月姫物語

短歌を軸にしたムーンライトプリンセス・月光姫と宮中の女たちの恋物語。擬古文体で書かれています

   月姫物語            
   序
蓬莱の時は二千と五百年
 いずれの妃の御代かは知らねども、それは希なる玉の如き御(お)女子(みなご) を授かり賜う。其の子十と三、後光差したる観音か、見紛う深紅の薔薇(そうび) か白百合か。見やる人うっとりの、ひたすらの溜息ばかり、我(われ)忘れ。されど、唐(から)の学、仏の道にも非凡なる才を現したる。
 その心、微妙を知れど、栴檀は双葉より芳しく、三つ子の魂百まで喩えか、殊更の男どもへのご執心、その綾を機微を楽しみ歓べり。長ずれば、東に美男、西に深窓の色男、耳にせば疾風の如く馳せ参じ、その花々の色香を愛でいとおしむこと頻(しき)り、夜毎の選り取り見取り。摩訶不思議、縁は異なもの味なもの、忘却の川渡りし男ども、恨み辛みの一言もなく、余りの思慕に、ハンケチで霞む眼に零るる涙拭い、烏羽玉(うばたま)の闇に懸かりし月、瑠璃と輝くを見て、姫を思う、思えども偲べども手に入るは水の月。

「逢ひ見ての
  後の心に比ぶれば
 昔は物も思わざりけり(藤原敦忠)」

「せめてなりたや月に沿いし幾万幾億の星一つ」
 その思い掻き集めたか、誰しもが「月光姫」「月の君」「月姫」と憧れ呼びにける。

   夕顔
 車をばかっ飛ばし着いたるは寂れし村、ぽつりぽつりの家明かり、聞こえるは鄙(ひな)には希なトランペットの地を這う音のむせび泣き。車を止め、顔を向ければ縁側に、年の頃、二十七八の男がTシャツに、よれよれの穴開きしブルージーン、アメリカの黒人のブルース、然れども、土と汗のかの力なく、か細き情の震えのみ。明日にも消えん薄羽蜻蛉、蓮の露、はかなき命、其(そ)を映したる青白き顔(かんばせ) に憂いあり。
 心騒ぐ月の君、一夜の夢を銀の鈴に結わえて付け文を、ふうわりと庭先に放り上げ、妾(わらわ)はここにのクラクション。
 男驚き、トランペットを傍らに、文を拾い恥じらいて、奥に隠れて心ときめきどきんどきんの手足の震え。
「美しき音に包まれて、うっとり心如何(いかん)せん、今一度の逢坂の関」
 男の生死に映る影法師立ちて屈みて右左、いとおかし。
 月の君、吾(あ)の意を得たりとつかつかと木戸より入りて「お目もじを、お目もじを」
 鈴を転がす涼しき声が澄み渡る。
「トランペットは僕にあらず、姿にあらず」
男、手のみを出して名残惜しげの帰れの仕草。「ああ君が奏でるトランペットの調べ、その可憐、美にも勝りて、光を知らずは惜しきこと。無碍に拒むは女心を知らぬゆえ」
 暫し思案の男の心、乾坤一擲、一か八かの賽の目任せ、清水から飛び降りた、怖ず怖ずと手招き閨へ呼び。
 ランプの明かりオレンジ色に仄かにて、男を間近、目にすれば、透き通るガラス細工の鶴がか弱く俯くばかり。
「十六夜の月の雲隠れ、払いのけるは玉箒(たまははき)」
姫が出したはフランスはロマネコンティの赤ワイン。
「まずは一献」
 男行きてワイングラスを二つ朱塗りの盆。男は酔うほどに頬は赤く鮮やかに、だんまりの貝が口を開け。
「あばら屋にカトレアの花、身に余る歓びは止め処なく湧き出る。醜き虫が蝶となりて舞うが夢心地。神よ、できるものならこのまま永久(とわ)の眠りにお導き給え」
「クレオパトラも恥じらいて、沈魚落雁、誇大広告、大形(おおぎよう)なこと」
 姫が白き歯を覗かせる。
「麗人の霹靂の訪れに、天に竿差し、星を取ったよう」と笑み、「勤めるに意志弱く卯建上がらぬサラリーマン。それも勤め果せず甲斐性なしの禄でなしよと妻に捨てられ、男一人の侘び住まい。かような者を心に留めし物好きと、申せばよいのか、俗世曰く、楽を好みし軟派者と嘲笑い。然し乍らも、トランペットは僕の連れ、寂しき時は合い語り合い哀れみて手放し難し」と感極まりて涙落つ。
「斯く思うこと過ち多し。唐の四書五経の一つの『礼記(らいき)』に曰く『楽は徳の華なり』と。ヒューマニティの素敵な発露で御座る。それこそが綿々と流れ尽きずの黄河の流れ、中国に生まれし、儒学硬派の大道。楽を侮る者こそ、外道軟派の中途半端。トランペットに涙あり、山紫水明のせせらぎあり。谷間に咲きたる一輪の花、可憐匂うよう。かと申しても、楽を言葉にするは隔靴掻痒。楽の音は言の葉に優れるが故(ゆえ)」
 男はそれを聞き、我が意を得たり、知音をえたり、満面の笑み。

《射干玉(ぬばたま)の月に開きし夕顔の
 妙なる笛の音に蝶が舞い》

 鶏鳴を聞かずして朝ぼらけ。横に眠りし男(お)の子を見れば頑是無き笑みを返すは面白し。老君が「玄牝(げんぴん)の門は疲れを知らず」言いしが誠成れるは幸せか。幸いなるは埋み火を残せし君に非ずや。

   雀
 早朝なれど、お屋敷は囂(かまびす)し。リビングでは叔母らが雁首揃え、ティーを啜り、菓子を啄み、夜を明かしての倦まず弛まず、興覚めやらぬ男の談義。明けの烏の声がまだ増しと悩めるは姫ばかり。
「姫、お忍びで何処ぞ行かれた。若さです、若いのはよい、何をせずとも黙っていても、おとこどもはほいほいほいと、子鴨の如く付いてくる。そなたは我の若い頃に瓜二つ、いずれが菖蒲か杜若。今となれば、夢のまた夢」
 大叔母が可愛げに科を作るは白々し。されど笑う者なし、歩く猫さえ立ち止まる。亀の甲より年増女の面の甲、槍も刀も歯が立たぬ、若い燕が目で倒す。飛んで火に入る恋の虫、鳴かぬ蛍が身を焦がす。
「あららあらあら、如是我聞。大叔母様は夜の帳を待ち侘びて、ひょっこりひょこり少年が街・ヤングタウンへ現れて、鵜の目鷹の目、群れなすが男の子、お気に召すを見つけ出し、手を握りては妖しげなる秋波(しゆうは)を送り、どろんどろんり、目にも止まらぬ雲隠れ。あっという間の山手の御殿恋のイロハの手解きを……。女の色気は灰になるまで、古今東西、老いも若きも、変わらぬものでありんすか」
「何かを申せば、揚げ足を取る、その癖は直しませ。まるで我が年端も行かぬ子を丸め込んで、拐(かどわ)かし、手玉に取っているかのように聞こえまする、言語道断、失敬な」
「では、何をなさります、後学のため是非ご伝授を」
「よくぞ聞かれた、よくぞ申した、ならば聞かせて進ぜよう。しょうねんは教養と理想と知性を備えたる年上の貴婦人と付き合うがよい。さすれば将来の思慮・分別となりましょう。昨今の若き男はファッションに現を抜かし、見るも聞くもポルノ、書を読むも扇情本、行く末真っ暗。殊に男の知識人と呼ばれる者や、煮ても焼いても食えない者ばかり。口は成人、下(しも)はケダモノ、タワケの極み。事ある度に、才ある子を見つけては至上の愛を、嗜みを労を惜しまず言っては聞かせているのです。人を愛するに年はなし、おみなごは死ぬまで華で、蝶も呼ばずには生きらりょか」

《愛説きし我(わ)を姉と呼び慕う子ら
  暗き心の東雲(しののめ)ならん》

 大叔母様は小鼻をうごめかし、したり顔。
 第二第三第四第五叔母様が競うが如く「ご尤も」「ご尤も」「ご尤も」の合い連呼し、兵の点呼とさも似たり。それもそのはず大叔母だけが豪商の入り嫁となり家督継ぐ。夫の見栄えは悪けれど、気立て優しく慎ましく、商いの才ある妻に一目も八目も置き、甲斐甲斐しさは独楽鼠、至りてなお尽くし。
「浮気は女の甲斐性、接待も黄金となればそれもビジネス」悋気の色も見せずして男の鏡。今は笑止の古めかし「男大学」が言うが如し。
「夫は別に主君なし。妻を主人と思い敬い慎みて使うるべし。軽しめ侮るべからず。総じて夫の道は人に従うにあり」
 然し乍ら、その結婚は金に身を売ったかと鼻で笑いて白い目で、
「麒麟も老いては二束三文」
 と小馬鹿にしたは妹(いも)が四人、百花繚乱の中から選りすぐりしが美男を娶り楽しゅうは七日と持たず、分けられし財産を湯水の如く遊び呆けて、似たもの同士の番いなれば家は傾き、一年持たず。さもありながら、一人で行くはあな恥ずかしやと、四人が束になっての「姉様」「姉様」「姉様」「姉様」と猫なで声の無心詣で姉様頼み。
 その姉に面と向かいて刃向かう妹は今はなし。背に腹は代えられぬ、肉を切らして骨を断つ、腹の底では「大姉様は女に非ずし大黒様よ」「見てたもれ、腹の出具合、妾なら女としては街も歩けず、尼となる」「妾は不遇のクレオパトラよ」「佳人薄幸」
 四人四様、だんまりの憂さ晴らし。
 第二叔母様、一番乗りの御追従。
「ほんに実に、それは御姉様の知性があって出来ること。我のようなオツムではそのようなご奉仕は出来ませぬ。希なる優しい方のみが出来ることで御座います・我と言えば、男なぞに望め死は帳面付けと土木が力、この二つのみ。それで世の中よろしゅう回ります。男なぞ路傍が花を摘むが如くが一番宜し、一日の退屈凌ぎが相応、愛でる気持ちは費えて久し。
 イノシシ撃ちの男、山奥に物見遊山のハイカラを目の当たり、目をキョトン、口をポカンの薄笑い。身の丈は百九十はあろうかの大男。美女と野獣の因縁奇縁。力瘤もりもりの、筋肉シネマの逢瀬、思い出してはか弱き胸が
どっきんどきどき、山の天狗と思いけり。この男、何も言わずに露骨無骨に我を抱きかかえ、隠し湯へ。
 脳天気にも、胴間声で第九などがなり立て、機嫌伺い太鼓持ち、『お姫様』『お姫様』頻りに呼び、可愛げなるも三助代わりにこき使(つこ)うて……。

 《残蝉の一匹のみぞ鳴きにける
   森が懐の檜が幹》

 それっきり会いになど行きませぬ。神に誓(ちこ)うてそれっきり、それはそれは珍味の極み、火遊びは火傷が怖い。
 とセンスで顔を覆おう艶っぽさ。
第三叔母様羨ましげに頷き。
「二番姉さんのピクニックとおっしゃるもので、自然を愛でるお気持ちがなせるが御業(みわざ)。とてもとてもの真似出来ぬ殊で御座います。我では到底歯が立つものではありません。
 閑話休題、日はまた昇り侘び寂びそぞろ歩きの道すがら荒みし家屋、か細き声が『咳をしても一人、どうしようもない私が歩く』とさすらいの二人の俳人の句がお経のように聞こえくる。たんとたんとの寂しさに、一歩歩まず。どんな男かと呼んでみるも静けさばかり。意を決し、中に入れば、三十路ばかりの痩せ細りたる蒼白の男床に伏し。
『日に二度は看護士が来てはくれるが、お座なりのどうせ死ぬのと顔つき手つき……』と噎び泣くばかり。
 人の命の炎が消えんとする際が頗るに美し。レディが情け、今何が所望かと聞けば、口を噤み、我を差すばかり。冥土の土産、極楽行きのチケットを渡さば女が廃る・蝋燭の炎が尽きなんと輝き増しまする。男女切なさに燃え立つはげにも奇(く)すし。

 《陽炎(かげろ)うて余蘖(よげつ)のみどり鮮やかに
   薄羽蜻蛉青に消えゆく》

 因果なお話で御座います」
 第四叔母が涙ぐんではしゃくり上げ、
「御献身、信心があればこそ成仏の引導を渡せるもので御座います、ナムアミダブツ、ナムアミダブツ、妾なら一目散に逃げておりまする、身の毛が弥立つ、あな恐ろしやクワバラクワバラ。
 先日のことで御座います。さる方に誘われて、連れて行かれしヌードホールはどれもこれもが時代遅れの許し難い好みの筋肉ばかり、フライドチキンの腿肉(ももにく)思わせて、うんざりのげんなり単細胞の一つ覚えかと……さに非ず。女形(おやま)現れ舞うは妖艶、顔は紅顔の美少年、このアンバランスが身を震わせ、目を皿にする。扇子を巧みに使い、見え隠れする一物ご立派なこと、目は釘付けに、天は二物を与えたり。歓び過ぎて気分優れず、帰ろうかと思いしが、あの方に奪われてはと悋気めらめら楽屋で待ち、駄目で元々と、デイトに誘えば二つ返事のオーケー、運も味方し、あの方が選んだは筋肉大盛り男、あららあららで安堵安堵で、舞い男、口も達者で漫才師、持ち上げる持ち上げる力士の如し。
 恵比寿ホテルで蕩ける一夜。細波から亀の歩みで大波へ、空は俄にかき曇り風は吹き荒れ神鳴りは閃光を放ち大嵐、一艘が船は沈没し海の藻屑と消え果てる。彼の人の囀りの甘きこと、この今も耳を離れず燻る始末。犬も歩けば棒に当たる、大吉、大吉で思いも寄らぬ拾い物、感謝感激雨霰。

 《静かなる浜辺の上の難破船
   死のばざりしや海神(わだつみ)の熱》」

 末っ子叔母様は出番待ちかね痺れを切らしうずうずし姉の長話の恨めしや。
「姉さんは踊りも玄人はだし、それ故に女形を愛でなさる。芸の善し悪し、妾にはとんと分からず。然し乍ら、妾の趣味も目利きが要で御座いまする。高を括れば思わぬ羽目にちょいとのスリルが醍醐味、凄みで御座います。先週のウイークエンド、孔雀タウンを場違いな事務員服を着た男が厚いレンズの眼鏡に、仕事疲れか、肩を落とししょぼしょぼぬらりくらり、見るも貧相、二十二三の役所勤めと思しき男。仕事一筋、勤勉愚直の小心者。声を掛ければたじろいで、一歩三歩の後退り。この類の男は話してももじもじと決断鈍く、埒開かず、有無を言わさず、すぐに手を掴み奇妙クラブへそそくさと。
 クラブにてブランでも―もちびりちびり、目はきょろろ、誘拐されたが心持ちか。酔いが回ればぽつりほつりと口を利き。頃合いを見てサド部屋へガイド、薄暗い赤の光に見え下野、鞭に仮面に三角木馬に蝋燭に縄となどなどと。
『お好きになされ』
 と申すや否や何と見事に化けたこと
雄叫び挙げて飛び掛かり押し倒し、服を引き裂き罵詈雑言を浴びせ掛け。その一言毎に、わななき震えては、頭の天辺から足の爪先まで痺れては極楽浄土、エクスタシー。それを見た優男興奮して鞭を打ち・苦痛が歓喜・鬼が菩薩・憎悪が愛、へんちくりんな万華鏡の世界で御座います。強烈故に一度嵌れば抜けられない辞められない止まらないサドッ子マゾッ子遊技でありまする。この初な素人の拙さこそが極上の味で御座います。玄人は技に溺れて味気なし。皆様にお勧めはしませんが、得難き興があるもので。

 《恋多き夢見乙女が見つけしは
   ムラサキ炎(ほむら) 主の罌粟(けし)の花》」

 女、子持ちとなれば年の甲羅も厚くなり、恥じらいなどは余所行き、五人も寄れば鬼に金棒、色気と食い気、本性丸出しのわいわいのがやがや、止まる所、神のみぞ知る。傍で聞きし者は興醒め至極、さりとても、姫が笑顔は泥沼に咲け白蓮(はちす)匂い立ち、掃き溜めが鶴。
 大叔母様は疲れたと見え、お開きのスピーチをば咳一つお耳拝借。
「今日も良き日に一族集い、夕刻の乙女の祈り、天下国家の侃諤(かんがく)の論、蓬莱に光あり。次回は更なるが意味深遠のお話を期待する。『仲良きことは美しき哉(武者小路実篤)』」

   向日葵(ひまわり)
 あの叔母らの毒気に当たったか、暇は三日も外に出られず、ヴィオロンなどを弾きたまいしが、四日目の夕まぐれ脱兎の如くガレージへ、愛車の飛び乗れば急発進し忽ちに消え失せる。
 男の時代、手弱女(たおやめ)とたおやかなるが女を好み、今は女の時世にて、たおやかなるが男を好み、手弱男(たおやお) と持て囃される。アナクロニズムのマッチョマン、益荒男(ますらお)などは忌み嫌われて表舞台では跡形もない。然し乍ら、隠れたる熱烈なる蓼食う虫、好事家、マニア有り、風前の灯火と思えども中々に消え去らず。
ウージ(蓬莱語で「サトウキビ」)畑に囲まれて、珍しき茅葺きの家に狭き菜園に茄子の輝きてノスタルジック。自給自足の世を捨てし者の住処か。世間は広と姫は笑いて暫しの憩い。そこにギターの爪弾きに寂しき歌が流れくる。
「冬の花火の凍る夜に、蒼井薔薇が一輪咲いた、零度の薔薇、あれは幻、僕の夢、忽ち消える蜃気楼、花びらがはらりはらり落ちる、消えゆく夢の姿、ピエロの涙、ボクの命」
 青白きメロディの切なさが琴線に触れ、月姫はなぜか知らねど「願わくは花の下にて春しなむ そのきさらぎの望月のころ」西行が歌に思いを馳せた。西行はハッピーな死、男はアンハッピーな死に向かい合い。
 月姫は車から下り、庭へ行けば、縁側にギターを抱きし野良着姿で座する者ありて、ギターが伴侶の如し。煢煢(けいけい)孑(げつ)立(りつ)形影(けいえい)相弔(そうちよう)【ぽつねんとして一人、形と影が相弔らい】、男の見るとも見えず愛想なし、この世の全て、美しきも醜きも、喜びも悲しみも冥土への一里塚と覚えし、いとも悲しき人と見ゆ。月姫の姿さえ、その美貌が不吉な死に神と思われ、見てはならぬ物を見た面持ち。
「女性が嫌いですか、なぜ無視をなさる」
「多分に男も嫌いです。だからこそ、この鄙に住んでいる」
「誰(た)がために歌われる、寂しき自分のためにですか」
「人入らぬ奥山能代百合に聞かれよ、何故に咲くのですかと」
「自然の摂理、さりとても、君は人です、妾も同じ、女と男より生まれ育つもの。人を捨てしは摂理の改竄、そうは思いませぬか」
「摂理と道理は違います。幼き頃は疑うを知らずして父母に従い、自分なし。長ずれば自らが道を行くべし。そして多くの人が行く道のみが是に非ず」
 月姫は理に走り喜怒哀楽を忘るるに幸せはありしかと己に問うも答えは出でず、悶々と左様ならば腹を決め直截に問う。
「君は今幸せなりや」
「街に暮らせしよりは今が幸せで、此方には何はなくとも安らぎがあり」
「妾には君が寂しく映りしが、何故でしょうか」
「安らぎに苦楽なし、悲しみを安らかに受け、歓びを安らかに受け、波風のない海は寂しく見えしもの、其れ、人の常」
「一人生きるに無事息災を持て余さずや。妾なら一日が千秋と、堪え忍べずは火を見るよりも明らかなれ」
「朝影と夕影に畑に出て野良仕事。その他は自由気儘で、寝ても良し、書を読むも良し、気楽な日々、それを退屈などと申せば、無い物ねだり。日々過ぎた幸せで御座います」
「それならなぜに君の顔は晴れやかならざるや。世の中に馴染まぬ故、然らずば、老いること、病みしこと、死する、誰も逃れえぬ定めが故か」
「言われたこと全てが悲しきと思えども、何故に生るのか、その意味全くを知らず。絶望は死に至る病と言うも、生きられず、死なれず」と男は吐露した。
 テッペンカケタカテッペンカケタカ声聞こえ天翔るホトトギス。鳴かず血を吐き地を這うがホトトギスここに有り。生きるを問うにひたむきの、気鬱なりしが心打ち涙落つ一滴。言の葉ははらりはらりと落ちて最後の一葉。姫は男を抱き寄せて無言に見上げるは烏羽玉の月隠れたる闇の空。冬来たりなば、花なく、葉さえ落つ零落の枯木と見ては哀れな物よと人頻りに嘆けども、幹有り、根有らば、花咲き誇る春や遠からじ。と思いしも、為す術はなく臍を噛む。姫は何思う、電光石火雀の如きキスをした。それこそが愁いに沈むこの男への千言万語。
 向日葵は日輪に恋い焦がれ尽き果てる悲運の乙女が生まれ変わり、暁に東を仰ぎ、夕暮れに西を望める片思い。

『やわ肌のあつき血潮に触れも見で、
  さびしからずや道を説く君(与謝野晶子)』

   カナリヤ
 何ぞやと問われて答える頭なく、向日葵がこと心より離れずして、悶々として日がな一日楽します。生兵法は怪我の元、マッチ一本火の用心気分転換ドライブへ、いざ出陣と韋駄天のハイウエイ宙を飛ばぬが摩訶不思議。車は飛ぶ器に非ずも、姫は気付かずのめり込んでは夢見心地で、一っ走りの桜満開爽快気分。気がつけば山の手の深深ひっそりかんのお邸宅立ち並び、余所者は出て行けと内弁慶の犬が吠ゆ。南の島に雪が降る、目をば疑う二階建てきらりぽつりのきららきらきら、赤・青・黄色イルミネーション桃色サロンと見紛うばかり。中庭はエプロンステージとなりスポットライト、白のタキシードシルクハットに蝙蝠傘に、今は珍し白蛇の革靴これでもかこれでもかとの見栄っ張り、駄目押しはちらりと見せる二十四金山吹色にダイヤモンドを鏤めたるがキラリ・ピカリの腕時計、隠し味には右の奥歯に埋めたるブルーダイヤモンド、流れる葉電子音楽二十と三で世を去りしパダルジェフス若き女性ピアニストが残せし唯一の曲「乙女の祈り」。坐りしは赤御影のテーブルの椅子、足を組んでは葉巻を燻らして通りを眺む。赤のワインに二つのグラス、未だ見ぬ麗人を待ちてはや三月過ぎ。

「待てど暮らせど来ぬ人を宵待草は待ちにけり(竹久夢二)」

 御仁は二枚目を信じて疑わぬ金剛不壊の自負が有りしも、年老いた踊れぬ宝ジェンヌが男役に見えしも、古代より希なりし古希齢七十。されどめざとく月姫を見つけては満面喜色、破顔一笑なれど、我を殺して冷静に沈着にエゲレスがエリザベス姫様式の手招きをする。据(す)え膳喰わぬはレディが恥じ、微笑して館へとしなりしなりといつもと違い大和撫子七変化。
「一枝の薔薇露に濡れてその深紅鮮やかに香り立つ千年に一度の否万年に鶴亀とてもお目には出来ぬ解語の花、語られるお花、立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花。お掛けなさいませ、まずはワインを召し上がれ。我とあなたでは月とスッポン、これは失礼、スッポンとは下品な響き。あれもこれもどこもそこも眉目麗しく、欠けたるはなし。神や仏を拝まぬ我があなたを拝む、ほんにビーナス、美の化身」

  「我が胸の燃ゆる思いにくらぶれば
    煙は薄し桜島山(平野国臣)」

「あなたこそ絢爛たるが家に住み、今までに何人のご婦人方を惑わされたか数知れず。言葉綾なす金糸銀糸の雲の網、泣いて喜び何匹の蝶が囚われたるや」
 渡りに船、火に油、百戦錬磨のご老体、太鼓も撥の当たりよう、我が意を得たりと捲し立てる。
「いーえ、いえ、それは過言で、……。松だけの男で御座います。世の中は美人より醜女が多い、目も当てられぬお人でも邪険には出来ませぬ。恋の怨みは恐ろしきもの、草木も眠る丑三つ時お無言電話が十月と十日身も心も細ります。外面おかめ内面夜叉の天が匙を投げたる者共、思い出しても五臓が煮え繰り返る。暗雲が立ち籠める我が館へのご来光、一日の逢瀬は値万金、値万年明日に死すとも我が人生に悔いはなし。あなたを見れば魂が打ち震え我が身が溶けてしまいそうです。飛ぶ鳥が見とれて地に落ちて、川の魚は水底に沈む神の御業の美しさの極み」
 褒めるも春雨ならばしっとりと濡れてまだ良きが、土砂降りで二の句が継げず雨宿り、褒め殺しとはこのことか、されども貶されるよりは増しか、年寄りの冷や水、立て板に水、御仁はくすりとも笑わずして、大真面目、笑いも出来ず月姫の腹捩れ甚だ痛し。秘策閃き姫が右手の人差しと中指を己が唇に付け、相手の唇へ……。御老体、火を灯せる一杯飲み屋の赤提灯、見る間に滾る湯釜の蛸入道と血が上り倒れはせぬかはらはらのどきりどきりで生きた心地もすっ飛んで、眺める方も冷や汗だらり。そのような微微は我関せず御老体己が一人でわりふうわり雲の上、喜びの余りに椅子からごろりと転げ落ち尻餅を搗き激痛走る。ここが男の見せ所、失意にあれど二度も木から落ちることはなく猿ではなく弘法太子が近くにありと御老体の己への激励叱咤が胸の内での世迷い言、ここでおめおめ引き下がっては如何に年とは言っても、死んでも死に切れぬ。
「縁有って千里飛び越し相見え、縁無き人は顔付き合わすも相知らず、我と汝は前世の契り深からん」
 ここで一息沈思千慮、如何に閨へ誘うたものか、愛あらば年の差などと鈍いお人は言うけれど、孫ほど違うこの落差は全面露出、遂にぷつりと切れたら、上がれ上がれ天まで上がれ奴凧(やつこだこ)、清水さんが小さく見えませぬ千尋の谷、呪文のようにぶつぶつぶつと鳴かない亀が末期の一鳴き。
「冥土の土産に枯れ木に花を咲かせてたもれ、秋の扇で冬の風鈴を鳴らせましょう、せめて余生をあなたを偲びて泣かせてたもれ」
 御仁は目を潤ませて一滴二滴涙を見せてはシルクハットが大事と見えて、おもむろに傍らへ、すかさずテーブルに頭を伏して涙は出ないが噎び泣く。柔らかき物硬き物より口にされるが世の習い、煎餅よりもゼリーにプリン、亀の甲より年の功、まな板の鯉と身を捨てし翁の涙にほだされた月姫はちらりと聞きし、女子高生が持て囃す枯山水のお楽しみ、科を定める松竹梅のお品書きなど面白し。枯淡の境地老いを愛でるも女が情け楽しからずや、それならと頬笑みて頭をこくり。
「あーあっあっあっ、天にも昇る心持ち、六根清浄、ロッコンショウジョウ、ロッコンショウジョウ、叩かぬ門は開かれぬ、艱難辛苦を潜り抜け初めてぞ得んまほろばの歓喜天(かんぎてん)。辛苦万難がこの浮き世、年を重ねて七十年と八ヶ月と十二二日、初めて笑う嬉しさに熱き涙が零れては蓮の上、千雲の紫、万の紅。雲雀のように天翔け昇り、囀りたき我が心、ああ、囀りて歌いたいのに言葉が出ない、ほんに恨めしき……」
 と嘆きつつも、翁の話は延々と綿々と何処まで続くのやら、回り果てない回転木馬。鰯の頭も信心からと三日で終わる凡人と軽薄者に一章通す大馬鹿者が一徹者が一本道を行き続け己が棺桶に入る日暮れまで、恐れ戦いたは山の神ヒマラヤを背負いて立ち退き、大道あり浮かぶ瀬もなし世渡り上手、生悟り。
 閨に入るや、翁は凍り付き月姫がヌードをかっと見開いた目玉ばかりがらんらんと口は渇き生唾を飲む。されど手も足もママならず壁を睨むダルマさん、このイマジェンシーに老いの一念メラメラと五臓より燃え上がり呪縛を燃やし、白磁の壺、指は蝸牛(まいまい)のろのろと虱潰しに這い回り肌から放つエレキテルの痺れに目くるめく摩訶不思議天国至極の心持ち、死んで本望、死んで本望と囀れども、百まで永らえば新たなる美しき人出ずるやも知れぬと、執念がふつふつと沸き起これば、夏の稲妻光り、鳴る神様も怒り出す、腐っても鯛は鯛、老いたりと一は勝手に言えども、麒麟は駄馬に勝る。
 数日して、媼のことを大叔母様に何かの拍子に漏らせば、神も仰天、烈火の如く怒り、テーブルをぶっ叩いて赤鬼となり帰りける。田の叔母ら申すに、大叔母様の初恋の人は零落の公家エゲレスはケンブリッジ大学を首席にて卒業し帰国の宴でウイナーワルツを踊れば一目惚れ。パトロンとなり三十余年、大叔母様の籠の鳥が囀るは妾一人のためとかなり自慢のカナリヤにてと、叔母様らは笑いて座視労であろうと言い放つ。

《偲ぶれど飛べぬカナリヤ濡れ枕
  衣返して夢にぞ逢わん》

   蛹(さなぎ)
 大叔母様をお屋敷で見るに付け、月姫は後ろめたさを覚えるも面映ゆくもあり、女と男の秘めて燃える火鉢の灰の燠(おき)の如く触れば身を焼く魔物棲む。かと言うも、思案するより恋が先で後の祭り。
 車走らせ漫ろドライブ一気呵成のリフレッシュ回る景色七変化、人何処より来たりて、何処へ去るや、半可坊主の世迷い言、雉も鳴かずば打たれまい。我来たり、我見たり、街の外れの裏通り、寂れしビルのバルコニー、カラオケ流れ怨み節、紫のスーツにズボンの美少年かと思いきや、色濃き化粧にふくよかなヒップライン、柔らかなるが女を隠せ、痺れをもたらす奇異なる色香、好みて迷う恋曼荼羅、百花繚乱、花を摘まぬ木石には非ず、地下で流行(はやり)の女衆道(おんなしゆどう)、異性愛者は毛嫌いし、殊に男は甚だし、蓼の青虫見るが如くに蛙に蛇、天敵さながら、眉顰(ひそ)め総毛立つ、見たくもない目の上のたんこぶ、ひたすらに忌々(いまいま)し。とは言うものの、この世界は女と男、女と女、男と男、三種の神器、いずれ好むも選択の自由あり、ソクラテスも「饗宴」では少年愛を熱く説く。その妻は悪妻の見本と名を残すクサンティッペこそが被害者、ソクラテスこそ醜男(ぶおとこ)で淫夫毒夫の鑑なり、「悪夫は二千五百年の凶作』。初めにナマコ喰うた人、虎穴に入らずんば虎児を得ず、為せば成る、為さぬが凡夫、食わず嫌いは男の浅慮、まずは飛べ。クラクション一つ響けば、歌姫がバルコニーに身を乗り出して喜色満面手招き千回。ビルの扉が観音開きエレベーターに乗り込み五階で下りれば、可愛い仕草、天地無用の亀、怖々と部屋のドアから頭出し、顔赤らめて、ここですよと示せば中へ引っ込んだ。開いたドアから入れば、リビングのソファに坐らせ、歌姫はスコッチオンザロックのグラスをテーブルの上に置いて立ち尽くし、身は震えども見とれるは遠目では分からぬ月姫の神々しさ、ご尊顔はいと美しき美の権化、我が身はと振り返れば穴に入ろうか思いしも穴はなし、いっそそのお姿を目に焼き付けてバルコニーから身を投げれば月姫との永久の契りになろうと甘く切なく不穏の誘いに目くるめく。月姫は笑みて、何はともあれ坐り給えと席を勧めれば、歌姫は我に返りて赤いほっぺが赤提灯に早変わり、酒を作って一気飲みに一呼吸して早言(はやこと)で詰(なじ)る。
「この世にて野郎が作りて珍なるものは酒だけ、後は屑のみ、この水の星の野郎が生まれし天然の理はアルコール誕生のため、霊長類の種の保存味気なし。即物的で、余りに生殖的な生き物です。野郎の野蛮極まる飲み方を一瞥すれば、救いがたき知らぬが仏」
 男勝りの口振りに年行かぬ子が背伸びをしたる様で頬笑まし。
「君は泣いても泣き尽くしても、女に尽くす男(お)の子がお好みか。君の怨み節、哀感迫りその男の子を抱き締めたいと思わせる、プロの歌い手も顔負け、ほんにお上手」
「ボクは男が女への怨み辛みを歌えるなどと罌粟の粒ほども思いませぬ。熊の手でピアノを弾けとの無い物ねだり、男を信じるくらいなら、鰯の頭、三日三晩の五体投地し西(いり)から朝(あした)を招きましょうぞ。女の微妙察するを牡(おす)に望むは木に登りて魚を求むる阿呆の如き鉄面皮。コーヒーに蜜が溶け甘くなるのを待つを汁は女なり。野蛮の男の腰振りなぞは愚の骨頂ぞ、片(かた)腹(はら)痛し。蜜蝋の二つの炎互いにたゆたい揺らぎ絡みて縺れ糾える双頭の蛇結びて燃え上がる一つの紅蓮の炎、刹那刹那に変じては千年の喜悦なりて命燃え時が溶けボクが溶ける……、女性との逢瀬はおありか」
 蓬莱ガラスの青の鰹の烏帽子(えぼし)、夢見る乙女、虚ろな視線、さ迷う御霊、浮遊するオーガズム、痺れの法悦、くるくる回れ走馬燈、切なきものは憧れ一つ、身を焦がし。
「残念ながらありませぬ」
「当然至極。男どもが鵜の目鷹の目、引く手数多で、同性など目に入らぬが麗人の習いにて無理もなし。麗人は駆け引きをせず、それがフレッシュで初々しき心地にて、猫にマタタビ、ミイラ取りさえ魅入られて恋の坩堝でフツフツ恋の媚薬の出来上がり。この道の者少し囓りて極めたる顔して粗暴なり、技巧に溺れお下劣既に地に塗れるを知らずして、クイーン気取り、円(まろ)みなく詮(せん)尽きる。あなた様のお姿に瑕瑾なく歓喜天さえ妬み嫉(そね)まん美しさ。契りなく片恋し思い死にすることこそが本望か、さりとても、冷めし灰の埋み火赤々と燻りて消えることなく悶々不楽永の独り寝射干玉(ぬばたま)の夜。如是我聞、即ちこれ怨歌なり。古にこの怨歌を男のために女が歌いし時あるは口惜しや慚愧の至り」歌姫は目を潤ませて一滴伝う頬の上。
 男をばここまで憎む歌姫場尋常ならず。幼き旨の初恋に者知らぬ男の子が手ひどい仕打ちを被りて、自分さえ忘れた如きトラウマとなり、歌姫の心むしばみ歪(いびつ)にす。男嫌うに余りに若く肝苦(ちむぐり)しゃ、心痛し。
「嗚呼君は男の子との逢瀬はありや、街を歩けば、男が足を止め見返るほどの美形にて、我が男でありなばや花ある君に言い寄らん、雲に隠れたる十六夜の月」

 《闇に月仄かな思い忍ばせて
   ペーブメントの端にチュベローズ》

「あらあらら褒めて殺すは人悪(わろ)し。『富士には月見草がよく似合う』あの神経質な太宰治が独り言。ボクがなどして男嫌いかお尋ねか。迂闊に聞けぬことなれど、案じめさるな。ボクが五つか六つ、むずがりて暗きに目覚めれば、襖越したる母の閨より噎び泣き、おどろおどろし。忍び寄りて窺えば、闇夜の薔薇を突き刺すナイフ滑りて、二対の赤目、ぎらりぎらぎらり鬼かやと、息殺し見つめれば母なり、叔父なり。死の床に横たわる母、忽然と起き上がり再びの嗚咽を垂れ、別人となりてあな恐ろしや、母と叔父、安達ヶ原の鬼に生(なま)剥(はげ)、グランマー時計が三つ鐘打ち、眠りの婆がボクを襲った。長じても、忘れた頃に時計が三回鳴り響く。男の若気(にやけ)を見る毎に虫酸が走り嘔吐感」
 月姫笑み、フロイトの模範解答、セラピスト、受け売りの自分隠しと思えども、真(まこと)の弱みを言うが珍しき。男に全く未練なければ、憂いなく、街を闊歩し怨歌を好むはずもなし。愛すれば憎しみ多し、人の心の曼荼羅、木石に怒る人なきこと見れば、明々白々。ファザコンの影を切ろうと、男嫌いと独り善がりの思い込み、あどけなく忠実(まめ)なれば、可笑しくも悲しけれ。小骨さえ喉に刺されば日も夜も煩わしき、それを除いてやるはレディが情け。
 二つのグラスのスコッチオンザロック琥珀に輝きて、映りしは天の月か、「あの星を取ってたもれという倅」
 グラス合わせて乾杯すれば、酔うほどに、なぜか知らねど清々し心持ちにならん、男心と秋の空、歌姫は訝り月姫を一顧すれば、やんごとなき人の通力か、何はともあれありがたし。
 白鳥もアヒルの郷に住まうれば器量なし。月姫はっと気づきて、心は蓬莱晴れ、お天道様が輝かぬ日は一日も無し。さきまでの穢土苦界が、今や浄土か極楽か、憑き物が落ちたよう。
「初恋は叶わぬが花、未だその子忘れずは甘く切なく、レモン風味」

 《溜息ばかり吾が春は
   ディクショナリ覗いては探す
  恋の文(あや)なれ》

 歌姫はにかみて頬笑めば、平泉中尊寺弥勒菩薩と見紛うばかりボーイッシュ、震えながら手を伸ばし月姫の手に触れて握れば、満身感電、総毛立ち、ベッドルームへ恐る恐るのエスコート。そこまでが歌姫の張り詰めた気の極み、ぷつりと切れて、ベッドの上に倒れ込み、吸い込まれるは眠りの懐、母が腕(かいな)の赤子の眠り、涅槃の仏陀。月姫も添い寝して目を閉じれば、ギャラクシー、逢瀬に渡す鵲(かささぎ)の橋、歩み寄るは織り姫、彦星なれど顔は朧(おぼろ)で見分けが付かず。焦がれる二人は歌姫に、月姫に入れ替わり、されども互いに望む相手に非ず擦れ違い。岸辺に辿り振り向けば橋は消え失せ、向こうで手を振る男の子を見つけるや目を覚まし、眠る歌姫に別れを告げる。
 一月過ぎて無聊の余り三次元テレビのリモコンを押せば、聞き覚えのある歌声が、よくよく見ればあの歌姫が溢れる笑みで艶歌を、派手な着物も鮮やかにトップテンのランク入り。
「女子(おなご)、三日会わざれば瞠目せよ」
 昔の人はよく言えり。

《さなきだに心乱るる乙女子や
   雨過晴天に揚羽蝶(あげは)とひらり》

   螢(ほたる)
 彼の偉大なるジャーマンの詩人、ゲーテ七十三になりても十七の乙女子に果敢にプロポーズせしが、にべもなく撥ね付けられて、世を儚むかと誰もが気を揉みし中、さすが文豪、朗々と吟詠す
「恋なくば世も世に非ず京も京に非ざりし」
 古今東西老若男女、恋すれば花咲かぬ者はない。それぞれの花に香りあり、散りては芽吹き、また咲き誇れ、不死の花、恋の花。人が花となるより優れたるものはこの世にはなし。八百万の神々が授け賜うこの宝、胸が奥に押し隠し、使わざる者、人と生まれし誉れなし。恋は百八つもの心にありし煩悩の泥の海より咲き出ずる白き蓮の花、仏も憩う蓮の台(うてな)なれ。身分も、家族も、命をも捨てる、たかが一人のための恋の一途の誠、それを包み隠せる闇はなく、二足の獣の無明長夜(むみようじようや)の光りなる。
 月姫は蓬莱の北、草木深き山原(やんばる) の七曲がり自慢のハンドル捌きですいすいと車滑らせ、気分爽快、天気晴朗、鼻歌混じり、大叔母様らの逆鱗に触れ、鬼に千振、醜女に辛子、大叔母様にタバスコ凄まじき顔もすっ飛んで、十七八の箸の転ぶにも笑いの復活、一人でにやりにんまりうふふふ。
 笑い余って面の皮突っ張りて痛みあり、我に返れば同じコースをぐるりぐるり回ってばかりで出口が見えず、テレビマップを広げれば、北山道の予定の道筋、八つの衛星を使いし測定なれば間違いは万に一つもなし。かく言うも、気が付けば回り灯籠、同じ絵柄の景色ばかりで飽きが来て、欠伸は出るわ、退屈至極。柳は緑、花は紅、ご尤(もつと)もご尤も、出るわ出るわの椀子蕎麦、我慢に我慢、遂に切れたか急停車、腹癒せに警笛三つ鳴らせば、シート倒して一休み。道に迷えば右往左往は禁物で、一夜の草枕、ハブ、イノシシ、マングースにヤンバルクイナ全て至れり、言うことなしの森林浴、身も心もリラックス、リラックス、サバイバル、備えあれば憂いなし、パンの缶詰、バナナチョコ、ビーフジャーキー、水のペットボトル、待てば海路の日和あり。森の枝葉を揺する風、名も知らぬ鳥の鳴き声、蝦蟇の鳴き声、地を走り抜ける獣の足音、たまさかに目白囀る。長閑なりしが月姫の気質に合わずして欠伸ばかりで空は暮れ。
 真っ暗闇がどっぷりと、奇妙奇天烈、人の入らぬ鬱蒼と茂る木立の合間より、漏れ聞こえるは三線(さんしん)の音。面妖な、はて面妖なと思いつつ、怖さより独り寝の味気なさ、わびしさをつらつらと慮(おもんばか)れば、一夜の宿を、一夜の宿を。然りとて、闇の森を歩き慣れたる獣に非ず、人なれば行は困難至難の業と思い倦ねて地団駄踏むばかり。泣いてせがめば祖父が与えん、神が拒めば鬼が与えん、ラッキーは鈴をな鳴らさずやって来る。さてさてさては又面妖な、漆黒の闇に、螢が一匹舞っては誘うが如く行っては来たり、行っては来たり、恋に落ちたるおぼこの思案、姫が踏ん切り、ハブ棲むと言えど飛べないクイナも森を離れずして、姫は螢を道案内の灯火と歩めば、足も取られず木々の枝葉に触れもせず、いかばかりか進みしか知らねども、闇泳ぎたる螢がぽつりと消えて、遙か彼方の星のみぞ見ゆ。立ち尽くせば、眼前に人魂がゆらり、オレンジの光り現れ、ぼんやりと滲み出るは亀の甲羅を象った亀甲墓、古色蒼然、捨てられし墓より猶無念、忘れられし墓一基。
 その墓を背に婆娑羅髪(ばさらがみ)、太刀傷残す、血糊べたりの衣を纏う落ち武者が胡座を掻きて、三線を弾き、右には白ハブが蜷局を巻きて付き従い、宙に小さな人魂連なりて、火炎光背燃え上がる。
 蓬莱は古来より床の間に刀を置かず、三線を飾るが習い、武士の嗜み、人の嗜み、上下を問わず楽を愛でて争わず。天地人相和すことが政(まつりごと)の神髄と伝えられしもが……。
「戦場(いくさば)ぬ哀(あわ)り何時(いち)が忘(わし)らゆる」[二見情話](蓬莱終戦後の民謡)【戦場の哀れをいつの日に忘れられよか】
 武者は顔を上げ姫を見、手で招く。月姫ぞっとしては怖じ気怯みしも、一人で過ごす闇の寂しきに思いを致せば、たとい亡霊幽霊であろうと、元は人なれ、ハブ、イノシシ、草木と語るよりは易きこと、南無釈迦牟尼仏陀(ナムシヤカムニブツダ)南無釈迦牟尼仏陀。姫は会釈し進み出て向かいて坐る。武者は睨んでからから笑い、盃を出し、姫は受け取り飲み干せば……。
「そちは、そちは女子(おなご)よの、儂が恐ろしくはないのか、千年の亡魂に出会(でくわ)して逃げざるは男・女を問わずして、そちただ一人。それにも増して、夜叉の面、逃げても文句は言えぬが腹が立つ。嬉しいものよ、一千年の孤独身に染む我が身には。それにしてもかような佳人と咲け酌み交わす、巡る因果の面白さ。人の心の変わり身の早さ、千秋の空覆う黒雲が跡形もなく掻き消されては、真澄の虚空、儂が千年の意味あり也、なき也、新たに胸が張り裂けん」 
「あなたも元は同じ人なれ何故恐れましょうぞ。骸骨となるは人の定めにて、執着あらば亡霊と鳴る。これも又人なればこそ。その千年の孤独を与え因縁を聞かせ給え」
「実に面妖な女人よの、亡霊に聞きなさるとは。比丘尼のようにも思えぬが。千歳に一人、美しき人、今を逃せば亀の命の万年も待つやも知れず、酒の肴に語りなば気も散じ一興ならん」
 身を乗り出して耳を傾け一言一言に聞き入れば、大将の首取ったる武勲話に、斬って斬られの血飛沫上げる、修羅場の大立ち回り。武将の目らんらんと真っ赤に染まり、輝き増し、荒ぶる鬼神(きじん)、木が揺れ獣が騒ぐ森の中、微動だにせず怯まず見ゆは天の星に姫一人。声落とし自らが最後を語る武将の無念、察するに余りあり。
「死んだとて子々孫々末代までも呪い殺さん一念有り、然し乍ら呆気なく戦に、謀反に、病に死して没落、その一族に生き延びたる者なし。あっという間の二百年、朝の露、怨む相手は成仏し、腑抜けになった我一人在り。生きられず、死にきれず哀れ骨髄、死に損ないの生き損ないで御座る」
「あなたは知らず千年の世代わりを。今政を司るは女人にて、戦なきこと四百年の天下泰平。力で国を治むるは能なき蛮人、罪人に他ならず。戦では老人・子供・女子と殺される、虫けら同然、死ぬのは兵士のみでは御座いませぬ。戦に大義名分、男の勝手。先人の母ら家族とお隣近所、ひたすらに無事息災を懇願し、全て女人立ち上がり、武器を捨てよと狼煙(のろし)上げれば、お隣が海を越え山を越え、情けの宝珠連なり、相輝きて、世界は一つとなり、最早戦を記したる歴史なし。平和続き資産全世界、鉄砲、刀で泣き叫ぶ飢えたる赤子一人さえ救うこと能(あた)わずは明々白々」
「そちの名は月姫か、名前負けせぬ容姿と気性、天が二物を与えたか。儂の名は三嶽丸(みだきまる)。そちは儂を驚かす、女が主で男が従う家来なら、男勝りのそちにも合点が行く。思い及ばぬ今の浮き世なれど、それでも稲穂が実るならそれでよい。そちに話の返礼に歌を聞かせましょう」
 今様に声を張り上げ分かってくれと歌うに非ず、己の内へ内へと向かい、三嶽丸、己が身に問いかけて、千年の闇、そこを導く灯火を、光明を探し求めて打ち震える籠もり声、戦の誉れ、虎よりも勇猛果敢、武勲多くして、安らぎの家を知らず、山の屍(かばね)。
『恩納岳(うんなだき)あがた里(さとぅ)が生まり島(じま)
  森(むい)ん押(う)し除(ぬ)きてぃ此方(くがた)なさな(恩納ナベ)』
【蓬莱短歌・形式は八八八六・訳・恩納岳超えたなば恋人が村 森も押し除け此方(こちら)へなさん】

『寄(ゆ)る辺(び)無(ね)ん者(むん)や
   海士(あま)ぬ捨(し)てぃ小舟(うぶに)
 着(ち)く方どぅ頼(たぬ)み 繋(ちな)じ給(たぼ)り(よしや思(ち)鶴(る))』【訳・寄る辺無き者、漁夫の捨て舟 流れ着きたる岸辺が頼み 繋ぎ止め給え】

 三線止めば、延々と幽愁あり、声なき声は、告げるに勝る。
 戦いに明け暮れし三嶽丸、姫は動ぜず冷ややかなれど、恋歌を耳にすれば、目より熱きものがほろほろと、戦終わりて、死しても呪う二百年、それから思い出したる家の妻、生きて愛せず、死して恋い焦がれ、知るは家の花の優しさを、円やかに慎ましく美しく、いと弱き一輪の花が咲いて散り、今は浄土の黄金の蓮の上。愛を侮ったるが三嶽丸、手を伸ばせど届かぬ天上の星、儚きや盃の月、鬼も殺せど、阿修羅さえ手折れぬ己が心に芽吹きたる花一輪、天に昇られず、地に降りられず、人を殺して、人に殺さるる戦場(いくさば)の哀れ、悟れど引き返す道はなく、生きて百夫雄となる武士の誉れ、名を馳せし獅子奮迅の戦乱武者は三嶽丸。思い起こす愛しき人よ、嘆けとて千年立ちて四十年、葬式済みて医者話、三嶽丸猶哀れ。浮き世への執着よりも愛しき人への……敵の大将の首斬り落としたる刃でも断ち切れぬ思い残せし女子への情の糸。
「三嶽丸、あなたが思いし女人は死んで浄土へ、この現し世ので相見(まみ)えるは夢の又夢、叶うことなし。然れどその執着を断ちて捨てずば、新たなる千秋万歳を越せども……成仏できず。今のままの再びの恋い焦がれ、鳴かぬ螢が身を焦がす。亡霊は飢えねど、恋の飢えは寝ても覚めて止められぬ悶々不楽、義を見て為すは淑女の嗜み。
 私をば感の菩薩見紛うて、一や契り、さにあらば愛しき人への不義理にはなりませぬ、三嶽丸、急ぎて己を救い、成仏なされまし」 目を丸くして呆然としたは三嶽丸、維持と読経は女如きにあるものか、男上位の思い込み、木っ端微塵と砕け散り、互角となれば襟を正して向かい合い。
「月姫よ、自分の言ったことの重みを知っているのか」
「承知の上で御座います、女に二言なし」姫は毅然と言い放つ。
「面妖な、実(げ)に面妖な、月姫は美しくまだ若し、月下美人の花は一夜で散って本望となす、うら若き乙女子が身を捨てるやも知れぬこと、それでもよいか、今ならば止めたとて構わぬが、もしそなたと交わったならば、儂に歯止めが利かぬは必至、そちも浮き世にもあの世にも戻れず行けず、未来永劫孤独茫々……」
 三嶽丸、百戦錬磨生き死にの修羅場を凌ぎ身に染み付いた、人を貫き増え上がらす刃の眼光を隠すために目を伏せて、腕を組み返答を待つ。
「冥土の道に老いも若きもなきにして、運否天賦で私の思い通すのみ、さもなくば私の一期を捨てるに等し、懸念など無用で御座る」
 三嶽丸目を剥いて亀甲墓の蓋を睨めば、その石動き宙に浮き、姫を呼び、中に入らせれば一千年の気の淀み、靄かかり、生暖かく黴の臭い、奥にぽつねんとして厨子甕一つあり。 姫、入れば仰向けに横になりせば、三嶽丸衣脱ぎ捨て諸肌見せれば、鋼の肉に刀傷、槍の痕。女人が肉は李朝の白磁、滑らかに、触れてなぞれば柔らかに、戦(いくさ)戦に明け暮れて殺気立ったる合戦場に死に行者の悲し形相数珠繋ぎ、浮かびて消え再び浮かぶ一生が戦ばかりの走馬燈、殺生に昼夜なく、妻と暮らすは一月足らず、顔も朧で思い出もなし、待つばかりの妻の心中を慮(おもんばか)れば口惜しや、慚愧の至り。かくの如き儂は鬼に非ずや、死んですんなりあの世に行けぬも仏がご慈悲なるか、行けば地獄は当たり前、ああ、我を地獄に落とし給え、南無釈迦牟尼仏陀。
 一将功成りて万骨枯る、死(し)屍(し)累(るい)々(るい)に、それぞれ妻や子や、ご父母は如何に、奈落へ奈落へとぶつぶつ唱えれば、涙を嫌う武将の目にほろりほろりと零れて落ちる瑠璃色の玉、それ人の証、鬼に非ず、木石に非ずして、魂魄は震撼す、ぺんぺん草も生えはせぬ荒野なり、寂々(せきせき)たる也、寥々(りようりよう)たる也、肉(しし)なきはずの五体が凍え砕け散る、極寒の氷の世界、三嶽丸、これが地獄、地獄かと戦けば、藁にも縋らんとする己を知りて、武将の武将がこの様、恥の極みと歯軋りすれば、口から血がぽとりぽとり、死ぬも叶わぬ身の上に、慟哭すれば、眼前に光り輝き温もり放つ観音菩薩、女人となりて横たわる。
 金剛不壊の強きを見せる大きな巌、脆弱なるが方円なきの水の流れに削られる。森羅万象相見(あいまみ)え、大海へ入りては流る。海は煌めく日・月・星を宿して天を巡り巡りて雨となり、地に降り注ぐ、それ万物を潤して避けることなく、高きから低きへと流れて止まぬ万物の母、母なるは尊し。
 睡魔襲い、姫は朦朧、その最中、首なしの三嶽丸現れて、ぺんぺん草が両目から飛び出し生える曝(さ)れ頭(こうべ)、白い煙と変じては鼻口耳と五穴から入り込み、気付けば姫も白い煙と宙をさ迷い、雲の上かの心持ち、ふうわりふわり己が身を見下ろせば、実に神妙な。三嶽丸の巴が姫の巴を掠めれば、痺れて悦楽快(け)楽(らく)の渦二つ、巴が右に左に回り、大風受ける風車唸りを上げれば、青白き稲妻生じて闇を這う。小さき渦が忽ち大きくなりて、森を飲み込む竜巻と変じて天まで届く大暴れ。二つの巴は交わり快楽に沈み、風は吹き荒れ大地が噎ぶ。肉の衣は身を縛る浮き世の襤褸(らんる)、霊魂歓びに満ちて弾けて踊る、掛け値無し、天にも昇る有頂天。その中で竜巻に飲み込まれし一羽の雲雀息も絶え絶え疾風怒濤に七転八倒し、小さき命消えなんとしたその時、姫が心に梵鐘響きければ、絡まる二つの巴が真っ二つ左と右に飛び去った。
 蒼白の姫、お屋敷に蹌踉(よろけ)ながらも辿り着き、そのまま倒れて床に伏し、声を掛け、体を揺すり手も呼応なし。医者に診せれば身体・脳波共に異常なく、眠りしのみで難病奇病と言い難し、病に非ずとふんぞり返り、金を掴んで失敬とおさらばす。
 経で四十九日を眠り続けて、生ける屍、五月蠅き叔母らが連日連夜わいわいのがやがやで、彼女らなりの心配モード。
 三嶽丸は部屋の宙に浮き、眠れる月姫を見る。姫の魂、掌中にあり、けして放しはしない。これを放てば、再び孤独茫々、人の優しさ知ったからには一人になるのは何より辛し。三嶽丸、生死に見放されたは久遠の奈落、然りとて、美しき姫は亡霊に情けを掛けし千年にただ一人の人、恩はあれども怨みはなし……浮き草の相逢うは悉く異郷なれば、一日の過客に過ぎず、思えらくは望むべき帰るべき故郷はあり也、なき也愛別離苦や会者定離、などして今生で月姫と巡り合わせずして、亡霊となり果てた哀れなる我と逢わせしや。逢わなくば、井の中の蛙は大海を知らずして、井の中も住めば都を、牢獄と覚えさせしは陰険なり、卑怯なり。天長く、地久しきと言えども尽きることあり、ただ慕う我が心綿々として尽きること叶わず。この怨み延々と絶えることなし。然れど夏に雪降り、天地寄りて交わらば、月姫を、君を忘れん、怨みなし、天怨み、仏をばお怨み申す。……四十九日を過ぎれば、姫は現世に戻れず、浮かばれぬ霊とならば、我が身と同じ千年の万年に寂寞を味わうことに、今が盛りの乙女子を手折(たお)るは鬼畜生ぞ、我は人と生まれしぞ。百も承知の三嶽丸、然りながら、然りながら、永久の別れを思いはからば、愛しさ故に、寂しさ故に、掌中より月姫の魂を離さず。苦悶は果てなく、断末摩の呻き、因果応報、因果応報、三嶽丸、我を怨みて慟哭すれば、右手を開き姫が魂を解き放つ。その刹那、屋敷から逆さ稲妻、虚ろなる漆黒の中天を突き刺し神が吼えて天地揺らげば、西の端に夜這い星走り、赤々と燃え上がり光りては消ゆる。

『雲ぬ上(うぃー)疾駆(はい)る馬に跨がいてぃ
  浮(う)ち世(ゆ)下なする後生(ぐそう)面白(うむ)さ』
       [蓬莱短歌は八八八六の形式]
【訳・雲の上を疾駆する馬に跨がり
    浮き世を下にする後生の面白さ】
 
 と三嶽丸が笑んで贈れば、

『比翼(ひゆく)羽衣(はぐるむ)や風(かじ)に攫(さら)わりてぃ
   降(う)り立ちゃる島ぬ緑(みどぅり)光(ひちや)てぃ』
【訳・比翼の羽衣は風に攫われて
     降り立った島の緑は輝きぬ】

 月姫掛け合いて涙流るる頬の上。
 時を同じく姫は目覚めて腹が空いた喰うわ喰うわで、叔母どもは拍子抜け、心配損の慰労会ぶち上げて、喋り、喰う、飲んでは口の休まるを知らず、三日三晩が消し飛んだ。朝ぼらけ、目白が山(く)梔(ちな)子(し)にの小枝で囀り、旭日を謳えども、叔母どもはソファの上に下にトドの如く横たわり、歯軋り、鼾、寝言とと、家鴨の掛け合いか。然り乍ら女、子供が笑う浮き世に戦なく、打つは鉄砲に非ず、腹鼓、とこしえに響きけれ。



   曾根崎地蔵 
   一、僥雲
 忠兵衛は幼きから増せて、女の色香に興味を持つこと甚だし。湯屋を覗いては番台の梅干し婆に耳引っ張られ、お湯をかけられ、詰られた。
 このために同じ年の者と遊ぶことはなかったが、友達が一人いた。
 渾名を抜け作と言い、八つになっても自分のが書けずに、いつも隣近所の悪たれ小僧に虐められていた。
「抜け作のバカバーカ、お前の名前を地面に書いてみろ」
 抜け作は右手に枯れ枝を持ち、名前を書こうとするのだが、どうしても書ききれずに、悔し涙を零すのである。それを見て、悪たれどもは抜け作泣いた、バカ泣いたと囃し立てる。
 そこへ忠兵衛が出くわした或る日のことであった。
「権蔵、また弱い者虐めか、何が楽しい」
「何だ忠兵衛、風呂でも覗いてこい。女の裸の何が楽しい」
「だからお前はガキだ、馬鹿を四人も引き連れて、たった一人の三郎をいたぶって恥ずかしくないのか」
「忘れてた、抜け作の名は三郎か、こいつ自分の名前を忘れているぜ、なあ、抜け作」
 権蔵は足で抜け作の尻を蹴った。
 ぷつんと切れた忠兵衛が権蔵に飛びかかり、そのまま倒れ馬乗りになって、右拳を挙げた。
 突如、抜け作が忠兵衛に抱きついて、泣き出した。
「我はバカぞ。だが人を殴る奴は大嫌いだ、我は忠兵衛を我を虐めぬたった一人の友と思っていたものを。お前が権蔵を殴ればお前も権蔵と変わらない、人間ぞ」
 権蔵と四人の子分は呆気に取られ、抜け作を見た。あの弱虫でバカな抜け作が人を叱ったと驚いた。
 忠兵衛は三郎に一目置いた。
 だが、大きくなっても、食い扶持は稼げないと見られし三郎は、両親に九歳と四ヶ月で人知れず寺へ預けられた、口減らしだった。

 三郎は法名を受け、僥雲となった。
 僥雲は年を知らず、取らず、幾星霜の天が下、満願寺にて、来る日来る日も竹箒にて、せっせせっせと庭掃除、後で来た弟子らには先越され、見下されても笑顔絶やさず境内を夜明けに始まり烏が啼きて山の住み処へ帰るまで、倦まず弛まず汗を垂らして隅から隅まで、掃き清め。

「あれが般若心経さえも覚えられぬ名高い僥雲で御座います」
「有り難いことでございます。
 それで我らも憚りの掃除も、この広い境内の掃除もしなくてすみます。
 そして我らは経を心置きなく学べます」
「それに付けても高が二百六十二文字の般若心経が覚えられぬとは、どのような頭か中を覗いてみたいものです」
「なんせ、僥雲様は茗荷が大層お好きで、夜な夜な厨房で喰らって居るとのお噂にて。だから覚えた先から忘れる始末、ざるに水は貯まりません」
 高笑いして、二人の僧は廊下を歩いてゆく。

 僥雲、境内を懸命に掃き清めて、空見上げればまだ日は高く、本堂へ、最近拝まぬ大日如来に、お目文字したく浮き浮きと足早に入りて正座し手を合わせ、経唱えんと欲すれど一字さえもが出て来ない。
「ああ、情けなや、情けなや」
 と合掌し瞑目するに涙有り。
 恥じ入りて目を開ければ、如来の微笑、母が懐に抱かれし様、うとうとうとと眠り入り。雲上の果てしなき白蓮の花咲き誇り、葉に一匹の醜きて蝦蟇蛙囂(かまび)しく鳴くを見ゆ、然れども、懐かしく楽し心持ち。
 壁に耳有り障子に眼有り、小僧がにやり、ご本尊に足を向け大の字に眠りこけるや僥雲、桃源郷をさ迷いぬ。
 それを目に止めし小僧、一目散に廊下を駆け走り、住職の手を取り手本堂へ、本堂へ、大日如来のご本尊に、眼にするも非礼、それも極まり足を向けての惰眠にて、鼾までグウグウガーガーグウグウガーガー。
 住職、烈火の如く怒り込み上げ、顔赤に変じ、赤鬼と見紛うばかり。
 どしどしと畳も憎しと踏みつけて近寄るも、僥雲は甘き夢見てぴくりともせず、手に持ちし扇子、振り上げて、僥雲が額をば二度三度と叩き付け。
 僥雲跳ね起きて、目を見張れば、住職の鬼の形相、青ざめてぶるぶる震え、拳握りて涙は落ちる畳の上へ。
「僥雲よ、僥雲。
 お前はよくもよくもご本尊の前で惰眠をば、惰眠を貪ったな、それもそれも重ね重ね足を向けて眠るとは、この寺の末代までの恥、獅子身中の虫。
 出て行け、即刻出て行け、この罰当たりめが」
 その夜更け裏門から追い出され、僥雲の托鉢の流浪の行脚が始った。
 僥雲は悪い頭で思案する。
『お経の一つも覚えられず、我は何をしたのやら……。
 仏のお言葉も覚えられぬ、まことの愚か者ぞ、それに何ゆえにご住職は怒ったのやら分からない。
 如来様のお側で居眠りしただけだ、自分の仕事も終えてからの事だ、何故か』
 頭を錫杖で叩けども空っぽの音がするばかり、
「ナムダイニチニョライナムダイニチニョライギャーテイギャーテイハラソーギャーテイ、ボージソワカー、ボージソワカー」
 軒先で念仏を唱えては托鉢すれど、
「この乞食坊主、人をなめるんじゃねえ」
 と怒鳴られて、水をかけられ追い立てられる野良の犬猫同然の仕打ちに身が縮む。
 しかしながら、僥雲は怒らずして、経の一つも暗唱できぬ我が身を恥じて、後ろ姿の消え入るばかり。
『我はバカだ、それを忘れてはならぬ、覚えきれぬお経を唱えられ誰が喜ぼうか』
 凍てつく夜の底冷えに揉まれ突かれて急かされて打ち上げられし終の宿。
 有情のごった煮、有象無象の噎せ返る不夜城は曾根崎新地、破れ衣に痩せ細る僥雲の手を合わせ笑いし顔に念仏の声。
「あなた様は心が清らでございます、有り難いことで御座居ます」
「あなた様は心が清らで御座居ます、有り難いことで御座居ます、有り難いことで御座居ます」
 馬の耳に念仏か、さに非ず、
「このバカが、お女郎としっぽり濡れて、いい塩梅のところに、冷や水を」
 と罵倒されては小銭を顔に、投げ付けられ、
「心が清らかだと、ふざけやがって」と右拳を振り上げたかと思うや否や僥雲を拳で殴り、倒れた体を蹴りつけた。
 憂さを晴らした男が去るや、僥雲は何事もなかったかのように、店の客引きの前で女郎に合掌す。
「お金で買われる女郎への皮肉かい、ああ、そうさ、そうともさ、アタイはあばずれさ、男を取っ換え引っ換え、銜え込んでる性悪女さ、浮き世では浮かばれない身さ」
 と顔を僥雲の鼻先まで近づけて睨み付け唾吐きかける。
「あなた様は心が清らで御座居ます、有り難いことで御座居ます」
 僥雲は満身の力を込めて精一杯の我のお経を唱えるを止めず。

  二、師走
 ♪遊びせんとて生まれけん
  戯れせんとて生まれけん♪

「日は落っこちて又這い上がる、何が光陰矢の如し、遊んで一生、馬車馬みてえに汗をたらたらたらと、それでも同じ一生、遊ぶに勝る時はなし、遊ばにゃ損、損」
 と桝屋の忠兵衛ぶつぶつぶつと曾根崎色街で女の品定め、右を向いては又左。はて面妖な、面妖な、御門違いの紫の衣に白頭巾、
「年は三十路の五つ六つ……。茹で卵の殻を剥いた白き艶のつるりつるりの李朝の白磁、これこそ三途の川の地蔵仏、観音様の七変化、拝まなければ末代までの祟り有り。神々しいご尊顔、我を招いて、極楽浄土から、アリガタヤ、アリガタヤ」
 びらりしゃらりのお裾の揺れが、
「比(び)丘(く)尼(に)様、比丘尼様、我を救って下され、比丘尼様。
 此の生き馬の目を抜く浮世は苦界火宅で鬼ばかりで御座居ます」
 と俄に、忠兵衛土下座して両手を合わせ、
「南無観音菩薩南無観音菩薩」
 と声張り上げれば、行き交う酔客、女郎に浪人、犬猫までも立ち止まり、忽ちの弥次馬の人だかり。
 面食らったが比丘尼、気は動転し目を丸くして顔を赤らめ恥じらいしも、『悪人、なおもて往生を遂ぐ』と妻を娶った親鸞上人のお声が胸に去来する。
『遊び人とて、人の子ぞ、善人なをもて往生をとぐ、況んや遊び人をや。
 さて、てこの男、救いを求める顔には見えず、苦悶の欠けらも見えはせぬ、にこやかなる赤子の笑いようじゃ。
 眉唾なりしも、胸がときめき出家前の十七八の、おぼこ娘にでも戻ったような、捨てては置かれぬ心持ちに…。
 奇っ怪な、はて奇っ怪な、仏に帰依する此の妾がこのような手合に心動かされるとは、南無三南無三……あー情けなや、情けなや。
 南無不動明王、南無大日如来』
「これこれこれ、人目も憚らず、大袈裟な、立ちなされ」と突っ慳貪に比丘尼は踵を返す。
 手応え有りと、忠兵衛はすっくと立ち上がり、着物裾を右手で払い、してっやったりのにやけ顔、涼しい顔で比丘尼の尻を愛でながら、のらりくらりと付いて行く。
『茶屋を三つ、五つも通り越し、どこまで気を持たせるのやら、この比丘尼、どこまで連れて行くきか』
 郭の外れ、柳の下に差し掛かれば、
『応挙の掛け軸の幽霊、そう言えば、確か柳の下、美人ならそれもよし、だがお岩となれば話が違う、足達ヶ原の鬼ババなら、取って喰われて一巻の終わりか。
 まだまだ好いた女の千人切りでまで行かぬのに、死ぬには未練がたんとたんと有り余る』
 忠兵衛は痺れを切らし声かける。
「庵主様、 庵主様、どこまで行きなさる。
 このままでは唐土(もろこし)まで行きまするぞ、それどこころではござらぬ、天竺までも行きまする。
 我は息が切れて膝が笑って一歩も歩けませぬ」
 右手をば庵主の方へ差し伸べて畳み込まれる小田原の提灯か、なよなよと屈み込む。
「あな情けなや、ほんに情けなや。
 今が男盛りのお人が言うこことか、立ちなされ。
 ぐずるには大きゅうなりすぎた、誰も其方(そなた)を赤子とは思いませんぞえ。見え透いたウソも、ここまであからさまにされては、怒るきも失せて、呆れるばかり。
 さてさて其方は尻も軽いが、頭も軽いようじゃ、天は二物を与えずというが、悪しきところは幾らでも下さるようじゃのう。
 しかし、お前が拾い集めただけで、天の罪にしては御門違い、罰当たりにしてはのたりのたりの極楽トンボ、此の浮世が楽しゅうて楽しゅうて仕方がないかや」
「それはそれは、庵主様、縁有って、人と生まれて喜ばで如何にしましょうぞ。
 人の世は男と女二つ有り、手に手を取りて渡るが習い。
 これぞ弱き者の知恵で御座居ます」
「今にも死にそうな声で、
『一歩も歩けませぬ、庵主様庵主様』と弱音を吐いておきながら、べらべらべらとよう口が回ることじゃ。
 大風の風車よりよう回る、目が回って立ち暗みを起しそうじゃわい」
「鈴を転がす妙なるお声、そのように怒りては台無しで御座居ます。
 愛別離苦、怨憎会苦のこの仮の宿、出雲の神の縁結び、大事にせずば罰が当たります。
 縁有れば千里離るるとも相逢いて、縁無くば顔を突き合わせるとも相知らず。
 このように庵主様とお目文字するは富くじに当たるより少なく嬉しきこと、天にも昇る心持ち。
 それを苦虫潰した顔では、天下の道理が通りません。
 我は素直だけが取り柄の人間で御座居ます」
「ほんに見え透いた嘘をのうのうと吐きよる人じゃ。
 閻魔に舌を抜かれ、地獄の煮え滾る釜に落ちるが本望か。
 などして御仏に使うる妾(わらわ)を担ごうとする」
「庵主様庵主様、滅相も御座いません。
 天地神明、この真心にかけて、我が観音菩薩歓喜仏(かんぎぶつ)庵主様にかけて誓いまする。
 この忠兵衛、嘘らしい誠は吐いても、嘘で固めた浮世でも、好いた女子(おなご)に誠らしい嘘は口が裂けても言いません。
 たとい地獄の鬼に煮え湯を飲まされようと言えません、言いません」
 比丘尼は眉顰め睨らみつけ、口八丁の色男、八分の疑心、蔑み有れど、二分の誠を垣間見て、男の顔を一瞥すれば、二分の誠が胸が奥で段々と膨らみて、頭はのぼせ、心の臓が締め付けられる。
 しかしながら、裏腹に心の綾の高鳴りは夢の心地の桃源郷か、極楽浄土の幻か、
『あな恐ろしや、恐ろしや』
 と思えども、荒海の小舟の如し大波に揺られ揺られて右左、逃れたき心有れども、一思いに攫(さら)ってくれと懇願す。
 身は一つなれどもが、心は二つ、三つ四と千々に乱れて、女子を捨てた比丘尼でも、男と女の此の浮世、男を見ずに生きらりょか。
 陰と陽、水と火はこの世の要にて、いずれ一つが欠くるとも森羅万象成り立たず。然りとても、恋煩いの苦しさは嬉し悲しの百色眼鏡、寒けが背筋、熱が頭に、
『此奴のために、此奴のために……艱難辛苦、艱難辛苦。
 ああ、妾を、妾をお試しか、お試しか』
「比丘尼が遊び人と並び立てば、有らぬ邪推を呼びまする、町の外れに妾の庵がありまする、そこでお話しましょうぞ。
 貴方は連れには見えぬように後から付いてきなされ、何の因果で貴方のような浮かれ者と逢(お)うたのか」
 比丘尼は右手の数珠を握り締め踵を返しすたすたすたと歩き出す。

 竹里庵、跨いで入れば我が家も同じ、住み処を持たぬ浮き草稼業、遠慮をすれば、憂い有り、天露(あまつゆ)凌ぐ、今日のねぐら無し、突っ立ったまましげしげと見回して、
『我が転がり込んだ中で、一等粗末。
 せせこましき上に、がらんどう、これでよく辛抱するもの。
 これでは河原の乞食(こつじき)までもが金持ちだ。
 不動明王だけが贅沢に漆塗りとは、これで腹が膨れるか、拝めば拝むほど腹が空く、腹が減っては女も追いかけられぬ、まさに苦行、難行、この世の姥の捨て所。
 女盛りに朝な夕なに称名上げさせ枯れ果てさせるとは何の仏ぞ、何の救いか。
 何をしに生まれて来たぞや』
「坐りなされ、盗っ人も入らぬあばら屋、金目のものは有りませぬ。
 的が外れたかいのう、さっさと坐りなされ、目障りでなりませぬ」
 忠兵衛、しぶしぶと囲炉裏の前にへたり込み、比丘尼をば見上げれば、白雪のご尊顔、眉目秀麗、浮世を離れた白百合の楚々とした香り有り、奥ゆかしき、まさに…、
『鴨が葱をおんぶして、これまた珍品、皿までも喰いたくなるこの艶めかしき姿形。
 これを逃せば、忠兵衛の一生の恥、名折れ』
「庵主様、如何に遊び人とて、家へ招けば客で御座居ます。
 世間ではお茶ぐらいは言わずとも出すのが礼儀で御座居ます」
 比丘尼坐りて、湯飲みから欠け茶碗になみなみと接いで出せば、ただの白湯、一口付けて、
「茶もござらぬか」
 と口を開けば、
「僧でもない貴方にお布施するほど、此の庵は裕福では有りませぬ。
 其方が布施をすれば別の話じゃが」
 と切り返せば、
「一期一会の逢瀬なれば、まさに白湯も甘露、結構なお点前で御座居ます」
 とにやける忠兵衛。
「これこれ、世辞は宜しい、耳に胼胝(たこ)ができる。
 其方は救って欲しいと言うた。その子細逐一、御仏と共に聞いて進ぜよう」
 忠兵衛、虚を突かれ、韋駄天のごとく悩み憂いを心の内に探し求めて東へ西へ駆け回れども爪の垢、ケシ粒さえも見当たらず。


   三、寒梅
 僥雲、破れ衣に埃(ほこり)を身に貼りて、合掌し木枯らし吹きぬ真昼の町に、夜は郭(くるわ)の辻の人込みに合掌し高らかに言い放つ。
「あなたさまはお心が清らで御座居ます、有り難いことで御座居ます」
 最早誰とて、足を止めず、一瞥もせず、足早に過ぎ去るのみ。
「あなたさまはお心が清らで御座居ます、有り難いことで御座居ます」
「あの阿呆坊主、見て御覧よ、今日も客も引かぬのに立ちん坊だ。
 何が楽しくて生きているのか。
 あたしが犬ころなら石の地蔵と間違えて、片足上げて小便引っ掛けるだろうさ」
 と白塗りのお女郎が連れの袂を引きて顎で指す。
「確かに阿呆で坊主だ、こんな所へ坊主が来るか」
「あのむさ苦しい阿呆の坊主はこの界隈ではおこま太夫よりも名が通っているんだ」
「でも、当たってるぜ。
 二人ともお心が清らかで、六根清浄、ロッコンショウジョウ。
 それでも止められぬ色恋の、一根、逸物だけの不清浄」
 女が笑い、男も釣られ高笑いして、懐から穴空き銭を取りだして、僥雲の眉間目掛けて投げ付ける。眉間に中たりて落ちし銭、合掌し、腰を屈めて拾い上げ、
「あなたさまはお心が清らで御座居ます、有り難いことで御座居ます」
 と僥雲が投げたる客に合掌す。
「気が触れてる」と怖い素振りをした。
「お狐が憑いている、触らぬ神に、阿保坊主に祟り無し、もう行きましょう」
「急いで茶屋へ」
「入るときには塩を撒いておくれよ」

 女衒がこれでも喰えるかと、地べたに投げて呉れたお結びを懐に、僥雲は例のごとくに錫杖を打ち鳴らし、右手で祈り辻を巡る。
「あなたさまはお心が清らで御座居ます、有り難いことで御座居ます」
 曾根崎遊廓、夜は賑わい真っ盛り、人の通りが二つに裂けて騒然として、罵声が飛び、どよめき怒る人の群れ。
 木の枝を杖の代りに赤襦袢のお女郎が蹌踉めきながらゆらりゆらりとやってきた。
「あれはシャムの唐人女郎ぞ、生きたままでは無縁墓地にも捨てられぬ、旭玉楼の女将が言っていた」
「シッシッシッ、こっちへ寄るでない化け物めが、あっちへ行け」
「ああ、何でも流行病(はやりやみ)とかで、誰も触れられぬので、山にも捨てられぬとか」
「まったく迷惑千万、色街であの醜い顔を晒されたら、男共が尻尾を巻いて、逃げてしまう、こちらの商売、上がったりだ」
「この疫病神」
「疫病神」
「海に身投げしろ」
「そうよ、お前のような奴が生きてて何になる」
「帰れ、疫病神」
「シャムにとっとと帰りやがれ」
 その前から現れたる僥雲は立ち尽くし、
「あなたさまはお心が清らで御座居ます、有り難いことで御座居ます」
 と通りの真ん中で合掌す。
 目も削げて僅かに見える両手合わせる人の手が、お坊様がシャムの女郎の片目に映る。
 女郎は慌てて伏して拝みて、《我も人なれ》と枯れたる井戸の今生の一しずくポタリ、ポタリと乾きたる無情の土の上。
「こいつは流行病だぞ、何が清らかだ、前世は犬畜生か、悪党だ、その因果だ」
「この女は罰当たりだ、だからこの様さ」
「そうだ、どうしてこの女だけが、化け物にになる」
 けして怒らぬ僥雲が、錫杖を地に投げ付け、数珠をば引き契り、頭陀袋から経文を取り出して地に放り、
「エエエ、エイ」
 と踏み躙にじる。
 弥次馬はどよめきて束の間怯み、又や罵倒を浴びせ唾を吐きかける。
「この女が清らかなら、お前の嫁にしろ」
「そうだそうだ」
「お似合いの夫婦(めおと)だぜ」
 と野次馬の怒号と手拍子が鳴り響く。
 僥雲は四方を鬼の形相で見やり、赤子のように微笑(みしよう)し、シャムの女郎を抱き上げて、大蛇ケ沼の夜鷹の捨てし掘っ立て小屋に連れてゆく。
 僥雲は人の定め無きを、無常を思い知りて、道すがら涙頬伝い、女郎の顔に降り落ち止むを知らず。
 ムシロで囲うあばら屋に冷たく刺しぬ隙間風、身も縮み底冷えの夜の底。
 女郎を横にすれば、「哀れ」と思えども、冷めたる心の奥底に、醜きを知り、息吸えば腐臭が鼻を突き、僥雲は一瞬なれど、顔を背く。
 そうであろうと、命果てんとする者を見捨てるは人に非ずして、鬼畜に劣る。
『あなた様のお心は清らです、有り難いことで御座居ます』
 我が念仏に嘘は無し、このシャムの女子の身の上が異国にて、我が身の上に降りかかれば、如何せん、我が身と人を恨んでは果てるのみ。
 我はと問われれば、苦しみ避けて安穏と仏の甘露ばかりのみ、貪り飲むは僧侶の恥。
 僥雲は水を欠け碗にて与え、腹も減ろうぞと恵まれしお結びを口に放りて、モグ・モグ・モグと弱り果てたるシャムの女郎に口で溶かしたお粥をば口移しで飲み込ませ、気が付けば、流行病が移るも御仏の御業(みわざ)にて、百も承知で腹括りたる。
『我は一字の経も覚えられぬバカなれど、人が苦しめば我も苦し、人が悲しめば我も悲し、抜け作と子供の頃から笑われし、愚かな僧侶のバカの一念。
 たといこの身が朽ち果てたとて、恐れはせぬ、逃げはせぬ、悔やまず、あの世でも御仏のお庭のお掃除が出来るのを望むのみ』
「ウレシウレシ」とシャムの女子は今のは際の片言のか細き声呟きて断末魔の叫び、
「我が好いた初めての人、抱き締めて下さい、幸せにして下さい、死なせて、死なせて下さい」
 と懇願すシャムの女郎の最後の願い。
 しかし、淫欲は僧の大罪、踏み越えれば、もはや僧侶に非ず。
 怒りに任せ、経文を踏みつけるもまだ赦される。
 若かしながら、若かしながら「女犯(によぼん)」は、間違っても、やってはならぬ奈落への大罪。
『この女人、十四五で女衒(ぜげん)に売られし身の上ぞ、貧しき故ぞ、この子に罪は無し。
 女子であれば国は違えども、好いたお人と添い遂げて、子をもうけ、笑い絶えぬ家を作るが夢、細やかな望み、それさえ打ち砕く、人の営みの悲しみぞ。
 今の際に生まれて嬉しと一度も言えずに散るに、この子は余りに若し』
 僥雲は横たわり女人の髪を掻き上げて、額を撫でて、頬笑みて見詰めれば、崩れし顔を通り抜け、在りし日の女人の顔浮かび上がりて頬笑みて、
「あなたはめぐし美し」
 と抱き締めれば、女人は泣きて、幼きより教えられたるお釈迦様の御言葉をシャムの言葉で唱えながら、息果てる。

《遠きもの、近きもの、目に見えしもの、目に見えざるもの、すでに生まれたもの、今より生まれんとするもの、生きとし生けるもの、一切が幸せであれぞ》

 女人が何を言ったのか、僥雲の悪き頭では分かろうはずもないものを、涙を流し喜びぬ、天竺のお釈迦様の声を、僥雲はこの耳で確かに聞いた、輝きて眩きもなき大日のたゆたう光、それを聞いた。

   四、闇夜の烏
 庵を知りたる忠兵衛は夜が白むや訪れて、日参す。
 庭の掃除に、垣繕いに、細々と頼まれもせで竹里庵の通い小僧と成り代わり、慣れぬ汗を掻く。
 甲斐甲斐しさを見せつける忠兵衛に、眉一つ動かさず、笑みもせぬ、一言も呉れぬ、一瞥もせぬ、ダルマの如き妙信尼、忠兵衛の信心の猿芝居も三日坊主と侮れし。
 それとは裏腹に、三日が十日、十日と四日と相続き。それよりも何よりも、忠兵衛は口八丁を捨て去って道端の木石と黙り通して、夕餉を拵えればすうっと消えて、朝目覚めれば、忠兵衛が箒の音が入り込む。
『あれ程の女子狂いがよくぞ改心したものじゃ。
 ああ、我の功徳も捨てたものではない、女道三昧の忠兵衛も、御仏の手の平の中。
 如何に手練手管で女を丸め込み、色里を騒がせようと、きんとん雲に乗りて地の果てまでも行ったと思うても、所詮は、手の平の孫悟空。
 どうじゃどうじゃ、見やしゃんせ、見やしゃんせ、あの色男が汗水垂らし、御仏のお世話の独楽鼠、それもこれも不動明王様の神通力、色欲の魑魅魍魎・百鬼夜行も観念し退散した様じゃ。
 そもそも御仏に仕えし比丘尼を何と思うたか、高を括りて、色落としを仕掛けんとする不埒な心が命取り、運の尽き。
 クワバラクワバラ、悪鬼退散悪鬼退散、南無不動明王、南無不動明王』
 妙信尼、剃髪し僧門に入り初めての法悦に感極まりて噎び泣く。
『仮の宿にて極楽浄土に在るが如し、花添えて迦陵頻伽も囀りぬ。
 己が業の女色を漁る餓鬼となり奈落へ落ちるが行く末の忠兵衛を救い上げ、来世は蓮の上に生まれしむ。
 盲亀の浮木に遭えるより、なお稀なる僥倖なり』
 我を忘れ恍惚と忠兵衛を窓際より垣間見れば、天にも昇る心持ち
「とうとうとろり、とうとろり」
 御仏に抱かれる赤子の如し、『南無不動明王、南無大日如来』
 妙信尼、己が信心、金剛不壊と信じ込み、有頂天、流れに浮かぶ泡沫はかつ消えかつ結び、水の流れの絶える事無し、昨夜の水は今朝の水に非ずを忘る。
諸行無常を忘れけん。

 カーカーカーと甲高き烏の声で目覚めれば、胸ときめきて、戸を少し、ゆっくりと開けて覗き見ん。
 忠兵衛は居ず、右に左に眼をばキョロリキョロ、キョロキョロリ、木枯らしが吹くばかりにて、憎しや枯れ枝に烏が一羽、羽ばたきて大声上げて、こちを見下ろし、カアカアカアア。
 朝の勤行行えども、気は漫ろ、
『お不動様の突き出た腹のあな醜しや。
 何と忌まわしきことを、端たなや、これでは宝剣で斬られては火炎にて焼き殺される邪鬼と同じ身の上に』
「南無不動明王南無不動明王南無不度明王」
『甲斐甲斐しくも御仏にお仕えしたは嘘じゃったとか。
 忠兵衛は何故に来ぬ、忠兵衛の外道めが、仏を誑かすとは奈落へ落ちるがよいわ。
 色男を気取り、昔男と自惚れて、殺しても飽き足らぬわい。
 ほんにほんに御仏を足蹴にするとは、ああ、内蔵(はらわた)が煮え繰り返る』
「お不動様、お不動様、魑魅魍魎退散、魑魅魍魎退散」
 妙信尼声張り上げて拝みながら気を失いてバタリと倒れ伏す。
 忠兵衛の来ぬ日が三日四日と梨の礫で、妙信尼、一心不乱に御仏を拝めども、春爛漫の山懐の立ち枯れの老木をば我と重ねて外を見遣れば緑無き荒野の茫々と寂しさのみが吹き荒れて物狂おしく読経の声が響くなり。
 待ち侘びて、疲れ果てる心身に夢見心地に微睡(まどろ)みぬ。
 面妖な、はて面妖な象の頭が現れて、尊き姫を抱擁し、ことも有ろうに蓮の花、その上で淫ら・ふしだら、目も当てられぬ。
 いつの間に、ある尼僧が恭しく跪きて瞑目し懇願し、呪詛す。
「ガナハイチ・ビナカヤ、ガナハイチ・ビナカヤ・ガナハイチ・ビナカヤ、ガナハイチ・ビナカヤ、ガナハイチ・ビナカヤ、ガナハイチ・ビナカヤ」
『外道の尼め、奈落へ落ちるがよいわ。
 外道の歓喜天で男を呼ぼうとは、相手は誰じゃ。
 七度、その者を呼ばずば御利益はないぞえ』とおどろおどろの魅する声。
「忠兵衛様、忠兵衛様、忠兵衛様……」
『忠兵衛とな、あの忠兵衛か』
 はっとして、目覚めればお不動様の御前にて、妙信尼我に返りて泣き呉れぬ。
 誰有ろう、あの尼は妙信自身。
 妙信、動転し、色欲の霊を呪縛せんと狂うが如く祈祷する。
 宙に刀印し九字を切り、内縛印結び、
「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャソワタワ・ウンタラタラマンカン」、
 転法輪印・外五鈷印・外縛印結び、真言を発す、
「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャソワタヤ・ウンタラタカンマン」
 悪霊怨霊に不動金縛り施しぬ。
 然りながら、妙信尼は術を使うに、修業が足りぬ身の程を忘れたる。
 追い払ったと思いきや、あべこべに彷徨える霊を呼び込む羽目となり。

「花の色は移りにけりないたずらに
  わが身世にふるながめせしまに」

 鈴を転がす女人の声が聞え来て、奇っ怪な、摩訶不思議、荒野にて歌詠む人の訝しくも切なきこと甚だし、胸痛み、涙零れる妙信尼。
『これはこれは、六歌仙が一人、小野小町の詠める歌。
 思えば哀れな人ぞ、玉の様なる美人と褒めそやされて、独り身で老いては流浪の果てに朽ち果てた、哀れな女人の、不遇のお人にて』
「わが身世にふるながめせしまに」
 三日三晩まんじりもせず、虚ろなる妙信尼、ふらりふらりと庭に出て朝日拝めば、枯れたる枝に括られし文を見つけぬ。
 などては知らねど心急きて慌てて文を手に取りて開きて詠めば、
「世の中に絶えて桜のなかりせば
  春の心はのどけからまし」
 忠兵衛と記されし、右手に文を握り締めれば立ち暗みてよろりそろりと庵に入りて崩れ落ち、胸の高鳴り増すばかり。
『鼻持ちならぬ女が腐ったような奴めが、自惚れて業平(なりひら)の歌など書きおって、ああほんに我の心を弄び掻き毟る、禄で無し、怨めしやおぞましや……』
 妙信尼、ひれ伏して眠りに落ちぬ。

 一夜明けての夜もすがら、忠兵衛がのらりくらりと何食わぬ顔、蒔絵に螺鈿の重箱を風呂敷で包み持ち、一方には徳利を下げて、そそくさと己が家か何も言わずに入り込む。
 頬落ちて青ざめたるが妙信尼を気に留めもせで、重箱広げ、箸で与えぬ。
「お召し上がれ、妙信様、我は妙信様を忘れようと、家に籠りて、鬱々と過ごし、気も触れんばかりに、今夜が今生の別れと永の暇を乞いに参りました。
 逢わずに去るのが筋なれど、一目一目、浮世の天女を見て、心置きなく立ち去るのみ」
 と喉を詰らせ忠兵衛、顔を覆いて嗚咽する。

《逢わぬ恨みは積もれども、
 逢わぬ恨みは積もれども、
   見(まみ)えらば言の葉の無し》

 しんしんと雪降る夜に男と女、尼僧とて人なれば女人なれ、戒め破り、妙信尼、忠兵衛と一夜の契り交せしを…。

「終わりなき恋をと思いつつ、
  千年万年と契れども
 明日に嵐も有らん 花吹雪」

   五、然りとても
 妙信尼、忠兵衛と一夜契りしその夜から、明けて暮れても忠兵衛がこと付き纏い、尼僧の身が疎ましく、食も細りて、目も窪み、瞼閉じれば忠兵衛が、夢でも宜し、
「我と居て下され」
 と裾掴み、引き止めれば、脱兎の如く駆け去りて、我に返れば忠兵衛はいず。
 忠兵衛は、忠兵衛は何処ぞ、何をしておやる、蝋燭の明かり灯して幾度も読める忠兵衛の証の文、涙に濡れて字は滲み、忠兵衛が心変わりか、見る影もなく、様の変わりて、

「世の中に絶えて桜のなかりせば
  春の心はのどけからまし」

「我を慕いて逢瀬に来たは浮気じゃったと申すのか。
 比丘尼の我を弄び、厭うもせで、嫌いもせで、忘れられたる女子かや、浅ましや、情けなやと思えども、忠兵衛様に一目、一目だけでも会いとうて、何をどうしていいのやら、身を焦がし、いっそ燃え尽きて、死なばや、いかばかり楽なりや」

「うたた寝に恋しき人を見てしより 
    夢てふものは頼み初めてき」

 何処からか、小野小町の歌聞こえ来て、もの悲し。
 妙信尼、それを耳にするや、にんまり笑みて、夜の帳を引き裂く声を張り上げて、素足のままで竹里庵をば飛び出して、目指すは曾根崎、浮かれ女を追い掛け回す忠兵衛、忠兵衛故に、会いたさに

「思ひつつ寝ぬれば人の見えつらむ
    夢と知りせば覚めざらしものを」

 ひた走る妙信尼、忽然と立ち止まり、空を仰ぎて溜め息吐きて、からからと高笑い。
「我は小野小町ぞ、妙信尼非ず、今頃気付く粗忽者。
 あー、そうとも知らで、我は在原業平様をあの禄で無しの忠兵衛と思い込み、穴が有れば入りたいぐらいじゃ、末代までの恥。
 その無礼に耐えかねて、きっと、きっと会いに来ぬに違いないぞえ」

 曾根崎遊廓、人集り絶えずして、掻き分けて押し分けて、終に見つけんふらりゆらりの忠兵衛を、忠兵衛が右腕をば両手で掴み、二度と離さぬ女子と思えぬ強力で握り締め、
「ああああ、痛し、いきなり何をする、肝を潰すきか。
 さてはさては、お前さんは熊野比丘尼の歌比丘尼、勧進するは新普請ではなく、男の情け、男の情け。
 三十路四十路女の大年増のはしたなや」
「この期に及んでお戯れとは……、業平様、業平様、お慕いしておりまする。
 千歳と百歳行きて越えたる剣が峰、逢坂の関、巡り合えたるこの時をなどして放しましょうぞ。
 遭えぬ辛さに、遭えぬ辛さに……、業平様業平様と満天の星の数ほどお呼びして、やっと会えたる業平様……有り難や、業平様が今ここに御座す。
 極楽は遥けき程と聞きしかど、ここぞとは知らなんだ、黄金の蓮華、西方浄土、極楽浄土、にございまする」
「開いた口が塞がらぬ、これこれ尼さん、お人違いも甚だし、我は誰に聞いたとて、桝屋の放蕩息子の忠兵衛で御座居ます。
 業平、業平と何処ぞの女誑(おんなたら)しで御座居ましょうが、我は女に惚れられようが、怨まれる野暮な男では有りませぬ。
 ええーい、もう手を放せ、手を放さないか」
 恋に溺れた者の命綱、放せと言われ放すバカなど居はしない、妙信尼、忠兵衛が振り払いてもスッポンの喰らい付き、色街の野次馬どもの呆れて笑うは目にも耳にも入りはしない、下駄を履いても首ったけ。
『毒茸も一度喰いて、痺れずば喰い道楽も極めずと、比丘尼を一人、摘んだが、この有り様、自慢の種にとやったことが、裏目に出て、これでは色男の忠兵衛が評判、地に落ちて世間の笑いもの、晒し者。
 この比丘尼の名は……、思い出せぬ、一度交われば、さらりと忘れるが、忠兵衛の色の大道。この俗世のしがらみ丸ごと捨てて日夜精進するは女色道。
 比丘尼なら仏道に精進邁進なされ、お前は髪を切った比丘尼ぞ、女を捨てた比丘尼ぞ、浅ましやおぞましや、知らぬが仏、見ぬが秘め事とはよく言うた。
 南無八幡大菩薩南無八幡大菩薩……。
 この場をどうにかせねば、河豚を捌くに、この忠兵衛が腕まだまだ未熟であった』
「業平様、業平様、小野小町で御座居ます、お忘れか。
 知らぬ振りは止めなされ、見え透いた嘘、子供さえ騙されませぬ」
 忠兵衛、これでは埒が明かぬと諦め、まずは人集りから離れるが得策と一計を案ず。
「小野小町でござったか」
『言うに事欠き、自ら小町を名乗るとは、それもそれも本家本元、大元締めの小野小町とは、如何に世間知らずの俗世を厭う比丘尼とて、いけしゃしゃあと、いい面の皮。
 こういう手合は適当にあしらうが肝心要、本気で取合っては、こちらの身が持たない』
「さすがの眉目秀麗、非の一点の打ち所無く麗しく、眩ゆきて近寄りがたし、然りながら、我は業平に非ずして、天地神明にかけて桝屋忠兵衛で御座る」
 突如として妙信尼が笑い声凄まじく、暫くして頬笑みぬ。
 その顔見れば満面喜色、その裏に隠れたる夜叉の執念垣間見え、背筋に寒け、外面菩薩内面夜叉、忠兵衛、女に目覚めし三つ子より初めて女に身震いす。
「生々流転すれども、我の目は節穴では有りませぬ。
 寝寝ても覚めても在原(ありはら)様を業平(なりひら)様をお慕い申す女子で御座居ますぞ。
 たとい生みし親を見紛うとも、好いたお人の業平様を見紛うことなど、有りませぬ。
 猿をば人と、お天道様を月と呼ばわるバカでは有りませぬ。
 知らぬ存ぜぬ頬被りして妾を追い払わんとするは、男の浅知恵、見苦しゅう御座居ます」
 と妙信尼色めきて忠兵衛にしなだれて懐に顔を埋めて無きくれぬ。それも束の間、忠兵衛をうっとり見上げ、

「わびぬれば身をうき草の根を絶えて
  誘う水あらば去(い)なむとぞ思ふ」

 色街の人集り憚らずして、雅と思い、歌を吟ずるこのアマめ、顔からは火が出て背中に冷や汗、忠兵衛は立ち暗みして蹌踉めけば、妙信尼、科(しな)を作りてたおやかに抱き留めて右肩貸したその腕で忠兵衛を、
「逃してなるものぞ」
 としっかりと抱かかえ込み、びらりしゃらりとびらりしゃらりと連れ行きて。
 粋で通した色の道、薮から棒にこのアマが、赤恥かかせ見せ物に、さぞや今宵は曾根崎遊廓、寝物語に、
「あの忠兵衛が……」
 とあれやこれやと笑いの種に盛り上がり、明日からは我の庭を頬被りして人目を避けて、忍んで通う女の宿か、一世一代の恥、不覚、汚名を雪ぐ手だては有りや、色の道。
 忠兵衛が堀は埋められ火矢は飛び交い、女道の城は燻り始め落城寸前、切羽詰まりて閃きし一計は起死回生の汚名返上、なるや否や、乾坤一擲、大ばくち。

 妙信尼をば導きしは九日前に托鉢僧と流行病の女郎が抱き合いて死する場所、評判の掘っ立て小屋、シャムの女郎は病にて死に至り、托鉢僧は餓死との噂、都(みやこ)雀(すずめ)があれやこれやの大騒動の大舞台に連れ込みぬ。
「業平様、いつから斯様な趣を愛でるようになされました」
「小町殿、一風変わっておりますが、枯山水、永遠の逢瀬の交情の秘儀媚薬のようなもの」
「それに付けても、寒さが身に染みまする」「それもそのはず、十日ほど前にシャムの女郎と托鉢僧が抱きおうて、冥土の旅へ出向いた所で御座居ます」
 忠兵衛、殊更ににやけ笑いて、妙信尼の胸など撫でて話せども、果たせるかな、愛想尽かしを、肘鉄砲を見舞うどころか、なよなよと忠兵衛にしなだれ崩れ、目は潤みてらんらんと赤々と輝きて、恐れを知らぬ下駄を履いても首ったけの有様、有頂天。
『これで比丘尼か、比丘尼か』
 と忠兵衛胸が内で舌打ちするが関の山。
「我は二人を見ん。
 哀れシャムの女郎は何の因果か、流行病にて顔はおどろおどろに崩れはて見る影も無し。
 一方僧侶はなぜか懐かしきと思いしも、思い当たる節はなく、我と同じほどの年なれど窶れてはおれども、微笑して女郎を暖めるが如くに死に果てた。
 寒さに凍え青白き顔になるはずが、薄紅をさしたる様にて生きているが如し。
 弥次馬共はただ面白がりて五月蝿きばかりにしが、我が
『この二人、手厚く葬ってやれ』
 と銭を後ろから投げ入れらば、皆も投げ入れぬ。
 南無大日如来南無大日如来」
「それはそれはよいことをなされた。
 陰徳有らば余慶有りと申すに、妾とここでこうしておられるのがその御褒美で御座ろうか。
 業平様、結ばれるべくして結ばれる、縁深きのこの逢瀬、妾は幸せ者で御座居まする」
『業平め、業平め、男の風上にも置けぬ奴、此奴にどのような仕打ちをした。
 色恋は別れ方が至難にて、それをせずに、頂くものだけ召し上がり、いけしゃしゃあと穴(けつ)を巻くって逃げおって。
 煮え湯を飲まされたようだ。
 その尻を拭うはこの我か』 

「いとせめて恋しき時はむばたまの
      夜の衣を返してぞ着る」

『如何に歌に長けたる才女とて、事も有ろうにいざしっぽりという折りに、歌など詠まれては、如何に雲の上のお公家とは雖も、蛞蝓に塩、立つものも立つまいて、業平のバカめが、へんちきな癖など付けおって、立つ鳥跡を濁さずの礼儀も弁えねえ、業平、煮ても焼いても喰えねえ穀潰しに違いねえ』
「業平様と妾とは空に在りては比翼の鳥、地に在りて連理の枝。
 これからはぬばたまの夜の衣を裏返さずとも眠れます、ほんにほんに有り難や」
 本意にあらぬ再びの契り交せし忠兵衛は、妙信尼に背を向けて狸寝入りの高鼾。
 口惜しや情けなや、女子に取りて出来ぬ堪忍、緒が切れて、憎し可愛や業平様、この身死しても添い遂げぬ、衣の袂弄りて紙の包みを開けたれば、トリカブトの丸薬二つ並びし紙の上。
 一つ取りて口に含みて、忠兵衛が顔、右手で掴み引き寄せて、口移しにて飲ませれば、暫し苦しみて、逝ぬるを見届ければ、妙信尼が顔綻びて、忠兵衛が傍らに横たわり、一粒の丸薬を飲み込みて忠兵衛が手をしかと握り締め瞑目す。

    六、白鷺
 幾千万の色取り取りの花びらが舞い落ち妙なる音と平安の芳香が煌めきぬ。
 釈迦如来が平伏す僥雲を立たせ、訊ぬ。
「何を案ずるのだ、そちは悟りを開いた、現世に未練など無かろうに」
「滅相も御座いません。
 あの哀れなシャムの女子は何処へ行かれましたか、お釈迦様」
「あの子は色欲穢土の苦界(くがい)より咲き出る白蓮の花、地獄に堕ちようはずがない」
「そうでございます、そうでございます。
 親兄弟のために我が身を沈めたる、健気な子で御座います」
 僥雲は涙を零し泣き止まず。
「僥雲よ、悟っても泣けるのか」
「我は三国一の愚かな僧で、悟りなど開けるはずもありませぬ」
 釈迦如来、微笑し、僥雲をば一瞥し、足下に右手を垂れば、水の波紋の如く緑の地広がれば田園が見ゆ。
 田を耕す父と男児二人有りて、顔綻ばせ苗を植え、暫し手を休め、共々に東(ひんがし)の空を仰ぐ。
「僥雲よ、あれがあのシャムの女人の親姉弟ぞ。
 田を買い、家を建て、二親も、二人の弟も腹を空かせる事もない。
 獅子に我が身を与えたる兎に勝る功徳をあの女人は積んだ。
 我は女人に真っ先に訊ぬ。
『そちの願いを成就させん、それを告げよ』と
 女人答えて曰く、
『我と果てしお坊様を蘇らせ給え』
『そちはあの僧は地獄に堕ちると思いしか』
 女人曰く、
『あの方は慈悲深き聖(ひじり)で御座います』
『ならば、そちの願いを告げよ』」
 僥雲よ、あの女人は極楽浄土に行けしも、我が古里へ飛び立つ翼を望み、叶えられた。
 あの水田を見るがよい」

 田に入りて、親子三人が交わす言葉響けり。
「お父、姉さんは東の国で幸せになっているよね」と兄が言い、
「当たり前だ、姉さんはお金持ちに嫁いだ。だからこの田んぼも買えた」と弟が答え。
「そうだ」と答え、その父再び東の空に合唱し、涙零れ落つ。
 その空に、白鳥出でて天女が如く飛び舞いて、田に降り、餌を突きて、三人の父子を、向こうに庭で赤子をあやす母を見ん。

「神妙なお子で御座います」と僥雲は白鳥に向かいて合掌す。

   七、白蓮
 忠兵衛と妙信尼、死生さ迷いて夢を見ん。
 昼になりしも薄暗し、苔に覆われ瘴気を放つ大蛇ヶ沼、静けさ深し森の中、俄にけたたまし蝦蟇の鳴き声、
「クワックワッグワッグワックワックワッグワッグワッ」
 沼が縁の大岩が上、一匹の白蛇がとぐろを巻きて一匹が一際大きイボ面の男蝦蟇をば昼夜を問わず赤目らんらん睨み付け。
「怨みしも、憎みしも、一度は慕うたお人にて、一度は慕われし我が身ゆえ、今一度聞きまする。
 業平様はこの小町が好きでござろう。
 妾が思いを受け止めるならば、醜きイボの蝦蟇より元の姿の業平様に戻して上げようぞ」
「幾度聞こうとも、嫉妬深きお前なぞ、誰が好こうぞ、それにお前は小野小町ではなく、あばら屋の庵の比丘尼、妙信尼ではないか。
 業平様、業平様と猫なで声で呼びしは、臍が茶を沸かす、我は桝屋忠兵衛でござる、人違いして、
『お慕い申すしておりまする』
 など気取った女房詞でよく言えたもの、開いた口が塞がらぬ。
 一昨日来やがれ、このオカメヒョットコ」
「よく言うてくれた、妾も満足じゃ、そちが自慢のその男前、忘れ召されたようじゃな、水面に映る己の姿を見るがよい、いい気味じゃ、いい気味じゃ、醜き蝦蟇でいなされ。
 妾は楽しゅうに面白うに見物しておりまする、勝手になされよ」
 忠兵衛、蛙の面に水とばかりに浮き草より飛び跳ねてすいすいと軽やかに一泳ぎして隣りの草へ這い上がり、雌(め)蝦蟇蛙に身を擦り寄せて、
「クゥクゥクゥ、キッ・キッ・キッ」
 と声かける。
「姉(あね)さん、お一人で、あなたみたいなベッピンを放って置くとは、ここの沼の男の目は節穴か。
 絹のイボの滑らかさ、その大きな目、星が二つ三つと輝いて、吸い込まれんばかり」
「そうだろね、ここの野郎はいい女には声もかけきれぬ、意気地無しさ、お前さんは見どころが有るね」
 二匹とも意気投合し、切なき甘き呻き声、浮き草の揺れつ浮きつ沈みつ交わりぬ。
 疲れを知らぬ蝦蟇蛙、忠兵衛は次から次と浮き草へ泳ぎて渡り、雌蝦蟇蛙をやすやすと口説き落として、しっぽり濡れて、男の極楽、満喫し、行き先々で馳走の歓待、痒きところに手が届く、情の深さの至れり尽くせり蝦蟇の浮世の心地よさ。
 一部始終を喰い入るように覗きし妙信尼、怒り込み上げ、怒髪天を衝き、気炎を上げて、蝦蟇の忠兵衛に巻き付けて殺さんとぐいぐいと締め上げて、忠兵衛が骨は軋みて息絶えんとす。

 眼下をば遥か見下ろす白蓮の花の上、破れ衣の僥雲と釈迦如来、二人並びて佇みぬ。
「僥雲よ、あれが女誑し忠兵衛の慣れの果て。
 白蛇となりし妙信が蝦蟇となりし忠兵衛を絞め殺し、飲み込めば、二人ともこの中有より現世へ帰ること能わずして、奈落の底へ落ちるのみ。
 如何にせん、僥雲」
「女子を抱きし、この破戒僧の僥雲、お経の一つも諳んぜぬ我でさえも奈落へは行かず。
 ならばお慈悲を二人に施し給え、生きて娑婆に戻し給わんことを願い奉る」
「妙信を庇うは同じ僧籍にて分かる、だが忠兵衛は色を好みて、比丘尼を色香に迷わせたのじゃぞ。それに郭ではそなたは気付いたが、忠兵衛は竹馬の友のそなたを忘れ、薄情者ぞ
 汝、何故(なにゆえ)、忠兵衛を庇い立てす、僥雲よ」
「色を好むは罪なれど……。
 然りながら、然りながら、あの忠兵衛は縁もゆかりも無き流行病の女郎、シャムの女子と乞食坊主の心中に、供養してやれと先駆けて金を恵みしは忠兵衛で御座います。
 竹馬の友の抜け作の三郎だからではありませぬ。
 如何に見栄張るためにやたっとて、見ず知らずの死人の毒矢を先に抜きしは忠兵衛で御座居ます。
 それに比ぶれば、女も人でござれば、俗人の女好きは取るに足らぬ些細なことで御座居ます」
 と僥雲は五体投地して釈迦如来を拝み奉り、
「二人をお救い給え」
 と懇願す。
「僥雲よ、
 浮世はお前のような尊い聖が現れようと気付きもせで、却って蔑みのみを呉れるのみ。
 僥雲よ、さぞやお前も口惜しかろう、次に生まれし時は文殊菩薩の知恵具わりて、弘法大師にも勝る知恵を授けん」
「それはなりませぬ、なりませぬ。
 我は七度生まれようとも、愚かな僥雲で、辻に立ちて皆に伝えたいので御座居ます
『あなた様は心が清らで御座居ます、有り難い事で御座居ます』と」
「僥雲よ、お前の私欲無きこと海の如きを知りて、その菩薩の願いを遂げぬこと能わず。
 僥雲よ、蓮の花びらを二枚取りて放下(ほうげ)せよ、さすらば、二人の口に入りて、蘇り、互いを忘れん」

   八、浮き世 
 手を取りて眠りより目覚めたる、忠兵衛と妙信尼。
 見渡せば掘っ立て小屋の中、妙信尼驚き怯み退きて、遊び人の出で立ちの忠兵衛を毛虫の如く睨み付け、
「比丘尼を手込めにしようとは罰当たりな」
 と忠兵衛が頬へ平手打ち、頭巾を被り、衣の乱れを右手で直し、そそくさと辺り憚り去って行く。
 残されたは忠兵衛一人狐に摘まれた如く。
「縁起でもねえ、この小屋に、などして我が抹香臭い比丘尼などとしけこんで、神や仏を頼まぬ色の道、などして我がここに」
 うんうんと考え込んでは見るものの、埒は開かずに靄の中、験を直しに昇旭楼(しようぎよくろう)へと小屋を出て、伸びを一つして、歩き出せば、びらりしゃらりと大店(おおだな)のお内儀が、忠兵衛気付かぬ振りで通り過ぎ、声かける。
「お待ちなされ、御髪(おぐし)から簪が落ちました」
 見え透いた嘘を吐き懐から銀細工の簪を取り出して近づいてゆく。

 遊びせんとや生まれけん
 戯れせんとて生まれけん

月姫物語

俵万智にもこのような形式で書いてほしい。

月姫物語

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted