忘れないひと、雄勝。
僕は涙師です。最後のひとりです。そして、最初のふたりです。
涙師のひと、
不安になること?
ありますよ、だって世界の何でもが不安定じゃないですか。
僕だって一端の生き物ですからね、
怖いものや汚いもの、いろいろありますよ。
はい、そうです。
あの人が僕を変えてくれたんです。
言葉や、行動や、いろいろな感情、嘆きを教えてくれたんです。
この姿に生まれてきてよかったなんて、
今更、考えてはいるのですけれどもね。
そうです、僕は受け継いだのです。
この名前を、
「涙師」(なだし)というステイタスを。
後悔なんかしていないですよ、
だって、もう誰にも頼らずに、こうして二本足で歩いて行ける、
そんな自分の世界が広がっているのですから。
(「涙師のひと、」/原作:雄勝なだし/編集:藤森圭樹/H27.9.14)
先生に話すひと、
ひとは、なぜ死んでゆくのだろう。
そして、どうして忘れられてゆくのだろう。
それよりも、何よりも。
君の世界には、色があるのかい?
僕は忘れない。
一生、この胸に刻み込んでやる。
たくさんのひとたちの、気持ちをではない、
そのひとたちの、ひとらしさを、
僕はいつまでもずっと忘れやしないんだ。
「ああ、あれはひまわりよ」
手をつないで歩いている親子がいる。
僕はそのふたりの後ろを歩いていた。
「そうねえ、ママはひまわりが好きだけど、本当のひまわりは嫌いよ」
怪訝そうに子供が母を見上げる。
「それって、僕のことですよね」
僕はふたりの間に入り込んで、顔だけ母親に向けた。
「な、なにッ?あなた誰」
母親は子供を抱き抱えて、後ろずさって叫んだ。
「大丈夫ですよ、多分僕は誰にも見えませんから」
「な、何なのよ!」
「いわば、死神のような者です」
僕は黒のタキシードを着ているのだが、
その脇からステッキを出して、その先端に右手をかざした。
「ひまわり、日周り、火廻り、まあ、いろんな言い方をされます」
「いや、いやよ!死にたくなんかない!」
火を囲んで、その周りを廻る。
ステッキから出した火が、僕とふたりの周囲を囲んだ。
「はい、ここまでです。真奈美さん、そして章吾君、お別れして」
あっけらかんとして、子供は母親を見上げる。
母親は、すっかりしょうきを失っていた。
見えているのだろう、自分の行先が。
「章吾君はここまで、では真奈美さん行きましょう」
「ええ」
「章吾君は、ここまで。」
僕はもう一度言い直して、母親の手を取った。
「ママ、」
「章吾君は、ここまで。」
泣きすがる子供の手を払って、僕は母親の背中を押した。
同時に、電車がその後ろ姿を消し去った。
「ええ、そうでした…彼女はひどく疲れていました。夫から受ける暴力もそうでしたが、
夫の両親にも、長年に渡る不妊治療で資金が枯渇したことを責められていました。
やっとの末に授かった子供も、精神遅滞という状態。
普通とは何か、をよく考える女性でした。それゆえに、自分を責め続け、
一生をかけて忘れて欲しいと願い始めたのです、
自分の存在など、と嘆いておられた。
そんな彼女の死は、誰の目にも留まらないのか?
僕は何度も周囲を歩いてみました。
そんな時、いつも見かけるのは、泣いている彼女の後ろ姿でした。
どんなに倖せが近くにあろうとも、それを見なかったのは、その後ろ姿でした。
自分から、自分を追い出していったのです。
そんな彼女を誰が覚えているでしょうか。僕すら忘れそうですよ。
いかに自分の立場が片側交互通行だったとしても、
いずれは相互通行になるというのに。
ああ、この前これは工事現場で見てきましたよ。ちょっと時間がかかりますが、
いつかは便利なひとつの対面道路になるのですね。圧巻です。
そうそう、きっと彼女はひとりで孤独を感じていたのでしょうけれども、
忘れないひとは結構いるものなんですよ。
例えば、彼とか」
僕は右手を前に差し出した。
そこにはもう、立派に成人式に参加する章吾君がいた。
「何年経ったのかなあ、たくさんの周りの方に支えられて、彼も成人式を迎えました。
見たかったでしょうか、あの母親は。
おそらく、それさえも見えていなかったんでしょうね。
ひととは恐ろしいもので、
きっと忘れないであろう姿を忘れ、忘れるだろう姿を忘れず、
そうして生きていくのが、ひとなんですね。
僕はそんなことを、今日は思いました」
右を向くと未来が見える。
彼はたくましく工事現場で働いている。
一生懸命な姿、それを僕は忘れまい。
そう、僕は忘れないひと、だから。
ええ、そうですよね、先生?
(「先生に話すひと、」 原作:雄勝なだし/編集:藤森圭樹/H27.9.14)
岬めぐるひと、
ここから先は危険ですよ。
僕はそう言って、彼の手を取った。
「邪魔すんな、百合子、今行く、」
彼は僕の手を感じているであろうに、目の前の惨事にだけ集中している。
今、まさに崖崩れが起き、山道を走っていた車が流されたのだ。
運転していたのは、彼。
助手席には彼の婚約者、百合子が乗っていた。
「百合子ッ…!」
手を伸ばすが、空を切るばかり。
現に彼女は首を横に振っていた。
「だめッ…早く逃げて!」
「百合子、お前と一緒に行く!」
「違う、あなたを」
そうですよ。
僕はふたりの間に入り込んで、彼ににこっと笑った。
「僕が迎えに来たのは百合子さんじゃないですよ」
彼はまだ一生懸命崖から落ちた彼女を救おうとしている。
しかし、ぬかるんでいたのは彼女の足元ではない。
彼の足元も、今まさに崩れようとしていた。
「私じゃないのッ…!あなたが危ないのよ!」
早く逃げて!そいつから逃げて!
「そいつとはあんまり聞きたくない乱暴な言葉ですね」
「見え…ないの?」
彼は彼女しか、彼女しか見えていないのだ。
おそらく、無意識に僕を遠ざけてしまっているのだろう。
僕という、存在から。
「大丈夫だ、今助けを呼んでくる!」
彼女がこのまま下に落ちてしまうのだけは避けたかった。
と彼は心の中で思っている。
そう、倖せは本当にもう、目の前にあったのだ。
崩れた山道を全力で走った。
僕は仕方ないので、その彼の伴走者になった。
「百合子ッ…俺は本当にお前と倖せになりたいだけなんだ…!」
時として、恋は盲目とは言ったものだけれども。
「こんなところでーッ!」
ふたりは結婚間近ということで、熱海の温泉に旅行に来ていた。
少し道に迷ったのが、この峠である。
あたりは暗くなってくる。
先程まで美しく姿を見かけられた海が、
どんよりと大きな何かの存在に思えた。
今頃、彼女は救い出されている。
僕はふいっと後ろを振り返った。
「百合子さんは助かりましたよ」
聞こえないのだ。
「その、あなたが知っているはずでもない、お腹のお子さんもです」
彼は泣いていた。
「俺が旅行に行きたいって言わなければ、俺が、お前と出会ってなければ」
ここまで僕が見えないのは非常に心苦しい展開でもある。
もう、時間がないというのに。
「引き返してください、ここから先はもっと被害の多い坂道です」
「百合子ーッ」
「いくらスプリンターだったあなたでも、この勾配はきついはずです」
途中、彼は何度か転んだり倒れたり、よろめいたりした。
当然の話である。
彼はもう、限界だった。
最後に倒れたのは、事故現場から5キロほど街に近づいたところだった。
「僕だって好き好んで走ってるわけじゃないですからね」
「ああ…ッ、お、終わりッ…か」
両足から血が大量に流れ出ていた。
それを確認して、彼はあははははと大の字になって笑いだした。
「血が出ちまった、よッ…!」
できるだけ、僕も倖せなひとを覚えておきたいのだけれども。
彼の場合、血友病という病気を患っていた。
普段は出血さえなければ、普通の生活ができる。
ただ、怪我をした、という時に出血してしまうと、
その固まりにくい血がどんどん出て行ってしまい、
ついには失血死してしまう。
「百合子…俺は…倖せだったはずだ…俺たちは…倖せになるはずだったはずだ…」
「残念ですが、もはや倖せになっていましたよ」
「こんなに…誰かが自分を好きでいてくれるのは…初めてだったんだ…」
「僕は誰でも好きですけどね」
「俺も…こんなにひとを好きになるのは…」
そこで、彼の目が閉じた。
僕はしゃがみこんで、その彼の目を拭った。
「ひとの…涙ってあったかいんだなあ」
数日後、彼は再び起きた土砂崩れに巻き込まれた形で見つかった。
ショックを受けて彼女は記憶を失った。
ただ、お腹の中の子供だけは、無事だった。
「また忘れられちゃったな…」
でも、と僕は病院の廊下の端を歩く。
「僕は忘れない、どんなに時間が経っても。それをいつか、その子に伝えたいよ」
(「岬めぐるひと、」 原作:雄勝なだし/編集:藤森圭樹/H27.9.14)
嬉師のひと、
どれだけのことをしてでも。
「君が涙師だね」
不意にこころがざわついた。
「ここ、いいかい」
「ええ勿論」
僕は列車に乗っていた。
迎えに来たのは君じゃない、隣のボックスに座っている小さな少年だ。
「僕が見えているってことは、そういう関連の方ですね」
「誤解しないで、俺はそういうことはしないの」
俺、と言った君は何かに似ていた。
嫌だなあ、なんだか調子が狂う気がしてしまう。
「あの子を迎えに来たんだ?」
「そうですよ」
「ふうん」
「…、君は何か僕に用でも?」
「ううん」
掴めそうで掴めない雲のような応対だった。
少年は窓を大きく開けて、入り込んでくる強風でその帽子が飛ばされてしまった。
「あ!」
少年が身を乗り出そうとして、それを君が首根っこを捕まえてしまった。
本当なら、それが今日の最後の仕事だったのに。
まあ、ひとの死んでいく様を僕はそうそう好きではないし、
条件が違ったとしても、いずれはそういう運命なのだから、
放っておいても、と僕はため息をついた。
「危ないぞお、お前」
「ありがとう、お兄ちゃん」
また僕の横に座り直して、君はチラチラと僕を見てくるのが伺えた。
「今日は出番なしかな」
「おい涙師」
「なんです」
「どこ行くんだよ」
「もう帰ります。疲れたので」
「じゃあ俺も行く」
「そういうわけにはいかないでしょう。君は少年を助ける側、なんでしょう?」
噂には聴いていた。
涙師とは言い方次第で、「死神」である僕たちが唯一対立するもの。
相反するもの。
「そう、俺は嬉師(きし)だよ」
君が現れたということは、何かのミスだろうと思っていた。
僕はもう一度座席に座り直して、その横にまた君が座った。
「なあ、涙師」
「普通に呼んでくださって結構ですよ」
「普通って?」
「僕の名前は、涙師ではありません。雄勝といいます」
「おが、ち」
「生まれたところの名前です。覚えてはいませんが」
「じゃあ、俺も」
君はきちっと着こなしている黒いスーツの内ポケットから名刺を取り出した。
「俺は嬉師、名前は惟親(これちか)っていうんだ」
これちゃんって呼んでね、と言うのと同時に、
「却下」
僕は受け取った名刺を内ポケットに入れて、そのまま腕を組んで目を閉じた。
しばらく経った頃だろうか、随分と静かなもので、君はもういないんだと思った。
少年はもういない。
僕もここにいる意味がない。
また別なひとのところへ行かないと。
そんな時、ぎゅうと手を掴まれた。
驚いたのは僕じゃなくて、君の方だったようだ。
「よく眠れたかい?」
「まだいたんですか、帰らないのですか?」
君のことも覚えておきます、忘れませんよ。
そう言って僕は客車を後にした。
君はついてこなかった。
ブラブラと街角を歩く。
ウインドウショッピングなんてよく言ったものだ。
窓越しにいろんな作品を見ては、気に入り、購入する。
それを部屋に飾り、もしくは大切なひとに贈り、
同じものを共有できるひととつながっていくんだ。
気が付けば、空からは雪が降ってきていた。
さすがに、タキシード姿で出歩くのは悲しい。
何か、コートでも売ってはしないかと僕はそのショッピングに参加することにした。
しばらく歩くと、一軒の呉服屋に当たった。
素敵だ、と思ったコートがあった。
「あれじゃあ、きっともう君はカラスになってしまうよ」
「!」
僕は飛び退いた。
「あはは、君はやはりまだ子供だね」
君はどこからやってきたのか。
それを語るのは簡単だった。彼の背中には真っ白な翼が生えていた。
「君は本当に嬉師なんですか」
「雄勝、それは愚問だよ愚問」
「まあ、こんな僕が涙師ですからね、駆け出しだけれど」
惟親、と言いかけて口をつぐんだ。
「そうだよ、読心術も心得ているしね」
これちゃんて呼んでよう、と甘えた声をだして、君、もとい惟親は面白そうに、
心の底から笑っていた。
「じゃあ雄勝、正直に言おう」
「はい」
「俺はね、普段はこの世界には来ないんだ。いても意味ないしね。
それくらい世界が汚れてしまっている。わかるだろう?この地上の灰に、
俺の自慢の羽がもう、やられちまった」
「ええ、だから僕は灰にまみれる側ですから、そっちには帰れません」
「雄勝を迎えに来たのは、わかるね?」
「多分そうだと思いました」
でも僕は、と首を横に振った。
「この白い雪が君の羽を癒すのはよくわかります、でも僕にはまだまだやることがあります。
それが終わったら、帰りますと伝えてくれますか」
惟親はただただ笑って、そのまま雪の中に消えてしまうのではないかとばかり、
そればかりが不安だった。
「分かった」
惟親はにこっと笑って、僕のコートの胸ポケットに自分の羽を挿し入れた。
「雄勝の言いたいことを代弁しておく、さあ」
少しだけ僕より背が高い惟親が上半身をかがめた。
僕は前髪を上げて、額を惟親の額に当てた。
その時に、流れ出した街角の教会のベルが、僕の気持ちを代弁していた。
そして、いつか戻るであろうその源にも、
惟親がこの言葉を届けてくれるのであろうと、
それが大変に助かってしまっていた。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「うん、わかったよ」
風邪、ひかないでね。
そう言って惟親はマフラーを僕の首にふわっと巻きつけた。
さあ、行こう。
僕はマフラーに一瞬顔を埋めてから、
止まっていた足を更に前へと進ませた。
思えば、今日はクリスマスイブだったようだ。
(「嬉師のひと、」 原作:雄勝なだし/編集:談合坂ヒサ/H27.9.14)
忙しいひと、
ガタン、という音で彼は目を覚ました。
「あ、ああ…」
初老のその男性は、手探りでメガネを探し、それを逆さまにつけ、また逆さまにし、
「ああ、もうこんな時間か」
目をぱちくりとさせた。
「行かなければ」
彼は車を運転する。
睡眠時間、わずか30分。
その助手席に乗るのは僕でも怖い。
「塩湖…」
懐かしいな、と彼は目を細める。
「君と初めて見たこの星の遺産だ」
僕は窓から顔を出した。
どこまでも続いていく、透明な空と大地。
「もう、君はどこにもいないのに、こうしてこの世の中はまだ回っているんだね」
車はやがて大きな港についた。
車のキーを船員に渡し、彼は大きなカバンを一つ持って、フェリー乗り場に向かう。
僕も助手席から降りて、そのあとを追う。
「さて、」
無事に乗船処理を終え、彼は風が吹き抜けるデッキで原稿用紙を取り出した。
バインダーに挟まったそれを風になびかせ、
彼は万年筆でさらさらと何か書き留めていた。
僕はその横に立ち、その様子を眺めていた。
「ああ、そうだった」
五分程すると、彼はそれをカバンにしまい、食堂へ向かった。
「朝ごはんがまだだったな」
テーブルは小さかった。
二脚の椅子がギリギリ何とかおさまるくらい。
「前に君と食べたエッグベネディクトだ」
懐かしいな、と言いつつ、
「ああ、そうだ」
彼は食事が終えるまもなく、立ち上がった。
向かいに座っていた僕も立ち上がってあとに続く。
「シャワーを浴びていなかったな、もうすぐ夏も終わるがまだ体が臭う」
向かったのは彼の部屋だった。
僕はマフラーを巻き直しながら、その様子をただ伺っていた。
「そうだった」
シャワールームから彼の声が聴こえる。
「読みたい本があったんだった」
向かったのはフェリー内の小さな図書館のような場所。
キヨスク、と書いてある。
新聞も、雑誌も、簡単な食事や気分転換のタバコなど、
いろいろなものを置いてある店だ。
その売り場にはひとりの売り子がいて、彼女は恐るべき速さで接客応対している。
「それをくれたまえ」
彼は一冊の文庫本を指さした。
「ありがとう」
彼は過剰包装を嫌って、すぐにその本を受け取り、足早に歩き始める。
「君が初めてわたしに教えてくれた文章だったね」
僕は彼の後ろを歩いてみたり、横を歩いてみたり、前を先どってみたりするのだが、
どうやら今のところ、彼は僕が見えないらしい。
おかしいな、僕はもう、ここにいるのに。
「ああ、そうだった、そうだ」
またか、と僕は少々困った顔をしてみせる。
「君に花を贈ろうと思っていたんだった」
僕は彼の横を歩いていた。
彼は僕の横を歩いていた。
そして、君は僕の後ろからやってきた。
「ジェームス!ああ、ジェームス!」
「マト、マトルーシャかい!」
マトルーシャ(彼曰く)は真っ赤なショールを羽織っていた。
彼、ジェームスは振り返って、その彼女を目に映した。
「ああ本当にマトルーシャなんだね、わたしを迎えに」
「あら、人違いだったわ、ごめんあそばせ」
周囲の人間も失笑していた。
バツ悪そうに、彼は落胆する様子を大げさに見せていた。
「しかし、わたしはどうしてこうなんだろうね、君はもういないというのに」
ジェームス(彼女曰く)は、いや、そうではない彼は、
僕の横でしばらく惚けていた。
久しぶりに、というよりも、初めて見せる静止画のようだった。
「もう、思いつかんよ、マトルーシャ…」
「やっと、僕が見えたみたいですね」
「ん?」
「マトルーシャはいませんよ。もう柊が迎えに来たはずですから」
「ああ、そうか…わたしがここにいるのは、君がもうここに来たからなんだな」
彼は僕の頭をポンポンと叩いて、ふうと息を吐いた。
「しかし、時期はずれだと思わんかね、涼しくはなったがマフラーなど」
「僕の宝物なんです」
「そうだ、そうだったね、マトルーシャを迎えに来た方も、そんなことを言っていたよ」
「何年も前になりますね」
「ああ、わたしがこの世界の最後のひとりになった、そういう仕組みだからね」
彼は知っていた。
そして僕も思い出していた。
柊というのは、僕の前の代の涙師で、引き継ぎを受けたのは僕自身。
もう、何年前になるだろうか。
「船員も、売り子も、彼女も、もうすでにいないことくらいはな」
「お分かりでしたか」
「みんな動くだけのロボットだ、会話もできるがそこには色がない」
「ええ、命はもうどこにも在りません」
「でも君は素敵な格好をしているね」
「これが僕の正装なんだそうです、僕自身暑さも寒さも感じないので、
このように、マフラーができます」
「そうか、まるで随分昔の自分を見ているようだよ」
それにしても、と僕は言いかけてやめた。
デッキの中に入ってくる風が美しいままで、彼はハンモックの上、
ウトウトとしていた。
「そうだ…あれもしなければならなかったんだった…」
できそうもありませんね、と僕は目を伏せた。
この星に生きた、最後のひとりを連れて行きます。
僕は忘れません。
この、忙しいひとを。
そして、この星の最期の瞬間を。
それがきっと、僕の今日やるべき仕事のひとつですから。
「ジェームス…」
僕は振り返らない。
「私よ、マトルーシャよ…あなたを迎えに来たわ…」
僕は振り返らないまま、口の端を少しだけあげてみた。
(「忙しいひと、」 原作:雄勝なだし/編集:藤森圭樹/H27.9.15)
夢見るひと、
「普段から気をつけていることは、誰にもあります。
僕は、朝起きたらすぐに、頭を二段ベッドの天井にぶつけないように気をつけています。」
その日記帳には、もう何も書かれていない。
僕はそのインクの跡を指で辿り、そのまま視線だけ移した。
彼はまだ、眠ったままだ。
「いつまで、夢を見るの」
傍に、彼の母親が座り込んでいる。
母親には疲れの色がにじみ出ている。
しかし、僕がここにいることには、気づいていない。
「知ってるわよ、そこにいるんでしょう」
見えない、はずだ。
そういうふうに僕はできていると、言ったじゃないか?
「夢を見続けて…勝手にバンドなんかやって…今も母さんを恨んでいるんでしょう!」
違った。
母親は視線を僕ではない、廊下に向けた。
見えているのか、アレが。
「でもね、母さんは許さない、勝手に勝手に何でも決めてしまって!」
廊下で、僕と、寝ている彼と、すがる母親と、3人を見ている冷ややかな目、
それは、間違いなく彼そのものだった。
僕のような生き物には、普段見えないようなものも見えてしまうことがある。
まだ、僕は駆け出しの涙師で、つい先ほど研修を終えたばかりだというのに。
「君は黙っていてくれ」
彼、は彼、である。
黙っていてくれと言っている自分が、自分を見ている。
不思議な構図だと思った。
「母さん、聞こえてはいないんだろうけど」
僕は視線を母親に移す。
「僕はもう、生まれ変わったんだよ」
夢を見て、世界を追いかけた。
有名になって、マケンギな自分を見せつけたかった。
だのに、僕は諦めてしまった。
我が家という小さな箱庭で、僕は育った。
厳格な父と、心配性の母親。
どこにでもあるような家庭だった。
反抗期があった。
父親に殴られたこともあった。
「お父さんやめて!」
母さんが代わりにぶたれることもあった。
反動で僕は家を飛び出した。
運悪く、僕は家の前で車に轢かれた。
意識を手放してしまった。
あれから何年経ったか知れない。
父さんはますます厳格になり、
母さんは毎日僕に泣いて話しかけた
春の陽気と、夏の厳しい暑さ、秋の暮れゆく夕闇と、冬の空気がしんとすること。
僕はずっと廊下に立ち続けていた。
色が褪せていくように、僕は母さんの白髪を見つめてきた。
「もう、いいんだよ」
廊下から部屋の中に入れずにいる彼を、僕はどうすることもできずにいた。
ただ、柊からもらった言葉を探していた。
「僕が、僕、が…」
「大丈夫、君が来ることは分かっていた。今日にもここから、とは思っていたんだよ」
「でも、僕は」
「君が来たことは単なる、きっかけなんだよ」
僕はもう一度、生きていきたいと願ったんだよ。
彼はそう言うと、足を部屋に踏み入れた。
途端、
バチッという音がして、その足が焼け薄れていく様子が見えた。
「あ、だ、ダメだ…!」
「大丈夫、僕はもう動かないといけない。これ以上、誰も傷つけたくないんだ」
バチバチと火花が散る様子。
僕はだらだらと涙が流れ出ていくのを止められなかった。
戻ってきてくださいと言ったかも知れない。
行かせてくれと言われたかも知れない。
やがて、顔から上だけの姿になり、彼は母親の顔に優しく微笑んだ。
「僕はもう、ここにはいなくなるけれどね、もうすぐ、流れるよ」
ブツッと違う音がした。
僕はその音の根源を見た。
ラヂオという音声を媒介する器械だ。
そのスイッチが入ったみたいだ。
「では最後の一曲に参りましょう。えと、このおはがきをくれた方、ありがとうございます。
メッセージもありますね、ご紹介しましょう」
バチバチと音が止むことはない。
彼は消えかけている。
「母さんへ。えと…、」
DJが声を詰まらせる。
「ごめんなさい、これを伝えることがあたしの仕事よね。メッセージ。
母さんへ。僕はもう一度、母さんのもとへ帰るよ。そのときが来たら、連絡する。
わかるかな、もうじきだよ。
…えと、では曲に行きます。ペンネーム、夢見るひと、さんより頂きました、
ユーミンで、卒業写真」
どういうこと?という顔をするのは僕だけだった。
「卒業…写真」
ハッとなって母親が彼のアルバムを本棚から取り出した。
中学校の卒業写真、その中に彼の姿はない。
僕は母親の後ろ側からその写真を覗き込んだ。
「後ろ、」
僕は写真の後ろ側(①)を指さした。
「夢…」
殴り書き。
「なぜ気がつかなかったのかしら…」
目覚めたらそこにはもう、家族がいるんだよ。
二段ベッド。
その天井(②)に、殴り書き。
父さん、母さんにもう少し優しくしてくれよな。
父さんが手に入れたトロフィーの底(③)。
そこに殴り書き。
母さんも、たまには休んでくれよな。
至るところに、彼からのメッセージが紛れていた。
そのひとつひとつに、祈りが込められている。
そう僕は感じていた。
いつの間に、という声がして僕は母親と一緒に振り向いた。
父親が立っていた。
もうすでにそこに彼はいなかった。
「こんな、いつの間に…」
「お父さん、夢が…夢人がこんな」
少しの静寂の後、ふたりはクスクスと笑いだした。
ちょうど、卒業写真が終わった時だった。
「そう言う僕はね、」
帰り道、僕はその声に振り向いた。
「いつまでもこんなことしていられないって思ったんだよ。そうしたら、
目の前に自分がいたんだ」
それこそが生まれ変わるチャンスだって思ったんだ。
魂は飛んだよ、いろんな方向へね。
そうだ、最後に君から伝えてもらえないかな?
僕の体を、どうか使ってくださいって。
もうすぐ心臓が止まるはずだから、早くしてね。
僕はもう、生まれ変わる手はずを知ったんだよ。
「ええ、そうしましょう」
(「夢見るひと、」原作:雄勝なだし/編集:藤森圭樹/H27.9.16)
ここに居るひと、
僕は何度もメッタ刺しにされていた。
アンタが、アンタがいなけりゃあ、と彼女は僕を何度も刺した。
それでも僕は死ねないのに、彼女は息も絶え絶えにそれを繰り返した。
「アンタがいなけりゃあ…あああああ!」
とうとう崩れ落ちた彼女が、ナイフを手から落とした。
僕は破れたタキシードを少し撫でて、
「気が済みましたか」
そう言った。
目の前で繊維がズルズルと音を立てて組み合わされていく。
服は元通りになった。
「アンタがあたしを迎えに来たから!だから、だから!」
「はい、そうでしょうね」
「あたしは…まだ生きていたかったのよ!」
「ええ」
「ここに、居たかったのよぉ…!」
僕も彼女の視線の先を見た。
彼女も、その光を見ていた。
「善様…」
僕は軽く会釈をしてみせる。
「おや、今度はこの子かい、雄勝」
「ええ、連れてきました」
「どうやら今回は厄介なようだね、よし、こっちへおいで」
善というのが、この世界の神様の名前だ。
ぜんあくの善であろうとは、僕は思っているのだが。
「君、名前は」
「ないわ」
「そうか、ならば素敵な名前をつけようか」
「そんなの要らないわ」
「理というのはどうだろうかね」
彼女は目を丸くしている。
「こと、わり?」
「随分ひねったものなんだがね、どうだろうか」
神様の力、と言うべきか。
善様はその、彼女の母親を呼び出した。
まだ、現世にいるようだけど、彼女は勘違いしているんだろうか?
「お母さん、なの?」
タバコを吸っては、吐き…母親は気だるそうに、髪をかきあげた。
「誰よ、アンタ」
その言葉に彼女、コトワリはひどく怯えた。
「知らないんだけど、マジで」
僕は胸をぎゅうと掴まれたようになり、息が苦しくなった。
「何、金?金くれんの」
母親はタバコを足でもみ消した。
「金、いくら出せる?アタイ、男でも女でも相手するけどさ」
「おかあ、さん」
「何、アンタ、勘違いしてね?アタイ、まだ誰も産んでませんけど」
アハハと母親が笑う。
善様はそんな様子を僕に見せたかったのか。
なんだかその力に悔しさを感じた。
「用ないなら、帰んな」
バカ野郎!と彼女は母親に食ってかかる。
「アンタが!アンタがあたしを産んだくせに!あたし、もう死んじゃったのに!」
僕は少しかぶっていた前髪を撫でた。
「何でアンタは生きてんのよーッ!」
チャキ、という音がして、彼女は落ちていたナイフを手にとった。
「殺す!マジ殺す!」
そのナイフに刺されたのが、僕ということだ。
話が前後した。
「雄勝、どきなさい」
善様は彼女の手の中をぐっと握った。
「いいかい、自分を見てごらん、理」
「え…!」
善様の手から血が滴り落ちる。
「君はもう、死んだ」
「あ、あ…!」
だらだらと血が垂れる。
それが水たまりのようになり、善様の手の中の皮膚まで落ちていた。
「残念ながら、わたしたちは人間により近い存在でね。
こうして、血まで流れているんだよ」
善様は僕にそう言い、また彼女の方を向いた。
「ここに居たいかい?まだ、ここに居たいかい?」
「いやよ…!もう捨てられるのはもういや…!」
「そうだ、君は母親に捨てられた。コインロッカーの中で泣いていたんだろう。
それを助けてくれた雄勝にお礼を言いなさい」
彼女はものすごくおどおどした表情で、僕を見た。
ナイフを、また落とした。
「アンタ…があたしを見つけてくれたの?」
「はい」
途端、彼女の体から光が溢れ出した。
これが再生か、と僕は目を細めた。
「あたし、生まれ変われるの…?今度は倖せになれるの…?」
「保証はできませんが」
光の中で彼女は初めて、微笑んで見せてくれた。
僕はその顔に、衝撃を受けた。
「おやおや、雄勝、女の子は初めてだったかな」
「いや、その…」
「わたしも長らく神様してるけどね、最後はみんな、いい笑顔を見せてくれる。
…さあ理、行きなさい」
「うん…」
彼女は振り返りざま、僕を見て目を伏せた。
「ごめんね、あたし、アンタを勘違いしてた」
「それはもう、いいんです」
「あたし、生まれ変わりたい。もう、アンタたちの世話にならないように、
倖せになってやるから」
「はい」
光となって、彼女は昇っていく。
「これが、再生だよ」
善様は手の中の傷にふうっと息を吐いた。手も、再生されたようだ。
「ひとは皆、きちんと理由を持っている。生きる理由をだ。君ももう、特殊な形になったけれど、
それでも必要としてくれる人が居るはずだ。それを探すのも、涙師としての宿命だろうね。
いいかい、雄勝。彼女たちを忘れてはいけないよ。忘れないひとになりなさい」
「はい」
うっすらとこの世界から遠ざかる頃、
「ああそうだ」
善様はバツ悪そうな顔をして、
「今度、わたしの息子に会ってやってくれないかな雄勝」
「え…?」
「まだまだ駆け出しの君には必要な存在だと思うけれどね」
そう言って、善様は消えた。
僕も、ここを立ち去ることにした。
「ママー!」
どこかで、誰かが楽しそうに、倖せそうに、
僕の耳を撫でるように、
その声が聴こえる。
「なーにー、理!まーたかくれんぼのつもりー?」
「探してママ!」
「どこまでも、探しに行くわよ!それーッ」
「きゃー!」
僕は振り返る。
ああ、いつかまた君に逢えそうだね。
(「ここに居るひと、」原作:雄勝なだし/編集:藤森圭樹/H27.9.17)
友を装うひと、
どうかしていたのかな、ステッキを落としてしまった。
僕は慌てて車内を探した。
冷や汗をかきながら、一生懸命考えた。
最後に使ったのはあの公園だったから、戻ってみようか?
「惟親、さっきの公園に戻って欲しい」
「アイアイサー」
「だから!私はそんな子知らないってば」
「そうよそうよ、あたしたちは知らないって」
「ねー」
「ねー」
四人は最後まで首を縦に振らなかった。
「でも、彼女は遺書まで書いてます」
「何で私たちが怪しまれるのかしらねえ」
「ねえ」
僕は咳払いをした。
「とにかく、彼女を天に見舞ってやるのが僕の仕事ですから、
そのためにも正しい情報を得なければならないんです」
「おやおや、雄勝じゃないか!」
邪魔が入った。
僕はため息をついて、後ろを振り返った。
「やだー!何あの人、超かっこいいんだけど!」
「芸能人?アイドル?サイン欲しい!」
「まあまあ」
惟親は車から降りて、のんびりと歩いてきた。
「おやあ、女の子に囲まれて嬉しそうだね!」
「惟親、君には今回の案件は」
「関係あるんだねえ、俺にも」
天に見舞うのは僕のはずなのに、今になってなぜ嬉師の惟親が?
それよりも何よりも、彼女たちは知らないのだ。
「僕が見えている」ということの本質の話である。
「あの子はもう旅立ったはずだ、だのに君たちはまだここにいる」
「え?何の話?」
彼女が、寂しそうに歌っているのを聞いたことがあるか?
惟親は羽をひとつつまんで、ぶちっと切り離した。
「あいたた」
「やだ、あれ本物の羽なの?すごいんだけど」
「マジうける!」
その羽を手のひらに乗せると、その羽が映像モニターを作り、そこに彼女たちを映し出した。
「俺は君たちを倖せにするためにここに来たんだ」
当然、と惟親が僕にウインクする。
「当然、これは俺の仕事だよ雄勝」
「君たちは幸福になるべきだ。わかるね?わかるよね?」
僕はステッキを振ろうとしていたのだが、それを阻むかのように、惟親が僕の目の前に立った。
火周りもできないなんて涙師失格だ。
「永遠に、倖せになっておくれ」
きゃ!とひとりが悲鳴をあげた。
「も、燃えてる…!」
「え、やだ、何!」
惟親が使ったのは間違いなく、「火周り」だった。
「しょうがないよね、お友達でも何でもないんだもんね」
「これ、」
言いかけた僕をまた阻止しながら、惟親が彼女たちに微笑んだ。
「あの子は死んだよ。残念ながらね、ただ、お友達は助けてあげてほしいって、
そう言われちゃってね」
あの子は最期まで君たちをお友達って言ってたよ。
「今日、あの子は飛び降りてしまったけれど、それでもここに俺たちを呼んだんだ。
もうすぐ、だよ」
「?」
四人、そして僕を含めて、五人の目がそれを映した。
「花火の暴発現場、ここなんだ」
惟親は楽しそうにそう言って、僕からステッキを取り上げた。
「そう、犯人は俺ね」
ステッキから火花が飛び散った。
それが、花火師の用意が終わった花火に引火した。
あっという間の、出来事だった。
「予告してあげたほうがよかったかな、俺」
「あの公園での花火暴発事件は明日の朝刊に載る予定だったはずだ」
「うーん、そうだね、明日だったね、間違えちゃった」
「…」
「まあ、いいさ。連れて行くのは連れて行くんだから。頼まれてもいないのに、
あの子達をさらっていくのは気が引けたんだけど。まさか、まだ友達宣言するなんてね。
あんなにひどいことされたくせに」
惟親は珍しくかけていたメガネを僕の顔にセットした。
「…僕は目が悪くない」
「いいから、ちょこっと見てみて」
彼女は笑っていた。
五人で楽しそうに笑い合う、そんな日常がレンズに映し出されている。
それがだんだん、エスカレートしていく様。
きっかけは彼女の容姿。
彼女は美しかった、と僕は解釈した。
最初は頭から水をかけられたり。
服を隠されたり。
靴をズタズタに切り裂かれたり。
美しい彼女には庇ってくれる男子がいた。
その男子が、四人の中では「アイドル」だった。
「何であいつをいじめんだ!バカじゃねえかよ、お前ら!」
「知らないしー?」
「あいつって誰?マジ知らないっつーかー」
「アイドル」は彼女を守ろうと必死になった。
彼女も彼を少し、意識するようになる。
「もういい加減にしろよ…!」
彼は、彼女に金をせびった四人に言いよった。
「何で飯森君がそこまで一生懸命になるのよ!」
「俺は、あいつを…守るって約束したんだ」
「何、守るって何?あはははは」
そうして、彼女が飛び降りる。
それを、彼が追いかけた。
そこへ、惟親が現れた。
彼女は、花火暴発事件が起こるのを知っていた。
集合場所にしていた公園に、友達を行かせないでくれと、そう惟親に頼んだ。
彼女を迎えに来た僕に話が来たのはその時。
まさか、惟親が絡んでくるとは思っていなかったから、僕はひどく混乱した。
僕たちは敵対するとは言わないまでも、相容れないふたりだからだ。
それに、まだマフラーの礼も言っていなかったし。
車に戻ると、君はまたメガネを僕から外し、胸ポケットにしまった。
「ちょっと、混乱してしまったかいね」
ぽん、と惟親が僕の頭に手を置いた。
「こういう、ややこしいことも有りうる。わかっていたことなんだけどね」
僕は、正直意気消沈していた。
そんな中、ステッキがないことに気がついた。
そして冒頭に戻る。
「あれがないと…次の昇格試験を受けられないんだ」
「そんなに大切なものだったの」
「柊にもらったんだ…公園にもないとしたら、弁償だ」
ム、と惟親が眉間にシワを寄せる。
「ひい、らぎ?誰それ」
「僕の先代の涙師」
柊は32年間、涙師を勤め上げた。
そんな柊も、もういない。
何もかもを頼りきっていた僕が悪い。
ステッキのことも、在庫照会も発注の仕方も知らない。
「ああ…どうしよう」
「さっき俺が使っちゃったんだよね」
「そう、だ、どうして君が火周りを」
「ああ、思い出した!」
惟親は内ポケットを探った。
「俺、何でもここに入れちゃう癖があるんだった!待ってね」
ぐいっと腕を中に入れて、君はひどく手を伸ばしたようだった。
「それ、ただの内ポケットかな」
「いやあ、六次元になっている。キャパは結構あるはず」
これだ、と君はステッキを取り出した。
まさしく僕の、柊から受け継いだステッキだった。
「ごめんね、雄勝を困らせちゃったよ」
「あればいいんだよ」
それと、と僕は首元のマフラーに顔をうずめた。
「マフラー、あ、…ありがとう」
「ん?なに」
「何でもない」
駅まで送るよ、と君が言う。
僕はなんだか目頭が熱くなった。
友を装おってまで、何を、守りたかったんだろう。
左ハンドルの車がロータリーに止まる。
「雄勝?」
さりげなく目元を拭って、僕はドアを開けた。
「またね、今度は普通の仕事の時にでも」
何を、守るか、か。
僕は右手を差し出した。
うん、と頷いて君がそれを握る。
僕が守りたいのは、多分こういうことなんだろう。
多分、多分の話だ。
(「友を装おうひと、」原作:雄勝なだし/編集:談合坂ヒサ/H27.9.18)
傷つかないひと、
俺には大切な人がいました。
共働きだった両親に代わって、俺を育ててくれたばあちゃん。
大切だったのに、最期は突然訪れました。
「行ってき、」
ますと続けようとして、それをためらった。
昨日の夜からばあちゃんは咳き込んで、具合が悪かった。
まだ朝の7時半、寝ているんだろう。
起こさないように、そう思って俺はその日だけ、声をかけなかった。
突然の連絡が来たのは放課後。
中学校のグラウンドで、これから部活って時だった。
「鈴木!すぐ家に帰れ!」
二階の職員室の窓を開けて、担任がそう言った。
何か、嫌な予感がした。
自転車をこいだ。一生懸命こいだ。
いつもなら15分かかる家路を、5分で帰った。
まさか、まさか、まさか、まさか!
「午後になるかくらいだったの、心臓が止まって」
母さんが仕事先から慌てて駆けつけた時には、もう息を引き取っていたと。
「な、何だよ…!今朝だけ…」
行ってきますと言えばよかった。
毎日のルーティンだったくせに、それを怠ったのはどこのどいつだ。
欠かすことなくしていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか?
「ばあちゃん…!」
俺は玄関のタイルに跪き、何度も両手で床を殴った。
涙が止まらなかった。
「後悔しているのですか」
不意に聞こえた声に、俺は顔を上げた。
真っ黒いタキシード姿の子供が立っている。
俺と同じくらいの年ごろだ。
「後悔しているのですね」
「そりゃ…してるよ、しないはずない!」
「それじゃあ、直接聞いてみましょうか」
え?と聞き返す暇もなく、そいつが俺の手を取って家に上がり込んだ。
普通だったら不審者扱いするところだが、そんな常識めいたこと浮かばなかった。
「今から1分待ちます。その間にあなたの思いをぶつけてみてください」
ばあちゃんが、布団の上で編み物をしていた。
振り返ると母ちゃんがいろんな家に電話をかけている。
また前を向くと、ばあちゃんが手を止めて、にこっと微笑んだ。
「ばあ、ちゃん…」
「なあに、そんな顔して」
涙が溢れた。
止まらない。
「ばあちゃん、何で死んじゃったんだ!俺、昨日まで普通に話を…!」
「ええ」
「今朝だって、行ってきますって…!言わなかった!」
「ええ」
「ばあちゃんが、死ぬなんて思わなかったんだよ…!」
「ええ」
「もうちょっとだけ生きててよ…!」
「ううん、無理なんだよ」
俺は顔を上げた。
ばあちゃんは、今までで最高の笑顔を見せている。
「呼ばれちゃったのよ、兄さんたちに。もう、大丈夫だよって」
「そんなの…!」
「ううん、大切なことだよ?空知にはもう、おばあちゃんは必要ないの」
「でも、俺は、俺は!」
「これから先、いろんなことがあると思う。でも、それを乗り越える力を、空知はもう持っている。
ばあちゃん、それがわかったから今日に決めたんだよ」
今日?
「そんなに苦しまなく逝けたのよ。だから空知も、今度会うときまでに立派な大人になるの。それが、ばあちゃんの願い」
ばあちゃんがまた編み物に視線を注ぐ。
「そろそろ1分です」
例の子供の声がした。
「ばあ、ばあちゃん!俺、分かった、ちゃんと、大人になるから!」
「ええ、また会いましょうね、待ってるからね、空知なら大丈夫よ」
急に目の前が真っ暗になったかと思うと、ふっと現世に戻ったような気がした。
「1分て結構長いと思いませんか」
「お前はいったい…」
「涙師といいます。まあ、死神のようなものです」
「涙師…」
「あなたのおばあさんを迎えに来たのですが、あなたまで攫っていこうとは思いませんよ」
「そりゃそうだ」
俺にはまだやるべきことがある。
立派な、大人になること。
ばあちゃんと約束した。
「俺、家のこともっとやる。掃除も洗濯もする。料理だって覚える。ばあちゃんと約束したんだ」
「ええ」
「ありがとう、時間くれて…ちゃんとお別れできたよ」
「どういたしまして」
涙師は行ってしまった。
ばあちゃんを連れて。
振り返れば、涙に咽る人がたくさんいた。
その中のひとりに、俺もいるんだと思った。
でも、俺はちゃんとお別れできた。
だから前を向ける気がした。
家族の、初めての死に立ち会ったことで、俺は強くなれる気がした。
「傷つかないで済んだんだ、俺…」
ありがとう、涙師。
そんな奴、この世の中にいるんだな。
そう、俺は傷つかないひとになれたんだ。
ばあちゃん、待っててくれよな。
いつか、また会う日を、目指して。
(「傷つかないひと、」原作:者野雨情/編集:藤森圭樹/H27.10.4)
困っているひと、
僕は暗い夜道を歩いています。
ふと、前方に街灯のあかりが見えました。そこまで行けば、何とかなるような気がしました。
近づくにつれ、そこには細い影があることに気がつきました。
人が、いました。
その人、女性はしゃがみこんで自分のバッグをあさっています。
何か大切なものでも失くしたのでしょうか、冷や汗をかいています。
僕は近づきながら、咳払いをひとつしました。
僕が近づいているのが分かれば、今度のクライアントです。
「ない、ない、ない…!」
どうやら僕には気がつかないようです。
涙師としての僕の仕事はここにはないようです。
でも、ちょっと興味があったので僕はその女性の様子を観察することにしました。
「どこやったんだろ…!あれがなきゃマジやばいって!」
とうとう女性は地面にへたりこんで、バッグの中のものを取り出し始めました。
家に帰ってからでは遅いのでしょうか。
女性のバッグにはテディベアがついています。
色は白色でした。
「マサフミさん超怒るじゃん!」
マサフミ、というのはどうやら恋人の名前のようです。
僕は一緒になってバッグの中身を眺めてみました。
何を、探しているんでしょうか。
「ああもう、何でこんな時に限ってないのよう…!」
よく見ると、テディベアに名前が刺繍で入れてあります。
キョウコ、とあります。
「今朝しっかり入れたはずなの…!指輪ッ…」
どうやら僕は内容が読めてきました。
つまり、マサフミさんから贈られた指輪をなくしたキョウコさん、ということです。
これから会うのでしょう、その時に指輪をしていなければ、当然あげた側にしては不愉快です。
「ない!ないったらない!正直に言う!」
バッと立ち上がってキョウコさんは強い意思に燃えていました。
そこで下から見ていた僕は見つけてしまったのです。
バッグの穴。底に小さな穴があいているのです。
残念ながらキョウコさんにコンタクトをとることができません。
何故なら、僕はクライアント以外の人間には見えないからです。
勿論、話しかけても声が聞こえません。
どうしたらいいだろう、と僕が困っていると、
「キョウコ!ここにいたのか」
マサフミさんが迎えに来たようです。
「約束の時間からもう随分と経ってるから心配したよ」
「ま、マサフミさん…」
僕は慌てて胸ポケットから何の装飾もない指輪を取り出してキョウコさんの指につけました。
「して、くれてるんだ」
マサフミさんはその指輪にうっとりとしているようです。
キョウコさんは何だか分からない正体不明の指輪のようなものに、ぎょっとしました。
あれ、違ったかな?と僕は不安になりました。
「俺との結婚、許してくれるんだ」
「許すも何も…指輪まで送りつけてきて…」
「でも、デザインがちょっと違うな?」
「え、あ、そ、その」
まずいことしたかな、と僕はまた不安になりました。
「これ、俺が贈ったやつだよな」
「ええそうよ、しっかりと受け取りました!」
「内側にネーム入れたんだよ、マサフミ、キョウコって」
「ええ、入ってるわよ!さっき確認した」
「じゃあ、今夜はどうする?」
「勿論、このままってわけにはいかないわ」
だよな、とマサフミさんは肩を落とした。
「やっぱり行くのか、ロンドンへ」
「そう、あなたと別れる覚悟でね」
ふたりはしばらく話をした後、手を振って別れました。
「残念、アラフォーの私の最後の婚期だったのにね」
いつの間にか現れた指輪をすぽんと抜くと、キョウコさんは放り投げました。
「見てるんでしょ、タカヨシ」
「ばれたか」
また新たな人間が現れました。
「今のが婚約者か、指輪くれた」
「その指輪、あんたでしょ」
「ばれたか」
やっすい値段だったぜーとタカヨシさんが笑います。
「焦ったわよ、せっかく別れるって時につっかえそうって思ったのにね!」
「でも、今放り投げてたじゃないか、あれは何だ」
「知らない。不意に現れたスペアみたいなもんじゃないの」
僕は腕組みをして天を仰ぎました。
仕事じゃないけど、これらを見届けるのも仕事、かなと思いました。
「ほれ、穴があいてるじゃんか、そこから取り出したってわけ」
「冗談!人のバッグに穴を開けて盗んだっての?」
「実際こっちは一日楽しませてもらいましたからね、ごちそうさま」
「酷いひと!」
ロンドンへ行くと言って別れた恋人が、他の男性のために金を作っていたということでしょうか。
僕は何だか寂しい気持ちになりました。
「で、ロンドンへ高飛び計画、実行できそうなの?」
キョウコさんが穴の空いたバッグを眺めながらタカヨシさんに問いかけます。
「それがさあ、今日のパチンコで金すっちゃってさ、また貸してくんない?」
「ったく、いつになったらロンドンで式を挙げられるのよ!」
「ちゃんと返す!だから、な?」
「まったく…仕方ないわね」
何が倖せと言えるのだろう、と僕は思っていました。
雪が、ちらつき始めました。
「春までにはロンドンへ行くからね!しっかりしてよ、もう」
キョウコさんはすたすたと歩いて行ってしまいました。
僕もおいとましようと思っていたところへ、今度は別の女性が歩いてきました。
「タカヨシさん、待った…?」
「ううん、今来たところです」
「雪が降り始めたから、もう新幹線に乗らないと…」
「そうですね、今お給料をいただいたところなんです、今月は頑張ったんですよ」
「まあ、ではそれで新潟へ行けますか」
「ええ、行けます。一緒に倖せになりましょう」
僕はわけがわからなくなってしまいました。
「数々の文豪が美しい死を遂げています。それをタカヨシさんとできるとなって、私は本当に…」
そこまで言って女性が激しく咳き込みました。
その背中をタカヨシさんが撫でさすります。
「外は寒いですね、さあ行きましょう。僕は最後まで一緒ですよ、ミキさん」
「ありがとう…」
それからふたりは不治の病の話をしながら、タクシーを拾って走り去っていきました。
結局、と僕は首をかしげます。
いったい、誰が倖せになれるのでしょうか。
自分自身の人生経験の乏しさに僕は打ちひしがれたのでした。
僕は、困っているひとになってしまったようです。
(「困っているひと、」原作:者野雨情/編集:藤森圭樹/H27.10. 9)
忘れないひと、雄勝。
俺は嬉師です。最初のひとりです。そして、最後のふたりです。