平成二十二年

無職になったのが原因なのか知らないが、彼は自分が遠く離れているような感覚を持つようになる。
彼の風景とそこから旅立ち。

自分が遠くなり、他人が頭の中に侵入してくる、どうしようもななくなった彼の目覚めまで

   平成二十二

一、目隠し
 彼には見える世の中全てが輝いている。彼には見える近寄りがたい力強い歩みが。すれ違う人、人、人が皆偉かった、母に抱かれた赤ん坊までもが。人はああまでもなぜ楽しいのか。
 世の中は素晴らしかった。
二、遠い
 彼はその中にいるのだが、なぜか彼はそこにはいない。肉体はそこにあるが、魂はそこにはない、ではどこにと問われても分からない。魂と肉は別々の場所にいた。いや肉に雁字搦めにされている、そこからどこへも行けず、身動きが取れないでいる。
 世の中はそこにある虹の端っこで触れられないものだった。
三、夢の夢
 彼は普通に食堂に行き餃子とチャーハンを食べている。皆も同じように食べている。水を飲む、これも皆と同じように飲む。餃子もチャーハンもとても美味しい、皆と同じように笑顔になる。
 これがいつも笑顔が見える自分の夢だが、目覚めては項垂れる。
四、リアル
 彼は公園のガジマルの木陰のベンチに坐る。ずっと前を向いて、ずっと目を閉じたりする。開けると黄色のジャングルジムが見える、子供が遊んでいる、数までは気にしない、今は誰も遊んではいない。ずっと目を閉じる、瞼の筋肉が強ばる、瞼に筋肉はあるのか、閉じるから、つまり動くから随意筋がある。前方の空は青、地球は丸い、三角、四角い三角、氷のお湯、未来の過去、ちょっとした思考の抵抗、何に、分からない、ジャングルジムで子供が遊んでいる、数は気にならない。
 公園にそよ風が吹いている。
五、役者
 遠くから見れば公園のベンチの上で固まっている。世界は動いている。右足上げ前に出し、左足を上げ前に出す、歩いている。単純なことだが、しっくりこない。右手を挙げて指で頬を撫でる。頬に指の感触がする。頭を触ると思う前に頭を触れるだろうか。そうなると機械が暴走したことになる。頭を上げると見上げるではまるで意味が違う、だが外から見た動作は同じだ。左上げて、右上げて、右下ろさない、左下ろす、彼にはそれが全てだった。
 世の中は光に溢れ緑は輝いていた。
六、光景
 子供連れ、恋人同士、四五人連れだった二十ぐらいの男たち、人で溢れている。彼らもどこかに住んでいる、世の中は広いと思った。それぞれに家族がいる。家庭団欒、幼い頃の思い出が胸を過ぎる。皆笑っていた。あんなに笑えるものだろうか。他の家族も似たり寄ったりだろう。彼はいつの間にか三十を過ぎていた。老人を乗せた車椅子を押している孫らしい女性、安らかな老後、なんと羨ましいことだろうか。年を取るまでに家庭を築いてきた証、その人の溌剌とした若い頃が脳裏に浮かんだ。
 彼らは生きている。
七、既視感
 昨日も今日も公園のベンチに彼は腰掛けていた。明日も、明日の明日もそうだろう、だがいつまでも続くことはない。何にでも終わりはある、だがその終わりから新しい同じ事が明日、また明日、そのまた明日と続き、いつまでか続く、いつまでか、それでもいつかのように過ごしている、やっていることは変わらない、それが大事なのだと。
 昨日、昨日の昨日、昨日の昨日の昨日いつまでも続いている昨日、赤ん坊が生まれた。
 昨日は未来のようだ。
八、行動
 道路で数人の作業員が舗装工事をしている。同じように時間は流れていると思った彼は戸惑った。母と娘の親子が弁当を食べていた。鉄棒をしている女の子がいる、傍らで見ている女の子が笑っている。野良犬が公園を横切った。雀が電線に止まっていた。車のクラクションが聞こえた。水道で一人の作業員が水を飲んでいた。青空、飛行機が飛んでいた。世が暮れ始め、三々五々に人はいなくなった。
 彼はベンチに腰掛けていた。
九、自転車
 狭いジャージのパンツに横文字がプリントされた赤のTシャツの中年の男が荷台に大きなプラスチックのカゴが取り付けられママチャリに乗ってきた。ゴミ箱の空き缶を収拾しに来たらしい。公園前で自転車から降りて、手押しでゴミ箱の前に移動した。思ったより空き缶が多く入っていたのか、欠けた前歯を見せて笑った。古びたフィールドハットは洗ったことがないらしく汚れていた。そもそも服から体まで汚れている、風呂は嫌いらしい。空き缶で自転車を買って、生活までしているのだろうかと彼は考えた。パトカーが通った。そうではない、生活保護を受けているとたまたま隣に坐った爺さんが話していた。
 働く気はないが、空き缶やペットボトルは集めている。
 自転車の男はよく世間の冷たい視線に耐えているものだと、彼の目にはある意味で眩しかった。
一〇、スウェット
 時間はまちまちだが黒の上下のスウェットでいつもジョギングをしているサングラスの男を見かける。何が男にそうさせるのか不可解であった。とてもマラソンで一着、いや入賞もできないだろう、だがジョギングをしている。朝方、昼、夕方、一日に一度は彼が目にしないときもジョギングをしているように思えた。男は走る、きっと生活ゆとりがあるのだろうが、ぎりぎりのラインだろう。そんなに裕福には見えないからだ。この程度のジョギングではランナーズハイの恍惚までには至らないだろう。
 君が好きだ、ジョギングが好きだは等価に違いない。
一一、大型店舗
 公園から北へ三十分ほど歩いたところに大型店舗がある。その入り口の横にある黄色の木製のベンチに彼は坐った。三メートルほど右に宝くじ売り場がある。側面に張り出した板の上でロトやナンバーズの番号を選んでいる女性の二人連れが喧しい。そこへ電動自動車の初老の女性が売り場の前で黄色の財布からロトの申し込みカードを二枚だして、受付に出した。それからいつも公園で見かける空き缶拾いの男がママチャリを押しながら目の前で止めた。そしてジャージの上のポケットからロトの申し込みカードを出そうとして落とした。一口だけ鉛筆で塗り潰された数字が六個あった。一口二百円だ。最高額二億円、キャリーオーバーが出れば四億にまでなる。無論、彼はロトは宝くじの一種であることは知っている。しかし、買ったことはなかった。空き缶拾いの男の思わぬ六〇〇万分の一の欲望に半ば呆れた。
 だが男は世の中を楽しんでいる。
一二、帰路
 パーキングの水銀灯が灯った。暗くなる前に帰ることにした。風景が寂しくなった、切なくなった。彼はそれを感じながらも、ただアパートまで歩くだけである。そこに何も入らないように歩を進める。足音が付いてくる、
同じように歩いている人がいる。車の音が耳に痛い。ラーメン屋に紫の鳶服(とびふく)を着た金髪の若者二人が入った。足音はまだ続いている、なぜか歩を緩めることが躊躇われて、同じ調子で歩いた。スナックに嬉しそうに入る勤め人三人、咄嗟に視線をずらしていた。夕方は憂鬱になる、働く人のご帰宅時間だ。大型車のクラクションに驚いた、何事もなかったように歩く、ペースを守る、これが周りに最適な対応に思えた。朝と夜は勤め人の時間だ、そこをひたすら家に向かって真正面を見て歩く。
 吹く風は冷たかった。
一三、ゆめなり橋
 埋め立て地のマリンタウンと元々の土地の周りには運河があり、橋が二つ架かっている、その一つがゆめなり橋である。彼はいつもその橋を通り公園に行く。だが橋の名前など見たことはない。途中の橋である、いや橋という感覚もない、ただの道である。公園へ、公園へ、そこはいつもの場所であった。いつものだから毎日行かないと一日のリズムが取れない。橋で佇み運河を眺める暇な人が両岸にちらほらいる。野球にユニフォームを着た小学生が野球のグランドへ駈けてゆく。野球が楽しいらしい。なぜかラジオ体操をしているジャージ姿の爺さんがいる。健康である、それだけである。もっと長生きをしたいのだろう、人それぞれの寿命であるから、とやかくは言えない。結局は他人様だ、爺さんが明日死のうが百二十まで生きようが、私の知らないところの話しである。
 世の中は動いている。
一四、声
 公園のベンチに坐って、彼は前を見ている。誰もが風景なのである、通り過ぎる人は木の葉が落ちたようなものである。死角に入っては出て行く、ビデオカメラが一台回っている、だが再生する気はない。通り過ぎる一瞬の映像、無論記憶には残らない。「国政に、久場を、久場を是非お願いします」「ママは忙しいの、明日はちゃんと保育園に行くのよ」「もしもし、相手に書類は送ったのかね、添付されてなかったと怒っていたぞ、やり直せ」「私は朝ご飯を食べたか」「宮城さん、いつもそればかり、今日は昼ご飯、晩ご飯食べたか」「今日、四十九日よ、あなたが行って下さいよ」「走れ、走れ、遅い、遅いよ、ヒロシ、いい場所取られるぞ」「古いアルバムめくり~~涙そうそう、~涙そうそう」「このワンピースいいわね」「サンライズまで」「自販機」「安心して」「そそろか」「もう行くのか」
一五、信者
 ここ空いてますかと紺のジャケットにスカートの女性が彼の隣に坐った。
「あなたは幸せですか」と女性は訊ね「いいえ」と呟いた。「それはいつも揺れているからです。地上から天へと伸びる大きな樫の気になりなさい。今のあなたはそよ風にも倒れそうな一本の草です。しかし、人間であるあなたはそのような状態から抜け出し、変身することができる。あの海の向こうから大いなる呼び声がする、天から呼び声が降り注ぐ、あなたはこの祝福に、恩寵に気付かない。あなたは道場に来て、「救世主・龍神(りゆうじん)光吉(こうきち)様、ハレルヤ、ハレルヤ」手を合わせて唱えれば、命の泉が湧き出すの、まずは『救世主・龍神光吉様、ハレルヤ』言ってご覧なさい」
 彼にはジャングルジムで遊ぶ男の子と女の子の姿が映った。
「あなた、人の言うこと聞いてるの、何度も同じ事を言わせるんじゃありません。あなた神は人格神で喜怒哀楽があり、怒りもするんですよ。あなた耳が聞こえないの。呪われなさい、このサタンの召使いが…」
 神様に憑かれた人間は手に負えない。
一六、高級車
 高級外車から黒のスーツを着た男が出てきて、トランクからバット取り出し、公園の隅に立って、辺りを見回しバットを振り出した。シーソーの上に鳩が一羽止まって鳴いていた。構えて、前を見て、やるぞ、ブーン、その動作に、殺すぞ、クソガキ、取るぞとフレーズを変えて行い、一休みし、天を仰ぎ深呼吸を一つして、トランクにバットを入れて、車に乗って去った。
 プレッシャーと戦っていた。
一七、雨
 夜明けから激しい雨が降った。彼は白のビニールの雨合羽に黒の雨靴を履いて、ゆめなり橋を渡り公園へ行き、いつものベンチに坐った。誰もいなかった。ブランコもシーソーも洗い流されて綺麗になるだろう。赤土が側溝へと流れてゆく。雨の日、台風の日は高揚し、外を歩き回る。そのためにDIYの店で買った雨靴と合羽である。合羽に当たる雨の感触が何とも言えない、ビチャビチャ、音を立てて歩く音に、地面で弾ける音もいい、見える景色も素晴らしい。水を掛けてゆく車もいい。埋め立て地をゆっくり一周し、ベンチに坐り、雨に打たれる。また、一周と気分は乗ってくる。思えば居酒屋、カーディーラー、マリンプラザショッピングセンターと随分賑やかになった。人は歩いていない、車だけ行きすぎる。それに雷が加わると最高だが、出番は台風の時だ。
 雨の日は晴れ。 
一八、憑かれる
「戦争だ、戦争だ、成田総理が悪い。昨日は悪魔が説教していた、一昨日も怒るだろう。みーんなみんな動いている、でも実際は死んでいる。ああ、神よ、清らかな色魔を許せ。太郎が成田にカレーパンを食べさせてやった、バカは驚いて、公安委員長に電話をして、テロリストを蔓延させろと笑った、私は処女マリアだ、子供を一ダース産んだ。ここは怒るところだ、笑うんじゃない。私には明後日は見えるが、明日は見えない、今日はいつになる、世の中こんがらがって、まともになった。私は陛下の従妹で高二の時にぐれて家出して、名誉姫になった。ダジリアンヌ四世の妾だったが、そこも飛び出て、フランスから船に乗って与那町に舞い降りた、大イグアナのように。みんなは笑っている、こんなにも悲しいのに、死んで笑い、生きて泣き、この世の中は辛いは楽しい、美人はブス、逆さま、逆さま全部まとも。死んでこい、生きるためだ、成田総統、バンザイ、二礼二拍、バンザイ三回」
 誰も耳を貸さない。
一九、歯車
 人々は社会の歯車である。歯車は機械の一部であり、それが壊れれば停止する。だが社会も会社も会社員が、役員が、総理が壊れようが、それに代わる者はたくさんいる。瞬時に代わり会社も社会も政治も停止はしない。当然だ、個々の死で社会が麻痺してはこれこそが混乱になる。しかし一個だけの歯車は無意味である、空回りするだけである。歯車がぴたっと合って回り出したとしても、ただ接する歯車と回っているだけで、何をしいるのか分からない。それに歯車という認識はなく、人間だと思っている。歯車の思い上がりもいいとこである、失笑ものである。だが歯車のイメージは連帯を意味し、労働者的である。それも曲者である。労働者ではない人は空回りするしかないが、それに合わせて思考も空回りする。昼夜を問わず頭の中で無数の歯車が動き出し、止め処なく思考が軋み出て、頭が朦朧となり、雷が鳴った。
 違和感を覚えだした。
二〇、シーソー
 一人が足を付けると相手は宙に浮いている。不思議な光景だ。一人が働くと一人は無職になる。それとは違う。ぎったんばっこん、ぎったんばっこん、黒い人影が後から近づく擬音、互いに首を交互に死なない程度に絞め合うゲーム、一人が首の紐を引っ張ると相手の首のロープが上がり、足が宙に上がる、首吊りゲーム、無論死なない程度に下ろしてやる、それがルールだ。だがどちらかがルールを破るのは時間の問題だ。ぎったんばっこん、音が止むと、ゲームオーバー。
 ルールあっての世の中だ。
二一、葬式
 道路と横道の角に葬式の立て札が立っていた。誰かが死んだ。悲しくはない、世界中で誰かが死なない日はないのだから。それに縁もゆかりもない人だから、仕方がない。黒ずくめの喪服の爺さん婆さん小父さん小母さんが横道に入ってゆく。蟻を思い出させる。「いつまでも起きないから起こしに行ったら、揺すっても起きないんです、死んでいたんです、八十二だから、長生きの方よ」「いい死に方ですよ、誰にも迷惑を掛けずに、さらっと逝ってしまったのだから」「年寄りから順に死ねばいいですよ、それが道ですよ」「眠るように死ぬのだから、怖くもない。これが癌だったら大変です。七転八倒して、殺してくれと叫んで、苦しみの中で痩せ細って死ぬんですから」「死ぬなら八十過ぎてぽっくり、これが理想よね」「祝い事は出なくてもいいけど、葬式は出ないと駄目だ」
 いつかみんな死ぬ。
二二、交通事故
 ゆめなり橋への十字路で事故があった。左に曲がろうとした乗用車が老婆を撥ねたらしい。一一九番には現場に居合わせた人が電話した。事故を起こした運転手はショックで体を震わせ路肩で蹲った。サイレンの音がして、救急車、パトカーとやって来た。助かるが老人だから、寝たきりになるのではと小母さん達は話していた。手を上げて老女は赤信号を渡ったらしい。普段も信号まで行かず、手を上げて道を横切る婆さんらしい。運転手の前方不注意になるだろうが、運が悪かったと思うしかない。
 誰にでも起こりえるが、涼しい顔で道を歩いている。
二三、彼の部屋
 鉄筋コンクリート三階建ての二〇二号室の住人が外に出なくなり、二週間が過ぎていた。冷蔵庫は空っぽで、水道の水しかなかった。彼はベッドの上で横たわっていた。テレビを見る気は疾うに失せていた。ただ待っていた。仰向けになって見える天井の模様が消えることを、視界が消えることを。だが明かりが差すと目覚め、天井の模様が見えた。ばりばるびれびろぶらぶりぶるべらべろべろに見えるような音がした。
 一人だと確信した。
二四、待つ者
 彼は公園でふと耳にしたマリンプラザの自販機のT君が気になった。
 T君はいた、長身で痩せていた。自販機の横でじっと前を見つめ立っていた。自販機の客は何人も来たが、一度もドリンクを下さいとは言わなかった。
 朝からずっとT君を見ていた。T君は用を足しに行く以外には自販機の横から離れなかった。日が暮れても、誰もドリンクを奢っては呉れなかった。そして、T君は何事もなかったかのように、帰って行った。
 横から老人が近づいてきた。彼は兄さんの友達か、あの青年は昔からずっと、自販機の横で立ちっぱなし。暇な青年だな思ったが、君を待っていたのかね。ただ立っていた思うと胸がもやもやしていたがこれですっきりしたと老人は笑顔で帰っていった。
 T君は立っていた。
二五、生存者
 暗くなった部屋で彼は明かりも点けず、手を着けずに残しておいた二千円の入った茶封筒を前に坐っていた。すると思ってもいない公園での風景が一斉に浮かび上がってきた。そこには声があり色があり全てがあった。そしてぽつんとベンチに坐る自分までもがあった。彼はずっとその風景を凝視していた。自販機の前でじっと立っているT君が見えた。
 午後九時の腕時計の時報が鳴った。彼はボストンバッグにわずかな衣類を、ポケットに封筒を入れ、那覇行きのバスに乗るためにバス停へ向かった。右手には職を探している人のシェルターのパンフレットが握られていた。

平成二十二年

ちょっと精神的にばてたときに読むにはいいかなと思います・

平成二十二年

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-26

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