人は細部を覚えていられないから、僕はシルエットで恋をする。
人は細部を覚えていられないから、僕はシルエットで恋をする。
「私、昔すごく好きだった人がいて。もう本当にその人のことが好きで好きで仕方なかったのね。だけど突然振られたの。すごく悲しくてさ、もう、悲しくて悲しくて……。それでしばらくはその人の身につけていたものに似た腕時計だったり、靴だったり、髪型だったり、それこそ爪の形とか、鼻の高さとか、目元とか……、その人が持っていた細部を街を歩いている時に探してしまっていたの。あれだけたくさんの人がいるから、それぞれ皆似ている部分を持っていたし、パーツ単位で探せばそれはどこにでも転がっていてね。それらを頭の中で組み合わせて、彼を作るのよ。そんな私の頭の中に作られた彼を見て、私は幸せを感じていた。……だけどそれも最初だけだった。時間が経つにつれ、私は彼のディティールをどんどん忘れていってしまって、次第にそれらを思い出すことができなくなったの。パーツを思い出せなくなるともう彼を作ることができなくなる。……いくら思い出そうとしても、全然出てこなくなっちゃったのよ」
僕が今好きな人は、僕よりも10個も歳が上だった。
小さい頃に流行っていたものが違えば、見てきたものも違う。ジェネレーションギャップなんて簡単な言い方をするけど、事実人間形成に大きく関わってくるこの差は、ギャップなんていう簡単な言葉で片付けられないくらい重みのある差なんじゃないかって思う。
やっぱり10個歳が離れている僕たちには、その差がたくさんあった。だけど差がいくつあろうが、別に僕たちは気にする風はなかったし、それらは予め分かっていることでもあった。むしろその差を愛でようとして、お互いがお互いの存在に寄り添うようにしていた。
そんな彼女との関係において頻繁に感じる差も、時々感じなくなる時がある。”この話”の時もそうだった。たまたま昼食を一緒に食べに行った、小さな洋食屋で彼女は”その話”を始めたのだった。
「そんなに簡単に忘れちゃうものかな?」
デミグラスソースが白い皿の上に微かに残るそれをお店のおばちゃんが下げた。「珈琲すぐにお持ちしますね」とにっこり微笑んだので、「お願いします」と言って僕も微笑みを返した。
「忘れちゃったのよね。自分でもそれを納得できなかったんだけど、どうやっても思い出せそうになかったのよ。……ほら、シンジ君も好きだった人の事を思い出してごらんよ?彼女の細かい部分を思い出せる?」
僕は昔好きだった人を思い返してみた。確かに今まで何人かの女性とお付き合いをしてきたのだけど、それらの人の細部をうまく思い出すことはできなかった。
「僕が好きなのは、ナミさんだよ」
と目の前に座る彼女の名前を言った。
「そういうのはいいから、ほら、思い出してみて」
と急かすように言うけれど、彼女は少し嬉しそうだった。
「うん、思い返してみたけど、……覚えてなかった」
「ね?そうなの。人間って人の細かい部分を見てその人の事を愛おしいって思うじゃない?だけど、時間が経っちゃえば、その愛おしかった部分なんてすぐに忘れてしまうのよ」
「むしろ何を見て好きになったんだろうね?」
「そう、そこなのよ」
お店のおばちゃんが僕たちのテーブルまで来て、珈琲を二つテーブルに並べた。「ごゆっくりどうぞ」と微笑んだので、「どうも」と言って僕も微笑んだ。
「この人の”ここ”が好きって言うことあるでしょ?その”ここ”がそういった細部だった時は、疑った方がいいね。だってすぐに忘れちゃうんだもの」
彼女はそう言ってから、珈琲を飲んだ。僕もそれにつられるようにしてグラスを手に持って、冷たい珈琲を口の中に流し込む。
「あ、でも、僕は人の雰囲気を見て好きにあることがある」
「雰囲気?」
「そう、雰囲気。その人の空気っていうか、その人が纏ってるものに対して、いいなって思うことはあるね。……考えてみれば、今まで付き合ってきた人ってみんなそういう感じで好きになったような気がする」
ナミさんは僕をじっと見つめた後に、「でもそれは正しい」と言った。
「だって、結局最後まで覚えていられるのでシルエットとかそういったものだけだもん」
シルエットという言葉が僕には少し引っかかった。
「シルエット?……僕が言う雰囲気っていうのは、もっと内面的というか……、シルエットで外側から見た時のことだよね?そうではなくて」
と言い足していう時には、彼女は僕の言葉を遮るように
「雰囲気がシルエットを作り出すのよ」
と言った。その言葉には少し納得したけれど、そして、まるで僕を諭すようなその言い回しがナミさんの持ち味でもあった。10個の歳の差を生かしたその特権が、彼女にとっても、そして僕にとっても居心地のいいものだった。
「でもね、私も最初は雰囲気?みたいなものに惹かれるような気がするの。目元だとか、腕だとか、そういったものってその後に、何か無理矢理にでも理由付けをしようとして好きになっているような気がするのよね。……だから忘れちゃうんだと思う。その細かな至るところは、本当はそんなに愛でていないんだとも思う」
「またそれは随分と極端な……」
「だって、そうじゃなかったら忘れないと思うから。その人の全てを忘れる訳じゃなくて、そのいくつもの細部だけがすっぽりと忘れ去られちゃってるのよ」
そして僕たちは少し黙って珈琲を飲んだ。氷が溶けて、グラスの表面にはいくつもの水滴がまとわりついている。
「じゃあ、もし……。もしだけどさ、僕たちが別れたとしたら、僕はナミさんの細部を忘れていってしまうのかな?」
「そうね……」
一度息を吐き出してから「そういうことになるわね」と足した。
「でも、ナミさんのシルエットは忘れない、と」
「きっとね。本当に嫌だったら、もしかしたら忘れてしまうかもしれないけど」
「それは、どうだろう」
「分からないわね」
「ナミさんは僕の細部で気に入っているところがあるの?」
僕がそう聞くと、彼女は一度目を大きく見開いてから、少し俯き、考えを巡らせた。「そうね……」と言った後に、また考えていた。
「あれ?ないのかな」と僕が茶化すと
「ないかもしれない」と俯いたまま言った。
「珈琲のおかわりいかがですか?」とお店のおばちゃんが僕たちのテーブルに来たので、
「おかわりもらえるんですか?」と僕が聞いた。ナミさんは俯いたまま、まだ考えていたから。
「一杯まではサービスなんです」とおばちゃんが言ったので、
「じゃあ、いただきます」と言って、僕とナミさんのグラスを差し出した。ナミさんはまだ考えている。
おばちゃんがグラス二つを下げて奥へ戻った後に、
「そんなに真剣に考える必要なんてないよ」
と僕は言った。
「うーん、そうなんだけどね……」
僕の方に目を向けて「ぱっと浮かんでこないのよ」と言って、肩を落とした。
「どうせ忘れてしまうことなら、何もない方がいい」
「そうかもしれないけど……」
「ナミさんは僕のシルエットだけを見ていてくれればいいから。ナミさんにとっての、それが僕の全てだから」
「うん、ありがとう。もし別れても、そのシルエットだけは忘れないと思う」
「うん。ありがとう」
”ありがとう”という言葉をこの場面で使うことに、多少の違和感を感じていたけれど、僕はそう言った。側からから見たら奇妙な会話だったかもしれない。だけど僕たちの関係における、こういった会話は僕たちの関係を築くうえでの重要な糧だった。
普段の差を埋めるように、そしてその糸を紡ぐように、僕たちは僕たち二人の会話をして繋がっているんだ。
おばちゃんが珈琲を持ってきて、テーブルに置く。
「私だったら、あの人のシルエットは忘れられないわね」
そう言ったおばちゃんの視線の先には、厨房の奥にいる、まるまる太った旦那さんと思われる人がフライパンを振っていた。
僕とナミさんは顔を見合わせて、少しの間を置いてから、小さく笑い合った。
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