オキナワングラフティ

それぞれの道を歩んでいくしかないのだ、たとえ幸不幸はあっても。

スタートは同じだったが結果は違った私たちは今…

オキナワングラフティ
          作・傳 頻伽
 
 三十年ほど前、嶺井は高校を卒業して一年半ほど東京でアルバイトをしながら暮らしていた。だがそれにも飽きて、引き返し、沖縄で友人の家を飛び回っていた。
 そんな時、台湾に一年留学して戻ってきた私に出会った。
「何が日本だ、沖縄だ、もうアメリカだ、中国だ、南米だ」
 それは明治の圧政の沖縄で「いざ行かん、我等の家は五大州」と宣言し移民の父となった当山久三の思いにも似た昭和三十年の世代の、いや私の意地のようなものだった。
 一九七二年、高二の五月十五日、祖国復帰は実現した。だが核抜き・基地撤去・反戦平和の要求はことごとく無視された。
 それまで熱い眼差しで見詰めていた「祖国・日本」は沖縄が日本となった瞬間に見事に消え去り、薩摩・廃藩置県・捨て石の沖縄戦・米軍統治・反米、祖国復帰は日本への失望と、その日本へ期待した沖縄の、自分の情けなさを身に染みさせた。
 そして私は沖縄第一回移民の地であるハワイに飛んだ、同じ海を越えるのなら、心的に本土より遙かにハワイが近かったからである。
 ハワイ州オアフ島ホノルルに在るマノア大学のホールでのハワイイングリッシュアカデミーの二度目の入学式でのことだった。
 私は前の席でうろうろしている日本人を首を傾げながらじっと見た。
「エー、嶺井ヤアラニ(オイ、嶺井じゃないか)」と内地の人なら反応しない沖縄の言葉で呼びかけると、男は一瞬凍ってから振り返った。
「アイ、ヌーンチヤーガウマンカイウガ(あれ、何でお前がここにいるんだ)」と嶺井が笑い、二人はシェイクハンドしていた。
「ワッターンアメリカーナティチョッサー(オレ達もアメリカ人みたいになってきたな)」
 私は嶺井をアカデミーの事務所まで連れて行き、入学手続きを済ませた。
 更に驚いたのは私も嶺井も同じ寮に住んでいた事であった。偶然の理由はシンプルだった。ホノルルで一番安い寮で有ることだ。
 木造のシングルの部屋の二階建てと、鉄筋コンクリートの二人部屋の二階建てがモイリイリ本願寺男子寮で、中庭は駐車場も兼ねていた。私は半年ちょっとを過ごし、嶺井は一月過ごしていたが、一度も顔を合わせなかった。
 私は大学入学の英語のテストのために、部屋で本と教科書ばかりを相手にし、嶺井は折角来たハワイを、ワイキキを歩き回っていたからだった。
 いつも本を読んでいる私と、最小限の単語で地元の学生と楽しそうに話している嶺井は対照的だった。
 九ヶ月後、三ヶ月ごとの語学学校の授業料が高く、嶺井は手持ちの百万円が底を尽き、家からの送金も無理だと分かると、学生ビザが消える前に寮を出て、就労ビザなしに働くことに決めた。
 親戚の叔父に百万円借りて、一年も経たない内に帰ったのでは面子も無くし、アメション、アメリカで小便だけして帰るような真似は出来ない相談だった。
 嶺井は寮を出る時に、私の部屋に現れた。
「本ばかり読んで退屈じゃないのか」と呆れ顔で言った。
「スタインベックの『二十日鼠と人間』と岡倉天心の 『Tea Ceremony』だよ」
 顔を見合わせにんまりした。
「津嘉山、もう学校には行かない。オレは金を儲ける、お前は勉強しろ」
「後一学期も受ければ英語がもっと巧くなれるのに」
「外で学ぶさ。津嘉山、オレはどんな時でも、お前を友達と思っている」
 嶺井はその晩には寮から消えていた。

 それから数ヶ月、私はハワイ島に在る州立のヒロ大学に入学した。だが新学期が始まる前に、統合失調症を突然発病し、発作的に手首を切り、緊急入院させられた。所がその病の恐ろしさを知らず、私はその二日後には医師が止めるのを拒み、退院し、手首にギブスを巻いて寮へ戻り、新学期の取得科目の手続きをした。
 寮の友達が、キャンパスの学生が、行き交う人が、私を罵り嘲り冷笑した。三日前とは世界が一変していた。
 怯えだけがハワイ島に充満し、その全てを吸い込んでいるのは私だけであり、生きている心地など片時も訪れることはなかった。
 一年間、私は誰とも会わないように図書館に籠もり、何とかBプラスの成績と単位数を取り、ホノルルに在るメインキャンパスのマノア大学に転入し、モイリイリ寮に逃げた。
 古くから居た寮の学生や寮長は私が痩せて、以前の精気が無くなっているに気付いてはいたが、一年でメインキャンパスに転入するために頑張ったからだろうと思っていた。
 春の学期が始まって二月後に私はウドゥンハウスのシングルルームから洗面とトイレ以外に出られなくなった。寮生や友人に会う度ごとに口からは親愛の言葉が耳に聞こえ、同時通訳のようにそれとは裏腹な言葉が、罵りが頭に聞こえてくるからだった。

 その頃、嶺井は日本人向け高級クラブのマネージャーになっていた。
 オーナー・サミュエル・周とダウンタウンのチャイニーズレストランに行った際、同業者の運転手兼ボディガードの一九〇近くのマッチョのサモアンが絡んできた。
 たまたま運転手としてきた嶺井は椅子から静かに立ち上がり、前に出た。
 一七〇そこそこの嶺井と一九〇近くの巨漢のサモアンの睨み合いが始まった。嶺井はキン蹴りだけに絞った、目を潰すには背が違い過ぎた。
 高校の頃、学校の空手クラブには所属していなかったが、嶺井は町の道場に通っていた。それに拍車をかけたのはブルース・リーの「怒りの鉄拳」で、三年の夏には空手二段となっていた。
 ケンカが度胸の駆け引きであるのを知っている。それは高校の頃、野球やバスケットの試合が終わった後の夜の応援団の助っ人で何度か経験していた。
 サモアンはおどけて、「何だ、小便に行けないじゃないか」と行き過ぎた。
 サミュエル・周はこの一件でクラブのマネージャーに嶺井を抜擢した。
 
 或る日の晩、嶺井は私の噂を聞き、仕事を抜け出して、寮を訪れ部屋をノックした。
「開いてるよ」
 嶺井が部屋に入ると、床に坐った私は見上げて笑った。すると嶺井は見てはいけないものを見たように、咄嗟に部屋の外に出て、戻っては来なかった。
 翌晩、嶺井は大学院で学ぶ車椅子の同郷の長嶺さんと大学で学ぶ前泊さんを乗せて、モイリイリ寮の前で停車した。
 寮生が居ないのを見計らい、嶺井は私をドライブに行こうと連れ出した。私は怯えで表情もなく操り人形のように従った。
 クィーンズホスピタルに着くと、前泊さんが長嶺さんの車イスを下ろし、津嘉山が私の脇を抱え、病院の入り口で前泊さんに任せた。不法滞在の嶺井は手続きをする場所が苦手で、病院の外で煙草を吸って待った。
 私はドクターに、今日は何月何日ですかと聞かれたが、分からず、首を横に振った。彼は何かを喋っていたが、罵りの声だけが私の耳には届いた。だが、「あなたは自殺したいですか」という質問だけははっきりと聞こえ、私は救われたように、嬉々として「ハイ」と答えていた。
 その言葉で私の緊急入院が決まった。

 私は二週間後には退院したが、それから二年の間に二度入院し、大学を退学し、沖縄に戻った。
 私が帰国して間もなく、嶺井はクラブの従業員から不法滞在者が働いていると移民局に通報され、メインランドに逃げ、十年とちょっとを各地の日系のレストランや居酒屋などを転々とする日々を送った。
 
 沖縄に戻った私は世間体のために町工場で六年ほど勤めたが、無惨だった。
 職場の人間とのストレスに加え、二十四時間ひっきりなしの侮蔑が、罵りが、嘲笑が聞こえた。働いたら治るだろうとの肉親と大方の意見だったが、薬を飲んでも、精神科医と話しても、症状はよくならなかった。
 所が如何に怯えで七転八倒しても、世間は家族はそれが社会復帰だと、果ては精神科医まで信じていた。精神の痛みは見えない、本当に知ってもらうには、バットを振り回し、両親を殴り倒しでもしたら、理解できただろうと今は思う。だが幸か不幸か、私は怯え続けるだけで、抵抗のできない状態、病状だった。
 それでも清水の舞台から簡単に飛び降りられる状態で、私は会社を辞めると告げた。
 肉親は今まで出来たのに、どうして出来ないんだと嫌な顔をした。
 それは統合失調症に耐えかねてなどとは毛頭思ってもいない、ただの働きたくないだけの怠け者との両親の意思表示であった。
 私は怯えに抗って、出来る限りの正常の真似をして、折り合いを付けた。私は異常であることで、肉親から、世間から疎外される、除け者にされることを恐れたからだった、それと何よりも私自身が統合失調症を恥じ、隠し続けた。
 両親も自分の息子の異常を認めたくない、世間に曝したくないとの強い思いが有った。
 私自身と世間の精神疾患に対する偏見が問題なのである。
 私がハワイから帰って三年ほどしてからのことだった。文学賞に応募するものの、全て予選落ちである。すると、私の文章は異常な文章で、第三者には読解不能ではとの疑心暗鬼に陥り、私の文章は正常なのかの証明を探し求めた。
 そして、私は地元の新聞に投書した。一度では信じられず、二度、三度と出し、全て掲載され、私の文章が理解可能であるこが証明された。それと落選したのは単に私に技量が無いだけだとの安堵感も得た、私が統合失調症だからではなかった。
 もう一つの偏見は今では私の許し難い偏見であり、大きな過ちをであった。
 私は般若心経を百枚綴りの原稿用紙に写経し始めた。今でも六百枚から七百枚ほど有る。
 無論、これで治ったら儲け物だとの魂胆も少しはあったのは事実である。
 だが私が写経を始めたのは人間の証明のためだった。
 「エレファントマン」、象皮病の男の物語をテレビで見た。彼は病に因って象のような顔を隠すために頭巾を被って暮らしていた。そして彼の顔が象に似ていることから、彼は人間か、動物かという宗教裁判にかけられる。
 エレファントマンが軟禁されている部屋の一室から聖書の句を諳んじ、祈るエレファントマンの声が、宗教裁判の関係者である聖職者の耳に飛び込んだ。
 宗教裁判の法廷でエレファントマンを指してその聖職者が告げる。
「彼は人間です、なぜなら彼は聖書の御言葉を諳んじたからです、動物に聖書の言葉は語れません」
 私が異常となり、部屋から出られなくなった時、病院の一室に隔離された時、きっと何も信じて貰えない狂人だと人々に一蹴される前に「私はあなた達と同じ人間です」と訴えるための般若心経の暗記だった。
 だが私はある時期に弾けた。私は病気であれ、何であれ、どう転んでも私は私であり、少しくらい周りを不幸にしても生きる権利は有ると閃光が脳髄の闇を劈(つんざ)いた。 

 私は好きな事をやると言い、完黙した。その弾みで二六時中肉親親戚知人の冷笑や罵りは倍増した。
 それでも、どうせこの病気が治らないのなら、せめて自分が何なのか、この怯えの症状以外のことを考えたかった、人間に対する怯え以外のもので悩みたかった、生きたかった。
 怯えの内側で仏教・老子荘子・ニーチェ・ドストエフスキー、精神病に関する本を何度も何度も読み耽り、自分は何であるのか、彼等は何を考えたのかを追い求めた。少なくともそれらを書き記すこと、それが私の怯え以外の日々の足跡だった。
 だが一方では、早く死ぬこと、(病死、事故死、自殺以外の死)を願い続けた、死の怖さより怯えの苦しみが遙かに上回り、死の安楽の方がずっと救いだった。
 年中無休二十四時間の怯えの連続が、正常なのか、異常なのか、生きているのか、死んでいるのか、喜怒哀楽が怯えに呑み込まれた有耶無耶ののっぺらぼうの奇妙な世界に、自分に耐えられなかった。一瞬一瞬に覗くことのできない永遠がへばり付き、時が淀んだ。
 どのくらいの時が過ぎたのかは知らないが、ハワイから大学を卒業して来た先輩や後輩から、嶺井が東京で居酒屋をやり、活躍していることを知った。
 それを素直に喜ぶ前に、出発点は同じだった私と嶺井の今の境遇を比べ、暗澹たる気持ちになった。合わせる顔がないと考える、未だにプライドを捨て切れない自分が更に哀れで惨めに見えた。
 そんな時、嶺井が寮を出て不法就労すると告げた別れ際の言葉が藪から棒に飛び出した。
『津嘉山、オレはどんな時でも、お前を友達と思っている』
 それに対して、私は笑って見送っただけだった。
 だがもう一つのギリギリのメッセージを嶺井は送っていた。
『オレがどんな状況、境遇になっても友達だ』それは「お前もそうだろう」と私に確かめていた。
 嶺井が辛い時には、気付かず、自分が辛い時にだけ、私は嶺井の言葉の重さを知り、悲しくなった。

 私は死ねなかった。統合失調症は人を傷つけたり、殺したりする凶悪事件だけが新聞を賑わせるが、実は病院で、退院して家で自殺する者の数が遙かに多い。
「万有の真相は一言にして尽くす。曰く不可解」と藤村操のように人生を看破するほどの悟りもない。
「人生に疲れました」と言えるほど、世の中を渡り歩いた訳でもない。
「生まれてきて済みません」と太宰のような自己をてんてこ舞いさせるほど卑下した事もない。
 あのヒロ大学の寮での自殺未遂のように突然の怯えで、訳も分からずに自ら死ぬことは余りに情けなく思えた。
「怯えて死にます」、統合失調症の症状のために死にます。これが最も適切なのだが、「何だよ、お前は」とまだまだ遣りたいことが有るのだと未練の声が耳に響く。
 仕事がしたい、人間と五分五分、イーブンで話がしたい、町を罵倒されずに、行き交う人に怯えることなく歩きたい、結婚もしたい。普通の人が意識もせずに遣っていることを昔のように普通に遣って、生きて行きたい。
 私にとって、世の中は遣りたい事だらけで満ちていた、だがそれのどれ一つ叶えることが出来ないのが自分だった。
 自分の何もかもが吹っ飛んでしまって、病院で一生を終えるのもいいかとも思った。
 二十二からずっと誰かに糾弾され、裁かれ、怯え続けた。全ての原因は統合失調症だから。
 単純明快だった。
 私は日本人か沖縄人かのアイデンティティの揺らぎで、こうなったとか、根性が無いだの、臆病だのと色々と原因を探し続けたが結局辿り着くのはそこだった。
 本を読み漁り、書き連ねることだけが私の存在理由であり、存在の証である。
 それだけが自分自身の人生だと観念するが、たとえそこに文字は書かれて残っても、自分以外の人間が必要な「思い出」は一切なく、いつも明日を思うと切なさで胸が張り裂けそうになる。だから今日だけを考える。
 私に知人・友達と呼べる人間は統合失調症以前に出会った人間に限られた。

 嶺井は東京で居酒屋「満飲満食」チェーン店を十一店舗持ち、描いた通りに業績を伸ばし、二〇〇一年はあと四店舗増やして、月二百万の給料にするのが目的だった。
 だが夏場に吉祥寺店が海草サラダで食中毒を出し、営業停止となり、噂は噂を呼び、全ての店から客足は遠退いた。
 「満飲満食」は期限切れの食品を卸売り業者からただ同然で仕入れて、それであの安値で出しているのだとの噂が追い討ちをかけた。出所は競合店の「食八丁」の某有名私立大でのオーナー・木崎豊和だった。
 嶺井は「食八丁」の事務所に怒鳴り込み、木崎を殴った。木崎はにやりと笑い、すぐさま一一〇番通報し、嶺井は傷害罪で引っ張られた。
 木崎は慰謝料の五百万を要求し、嶺井はその訴えを取り下げる条件で、その額を払う羽目になった。
 店は更に冷え込み、赤字になる前に閉めたが、嶺井の腹の虫は治まらず、荒れ、一男二女と妻は実家に帰り、別居状態になった。

 そんな折り嶺井はひょっこり沖縄に里帰りし、実家には荷物を置いただけで、友人の車を借り、嘗ての遊び仲間を電話で呼び出し、遊び廻ったが、気が晴れなかった。
 そして私の同級生の金融公庫に勤める一平とスナック「チュンチュンミー(雀)」で会って酒を飲んだ。
 昔から夢など見ずにお利口さんの現実的な一平は「ああ、ハワイまで行って、家に籠るか、パチンコ屋さ。近所では学問させて、バカになって、親が哀れだと噂しているよ」と馬鹿正直に答えた。
「ホントにそう思うのか、お前も」と嶺井は声を荒げた。
「そうだろう、スロットマシンはセミプロかプロとの噂だ」
「あいつがそれだけで過ごせるか」
「金が無い時は、町の図書館でどっさり本を借りて、読んでいるさ。一浪しても琉球大学を受ければ、よかったのさ」
 嶺井は何も言わずに勘定を払い一人で店を出たと言う。小中高の同級生の正直者の一平が律儀にもその報告を私に電話で知らせた。

 モイリイリ寮で床に坐ってニヤッとした私の痛ましい姿が頭を過り、きっと嶺井はどう話をしたらいいのかが分からなかった。
 しかし今の自分の惨めさに、もっと惨めであろう私に会いたくはないというのが、嶺井の本音だったろう。
 スロットにのめり込み、現実から逃げている私の姿が浮かび、やることを失った私が哀れで、嶺井は更に落ち込み、私とは会わずに東京に帰ろうと思った。
 あの頃は二人には怖いものがなかった、見えなかった。だからがむしゃらにぐいぐい突き進んでいた。二人にとって楽しい思い出だった。

 沖縄に来て七日目、家を出たはいいが、嶺井は行く先が決まらず、ただ車を走らせていたが、結局は私の住む町の町民広場に来ていた。
 会わずに帰るには嶺井は義理堅い性分で、一平とは会ってハワイ仲間の私とは会わずに帰ったと、後で私の耳に入ったとなれば、私の面子を潰すと考えたのだろう。
 嶺井は家を訪ね、母から聞いた日当五千・三日の約束で働いているという畑を探して、公園の一本道を運玉森に走らせ、道が途切れた所で車を停めた。
 煙草に火を点けて見回すと、右の窪地の四百坪ほどの畑で、一人で鋤を振っている私を見つけ、クラクションを一回押した。
 私は手を休め、頭を挙げて車の方を見ると嶺井が笑って窓から左手を出して挙げた。
「折角、ウチナーンカイ、チョウルムンヌ、クヌアチサウガリイカネー(折角沖縄に来たんだから、この暑さを拝んで行かないと)」 私は亀甲墓の階段を指し、自転車に跨がり坂を下って、ビニール袋を自転車のカゴに入れ、私は息を切らしながら戻ってきた。
「飲もう、ビールの一缶ぐらいいいだろう」
 缶を合わせて、一口飲んで、青い空を、青い中城湾を眺めていた。
「ウチナーヤトゥルトゥルシ、イライラスッサー(沖縄はトロトロしていて、イライラするよ)」と嶺井は笑った。
「東京と同じヤイネー、ワザワザトゥーサヌウチナーンカイ観光客がチューンナー(東京と同じだったら、わざわざ遠い沖縄まで観光客が来るかー)」
 嶺井は意外な顔をして、私がまともだと安堵した顔を覗かせた。
「津嘉山、ビョウケーチャーナトーウガ(病気の方はどうだ)」
「アアー、ノウランビョウキヤ、カンゲーランクトゥヤサ(治らない病気は考えないことさ)。ヤシガ、ナマー、ドゥチュイヤイネエ、メエーヌグトチャーンネーンドー。(それでも、今は一人の時は前のように何ともないんだ)ヤクトゥ、ウヌビョウキカカタルナカウテエワンネー、ラッキーヌムヌヤサ(だから、この病気に罹った中ではラッキーの方だ)」「ヌーガ、嶺井、ミーナダグルグルーシ(何だ、嶺井、涙ぐんで)」
「チャーヤガ、小説ヤ(どうだ、小説は)」
「ルクネンメーニ一回、佳作、アトー一次通過ビケーン。クトゥシン、ナー、ヤーチビケーンイジャチョウシガ、チャーヤガヤー(六年前に一回佳作で、後は一次通過ばかり。今年も八つばかり出しているけど、どうなるかなー)」
「ヤームノー、クトバガムチカサヌヤー、(お前のは単語が難しい)」
「嶺井、ビジネスヤ順調ヤミ(ビジネスは順調か)」
「モウキトーンドウ(儲けているよ)」
「マシヤルクトゥガアイネー、チャニーニカナイン、チクヂクウヌ病気ナティカラワカタサ(好きなことが有るとどうにか成るんだと、つくづくこの病気になってから分かったよ)」
「ヤガヤー(そうかー)」
「ハー、嶺井、ヌーイチョウガ。アヌビル・ゲイツヤティン、一週間、朝ウキティ、スシガネーンネー、ノイローゼナインテー(オイ、嶺井、何言っている。あのビル・ゲイツでも一週間、朝起きて、やることが無かったら、ノイローゼになるよ)」
 暫く二人とも黙り込んでいたが、嶺井が腰を上げた。
「ドゥーンカイ、キーチキリドー(体に気をつけてな)」
 嶺井が車を発進させかけた時、私は駆け寄って、三十年前の嶺井の別れ際のセリフへの遅い返事を言うために運転席のドアを叩いた。
「ワンネーヨー、六十五マディナカー、ベストセラーカチュクトゥヤー(オレは六十五までにはベストセラーを書くからな)」
 嶺井は私がやっぱり頭がオカシイのではと見上げ、悲しそうな顔をして又目を潤ませていた。
「ヌーンチルクジュウゴヤガ(何で六十五なんだ)」
「アヌヨー、アヌマクドナルドヌハンバーガーヤーヤ、六十五カラハジミタンディ。ナマヤ、シケーヌアヌマクドナルドガドー(あのな、ハンバーガー屋のマクドナルドは六十五才から始めたって。今や世界のあのマクドナルドがだよ)」
 嶺井は頷き、左手を挙げて、去って行った。
 何も変わってはいなかった、それに私が思っているように荒んでもいなければ、弱ってもいなかった。
 嶺井に私の遠い昔にすべきだった返事が伝わったのか、いつの日か伝わるのか分からない。多分、変な事を言ってたなと忘れ去るだろう。

 統合失調症が緩解し、正常の感覚に戻った私に時の速さが身に染みた。姪が大学を卒業し就職した。ハワイイングリッシュアカデミーで学んでいた京都の丸川さんは大学で教鞭を執っていたが、早期退職して、第二の人生を歩むと年賀状に書いてた。
 丸川さんは京都の有名私立大の元ESSの部長で、会社を辞めて三月の期限付きで英語を学びに来ていた。モイリイリの寮で丸川さんは相部屋の私に英語で言った。
「私はハワイではけして日本語を使いません、理由は英語をマスターしに来たからです」
 その為に寮の観光気分の日本の留学生に疎まれた。彼等に対しても英語しか使わないからである。無論、相手は日本語でも英語でも丸川さん自信は気にはしない。
 だがスラックスに半袖のワイシャツで、Tシャツもアロハシャツも論外であった、丸川さんはハワイの風景からは浮いていた。
 或る日、ワイキキを案内してくれと頼まれて、一緒に歩いていると、「アラモアナショッピングセンターへの行き方を教えて下さい」と、初老の夫婦が丸川さんの方へ頭を下げながら近づいていった。
 丸川さんは英語で、どうして自分は英語しか話さないのかを英語で説明し、自分もここは不案内であると英語で答えると、夫婦はキョトンとして頭を傾げながら立ち去った。
 日本人の多いホノルルの在るオアフ島では丸川さんのように英語を使い通すだけの覚悟がなければ、英語は絶対に巧くならない、だから私は日本人の少ないハワイ島に在るヒロ大学を選んだ。
 丸川さんは英語を話すためにボランティアで外国人の京都のガイドまでやった人である。
 私は年に一度丸川さんやお世話になった人に欠かさず年賀状を出している。それは生きていますとの通知であった。
 だが、三ヶ月でアカデミーの最上級のクラスを終えて、帰国した、市川さんに病の事を、自分の事を告げた事はない。自分を恥じたからだ。
 丸川さんが第二の人生を歩み始めた。
 熱は高温から低温へ移動する、その逆はない、熱力学、命の力学の法則である、そのようにエネルギーが、熱が冷めて行き、人間は老いて死ぬと思うと、私が、人間が、哀れにも思えるし、死が怖い。それより先に、両親が亡くなったら、どうなるのかと心配し、医師の診断書を持ってハローワークの障害者雇用窓口に行ったら、「あなたのような症状の方の働く施設やご理解のある職場は現在は有りません」との返事で、那覇まで遠出をしたものの無駄足になった。
 ベストセラーを出せば、一生大丈夫だとか、ロト6で一億当たればどうにかなると、今日を生きている。今日があるから昨日も明日も有る、「一寸先は闇」だ、私が突然統合失調症を患ったように、世界は一瞬に一変する、だがそれは同時に「一寸先は光明」だと言うことだって有り得る。昨日は変えられない、明日は分からない、だが現在の今日は病を震源とする怯えからも解放された私が動かしている。
 地元にある学校を小一から高三まで通った私が道端で同級生に会えば、今なら何をしていると聞かれたら、蟠り無く万感の思いを込めて「無職だ」と答え「でも好きな事をやってるよ」と笑う。
 彼も、彼女も「そうか」と笑って手を振って、分かれるだろう、多分、私も、彼等も年を取った、大人になった。一つだけ確かな事は私も曲がりなりにも生きてきた。
 
 嶺井の噂も耳に入らなくなって久しい、無論便りもない、手紙を書くぐらいなら、会いに来るさと言うだろう、何だろうとやりたいことをやっていればいい。
 だが私はたとえ会おうが、一生会うまいが、墓場まで道を照らしてくれる貧者の一灯がある、…
『どんな時でも私の友達だ』
 

オキナワングラフティ

生き続ける!

オキナワングラフティ

沖縄の若者二人が沖縄を出て、ハワイに渡り、一人は金が無く、ハワイに不法滞在して、働き続け、もう一人は大学に入ると同時に統合失調症となり、帰国する。 それから十数年して、一人は東京で居酒屋で成功し、一人は統合失調症に悩みながら生きている。そのような二人が沖縄で出会う。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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