美学の憂鬱

「美を追い続けると死に至る」

美に取り憑かれた画家

   美学の憂鬱

 《選ばれて在ることの恍惚と不安
  二つ我に有り》(ボードレール)

 私の絵は壁に掛けられることを拒絶する。 私は海辺のアトリエで三号(二十七・三センチ×二十二)の絵を描いている。これより大きな絵は描かないのが私のポリシーである。机の引出に仕舞える適度なマキシマムだからである。額縁は縁を丸くした特注の軽くて丈夫な金属を使用している、出し入れの際に手を傷つけないためである、私は血を見るのが何よりも嫌いだ。

 絵を描くときには総てのブラインドが降ろされ、闇の宙に浮かぶ一個の裸電球を点け、クーラーをかける。それから小さなキャンバスに向かう。一つの筆の運びに息を凝らし、濡れた絹の手触りの肌、それを見る者が蟲眼鏡(むしめがね)で凝視するほどに魅入られる真摯さと緊迫の鼓動と含み笑いを齎(もたら)すものでなければならない。そうでなければ、秘めるもののない真昼の街を闊歩する羞恥心の無い見窄らしいエロスとなってしまう。
 顧客は女性と男性とで半々ぐらいである。先日、自画像を描いて欲しいという女性が訪れた。
 年は三十七八でジャケットにスラックスを颯爽と身に纏ったキャリアウーマンの知的な感じのするほっそりとした、どちらかと言えば、色気を極端に閉じ込めてしまった眼鏡をかけた瓜実顔の気位の高い女性だった。
「あなたの絵は猥褻ですか、それとも芸術ですか」
「日蔭の芸術です、美術館には飾られませんが、腕は巷の自称芸術家を数段上回っていると自負しています。私は猥褻とは呼びません、エロスが画面から滲み出るタブローを描くことにしています。美しい猥褻、矛盾を孕んだ美です。これでご満足頂けましたか」
「安心しましたわ、私は私のために今の私を残したいのですから。服を全部脱がなくてはなりませんね、ポーズは淫らに美しくして下さいね。美化はしないで、ありのままに描写して下さい、他人の体ではなく自分のものですからね、嘘を見ると興醒めになる」
 真っ裸になって裸より赤裸々な裸にポーズを取らせデジカメで撮る。
 女性が服を着ると、写真を見せ、どのポーズにするか訊ねる、女性は両膝を立てて坐っている一枚を選んだ。眼鏡は私の触感でかけて描くことを承諾してもらった。アンビバレンスな生き物であることが歓びの哄笑を誘うからだ。
 絵のバッグにはアンリ・ルソーの得体の知れない夥しい緑の密林の風景を入れて欲しいと女性は頼んだ。
 模写はお手の物で、いいでしょうと答えた。
 代金ですと、現金の入った事務用の茶色の封筒をバッグから取り出して、女性は確かめてくれと手渡した。
 絵の相場は十五万から二十万で、月に少なくとも三枚は売れる、まあまあの月収である。密やかな歓びを享受するには妥当な金額だと思っている。
 私は不器用に紙幣を一枚一枚数え、確かにと言う。女性はアドレスと名前を書いたメモを渡し、宅配便で送ってくれと告げた。女性が去った後に、タブーを振っていたのだと知った、線香のような匂いで覚えてしまった唯一の香水の銘柄だった。
 顧客の話しはこのぐらいにしよう、プライベートなことに立ち入ってしまう、それに思い出して楽しむほどの出来事でもない。
 私は部屋の隅に置かれた木製の机の上の燭台の蝋燭に火を点し、想像する。

 女性・Mのために二十七本の赤い薔薇の花束を抱えて、その屋敷を訪れる。戦後成り上がった豪商のただ一人の末裔である。
 夭折の家系、自殺したものが八人もいる。最後に美しく残ったのがMである。
 ロココ調の居間のソファーにいつも黄色のロングドレスを着て坐っている、感情を忘れた顔である。人工的な女性に見える。
 今夜はMの二十七回目の誕生日である。花束を受け取ると、Mは一輪の花弁を右手で毟り取り、花に近づけ、そのまま落とした、「どう見ても薔薇」と笑った。
 螺鈿のテーブルの上には赤のワインが三本とグラスが二つ置かれている。
 Mは人前では決して食事をすることがない。メイドにさえそれを見せたことはない。ワインを注いでMに渡すと一気に飲み干し、グラスをテーブルに戻し、中指でテーブルを二三度叩き催促をする。
「ねえ、あなたに悩みは有って、私は悩むことがないのよ。父が、母が死んでも、けろりとしていた。
 周りの者が泣くからなぜ泣くのかしらと訝ったものだわ。そうでしょう。
 死ぬ時間が訪れたから、死んだ、おトイレに行くのと変わらないでしょう。私もいつかは死ぬわ、当然のことだわ。
 どうして安易な感情で死を清算しようとするのかしら、理解できないことよ」
「それだけ喜びを感じているからでしょう、喜怒哀楽は喜びの表現なのですから、それが無ければ生きて行けないのです」
「世の中の出来事の一々に反応するなんて、下品で愚かなこと、そう思わなくて」
「そうしなければ、苦しみを護摩化せないでしょう」
「そうしてまで、生きるべきかしら、生きる価値があるの、その意味が見つけられるの」
「生きる意味を知っている者はいません、それを考えれば、一生を費やして、喜びが失われます」
「あなたは喜びを知っているとでも言うの、あなたが笑うのを一度も見たことが無くてよ」
「楽しみは最後にとってあるのです、最後に笑うことが至上の笑いです、生を蹴散らして、侮蔑を恵んでやるのです」
「だから生きているとでもおっしゃりたいの」
「そうです、餌を、ニンジンを目の前にぶら下げて走る馬です」
「そう、いつになったらそのご馳走に有り付けるのかしら」
「それはあなた次第です」
「例のおねだり、当分はお預けだわ、だって、話し相手を一人無くしてしまうことになるのよ。
 それに適当な木の枝に紐でも結わえて、ご自分で首を吊ったら済むことじゃないこと」
「それはできません、あなたの美しい両手で首を絞められて、死ぬのです。
 やっとめぐり合えた理想の死の執行を司る美神ですから」
「絵描きの美学なの」
「いいえ、嗜好です、肉体の陶酔のためにです、フォルムの陶酔のためにです」
「そんなことは嫌だわ、どうしてあなただけがいい思いをして、私が他人の喜悦を見届けなければならないの、我が儘だわ。
 それにあなたの屍をお山の別荘まで運んで、例の穴に放り込んで、土を被せて、梯梧(でいご)の苗木を植えるんでしょう、面倒だわ。
 それは木に変身して永遠の命を夢見てのことじゃないでしょうね」
「いいえ、趣味です、それほど莫迦(ばか)ではありませんよ」
「別荘の梯梧の木は何本になったかしら」
「九本です」
「十本目はお決まりになりましたの」
「あなた次第です、今夜、あなたが私の首を絞めて下されば、十本目に私が入ることになります」
「十一本目にしましょう、十で終わりなんておままごとだわ」
「本当ですね、今夜は私が素敵なプレゼンと頂いた最良の日です」
「どうしてあなたは死にたいの、変わった人なのね」
「それはあなたはどうして生きたいのと訊ねるくらいの愚問です」
「私の神経を逆撫でするような言葉遣いは止めて下さらない、許せないわ」
「済みません、興奮し過ぎました。
 私が求めるのは知性とか、理性とか呼ばれて持て囃される形の無いものに対する肉体、フォルムの凌駕、痺れです。
 それでも言葉を、ロゴスを使わなければ生きて行けないという事実、屈辱に耐えられないのです。
 とうとうその重く伸し掛かる鎖から解き放たれる日が来るのです、絶対の自由の須臾を享受するのです。三十九年もかかったのです、逸る心を許して下さい」
「それでも感情を露にするなんて、あなたらしくもない、気品を忘れないで頂きたいものだわ。
 罰として、九本目の梯梧の木の下で眠る女性のことをお話して下さるわね、ワインの美味しさが引き立ちます」
「あなたも変わった人、一人の女性を殺して、絵にするだけで満足してしまう。
 それにご自分も絞殺されて、死にたいと願うのだから変態の極みだわ。
 でも私は約束は守ることにしているの、最低のエチケット。
 あなたの首をこの両手で絞めて、柔らかく殺して差し上げるわ。
 それに埋めて、きっとうりずんの頃に、その上に梯梧の血のように真っ赤な美しい花が咲くんでしょうね。
 その時に私はあなたのことを覚えているか心配なの。
 それにしても、あなたは見掛けによらず純情なこと。為すがままの美しい女性と交わろうともせず、切り刻むことも無く、いたぶることも無い。
 でも、自分に純情じゃない芸術家はペテン師より醜い、産(う)ぶなあなたはそれだけでも美しいわ」
「褒めて下さっているんですか」
「当然でしょう、どうにでもなる全裸の美しい女性を前にして、禁欲を通すなんて清々しいことじゃなくて、目を真っ赤にした肉欲を剥き出しにした男にはできないことよ。
 あなたは時として灰のように醒めている。
 殊に人が理性を置き去りにしようとして本能を露にすることの狡猾な理性の計算された情状酌量の状況で、理性という御旗を唾棄し投げ捨てる。それが痺れなの。
 私も親愛なるあなたの首を眉一つ動かさず絞め、断末魔のあなたを見て、それを感じることができるのかしら。
 もしできなければ、初めて私は他人に嫉妬することになるでしょう、初めての感情を味わうことになるでしょう、それは屈辱に塗れることを意味するの。
 あなたが土に埋もれた数日は寝苦しい夜を送る、それは私のあなたへの侮蔑と羨望の弔辞となるでしょう。
 あなたはあなたの好む形の女性を殺める、それでも、あなたはどうして私を選んでは下さらないの、私の手にさえ触れようとなさらない、それは私への軽蔑ではなくて、その栄誉ある侮辱を受けるためにこうして私はあなたに会う。
 でも、心の中まで求めるのは下品だわ、隷従という態度を取り続けるあなたに真意を訊ねるのは、トイレを覗くことより破廉恥なことだと分かっているの。
 そう形が総てに優越する、それがあなたの嗜み、ダンディズム、そうでしょう、あなた」
「そうです、見えないものは無いのですから。私がどうしてあなたを殺さないのか、訊ねましたね。
 一つの完全な立体に何も加えるべきものが無いからです。それをもし私があなたを全裸にして絵にしても価値が無いのです。
 絵の中のあなたは日々衰え色あせて、醜くなって行きます、ところが現実のあなたは逆に日々美しさとその輝きを増して行くのです。生きているあなたの方が美しいからです。
 絵描きならビーナスを壊す苦しみより、当然、その美の化身に殺される甘美と溶け合う痙攣を望むのです」
「あなたは言葉を嫌っていらっしゃるのに、それを使う術(すべ)はよくご存じなこと。あなたはもうすぐ死ぬのですから、そのようなあなたに服を着たビーナスでは失礼でしょうから、ですから裸になって上げます。
 創造だけでは欲求不満に陥ってのことよ」
 Mは写真を撮られる子供がするように唇を横に動かして馴れない笑顔を作った。
「いいえ、私の首をその軽やかな両手で絞めて下さる時に、その目映(まばゆ)いばかりの全裸を現して下さい、お願いです。その至上の時で、私はあなたの身体の、フォルムの総べてを嘗め尽くし、その全てを奪い、翼にして昇天するのです。死ぬのにも夢がないと、味気ないものでしょう、それまでのお預けです」
「そう、私の好意を断るなんて、不愉快です、十人目の絞殺を楽しみにしているわ、お帰りになって」

 私には余裕が無かった。Mに首を絞められながら意識が薄れて消える刹那の光景を思い描いては涎のような笑みを漏らすのがここ数日の習性となってしまった。
 私の今の状況で街を回り気に入るフォルムの女性を見つけるのは難しい、たとえ見つけたにしても別荘まで連れてくるのに失敗する恐れがあった、正確に行動する冷静さをMのプレゼントで失っているからだ。慎重の上にも慎重を期することが必要で、危険を避けるために、不本意なことだったが顧客の中から選ぶことにした。
 あのキャリアウーマンの独身の女性だ。私は郵送した名前と住所から電話番号を調べ、那覇の郊外にあるとある高級マンションに一人住まいであること確認し、彼女をL、LESの頭文字で呼ぶことにした、意味を付与したのはLへの良心の呵責を感じたからかも知れなかった。最も危惧したのはレズビアンの男役であること、私はあるフィルムのレズビアンのシーンを思い出していた。
 恋人が男役でなければ、処女で有っても可笑しくはなかった。二人いては計画が破綻を来してしまう。それにタイプではない女性を殺すことは今までの仕事を冒涜し、それから最後の詰めを手抜きしてしまった作品となり、総てが水泡に帰してしまう。
 私は意を決して直接電話をかけることにした。写真を返すことと、絵を描きなおす箇所があることを緊張した声で告げ、出向きますからと付け加えた。
 Lは他人にプライベートな部屋を見られるのは嫌ですから、絵を持参してアトリエへ伺いますと午後十時と時間を指定した。Lの率直な気持ちはよく理解できた、そして一息吐いた。「案ずるより産むが易し」、思わず笑みが漏れた。
 私はLが持って来る絵を焼き捨て、新たにLを描く、大きな鏡を前にしてアンティークな木製の椅子に男のように足を広げ、その上に両手を置いて、等身大の鏡に映る虚像に見入っている、眼鏡もかけてはいない。仕上げには、椅子が消え、鏡が消え、部屋が消え、Lと虚像と透明な水にも似た余白だけが残る。
 クロロフォルムに浸したハンカチも用意してある。Lは小さいがそれなりに収益を上げている数少ない画廊のオーナーだった。
 絵を齧った者に絞殺されるのだから、本望とは言わないが、少しはいいのではと勝手に思っている。Lが済んだら、私がMに首を絞められて、死ぬ。五年も待った。Mはじらすことを好む。絞殺して下さいと哀願すると、私一人が殺人者になるのは嫌だわ、あなたも人を殺してから頼むのが、エチケットじゃないかしらと切り返した。
 その言葉が私の蝋燭の灯火の下の夢想に火を点けた。全裸の女性を小さなキャンバスに永遠に閉じ込めてしまう、私のコレクション。Mのその贖いが、私にとっては至福となる、絞殺によって遂行される。死への陶酔が、痙攣と喜悦が稲妻のように落ちる時を約束された、
「真昼の空から垂れ下がる縛り首のロープを引き上げる天使」
 言葉が溶けて血となり滾り満身を逆流する。私はこの世の一切から解き放たれて、歓喜の大渦に投げ込まれる。
 最初のBを殺し、Mに伝えると、青い鳥は簡単には胸へ飛び込んでは来ないものなのよ、と甲高い笑いで一蹴した。私のコレクションが数を増していった。それと歩調を合わせるように、私の痺れることの喜悦も死へのファンタジーも確かな手応えとなり、幸福というものを味わえるようになっていた。
 Lが絵を持ってスーツ姿でアトリエを訪れた。仄かな匂いがした、シャンプーと石鹸のものに違いない、臭覚とは不可解で不確かなもので本能に最も近い混沌のように思われた、セミロングの髪が少し濡れていた。画廊のオーナーは付き合いが多く、多忙である、芸術家と金持ち、この二つの異なる人種を相手にするのは骨が折れる、異なる言葉と価値観を巧みに使い分けなければならない、神経さえも磨り減らしてしまう。銀縁のメタルの冷ややかさが一層輝いて見えた。タクシーで来たのは好都合だった。幸先のいい、私の夢、死への一歩だった。
 キッチンのテーブルに招き、ワインを出した。私は明太子より旨いとは思わないが顧客から貰ったキャビアも添えた。Lはワインを二三杯飲むと、幾らか饒舌になった。仕事の緊張から解放されたのだろう。赤いルージュで滑り、閉じられていた唇が大きく開く、銀のスプーンの上のキャビア、蝶鮫の卵らん、をピンクの舌へ運び、含み、スプーンが緩慢に出され、嚥下する。その口で私の首が噛み締められた痺れが首筋を走った。恍惚となってLを眺めてしまう恰好になってしまった。
「先生とは、お友達になれそうな気がしますわ」とLは頬笑んだ。
 慌てた、私のコレクションが感情を伝えたからである。
 一方通行の一人の場所のタブローと会話を交わすという奇異な出来事は一つの人格、他人であることだった。
 Lは笑みを絶やさなかった。私は思い出、完全体のフォルムに記憶に感情が紛れ込んでしまうのを恐れ、Mの後ろに回りクロロフォルムを十分に吸い込んだハンカチをLの口に当てた。微かな眠りの吐息のような呻きが耳に響いた。
 計算機を叩く銀行の事務の女性の指のように俊敏に正確に手際良く、Lの衣服を脱ぎ取り全裸にする。顔を、首を、胸を、臀を、陰裂を接写する。仰向けになったLを、俯せになったLを撮る。Lは手首を後ろで縛られ、猿轡を噛ませられた。最後の念のために足首も縛った。私はLが目覚めるのを待った。呼吸をする眠れる麗人が、人形が、横たわっている。
 恐怖に打ち震えるLが諦めの弛緩した表情に変わる刹那を想像して、微弱な痺れが心をときめかせる。そのLは今目の前に横たわるLよりも遥かに確かな存在であり、生きているのである。
 私がMに首を絞められ死を招くことの至福は総ての存在を蹴散らして、一瞬にして軽さの極み、高さ極みにのめり込み、溶け行く意識の恍惚で横溢する泉となり、項垂れた屍が永遠の夢想に笑う。絞殺されてもない私が、そのことを知るはずがないとのフランクな問いが浮上する。それは杞憂と中国の人は答えた。天が落ちて来て、一切が死ぬと考えた杞(き)の国の男は、そのことを昼夜問わず考え抜いて、天が落ちる前に死んでしまったと悠久の歴史の国は笑い話にしてしまった。
 私は私の夢想を疑わない、それを疑うことは天が落ちてくる信じることのできる希有な、天を背負う運命の下に生まれた限られた人のみの特権である。幸いにも私は文学家、哲学者でもなく、一介の絵描きである。
 Lは全裸でアトリエのシーツの上でシャンプーと石鹸の匂いを漂わせて横たわっている、眠っている。
 一度目は自発的にここを訪れ、全裸の写真だけを残して帰ったが、二度目は意識の無いままに全裸にされ、目を開いてしまえば、首を絞められ、もうあのマンションに帰ることはない。
 ロッキングチェアを揺らしながら、Lの目覚めを待つ。
 Lが目を開けた。暫くして、私は猿轡を外した、最後のタブローとなるLに対する私のぎりぎりの敬意である。Lは冷静にこの状況を判断して、睨んだ、当然のことだが体は小刻みに震えている。感情を押し殺した声が響く。
『殺すのですか、どうしてですか』
『あなたが美しいからです、美しいフォルムだからです、その人を何故殺さなければならないのか、私にも実際は分からないのです。多分不可解な胸の奥底から突き上げてくるマグマの痺れと恍惚のためでしょう……』
『絵にはするのですか』
『はい』
 私は額に接吻して、絞めた。手と首が発熱し融点を越え熔解し一つになる混沌の坩堝、痺れの気泡が沸き上がり弾け恍惚が充満し虚空を漂う陽炎となる。
 Lを車に乗せ別荘に運び、造園業者が数日前に掘った穴にLの紐を解き投げ入れ、土を被せ、梯梧の苗木を植える。人の滅多に訪れることのないこの地に、赤い花を付け、梯梧が咲き誇る。
 嘗てのLの写真をボードに貼り、絵の制作に入る。この絵が出来上がれば、Mに電話して、屋敷へ絞め殺されるために喜び勇んで赴き、柔らかく冷ややかな指が私の首に巻き付き、溶けて行く、至福の灼熱の恍惚の涙が零れ落ちる。Lのアイボリーの裸体に綿密に微細に描く。Lは私がコレクションを見詰めるように鏡に映ったLを見詰め、忘我の境に落ちている、見るLと見られるLだけがいる、その視線が消え、Lが一人歩きを始める美が生成される。Lの一切を一枚のタブローが奪う。
 六日後の深夜、絵は完成した。Mに電話をした。
「午前三時までには来ることね、そしたらお望み通りにして差し上げるわ」とMの甲高い笑いの途中で電話は切れた。

 私は十枚のコレクションを車の後部座席に載せ、屋敷へと向かった。これを所有する嗜みを具えているのはMしかいない、私のMへの総てであり、供物である。いつもより車を慎重に走らせる、土壇場でスピード違反で警察に捕まっては気分も損なわれ、元も子も無い。安心するのは全裸の目映いビーナス、美しいことの化身、魔神のMの指が私の首に触れたときだ。
 緩やかな山道を右に曲がると、黒い猫がススキの茂みからライトに吸い込まれるように飛び出し、逃げようとはせずに顔をこちらに向けて牙を剥いて唸った。至福の夜を赤い不浄な血で汚してはならないとの思いでハンドルを切った。野卑な造りのコンクリートの電信柱に車はクラッシュした。

 ロッキングチェアに背を凭れて、微睡みの睡魔に抗いながら必至にあることを考えている。女性が向こうから別荘を訪れては、剥き出しにされ、絞殺される。その痺れと恍惚が色褪せてきているような気がする。女性も見覚えのあるような顔ばかりである、だが確信が無い。
 もしかしたら、私のコレクションの女性達が入れ代わり立ち代わり現れているのではとも考えられる。しかし、梯梧の木の下に埋められている十人の女性が生き返ったと思うのはどう考えても不自然だ。
 それが事実なら、私が死んでしまったと考える方に可能性はある。それに女性達も日増しに饒舌になり、首を絞められても目の奥に恐怖の色が見えない、ジェットコースターやバンジイジャンプの女性のような何処か軽はずみな恐怖の楽しげな目だ。それは一度死ねば、二度と死ねないという安堵感のためかも知れない。
 地獄にいるのではと思う。
 或る読んだ本に依れば、そこでは即座に自分の望みが叶えられてしまうそうである。私の場合は好みの女性の全裸の写真を撮り、絞殺して、恍惚と痺れに悶え、絵を描くことだ。それが永遠に繰り返されるのである。
 永遠という掴み所の無い語彙はインド人の知恵を借りればぴんと来る。オーストラリアのエアーズロックに天女が一年に一度舞い降りて来て、その岩を羽衣で一撫でして、完全に磨滅してしまうまでのスパンである。しかしこれでも永遠ではないらしい。
 弥勒菩薩は五十六億七千万年後に現れると言うぐらいである。それでも短いのだと言う。私にはそれでも堪え難い長さである。それでも、タイプのフォルムの女性を絞め殺す時の一瞬の恐怖に打ち震える目を見た刹那の痺れと恍惚があれば我慢できそうな気がする。
 所が、立ち現れる女性は死を楽しみに、演技しているという思いが強まっている、無駄なお喋りも酷(ひど)くなった。嫌いな陶酔し切ったカラオケを聞かされたように吐き気がする。それなら女性を拒めばいいのだが、タイプの女性を目の前にすると総てを忘れてしまう。
 それに反比例するかのように、Mへの思いとMに絞殺される痺れと恍惚への欲求は狂おしいまでに高まっている。
 だがMがまずここに来ることはない、感情は微塵も無く、私が姿を見せなくなれば、憎めばいい方で、その記憶さえも消えてしまう、美に感情はないからである。
 Mに怨みつらみは全くない、何故なら美に対する人の立場は隷属しかなく、それ以外の選択はないからである、それが嫌なら芸術家の資格も資質も無い。
 私は二度とあのビーナース、立体の完成されたフォルム、Mを見ることはない。愚かなこととは思ったが誘惑には勝てず、両手で首を絞めたが苦しくて失神するだけで、恍惚も痺れも無かった。
 それでも私は一度だけ笑った。完全に真似して建てた積もりの私のアトリエだが、地獄にもミスはあった、二つの窓に無いはずの鉄格子を取り付けてしまったことだ。
 夜になっている。
 ドアを叩く音が響き、開き、女性がつかつかと入って来た、私の全神経は総毛立ち放電し、女性のフォルムへ裸に吸い込まれる。私は初めてのように興奮し、女性を裸にし、両手で首を締め付け、………。

美学の憂鬱

選ばれてあることの恍惚と不安、それこそが死に至る症状である。

美学の憂鬱

美のフォルムとしてMを崇拝し、10人目の殺人を行えば、画家のお望み通り、首を絞めて殺す約束をする。画家はそれを思うだけで、エクスタシーを覚える。 だが10枚の絞殺した女性達のタブローを車に乗せ、M宅へ向かう途中に、事故に遭う。 それから…。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-09-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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