うまでもなく、国会議事堂の前に何万人集まってデモをしようが、メディアが様々な角度から報道しようと試みようが、国民の大半は無関心で、
結果は同じであった。ところが「自衛官」は、そうは言っていられない。
この法案の運用方法次第では、自らの生命にも関わってくるからだ。   

「飛行隊の一部を東ヨーロッパに派遣することが既に決まっていたらしいんだ」

「......本当ですか?....何の為に?」

「俺達を犬死にさせる為に....らしい」

「.....それは、一体どういう意味ですか?」

「俺も同じことを聞きたいところだが、どうやら、陸自は南スーダンで、海自は南沙で、そして空自は東ヨーロッパで世界大戦の火種になって死ねという話らしいんだ.....」

「なっ.....世界大戦....?」

「あぁ。民間の組織が空自に情報提供をしてきたらしい」

「........民間の組織ですか.....」

「諜報活動を主にしている超国家的な組織らしい。胡散臭く感じるかもしれんが、国会議員や官僚がアメリカの高官や軍需産業関係者、そして多国籍企業の重役と随分前から電子メールでやり取りをしていて、そのデータを彼らが提供してきたらしい」

「.........っ!!」
   
「※空幕にいる一部の人間がその海外派遣に反対したんだが、どうやら、その報復が昨日の騒動だったという話らしいんだ」
※防衛省にある航空幕僚監部のこと。

「......自分達はどうなるのですか?」

「まだ分からん。ただ、ふざけた話だが昨日のことは一切伏せられてしまうようだな」

「...........」

「先のことはまだ分からんが、いざという時は....自分で考えろ。高山」

「.......クーデターでもやるんですか?」

「....先のことは分からん。だが、いいもん食ってパンパンになったご立派な腹をした国会議員のせんせい方やお偉いさん方がコックピットに収まってGに耐えられると思うか?」



高山一尉は軽く頷くと、二ヤリとほくそ笑んだ。

第七幕 Ⅰ「因果応報」

20XX年 10月10日 19:00 京都府京都市東山区“祇園”

その日も、祇園の夜は賑わっていた。
京阪電鉄祇園四条駅を出ると四条通があり、鴨川に架かる四条大橋とは反対方向に東入ると祇園の中心を通る花見小路通にぶち当たる。
そして、そのメインストリートを下がると、京都有数の花街が広がっている。
古都の面影を残した風情のある街並みは、現代の照明技術によって、昼間のそれとは違った味わいを醸し出しており、
また、繁華街でもあり歓楽街でもあるこの花街は夜になるとその筋の店で働くそれらしい出で立ちの女達が何処からともなく現れ始め、
この風情溢れる街をさらに歪なものにしていた。

「林さん、河豚はお好きではありませんでしたか?」

風情溢れる花街にある料亭で三人の男が会食をしているようで、その内の一人が重苦しくなってしまった雰囲気を気にしたのか、
そう言葉を発した。

「すみませんねぇ、奥さんとの離婚協議中に....渋谷からは遠かったでしょう?」

林実(はやしみのる)は目の前にある高級料理を口にするどころか、昼に食べたコンビ二弁当まで吐き出しそうな気分がした。
また、彼をそんな気分にさせているのは目の前で河豚鍋をつついている二人の中年男である。
一人は小柄な体型に完璧なメタボ体質で、円形脱毛症のように頭のてっぺんだけ禿げている男だが、
もう一人は対照的に痩せていて、身長が百八十センチはあろうかという大柄な体型をしている。

「ゼロ金利が続いているのでこちらも大変ですよ、林さんも円安で苦労されたでしょう?」

友住第三銀行大阪本店の支店長だと名乗る、小柄なメタボ体質の男は彼にそう言ってさらに追い打ちをかけた。
林実は、自分も小柄なメタボ体質をしているが、この男ほど上手く他者の気分を害する自信はないと内心呟いた。
だが、そんなことを気にしている暇もなく次の一撃がもう一人の大柄な男の口から飛び出す。

「いやぁ、それにしてもあのコは良くやってくれていますよ。林さんは他にも“自分の”娘さんがいらっしゃるんですよね?
 彼女だけは路頭に迷わないようにしてあげないと」

彼は机の下で拳を握りしめていたが、その爆発しそうな感情をどうすることもできない。
なぜなら、目の前に座っている二人の中年男に自分達の全てを握られているからだ。

 バブルが崩壊した九十年代初頭、大阪府寝屋川市に移り住んだ後、結婚。一人娘を授かった。
帰化人である彼は、若かりし頃にいわれもないハンデを背負わされた経験が多く、
また、その経験は彼に破壊的な先入観を植え付けるには十分であった。
そのハンデを補う為に、その筋の人脈を作り、資本金三百万円ほどの会社を設立、
零細企業の会社員として働く傍ら、自営で輸入業を営んでいた。

そして、ベトナムにある取引先を訪れた際に二人目の娘を“買い取る”
クリクリとした大きな目を持つその赤ん坊は実の愛娘より一歳上であったが、
現地の里親は「中央アジア系の血が入っているので、将来は美人になるだろう」と言う。
「なんて可哀想な捨て子なんだ」という思いは自分自身を納得させる為の表面的な言い訳で、本心では「色々と利用できるであろう」と何かを画策していた。

 時代は流れ、教育においてはいわゆる「ゆとり教育」が猛威を振るっていた頃、同胞が多い大阪の地域性が味方したのか、
お世辞にも裕福とは言えない中で、何とかやりくりすることができていた。
だが、歯車が狂い始めたのは“長女”が高校受験を控えた時期であった。
この頃、彼らのバックボーンであった筈の在日韓国人系暴力団が力を失い始めたのだ。
それまで、学校で一番のマドンナで常にクラスの中心にいた“長女”は次第にいじめられるようになり、
元々、勉強が嫌いな性格も彼女の転落に拍車をかけてしまったのか、寝屋川市で最低ランクの高校に進学してしまう。
 地元でも有名な美人であった“長女”は、まるで線路を進む列車のようにガラの悪い連中と付き合い始め、
せめて、娘達だけにはまともな人生を歩ませてやりたいという“両親”の願いを見事に裏切ってみせた。
そして、彼が作り上げたささやかな“家庭”が音を立てて崩れ始めたのも、ちょうどその頃だった。
 一歳下の愛娘は姉の素行を真似て男癖がかなり悪く、同じ最低タンクの高校に進学したが、何とか短大までは卒業させた。
だが、“長女”は見捨てるしかなかった。
 可愛い“長女”であった。その容姿だけではなく、自分達“両親”を気遣い、学校では率先して生徒会等の面倒な仕事にも関わっており、
それは少しでも“家族”の立場を良くする為に“長女”が献身していたのであろうことは誰の目にも明らかであった。
昔は、娘達にせがまれて「デズニ―・ランド」に行ったりもした。
しかし、最早彼は“長女”に対して「少し高い値段のした操り人形が壊れてしまった」くらいにしか思えなくなっていたのである。

「赤居さんが仰っていましたよ、あなたは扱い易い人間だって」

背の高い大柄な男にそう言われて、我に返った林実は自分が巻き込まれた一連の事件を思い出した。
始まりは赤居と名乗る高校時代の同級生から同窓会に誘われたことだ。
そんなに面識もなかった男から持ち掛けられた話は実際、同窓会といったものではなく、ある会社の買収話。
 その会社は「バハマ・レ―ティング」という資本金百万円ほどの小規模な会社で、赤居という男は同社の取締役になっていた。
「いい儲け話がある。目障りな日本人どもから搾取できるんだ。同胞達の為にもなる」といった具合に、
半ば強引に説得され、林実は自分の営む資本金三百万円ほどの会社に「バハマ・レ―ティング」を買収する。
だが、これが巧妙に仕組まれた詐欺だと気付いた時には随分と遅すぎた。

「バハマ・レーティング」は言わばペーパーカンパニーで、同社は日本三大部落の一つである“崇仁地区”の一角にある材木町という
いわくつきの土地の名義人になっていたのだ。
 そして、極め付けは在日韓国系金融機関、悪名高き「関西産業信用組合」である。
何と、この銀行は材木町の土地を担保に根抵当権を設定していて、その融資先が「バハマ・レーティング」であったのだ。
その額、七十億円。
 林実に残されたものは七十億円という非常識な額の負債と一家離散という現実のみ。
すでに、赤居という名の男は姿をくらませており、彼は必要最低限のモノだけを持って東京の渋谷まで逃げるしかなかった。
もっとも、あまりにも急いで夜逃げしたのか家具や粗大ゴミが家の前に置きっ放しで、近隣住民にはまるわかりであったのだが....

「この不況ですから、キングコングも生き残る為に必死ですよ」

大柄な男はさらにそう付け加える。
確か、この男は東証一部上場企業「キングコング・グループ」の重役だと隣の小柄なメタボ体質が言っていた。

そう、本当の悪夢はそこから始まった。
ある日、盧正泰ノ・ジョンテと名乗る韓国籍の在日朝鮮人が、どこから連絡先を手に入れたのか分からないが、
林実にアプローチをしてきたのだ。
そして、その不気味な男が持ち掛けてきた話は、
「材木町の土地をリウ信用金庫という別のペーパーカンパニーに名義変更すれば、
友住第三銀行が借金を肩代わりし、関西産業信用組合の根抵当権を外すことができる」といった不可解な内容であったのだが、
他に拠り所がなかった彼は、藁にもすがる思いでその話に乗ってしまう。
だが、それは同時に、彼の全てが裏社会に蠢く闇の勢力に握られてしまうことを意味していた。
 これまで大阪の片田舎である寝屋川市で付き合いの深かった「チンピラ」とは訳が違う、後戻りのできない真の魔界へと引きずり込まれてしまったのだ。
そして、なぜこの男達は自分の見捨てた“長女”のことまで知っているのかということも、彼が一切逆らうことを許されない現在の事情を物語っているようでもあり、
誰が自分の連絡先を盧正泰に伝えたのかも、林実は自ずと分かっていた。
そう、因果応報という言葉の意味は現実に存在したのだ。


同日 23:40

「そろそろ行きますか」

小柄なメタボ体質の男がそう言うと、河豚鍋を食べ終わった三人は会計を済ませて料亭の外に出た。
 そこで林実は、おや?と思う。
完全に時代遅れのセダン車が料亭の隣にある駐車場に停めてあり、車内でカップルのような若い男女が「ゲーム・ボーイ」をしているのだ。
 ペアルックと言うのだろうか?二人とも同じ群青色のパーカーを着ていて、何やら嬉しそうに遊んでいるので、
小学校の高学年か中学生くらいの歳かと思っていたが、よく見ると若い女と青年だった。
 恐らく、女の方はハーフか何かだろう。セミロングの髪は金髪で、整った綺麗な顔をしているかなりの美人だ。
そして、彼女とは対照的に男の方はどちらかというと地味なルックスをしている。
これだから最近の若者が考えていることは分からないと呆れていると、迎えのタクシーが到着した。

そのタクシーは 関西圏では有名な通称「五百円タクシー」で、運営をしているのは「エルケイタクシー」という会社であったが、
今はそんなことはどうでもよかった。
 三人が乗ると、目の下にクマがあるやつれた顔の運転手が不機嫌そうに行先を尋ねる。

「京都駅北側、下京渉成小学校前」

小柄なメタボ体質の男が行先を告げると、運転手は少し首を傾げたが、
三人の不可解な男達を乗せたタクシーは碁盤の目状に区画された京都の街をゆっくりと進み出した。
 そのタクシーは四条通りに出ると直進し、鴨川に掛かる四条橋を渡ると高島屋のある交差点を左折して、河原町通りを下がり始めた。

「林さん、今晩はスウィートルームで....若い娘を呼んでいますので、お楽しみ下さい」

背の高い大柄な男がそう言うと、林実は少し疲れたように頷いた後、窓の外を見ながら満足気に笑みを浮かべた。
もう全てに疲れていた。昔は別嬪だった嫁も今ではただの「色ボケ婆」に成れ果て、
どうせ若返りもしないのに「CHD」とか言う詐欺まがいの化粧品や健康食品をねだられた挙句、例の詐欺に遭った瞬間、離婚話を切り出された。
さらに、愛娘は下らないチンピラに汚された後、病院代も払わずに逃げられる。
もうどうでもいい。さっさと面倒事を片付けて女の温もりを抱きたい......
その思いだけが林実の変態的な精神を何とか保たせていた。

 男達を乗せたタクシーは、七条通りに差し掛かると右のヘッドライトを点滅させる。
もうすぐ深夜になろうかという時刻だったので車通りも少なく、タクシーは一時停止をすることなく右折した。
そして、少し進むと反対車線に小学校が見えてきたが、小柄なメタボ体質が運転手にそこで停車するように伝えた。

「私どもはあちらに行っておきますので、ここで指示に従って下さい」

そう言い残した後、タクシーは林実をポツンと一人だけ残して行ってしまった。
 辺りには人っ子一人いなくて、いくつかある街灯だけが不気味に深夜の闇を照らしている中、目の前には駐車場があり、その隣に不気味な空き地が広がっている。
“材木町”....この土地の地上げをめぐり、数々の血が流れたであろういわくつきの場所である。
一部では“魔界”とも呼ばれ、長年、手をつけてはならないと認識されてきたその場所は、
人が住んでいる気配が一切感じられない廃墟のようなマンションを背景に、
まるで怨霊が出てくる墓場のような、不気味という生易しい表現では到底収まらない独特の雰囲気を醸し出していたが、
暗い歩道の向こうからスーツ姿のガッシリとした男が二人現れて林実の方へ歩み寄って来た。

「あんたが林さんか。早よ済ませるで。頭からは丁重に扱うように言われとるが、ことによっちゃ....やからな」

明らかにその筋の人間であろうその男達は、先程の二人とは全く対照的な佇まいであったが、
林実は何も言わず、半ば引きずられるような形で、その二人のあとについて行った。
 “材木町”の入口には「文化財調査中」と書いてあるが、そのことを裏付ける根拠はもちろん皆無で説得力すら感じられない。
空き地の中には白いテントがいくつかあり、テントの外ではスーツ姿をしたそれらしい男達が彼を先導する二人を除いて五人ほど
ギラギラと鋭い眼光を光らせて警備をしている様子が伺える。
そんな中、漆黒の闇夜に紛れた三人のいびつな男達は、魔界の入り口に吸い込まれるように、白いテントの中に入って行った。
中に入ると、折りたたみ式の長いテーブルとパイプ椅子が四つ置かれていて、林実はその椅子に座るように促される。

「林さん、それじゃ、この誓約書にサインをしてくれ」

テーブルの上には「誓約書」と大きく書かれた紙が無慈悲に置かれてあり、端に目をやると少し大きめのノートパソコンがある。
林実は椅子に腰掛けると、おもむろにボールペンを取り出した。
しかし、その「誓約書」には全く身に覚えのない予想外のことが書かれており、彼は一瞬にして巨大な冷蔵庫に放り込まれたかのように凍り付く。

「運び屋や。まぁ、大したモンじゃない....覚醒剤やからな」

これまで何度か遭遇し、何とか回避してきた最悪の道筋....
過去の教訓から、大阪の寝屋川市では自分達の身を過剰に保護する為にある宗教団体に属していたが、その時も同じ誘いを受けた。
その時は、すんでのところで断り、何とか回避した最悪のシナリオは、どうやら今回は断ることが一切許されない状況であることは明白で、
林実という人物には絶望感を感じる余裕さえないようだ。
そんな彼が、冥界の王から審判を受けて地獄行きが決定した死者のように、魂が抜けたような表情でスーツ姿の男を見た瞬間、
軽快な連射音がして、この解決不可能な沈黙を破った。

「うわぁぁぁあっ!....何やぁこの女ぁっ!?....助け..ぶぎゃぁあっ!!」

「ぎゃぁあっ!...いてぇぇえっ....ぁうわぁあ....撃たれたぁあっ!!」

「あかんっ....この女っ....増援を呼べっ....うわぁぁあっ!来んなぁぁあっ!!」

テントの外で三人分の痛々しい悲鳴が聞こえ、想定外の事態に見舞われた林実と二人の男は動揺するしかなかったが、
次の瞬間には別の悲鳴が聞こえてくる。

「早よ、頭に連絡せぇえっ!....はよぉぅぶぅうっ!?」

「ぁあっ!?どっから撃たれっ....ぇぶぁがぁっ!!」

不思議なことに別の銃声が一発ずつ聞こえてきたのは男達の悲鳴が聞こえた後であった。
 林実と二人の男が呆気に取られていると、テーブルの上に置いてあるノートパソコンから本来であれば聞こえる筈のない声が聞こえてくる....

“ Dear,Mr.Hayashi.We are anonymous.We Are Legion.We do not forgive.We do not forget.Expect Us.”
(親愛なる林さんへ、俺達はアノニマス。特殊部隊だ。あなたを許さない。俺達は忘れていない。覚悟しろ)

語学の心得がない彼には意味がさっぱり分からないようだが、これが自分に対する宣戦布告であることくらいは理解できた。
 スーツ姿の二人は懐から拳銃を取り出すと素早くテントの外に出る。林実が二人のあとに続くと外では五人の男が倒れており、
目の前から群青色のパーカーを纏った綺麗なシルエットの女がこちらに迫って来ていた。
 金髪でセミロングの髪に不気味な笑みを浮かべた黒いお面を被った女........
その女は、瞬時にスーツ姿の男に詰め寄り、手の平で相手の顎を勢いよく押し上げた。

「あぁびぇえっ!?ぁがぁ!?....ひぃぇぇぇえっ!!舌がぁぁぁあっ........!!」

男は口内から鮮血をだらだらと流し、拳銃を落とした両手で顔面を覆い、そして悶絶する。
 最後に残されたもう一人の男が苦し紛れに拳銃を構えようとした時、その行為は一切意味を成さないとでも言うかのように、
その手は拳銃ごと何かにもぎ取られて腕から分離し、吹っ飛んで行ってしまった。

「ぎぃぃぃいやぁぁあっ!!....てっ....手ぇぇえっ....俺の手ぇぇぇえっ!!!!」

またしても一発の銃声が聞こえたのは、男が悲鳴をあげて地面に倒れ込んだ後だった。
 綺麗なシルエットの女は林実の方を向くと、一瞬で彼に詰め寄り、そのまま地面にねじ伏せる。
うつ伏せの状態で倒れ込み、顔面を片足で抑え込まれた彼は抵抗することもできずに手足をジタバタと動かすことしかできない中、
この女が身に纏っている群青色のパーカーは祇園で見た奇妙なカップルと同じものであることに気付く。

“林実やな?俺らのこと憶えとるか?....まぁ自分らって昔から他人に興味無さそうやし、アホやからな”

地面に倒れ込んだ際にポケットからスマートフォンが飛び出してしまっていたようで、またもや聞こえる筈のない声がそこから聞こえてきた。
 白いテントの中にあるノートパソコンから聞こえてきたのと同じ声........
その声の主が一体誰で、なぜ自分の携帯から身に覚えのない声が聞こえるのか疑問に思う暇もなく、
今度は、こちらに歩み寄って来る足音がして追い打ちをかけるように別の声が聞こえて来る。

「林まりなはどこだ?」

自分が尋ねられた内容に驚愕した林実は、次の瞬間には地面にねじ伏せられた顔面が青ざめる。

“優二、パスワードファイルを奪取した....解析完了。もうその変態親父に用はないわ”

「仕事早いな、南野」

優二....南野....そう言えば十年程前、赤いランドセルを背負っていた“長女”が夕食の時に何やら嬉しそうに話していたことがあった.....
学校で変わり者の男子が二人いると.......

「ぁぁがぁあ....手ぇ....血がぁぁ....きゅっ....救急車呼んでくれぇぇぇ....」

手が拳銃ごと腕から分離してしまったスーツ姿の男が、悶え苦しみながらそう訴えると、
群青色のパーカーを纏った男は、地面に転がっている林実のスマートフォンをその男の方へ蹴って寄越してやった。

“悪い、時間ないねん。自分で呼んでくれ”

南野の声だけが漆黒の闇夜に木霊して、その場に響き渡った。

Ⅱ「アセンション・プリーズ」

20XX年 10月10日 1:50 京都府京都市左京区鞍馬寺


夜の秋風は冷たい。この日もそうだ。これは単に気温が低いという意味ではなく、その場を取り巻く情緒すべてに影響を及ぼしている。
独特な虫の声は小さくなり、空気は風船がしぼむ時のようにどこかへと抜けて行ってしまう。
そんな何かを諦めさせてしまいそうな空っぽな雰囲気がそこに存在し、夜の静けさを演出している。

「なぁ、頭は一体何を考えとるんや?」

「さぁな。わしら下っ端が知る由もないで」

スーツ姿の厳つい男が二人、何やら怪しげな話をしながら見張りをしているようだ。
 ここは豊かな自然がある山林の一角で、右にカーブしている道路沿いに石の階段がある。
男達の声はどうやらこの上の方から聞こえてくるようだ。辺りは真っ暗で人っ子一人いない為、階段の登り口まで響き渡ってしまっている。

「それにしてもアレやな。あの業火学会(ごうかがっかい)がここにまで手を出すとはなぁ....」

「しゃーないやろ。裏で手を引いているのがキングコングやからな」

男達の怪しげな声が響き渡っていた時、その話に割って入るかのように、一台の車がヘッドライトで闇夜を照らしながら通り過ぎて行く。
その車の特徴を確認するのに十分な灯りはその場にはなかったが、見える限りでは漆黒の闇に溶け込んで見えなくなりそうな群青色をしたセダン車だった。

「......一般人や。問題無さそうやな」

「あぁ、そうやな。まぁここでの“処刑”がバレるわけないで。今日の仕事は楽なもんや」

そんな自分達の役割を否定する言葉を述べて呑気に状況判断をしている男達だったが、階段の登り口に目をやると、
階段の両脇にある灯篭の一つが警告を鳴らすかのようにチカチカと点滅し出した。

「ん?なんじゃアレ......さっきまであんなんあった....ぁぶひぃぃいっ!?」

一瞬何が起きたのか分からなかったが、次の瞬間には誰かの片腕が分離してどこかに吹っ飛んでいき、男の一人が後方に倒れ込んだ。
そして、そのコンマ一秒後には遠方から到達した銃声が響き渡り、漆黒の闇夜を切り裂く。

「あっ....ぁぁあっ!?なんっ....なんじゃっ!?おっ....おいっ!おぃぃぃいっ!!」

自分のバディが倒れ、あたふたとうろたえることしかできない残りの男は何が起きたのかさっぱり分からず、キョロキョロと辺りを見回した。
すると、暗闇に紛れた人影が階段の登り口に飛び出して来て、両手に何かを構えながらこちらに迫って来る。
ズダダダッ!と短い連射音が響き渡り、残りの男は悲鳴を上げる暇もなくその場に倒れた。
 それは一瞬の出来事だった。そして、石の階段の両脇に並んでいる灯篭が何かに触発されて明かりを灯し、戦いの舞台とその主人公たちを照らし出す。
そこには“鞍馬寺”と書かれた大きな石碑が階段の登り口にあり、その先には朱塗りの仁王門が構えていた。
その不気味な夜の寺院に舞い降りたのは群青色のパーカーを纏った二人組の男女........

“Anonymous02 to Hawkeye,Targets are downed.Request order.”
(アノニマス02からホークアイへ、ターゲットを倒したわ。次の指示を乞う)

綺麗なシルエットの女が無線越しに話す声がその場に響き渡る。さらに雑音が聞こえた後、それに応答する声が聞こえた。

“Ragor,Bluebird,initiate Operation intercept. ”
(了解。ブルーバード、“阻止作戦”を実行せよ)

かなり訛りの強い、英語というよりは関西弁に近いアクセントのその声は二人の男女に指示を下す。

“Anonymous02,Ragor.”
(アノニマス02、了解)

“Anonymous01,Ragor.”
(アノニマス01、了解)

綺麗なシルエットの女に続いて応答したのは、彼女と同じ群青色のパーカーを纏った男。

“優二、マスクから発せられる電波のお蔭で階段がライトアップされてもうたわ”

例の調子で、そう呟く関西弁は今日の主人公にさりげなくスポットライトを浴びせた。

「景色はいいんやけどな」

優二は黒いアノニマスマスクに装備された無線越しにそう応えを返すと、前方にいるバディの方を見た。
するとクリスティーナも彼の方を見て、マスクを外すとウィンクをする。
彼女はバディが親指を立てて自分の気持ちを理解したことを確認すると再びマスクを被り直して、無線でこう言った。

“ Yuzi-san,I leave that entirely to you.”
     (優二さん、お願いね)

作戦開始。クリスティーナは優二の前方を進んで行く。
“スプレッド”と呼ぶこの隊形は、彼女と一緒に何度も訓練したアノニマス(匿名集団)の基本隊形だ。
最前列で戦うFIGHTER(戦闘者)を後方からサポートする。それは彼女の死角から攻撃を仕掛けてくる敵を排除するだけではなく、
戦場の状況を冷静に判断し、彼女に指示を与えるという役割も優二に与えた。
つまり、実際にクリスティーナをリードするのは他の誰でもない優二なのだ。
その意味は彼らのコールサインにも表れている。アノニマス01は優二であり、アノニマス02はクリスティーナ。
そう、この二人が前線で戦う“スパイ”。コールサインはブルーバードだ。
 
 ブルーバードの二人に与えられた初のミッションは通称“Operation intercept(阻止作戦)”。
円卓のあるHQ(本部)で三井が彼らにブリーフィングを行った、この作戦の概略はこうだ。

 キングコングの中間管理職にあたる社員が某新聞社に内部資料を提供しようと試みたが、そのことが同社の上層部に露呈。
その資料には同社の悪行が全て記されているという。暴力団との関係、政界との癒着、そして裏の人脈を繋ぐ「フィクサ―」の存在....
そして、この件に最も絡んでいるのは、日本国民なら誰でも知っている大手銀行、友住第三銀行だ。
そんな日本の闇社会に関する重要資料を握った当該人物の男は一週間前から連絡が途絶え、行方不明になっていると某新聞社からアプロ―チがあった。
 そこで、南野(ホークアイ)が同社と関係の深い暴力団のサーバーに侵入すると、京都府左京区の山林に奴らの“処刑場”が存在し、
内部告発者の処刑が行われていることが明らかになる。つまり、暴力団は民間企業からの殺人請負をしていたということだ。
ただ、京都府左京区の山林はだだ広く、一体どこにその“処刑場”があるのか見当がつかなかったが、
暴力団のサーバーから奪い取った情報には名簿のようなものが含まれていて、そこには見覚えのある名前があった。
盧正泰(ノ・ジョンテ)、林まりな、そして林実(はやしみのる)だ。
 材木町で暴力団と何かの密約をしていた林実はその場に拘束して置いてきた。今頃、警察やら救急車が到着して大騒ぎになっているだろう。
先程手に入れた情報によると奴らは鞍馬寺にある通称“木の根道”で処刑を実行するようである。
 ブルーバードのミッションは処刑の阻止及び内部告発者の保護、そして重要資料を回収すること。

本部で行ったブリーフィングを頭に叩き込んだアノニマス小隊ブルーバードの二人は灯篭に照らされた石の階段を登り、
朱塗りの仁王門を通り過ぎた。“鞍馬寺”の入り口には小さな観音がいる蓮華水があって身を浄めるように促していたが、そんな時間はない。
 二人は、再び、両脇に赤い灯篭が並んでいる石の階段に出くわした。
そう、鞍馬寺は深い山の中にあるのだ。尊天(千手観音・毘沙門天・魔王尊)が奉安されている本殿金堂までは険しい山道を登って行かなければはならず、
“処刑場”のある“木の根道”はそこからさらに上部にあり、貴船に向けて下る道に広がっている。
マスクから発せられる電波に刺激されて明かりを点した灯篭によって映し出されたクリスティーナの綺麗なシルエットを前方に確認しながら、
優二は今回の作戦において一番厄介な問題を思い出した。
これまで彼女や南野、そして三井と訓練を重ねてきたのは平地を想定してのものであり、このような険しい山の斜面を駆け上りながら戦うことなど全く予想していなかったのだ。
しかも初陣で、ぶっつけ本番で挑まなくてはならない。

“優二、しっかりお姫様を守ったらなアカンで”

南野(ホークアイ)から無線が入ると、僅かな不安を抱きかけていた貴公子は、自分のバディである“お姫様”の柔らかい笑顔と透き通った声を思い出し、
それらを心の内に燃え滾る蒼い炎へと変えて、両手に持つスナイパーライフルH&K MSG90 を強く握りしめた。

「了解。分かっとる」

クリスティーナの戦闘能力は相当なものだ。男を相手に華麗な格闘戦を展開できるだけではなく、彼女が日々の訓練で見せていたのは総合的な「戦闘力」だった。
身軽な彼女は俊敏な動きで素早く敵の懐に潜り込み、その細身のカラダを華麗に動かしながら両手に持つMP5サブマシンガンで敵を攻撃する。
だが、そんな強力なFIGHTER(戦闘者)にも限界がある。それはどんなに訓練を重ねようと優二の助けが必要なことは明白であった。
そう、戦場で彼女を守り抜き、二人で無事に本部へ帰還することができるかどうかは優二にかかっているのだ。

石の階段を登り終えると、登り斜面が待ち構えており、これから果てしなく続く暗闇の道のりに二人をいざなっているようだ。
 右手にケーブルカーがある建物を見て、そこを通り過ぎた優二はその建物に奇妙な垂れ幕が掛かっていることに気が付く。
それには「業火学会(ごうかがっかい)の援助に感謝」と大きな文字で書かれていたが、そんなことを気にする余裕もなく
前方を進むクリスティーナから無線が入る。

“Enemies are identified.Anonymous02,Engage! ”
(敵を確認、アノニマス02交戦!)

ブルーバードの二人が被っているいる黒いアノニマスマスクには暗視装置がついており、夜間の戦闘でもしっかりと視界を確保することができる。
その暗視装置を通して緑色に変わった景色に映ってきたものは、前方を行くクリスティーナの綺麗なシルエットと、そのさらに先に現れた四人の人影........
スーツ姿の男達が山道の上から走り降りて来る。直後にサブマシンガンの連射音が響き渡った。

“Anonymous01,Engage!”
(アノニマス01、交戦!)
 
クリスティーナが戦っているのが見える。一人目が倒れた。二人目も。そして、三人目と四人目が拳銃を構えようとしている......ズダンッ!!
その瞬間、優二が持つH&K MSG90が火を放ち、銃火(フラッシュライト)が暗闇を照らしたかと思うと、
照準(レティクル)の真ん中に捉えたターゲットが吹っ飛んだ。
彼のスナイパーライフルに装填されているNATO弾が敵に命中し、射抜いたのだ。
そして、残された一人はあたふたとしている間にクリスティーナから距離を詰められてしまい、みぞおちに強烈な蹴りを食らうと、その場に倒れ込んで動けなくなってしまう。

“I'm sorry for my offensive”
   (ごめんなさいね)

なぎ倒した敵に対して、彼女が非礼を詫びる声が聞こえる。無意味な殺戮行為はブルーバードの任務ではない。
それはターゲットがどんなものであれ同じだ。例え、ヤクザが相手でも犠牲者は最小限に抑える。
彼らの任務はあくまで情報収集や破壊工作活動の阻止であるので、自分達の身に危険が及ばない範囲で配慮をする必要があるのだ。
とりわけ、“お姫様”に至っては、その戦闘能力の高さとは裏腹に、あどけない少女のようなピュアなハートの持ち主であるので、
彼女に負担をかけすぎないように気を遣ってあげる必要もある。似た気質を持つこの二人だからこそできる共同作業。
情報収集のプロであり、陰謀論者でもあるMr.三井のマッチングは実に絶妙であったのだ。

これならいける。優二は株式会社ジェネラル・プリンセスで過ごした一か月間を思い出し、心の中でそう呟いた。

“....System is all clear.データリンク完了”

ホークアイの声が聞こえると、倒れた敵が落したスマートフォンが奇怪な雑音を発しているのが分かった。
筒抜けになった情報が、彼らの被る黒いアノニマスマスクを経由して衛星に送られ、本部に向かっているのだ。

 二人は山の香りを感じながら急激な山道をさらに登っていく。すると、「由岐神社」と書かれた鳥居が見えてきた。
鳥居の向こうには五十メートルはあろうかという巨大な杉があり、優二とクリスティーナを見下ろしている。
スプレッド隊形の最前列を進むアノニマス02が、奥深い山の寺院に存在するにはあまりにも不自然な神域への入口に差し掛かったその時、
雑音とともに関西弁混じりの英語が聞こえてきた。

“アカンっ!....Bluebird,This is Hawkeye.Close,Formation Element!....優二、上におるっ!上やっ!!”
      (ブルーバード、こちらホークアイ。エレメント隊形を取れ。)

前方にいるクリスティーナがビタリと立ち止まった。その刹那、彼女の足元に小さな穴がビシッと現れ、銃声がする。
ツインの愛銃を斜に構えて発砲しながら後退するバディの姿をみとめた優二は、全速力で彼女の方へ駆け寄る。
“エレメント”は、FIGHTER(戦闘者)に対処不可能な要因が発生した際に取る隊形(フォーメーション)だ。
どだい、MP5サブマシンガンの射程距離は長くなく、近接戦闘を行う彼女は敵から狙撃されてしまうリスクも大きい。
その際には互いの距離を最小範囲まで縮めて脅威に対処することが必須になるのだが、そこからは蒼い貴公子の独壇場になる。
 お姫様の息づかいが聞こえる距離まで近付いた彼は、暗視装置を通して見える景色の中に二つの不気味な影を発見した。

「やぐらかっ!....二人っ!やぐらに二人おるっ!!」

“あほかっ!お前、あれは「お社」(おやしろ)っていうねんっ!!”

クリスティーナは同僚のアホ男二人が繰り広げる漫才を理解できるほどの日本語力をまだ備えていないようだったが、
とりあえずの安全地帯をいち早く見抜いたバディに手を引かれた。優二の向けた視線の先にあるのは鳥居の前にある手水舎だ。
それは神域に至るまでの石の階段があるちょうど左横に位置していて、その狭間に僅かな隠場がある......
と一瞬のうちに数秒後の動きをスローモーションで再生したが、クリスティーナの左胸にレーザー照射を受けた小さな赤い印が表れていることに気付く。
くそ....と呻く暇も無く、自分のバディを強引に抱き寄せる。すると、彼女も同じことを考えているとでも言うかのように不気味な笑みを浮かべた最新鋭マスクの下から彼を見つめた。
山の香りに混じって少し遠慮気味な香水の匂いがしたかと思うと、お姫様の顔を右手で自分の胸に精一杯うずめてやり、
そのまま柔道でする前回り受け身の要領でその隠場に転がり込む。

ズドドドドッ.....キーン!!!!

いくつもの鉄塊がさっきまでいた場所に着弾して、奇怪な連射音と共に地面を弾き飛ばす。
あと二秒、いや一秒遅れていたら二人で蜂の巣にされていたところだ。
女と手を繋いだこともないのに、こんなにも大胆な行動に出れた理由は考えるまでもないが、
人間は窮地に立たされると性別の違いによる距離を限りなく近づけることができるらしいことは確認できた。

「くそっ....何だ、こりゃ....機関銃っ!?..まだ...ぁあっ....くそっ!!」

“What!?....uhhh!....Yuzi-san”
(何これっ!?....ぅぅう....ゆうじさん)

これまで冷静だったクリスティーナが、自分の胸に顔をうずめて悲鳴を上げている。
それほどまでに敵の攻撃は強力なようだ。
しかも、本来であれば神を奉ってある筈の神殿は彼らを射撃する為の高楼として機能しているので、
ブルーバードの二人に降りかかる脅威は、さらに勢いを増していく。
 お社の中央には石の階段が貫くように通っており、その左右に彼らの位置を見下ろすことができる矢倉のような親切で最悪な場所がある。
優二は目を閉じて、既に確認した敵の位置を映像として再生した。左右に一人ずつ。スナイパーライフルH&K MSG90で仕留めるには近すぎるほどの距離だ。
 その時、やかましい連射音が鳴り止み、雨のように降り注ぐ弾幕が終わりを迎えた。敵が銃弾を装填(リロード)している姿が目に浮かぶ。
そして、クリスティーナのサラサラな金髪を一回撫でると、そのまま伏せておくように促して、隠場から身を乗り出した。
......ビンゴ。敵はその位置から全く動いていない。そのまま素早く愛銃を構え、照準(レティクル)の真ん中に一人目の獲物を捉える。
だが、撃ち尽くした銃弾を補充している筈のその獲物は、予想に反する動きでこちらに銃口を向けていた。
その瞬間、何か大きなモノを射出する奇妙な音が聞こえてきて、クリスティーナが横腹に抱きついてきたかと思うと、
そのまま押し倒される。愛銃の引き金をひいたのと同時だった。

「ユウジサンッ....ダメッ!!」

銃口から放たれたNATO弾が敵を仕留めたかどうかを確認する暇もなく、
再び隠場に倒れ込むような形で伏せた二人の間近で何かが炸裂して大きな爆発音がした。
それがグレネード・ランチャーの類であることは容易に推測できる。
そして、さらに追い打ちをかけるかのようにもう一発の炸裂音が響き渡り、その衝撃によって弾け飛んだ土壌が二人に降りかかる。
このままではまずい。敵が持つ武器といい、ポジションといい、圧倒的に不利だ。
 底なしの沼にはまってずるずると引き込まれ、何とか脱出しようと試みているような感覚を味わいながら、
蒼い貴公子は微かな希望の光である自分のお姫様を、お世辞にも頼りがいのあるとは言えない厚さの胸板に埋めて思考を巡らせる。

「ユウジサンッ....ワタシッ......ダイジョブッ!」

クリスティーナの透き通った声が耳に入って我に返った優二は、右手で抱きかかえていたバディの顔が真っ直ぐこちらを見つめているのを見て、
お互いに考えていることが同じであることを悟った。次の砲撃は確実に自分達がいる隠場を射止めてくるだろう。
やるしかない。そうなる前に決着(ケリ)をつけなくては........

“נסיגה”

「.....え?」

その刹那、雑音混じりに無線から聞こえてきたのは関西弁でもなく英語でもない、独特の発音をする奇怪な言語。
そして、予想していた脅威は訪れず、耳をつんざくような銃声や爆発音が銃撃戦によって著しく重苦しくなってしまった歪な闇夜を切り裂くことはなかった。
 つかの間の安堵が訪れて胸を撫で下ろした二人は、場違いで聞き慣れた関西弁訛りの声を受け取り、脅威が完全に去ったことを知る。

“Bluebird,this is Hawkeye.Are you normal?”
(ブルーバード、こちらホークアイ。無事か?)

“Clear”
(大丈夫だ)

“優二、何か妙や。奴ら撤退していきよった”

「あぁ、俺らが無事やからな。」

“上に向かっとる。何や、おびき寄せられとる感じがするわ”

「......どういうことだ?さっきの奴ら、明らかに今までのチンピラと違うぞ」

“優二、ここからは気を付けろ。解析したデータの中に気味の悪い数字が混じっとる”

「...........?」

“666や”

その時、鞍馬山の北方で雷雲が立ち込め、轟音と共に稲妻が走った。
それが悪魔かも鬼かもしれない得体の知れない妖怪が降臨してしまったことを示唆しているのかは人間であれば知る由もないであろう。

Ⅲ「FFF」

20XX年 10月10日 2:40 京都府京都市左京区鞍馬寺


深夜の暗闇が鞍馬山を覆い、重苦しい空気を圧縮している。それは、まるで異次元への扉が開いてしまった為に、真空空間へと引きずり込まれていくようで、
山に住み付いている植物たちが醸し出す緑の香りは、秋の紅葉によって一年の内で最も爽やかな旋律を奏でている。
そんな現世(うつしよ)と幽世(かくりよ)の狭間のような歪な空間がそこに存在しているが、秋色に彩られた山風が運んでくるのは軽快な連射音と男達の断末魔......。

「うわぁぁあっ...がぁっがっ!!」

また一人、スーツ姿の男が倒れた。辺りには既に四人が倒れており、複数の呻き声が戦場(バトル・フィールド)に木霊している。

「ひっ....ひぃぃぃ....たっ....助けてくれぇぇ」

残された最後の一人が後退りながら怯えた声を上げている。顔は引きつり、青ざめているようだが、
その恐怖の対象である、綺麗なシルエットの女は両手に持つ二丁の短機関銃をハーネスに収めると、格闘戦の構えを取り、刹那の間に詰め寄る。
そして、掌手を振りかざすと、顔面を防御しようと身構えた男の懐に強烈な蹴りを入れた。
完全に予想外の動き、華麗なるフェイントだ。

“Splash one!”
(敵を撃破したわ!)

アノニマス02の透き通った声が無線から聞こえてくる。もうこれで何人目であろう?確実に十人以上の相手をした。
正体不明の強敵と戦火を交えた由岐神社での火祭りから、雑魚チンピラの応酬は止むことなくブルーバードに襲い掛かり、二人はその最悪な歓迎に対していちいち応えなくてはならなかった。
 今のところは順調にいっている。訓練通りに隊形(フォーメーション)を組み、自分達にダメージは何もない。作戦を続行できている。バディとのコンビネーションも抜群だ。
しかし、何か妙だ。それは、黄泉の国へと誘われているかのような鞍馬寺の雰囲気だけではない。
また、深夜という不謹慎な時刻に、信仰の道場では御法度である激しい喧騒を沸き立たせているという呵責でさえも、この奇妙な胸騒ぎの十分な説明には成り得ないようだ。
この何とも言えない歯がゆい感覚は前方を進むクリスティーナも感じているだろう。
先程起こった一連の戦闘と、奇怪な発音の言語を思い出しながら山道を登り続けていると南野(ホークアイ)からの無線が耳に入ってきた。

“優二、ここからはエレメントや。慎重に行くで”

丁度、かつては休憩所だったような場所に辿り着いた時だった。だが、もちろん休憩などしている暇はない。
優二はクリスティーナとの距離を縮めて彼女に追いつくと、互いの弱点をフォローし合うように並んで歩を進める。
 そして、杉林と斜面に挟まれた細い石道を進むと、今までとはまた違った香りが漂ってきた。
昔、授業で行った実験で感じたことのあるような不思議な感覚を味わいながら、じりじりと地雷原を歩くように進む二人は再び両脇に紅い灯篭のある石の階段に出くわす。
その階段は大きな踊り場が三つあって三段に分かれており、その右手には大きなお堂が暗闇の中に現れる。そして、石の階段を登りきった先にあるのは尊天を奉安してある本殿金堂だ。

“It's too quiet......”
(やけに静かね......)

すぐ隣にいるクリスティーナがそう囁くのを聞くと、優二は軽く頷いてから三段に分かれた石の階段を登り始めた。
お互いの肩が触れ合うほど近づいているので、無線を通さなくても彼女の息づかいが聞こえてくる。
 二人が持っている物騒な装備を除けば、何か無意味なものに邪魔されて夏を逃してしまった男女が少し季節外れの肝試しをしているのと変わらない気さえする。
それほどまでにお姫様が漂わせている香水は甘い匂いがして、ただの若い青年である筈の貴公子に自分のバディも同様にただの若い女であることを確認させた。
あれだけの敵を相手にしていたんだ。少し疲れているのだろうか?そんなことを思わせる酸っぱい匂いが混じってきたが、三段に分かれた一段目の踊り場に着いた時には、
彼女は月のように美しい綺麗なシルエットの周りに佇む空気を甘酸っぱさに変えてしまっていた。

“Kristina....Are you ok not to take a rest?”
(クリスティーナ....少し休まなくても大丈夫かい?)

“Don't worry Yuzi-san.”
(心配しないで、優二さん)

二段目の踊り場に着いた時、彼女はそう答えた。
その声は太陽のように暖かく、少し心配をした彼の冷えかけた心を隅の方まで安心させてくれた。

“やけに静かや....何かおかしいで”

 三段目に差し掛かった時、南野(ホークアイ)の呟く声が聞こえてくる。
それと同時にゴロゴロと雷鳴が轟きだした。かなり近い。京都府北部では雷注意報が出ており、二人は作戦遂行前のブリーフィングでそのことを知っていたが、
深刻な障害に成り得るとは考えられない気象情状況であったので、その時は軽く触れただけであった。
だが、そんな夜空に稲妻を彷彿とさせる不穏な音は、大地のように力強いお姫様の頼もしい存在感にかき消されて、脅威を振り撒くことを遠慮しているようにも思えた。
 何か腑に落ちない。そんなことを考えさせる歪んだ空間を登りきると、景色が一気に開けて、何かを内側に留めておくには十分な広さの本堂が見えてきた。
尊天が奉安されている本殿金堂である。鞍馬寺では三尊を本尊として祀っており、千手観音、毘沙門天、魔王尊を一体にしたものが万物を司るエネルギーを持つとされている。
なんだかよく分かりづらい話であるが、要は三位一体、つまり三人の神様が集まってはじめて力を発揮することができるといった話である。
宗教に馴染みのない人間にとって神様と言えば、絶対神を想像しがちだが、日本の神道や仏教の宗派は多神教であり、不特定多数の神様が存在するのだ。
考えてみれば随分といい加減な話である。

“Hawkeye,this is anonymous01.the area is clear.”
(ホークアイへ、こちらアノニマス01。このエリアはクリアだ)

“Ragor.Advance forward.”
 (了解。先へ進め)

本殿金堂の前には、大きな六芒星が石床の上に描かれており、神秘的なものにも邪悪なものにも成り得そうな何か大きな力を封印しているように思える。
二人は寄り添いながらその場所を通り過ぎたが、頭上で雷の爆音が炸裂し、背筋が凍るような感覚に襲われた。

“Yuzi-san,wathch out!your six!”
(優二さん、危ないっ!後ろよ!)

後ろを振り返った時には、既にクリスティーナが身を翻していた。瞬時にサブマシンガンの連射音が響き渡る。
そして同時に、ピカッと走った稲妻の閃光が二つの人影を映し出す。
その人影は素早くこちらに迫り、愛銃を構えるより先に重たい音がしたかと思うと、後頭部に激痛が走り、そのまま硬い石床の地面に叩きつけられた。

「ユウジさんっ!!」

この季節の気温にしては冷たすぎる石床を肌で感じながら、うつ伏せで倒れ込んだ優二は自分が気を失っていないことを幸運に思う間もなく、
バディの置かれた状況を把握する。彼女は両手に持つMP5サブマシンガンを前方へ放り投げて、どうすることもできないといった具合に両手を上げていた。
そして、二つの人影は徐々に輪郭を現し、何やら小銃のようなものを持っている。
この内の一人はどうやらその銃床で優二を殴り倒した犯人で、もう一人はというと、彼のバディであるお姫様に銃を突きつけてジリジリと詰め寄っている最中であった。
優二は呻き声を漏らしながら、一瞬の隙にやられてしまったお蔭でこのような状況になっていることを悟り、また同様に自分を殴り倒した相手に銃口を突きつけられているらしいことも理解した。

“Bluebird,What happened!What's going on there!?”
(ブルーバード、どうした!何があったんだ!?)

 無線で関西弁訛りの英語が呼び掛けている。すまない、南野。やられた......
そう応えようと咳込みながらマイクに声を吹き込もうとした時、暗闇の向こうからもう一つ別の人影が現れる。
それは徐々に、黒いコートを羽織った長身の男としての輪郭を成し、愉快な拍手をしながらこちらに近づいてきた。

「ククッ....クハハハハハッ!....いいね、いいねぇ」

「くっ....げほっ....何だこいつ......?」

その声の主はしっかりと日本語を話しているが、一般的な日本人とはかけ離れた外見をしている。
背が半端なく高く、厳つい肩幅の図体で、髪型はオールバック。赤ら顔に高い鼻を持っている。そうか、天狗だ。例えるならそれである。古の時代に存在していたと伝えられるあの妖怪だ。
そして、その天狗のような長身の男はクリスティーナの方を見ると、相手を弄ぶかのようにこう叫んだ。

“Black-Vixen....It has been a long time.”
  (漆黒の女狐....久しぶりだな)

“....!!....Akai!”
(....!!....赤居っ!)

ヴィクセン?女狐のことか?一体何のことだ?優二は自分のバディが敵からそう呼ばれているらしいことは理解できたが、そうなるに至る経緯に関しては全く見当がつかない。
クリスティーナの表情は黒いアノニマスマスクに隠れて見えないが、これまでにないほど緊張しているのが伝わってくる。震えているのだ。あの屈強なFIGHTER(戦闘者)である筈の彼女がである。
だが、この訳の分からない状況を正確に理解する暇はなく、三井の声が無線で届いて、そのやり取りに割って入った。

“だめだっ!ブルーバード、聞こえるか?Mission abort!作戦中止だ!”

“三井か?クハハハッ!アノニマス(匿名集団)とは笑わせやがる”

相手の無線はこちらと同じ周波数を使っているようだ。しかし、これはどういうことだ?間髪入れずに本部(HQ)からの無線が再び入る。

“赤居か....クソ....なぜここに....優二君、無事か?”

“ほう....日本人か....中々面白いことをするじゃねぇか”

天狗のような男は赤居という名らしい。奴は嘲うかのように話を続ける。

“見てみろよ。この左腕をよぉ....これも日本人にやられたんだぜ....おい”

赤居という男は、そう言うと羽織っていた黒いコートから左袖だけを脱いで、腕を差し出すと、下に着ていた服のその部分をビリビリと破り捨てた。
義手だ。だが、ただの義手ではない。金属でできているそれは、ハリウッド映画さながら、レーザーの一つでも飛び出してきそうな外見をしている。
奴は首を傾げてコキッと骨の音を鳴らすと、その派手な左腕をよく見えるようにかざす。すると、再び雷鳴が頭上で轟き、稲妻によって周りの景色が不気味に照らし出される。
 と、その時、スーツ姿の雑魚チンピラが一人、本堂の影に隠れていたのか、走り出てきた。

「ひっ....ひぃぃぃい....もうご免だぁあ!助けてくれぇぇえ!!」

「あ?何だこの役立たずはよぉ?死んどけよ。てめぇ」

奴はそう言うと、そのサイボーグのような左腕を垂直に振り下ろした。刹那、眩しい光がピカッと走り抜け、稲妻が上空から獲物を目がけて大地に根を下ろす。
優二は目を開けていられず、何が起こったのかを見届けることができなかったが、スーツ姿の雑魚(チンピラ)は一瞬のうちに黒焦げの人形へと変えられていた。

「まぁ、お蔭でこんな手品ができるようになっちまったんだがなぁ」

「なっ....はぁあ!?何だよこれ!?嘘やろ?」

雷を落としやがった....。確かにそうだ。間違いない。いや、そうとしか考えられない。奴の左腕がどういう機構になっているのかは理解する余地がないが、
事象と事象の因果関係からそう推理せざるを得ないのだ。そして、そのことを裏付けるように南野ホークアイが状況を説明する。

“聞け優二、その男は赤居玄人(くろうと)、元警視庁公安部の人間や”

「....公安....?」

“あぁ....何でここにおるねん....最悪やで....クソったれが”

「なっ....なにが....どういうことだ?」

“そいつは、秘密結社FFFの幹部や。イルミナティの日本支部みたいなもんやな”

秘密結社FFFはMr.三井の陰謀論に度々登場する団体だ。日本の有力な政治家や資産家、大企業の経営者、タレントやトップアスリートまでもが属し、日本社会を裏で動かしていると言われ、
その活動内容の詳細は全て謎に包まれているので、一部では国際的な秘密結社イルミナティの日本における工作活動を請け負っているとも言われている。
そして、この陰謀論はここでは終わらない。彼らが武力行使を行う際に用いるのは独自の軍隊で、そこに存在する装備は.....

“気を付けろ、奴らは生体兵器(ヒューマノイド)だ”


三井の声が雑音混じりに聞こえる。そう、彼の陰謀論において最も興味深く、胡散臭い話だとされている、生体兵器(ヒューマノイド)の存在。
それによると、イスラエルやアメリカは軍用目的でそれらを開発しているというのだ。

“ネズミが来るのは知っていた”

“......”

“それで、巣はどこにあるんだ?”

“........”

“まぁいい。この小娘にでも聞いてやるか....じっくり楽しませてもらってからなぁ”

赤居はそう言うと、ブルーバードの動きを封じている人影の一つに何かの指示を下した。そうすると、それまで明らかになっていなかったそれらの全貌が現れ、優二は驚愕する。
まるで、次世代機のゲームに出てくるような装甲(アーマー)を身に纏った兵士。それは頭の先から足の爪先まで身体のありとあらゆる部位を覆っている。
そして、彼らが両手に持っているものは、どうやらただの小銃ではない。近未来型の宇宙的な形状をしたコンパクトなアサルトライフル。
優二はインターネットの動画サイトでその銃を見たことがある。そう、あれだ。イスラエル製の『タボール21』。銃身下には擲弾発射器が装着してある。
なぜイスラエルの兵器たちがここに存在しているのか?そんなことを疑問に思い、考える暇などなく、この訳の分からない状況に追い打ちをかけるかのように、
装甲アーマーを纏った兵士は、お姫様にジリジリと詰め寄って行く......
嵌められていた。初陣でいきなり強敵が出現した驚きよりも、敵を出し抜いて潜入したつもりであっただけという事実が腹の底から沸き立つ屈辱感を呼び覚まし、
神ですらも諦観してしまうような絶望感が戦場バトル・フィールドを包み込もうとしているが、
なぜか彼のバディは群青色の戦闘服コンバット・ユニフォームを覆っている蒼い希望の光を灯したままであるように思える。
彼女は黒いアノニマスマスクの下から一瞬だけこちらに視線を寄越すと、地面に向けている右手でクイッとVサインをつくって見せた。
それが『何かをする』というサインであることを悟った優二は自分に銃口を突きつけているもう一人の兵士から血液がポタポタと滴り落ちていることに気付く。
そう、由岐神社で交戦した際に放ったNATO弾が命中していたのだ。装甲(アーマー)ではなく、肘関節の部分に偶然........

「最後に一つ教えておいてやるよぉ」

赤居の叫び声が響き渡る。

「ここにいる奴らは神なんかじゃねぇ。悪魔なんだよ。俺たちはそいつらを召還できるんだ」

獲物を目がけて今にも大地に根を下ろしそうな稲妻の雷鳴が頭上でゴロゴロと轟く中、優二は生き残る為にするべきことを理解した。
その刹那、無線であの奇怪な発音の言語が聞こえてくる。

“הרוג”

それがヘブライ語であると分かったときには、装甲(アーマー)を纏った兵士が、クリスティーナに手が届くところまで近づいていた。
と、次の瞬間、彼女はハーネスから手榴弾を抜き取ってその場に落とし、それと同時に前方へ飛び込むように転がり込む。
地面に転がっている愛銃を鷲掴みにして回収したクリスティーナは、信じられないスピードで前転を続け、爆発に巻き込まれる寸前のところで離脱してゆく。
人間の動きじゃない。それは、柔軟な動きで相手を翻弄する女狐そのものだ。最後の前転を終えた彼女はそのままの勢いで立ち上がり、愛銃を構え、そして発砲した。
二丁のMP5サブマシンガンから放たれた無数のパラべラム弾が、もう一人の兵士に殺到する。
ところが、敵の装甲(アーマー)は強力な防弾性能を持っているようで、甚大なダメージを与えられていない。
その隙に転がるように距離を取って立ち上がった優二は、銃弾を撃ち尽くしたクリスティーナが飛び蹴りを入れている姿を目にする。
相手はその一撃を食らって後退したが、すぐに体勢を立て直して銃床で殴りかった。彼女はその攻撃をひらりとかわすと、柔軟な動きでバック転をして、距離を取る。
そして、再びハーネスから愛銃を抜き取り、予備弾倉(マガジン)を装填(リロード)すると、両手でそれらを構えた。
だが、手榴弾の爆発をもろに受けた方の敵は、装甲(アーマー)のお蔭で健在し、『タボール21』の照準を女狐の背後にビタリと合わせていた......ズダァァァン....
先に火を放ったのは、優二のスナイパーライフルH&K MSG90だった。放たれたNATO弾が向かった先は、敵の身体ではなく、最も脅威となるもの。
金属がぶつかり合う音がした。刹那、ターゲットの持つアサルトライフルが両手から吹っ飛ぶ。

「ユウジサンッ!アブナイッ!!」

クリスティーナはそう叫ぶと、全速力で優二に走り寄り、体当たりをするように抱きつき、突き飛ばす。
二人で転がるようにその場を離れた瞬間、妙な殺気を感じた彼の目に映ったものは、左腕を振り下ろしている赤居の姿だった。
雷鳴が轟き、稲妻が大地に根を下ろした光が轟音と共にほとばしる。すんでのところでかわした二人に追撃をかけるかのように、赤居は再び左腕を振り上げる。
その時、何か不確かなものが優二の頭をよぎった。神秘的だと言うには大袈裟な目に見えないエネルギーのようなもの......
それが死ぬ間際に走馬灯のように駆け巡る映像ではないことは確かだ。なぜなら、彼の中には今から何を実行しなくてはならないかという明確な動きが上映されている。
蒼い貴公子は素早く愛銃を構え、照準(レティクル)を合わせる。十字にクロスされた線の先に捉えたターゲットは、サイボーグのような左腕。そして、引き金を絞った。
一瞬にしては長すぎる時間がスローモーションのように流れた後、垂直に振り下ろされる筈の左腕は地面に対して四十五度の角度で稲妻を誘電する。
その雷撃が向かった先はブルーバードの二人ではなく、肘関節の部分に傷を負って動きが鈍っている兵士。
刹那、閃光が走り抜けたかと思うと、そのイスラエル製の兵器は装甲(アーマー)の有無など分からない黒焦げの人形へと変わっていた。

「クハッ....クハハハハ!!おもしれぇ!おもしれぇぇえ!!日本人がぁあっ!!」

「おいっ!待て!」

「子羊どもはすぐに殺さない方が楽しめるからなぁ」

赤居はそう叫びなら嘲うと黒いコートを翻し、人ならざる動きで暗闇の崖下へと消えて行った。
反対側を見ると、そこにいた筈の装甲アーマーを纏った兵士も消えており、激戦の終結を知らせた。

“優二、クリスティーナ、無事か?”

耳慣れた南野の関西弁が無線から聞こえて我に返った優二は、本殿金堂の前にある六芒星が描かれた石床が先刻の雷撃でパックリと割れていることに気付く。

“Bluebird,report implementation Status. ”
  (ブルーバード、状況を報告せよ)

三井の問いかけに、アノニマス01が応える

“Bluebird to HQ,Operation is currently in process.”
   (ブルーバードから本部へ 作戦は継続可能だ)

額から滲み出る冷や汗を拭いながらクリスティーナの方を見た優二は、彼女の綺麗なシルエットの周りに蒼い神秘的な光が宿っているような気がした。
それはさしずめ、三位一体の悪魔を召還するつもりが、鬼門である京都の北側を守る美しい戦闘神を怒らせてしまったということなのかもしれない。

アノニマス

アノニマス

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-27


  1. プロローグ 「円卓」
  2. 第一幕 「過去からの呼び声」
  3. 第二幕 「予期せぬ再会」
  4. 第三幕 Shall we dance?
  5. 第四幕 「骨折り仲間」
  6. 第五幕 「バイパー・ゼロ」
  7. 第六幕 Ⅰ「準備-PREPARATION-」
  8. Ⅱ 「くーでたぁー?」
  9. 第七幕 Ⅰ「因果応報」
  10. Ⅱ「アセンション・プリーズ」
  11. Ⅲ「FFF」