ナル∪クラⅡ
第一話 体調不良
篠沢春希は、ゆっくりと布団から這い出した。
「いたっ!」
起き上がると、頭痛で顔を歪めた。結局、痛覚の遮断で一夜を明かしてしまった。
「今日こそ休もう」
寝ようと再び布団に潜り込んだが、数分もしないうちに体を起こしていた。
「はぁ~」
自分の意志とは正反対の行動に、思わず溜息が漏れた。
『おはよう』
リビングに行くと、白髪碧眼の母親が笑顔で電波を送ってきた。僕たちはこの世界の人間ではなく、会話は基本電波だった。僕たちは、自分の世界をナルと呼び、この世界をクラと呼んでいた。
『何してるの?』
『ん?編み物』
母親は、両手で糸を生成して服を編んでいた。クラの服は母親には重すぎるらしく、衣服は自分で生成していた。僕は、半分クラの遺伝子を有しているので、服の重さはさほど気にならなかった。
『その服、もう消えるの?』
『うん。もう裾の方は消え始めてるよ』
母親は、自分の着ている白のブラウスの袖を見せた。袖は糸がほつれていて、ミリ単位で消えていた。
ナルでは物の生成は当たり前で、身の回りの物は自分で生成していた。しかし、生成した物は時間と共に消えるので、その度に生成し直さなければならなかった。生成の消失する時間はその人の精巧さによって、大幅に変動があった。
『ところで、痛覚の遮断は終わったの?』
母親が僕を心配して、話を切り替えてきた。僕らのいたナルでは、日常的に痛覚を遮断しているが、昨日の特訓で痛覚を解放していた。
『う、うん。なんとか』
『その様子だと、強引に遮断したわね』
朝までの制限時間を気にして、少し粗く遮断した後遺症で、頭に痛みを感じていた。全身の痛覚は遮断できるが、脳のある頭だけは例外だった。
『うん。ちょっと頭痛い』
『あはは~、それ私も経験したわ』
『母さんって、頭の痛覚も遮断できてるの?』
これまで母親の体調不良を見たことがなかった。
『ん?痛い時は麻薬で調整してるよ』
母親には精確な生成能力のおかげで、痛みの微調整ができるようだ。
『あ、そう』
今の僕ではそれは危険すぎるので、気軽にはできなかった。
『じゃあ、行ってくるよ』
少し早い気がしたが、学校に行くことにした。
『あ、うん。って、今日は食べる物持っていかないの?』
『あ、そうだった』
いつもは自分で用意しているのだが、痛覚遮断に必死で完全に忘れていた。
『といっても、時間がないね』
さすがに数十分で弁当は作れないので、今日は諦めることにした。
『久しぶりに生成してあげよっか♪』
ナルにいた時は、母親に毎日生成してもらっていた。
『でも、服の生成中でしょ。途中でやめたら面倒じゃない?』
服の生成は一度中断すると、糸の太さと成分を同じにするのはかなり難しいはずだった。
『余計な気遣いよ。私がどれだけの服を作ってきたと思ってるのよ』
『そうだったね』
クラに来るまでは、母親に身の回りのことは任せっきりだった。ナルとクラの遺伝子を持つ僕には、体外への生成能力はなかった。
『じゃあ、お願い』
『わかった。栄養分を生成するのも久しぶりだね』
母親が立ち上がって、膝まである長髪を一度両手で整えた。
『量は前と一緒?』
『そうだね。タンパク質二十三gと糖質を三十八g多くして欲しいかな』
『わかった』
母親はそう云うと、目を閉じて生成を開始した。
『できた♪』
生成は4分でできた。久しぶりの生成ということもあり、いつもより時間が掛かっていた。
『ありがとう』
僕は、空の弁当箱を母親に差し出した。
『はい、どうぞ』
母親の手から、色とりどりの錠剤が流れ落ちた。生成した物は、クラのサプリメントと全く同じだった。
『なんか多くない?』
頼んだ分も含めても、量が多いような気がした。
『ごめん、久しぶりだったから、ビタミンAとミネラルが多くなっちゃった』
『う~ん。それってこれとこれだよね』
錠剤は栄養分によって、色が分けられていた。これは母親の気遣いでもあった。
『うん。そうだね』
『これは、今消化しておくよ』
僕は、過剰分をこの場で取り込むことにした。
『じゃあ、行ってくるよ』
『うん。いってらっしゃい』
母親は、笑顔で僕を見送ってくれた。
家を出ると、天気は快晴で雲一つなかった。
「おはよう」
昨日と同じ場所に、クラスメイトの前宮望が待っていた。彼女は長い黒髪の先端を括っていて、それを左肩から前に垂らしていた。
「お、おはようございます」
寝不足を隠すように、笑顔で挨拶を返した。
「あれ?昨日より体調悪そうね」
しかし、一瞬で見抜かれてしまった。前宮に演技は通用しないようだ。
「最悪の体調です」
仕方なく、頭を押さえて体調不良をアピールした。
「顔色がかなり悪いわ」
「休みたい気分です」
もう隠しても意味がないので、思っていることを口にした。
「無理せず、休んだら?」
これには心配してくれたようで、前宮が釣り目を少し下げて気遣ってくれた。
「い、いえ、休むほどではありませんよ」
ここまで来て、いまさら帰る気にはなれなかった。
僕は重い足取りのまま、前宮と一緒に登校した。その道中、何度か前宮が気に掛けてくれたが、それが尋常じゃなかった。コンビニや薬局を通りかかる度に何か買ってこようかと聞かれ、何度も帰宅を促してきた。これでは過保護な母親みたいだった。
前宮の気遣いに気疲れしながら、なんとか教室まで辿り着いた。
「今日も一緒か?」
前の席の飯村弘樹が、皮肉たっぷりに話しかけてきた。彼は、僕にとっては気の許せる唯一の友人だった。
「うん。そうだね」
弘樹の皮肉に沈んだ顔で答えた。睡眠不足で、単調な返ししかできなかった。
「何かあったのか?」
僕の表情を見て、弘樹が短髪の頭を掻いた。
「ちょっと、寝不足のうえ頭が痛くてね」
「なんかしてたのか?」
「まあね。多分、今日は寝るかもしれない」
僕はそう言って、ぐったりと机に突っ伏した。
「休めばいいのに」
弘樹の呟きを聞いた後、僕の意識は途切れた。
何か夢を見ていた気がするが、誰かに体を揺すられて目が覚めた。
不快感を感じながら顔を上げると、前の席の弘樹が複雑そうに誰かを見上げていた。その視線につられて顔を上げると、そこには前宮が心配そうな顔をしていた。
「おはよう。大丈夫?」
前宮が挨拶を兼ねて、心配りの言葉を掛けてきた。
「ん~。うん」
目を擦りながら、教師がいないことが気になり、教室に設置されている時計に目をやった。時計の短針は12時を指していた。
「へっ?」
これには驚いて時計を凝視した。教師に起こされる覚悟で寝たはずだったが、午前中ずっと起こされず熟睡していた。
「えっと、授業は終わったの?」
僕は、弘樹に対して疑問を投げかけた。
「もう昼休みよ」
しかし、その問いには前宮が答えた。
「・・・喉が渇いたな~」
「待ってて、自販機で買ってくるわ」
僕の独り言を聞き取った前宮が、脱兎の如く教室から出ていった。自販機は売店に設置されているので、当分は戻ってくることはなかった。
「弘樹、何があったのか説明して」
前宮を退かせることに成功したので、気兼ねなく弘樹に尋ねた。
「あ、ああ」
前宮を目で追っていた弘樹が、ぎこちなく視線をこちらに戻した。
「確か、今日は移動教室はなかったよね」
正面の時間割表を眺めて、弘樹に確認した。
「ああ」
「なのに、教師が誰も起こさなかったのはどうして?」
特に二時限目の社会の教師は、怒鳴りながら起こすタイプの教師だった。
「最初、HRの時に担任が起こそうとしたんだよ」
「だろうね」
朝の挨拶で起立してないのは、かなり目立つはずだった。
「それを前宮が止めた」
「あ~~、そう」
これまでのことを考えると、なんとなく担任に抗議する光景が想像できた。
「いや~、前宮の一言に教室が一瞬で凍りついたよ」
前まで一人ぼっちで寡黙だった優等生が、いきなり他人を擁護すれば驚くのは当然だった。
「それは各科目の教師にも言ったの?」
「いや、数学と英語だけだよ。他は無視してた」
「どうだった?」
全体の経緯は聞きたくなかったので、感想だけを聞いた。
「数学の細川は凄かったな。いや、凄まじかったな。あれはもう口論だよ。おかげで、授業が15分ぐらい遅れた。まさか細川を言い負かすなんて思ってもみなかったよ」
弘樹の表情からは、感心とその場の生徒たちの状況を詳細に物語っていた。
「そ、そう」
この事実には、もう苦笑いしかできなかった。
「お、おまたせ!」
息を切らせた前宮が、数本の缶ジュースを手に抱えて戻ってきた。
「どれがいいか聞くの忘れたから、いろいろ買ってきた」
机に紅茶、緑茶、スポーツドリンク、炭酸飲料の四種類を置いた。
「好きなの選んで」
「あ、ありがとうございます」
僕は、無難なスポーツドリンクを選んでお礼を言った。
「俺、そろそろ売店行ってくる」
前宮が戻ってきたところで、弘樹が席を立った。
「待って」
しかし、それを前宮が引き止めた。
「え、何?」
予想外なことに弘樹が、ぎこちなく振り返った。
「あなたにも一つあげるから、選んで」
「え、ああ、ありがとう」
弘樹がお礼を言って、緑茶を選んでから売店へ急ぎ足で教室を出ていった。
「そうだ。飲み物代払いますよ」
買ってきてもらった挙句、代金を支払わないのは失礼だと思った。
「いらない」
が、前宮は首を振って弁当箱を取りに行った。にべもなく断られたので、出しかけた財布をポケットに仕舞った。
「あ」
鞄から弁当箱を手に取ろうとしたが、中身が錠剤なのを思い出した。
「どうかした?」
戻ってきた前宮が、僕の声に反応した。
「あ、いえ、なんでもありません」
昼食は諦めて、鞄を元の場所に戻した。
「あ、やっぱり食欲ない?」
それを見て、前宮が勝手にそう勘違いしてくれた。
「ええ、まあ」
僕はそう言って、スポーツドリンクを飲んだ。成分は申し分ないが、僕にとっては過剰なミネラル補給だった。
前宮が黙々と食事をしていると、弘樹が戻ってきた。
「今日は万全じゃないから、例のやつは明日にしないかな」
前宮への質問攻めは、気分的にしたくなかった。
「ああ、あんまり無理するなよ」
人の良い弘樹は、これに快く了解してくれた。
「そういえば、春希って、誰かと付き合っているのか?」
突然、弘樹が変なことを聞いてきた。それに隣の前宮が、少しだけ反応した。
「はっ?何、藪から棒に」
「いや、噂で流れてるんだけどな。ちょっと、春希が彼女をつくるとは考えにくくて」
「それはデマだね」
「だよな~」
前に会長が流した噂が、もうここまで広がっていた。この学校での噂の広まりの早さを再認識しつつ、再び自分の噂が広まっていることに溜息が漏れた。
「でも、不思議だよな。なんで春希の噂が急に広がり始めたんだろうな」
「本当だね。できるだけ目立たないように生活してきたはずなんだけど」
やはり、会長と同級生の駄口に目をつけられたのが運の尽きだった。これからは、あの二人を要注意人物に指定しておくことにした。あと前宮も。
昨日よりは、マシな空気の中で昼休みを終えて、午後の授業が始まった。
弁当箱の錠剤を少しずつ補給しながら、授業を受けた。これは一番後ろの席の特権でもあった。しかし、今日に限って教室の雰囲気がいつもと違い、僕をチラ見する生徒が多くいた。そのせいで、なかなか錠剤を口に運べず、食べ終わるのにかなりの時間を要してしまった。
HRが終わる頃には、体調がかなり回復していた。
「今日は、武活行くのか?」
弘樹が振り返って、いつものようにそう聞いてきた。
「いや、当分は武活に出ないよ」
「もうすぐ争奪戦なのにか」
「僕にとって、それは関係ないよ」
「そうだったな」
「じゃあ、お先に」
「おう、またな」
前宮が僕の席に来る前に、教室を出ようと足早に歩いた。
「ちょっと、待ってよ」
しかし、前宮が慌てて駆け寄ってきた。
「えっと、道は覚えてますから一人でも行けますけど」
「そ、そうだね」
僕の答えに、前宮が寂しそうな顔をした。
「え、えっと、これからは一緒に帰ろうよ」
前宮は勇気を振り絞ったように、僕を見上げてきた。
「・・・わかりました。一緒に帰りましょうか」
クラスメイトに注目されている中、そんな顔をされたら断るのが難しかった。
僕たちは、人目を気にせず二人で教室を出た。この時、会長が意図的に流した噂のことをすっかり忘れていた。
下校中、話しかけるか悩んでいるうちに前宮の家に着いてしまった。
前宮が僕の前に立つ気配がないので、僕が勝手口を開けることにした。
「あれ、開かないですよ?」
しかし、鍵が掛かって開かなかった。
「珍しいわね。誰もいないなんて」
前宮はそう言って、鞄から鍵を取り出した。僕が横に一歩ずれると、前宮が鍵を開けた。
「姉さん、帰ってきてないみたいね」
「そうなんですか」
「どうする?」
母屋の前で、前宮が振り返って抽象的に聞いてきた。
「何がですか?」
「えっと、道場で待つか、母屋の居間で待つか。そ、それとも・・・わ、私の部屋に・・来る?」
恥ずかしいのか、発言に羞恥心が見受けられた。
「・・・」
この予想外の選択肢に、僕は沈黙という答えを返した。
「あの・・・どうするの?」
それが不安を煽ったようで、恐る恐る尋ねてきた。
「そうですね。道場で待ちましょうか」
「そ、そう・・・でも、道場だとすぐにお茶出せないよ」
「気持ちだけで十分ですよ」
「そ、そう」
僕の遠慮に残念そうに俯いた。
「あ、そうだ!」
前宮は、何かを思いついたように鞄をあさった。
「こ、これ」
そして、電子ノートを僕に差し出してきた。
「なんですか?」
「午前中寝てたから、私のノート写していいよ」
「あ、ありがとうございます」
この流れについていけず、戸惑いながら受け取った。
「じゃあ、明日返しますね」
僕がそう言うと、前宮が満足そうな笑顔で頷いた。
「そういえば、道場には更衣室はないんですか?」
昨日見た限りでは道場に個室は見当たらなかったが、確認のため聞いてみた。
「ないわよ。元々私用で使う目的だったから、そこまでの設備は考慮してなかったみたいね」
「なら、着替える場所はどこかありますか?」
さすがに着替える度、前宮たちに退場させるのは気が引けた。
「ん~、わ、私の部屋で着替える?」
悩んだ末の結論がそれだった。
「・・・じょ、冗談ですか?」
「え?本気だけど・・い、嫌だった?」
「前宮、後学のために教えておきますけど、短期間の付き合いで異性を部屋に呼ぶのはダメですよ」
あまりの無防備な発言に、僕は堪らず前宮に助言した。ナルではありえない行為だった。
「へ、なんで?」
「・・・気があると勘違いされますよ」
しかし、それはナルでの話なので、咄嗟にそれっぽいことを言ってみた。
「気があるって?」
「好意があるって意味です」
「えっ!そ、そんなこと、お、思っているの?」
「いえ、僕はそうは思っていませんが、別の男性の場合の話ですよ」
「そ、そう、思ってないんだ・・・」
今度は一転して、悲しそうな顔で項垂れた。
「あ、安心していいよ。し、篠沢以外で友達はできないと思うから」
「ま、まあ、これはあくまで後学の為ですよ」
この予想外の返しには少し戸惑ってしまった。
「とりあえず着替えたいので、しばらくは道場には入らないでもらえますか」
「わかった」
前宮はそう言って、母屋に入っていった。その後姿を目で追いながら、大きく溜息をついた。
道場に入り、着替えを始めようと鞄をあさった。
「あ、あの~」
すると、道場内から声が響いた。その声に驚いて振り返ると、セミロングにウェーブのかかった女性が、リングの反対側から顔だけを出していた。
「・・・」
「・・・」
お互いが初対面だったこともあり、目が合った状態で固まってしまった。
「失礼しました」
僕は着替えを中断して、彼女に向き合って会釈をした。
「初めまして。僕は、篠沢春希といいます。このご自宅に招かれた客人です」
そして、自己紹介も兼ねて不法侵入でないことを説明した。
「あ、ご、ご丁寧にどうも」
女性が慌てた様子で立ち上がり、軽く会釈を返してきた。身長はかなり低かったが、顔立ちはそれなりの年齢を感じさせていた。
「篠沢さんですか。私は、前宮紗希です」
そして、自己紹介して再び頭を下げてきた。
「二児の母です」
どうやら、前宮姉妹の母親ようだ。
「・・・もしかして、かなえの彼氏ですか?」
何を思ったか、急にそんな質問をしてきた。
「違います」
これには首を振って否定した。
「も、ももももしかして、の、ノゾミンの、かか彼氏?」
前宮のことに関しては、かなり動揺しながら僕を睨みつけてきた。しかも、前宮だけなぜかあだ名で呼んでいた。
「違います」
「そうですか」
僕の答えに安堵した様子でこちらを見直した。
「では、どういったご用件でこちらにいらしたんですか?」
「二人から何も聞いてないんですか?」
「ええ、特に何も」
「昨日から、ここで特訓を受けることになったんですよ」
「と、特訓?」
初耳だったらしく、顔を歪めて訝しがった。
「ええ、会長・・・ではなく、かなえさんがそう提案してきたんです」
「へ~、あのかなえがねぇ~」
何か思うところがあるのか、目を細めて視線を泳がせた。
「また何か悪巧みかな~」
そして、独り言のように不穏な発言をした。
すると、道場の外から砂利を踏みつける音が聞こえてきた。
「もしかして、お母さんがここにいない?」
前宮が慌てた様子で、道場に入ってきた。
「そちらの方ですか」
僕は、リングの反対側にいる紗希を掌を上に向けて示した。
「ノゾミン、おかえり~」
紗希が手を振って、リングを回って歩いてきた。彼女は、ボーダーのTシャツにトレパンという動きやすそうな服装だった。
「お母さん、なんで道場にいるのよ?」
「メンテナンスしてたのよ。そうしないと、かなえがすぐ壊すんだもん」
そう言うと、リングを見ながら不満そうに口を尖らせた。どうやら、前にリングを壊したようだ。
「じゃあ、なんで鍵閉めてたの?」
「え?だって、道場にいると母屋に誰もいなくなるから」
これには当然のように答えた。
「それより、ノゾミン。彼とはどういう関係なの?」
僕をチラッと見て、前宮に迫って問い詰めた。
「お母さんには関係ないでしょ」
友達とは言いたくないのか、母親の質問を突っぱねた。
「うぐっ!」
すると、紗希が悲しそうに目に涙を溜めた。
「な、泣かないでよ」
「だ、だって、の、ノゾミンが冷たいから・・・」
「ごめん、悪かったわ。だから、人前で泣かないでよ」
泣きそうな母親を、前宮は宥めるように頭を撫でた。
「う、うん」
それが嬉しかったようで、機嫌を直して目を擦った。このやり取りを見る限りでは、面倒臭い母親であることがわかった。
「えっと、母親なんですか?」
僕は、確認のために前宮に尋ねた。
「ええ。不肖ながらね」
前宮が残念な顔をして、母親の頭を撫でた。
「あ、そうだ、飲み物用意するね♪」
紗希はそう言って、上機嫌に道場を出ていった。
「・・・あの、着替えたいので、しばらく出てもらえませんか?あと紗希さんにもそれを伝えてください」
「そうだったね」
僕が着替えてないのに気づいて、道場から出ていった。
第二話 後輩
着替え始めて3分後、道場の外から砂利を踏みつける足音が聞こえてきた。
「またか」
僕は、上だけ着替え終わったところで溜息をついた。
道場に入ってきたのは、セミロングで平均顔の島村美雪先輩だった。もう一人は見ず知らずの女子生徒で、鞄の他に棒袋を持っていた。
「あれ~、篠沢君、もう来てたんだ」
島村先輩が僕に声を掛けると、女子生徒が島村先輩の後ろに隠れた。
「なんで運動着と制服を上下に着てるの?」
「着替えている途中だったんですよ」
「制服に?」
「なんでですか!」
島村先輩の冗談に語彙を強めて睨んだ。その声に後ろの女子生徒が、ビクッと体を震わせた。
「運動着に着替えている途中ですよ」
「じゃあ、さっさと着替えたら?」
「馬鹿にしているんですか?人前で着替えるほど、無神経ではありませんよ」
「やっぱりそうだよね。異性の前で脱いだらセクハラだもんね」
島村先輩が着替えることを勧めているので、僕に対してセクハラになると思ったが、後ろの女子生徒にはセクハラになる可能性があった。
「ちょっと外に出ててくれませんか」
「はぁ~、しょうがいないな。ちょっと外出とこっか」
後ろの女子生徒にそう促して、島村先輩たちは出ていった。
僕はさっさと着替えを済ませて、制服を畳んで鞄の横に置いた。
「終わった~?」
そう言いながら、島村先輩が道場に入ってきた。
「それは外から聞いてくださいよ。着替えてる途中だったらセクハラで訴えますよ」
「そんなことで捕まったら社会に出れなくなるでしょ」
島村先輩が事を大げさにしてきた。
「そうですね。人生棒に振りますね。ざまあみろですね」
「最低な暴言だね。刺したくなるわ」
「それが嫌なら、ちゃんと一声掛けてから入ってきてください」
「全く、この国の法律はたまに女性にとって、不条理に使われてる気がするね」
「それはお互い様でしょう。法律の使い方なんて、どれだけ他人に寛容になれるかが、問題になるんですから」
「それを言うと、篠沢君は心が狭いってことになるわね」
島村先輩がここぞとばかりに揚げ足を取ってきた。
「あれ?知りませんでしたか。僕は、前から狭量ですよ」
しかし、僕にはその自覚は大いにあった。
「えっ!そ、そうだったんだ」
僕の一笑に付した態度に、島村先輩が苦笑いした。
「ところで、先ほどから気になっているんですが、後ろにいる方はどちら様ですか?」
さっきから島村先輩の後ろに隠れている女子生徒が、気になってしかたなかった。制服の一部の色から後輩だということはわかった。
「ああ、この子ね、紹介するわ」
島村先輩が後ろの女子の背中を押して、僕の前に出した。彼女は華奢で身長が低くく、黒く艶の無いボサボサの長髪だった。前髪で顔の半分が隠れていて、口と鼻しか見えなかった。
「三島若菜。篠沢君に棒術を教えてくれる先生よ。というか、一度会ってるでしょう?」
「え、そうでしたっけ?」
思い返してみたが、全く思い当たることがなかった。
「ほら、棒術部のもう一人の部員じゃない」
「あれ?髪が短かった気がするんですが」
かなりうろ覚えだったが、ショートヘアだった気がする。
「髪なんて伸びるでしょう」
「まあ、そうですが」
僕は、再度彼女を見直した。髪はボサボサで癖っ毛が所々多く見られた。ここまで手入れできないなら、切ればいいのにと思ってしまった。
「強いんですか?」
「勿論。師範代級よ」
「それは凄いですね。とてもそうは見えませんが」
何度見ても、この体格からは想像できなかった。
「ふふん。見た目に左右されるなんて愚の骨頂よ」
島村先輩が薄ら笑いで皮肉ってきた。
「そうでしたね。危うく島村先輩になる所でした」
それを素直に受け止めて、島村先輩の名を持ち出した。
「ちょっと!それどういう意味よ!」
「僕への第一印象は?」
「うっ!」
その言葉の真意に気づいたようで、苦い顔で後ずさった。
「あ、あれは・・・単なる失言でしょ」
僕が入部した際、島村先輩は初対面にも関わらず、弱そうと言い放っていた。
「あの時の先輩の表情を思い出しますねぇ~」
そのあと、僕との組み試合でボロ負けして、本当に悔しそうに涙を溜めていたことを思い出した。
「やめて!思い出したくない!」
本当に恥ずかしいようで、両手で顔を覆って塞ぎこんだ。
「まあ、それはいいとして。三島さんは、僕に棒術を教えることを承諾したんですか?」
「篠沢君の私への対応が冷たい!」
自分の恥ずかしい過去を暴露された挙句、軽く流したことに悲痛の叫びを上げた。
「それはいつものことでしょう。それともいつものように慰めて欲しいんですか?」
「なぐ・・さめる」
三島が僕の言葉に反応した。
そして、俯いた状態でぶつぶつと呟いていた。声が小さすぎて、僕のところまでは届かなかった。
「ちょ、ちょっと、誤解を招く言い方はやめてよね」
三島を見ていた島村先輩が慌てた様子で、僕に抗議してきた。どうやら、三島の呟きが聞こえたようだ。
「誤解?何がですか?」
「と、とととにかく、慰めたことなんてないでしょ」
島村先輩は、顔を真っ赤にして否定してきた。
「あれは慰めの言葉だと思って言ったんですが。先輩がそう言うなら、そうかもしれませんね」
褒め言葉は島村先輩にとっては、慰めにはならないようだ。
「でも、それは困りましたね」
他の慰め方を知らない僕には、島村先輩への対処がなくなってしまった。
「な、何がよ?」
「島村先輩は、褒められるのが好きだと思っていましたけど、誤解だったんですね・・・先輩は、罵られることが好きなんですか?」
「そんな性癖ないわよ!」
なぜか島村先輩が怒声と共に、話の流れとは全く関係のない発言をした。
「性癖?なぜ好き嫌いの話に性癖が出てくるんですか?」
あまりに唐突だったので、咄嗟に思ったことを口にした。
「へっ?」
自分の解釈が僕と全く違うことに気づいたのか、島村先輩が顔を真っ赤にして俯いた。
「どうしたんですか?」
その行動も僕にとっては謎だった。
「な、なんでもないわよ!」
「なんで怒るんですか」
「もう、この話は終わり!」
僕を睨みつけて、強制的に話を終わらせた。結局、島村先輩への今後の対応が不明確のままになってしまった。
「道場の外まで声が聞こえたけど、何かあったの?」
生徒会長の前宮かなえが、怪訝な顔で道場に入ってきた。彼女は、長髪のサイドテールで目つきは姉妹の前宮と同じだった。
「な、なんでもないよ」
それに島村先輩が少し項垂れた様子で、会長の方に振り返った。
「また篠沢にからかわれたの?」
「うん」
「懲りないね~。あなた達」
会長が溜息をついて、僕たち二人を交互に見た。
「ところで、会長。島村先輩って何が好きなの?」
これから島村先輩にどう接していいかわからず、友人である会長の意見を求めた。
「は、何よ唐突に?」
「いや、さっき褒められることが嫌いだと言われたので・・・」
「言ってないよ!」
これに島村先輩が、即座に反論してきた。
「あれ?違うんですか?」
「この話は終わりって言ったじゃない。蒸し返さないでよ」
「ですが、僕はそれに承知してませんよ」
「こ、ここは私を立ててよ~」
なぜか泣きそうな顔で、僕にすがってきた。
「え?でも、そうしたら先輩に対して、接することができなくなりますが」
「は?なんでよ」
「罵倒ばかりじゃあ、僕がただの嫌な奴に見えるじゃないですか」
「実際、嫌なやつだよ」
「失礼ですね~」
話の流れ上、これは流すことにした。
「でも、篠沢君でも世間体は気にするんだ」
「当たり前ですよ。むしろ、島村先輩はもっと周りに気を使って欲しいぐらいですよ」
日頃、僕に対してほとんど感情的に突っ掛かってくるので、是非ともそこは直して欲しいところだった。
「その時は感情的になってるから無理」
「そこは自制してくださいよ」
「それができれば、篠沢君におちょくられてないよ」
「その言葉には語弊がありますよ」
これにはすかさず訂正を求めた。
「そうかもしれないけど、結果そうなるでしょ」
「話の流れで、なぜかそっちの方にいきますね」
「不思議よね~」
「不思議ですね~」
僕たちは、一緒に首を傾げた。
「それって、もうただの日常会話なんじゃないの?」
会長が馬鹿馬鹿しそうに、僕の横を素通りした。
「おちょくられるのが日常会話なんて最悪だよ」
島村先輩が不満一杯の顔で頬を膨らませた。
「最悪・・ですか。なら、もう会話やめましょうか?」
最悪といわれると、さすがに会話を控えるしか思いつかなかった。
「だから、そういう極端なことしないで!」
また怒られてしまった。もうどうすればいいのか混乱するばかりだった。
「美雪は、矛盾が多いね」
見兼ねた会長が、口を挟んできた。
「あの・・・結局、僕はどうすればいいんですか」
「いつも通りでいいってことよ」
これには会長が、島村先輩の代弁をした。
「そうなんですか?」
確認の為、本人の意思を聞いてみた。
「不本意だけど、それでいいわよ」
断念したというより妥協といった様子だったが、それで納得したようだ。
「じゃあ、問題も解決したみたいだから、早速始めようか」
会長は、話を区切るように手を叩いた。
「いえ、まだ問題が残ってるよ」
自然と流されそうだったので、話を戻すことにした。
「問題?」
これには島村先輩が、不思議そうに首を傾げた。
「三島さんは、僕に棒術を教えることに承知しているんですか?」
「勿論。私が説得したから」
島村先輩に聞いたのだが、会長から答えが返ってきた。
「そうなんですか」
僕は、道場の隅に移動していた三島の方に少し近づいた。
「あ、ちょ、ちょっと、ダメだよ」
すると、島村先輩が慌てた様子で、僕たちの間に入ってきた。
「若菜ちゃんは、男性恐怖症なんだから」
「はっ?」
「だ・か・ら、男性恐怖症なの」
念を押すように島村先輩が、間を置きながら言った。なんの症状かは知らなかったが、単語を聞く限り男性に恐怖しているニュアンスだった。
「そんな人が僕に教えるんですか?」
「多分」
僕の怪訝な顔に、島村先輩が自信満々に憶測の言葉を口にした。
「た、多分って・・・」
なぜその言葉を誇示できるのかが、理解できず呆れてしまった。
「篠沢君は男だけど種類が違うから、少しは男性恐怖症を払拭できると思ってね~。若菜ちゃんも男性恐怖症を治したいって言ってるし、なんかそれって一石二鳥じゃない?」
島村先輩から似つかわしくない言い分が飛び出した。
「美雪、それはあなたの案じゃなくて私の案でしょ」
黙って聞いていた会長が、呆れ顔で指摘してきた。
「うっ!い、いいじゃない。たまには私にも上手で物を言わせてよ」
この痛々しい言い訳に、会長が同情の眼差しに変わった。その反応を見る限り、会長の言ってることの方が正しいようだ。
「いいよ、美雪。存分に主張しなさい」
「そうですね。素晴らしい案ですよ、島村先輩」
これには僕も会長の同情に乗ることにした。
「う、うううう~」
僕たちの視線に、島村先輩が怯んで後ろに下がった。
「どうかしたの?」
すると、急に玄関口から声がした。
振り向くと、紗希が飲み物を乗せたお盆を持って入ってきた。
「ああ、いつものことよ」
会長が母親を見て、溜息交じりに答えた。
「あ、そう」
紗希はそう言って、三島と島村先輩を見ながらお盆を床に置いた。
その紗希の後から、前宮が道場に入ってきた。今日は薄い白色のレース使いのロングスカートに、空色で半袖のフリルつきのブラウスを着ていて、清楚な服装だった。
「だ、大丈夫?美雪ちゃん」
紗希が島村先輩を見て、心配そうに声を掛けた。
「紗希お姉ちゃん」
島村先輩が悲しそうな目で、紗希を見返した。
「お、姉・・ちゃん?」
僕は、島村先輩の呼び方に耳を疑った。
「母さんがそう呼ばせてるのよ」
僕の反応に、会長が水差しのお茶をコップに注ぎながら説明した。
「な・・・なぜですか?」
「なんか二人とも初対面で意気投合しちゃってね。いつの間にか、そう呼び合うようになってたのよ」
そう言うと、コップを傾けてお茶を飲んだ。気持ち悪いと大声で叫びたかったが、二人が傷つきそうだったので内心で留めた。
「さて、喉も潤ったし特訓を始めましょうか」
喉を潤したのは会長だけだったが、敢えてつっこむことはやめた。それより、島村先輩の呼び方が気になって仕方なかった。
「篠沢もやる気みたいだしね」
会長は、僕を見て嬉しそうに笑った。運動着に着替えただけで、やる気だとは思って欲しくなかった。
「はい」
いつの間にか、前宮がお茶が入ったコップを差し出してきた。
「あ、ありがとうございます」
僕は戸惑いながら、コップを受け取った。あまり飲みたくはなかったが、差し出された以上は断るのが難しかった。
「母さん。用が済んだら、出ていって欲しいんだけど」
会長が自分の母親に対して、煩わしそうに言った。
「え~、なんで私だけ除け者なのよ~」
「本当に関係ないからよ」
母親に気遣いもなく、きっぱりと断言した。
「ひ、酷い!」
会長の言葉に傷ついたのか、瞬時に涙目になった。というか、二児の母にしては精神が脆すぎだった。
「ちょっと!かなえ、母親なんだから、もうちょっと優しく言ってよ!」
島村先輩が泣きそうな紗希を庇うように、親友である会長を睨んだ。
「美雪は、母さんに甘すぎるのよ」
「私は、弱い人の味方なのよ!」
「相変わらず、そういうの好きね」
島村先輩の正義感に、会長が呆れ気味に頭を掻いた。
「じゃあ、始めようか」
会長が気を取り直して、僕の方を流し見た。
「あの・・・制服でするの?」
何をするかは不明だったが、その格好は動きにくそうに感じた。
「ああ、大丈夫よ、中はスパッツだから」
「そうじゃなくて、動きにくくないと思って」
「う~ん、特に気にならないわね」
「そう」
僕自身には支障はないので、本人の意思を尊重することにした。
「で、今日は何するの?」
「え、ああ、そうね。若菜は実力知らないし、若菜と小手調べしてもらおうかな」
会長はそう言って、三島の方を見た。
「という訳で、若菜は母屋で着替えてきてくれないかな」
「あ、は、はい」
若菜は、慌てて道場から出ていった。
「あ~っと、申し上げにくいんですが・・・」
僕はそれを見送って、会長に敬語で話を切り出した。
「え、何?」
「剣棒使うとは思わなかったので、持ってきてません」
「・・・またかっ!」
会長が間をあけて、つっこむように叫んだ。
「いや~、まさか教えてくれる人がいるとは思えなかったので・・・」
ここは申し訳なさそうに言い訳に徹することにした。
「はぁ~、じゃあ、美雪。剣棒貸してあげてくれない」
「しょうがないな~」
会長の頼みに、島村先輩が嬉しそうに道場から出ていった。
「母さん。もう出ていってくれない?」
擁護する島村先輩がいなくなったところで、再度退場を促した。
「はいはい。どうせ私は関係ないですよ~」
邪魔者扱いされたことに、紗希が拗ねたように道場から出ていった。
「それより、明日からちゃんと持ってきてよ」
それを見送ってから、会長が念を押すように注意してきた。
「すみません」
ここは素直に謝っておいた。
しばらくすると、島村先輩が駆け足で道場に入ってきた。
「はい。どうぞ」
そして、笑顔で剣棒を差し出した。
「二度もすみません」
「もう注意してよ~」
僕のミスが嬉しいのか、満面の笑みを浮かべた。
「あ、そうだ」
突然、島村先輩が何かを思い出したように剣棒を引っ込めた。
「二回も忘れたんだから、これは貸しにしよっか」
「・・・いいですよ」
これは全面的に僕が悪いので、島村先輩に譲歩することにした。
「え、いいの?」
「ええ、苦渋ですが、仕方ありません」
「ん、嫌な言い方するね」
僕の本音に嫌な顔をした。
「実際、嫌ですからね」
僕も同じように嫌な顔をした。
「・・・じゃあ、最新作のホラー映画があるんだけど、それに付き合って」
島村先輩が不満顔のまま、さっそく貸しを使ってきた。
「・・・」
これには無言を返すことにした。
「な、何か言ってよ」
僕の沈黙の長さに、島村先輩が痺れを切らせた。
「会長と行ったらどうですか?」
これは避けたかったので、会長に丸投げしてみた。
「私、ホラーはダメだから」
会長が手を左右に振って、軽く拒絶した。
「もしかして、ホラーはダメだった?」
「いえ、苦手ではありませんが、島村先輩と私的に行動するのに抵抗ありますね」
回りくどいことを言っても、島村先輩には伝わらないので、ここは本音で答えることにした。
「どういう意味よ」
「そのままの意味ですよ。というか、一人で行ったらいいじゃないですか」
「映画館に一人は恥ずかしいよ」
「なら、他の友達にでも・・・」
「それがいないから、篠沢君に頼んでるんじゃない」
僕が最後まで言う前に、自分からその事実を吐露した。
「友達少ないんですね。可哀想に」
自分としては可哀想とは全く思わなかったが、このクラではそういう風な慣わしがあるので、わざとその言葉を使ってみた。
「失礼な、友達は多いわよ。ただ、誘ってもなんでか断われるんだよ」
島村先輩はそう言いながら、後半は悲しそうな顔で言った。女子でホラー好きは滅多にいないようだ。
「何かしたんですか」
理由に見当はついたが、とりあえず皮肉も込めて聞いてみた。
「してないわよ!」
予想通り、感情的に語彙を強めてきた。
「一緒にいると、劣等感でも感じるんじゃないかな」
会長がリングのロープにもたれ掛かりながら、そんなことを口にした。
「そうなの?というか、劣等感って何よ?」
「容姿端麗にそのプロポーションだもんね。私以外は、誰でも劣等感を持つって」
それでは自分が、劣ってないと主張しているようなものだった。
「先輩は、容姿端麗なんですか?」
「なんでそれを本人に聞くのよ!」
僕の率直な質問に、物凄く嫌な顔をした。
「いえ、個人的にはそうは思えなかったので」
「篠沢は、見る目がないのね~」
これには会長が、溜息をついて呆れていた。
「それは否定できないね」
これは事実だったので、敢えて甘受した。
「何度か美雪と二人で出かけた時に、少なくとも三回はナンパされたわ」
「へぇ~、そうなんですか」
それには全く興味がなかったので、無感情で返してしまった。
「それはそうと、剣棒貸してくれませんか?」
敢えて映画のことは触れず、自然な流れで頼んでみた。
「え、ああ、そうだったね」
まだ承諾してないのに、快く剣棒を渡してくれた。
「ありがとうございます」
僕はそれを受け取って、袋から引っ張り出した。
「相変わらず、美雪は流されやすいわね~」
「そうだね。まあ、こういう時は扱いやすくて助かるけど」
そんなやり取りしていると、運動着に着替えた三島が道場に入ってきた。彼女は緩い感じの運動着で、さっきまで乱れていた髪を後ろで束ねていたが、前髪だけはそのままで表情は相変わらず見えなかった。
「じゃあ、お願いね。若菜」
会長が表情を緩めて、三島に頼み込んだ。
「あ、は、はい」
三島は慌てた様子で、自分の鞄の横に置いてあった棒を掴んだ。
「それ、真棒ですか?」
その棒の長さを見て、三島に聞いた。
「あ、は、はい。え、えっと、剣棒は・・私には・・長すぎ・・ますから」
僕に対して、急に態度が挙動不審になり、たどたどしい返事になった。身長が低い為、剣棒ではなく真棒を使っているようだ。ちなみに、剣棒は六尺で真棒は四尺六寸二分だった。
「よよよろしく・・・お願いします」
僕の前に来て、恐縮しながら深々と頭を下げた。
「お手柔らかにお願いします」
僕も礼儀として会釈で返した。
第三話 急所
僕と三島は、互いに見合って構えた。真棒と剣棒は、攻撃範囲では明らかに三島の方が不利だった。
「あ、あの・・・」
何か言いたいことがあるようで、三島の小さい声が聞こえた。
「なんですか」
緊張しているようなので、話すのをゆっくり待った。その間に痛覚を解放しようかどうか悩んでいた。
「手加減は・・・いらないですから」
僕の雰囲気を察したのか、三島が手心を拒否してきた。
「わかりました」
教えを乞う身なので、敬語で返した。
僕が中段の構えを取ると、三島の雰囲気が変わり、一気に場が緊張に包まれた。その圧倒された緊張に耐えられず、僕から先に仕掛けた。
小手調べとして、最初は中段突きを打ったが、三島がそれを軽くかわし、僕より数段速い突きを放ってきた。しかも、鳩尾という急所に。
「くっ」
突きは見えたが、体重のせいで避けられなかった。しかし、痛覚は遮断している為、痛みはなかった。
「あ、あれ?」
急所に当たった手応えと、僕の反応の食い違いに三島が首を傾げた。
「ぐっ!」
僕は慌てて、その場にうずくまった。痛みは昨日経験しているので、苦悶の表情をつくった。
「痛い・・ですか?」
悶絶のふりをした僕に対して、三島が気遣いの言葉を投げかけた。
「ひ、人の急所なんですから・・痛いに・・決まってますよ」
「やっぱり、そう・・ですよね」
その発言を聞く限り、急所を打たれた経験はないようだった。かく言う僕自身、その痛みを知らなかった。
「凄い的確ね~」
それを見ていた会長が、リングのロープに体を乗せながら感心していた。
「だ、大丈夫?」
妹の方は心配してくれたようで、リングに上がってきた。
「今、わかったと・・思いますけど・・私の突きは・・全部・・急所狙いますから」
おどおどしながら、申し訳なさそうに申告してきた。
「性質悪いですね」
僕はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。動体視力と相手の行動の予測、そして何よりもその的確な攻撃は賞賛ものだった。今の僕では、とても真似できそうになかった。
「狙うのは・・人体の弱点と・・あと・・関節ですね」
「か、関節?」
「関節は・・伸び切った・・時とかに・・打つと・・簡単に・・脱臼させる・・ことができます」
途切れ途切れな発言だったが、内容を聞くだけでは狂人に見えてきた。
「怖っ」
僕と同じ心境になったのか、隣にいる前宮がぼそっと呟いた。
「悪いですけど、そこまでの技量は僕にはありませんね」
ここはクラの人に合わせることにした。
「最初は・・確かに・・難しい・・かもしれませんね」
「そうですね」
三島もこれには苦労したようで、少し難色を示した。
「痛そう・・ですから」
「そ、そうですか・・・」
クラに合わせたが、三島の視点とは合っていなかった。
「続き・・しますか?」
「そうですね。攻防一巡だけではわかりませんし」
別に痛みはないので、抵抗なく再戦を受け入れた。
「だ、大丈夫?」
「ええ」
前宮の気遣いに、軽く表情を緩めた。
そのあと、股間と顔の急所以外を打突され、その度に僕は痛がるふりをした。
「だ、大丈夫?」
その度に前宮が心配して、何度か声を掛けてきた。
三島にいろいろと対抗したが、結果は散々だった。攻撃をギリギリでかわしたり、わざと後手に回ってみたりしたが、結果は変わらなかった。やはり、今の体重ではどうあがいても、避けることができなかった。
「凄い・・ですね」
真棒を抱えた三島が、驚嘆の言葉を口にした。
「何が?」
それにはリング外の会長が反応した。
「ここまで恐れず試行錯誤した人は初めてです」
急所を狙われるとわかっていて、それに恐れない僕を評価したようだ。
「十分怖いですが、急所に来るなら、どこが急所になり得るかを検証する必要がありますから」
日頃、痛覚を遮断している僕には、人の急所が何箇所あるのか知らなかった。この試合は、僕にとっては非常に勉強になるものだった。
「今日はこれぐらいにして、応急処置しとこっか」
会長が僕に気遣って、中断してくれた。
「それは有り難いですね」
僕自身、この休憩は肉体的に有り難かった。
「ありがとうございました」
一応、礼儀として三島に頭を下げた。
「あ、いえ、こちらこそ」
それに対して萎縮ながら、深々と答礼した。
「あ、私、母屋から救急箱持ってくるね」
前宮が率先して、道場から出ていった。
「素早いわね」
その行動の早さに、会長が呆れた声を出した。
「まあ、実力はだいたいわかったかな?」
隅に移動していた三島に、会長が投げかけた。
「はい。だいたいはわかりましたけど、これから私が教えるんですか?」
「当然、そのために呼んだんだからね。約束は守って」
「が、頑張ります」
三島の答えに満足したのか、会長が笑顔で頷いた。
「じゃあ、これからはスケジュール通りに進めるわ」
会長が腰に手を当てて宣言した。
「これから激痛の鍛錬が始まったのだった」
何を思ったか、僕の隣にいた島村先輩が語り口調で嫌なことを言い出した。
「あと、島村先輩は袋叩きにされるのでした」
これに少し腹が立ったので、即座に今の心境を島村先輩の語りに組み入れた。
「なっ、私のナレーションに不穏な台詞が入ってきた!」
島村先輩が大げさに声を張り上げた。
「というか、島村先輩は今後道場の出入りを禁止しませんか?」
「えええ~~~!」
僕の発案に、島村先輩が物凄い不満そうな声を上げた。
「篠沢君に私の楽しみを奪う権利はないよ!」
「僕の苦しむ姿を楽しむのなら、言う権利はあると思いますが」
「え~~と、そう言われるとそうかも」
僕の指摘にさっきまでの勢いが失速した。
「別にいいじゃない?それぐらい」
お茶を飲んでいた会長が、横から口を挟んできた。
「自分が痛がっている脇で、笑われることをどう思う?」
これには少し不愉快になり、会長に例え話を持ち出した。
「そいつに技を掛ける」
会長が嫌な顔をして即答した。
「美雪、道場出入り禁止」
そして、その流れで島村先輩に退場宣言した。
「えええええ~~~!」
島村先輩が再び不満の声を上げた。
「残念でしたね」
思い通りになったことが嬉しくて、笑顔で手を振った。
「やだよ~。私だけ除け者なんて~」
「母さんと母屋で話でもしておいて」
島村先輩の愚図りに、会長がそう言って宥めた。その台詞の中に少し洒落が入っていた。
「・・・い、嫌だよ」
しかし、島村先輩は納得できないようで、膨れっ面から一転して、今度は真剣な表情で目に涙を溜めていた。
「あ、やばい」
それを見た会長が、ぼそっと呟いた。
「かなりやばいね」
僕もそれに同意した。
「会長、何とかして」
「え、私!」
「親友でしょう」
この状態になると、慰めるのに時間が掛かるので関与したくなかった。
「篠沢がやればいいじゃん」
「僕がするのは慰めの言葉だけだから、この状態になると無理だね」
「まあ、こうなると誰かに泣きつくもんね」
それは会長にも言えることだった。この二人は、似ているところが多いようだ。
「だから、異性である僕には無理だね」
「別に、篠沢がやってもなんかそういう印象にはならないけど」
「それは個人がどう思うかだよね。さすがに、自ら窮地に追い込まれることはしないよ」
その間に、島村先輩の感情が沸いてきたようですすり泣きを始めた。
「ほら、そろそろ限界みたいだよ」
僕は、小声で会長に急かした。
「そうだね」
会長が島村先輩に気づき、そっと抱きしめた。
「か、かなえ・・・」
涙を溜め、会長の肩に顔を埋めた。
「なんかあったの?」
道場に戻ってきた前宮が、不思議そうに僕の隣に来た。
「僕が苦悶してる時、笑っているので退場を宣告したら泣かれたんですよ」
「ふ~ん。なんか姉さんみたいだね」
前宮が呆れた様子で、そんな感想を言った。
島村先輩が落ち着くのを待つ間、僕は自分で応急処置を済ませることにした。一応、前宮が持ってきた救急箱を使うふりをしておいた。
「長いですね」
それが終わっても、島村先輩が復活する様子がなかった。
「そうだね。ここまで泣かれたら、追い出すの難しくない?」
「いえ、そうでもないですよ」
前宮の指摘に平然と答えた。
「仲が良いから知ってるってこと?」
「まあ、1年近く組んでいればわかりますよ」
そう言うと、前宮が苦い顔をした。
「どうするの?」
会長が困って、僕に聞いてきた。
「退場してもらうよ」
「そ、それはできない・・かな」
僕のブレの無い答えに戸惑いながら、チラッと島村先輩を見た。
「篠沢君は、私に対しての扱いが酷すぎるよ!」
会長から離れた島村先輩が、涙目のまま悲痛な叫びを上げた。
「なら、少しは感情を抑えてください。僕が痛がっている間、終始笑っていましたよね」
「そ、それは・・痛がる篠沢君が新鮮だったから思わず・・・」
「それはどういう意味ですか?」
言葉に詰まったので、睨みつけて追及した。
「え~と。確かに、笑いすぎたかも」
自分の言い分が不利だと悟ったようで、控えめに悪びれてきた。ようやく、自分の態度に罪悪感を感じたようだ。
「笑いすぎより、笑っていることが問題です」
「ご、ごめんなさい」
これには反論できずに、謝罪とともに頭を下げた。
「わかってくれて何よりです。じゃあ、退場してください」
「えええ~~~」
ここまで話し合っても、その反応は変わらなかった。
「また笑うでしょう」
「わ、笑わないから」
「経験上、先輩には不可能だと思いますが」
「そ、そんなことないよ。私にだって感情のコントロールぐらいはできるよ」
「そうでしたっけ?」
「た、多分」
僕が詰問していくと、どんどん自信がなくなっていった。しかし、道場から退場する意思はなさそうだった。
「ふぅ~、相変わらず、変なところで頑固ですね。どうしてもここに居たいんですか?」
「うん」
その全く迷いのない答えは、会長を彷彿とさせた。類は友を呼ぶとは、この二人にはピッタリの表現だった。
「仕方ないですね。僕の言うことを聞いてくれるなら、考えてもいいですよ」
「え!本当に!」
僕の妥協に物凄く嬉しそうな顔をした。
「ちょ、ちょっと待って、美雪。その条件は危険じゃない?」
親友の軽はずみな承諾に、会長が慌てて止めに入ってきた。
「ん、何が?」
この忠告が理解できないようで、不思議そうに会長を見返した。
「ちょっと耳貸して」
呆れた会長が耳打ちで何かを伝えると、島村先輩が大笑いした。
「ない、ない。それは絶対ないって」
「一応、あれでも男なんだよ」
会長が僕に対して、聞こえるような声で言った。
「で、どうするんですか?」
僕は、島村先輩を見て再び聞いた。
「いいよ。私にできることなら聞いてあげるわ」
「そうですか。まあ、できないのなら道場から出るだけでいいですよ」
「そうなの?なんか珍しく優しい条件だね」
「まだ、内容は言ってませんよ。これができればの話です」
「で、内容ってなんなの?」
「道場では、空気椅子でいてください」
僕は、肉体的に酷な条件を提唱した。
「・・・え?」
言葉の意味がわからなかったのか、僕を見たまま呆然としていた。
「安心してください。無理なら、出ていけばいいだけですから」
「いやいやいやいや。そんなの5分も持たないじゃん」
必死に手を左右に振りながら、自分の体力の無さをアピールしてきた。
「そうですね。じゃあ、5分したら出ていってください」
「そ、そんな・・・」
僕の容赦ない言葉に、絶望的な顔をした。
「なんでその条件なの?」
条件が気になったのか、前宮が横から聞いてきた。
「島村先輩は、喜怒哀楽が自然と表情に出るんですよ。なら、強制的に肉体疲労させれば、笑顔もなくなるでしょう」
「なるほど、笑顔を半ば強制的に封じるわけね」
「そういうことですね」
僕はそう答えて、再び島村先輩を見直した。
「で、どうしますか」
「べ、別なのにしてくれないかな~」
島村先輩が引き攣った笑顔で、条件の変更を求めてきた。
「条件を変えても似たようなものになりますよ」
「なんでよ!」
「先輩から笑顔を失くす為です」
島村先輩の苛立ちを、意に介さず冷静に返した。
「なんかそのやり取りだけ見てると、篠沢が極悪人に見えるね」
横から見ていた会長が、酷く失礼なことを口にした。
「酷い言い草ですね。それじゃあ、僕が人でなしみたいじゃないですか」
「いや、実際そうだよ!」
島村先輩がここぞとばかりに、僕を詰ってきた。
「条件を呑むといったのは、そちらですよ。できないのなら、道場の出入りは禁止です」
「う~~~。わ、わかったわよ。やるわよ!」
半ば逆ギレ気味に、背中を壁に密着させて、膝を90度に曲げた。
「これでいいんでしょう」
「なんか変な格好ですね」
「やらせてる本人が言うな!」
僕の茶化しに、島村先輩が眉間に皺を寄せた。
「前宮に一つ頼みたいことがあるんですが」
島村先輩の怒りを無視して、前宮に視線を移した。
「私は無視か!」
空気椅子のままの島村先輩から、綺麗なつっこみが飛んできた。
「何?」
前宮も島村先輩を無視して、僕に聞き返してきた。
「島村先輩の空気椅子が崩れる角度は、60度に設定します。もし、60度以下になるようなら、退場させてください。あと空気椅子を解除してから、50秒は道場での休憩を認めます。それ以外に膝の90度以上とか、空気椅子が1分に満たない場合も退場とします」
当事者を抜きにして、前宮に条件の詳細を述べた。
「そ、そこまで詳細に決めるの!」
その当事者は、積極的に会話に参加してきた。
「わかったけど、どうやって角度を測るの?」
「分度器とかないですか?」
当事者を敢えて無視して、僕たちは会話を進めた。
「ないね」
前宮が困った顔で言った。
「やっぱりそうですよね~。会長は持ってない?」
「ない」
会長からは、単調な答えが返ってきた。
「困りましたね~。仕方ないですね。目算でしてください」
ここは信頼できる前宮に委ねることにした。
「難しいけど、やってみるわ」
あまり乗り気ではないようだったが、なんとか引き受けてくれた。
話がついたので、僕と会長がリングに上がって対峙した。
「じゃあ、あまり時間もないけど、基本的な寝技と関節技を教えるわ」
「よろしくお願いします」
「オッケイ~♪」
僕の会釈に、会長が快く了承した。
「まず、寝技をするのには、相手を倒す必要があるわ」
「それは基本だね」
「倒し方はいろいろあるけど、私は基本的にレスリングを主流としているわ」
「そうだろうね」
前回の戦いで、レスリングの型だとすぐにわかった。
「あれは相手を倒すには、一番安定しているからね」
「もともと、それを競うために特化してるからね」
「まあ、他にも柔道とかブラジリアン柔術、あとサンボかな」
聞くだけで、自然と渋い顔になった。
「あと、合気道もいいわね」
「合気道もするの?」
「立ち技であれほど効率よく関節を決める格技は稀なのよ」
「そ、そうなんだ」
あまりのうっとりした顔に、僕の気持ちは引いてしまった。
会長が関節技の基本を説明している間、リングの外では島村先輩の悶絶と愚痴の声が大きくなっていった。
「島村先輩、うるさいですよ」
あまりの声の大きさに、堪らず注意した。
「無茶言わないでよ!とっても、きついんだよ」
「知ってますよ。できるだけ声を出さないでください」
「そんな無茶なっ!」
衝撃的だったようで、声を震わせながら叫んだ。
「前宮、先輩に布かハンカチを噛ませてください」
「か、噛ませる?」
「食いしばれば、声も出ませんよ」
「ああ、なるほど」
前宮がそれを取りに道場から出ていった。
「なんか篠沢って、美雪に対してきつくない?」
それを見ていた会長が、少し呆れ顔で僕を流し見た。
「そうだね。僕自身も最近そう思い始めてるよ。きっと、島村先輩の態度が癇に障っているかもしれないね」
僕はそう言いながら、島村先輩に視線を向けた。
「本人を目の前にして、さらっと嫌悪感を口にしないでよ!」
島村先輩は、今にも崩れそうな空気椅子をなんとか維持しながら文句を言った。
「それは失礼しました。暴言でしたね」
これは自分に非があると思い、すぐさま謝罪した。
「わ、わかればいいのよ。今後は気をつけてよね」
対応には満足していたが、表情はつらそうだった。
しばらくすると、前宮がハンカチを持って戻ってきた。
「はい」
そして、島村先輩の口に差し出した。
「あ、ありがとう?」
礼を言うかべきかどうか、微妙なラインだった為、ぎこちなくハンカチを咥えた。
空気椅子の状態でハンカチを咥えた島村先輩は、道場ではかなり異質だった。
「ぷっ!」
三島が思わず吹き出して、口を押さえて笑いを堪えた。それにつられるかたちで会長と前宮も視線を逸らして、必死で笑いを堪えていた。
「なんか私、笑われてない?」
三人の態度に、島村先輩がハンカチを落して発言した。
「笑われてますね~」
僕は、その格好になることを既に想像していたので、特に笑うことはなかった。
「少しは僕の気持ちがわかりました?」
「う、うん」
額に汗を掻きながら、気まずそうに俯いた。
「も、もう、限・・・界」
島村先輩は、徐々に空気椅子を崩して座り込んだ。
「前宮、50秒測ってください」
僕は、すぐさま前宮に指示を出した。
「もう勘弁してあげたら」
同情したのが、会長が哀れんだ目で島村先輩を見ていた。
「会長は、島村先輩のことをわかってないね」
「ど、どういう意味よ」
「親友と公言するなら、これぐらいわかってないと」
「だ、だから、どういうことよ」
「要するに、島村先輩は相手の同情を誘ってるってことだよ」
「は?」
「天然か、意図的かまではわかりませんが、先輩は他人の同情を誘うのがうまいんだよね。相手に同情を促して、自分の意見を押し通す」
「それって悪いことなの?」
「ただ巧妙なだけだよ。まあ、僕には通じないけど」
「要するに、篠沢は人でなしってことだよね」
「うまい揚げ足の取り方だね」
その切り返しには感心してしまった。
「なんか篠沢に揚げ足取っても面白くないね」
会長には、僕の反応がお気に召さなかったようだ。
「50秒経ったよ」
前宮が時計を見ながら教えてくれた。
「じゃあ、退場してください」
僕は手を振って、島村先輩に促した。
「あ、足が痙攣して動けない」
必死で立ち上がろうとしていたが、足が震えて立つことができなかった。
「は~、50秒で回復しないのは計算外でしたね」
「どうするの?」
前宮が困り顔で聞いてきた。
「前宮、担げますか」
「無理だよ」
「でしょうね」
見た目からして、前宮は島村先輩より背は低く、体重も軽く見えた。
「仕方ありませんね」
僕はそう言って、リングから降りた。
「え、ちょっと、どうするのよ」
会長から動揺した声が聞こえたが、それを無視して島村先輩に近づいた。
「こ、今度は何すんのよ~」
島村先輩意が不安そうに僕を見上げてきた。
「何って、退場してもらうんですよ」
そのままでは島村先輩を持ち上げられそうにないので、腕の筋肉を硬化させてから島村先輩を両手で担ぎ上げた。なるべく、島村先輩の皮膚にも直接触れないように注意した。
「はわわわわ~、ななななになになに」
しかし、こちらの意図とは反するように島村先輩が暴れだした。
「前宮、母屋まで先導してください」
僕は前宮を急かすように早口で言ったが、心ここに非ずのようで動く気配がなかった。
「す、凄い。恥ずかしげもなく、お姫様抱っこするなんて」
会長が目を見開いて、感心したような声を上げた。
「・・・」
三島は、何も言わずその状況をただ見つめていた。勘違いかもしれないが、その瞳には羨望に近いように感じた。
「前宮」
未だに動かない前宮に再び呼びかけた。
「え、あ、あああ、う、うん」
状況が整理できないのか、ぎこちない返事が返ってきた。
その間、島村先輩はずっと声を荒げて暴れていた。
「先輩、うるさいです」
道場を出ても暴れるので、冷静に注意した。
「なら、降ろして!」
「立てないでしょう」
「た、立てる!立てるから!」
「そうですか」
うるさいほど主張するので、その言葉を信じてみることにした。
「前宮、そこに靴を置いてください」
島村先輩の靴を持っていた前宮に、目線を下に向けて頼んだ。
「あ、うん」
前宮が少し慌てた様子で、石畳に靴を置いた。その上に島村先輩を降ろしてみると、足を震わせながら必死で立った。
「立てるじゃないですか。もしかして、さっきのは演技ですか」
そう言いながら、筋肉の硬化を解除した。
「ち、違うわよ!さっきは本当に立てなかったのよ!」
僕の詰りに強い口調で声を荒げた。
「じゃあ、もう一人で母屋で休憩してください」
「わ、わかったわよ」
島村先輩はフラフラしながら、母屋に歩いていった。
僕は、それを見送ってから道場に引き返した。
第四話 疲労困憊
「あれ?早かったね」
道場に戻ると、会長がコップと水差しを持っていた。
「自分の足で戻ったよ」
「無理して立ったのね。まあ、あれは恥かしいもんね」
会長は納得しながら、コップに入ったお茶を一気飲みした。
「なんか島村先輩って邪魔だね。もう自宅に帰したら?」
「本人がいないからって、酷いことを言うわね」
「これじゃあ、スケジュール通りにできないと思うけど」
「それは一理あるけど、親友を邪険にはできないし、噂への対策もあるから無理ね」
「まあ、そうだろうね」
僕はリングに上がって、再び会長と対峙した。
「ねえ、今度の争奪戦で優勝したら、私もお姫様抱っこして欲しいだけど」
会長が笑顔で嫌な要求してきた。
「・・・」
「なんか言いなさいよ」
僕の蔑視の眼差しに耐え切れないようで、苦い顔で発言を求めてきた。
「正気?」
「どういう意味よ」
「だって公衆の面前で、そんなことするのは羞恥の極みだよ」
正直、島村先輩を運んだのも、かなりの勇気を振り絞っていた。まあ、僕の場合羞恥ではなく嫌悪感だったが。
「じゃあ、さっきのは何よ」
「あれは、緊急措置。条件を出した僕がその条件を反故するわけにはいかないからね」
ここは理路整然に言い訳してみた。
「・・・なんか篠沢の言葉には説得力あるわね」
「わかってもらえるように説明してるからね。もし、これで理解できない人がいたら、思考回路が違うんだと諦めるよ」
「皮肉も凄いわね」
これには納得しながらも呆れていた。
その後は、会長の指導が7時まで続いた。会長との組技は、日頃の武活の時とは、比較にならないほどきつかったが、それより直接皮膚が接触するのが、不快で仕方なかった。
「はぁー、はぁー」
過度な接触と疲労で、過呼吸になってしまった。
「だ、大丈夫?」
前宮が汗をかいてる僕に、タオルを差し出してきた。母親は全身に汗はかかないが、クラの遺伝子を半分受け継いでいる僕には、全身に汗腺があった。
「あ、ありがとうございます」
僕は、タオルを受け取って額を拭った。
「まあ、今日はこれぐらいだね」
しかし、会長は爽快にタオルで汗を拭っただけで、あまり疲れた様子は見られなかった。
「じゃあ、今日は終わり」
会長が終了を告げて、リングを下りた。
「お茶持ってくるね」
前宮が僕の状態を見て、率先して行動した。
前宮に介抱され、十数分後にようやく汗が引いてきたが、胃に水分が多くて気持ち悪かった。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
僕が何度目かのお礼を言うと、前宮が同じような仕草で返した。
誰もいない道場で手早く着替えて、時計を見ながら道場を出た。
「あ、門まで送るよ」
外で待っていた前宮が、声を掛けてきた。
「あ、は、はい」
僕たちは、門扉まで無言で歩いた。
門扉に着くと、会長と三島が話していた。
「あ、来た来た」
会長がこちらを見て手招きした。
「あのさ、若菜と一緒に帰ってくれない?」
「・・・なんで?」
予期していないことに思わず聞き返した。
「だって、この時間に一人じゃあ危険でしょう。篠沢の為にここに来てくれたんだから、それぐらいはいいじゃん」
「彼女は、男性恐怖症だよね」
「だから、篠沢が送ってあげて」
「いや、男性恐怖症の人と一緒に帰る僕が一番危険な気がする」
正直言って、かなり嫌だった。
「大丈夫、ちゃんと暗示かけといたから」
会長が得意げにそんな嘘をついた。
「信用できないっ!」
これにはつっこまずには入られなかった。
「それに一緒に帰ったら噂立つよ」
このまま押し切られるのは嫌なので、別の視点から問題を提起した。
「あ、それは失念してた」
本当に忘れていたようで、口を手に当てて驚いていた。
「う~~ん。噂が立つのは困るね。あ!じゃあさ、後ろからついていくっていうのはどうかな」
これが良いアイディアと思ったのか、自信満々に言った。
「傍から見たら、僕が変質者に見えるよ」
その一場面を想像しただけで、自分でもかなり怪しい人物に映った。
「そ、そう言われると、そう見えるかも」
会長も同じような光景を思い浮かべたようで、口元を引き攣らせた。
「あの・・・別に一人でも帰れますから」
このやり取りに見兼ねたのか、三島が割って入ってきた。
「だそうだけど」
僕は、三島の言い分を会長に横流しした。
「ダメよ。か弱い女の子を一人で帰せないわ」
「僕より強いのに?」
僕は、棒袋を持っている三島を見た。
「いや、対面では強いけど、不意を衝かれたら、女の方が圧倒的不利よ。それに若菜は小柄だし」
「まあ、常に気を張るのは無理だね。いっそのこと走って帰るという手もあるよ」
少し強引な気がしたが、提案だけはしてみた。
「・・・」
「すみません。嘘です」
会長に睨みに負けて、早口で謝った。
「じゃあ、どうやって送るかだね」
「仕方ない。妹と言うことにしようか」
早く帰りたかったので、最終手段として言ってみた。
「あ、それいいね・・・ところで、妹はいるの?」
聞くかどうか悩んだようで、少しだけ間があった。
「僕は、一人っ子だよ」
ここは素直に答えておいた。
「それを知ってる人はいるの?」
「多分、いないと思う。兄弟のことを口にしたのは、これが初めてだから」
「それは好都合だね。じゃあ、それでお願い」
「三島さんもそれでいいですか?」
念の為、本人の意見を聞いてみた。
「う、うん・・距離をとって・・くれるなら・・いいです」
三島がぎこちなく頷いたが、表情は髪に隠れて見えなかった。
「あと、仮にとはいえ、妹にさん付けと敬語はやめてよね」
会長は、呆れ顔で指摘してきた。
「ああ、それは不自然だね。できるだけ、しゃべらないように気をつけるよ」
あまり三島に近づきたくなかったので、ここは配慮することにした。
「できるだけ、会話はして欲しい」
「・・・理由を聞いてもいいかな」
身を挺にしてまで、三島と会話をしたくなかった。
「棒術を教えてもらう代わりに、若菜の男性恐怖症を克服に協力することが条件になってるから」
「医者に頼んだ方が早くない?」
勝手に条件を決めて、こちらに押し付けるのは酷く理不尽だったので、解決策を別に向けてみた。
「ああ、親にバレたくないんだって」
「あ、そう」
他人に頼るほど克服したいのようだが、手段は間違えているような気がした。
「わかった。努力はしてみるよ」
渋るとまた時間が伸びそうなので、仕方なく三島の条件を呑むことにした。
「帰りましょうか、三島さん」
「って、言ってるそばから敬語に加えて苗字で呼ばないでよ」
僕の発言に、会長が素早くつっこんできた。
「まだ本人の承諾を得てないから、歩きながら決めるよ」
会長にそう答えて、勝手口を開けた。
「そういえば、島村先輩はどうしてるの?」
僕は扉を支えた状態で、会長の方を振り返った。
「多分、母さんと談笑してるんじゃない?」
憶測のようだが、ちゃんと答えてくれた。
「そう。島村先輩の剣棒は道場に置いているから、あとで渡しておいてくれないかな」
「わかった」
「じゃあ、お疲れ様でした」
僕は姉妹に挨拶して、勝手口から外に出た。三島も会釈して、その後ろからついてきた。
「で、どうしますか?」
少し距離を取って、改めて本人の意思を聞いてみた。
「あ、あの・・一つ聞いても・・いいですか」
かなり小さい声だったが、なんとか聞き取れた。恐怖からか、僕と話す時だけ言葉が途切れ途切れになっていた。
「なんですか?」
「なんで・・敬語なん・・ですか」
この間の取り方は、僕に対しての精一杯の対応のようだ。
「僕は、初対面の人には大抵は敬語です。それに今回は教えられる側ですから、敬語が妥当だと思いますが」
「そ、それは・・やめて・・欲しいです。私は・・後輩ですから・・先輩に敬語を使われると・・萎縮してしまいます」
顔は常に下を向けたまま、必死で言葉を発していた。
「それは失念していましたね。では、敬語はやめましょう」
ここは三島の意思を尊重することにした。
「そうして・・くれると・・助かります」
「で、本題に戻すけど。ここから一緒に帰る?」
「そ、それは・・どういう・・意味ですか?」
僕の言葉が理解できないようで聞き返してきた。
「これは本人が決めるべきだと思う。嫌なら断ってもいいよ」
無理強いは嫌なので、三島の意志を確認した。
「・・・」
「決められないかな?」
長い沈黙に、僕の方から返事を促した。
「う、ん」
三島が悪びれながら頷いた。
「歩きながら話そうか」
「は、はい」
ずっとここに留まっていると、不審に思われるので、この場を離れることにした。
僕たちは1メートルぐらい離れて、並行に歩いた。
「家はどの方面なの」
僕の問いに、三島がたどたどしく家の方向を指差した。
「途中までは一緒だね。そこまでは送ろうか?」
「じゃ、じゃあ・・お願いします」
断ってくると思ったが、おどおどしながらお願いしてきた。
「なら、これからは妹という設定になるけどいい?」
「う・・ん」
「呼び方は、今まで通りにして、できるだけ名前は呼ばないようにしようか?」
「呼び方は・・決めといたほうが・・今後の対応に・・困らない・・と思う」
ここまで長い言葉だと、どこで入っていいか、わからなくなってしまった。
「まあ・・・そうだね」
なかなか頭の回る後輩だったが、話し方がじれったかった。
「じゃあ、お互い名前で呼ぼうか」
「わ、私も・・名前・・ですか」
「兄妹だから名前で呼び合うのは特に不自然ではないよ。多分」
兄妹がいないので、自身はなかった。
「あ、あの、個人的に・・抵抗があるん・・ですけど・・・」
このしゃべり方が抵抗あると、声を上げて主張したかったが、敢えて言葉にしなかった。
「そこは涙を呑んでもらうしかないかと思う」
「あ、いえ、名前で・・呼ぶのが・・ですけど」
「え、えっと、どういうこと?」
何に抵抗あるのが、理解できずに首を傾げてしまった。
「もしかして、兄とかつけるとか?」
憶測で言うと、若菜が静かに頷いた。
「そっちの方が抵抗があるよ。主に僕が」
兄という言葉は、何かに繋がれている気分になるので、演技でも嫌だった。
「そ、そう・・ですか。なら・・間を・・取りましょうか?」
この途切れ途切れの話し方でも、自分の意見を出してきた。男性恐怖症のようだが、自己主張は強いようだ。というか、僕に対して意見を言える時点で、本当に男性恐怖症なのかと疑ってしまった。
「間?」
「春希兄さん・・でいいですか?」
「う~~ん。じゃあ、それでいこうか」
さん付けという他人行儀な呼び名に抵抗を感じなかったので、それを許容することにした。
それが決まると、お互いの会話がなくなった。これでは前宮と同様な帰宅になりそうだったが、初対面の上に男性恐怖症の女子に何か話題を振るという勇気はなかった。
「あ、あ、あ、あの」
僕より若菜の方が、沈黙に耐えられないようで声を掛けてきた。
「何?」
「なんで・・男性恐怖症か・・聞かないん・・ですか」
「え?初対面でそれを聞くのはさすがにデリカシーなさすぎだよ」
「そう・・言われると・・そうかも」
それよりも、このしゃべり方が気になってしかたなかった。
「一つ聞きたいんだけど、武活に来れない理由って、それが原因なの?」
「う・・ん」
若菜は、申し訳なそうに頷いた。
「そう。大変だね」
「と、特に・・柏原先輩は・・とても苦手」
「まあ、あの人は積極的に近づいてくるタイプだからね~」
実際、僕も苦手だった。
「挨拶・・された時も・・とても・・近くて」
「だから、無視したんだ」
「う・・ん」
若菜が胸を押さえて辛そうに俯いた。
「もう一人で帰る?」
若菜の雰囲気を察して、僕からそう聞いてみた。
「す、すみ・・ません」
「いいよ。じゃあ、また明日」
「さ、さようなら」
若菜が初めて僕に顔を向けてから、駆け足で去っていった。
「あれ、篠沢?」
自宅に向かって歩いていると、曲がり角から一人の男子生徒が声を掛けてきた。タイミング悪く、高級住宅から出てきたところだった。
「あ」
彼とは1年の時から同じクラスで、角ばった顔に眼鏡を掛けていた。たまにズレる眼鏡を両手で直す姿は、かなり特徴的だった。ちなみに、名前は覚えていなかった。
ふと周りを見ると、制服姿の生徒がちらほらと見てとれた。武活終わりの生徒の帰宅時間と重なったようだ。
「おまえの家って、この方面だったのか」
彼はそう言いながら、高級住宅街の方を見た。
「いや、違うよ」
「なら、何してるんだ?」
「散歩」
ここは表情を変えず真顔で答えた。
「・・・冗談か?」
「まあね。本当は野暮用」
「おまえの冗談はわかりにくいな」
「まあ、お互い馬が合わないからね」
これは常日頃思っていることだった。
「本人を目の前にして、そんなこと言うのは異常だと思うぞ」
「そうかもね。だけど、生憎建前が苦手でね」
建前は面倒臭い女性だけで手一杯だった。
「建前はともかく、言葉は選ぶべきだな」
「これでも選んでるつもりだよ」
「そうか、篠沢とは馬が合わないな」
結局、彼も僕の意見と同じ結論に至った。
「じゃあ、もう行くよ」
状況的にあまり話したくないので、彼の横を通り過ぎようとした。
「なあ、前宮と何かあったのか」
すると、唐突にそんなことを聞いてきた。
「何かって?」
内心かなり動揺したが、平静を保って顔だけを向けた。
「最近、前宮との接し方が異様だぞ」
「まあ、確かに僕もそう思うよ」
自分でもその異様さは実感していた。
「何があったんだ?」
「友達になっただけだよ」
「友達?それだけか」
「そう認識しているよ」
「友達であそこまでするのは信じられないんだが」
彼は何かを思い出しながら、言葉を発していた。
「ん、なんの話?」
「教師を口で捻じ伏せた話だよ」
それを言われた瞬間、記憶にはないが耳を塞ぎたくなるような気分に駆られた。
「あ、ああ、あれね。本人に聞いてみたら?」
これについては、僕も理解できなかったので、そう言わざるを得なかった。
「聞けるかよ。あいつは、沈黙の宮って皮肉られるほど無口なんだから」
「そう言えば、1年の時にそう言われてたね」
「去年は話しかけても無視されるから、用件はほとんど教師が伝えていただろう」
「そうだったね」
確かに、前宮はクラスでそんなあだ名が付くほどの寡黙だった。話しかけても返答するのは唯一教師だけで、他は完全に無視していた。進級する頃には、そのあだ名は一切聞かなくなっていた。
「あの事件は、クラスではもう話題になってる」
「まあ、そうだろうね」
あれほどの事件が、話題にならない訳はなかった。前宮には、もう目立ちたくないという思いは霧散しているようだ。
「憶測だけど、前宮にとってはあの行動は普通だと思ったんじゃないかな」
かなり自信はないが、これ以上この話が悪い方向にいかないよう阻止する必要があった。
「あれがか」
「考えても見てよ。前宮は、去年から友達がいなかったんだよ。だから、接し方も常識とは違うんだよ・・・多分」
話せば話す程、どんどん自信がなくなっていった。そもそも、なんで僕が前宮をフォローしているのだろうと、自分自身に首を傾げた。
「つまり、前宮にとっての友情は、常軌を逸しているってことか」
「そうだね。本当、代わって欲しいよ」
僕は悄然として、思いの丈を口にした。
「その様子だと、本当に友達になっただけだな」
「勿論だよ」
「大変だな。おまえも」
「珍しいね。僕にそんなこと聞いてくるなんて」
「こっちとしても不本意だよ」
彼は、僕に対して建前を取り払っていた。こちらとしても、そのほうが話しやすいので気には留めなかった。
「まあ、篠沢には言っておいてもいいか」
一瞬だけ思い悩んだ顔をしたが、話すことにしたようだ。
「前宮に好意を持ってる奴がいてな。そいつが、おまえに聞けってうるさくてな~」
「会話できない人に好意?なんか変じゃない?」
「ああ、かなり変わった奴だよ」
「その人に伝言をお願いするよ。代わりたいならいつでも来ていいから。というか、是非来て欲しい」
「よっぽど嫌なのか」
「会話のない友達だと思えばいいよ」
「それって友達なのか?」
「僕も友達の定義がわからなくなってる」
「そういうことなら、あいつに言っておくよ」
「お願いするよ」
彼と別れた後、前宮に好意を持っている人の名前を聞くのを忘れたことに気づいたが、どうでもいいことだったので、自宅の方へ歩き出した。
『おかえり~』
家に帰ると、母親が玄関まで出迎えに来た。母親の服装は朝と少し違っていて、白のブラウスは同じだったが、下は淡い紺色のジーンズに変わっていた。スレンダーの母親にはこちらの方が似合っていた。
『ねぇ~、もう外出しても良い?』
もう留守番は飽きたようで、子供みたいにお願いしてきた。
『次の日の出までダメだよ』
これは職質された時のペナルティだった。
『3日って長いね~』
母親は、拗ねたようにリビングに戻っていった。ナルでは時間の概念がほとんどないので、母親には1日が長く感じるようだ。
『あ、そうだ』
僕はリビングに入って、怪我していることを思い出した。
『母さん。タンパク質くれない?』
『ん?どうかした?』
『うん。ちょっと打撲しちゃって』
僕はそう言って、母親にお腹を見せた。自然治癒でも良かったが、できるだけ早く治したかった。
『うわ~、腫れてるね~』
母親はそれを見て、痛そうに顔を歪めた。
『まあ、脂肪のおかげで骨折とかはしなかったよ』
『ふ~ん。打撲だけで済んだんだね』
『体重調整が幸いしたよ』
そうは言ったが、体重調整しなければ若菜の突きはかわせていた。
『タンパク質と脂質でいいかな?』
僕の体を見て、母親がそう判断した。
『じゃあ、それでお願い』
脂質は不要に思ったが、母親の判断を信じることにした。
母親から生成された物を体に取り込んで、あとは深呼吸して自然治癒を高めた。
『痛覚は解放しなかったの?』
『昨日、痛みを知ったから、演技で誤魔化した』
『まあ、そっちの方がいいかもね』
何度も痛覚を解放していたら、その度に寝不足になるので、それだけは避けたかった。
『私としては、攻撃を受けて欲しくないけどね』
『それをしたら、クラにはいられなくなるよ』
性格が特殊でも変人扱いだけで済むが、身体能力の特殊は化物だと敬遠されそうだった。
『それは困るわね』
少し大げさに言ったが、母親は真に受け止めていた。
『そろそろ、バイトに行くよ』
『あ、うん。いってらっしゃい』
時間的に少し遅くなってしまったので、急いでバイト先へ向かった。
第五話 期待外れ
朝、目覚ましの音で目を覚ました。昨日の気怠さはなく、体調が好調になっていたが、体は重いままだった。
昨日より10分遅れて登校すると、大通りの交差点で前宮が待っていた。
「おはよう」
前宮は、微笑みながら近寄ってきた。自宅を出るのが10分近く遅かったはずなのに、待っていたことには驚いてしまった。
「あ、あの、どれぐらい待ってたんですか?」
「ん?20分ぐらいかな。遅いからもう行ったと思ったけど・・・待ってて良かった」
何が良かったのかよくわからなかったが、本人が納得しているので僕からは何も言えなかった。
「別に、無理して待たなくてもいいですよ。約束もしてないですし」
「大丈夫、無理してないから。でも、これからは一緒に登校したい」
「い、一緒に・・ですか?」
「うん。友達だし」
「そうですね・・・なら、これからは昨日と同じ時間に登校しましょうか」
どうせ下校も一緒なので、登校も許容することにした。前宮姉妹のあの口喧嘩を見ている僕には、前宮を言葉で捻じ伏せようと言う気にはなれなかった。
「うん」
よほど嬉しいのか、満面の笑顔で頷いた。これからずっと気まずい登校をするかと思うと、登校拒否に陥りそうだった。
「筋肉痛してないんだね?」
突然、一歩半後ろの前宮から、そんなことを言われた。
「え?」
これには驚いて振り返った。
「昨日、あんなに疲れてたのに・・・」
前宮が不思議そうに、僕を見つめた。昨日の僕の疲れ具合を見て、筋肉痛になることを予想していたようだ。
「あ、ああ。筋肉痛してますよ」
僕は、慌てて嘘をついた。
「え、そうなの?」
「ま、まあ」
本当のことは言えないので、すぐに前を向いてごまかした。
「ふ~ん。そんな感じには見えないけど・・・」
後ろの前宮から視線を感じたが、敢えて無視することにした。
学校に近づくにつれ、制服姿の生徒が少しずつ見受けられた。
「あ、そうだ」
僕は、昨日借りた電子ノートのことを思い出した。
「これ、ありがとうございました」
そして、鞄から借りた電子ノートを取り出した。
「あ、う、うん」
前宮が少し戸惑い気味に、電子ノートを受け取った。
「前宮のおかげで助かりました」
「役に立って良かったよ」
僕の誠意を込めた感謝に、嬉しそうに表情を緩めた。
そのあとは、学校まで会話はなかったが、後ろを歩く前宮はなぜか嬉しそうに見えた。
教室に入ると、一瞬だけ教室にいた全員が僕たちに視線を向けた。僕たちというよりは、後ろにいる前宮にだった。
その前宮はその視線を意にも介さず、自分の席についた。
「今日もか」
僕が席に座ると、弘樹が見飽きたかのようにからかってきた。
「昨日より10分遅れて登校したんだけど、同じ場所で待っていてね。本人いわく、20分近く待っていたそうだよ」
「そ・・そうか」
その事実に、弘樹から引き気味の返事が返ってきた。
「これからは、一緒に登下校しようと言われてる」
「受け入れたのか」
「うん。どうしたらいいかな」
「嫌なら断れば?」
「そうしたいんだけど、できないんだよ」
「弱みでも握られているのかよ」
「いや、弱みではないけど、罪悪感みたいなものかな」
前までは、僕が噂を広めてしまったことに罪悪感はあったが、今ではそれを上回る噂を前宮自身が広めてしまっているので、罪悪感は消失しつつあった。
「おまえも罪悪感を持つことがあるのか」
「まあ、人なりには」
クラに来るまでは罪悪感の意味すらわからなかったが、集団で生活していると自然と罪悪感を持つようになっていた。
「衝撃的事実だな」
友達としては失礼極まりない発言だったが、日頃の言動のせいで反発はできなかった。
「とにかく、断る方法を是非ご教授願いたいね」
「春希に無理なら、俺にも無理だな」
「もう少し考えてよ」
「俺は、春希の上をいく考えは持ち合わせていない」
「なら、発想を求めるよ」
「う~ん、嫌われるというのはどうだろう」
弘樹から安直な考えが飛び出した。
「嫌われるにしても、会話があまりできないんだよね」
会話がなければ、嫌われようもなかった。しかも、無言の状態が前宮は嫌いではないようだった。
「現時点での発想はそんなもんだな。また、思いついたら提案させてもらおう」
「助かるよ。一人じゃあ、断念しそうだからね」
始業の鐘が鳴り、担任が入ってきた。それを見た生徒たちが、ダラダラと席に座った。
二時限目は移動教室なので、弘樹と一緒に教室を出ると、後ろから前宮が黙ってついてきた。
「そういえば、そろそろ体育の授業が、争奪戦に向けた授業に転換する頃だよね」
僕は、今思い立ったことを弘樹に振った。
「そうだな。俺、あれ地味だから嫌いだな」
「まあ、あんなシュールなことなんて必須でなければ、誰も受けたいと思わないよね」
この学校の代名詞である彼女争奪戦が近づくと、体育の授業は格技の選択授業から一転して、受身と軽業だけに変わっていた。これは争奪戦での大怪我をできるだけ軽減させるためで、1年の頃の体育はほとんどこの受身と軽業を中心とした組み手だった。
「でも、身を守るために必要だと思う」
突然、後ろの前宮から正論が飛んできた。
「そうですね」
ただの愚痴に的確な指摘をされては、そう返すことしかできなかった。
そして、話題が打ち切られ、黙ったまま移動教室についてしまった。僕らが溜息交じりで席に着くと、前宮が当然のように僕の隣に座った。
「なんか今日は口数少ないね」
前宮の発言に、僕たちは呆れた表情でお互いを見合った。正直、沈黙の原因である前宮に言われるのは心外だった。
「前宮って、好きな人いるんですか」
少し腹が立ったので、前宮に対して意地悪な質問をしてみた。
「え!え・・っと・・・いる」
前宮はそう言って、物凄く恥ずかしそうに俯いた。答えを渋ると思ったが、結構あっさり告白してきた。
「えっ!いるんですか?」
これには予想外すぎて驚いてしまった。
「おい、異性にその質問はタブーだぞ」
なぜか弘樹が、止めに入ってきた。
「そうなの?」
これは初耳だったので、弘樹に視線を移して聞き返した。
「それに藪蛇だと思うし」
前宮を見た弘樹が、場とそぐわない発言をした。
「藪蛇?今、それを使う場面じゃないよ」
「間違いなく、その場面だ」
「えっと・・・藪蛇って意味知ってる?」
「わかってるよ!」
さすがにこれには腹が立ったようで、嫌な顔で返された。
「なら、今の質問のどこが藪蛇になるんだよ!」
弘樹に感化されて、僕も感情的になってしまった。
「怒んなよ!」
これに弘樹が顔を歪めて、感情を制してきた。
「二人ともうるさい」
この言い合いに、前宮が低い声で睨みつけてきた。
「すみません」
「すいません」
前宮の一喝に、僕たちは頭を下げて謝罪した。
居心地の悪い授業が終わり、教室に戻って前宮と別れた。
「なあ、前宮ってさ、俺とあまり話してくれないよな」
弘樹が席に座った前宮を見ながら、僕に話を振ってきた。
「そうだね」
「なんか近くにいるのに、無視されるってちょっと傷つくな」
「別に、弘樹も話しかけてないでしょ」
「そうだけどさ。話しかけづらいんだよな~」
「まあ、昼休みにたっぷりと質問攻めにしたらいいよ」
「あれ、マジで実行するのか」
「でないと、ずっとあの雰囲気の中での昼食になるよ」
「それは避けたいな」
弘樹がそう言うと同時に、授業の本鈴が鳴った。
午前の授業が一通り終わり、昼食になった。
「さて、難関を突破する前に売店行ってくる」
「いってらっしゃい」
「その間、なんとか場の雰囲気を和ませてくれ」
弘樹から軽いノリで、無理難題を言ってきた。
「女子との会話に不慣れな僕には難しいよ」
「それは俺も一緒だ」
「別に、無理して話さなくてもいいよ」
突如、僕たちの会話に横やりが入った。驚いて声の方を向くと、前宮が弁当箱を持って立っていた。
「い、いつから聞いてたんですか?」
僕は、前宮に恐る恐る尋ねた。
「その間って、辺りから」
ほとんど最初からだった。
「じゃ、じゃあ、俺は売店に行くから」
弘樹は、場の雰囲気を悪くして出ていった。
「前宮は、会話が嫌いなんですか」
「う~~ん。人によるかな。少なくとも姉さんとの会話は嫌い」
聞いてもいないのに、そこだけは明確にしてきた。
「姉妹だから・・ですか?」
「そうね。長年連れ添うと、不協和音が生じるのよ」
そう愚痴りながら、僕の隣の席に座った。
「篠沢、ちょっといいか」
突然、横から僕を呼ぶ声がした。
振り向くと、男子生徒が教室の出入口で手招きしていた。昨日、帰りに会ったクラスメイトだった。
「何?」
僕は席を立って、彼に歩み寄った。
「約束通り、連れてきたぞ」
「あ、ああ、前宮に好意を持っている人ね」
まさか昨日の今日で来るとは思っていなかった。
「え、えっと、どこにいるの?」
周囲を見渡したが、そういう生徒は見受けられなかった。
「あいつだよ」
彼は、後ろの窓辺の女子生徒を指差した。彼女は、俯いたままこちらを気にした様子だった。長い茶髪で表情は見えなかったが、こちらを見た時に顔の輪郭は確認できた。一重の目に、頬にはそばかすがあり、かなり細身な体系だったが、全身からは強気な雰囲気が漂っていた。
「え、好意持ってるって女子なの?」
好意という言葉から男子生徒だと思っていたので、かなり戸惑ってしまった。
「そうだ」
「本気で?」
「そうだよ」
「う~~ん。状況打破できるの?」
見た感じでは、話を盛り上げてくれるようには見えなかった。
「知るか。本人に聞け」
渋った僕に対して、苛立ちをあらわにした。
「じゃあ、紹介して」
「ああ、初対面だったか?」
「うん」
彼は、窓辺にいる女子生徒を呼んだ。
「俺の幼馴染で2年の久米詩絵だ。で、こっちがクラスメイトの篠沢春希だ」
そして、互いを手短に紹介した。
「はじめまして、篠沢です」
「こ、こちらこそ、よろしく」
人と話し慣れていないのか、とても早口だった。
「ところでクラスはどこ?」
初対面の久米には聞かず、クラスメイトに聞いた。
「隣だ」
「ああ、そう。前宮とは初対面ですか?」
これは必要なことだったので、久米に直接聞いた。
「い、いえ・・・」
前宮との昔の関係を聞きたかったのだが、話してはくれないようだ。
「そうですか。なら、紹介はいらないですね」
僕は、余計な話はせずに教室に戻った。彼女も何も言わずついてきた。
「何の用だったの?」
前宮が僕だけを見て尋ねた。
「一緒に昼食を食べたいという生徒を連れてきました」
そう言って、後ろにいた久米を紹介するために横にずれた。
「・・・」
すると、久米を見た前宮が怪訝そうな顔をした。
「ひ、久しぶり。ノゾミン」
久米がぎこちなく挨拶をした。しかも、前宮をあだ名で呼んだ。
「そのあだ名はやめて。あなたとは絶交したはずよ」
前宮がそっぽを向いて、久米を拒絶した。
「あ、う」
その対応に表情を曇らせて俯いてしまった。
「旧友だったんですか?」
不穏な空気になったので、僕が仲介に入った。
「まあ、中学の話だけど。それより篠沢と久米は、どういう関係なのか知りたいんだけど」
前宮が真剣な顔で、僕を見上げた。
「今日が初対面ですね」
別に隠す必要はなかったので、事実を話した。
「初対面の人と昼食を取るの?」
「まあ、僕は初対面ですが、前宮とは知人みたいですから問題ないと思いまして」
「残念だけど、その人と一緒に食事を囲みたくないわ」
その言葉に、久米がさらに傷ついた表情になった。
「前宮、本人を目の前にして酷いですよ」
「いいのよ。彼女は昔、私に酷いことしたから」
「そ、それは謝ったでしょう」
久米が顔を上げて、少し強い口調で反論した。
「悪いけど、誠心誠意謝られても許せなかったから、絶交させてもらったわ」
前宮は、引き攣った笑みを見せて皮肉った。
「じゃあ、これを機に許したらどうですか?」
僕は居た堪れず、久米に肩入れした。
「無理。この傷は結構根深いのよ」
「だそうですが、どうします?」
ここまで言い切られると、久米に判断を委ねるしかなかった。
久米は苦渋の顔色を浮かべて、方向転換してこの場を去ろうとした。
「え、帰るんですか?」
あまりの潔さに、思わず引き止めてしまった。
「私は、ノゾミンの気分を害しに来たわけじゃないわ」
久米が足を止めて、悲しそうな声で答えた。
「わざわざ口利きしてくれたのに、そんな簡単に身を引くんですね」
期待していた分の思いが、皮肉というかたちで口に出てしまっていた。
「あなたに何が分かるの!」
久米が怒りに身を任せて声を張り上げた。周りの生徒が驚いて、こちらに顔を向けた。
「そうですね、わかりませんね。じゃあ、なぜあなたはここに来たんですか?もしかして、あわよくば仲直りしようとでも思ったんですか?だとしたら、浅はかですよ」
久米の感情的な反応に、僕も感化されて暴言が止まらなかった。
「あなた・・・私に喧嘩売ってるんですか?」
怒りに堪え歯軋りして、僕に敬語を使った。地味な女子の怒りの形相は、かなり迫力があった。
「まさか。ただ率直にそう思っただけですよ」
あと一押しで、確実に怒ると予想できたので、ここで引くことにした。
「すみません、引き止めてしまって」
僕はそう言って、席について弁当を食べ始めた。
「・・・明日、また来るわ」
久米がそう言い残して、教室から出ていった。最悪なかたちではあったが、繋ぎ止めることには成功したようだ。
「どういうつもり?」
さすがに前宮が険悪な顔で、僕に尋ねてきた。
僕は、昨日の経緯を簡単に説明した。久米が前宮に好意を持っていることや、この雰囲気を打破するためという僕の意向は当然省いた。
「安易に受け入れたのね」
「まさか昨日の今日で来るとは思いませんでしたよ」
「今度から、私にも承諾を得て欲しい」
「わかりました」
本人からそう言われたら、受け入れざるを得なかった。
「お、終わったのか?」
弘樹が何かを気にしながら、教室に入ってきた。
「遅かったね」
「いや、かなり前に戻ったんだけど、殺伐としてたから入れなかったんだよ」
確かに、あの雰囲気になって数人の生徒が出ていくのが見てとれた。やはり、引き止めたのは失敗だったと後悔した。
「で、あの女子は誰なんだ?」
「隣のクラスの生徒だよ」
「そういうこと聞いてるんじゃない」
「そうだろうね。説明は後にして、昼食にしよう」
久米のせいで、思いのほか時間が過ぎていた。
「じゃあ、当初の計画通り前宮に質問攻めしようか」
僕は、惣菜パンを食べ始めた弘樹に切り出した。
「無理しなくていいわよ」
よっほど嫌なのか、前宮が眉を顰めた。
「そうはいかないよ。これは前宮と仲良くなるためだからね」
本音を言えば、この雰囲気が耐えられないからなのだが、言い換えて取り繕っておいた。
「そ、そういうことなら、仕方ないわね」
これに前宮が、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「でも、飯村の質問には答えないわ」
しかし、話を進める前に釘を刺してきた。
「なんでだよ!」
これには弘樹が、すかさず抗議した。
「俺だけ無視ってかなり傷つくぞ!」
「だって、あなたとは友達になれそうにないし。性格的に」
「性格から拒否するのかよ!」
その悲痛にも似た叫びは、痛ましく見えた。
「ちょっと喚かないでよ。困るから」
自分で責めておいて、その言葉は辛辣すぎだった。
「前宮・・・僕の友達を貶さないでください。でないと、絶交しますよ」
これ以上の放言は看過できなかったので、語彙を強めて威圧した。
「ご、ごめんなさい。私、あまり歯に衣着せないから、どうしても本音が出てしまうの」
これに前宮が、怯みながら言い訳してきた。
「今のやり取りが本音なのは、かなり傷つくんだが。できれば、からかってるって言い直してくれないか」
弘樹が控えめに訂正を求めた。
「悪いけど、私は誰かをからかう趣味はないのよ」
弘樹を睨みながら、改めることを拒んだ。
「前宮、それ以上はダメです」
ここは睨みつけるかたちで、前宮の発言を止めた。
「う~ん。やっぱり、私が話すと場の空気が悪くなるから、黙ったほうが良いと思うわ」
前宮は、困った顔をして言葉を繕った。無言でも場の空気を悪くすることを、彼女はわかっていなかった。
「弘樹、今後のために涙を呑んでくれないかな」
前宮を引き離せそうになかったので、弘樹に妥協を求めた。
「ただでさえ、おまえの毒舌に耐えている俺に、前宮の毒舌にも耐えろと言うのか」
「ここは、自身の寛容さを見せつける時だよ」
ここで唯一の友達を失いたくなかった。
「そこまでの寛容さはない!」
弘樹から強い反発が返ってきた。
「ちっちゃい男ね」
前宮が容赦ない言葉を投げつけた。
「前宮」
僕は、再び前宮をたしなめた。
「ご、ごめんなさい」
なぜか弘樹ではなく、僕に謝罪した。
「ふう、これじゃあ、弘樹の精神が持たないね」
「わ、わかってくれるか」
弘樹は、傷心した顔で僕に訴えてきた。
「なら、弘樹の意見は僕を通して、伝えることにしようか」
「なんか、それだと通訳されてるみたいだな」
「弘樹は、女子との会話が慣れてないから仕方ないよ」
「事実だが、この場合異性は関係ないと思うぞ」
そう言うと、前宮をチラッと見て呟いた。
「それ、どういう意味?」
前宮が弘樹の言葉に食いついた。
「あ、すいません」
「謝るってことは、今の悪口なんだ」
前宮の睨みに、弘樹が言葉を詰まらせて委縮した。
「え、え~と」
これには切羽詰ったようで、僕に助けを求めた。
「前宮、責めがきついですよ」
僕は、前宮に自重をするよう注意した。
「それだと、何も話せなくなるよ」
「だから、弘樹とは僕を通してしゃべってください」
「だったら、もう飯村とはしゃべりたくない」
「そんな極論を言わないでくださいよ」
前宮になぜ友達ができないのかが、よくわかる発言だった。
「俺が無視されてきた理由がわかった気がするよ」
弘樹も僕と同じことを思ったようで、食べかけのパンをかじった。
「前宮は、とりあえず弘樹に謝ってください」
「う~ん・・・ごめん」
不本意だったのか、視線を合わさず謝罪した。
「いいよ、そんな無理して謝らなくても。逆にこっちが申し訳ない」
弘樹が溜息交じりに、気遣いの言葉を返した。
「まあ、謝罪の気持ちはあるけど、これから私と話したい?」
「遠慮しておきます」
「だそうよ」
前宮が僕に向かって、爽やかな笑みを浮かべた。
「なんで嬉しそうなんですか?」
「だって、無駄な労力を費やさずに済むから、素直に嬉しい」
本人を目の前にして、ここまで本音を言える前宮は異常だった。
結局、その後の昼食は最後まで全員が無言だった。
予鈴が鳴り、前宮は弁当箱を持って席に戻っていった。
「どうしよう」
僕は堪らず、頭を抱えて弘樹に助言を求めた。
「俺は、あいつとは相容れない」
弘樹は、真顔できっぱりと断言した。
「ふぅ~、このままだと毎日あの沈黙の空気の中で、昼食を取る羽目になるね」
「俺、他の友達と食事していいか?」
「み、見捨てるの?」
前宮と二人だけの昼食を想像するだけで、登校拒否したくなった。
「あ、安心しろよ。今のは冗談だから」
僕の必死さが伝わったようで、前言を撤回してくれた。
第六話 寄り道
僕は、これからの昼食をどうするかを授業中ずっと考えていた。
授業が終わる頃には、もう絶交するしかないという極論に至っていた。
「弘樹、僕はもう発想が乏しくなってしまったようだよ」
授業の終わりと同時に、悲愴な面持ちで弘樹に伝えた。
「どうした?珍しく悲観的だな」
「人との付き合いって、こんなにも難しかったっけ?」
「勿論だ。今頃気づいたのか?俺なんて小1から気づいてたぞ」
「えらく早熟だね」
本音を言えば違和感が出るので、弘樹に合わせることにした。
「あの時は辛かった記憶しかないな」
そう言うと、どんよりと沈んだ表情で思いを溜めて俯いた。
「まあ、深く聞かないよ」
「それより、どうしたんだ?」
「前宮のことだよ」
「だろうな」
「どうするかを考えてみたが、極論しかでなかった」
「・・・そうか」
弘樹が間を置いて納得してくれた。
「その極論はなんだったの?」
突如、僕たちの会話に横やりが入った。その声に体がビクッと反応した。10分しかない休憩なのに、前宮が僕の席まで来ていた。
「・・・」
本人を目の前にして、極論が絶交とは言えず、黙ったまま前宮を見つめた。
すると、僕の視線に前宮が恥ずかしそうに目を逸らした。
「え、えっと・・・何か用ですか?」
僕は、強引に話を切り替えた。
「え?次は、移動教室よ」
「あれ、そうでしたか?」
「うん。黒板に書いてあるよ」
前宮に促されるかたちで電子黒板を見ると、いつの間にか次の授業の移動場所が書いてあった。他の生徒たちもそれを見て、移動を始めていた。
「なんか担当教師が休みみたいね」
「またですか。最近、多いですね」
「そうだね」
僕たちは、少し慌てたかたちで教室を出た。
「今日は、何するんですかね」
さっきの話題をできるだけ振られたくなかったので、先に前宮に話を振った。
「視聴覚室だから、映像観賞かもね」
授業は社会なので、世界遺産や異文化の映像だと想定できた。
「できれば、自習にして欲しいな~」
弘樹がダルそうにそんなことを言った。
「無理ね。前に別の授業で自習にした時、騒いで教師が注意しに来たし」
これには前宮が淡泊に答えた。
「そういえば、1学期にそんなことありましたね」
あの時は、僕と弘樹は真面目に自習の課題をやっていたが、クラス全体はかなり騒がしかった。それが隣のクラスまで響いたようで、教師が怒鳴り込んで来たのだった。
「あれは理不尽でしたね」
僕と弘樹にとっては、完全なとばっちりだった。
「それは同感」
前宮もそのことを思い出したのか、不愉快そうに眉を顰めた。
視聴覚室に着いて、適当に椅子に座ると、当然のように前宮が隣に座った。
数分後、教師がデッキにディスクを入れて、視聴覚室から出ていった。
「考えることはみんな一緒だな」
映像が流れ始めると、多くの生徒がうつ伏せの態勢を取った。
「本当だね」
僕は弘樹に同意して、流れている映像を見始めた。
クラの文化映像は僕にとっては、凄く勉強になることだった。この時代までの苦労が垣間見えて、見終わる頃には声を上げて感嘆したい衝動に駆られた。
「篠沢って、こういうのも真剣に見るんだね」
映像のエンドロールが流れると、前宮が僕を見て感心していた。
「へ、変ですか?」
これには少し動揺して、声が上擦ってしまった。
「周り見ても、文化に興味がある人なんていないからね」
そう言われてみると、寝てる人やおしゃべりしている人ばかりだった。
「篠沢の趣味って、文化遺産とかなの?」
「・・・趣味ですか」
これは初対面の人に何度か聞かれたことはあったが、曖昧にしていて明確に答えたことがなかった。
「まあ、文化と建築物とかは、素晴らしいと思いますけど」
ナルには建築物が少ない上に出来も悪いものばかりなので、ここまでの精巧な建物には感銘を覚えていた。
「ふ~ん。変わってるね」
「そ、そうですか?」
僕は気まずさから、前宮から顔を逸らした。
すると、タイミングよく授業終了の鐘が鳴った。
「ん、終わったのか?」
寝ていた弘樹が、鐘に反応して体を起こした。
三人で教室に戻って、HRを聞き流してから帰り支度を始めた。
「今日も武活行かないのか?」
「うん、争奪戦までは行かないよ」
「春希は、本戦に出るんだから出たほうが良くないか」
「忠告は有難く受け取っておくよ」
「そうか、また明日な」
「うん、バイバイ」
弘樹に手を振って、横に居た前宮と一緒に教室から出た。
「少し寄り道しますので、校門で待っててもらえますか?」
先に行ってもらうことも考えたが、拒否しそうだったので、少しだけ待ってもらうことにした。
「一緒に行く」
しかし、取りつく島もなく断言された。
「えっと、す、すぐ終わりますので」
「一緒に行く」
「そ、そうですか」
ここまで言われると諦めるしかなかった。
結局、前宮と一緒に剣棒を取りに行く羽目になってしまった。
部室が見えてくると、ちょうど先輩たちが部室に入るところだった。僕は、それを見て足を止めた。
「どうしたの?」
僕の後ろから前宮が聞いてきた。
「先輩たちです」
「あ、そうなんだ」
「今は、先輩たちとの接触は避けないといけません」
僕はそう言って、前宮の方に視線を向けた。
「なんで?」
「島村先輩から休部の理由を聞いていません。もし、それを聞かれたら答えに窮します」
「そうだね。答えられないのはやましいことをしてるみたいだもんね」
「本当に島村先輩を恨みたくなりますね」
しばらく前宮と一緒に待っていると、先輩たちが部室から出てきた。
「行きましょう」
二人が運動場に向かうのを確認して、部室へ向かった。
僕が部室に入ると、前宮が迷いもなく入ってきた。基本的に男子の部室なので、女子は出入り禁止だった。
「へえ~。結構綺麗なのね」
前宮は整頓されている部室に驚いていたが、僕としては前宮が部室に入ってきたことが驚きだった。
「僕たちは、散らかすのが嫌いですからね。週一で掃除してます」
「そうなんだ。凄いね」
何が凄いのかはわからなかったが、さっさと用件を済ませることにした。
「早く出ましょう」
僕は剣棒をロッカーから取り出して、前宮を急かした。
部室を出ると、他の部室の扉も開いた。
「あ」
僕は慌てて、後ろ手で前宮を部室に押し込んで扉を閉めた。
二つ隣の部室から出てきたのは、小柄で長髪の駄口だった。
「おお、1週間ぶりぐらいだな」
駄口は僕に気づき、軽く手を上げた。
「そ、そうだね」
僕は、必死で動揺を隠して答えた。
「そういえば、おまえの噂が日に日に酷くなってるんだが」
「だろうね」
もう前宮姉妹に関わってしまった時点で、それは諦めていた。
「何かあったのか」
「いろいろとね」
言葉を濁して、その場を凌ごうとした。
「こんなことなら、あの時に噂流すんじゃなかったよ」
「どういう意味?」
「実は、あの噂が変な方向にいってな」
「変な方向?」
「俺が流した噂と、おまえと前宮が一緒にいるようになってから、なぜか噂が捻じ曲がってな」
駄口の発言からして、僕と前宮が一緒に登下校してることは周知になっているようだ。
「おまえと前宮がだな~・・・」
言いにくいのか、少し間を置いて視線を泳がせた。
「今はどうなってるの?」
じれったいので、そのまま伝えるよう促した。
「おまえと前宮が付き合っていることになってる」
「ぇ」
駄口がそう言うと、部室の中から驚きの声が聞こえた。
「ん?今、女子の声がしなかったか?」
それに駄口が反応して、僕に聞いてきた。
「き、気のせいじゃない?」
僕は必死ではぐらかしながら、部室の扉にもたれ掛かった。
「ところで、武活はいいの?」
この状況はかなり危険なので、積極的に話を切り替えた。
「あ!そうだった。やばい、先輩に怒られる」
駄口は慌てて、走り去っていった。
「ふう~。面倒臭かった」
周りに誰もいないことを確認してから部室を開けると、前宮が顔を真っ赤にして俯いていた。
「ど、どうかしました?」
その表情を不思議に思い、前宮に声を掛けた。
「へっ!え?な、何かな」
なぜか前宮の声が裏返っていた。
「さっさと行きましょう。そもそも、ここは男子更衣室ですし」
前宮の挙動は疑問だったが、早く部室から離れることを優先した。
「そ、そうだね」
僕たちは黙ったまま、急いでその場を離れた。
「あ、あのさ、なんでこんなことになってるの?」
前宮が恥ずかしそうに聞いてきた。
「知りません」
友達になっただけで、そんな噂になるとは思えなかったようだ。
「別に、気にしないのでしょう」
あまり詮索されたくなかったので、はぐらかすことにした。
「そ、それはそうだけど。でも、内容が内容だけに少し恥ずかしい」
そう言うと、顔を赤らめ俯いた。
「そうなんですか・・・」
恥ずかしい基準がどこなのかわからなかったが、苦笑いして言い繕った。
「そういえば、さっき話していたあの噂って何?」
話を逸らそうとした矢先に、核心部分を聞いてきた。
「な、何の話でしょうか?」
あまりの気まずさに変な口調になった。
「珍しく動揺してるね。もしかして、なんか隠してる?」
前宮が疑いの目で僕を見た。
「そ、そんなことないですよ」
その視線に耐えられず、顔を正面に向けたが、声が裏返ってしまった。
「ふ~~ん。まあ、言いたくないなら、無理に聞かないわ」
さらに猜疑心が深くなったようだが、それ以上は聞いてこなかった。
「き、聞かないんですか?」
ここは追及されても文句は言えなかったので、思わず聞き返してしまった。
「だって、もう噂は歪曲されてるみたいだし、聞いても意味ないでしょう」
「まあ、そうですけど」
「それとも、聞いて欲しいの?」
「聞かないでください」
「なら、聞かない」
僕の迷いのない答えに、なぜか嬉しそうに笑った。その笑みの意味がわからず、少し身震いした。
それから僕たちは、前宮邸まで黙って歩いた。
前宮と一旦別れて、道場に入ると、既に三人が地べたに座っていた。
「遅かったね」
島村先輩は、こちらに気づいて立ち上がった。
「ええ、剣棒を取りに行っていたもので」
「もしかして、二人に会った?」
「いえ、避けてきました」
「そう、良かった」
島村先輩が目を閉じて、安堵の溜息をついた。
「何が良かったんですか?」
それを不思議に思い聞き返した。
「え!なんでも・・・ないよ」
島村先輩が気まずそうに視線を逸らした。
「また隠し事ですか」
「ま、まあ・・ね」
「なら、聞いても仕方ないですね」
「それ、どういう意味よ」
せっかく話を流そうとしたのに、島村先輩が不満そうに切り返してきた。
「なんですか。聞いて欲しいんですか?」
話の流れから、さっきの前宮とのやり取りの再現になってしまった。
「いや、それは困るけど」
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「う~~ん。聞かなくていいです」
悩んだ末、敬語で追及を拒否した。
「というか、着替えたいので、三人とも出ていってもらえませんか?」
あまりここで時間を食うのも嫌なので、煩わしそうに退場を求めた。
「早く着替えてよ~」
会長がダルそうに道場を出ると、島村先輩と若菜がその後に続いた。
僕は、会長の言う通りさっさと着替えて、道場の外の三人に声を掛けた。
すると、私服に着替えた前宮も一緒に入ってきた。今日の私服は少しゆったりめの白のボウタイブラウスにチェックのプリーツスカートだった。
「それでは、今日の特訓メニューを開始します」
会長が説明口調でそう言いながら、8インチのタブレット端末を指でいじった。
「実力はだいたい把握したから、今度は基礎体力だね」
「いまさら?」
これには島村先輩が呆れた様子で、会長を見た。
「基礎と言っても持久力を見るだけだよ」
「持久力?」
「そう、持続する体力」
会長は、得意げに指を立てた。
「も、もしかして、拷問にでもかけるの?」
なぜか島村先輩が、心配そうに聞いた。
「なんでよ!」
さすがにこれには会長が怒った。
「だって、この資料の名前”虐遇カリキュラム”だし」
「それはただのタイトルよ。実際にそんなことするわけないじゃん」
島村先輩の指摘に呆れながら、タブレット端末を脇に置いた。
「じゃあ、どうやって測るの?」
「決まってるでしょう。持久力といえば、ボクシングよ」
会長が得意げな顔で、人差し指を立てた。
「え!」
僕は、これに驚きの声を上げた。一度だけ体育の授業で経験したが、あれだけ動く格技を今の体重でやりたくはなかった。
「という訳で、わざわざ自室からサンドバックを持ってきたわ」
そう言うと、リングの反対側からスタンドタイプのサンドバックを、器用に転がしながら持ってきた。
「これをどうするの?」
「3分。何ラウンド持つか」
「え!サンドバックをずっと叩くの?」
「もちろん。思いっきりやってね」
そう言うと、にこやかな笑顔で僕にグローブを渡してきた。
「えええ~~~」
「何よ~。これは必要事項なんだから、拒否はダメよ」
会長が強い口調で、僕の反発を抑え込んできた。
「・・・わかったよ。あと、島村先輩はさっさと空気椅子してください」
「えええ~~~」
今度は島村輩が、不満な声を上げた。
「昨日の今日で有耶無耶にしようとしないでください」
「だって、あれってきついんだよ」
「知ってますよ。だから、それを指示したんです」
「もうやめにしない?」
島村先輩が上目遣いで媚びてきた。
「なら、出ていってください」
僕は、素っ気無く言い放った。
「ちょっと~、貴重な時間を無駄にしないでよね~」
僕たちのやり取りに、会長が呆れ気味に口を挟んできた。
「だ、だって~」
島村先輩が不満顔を会長に向けた。
「美雪、ここは篠沢の言うことを聞いてくれない?」
「な、なんでよ!」
これには軽くショックを受けたのか、少し感情的になった。
「だって、笑うんだもん。篠沢じゃなくても不愉快だよ」
「そ、それは・・・」
この指摘には言葉を詰まらせた。
「だ、だからって、空気椅子はないと思うのよ」
「まあ、そうだね~。あれはきついもんね~」
そのつらさはわかっているようで、島村先輩に同情した。
「でしょ!空気椅子はないよね」
島村先輩は、ここぞとばかりに会長を取り込もうとした。
「そこまで言うなら、別のにしますか?」
「え、本当!」
僕の提案に、島村先輩が嬉しそうに近寄ってきた。
「他のって、何するの?」
会長の方はかなり訝しげな顔だった。
「笑ったら、争奪戦終わるまで口を聞きません」
「・・・え?」
さっきまで喜んでいた島村先輩が、表情が一瞬で固まった。最近、島村先輩への対応が面倒臭くなっていたので、自分でもこれは良い案だと自負できた。
「い、嫌だ」
しかし、島村先輩から苦々しい顔で拒否してきた。
「嫌でないと罰にはならないですよ」
「そ、それはそうだけど・・・」
「じゃあ、空気椅子に戻しますか」
「うっ!それも嫌」
「我侭ですね」
僕は、心の底から呆れて溜息をついた。
「仕方ないですね。僕以外の意見を集約しましょう」
僕の提案は受け入れてもらえないようなので、他の人に意見を求めた。
「どういうことよ」
意味がわからなかったのか、会長が聞き返してきた。
「僕の条件を呑んでくれないので、他の条件の提示して、その中から島村先輩が選ぶんですよ」
これは島村先輩への妥協でもあった。
「はい!」
なのに、最初に手を上げたのが島村先輩だった。
「・・・先輩の意見は受け付けてませんよ」
「なんでよ!全員って言ったじゃない」
「なんで島村先輩への制裁なのに、その本人の提案を聞くんですか。馬鹿じゃないですか?」
「馬鹿って何よ。篠沢君の言い方が悪いんでしょう」
「言ったことをそのまま解釈しないでくださいよ。それにこの流れで島村先輩に発言権があると思ったんですか?」
「あると思ったから挙手したんでしょう」
「なら、言い直しますよ。先輩は馬鹿です」
言葉の言い直しではなく、島村先輩を罵倒した。
「ちょ、ここで馬鹿はないでしょう」
「もう面倒臭いです。少し黙っててください」
もう説明に疲れてしまったので、発言を制した。
「なんで諦めるのよ!」
「決着つかないですし。何より長くなります」
僕はそう言って、黙って見ている三人の方を見た。
「本当に楽しそうだね」
会長が微笑ましい表情でそんなことを言った。
「疲れるだけで楽しくないよ」
「そうだよ。全然楽しくないよ」
島村先輩も僕の意見に同調した。ここだけはいつも一致していた。
「息が合ってるね~」
僕たちで否定しても、会長の表情は変わらなかった。
「つ、付き合ってるんですか?」
会長の隣にいた若菜が、興味深そうに聞いてきた。
「いや、付き合ってないよ」
「ありえないね」
これは何度目かのことだったので、僕と島村先輩は冷静に返した。
「美雪は、付き合うことはありえないほど篠沢が嫌いなの?」
何を思ったか、会長が積極的にそう質問した。
「嫌いかは別として、付き合うことはないけど。なんで?」
それには不思議そうに首を傾げた。
「ふぅん」
会長は、何か納得したように視線を僕に向けた。
「なら、篠沢に提案するわ」
「なんですか?」
「笑った場合の制裁は、美雪を篠沢が抱きしめる」
「犯罪なので却下します」
この意見は即座に退けた。
「美雪が許可すれば、犯罪じゃないわ」
会長はそう言って、島村先輩に顔を向けた。
「そもそも、好きでない人に抱きつかれるのは苦痛なはずだから、制裁になると思う」
「まあ、そうだね。でも、肝心なことが抜けてるよ」
会長にしたり顔に対して、困った顔で助言した。
「何よ?」
「それだと、僕も苦痛だよ」
他人との抱擁は、個人的には不快でしかなかった。
「は?」
「だから、僕も島村先輩に抱きつくのは嫌」
本当に嫌だったので、表情に出して言った。
「どういう意味よ!」
これには島村先輩が、感情的に叫んだ。
「そのままの意味ですよ。島村先輩も僕を羽交い絞めにした時、恥ずかしがってたじゃないですか?」
この理不尽な怒りに、僕は冷静に返した。僕の場合は生理的な嫌悪感だが、島村先輩の場合は羞恥心で感情的には違っていた。
「あー、確かにあの時は恥ずかしかったけど、もう平気だよ」
僕と違って、一度経験すると免疫が付くタイプのようだ。
「じゃあ、この提案はダメね」
島村先輩のはっきりとした答えに、会長が即座に自分の意見を棄却した。
「そうだね。これじゃあ、僕が罰だもんね」
「ひ、酷い。篠沢君の私への対応が酷い」
島村先輩が心底落ち込んだ様子で項垂れた。
「それって、いまさらじゃない?」
島村先輩に対して、会長が呆れながら嘆息した。
「ていうか、いつまで話してるのよ。もう15分近く経ってるよ」
傍で見ていた前宮が、会長と同じような呆れ顔で指摘してきた。
「はっ!そうだった!」
それに気づいた会長が、おおげさに叫んだ。
「もう美雪は立ち入り禁止!」
そして、島村先輩に退場を通達した。
「えええええ~~~~」
これには納得できないようで、島村先輩が不満な声を上げた。
「あんたがいると、全然進まない」
「わ、私だけのせいじゃないでしょう」
「根本は美雪じゃん!」
「そ、それはそうだけど・・・」
この正論には、さすがに言葉が出ないようだった。
「残念でしたね~」
これは嬉しかったので、つい嫌らしく島村先輩を皮肉ってしまった。それに島村先輩が反応して、僕を睨みつけた。
「あ、すみません」
これは失言したと気づき、すぐに謝罪した。
「わかったよ!出ていくわよ!」
島村先輩が拗ねたように怒りをあらわにしながら、僕に近づいてきた。
「な、なんですか?」
日頃、島村先輩の行動は予期できないので、自然と身構えた。
すると、島村先輩が僕に思いっきり抱きついてきた。
「なっ!」
突然の接触に全身に鳥肌が立った。
慌てて引き離そうとしたが、その前に島村先輩が無言で離れた。
「篠沢君のば~~~か!」
全員が唖然としている中、それだけ言い残して道場から出ていった。
「何あれ?」
会長が目を見開いたまま、道場の外を見ながらそう言った。
「知らないよ」
僕は最悪な気分で、グローブをはめた。
「相手が嫌がるからって、よく抱きつけるわね」
親友であるはずの会長も、あの行動には理解できないようだったが、会長も似たようなものだった。
「島村先輩は、そういうところは異常だからね」
島村先輩の奇行は今に始まったことではないので、いまさら驚くことでもなかった。
「まあ、それには否定出来ないね」
これには会長も同意見のようだった。
「少しロスしちゃったね」
「そうだね」
僕はそう答えて、サンドバックの前に立った。
第七話 痛手
「・・・体力はさほどないね」
会長は、サンドバックの後ろから残念そうに顔を覗かせた。結論から言うと、4ラウンドでギブアップだった。
「自分でも自覚してるよ」
今の体重では、これが限界だった。
「休憩の後、ノゾミンと組手ね」
「く、組手?」
これはスケジュールにはないはずだった。
「そ、素手でどこまでノゾミンと渡り合えるかを確認するわ」
会長はそう言って、前宮の方を向いた。
「だから、ノゾミンは道着か運動着に着替えてくれない?」
「え?」
本人には聞かされてなかったようで、驚いた顔をした。
「・・・えっと、着替えるの?」
「え?そのままじゃあ、動きにくいでしょう」
「そ、それはそうだけど・・・」
なぜか嫌そうな顔で、会長から視線を外した。
「・・・ノゾミン。気持ちはわかるけど、手伝ってくれないかな」
前宮の気持ちを察したのか、悪びれたようにお願いした。
「う~ん。じゃ、じゃあ、ハンデでこのままでやるよ」
道着や運動着を着るのがよほど嫌なようで、自分からそう言い出した。
「え?それだと、蹴りができないじゃん」
「あ、そっか。じゃあ、スパッツ履いてくる」
会長の指摘に、前宮が慌てて道場から出ていった。
「えっと、前宮は運動着が嫌いなの?」
前宮の行動を不思議に思い、会長に聞いてみた。
「あー、そうだね。ノゾミンはファッションに拘ってるからね。道着や運動着は基本的に嫌いなのよ」
「へぇ~、そうなんだ」
「前までは、ウィンドウショッピングだったんだけど、ここ最近頻繁に服を買ってくるようになったんだよね~」
「気に入ったのがあったのかもしれないね」
なんとなく、答えを求めているように感じがしたので、無難な答えを返しておいた。
「私は、そうじゃないと思うんだけどね~」
会長は意味深な発言をして、道場の入り口に目をやった。
「一応、ノゾミンは黒帯だけど、怪我だけは注意してね」
「それは前宮に言ってもらえないかな」
「ノゾミンは言わなくて、自分の判断で手加減するよ」
会長の発言には、前宮への信頼が強く見受けられた。
「お、お待たせ」
しばらくして、前宮が駆け足で道場に入ってきた。スパッツを履いてきたようだが、スカートの丈で見た目は変わっていなかった。
「よろしくお願いします」
僕は、礼儀として前宮に頭を下げた。
「あ、う、うん」
これに前宮が、戸惑いながら答礼した。
僕たちはリングに上がって、お互いに対峙した。
「ちゃ、ちゃんと手加減してあげるから、あ、安心していいよ」
前宮が恥ずかしそうに俯いて、左肩から垂らしている髪を後ろに直した。それだけで、会長のような強気の雰囲気になった。
「そうしてくれると助かります」
殴られることは嫌いなので、前宮の心遣いには感謝した。
僕は、軽めに攻撃を繰り出してみた。
「あ、篠沢は本気でいいから」
それを前宮が軽く受けて、全力を促してきた。
「は、はぁ~、わかりました」
本音を言えば、前宮の力量を測りたかったからなのだが、本人にそう言われては断ることができなかった。
「じゃ、じゃあ、いきます」
一言断りを入れて、全力で蹴りを放ったが、簡単に片手で受け止められた。
「・・・え~っと、これ全力かな?」
前宮が困り顔で聞いてきた。
「ええ、まあ」
棒術部では蹴りの練習はないので、前宮からしたら軽いようだった。
「そ、そう」
僕の答えに、苦笑いしながら会長の方を見た。
「全然ダメ?」
その視線に、会長が首を傾げた。
「体重が乗ってないから、軽い・・・かな」
僕に配慮したのか、少し言いにくそうに口にした。これを聞いて、僕はすぐに体重調整に入った。
「あ、そう。じゃあ、見本見せてあげて」
会長が少し困ったように、前宮に指示を出した。
「あー、うん。そうだね」
前宮も同じような顔をして、僕に視線を戻した。
「じゃあ、ちょっと軽めに中段蹴り打つから受けてみて」
「あ、はい」
僕がそう答えると、前宮が右足で回し蹴りを放った。
「ぐっ」
速度はそれほどではなかったが、左腕に痺れが走るほどの威力だった。これは体重の問題ではなく、体重移動の問題だと悟り、すぐさま体重調整をやめた。
「まあ、これ以上ないと相手へのダメージは厳しいかも」
「そ、そうですか」
前宮の忠告を聞きながら、痺れている左腕を擦った。痛みは遮断していたが、痺れは神経なので逃れることはできなかった。
「う~ん。姉さん、篠沢には型から教えた方が良くないかな?」
「それはダメだね。型から教えてたら時間が足りないわ」
「まあ、型だけじゃあ実践には役立たないしね~」
前宮もそれに同意して頭を掻いた。
「じゃあ、組手で覚えていきますよ」
姉妹が困っているようなので、自分から申し出てみた。
「え、できるの?」
これには前宮が、驚きの顔をした。
「ええ、まあ。見様見真似で」
僕はそう言って、前宮の蹴りを再現した。
「おお~、体重乗ってるね~」
会長が驚いたように声を上げた。
「回し蹴りなんて、棒術部には必要ないですから、体重の乗せ方は知りませんでしたね」
会長に蹴りを入れた時は、横蹴りだったので、ただ力任せに突き出すだけだった。
「という訳で、前宮はこれから僕に一方的に攻撃してください」
「え!いいの?」
「あ、でも、手加減はしてください」
さっきの手の痺れを思い出して、前宮に低姿勢で頼んだ。
「あ、うん・・・でも、あんまり気が進まないね」
「一方的は気が引けますか?」
「え、あ、いや、まあ」
僕の言葉に煮え切らない返事が返ってきた。
「じゃあ、軽くいくね」
「はい、お願いします」
そうして、20分間に渡る前宮の猛攻を受け続けた。
「いたた~」
僕は、演技で痛そうな顔をした。日頃は打撃を受けないので、かなり腫れ上がっていた。
「ご、ごめんね」
その隣で前宮が、何度目かの謝罪を口にした。
「いいですよ。勉強になりましたし」
「で、でも、あざにならないかな」
僕の腕を見ながら、心配そうな顔をした。
「これは避けて通れないですから、気に病む必要はありませんよ」
「時間はまだあるけど、腕上がる?」
会長が時間を気にして、僕に聞いてきた。
「厳しいですね」
僕は、手を擦りながら難色を示した。正直、手より足への腫れがきつかったが、前宮に心配されるので言わないことにした。
「まあ、ここで無理させる訳にはいかないか・・・」
会長が困った顔で僕を見た。
「ちょっと、いいかな」
突然、道場の外から声がした。
振り向くと、島村先輩がお盆を持って立っていた。お盆には水差しとコップが数本乗っていた。
「紗希お姉ちゃんが持ってけって」
血の繋がりもない年長者に対して、その呼び方は違和感だらけで気持ち悪かった。
「どうだった?」
島村先輩がお盆を置いて、会長に興味深そうに尋ねた。
「まあ、持久力はあまりなかったね」
「へぇ~、そうなんだ」
その事実に、島村先輩が意外そうな顔をした。
「でも、これは私の見解だから、一般男性の平均より格段に上よ」
「まあ、かなえの体力は異常だもんね」
「うるさいわよ」
島村先輩の一言に、会長が睨むかたちで威圧した。昨日も思ったが、会長の体力は異常だった。
「じゃあ、今日は解散」
会長がダルそうに解散を告げた。
「え、もう終わるの?」
「うん。ノゾミンが予想以上に痛めつけちゃってね」
会長は、島村先輩に溜息交じりで答えた。
「姉さん、誤解の招く言い方やめてよね。ちゃんと手加減したんだから」
会長に反論するかたちで、前宮が口を挟んだ。
「何したの?」
島村先輩が興味深そうに、会長に尋ねた。
「まあ、夜にでも話すわ」
前宮を気にしてか、この場では口をつぐんだ。
「あ、そうそう。今日も若菜と一緒に帰ってね」
会長が思い出したように、僕にそう頼んできた。
「は、はぁ~」
僕は、気の抜けた声で返事をした。
「あ、剣棒は道場に置いてもいい?」
「あ、うん。いいよ」
持ち帰るのは面倒なので、当分はここに置いておくことにした。
道場から人払いをして、着替えを始めた。
誰もいない道場で、太ももを確認するとかなり赤く腫れ上がっていた。この腫れは、自然治癒では3時間は掛かりそうだった。
着替えを済ませて外に出ると、前宮が待っていた。
「今日はごめんね」
「あまり謝らないでください」
「で、でも」
「これ以上謝られると、今後引け目を感じてしまいます」
「そ、そうだね」
これには納得したようで、沈んだ顔で頷いた。
「あんまり無理しないでゆっくり帰ってね」
門扉に着くと、前宮が足の方を気遣った発言をした。どうやら、歩き方がぎこちなかったことに気づいたようだ。
「ええ、また明日」
僕はそう答えて、門の勝手口から出た。外では若菜が周りを見ながら、僕を待っていた。
「帰ろうか」
「はい」
僕たちは、昨日と同じように帰り道を黙って歩いた。
「あ、あの・・・大丈夫・・ですか?」
突然、若菜が遠目で心配してきた。
「え?ああ、まあ」
僕は、腕を擦りながら答えた。
「あ・・いえ、足の方・・です」
前宮の攻撃を見て、足の方が深刻だと思ったようだ。
「まあ、歩けるから大丈夫だよ」
あまり気を使われたくないので、表情を緩めて取り繕った。
「そ、そう・・ですか」
若菜はそう言って、顔を正面に向けた。
そのあと、無意識的に全身の傷の状態を気にして、話を振ることができなかった。
「あ、あの・・・」
高級住宅を抜けると、沈黙に耐えかねたのか、若菜が声を掛けてきた。
「ちょっと黙って」
僕は通りの先を見て、若菜に静止を求めた。
「どうか・・したんですか?」
その視線が気になったようで、若菜が僕と同じ方向を見た。その先には、一人の男子生徒がこちらに近づいてきていた。
「お知り合い・・・ですか」
「クラスメイト」
昨日より早い時間だったが、タイミング悪く今日も遭遇してしまった。
「それは・・ちょっと・・面倒・・ですね」
「仕方ない。僕は遠回りして帰るから、若菜はそのまま帰って」
離れて歩いても声を掛けられる可能性があるので、若菜と分かれて帰ることにした。
「じゃあ、また明日」
若菜に別れの挨拶をして、道路を早足に左折した。
「あ・・・待って・・ください」
しかし、若菜が僕の後ろから駆け足でついてきた。
「どうかした?」
「あ・・えっと・・私も・・遠回り・・します」
「へ?」
「だ、だから・・一緒に・・行きます」
「な、なんで?」
予想外のことに、思わず聞き返してしまった。
「だ、だって・・・」
若菜は、俯いたまま口ごもってしまった。
「わ、わかった」
もう近くまで来ていたので、この場で問答したくなかった。
結局、僕たちは黙ったまま歩いた。
「あ、あの・・なんか・・しゃべって・・ください」
前宮の影響で少しずつ無言に慣れて始めていたが、若菜は耐えられないようだった。
「何かと言っても話題が思いつかないよ。話題はそっちに任せたいんだけど・・・」
未だに女子の話題性についていけない僕は、自分から話を振ることはできるだけ避けていた。
「じゃ、じゃあ・・・」
若菜が間を置いて、たどたどしく質問してきた。
若菜の質問は多岐にわたったが、考えたことがないものが多かった為、答えに窮してしまった。
「あ、あのさ、女子特有の質問はやめてくれないかな。さすがの僕も返答できないよ」
「す、すみません・・男性とは・・どう・・話したらいいか・・わからなくて」
ナルにいた僕としては、クラの人の話題の多さについていけなかった。
「仕方がないね。僕から話を振るよ」
正直、質問を聞くのもじれったかったので、自分から振ることにした。
「お、お願い・・・します」
若菜が申し訳なさそうに頭を下げた。
「今日、僕以外の男子と話した?」
その質問には、全力で首を振って否定した。
「なら、これからは積極的に話してみたら?」
「む、無理です!」
ここだけは力強く叫んだ。
「徐々にやるより、強制的にしたほうが治りも早いんだけど・・・」
「そんなこと・・知っています・・けど」
間を置いた言葉を口にしながら、徐々に萎縮していった。
「まあ、ショック療法は怖いもんね」
そんな若菜を見て、気遣い言葉を投げかけた。
「はい」
「でも、僕が若菜に協力できるのは、3週間ぐらいだから」
「え?」
よくわからなかったのか、若菜は首を傾げた。
「いや、争奪戦まで3週間だから。その期間だけしか若菜と会わないでしょう?」
「え?会って・・くれないん・・ですか」
若菜が悲しそうな声で、僕を見上げてきた。
「だって、若菜。武活来ないし」
「う!」
痛いところを突かれたようで、口元を引き攣らせて後ずさった。
「だ、だって・・柏原先輩が・・いますから」
そして、怯えた様子で言い訳をしてきた。柏原先輩がとことん苦手のようだった。
「じゃあ、柏原先輩と話せたら、克服したってことになるのかな」
「そ、そう・・なるかも」
「前途多難だな~」
「そう・・ですね」
自分の難関な現状に深く項垂れた。
「どうにか・・できませんか?」
若菜は、懇願するように僕をゆっくりと見上げた。
「ショック療法」
「無理です!」
この案には、さっきと同じように首を振って拒否した。
「他にってこと?」
「はい」
「そうだね~。少し強引だけど、3週間で僕と手を繋げるようにしようか」
僕は歩みを止めて、若菜に向けて手を差し出した。このクラに来て、なんとか接触はできるようになったが、嫌悪感と冷や汗だけは治らないので、これを機に僕も克服しようと考えた。
「え?」
若菜も立ち止って、戸惑いながら僕の手と顔を交互に見た。
「ほら、触ってみて」
「・・・」
若菜は、ゆっくりと手を出してきた。その手は小刻みに震えていて、彼女なりの覚悟が垣間見えた。僕もこれに感化されそうだったが、必死で震えを抑え込んだ。
手が触れる数十センチになると、若菜の手が止まった。
「今は、ここが限界みたいだね」
「ごめん・・・なさい」
若菜が手を素早く引っ込めて謝った。
「気にする必要ないよ」
そうは言ったが、僕自身ホッとしていた。
僕たちは遠回りして、ようやくいつも帰路に戻った。
「そろそろ限界じゃない?」
昨日よりは長い時間なので、僕の方から気を利かせてみた。
「今日から・・最後まで・・一緒にいます」
「無理しなくていいよ」
「無理しないと・・克服・・できませんから」
「そうだね。なら、僕もできる限りのことをするよ」
若菜の決意に、僕も応えることにした。
「あ、ありがとう・・ございます」
若菜が嬉しそうな声でお礼を言った。
分かれ道に差し掛かると、若菜が立ち止まって、僕を見上げた。
「じゃ、じゃあ、また」
それだけ言って、僕の返答を待たずに駆け足で帰っていった。
僕が帰宅すると、母親が駆け足で玄関まで来た。
『おかえり~♪』
『上機嫌だね』
自宅謹慎中なので、上機嫌になっている理由がわからなかった。
『ああ、暇だったからクラの物を生成してみたんだけど、思ったよりうまくいってね~♪』
クラは物が無駄に溢れていて、僕らにとっては意味のわからない物が多かった。
『何生成したの?』
『ん?名称がわからないわ』
『あ、そう』
何度か家の物の用途を教えたが、ほとんど使うことはないので、覚えている物は少なかった。
リビングに入ると、大小の同じ物がテーブルに置いてあった。
『生成したのって、ラジオ?』
デジタルラジオは、ここに住み始めた頃に買った家電製品だった。一時期、ラジオと駄口との会話の合わせ技で言語を学んでいた。
『ラジオって言うの?』
『うん』
一応これも教えていたが、全く覚えていなかった。
『これ凄いんだよ!』
母親は、かなり興奮気味に小さい方のラジオを手に持った。元のラジオの半分ほどのサイズだった。
『電波を受信して、ここから音波が出るんだよ!』
『うん。知ってる』
前は不思議に思っていたが、最近ラジオの発明の本を読んだばかりだった。
『え、知ってるの!』
これには驚いた顔をされた。
『うん。でも、原理は知ってるけど、構造までは把握してないよ』
せっかく使える物を、分解してまで知ろうとは思わなかった。
『ラジオの中、調べたの?』
元にされたラジオを見る限り、バラバラに解体されてはいなかった。
『うん。中身は音と電磁波で調べた』
『それで中身がわかるの?』
僕には、そんな高等技術は到底できなかった。
『まあ、聞き分けられるまでは難しいけど、慣れれば簡単だよ』
母親は、当たり前のようにしれっと答えた。
『ちなみに、私の・・ラジオ?は私の電波を受信するよう組み替えたわ』
少し得意げに言ったが、ラジオの名称には自信がないようで、疑問符が付いていた。
『え、そうなの?凄いね』
今の今まで、クラに馴染もうとしない母親が、それらしい行動を取ってくれたことは素直に嬉しかった。
『でしょ~。で、本当にそう言ってるかを確認して欲しいんだけど』
母親は、クラの言語を未だに聞き取ることができないので、僕に確認を求めてきた。
『ん?電池入ってるの?』
母親が持っているラジオをよく見ると、小さすぎて電池が入らない気がした。
『電池?何それ?』
『筒状のやつだよ』
『え?ああ、邪魔だったから生成しなかった』
『もしかして、そのまま使えるの?』
『勿論よ。仕組みは良くできてるけど、無駄が多かったから、私なりに改造してみた』
『あ、そう』
あまり深入りしても、僕には理解できないので、そのまま流すことにした。
『じゃあ、試すね~』
そう言うと、デジタルラジオの一つだけあるボタンを押した。
『あれ?』
しかし、雑音が酷くて聞き取れなかった。
『あ、そっか。ハルキの電波と被るんだ』
母親が思いついたように僕を見た。
『え、僕のせい?』
『ちょっと待ってて』
僕の言葉を無視するように、手に持ってるラジオに意識を集中させた。
『良し、今度こそ』
改造が終わったようで、満足げにスイッチを押した。
「Voc? pode ouvir isto?」
ラジオから今まで聞いたことのない母親の声が流れてきたが、言葉はわからなかった。
『何言ってるのかわからない』
『え、そうなの?』
『言語が違うのかも』
『あっれ~、おっかしいな~』
母親は首を傾げながら、ラジオに目をやった。
『声は出てるから、あとは言語を調整すれば完璧だね』
『う~ん。ハルキって、これの仕組みは知ってるの?』
『うん。最近、本で読んだ』
『それ、教えてくれない?』
『え、いいけど』
バイトがあるが、今日は早く帰っていたので、教える時間は多少あった。
僕は、母親にラジオの仕組みを簡易的に教えた。
『なるほどね~。だいたいわかったわ』
『何がわかったの?』
『要するに、この辺りの周波数に合わせれば、いけるんじゃないかな~って思って』
『そんな安直な』
『という訳で、出かけてくるね~』
母親は、軽いノリで外出しようとした。
『ちょっと待って』
『え、何?』
『周波数なら、ラジオで調べれば一発だよ』
僕はデジタルラジオを持って、ラジオのスイッチを入れた。
『あ、そっか』
これには納得して、僕の方に戻ってきた。
電池はまだ残っていて、とりあえずAMの周波数を一つ一つ確認していった。
『でも、この周波数に乗せても、言葉として流れないんじゃない?』
『違うわよ。周波数で言語を知るんだよ』
『あ、なるほど。でも、できるの?言葉も未だに理解できないのに』
『私の耳では音波は雑音でしかないわ。その反面、電波は過度に捉えることができるのよ』
『え、そうなの!』
これは衝撃的な事実だった。
『ハルキは、中途半端な遺伝子だから音波も言葉として認識してるにすぎないわ。そのせいで、電波の細かい調整できないでしょう』
『あ、うん』
『体内以外で生成できない理由もそこにあるのよ』
『え、そうなの!』
『あれ?言ってなかった?』
『初耳だよ』
『そう。まあ、知ってもできないから、別にいいわよね』
『まあ、そうだね』
これは自身の体質を甘受するしかなかった。
『あ、そうだ。母さん、今日もタンパク質くれない?』
『え?怪我したの?』
『うん。少し』
僕はそう言って、腕を差し出した。
『ん~~、腫れてるね』
『太ももの方は、もっと腫れてるけどね』
『大変ね~』
『本当だよ』
母親の他人行儀な態度に、僕は溜息交じりに答えた。
『昨日より、多めにしとこうか』
『うん。お願い』
僕が頼むと、母親が膝まである長髪を両手で一度整えてから、生成を始めた。
そして、母親から生成してもらった栄養剤を口に含んだ。
『そろそろバイト行くよ』
時計を見ると、もう家から出る時間だった。
『あ、もう時間なんだ』
『じゃあ、行ってくるよ』
『うん。私は周波数で言語を解読してみるよ』
母親はそう言って、流れているラジオを手を持った。どうやら、触覚で周波数を読み取るようだ。
『そう、頑張って』
僕は、母親に激励を送ってからバイトへ向かった。
第八話 強行
『ハルキ!』
バイトから帰ると、母親が怒号と共に玄関まで来た。
『どうかした?』
僕は、靴を脱ぎながら冷静に返した。
『周波数の解読はできたけど、言ってる意味がわかんない!』
『あー、確かに周波数だけじゃあわからないね』
よくよく考えれば、すぐにでも気づくことだったが、お互い気づくのが遅かった。
『それにラジオで声を出せても、聞き取れないから会話が成立しないね』
『・・・あ、それもそうね』
母親は今それに気づいたようで、一気に冷めた顔をした。
『ハルキ、このラジオいる?』
実用性がないとわかると、すぐに興味を失せるのは、母親の悪い癖だった。
『使い道ないよ』
『周波数を合わせれば、このラジオから声が出るわ』
『無意味!』
これには思わずつっこんでしまった。
『ちぇ、せっかく生成したのに無駄になっちゃった』
母親がそう愚痴ると、持っているラジオが少しずつ昇華していった。
『珍しいね。自分で昇華させるなんて』
生成は時間が経つと、自然消滅するので、わざわざ昇華させる意味がなかった。
『長く使うと思って、精度を上げちゃったから、当分消えないのよ』
『目論見が外れたね』
『これはしょうがないね』
『でも、送受信できたらクラの人たちと会話できるね』
僕がそう言うと、ラジオの昇華がピタリと止まった。
『まあ、送受信も言語を学ばないとダメだけど』
周波数を知っても、言葉を知らなければ無意味だった。
『う~ん』
これには母親が、困った顔で葛藤していた。
『僕の場合は言葉を聞き慣れることから始めたから、母さんも周波数を聞き慣れるところから始めたら?』
『意味わかんないのに?』
『僕だってそうだったよ』
僕が本格的に言語を習い始めたのは、高校に入る頃だった。おかげで最初は外国人扱いされてしまった。まあ、ある意味では間違ってはいなかったが。
『なんか、ごめん』
僕の苦労が垣間見えたようで、申し訳なさそうに謝ってきた。
『わからなかったら、僕が教えるよ』
『う~ん』
『会話ができたら、職質で逃げなくてもよくなるよ』
悩んでいるようなので、最後の一押しで言ってみた。
『それはかなり魅力的だね~』
職質されても声が出せないので、警察の目を盗んで逃げるよう指示していた。それが最低3日は外出禁止にした理由だった。
『このまま人の目を気にするのも面倒だしね~』
どうやら、やる意志を固めたようだ。
『じゃあ、まずラジオをトランシーバーに変えることから始めないといけないね』
『何それ?』
『ラジオは受信機でトランシーバーは送受信機だよ』
『へぇ~、そうなんだ。良く知ってるね』
『母さんが父さんを探してる間、図書館の本を読みあさってるから、それなりの知識はついちゃったよ』
『羨ましい限りね。たまにこの目が煩わしくなるわ』
『でも、その目がないと生成が危険になるんじゃない?』
『まあ、それはそうだけど・・・』
生成には原子と電子を見極めないと、大惨事になるので、ナルの人の目は特殊になっていた。ちなみに、僕の目はクラの人より視力が良いだけだった。
『クラは知る手段が多いのに、私にはどれも手段にはならないのは皮肉な話だね』
『世界の仕組みは個々に違うものだから、こればかりは誰も責められないね』
『本当だね』
それは2年前から知っているので、軽く流すように溜息をついた。
『まあ、嘆いてもしょうがないし、明日トランシーバー買ってこようか?』
ここはできるだけ母親に協力することにした。
『え、いいの!』
『でも、次の日の出から外出してもいいんだけど』
自宅謹慎は今日までだった。
『あ、そっか』
これには母親が、凄く悩んだ顔をした。
『まあ、どうするかは母さんが決めていいよ』
僕はそう言って、明日の準備を始めた。
結局、僕が寝る前まで、ずっと悩み続けていた。
『どうするの?』
僕は部屋に行く前に、母親に尋ねた。
『当分、外出は控えるわ。むやみに捜すより言葉を覚えた方が効率良さそうだし』
『それは賢明だね。じゃあ、当分はラジオの周波数を聞き慣れておいてね』
『うん。わかった』
僕は、母親の笑顔を見てからリビングを出た。
朝になり、リビングに行くと、母親が険しい顔で無音のラジオと睨めっこしていた。
『どう?』
僕は、集中している母親に声を掛けた。
『理解できないって不快だね~』
『そうだね』
それは僕も経験したことだった。
『まあ、ニュアンスはだいたいわかったわ。たまに同じような言語があるんだけど、なんか意味違うの?』
相変わらず、記憶力は抜群のようだ。
『そういうことは良くあるよ』
『ふ~ん。なんか面倒ね』
母親は、面倒臭そうにソファーにもたれ掛かった。
『とりあえず、帰りにトランシーバー買ってくるよ』
『あ、うん。お願い』
僕は手早く登校準備を済ませて、学校へ向かった。
登校中に前宮にトランシーバーを売っていそうな場所を聞いておいた。
「何かに使うの?」
さすがにこれには不思議に思ったようで、訝しげな顔をされた。
「ええ、まあ」
あまり深入りされたくなかったので、曖昧に返しておいた。
午前の授業が終わり、久米が鞄を持って教室に入ってきた。
「本気で来ましたよ」
僕は、少しうんざりした感じで久米を迎え入れた。
「そうね」
前宮も僕同様にうんざりした顔をした。売店に行った弘樹が羨ましく思えた。
「挨拶から嫌味な人ね」
久米が顔をしかめて、僕だけを睨んだ。
「で、何か考えてきたの?」
二回目ということもあり、敬語はやめることにした。
「さすがに手ぶらでは来ないわ」
そう言うと、僕の机に鞄を置いた。
「言っとくけど、私はあなたを許す気はないわ」
前宮が前もって釘を刺した。
「ノゾミンが頑固なのも昔から知ってるわ。そして、ノゾミンの執着が強いこともね!」
自慢できることなのか、後半の言葉は得意げに誇張して言った。
「な、何する気?」
その態度に前宮が動揺した。
「最初に言っておくけど、できればこの鞄の中身をここに出したくないわ」
「ど、どういう意味よ」
前宮が目を泳がせて怯え始めた。
「私とノゾミンの過去の遺物よ」
「ちょ、ちょっと待って。も、もしかして・・・」
何か思い当たることがあるようで、前宮の焦りが見て取れた。
「察しの通りよ」
久米が前宮に向けて、嫌らしい笑みを浮かべた。
「あれって、処分してなかったの?なんでそんなもの持ってきてるのよ」
「ノゾミンと一緒に居たいから」
「なんで今頃なのよ。絶交して何年経ってると思ってるの!」
「ノゾミンがずっと一人なら私も我慢できたけど、誰かと一緒なんて耐えられないわ」
この発言には、久米が同性愛者の疑いが浮上してきた。
「身勝手なことだね~」
僕は、久米の強引さに呆れてしまった。
「私だって絶交されてから、友達は一人も作らなかったわ」
「あなたには幼馴染がいるじゃない」
どうやら、口利きしてくれたクラスメイトのことを言っているようだ。
「あれは腐れ縁だから。友達とは言えないね。まあ、姉弟みたいなものね」
前宮に澄ました顔で言い返した。
「で、どうするの?ここであれを出してもいいけど」
久米が気取った顔で話を戻した。
「それは、もう脅しになってるわ」
「否定はできないね。でも、ノゾミンはこれぐらいしないと譲らないでしょう」
前宮の性格を熟知しているようで、堂々と言い放った。
「ちっ!」
それに前宮が、悔しそうに舌打ちした。旧友とはいえ、こんなかたちで脅されるのは屈辱のようだ。
「わ、わかったわよ」
前宮は、溜息をついて観念した。この鞄の中の物に対して、打つ手がないようだった。
「ただし昼食だけよ。これだけは譲れないわ」
「それで十分よ。それ以上は望んでないわ」
そう言うと、鞄を開けて手を入れた。
「ちょ、ちょっと!」
それを見た前宮が、慌てて止めようとした。
「どうかしたの?」
その行動に、弁当箱を取り出した久米が不思議そうな顔をした。
「な、なんでもないわよ。あれを言った後だったから、吃驚しただけよ」
「ああ、そうだね。ごめん、勘違いさせちゃったね」
久米は謝りながら、前宮の正面の席に座った。それを前宮は不快そうに見ていた。
「じゃあ、よろしくね。ノゾミン」
「昼食は許可するけど、あまり話したくないわね」
「まあ、すぐ親しくなるなんて変だもんね。ゆっくり親睦を深めていこうね」
久米の嬉しそうな表情に、前宮は動揺を隠せなかった。
「篠沢、どうしよう。私、かなり不安なんだけど」
「奇遇ですね。僕も同じですよ」
久米の笑顔からは、悪い予感しか感じられなかった。
「ちょ!それどういう意味よ」
久米が僕たちの発言に食って掛かった。
「そのままの意味だけど。それにあくまでも予感だから、当たらないかもしれない」
久米に建前は無意味な気がしたので、本音で答えた。
「あ、あんたって、言葉を選ばないのね」
返しが予想以上だったようで、引き気味な顔をした。
「選んだら誤解を招く恐れがあるよ」
「誤解よりも仲違いしちゃうわよ」
「その程度で仲違いするなら、僕とは友達になれないね」
「別に、あんたと友達になる気はないわ」
久米が嫌な顔をして、僕から視線を逸らした。
「なら、私とも友達になれなんじゃないかな~」
ここぞとばかりに前宮が割って入ってきた。
「えっ?」
予想外の口入れに、久米が驚きの声を上げた。
「だって、私も篠沢と同じで毒舌だから」
「そ、それは・・・」
これには久米も反論できず固まってしまった。
「の、ノゾミンは、可愛いからいいの」
返す言葉が見つからないのか、答えとは言い難い返しをしてきた。
「は?」
「何それ?」
僕と前宮は、意味がわからず首を傾げた。
「と、とにかく、ノゾミンはいいの!」
久米は叫んで、この場を収めようとしていた。
「・・・というか、早く入って来てくれない?」
僕は、さっきから教室の入り口にいる弘樹に手招きした。
「あ、ああ」
僕の促しに、弘樹がゆっくりと教室に入ってきた。
「なんか、この雰囲気に入れないんだが」
弘樹が久米を背にして、遠慮がちに席に座った。
「今日は珍しく惣菜パンじゃないんだね」
隣の二人はほっといて、弘樹と話すことにした。
「そうなんだよ。今日は珍しく売店で買う人多くてな~」
弘樹も僕の思惑を察して、アンパンを食べながら愚痴った。
「それは予想外だったね」
「全くだな。これを機に惣菜パンを増やして欲しいもんだな」
僕たちは、前宮が居なかった時のように会話を楽しむことにした。横では、前宮が黙々と弁当を食べていた。
「え!私たちは無視?」
自分たちが無視されていることに、久米が堪らず声を上げた。
「ええ、嫌なら輪に入る必要はないわ」
それに前宮が、しれっと答えた。
「だ、大丈夫よ。せっかくノゾミンと一緒なんだもん」
久米は、動揺から声が上擦った。
「まあ、ノゾミンと話してればいいか」
「あなたと話す気はないわ」
「そ、そんな!」
「嫌なら戻っていいわ。私だってあなたと昼食を取るのはストレス溜まるのよ」
「い、いや、ノゾミンと一緒だと嬉しいから我慢する」
「ちっ!さっさと帰れ」
前宮が舌打ちして、聞こえるように毒づいた。
「前宮、イラつくのはわかりますけど、言葉が汚いですよ」
あまりにも品のない暴言に見兼ねて注意した。
「ご、ごめんなさい」
なぜか久米にではなく、僕に謝ってきた。
「わ、私に謝らないんだ」
これが相当ショックだったのか、悲しそうに涙声で言った。
昼休みが終わり、久米は意気消沈で帰っていった。
「なんか、あいつ可哀想だったな」
それを見て、弘樹が僕に聞こえるように小声で言った。
「そうだね。凄く居た堪れなかったね」
食事が終わっても、久米が一生懸命話しかけていたが、前宮はだんまりを決め込んでいた。
「多分、俺が質問攻めしてもあんな感じになってたかもしれないな」
その光景を思い浮かべるように、前の席に戻った前宮を見た。
「そうかもね」
僕もそれは共感できた。
「それを考えると、春希ってよっぽど好かれてるな~」
「まあ、前宮は極端だから、そう見えるだけだよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
これを追求されるのは分が悪かったので、軽く質問を流した。
午後の授業が終わり、HRで担任が男子全員、体育館に集合するように言われた。争奪戦まで3週間になったことで、体育館で争奪戦の説明会が開かれることになっていた。
「待ってるね」
前宮は、わざわざ僕の席までそれを伝えに来た。
「いえ、帰っていいですよ。前回も結構長かったですし、ちょっと寄る所もありますし」
「待ってる」
それでも前宮は、力強く言い切った。
「・・・そ、そうですか」
その迷いのない断言に、何も言えなくなってしまった。
弘樹と一緒に体育館に行くと、男子生徒でごった返していた。
校長が最初の挨拶をして、大怪我はできるだけ避けるよう堅苦しく念を押された。
次に、争奪戦を総括する体育教師が、予選の説明を始めた。予選は各武活から選抜五人決めるものだった。従って、部員が少ない武活は、予選なしで強制的に本戦に組み込まれていた。これが僕にとって、一番理解できないルールだった。
一度、棒術部の顧問に予選の選出方法を部員の人数の割合で決めるよう申し出たが、無理だと一蹴された。これは昔からの伝統らしく、易々とルールは変えられなということだった。
しかし、その歴史を調べてみる限り、昔とは武活の数も違うし、今では武活も多様化になっているのだから、ルールを変える柔軟性ぐらい持てよと、強く思ったものだ。
説明会は、30分ぐらい掛かった。その20分は去年と同じ説明で、残りは争奪戦の日時と、各部の予選の日程だった。同じ説明は正直退屈なだけだった。
説明会が終わり、教室に戻った。
「おかえり」
僕の席に座っていた前宮が、立ち上がって迎えた。教室には前宮一人だけしかいなかった。
「本当に待ってたんですか」
これには本当に呆れてしまった。
「結構早く終わったね」
「いえ、前もこれくらいでしたよ」
「そうなんだ」
前宮と話していると、他の男子生徒が教室に戻ってきた。
帰り支度を済ませて、三人一緒に教室を出た。
「また明日な」
「バイバイ」
弘樹と廊下で別れて、前宮と一緒に階段を下りた。
「ちょっと図書館に寄ってもいいですか?」
「え?あ、うん」
意外だったのか、返事に動揺が見られた。
「なんか用事?」
「はい」
僕はそう答えて、図書館の前で立ち止まった。
「すぐ済みますので、ここで待っててもらっていいですか」
このまま付いてこられるのは避けたかったので、前宮を見つめてお願いした。
「え?な、なんで?」
「お願いします」
借りる物を一つ一つ詮索されるのは面倒なので、理由は伏せることにした。
「あ、う、うん。わかった」
僕の態度に戸惑った様子だったが頷いてくれた。
図書館で手早く数冊の本を借りて、前宮と一緒に下校した。
「前宮って、休日は何をしてるんですか?」
もう沈黙は嫌なので、今日から積極的に話しかけてみることにした。
「え!きゅ、休日?」
突然の振りに、後ろから驚いたような声が聞こえた。
「え、えっと、だいたいは、一人でウィンドウショッピングしてるかな」
これは会長から聞いたことがあったが、本当にしているようだった。あと、友達がいないことも確認できた。
「会長とは行かないんですか」
「はぁ~、なんでよ」
僕の質問に物凄く嫌そうな声が返ってきた。
「だって、姉妹ですし」
「この年になって、姉と一緒に買い物なんてしないわよ」
兄弟のいない僕には、そのあたりは全くわからなかった。
「姉さんとは、極力一緒にいたくないわ」
「どうしてですか?」
「姉さんは、ほとんど道場にいるから。一緒にいると、いつも寝技の練習相手させられるのよ」
「それは嫌ですね」
思い浮かべただけで顔が歪んだ。
「昔から独自の関節技を試したいからって、いつも私で試すのよ」
「それは最悪ですね」
「そうだね。密着するし、痛いからかなり不快ね」
それを想像してみると、容易にその光景が思い浮かべることができた。
「今でも道場で練習しているんですか?」
「暇さえあれば、独自の関節技を考えてるわ」
「よっぽど寝技が好きなんですね」
「もう趣味みたいなものね。前に理由を聞いたら、人と密着するのが好きだからって言ってたわ」
「そうなんですか。なんか理由が卑猥ですね」
「これは子供の頃の理由だから、別に卑猥では無いと思うよ」
僕の勘違いを訂正するように、前宮が補足してきた。
「温もりでも欲しかったんですかね」
僕には、その感覚は全くと言っていいほど皆無だった。
「さあ~。本人に聞いてみたら」
この話はしたくないようで、気だるそうな返事だった。
「前宮は、休日に練習はしないんですか?」
その態度を察して、話を戻した。
「しないわ。正直な話、最近筋肉が目立ってきたから、空手をやめようかと思ってる」
「えっ!」
あまりの唐突な激白に驚いて、後ろを振り返った。前宮が幼い頃から武道を習っていたことは、道場に飾られていた古い写真からでも予想ができた。それを友達になったばかりの僕に告げたことに驚いてしまった。
「これ、まだ誰にも言っていないから、黙っててね」
前宮が人差し指を口に当てて、控えめに口止めしてきた。
「わかりました。でも、そんな理由でやめるんですか」
「女にとっては、かなり重要よ。篠沢も筋肉質の女は嫌でしょ」
「いえ、僕は特に気にしませんが」
考えたこともないので、適当に答えておいた。
「本当に?」
「ええ、それにそんなに筋肉質には見えませんが」
前宮の全身を観察しながら、感想を口にした。
「ま、まあ、それには気をつけているから目立たないだけよ」
前宮が恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「そうなんですか。女の人っていろいろ大変なんですね」
友達がいなかった前宮が、なぜ見た目を気にするのかが不思議だったが、ここは敢えて聞かなかった。
いつもの帰り道から、前宮邸に向うために高級住宅に入った。
「じゃあ、前宮はいつも外出しているんですか?」
話を最初に戻して、会話を続けることにした。これは沈黙より断然マシだったからだ。
「うん。ほとんど家にいないね」
「一人で外出ですか・・・」
僕は、何気なく後ろの前宮を見た。
「そ、そうだけど・・・なんか文句ある?」
「ありません。すみません。本当にごめんなさい」
僕は立ち止って、平謝りで謝った。
「いや、そこまで謝らないでくれるかな」
「本当にすみません。禁句でしたよね」
「別に禁句じゃない!」
「ち、違うんですか?」
「も、もしかして、馬鹿にしてる?」
「いえ、そんなことはないです」
「はぁ~、天然で言ってるのね」
前宮が溜息をついて、落胆した表情をした。
「篠沢は、人をおちょくるのがうまいね」
「僕にそんなつもりはありませんが」
「そうでしょうね」
僕の反論に再び溜息をついて俯いた。
「別に、私だって好きで外出してるわけじゃないわ」
「何かあるんですか?」
いつもなら、これ以上追求はしないのだが、また沈黙されると居心地が悪くなるので聞くことにした。
「家に居づらいのよ」
「練習相手にさせられるからですか」
「それもあるけど。最大の理由は・・・他にあるわ」
「そうなんですか」
何か歯痒そうに言葉を濁したので、それ以上は聞けなかった。
「篠沢は、休日何してるの?」
今度は前宮が僕に対して、同じ質問をしてきた。
「え?僕ですか?」
この予想外の展開には、驚いて振り返ってしまった。
「うん、そうだけど・・・嫌だった?」
「嫌ではありませんが、まあ、そうですね。ほとんど家に引きこもってますよ」
正直な話、この質問は僕にとっては避けたかったが、自ら招いたことなので抽象的に答えることにした。
「外に出ないの?」
「日用品を買うとき以外は出ませんね」
「なんか不健全だね」
「武活しているから問題ありません」
「そうだったわね」
話している内に、古風の建物に着いた。これ以上の追求は答えに窮するものだったので、内心ホッとして胸を撫で下ろした。
前宮と一緒に勝手口から入り、一旦前宮と別れてから道場へ向かった。
第九話 試行
道場には誰もいなかったので、手早く着替えを済ませて、道場の隅に置いてあった剣棒を取って脇に置いた。
「着替え終わってる?」
すると、道場の外から会長の声が聞こえた。
「あ、うん」
少し驚いて返事をすると、会長と若菜が運動着姿で入ってきた。
会長はリングの淵に座り、持っていたタブレットを指でいじった。
「さて、今日から寝技と棒術と空手を三分割の組手で覚えてもらうから、あまり引きずる傷は負わないでね」
特訓前に会長から、難しい注文を突き付けられた。
「えっと、空手と棒術はいいけど、寝技は基本から教えてくれないの?」
「最初はそれを考えたんだけど、昨日の観察力の良さを知ったから、組手をした方が近道と思ってね~」
これを聞いて、余計なことをしたと後悔した。
「という訳で、これから攻撃をできるだけ避けながら、攻撃方法を学んでいってね」
会長が軽い感じで、今の体重では難しい注文をしてきた。
「さらっと言うね」
「大丈夫、篠沢ならできるわ」
「根拠のない言葉だね」
勝手に信頼されていることに、溜息が漏れそうになった。
「じゃあ、始めようか」
僕の意見を無視して、タブレットを横に置いた。
「えっと・・順番は棒術、寝技、最後は徒手ね」
会長はそう言いながら、若菜の方に目を向けた。
「40分交代でいくけど、若菜はできる?」
体力的に心配なのか、若菜に確認した。
「え、あ、はい。それは問題ないです」
すると、若菜の声に戸惑いが見られた。
「棒術の基本は大丈夫だから、篠沢は全力で相手してよね」
「え、いいの?」
「当然。正直言って、若菜より実力はかなり下よ」
「それは知ってるよ」
今の力量の差は、身を持って痛感していた。
「若菜の場合は一撃必殺だから、できるだけ急所は狙わないでね」
若菜には、はっきりと手加減するように指示を出した。
「わ、わかりました」
これには若菜も素直に従った。
「あと危険だと思ったら、すぐにギブアップしてね」
「言われなくても、そうするつもりだよ」
そうは言ったが、痛覚を遮断しているので、危険かどうかの判断は難しかった。
そんなやり取りをしていると、私服に着替えた前宮が道場に入ってきた。
「って、ノゾミン。またその格好でするの?」
今日の服装は格子柄のチュニックで、白のスカートに下にレギンスを履いていた。
「うん。勿論」
「・・・ノゾミン。一ついいかな」
「何よ?」
「もう告白しちゃえば」
「なっ!」
会長の促しに、前宮が驚きの声を上げた。
「なななな、何言ってんのよ!」
そして、動揺しながら会長に詰め寄った。
「いや、ここまで露骨だと、いっそ言った方が気が楽じゃない?」
「そんなの余計な気遣いよ!」
「ノゾミンは、極端すぎるから見てるだけでもどかしいんだよね~」
「う、うるさいわよ」
前宮が狼狽えたまま、会長に強い言葉を浴びせていた。
「なんの話ですか?」
また時間を取られそうなので、仕方なく口を挟んだ。
「何って、ノゾミンが・・・」
「ちょ、ちょっと!ノリでしゃべんないでよ!」
会長が言う前に、前宮が強引に遮ってきた。
「じれったくて、見てられないよ~」
「お願いだから、そんな理由で言わないで!」
「わ、わかったわよ」
前宮の目力に気圧されたようで、苦笑いして承知した。
「あのー、もう始めていいですか?」
話には入れてくれそうになかったので、事を進めることにした。
「あ、うん。若菜と始めておいて」
会長は軽い感じで、特訓を促した。
「じゃあ、お願いします」
時間も決められているので、端にいる若菜に声を掛けた。
「あ、はい。こちらこそ・・お願いします」
若菜はそう言って、真棒を持って立ち上がった。
未だに言い合いをしている前宮姉妹を脇目に、僕と若菜はリングの上で組棒を開始した。
それからは若菜に虐げられ、会長には弄ばれ、前宮には控えめに痛めつけられた。
「だ、大丈夫?」
前宮が心配そうに、僕の腫れてる腕を見た。
「私がやろうか?」
「いえ、結構です」
前宮の気遣いを、表情を緩めて遠慮した。正直、応急処置は形だけだったので、実際されると困るだけだった。
「そ、そう」
それに前宮が、がっくりと項垂れた。
「いや~、やられたわね~」
会長が満ち足りた顔で皮肉ってきた。
「い~な~。見たかったな~」
飲み物を差し入れに来た島村先輩が、羨ましそうに僕を見た。
「見るより体験してみてはどうでしょう」
「痛いのは嫌だよ」
僕の勧めに、島村先輩が馬鹿にしたように返してきた。
「そうですか」
予想通りの返しを聞き流しながら、救急箱を前宮に返した。
「じゃあ、これからは毎日するから頑張ろうね~」
会長が笑顔でそう言ってきた。
「今からでも放棄はできない?」
「あはは~、無理」
僕の頼みを空笑いで一蹴した。
着替えを済ませて道場を出ると、いつものように前宮が待っていた。
「お、お疲れ」
そして、気まずそうに労いの声を掛けてきた。
「ご指導、ありがとうございました」
その答えとして、僕は感謝を述べておいた。
「え、えっと、そういうのはいらないよ」
あれが指導とは思えなかったようで、悪びれたように遠慮した。
門扉に着くと、会長と若菜が話していた。
「あ、篠沢」
会長がこちらに気づいて、笑顔で声を掛けてきた。
「何?」
「若菜とはうまくいってるみたいね」
若菜から進捗状況を聞いたようだ。
「順調とはいかないけど、できる限りはしていくつもりだよ」
「いい心掛けね」
「まあ、争奪戦までだけど」
「それで十分よ」
これには満足そうな顔をした。
「じゃあ、また明日ね~」
「またね。篠沢」
前宮姉妹は、笑顔で小さく片手を振った。
「また明日ですね」
「さようなら」
これに僕と若菜が挨拶を返して、勝手口から前宮邸を出た。
「さて、今日はどうした方がいい?」
「・・・え、どうしたらって?」
僕の質問の意図が伝わらなかったようで、不思議そうに聞き返された。
「沈黙は嫌だよね」
「う、うん」
「で、今の対処法は僕が話を振るか、僕と手を繋げるかだけになるけど、他に何か案とかないかな?」
話し方はたどたどしいが、自己主張が強いことはこの2日間で知ったので、意見を聞くことにした。
「それだけじゃあ・・ダメなんですか?」
「正直、効率が悪いね。とても争奪戦までに克服は無理だよ」
これは若菜の態度を見て、自己分析した結果だった。
「え、そう・・なんですか」
若菜が不安げな声を出して、僕を見上げてきた。
「だから、もっと効率的な案はないかな」
「え、えっと・・・」
この要求に、若菜は答えに窮している様子だった。
「まあ、そこは考えないと、短期間での克服は無理だね」
少し厳しい言い方になったが、これは真面目に考えて欲しかった。
「は、春希兄さんは・・何か・・ないんですか?」
「今のところ、ショック療法以外は思いつかないけど」
「む、無理です」
若菜が落ち込んだ様子で拒否した。
「・・・ふぅ~」
そんな若菜を見て、同情心が芽生えてしまった。
「若菜。少し時間ある?」
「え?」
僕の言葉に、若菜がキョトンとした。
「一度だけ、ショック療法に近いことしようか」
今日の会長との寝技で、思いのほか接触が多かったので、僕自身も早急に慣れる必要があった。
「え!」
この発案には驚きの声を上げた。
「これを乗り切れば、あとは徐々に治る可能性は高くなるよ」
これには本人の決意が必要だったので、真顔で若菜を見つめた。
「・・・あ、え、うんと」
僕の顔を見た若菜が、戸惑いの声を出した。
「どうする?」
「え、あ、えっと・・・」
突然のことにすんなりとは決断できないようだった。
「このまま引き延ばすこともできるけど、それじゃあ一向に克服はできないと思うよ」
ここはお互いの為に、もう一押ししてみることにした。
「わざわざ会長の提案に乗ったんだから、この機を逃すのは失策だよ」
「そ、それはそうですけど・・・」
自分でもそれはわかっているようで、初めて僕に対して早口で答えた。
「なら、一度だけでいいから頑張ってみない?」
僕は、若菜に笑顔を向けて促してみた。
「わ、わかりました」
若菜は、意を決したように頷いた。
「じゃあ、ちょっと寄り道しよっか」
「ど、どこ・・行くんですか」
「ここは人目に付くから、ひと気のない場所だね」
「な、何・・するん・・ですか?」
若菜は、動揺しながら聞いてきた。行き先が不透明なことがさらに不安を煽ったようだ。
「さっき言った通りだよ」
「ショック療法・・ですか」
「に、近いだね」
鳥頭の島村先輩とは違い、ちゃんと把握してくれてるようだ。
僕たちは、ひと気のない木々に囲まれた小さな公園に入った。昔は広い公園だったようだが、土地開発が進んで、今では25メートル四方程度の公園になっていた。
「さて、手っ取り早く始めようか」
僕はそう言って、若菜と向かい合った。この公園は木々に囲まれているので、通りがけでも人目につくことはなかった。
「な、何を?」
若菜は、不安いっぱいの声で聞いてきた。
「手を出して」
「て、手?」
「それを僕が握るから」
「え!」
これには驚いて、半歩後ろに下がった。
「でも、条件は付ける」
「じょ、条件?」
「条件は、僕に手を差し出せることだよ」
急にやると症状が悪化する恐れがあるので、心の準備だけは必要だった。それは僕にも言えることだった。
「そ、それが・・条件ですか?」
「もう一つは、制限時間を5分設けるよ」
「じ、時間?」
「そうじゃないと、ずっと待つ可能性もあるからね」
貴重な時間を割いているので、これだけは絶対に避けたかった。
「・・・た、確かに」
これには若菜も納得してくれた。
「さ、始めようか」
ここは敢えて気さくに振る舞った。
「は、はい」
しかし、若菜は緊張が増しているようで、ぎこちなく頷いた。
「じゃあ、手を出して」
僕がそう促すと、若菜が震えた手をゆっくり出してきた。これは思ったより早い行動だった。
「うぅぅ」
が、手を伸ばし切るまでには至らなかった。どうやら、ここが限界のようだ。
「あと、4分」
僕は、時間の経過を口にした。その声に若菜がビクッと体を震わした。
「大丈夫、この一回きりだから」
僕は、自分に言い聞かせるように若菜に言った。
「は、はい」
この言葉に励まされたようで手を少し前に出した。
「もう少しだから、頑張って」
「ぅ~~、どうぞ」
覚悟を決めたようで、制限時間になる前に手を目一杯突き出した。
「じゃあ」
僕も覚悟を決めて、若菜の震えた手を軽く握った。自分から人の肌に触れるのは、これが初めてだった。
「ひっ!」
それに若菜の全身が震えた。その恐怖が僕にも伝わってきた。
「大丈夫」
若菜の手を両手で優しく包んだが、僕の手も小刻みに震えていた。
「う、くっ!」
若菜の震えは、僕の震えを上回っていて、なんとかごまかせそうだった。
「はい。終わり」
これ以上は、お互い支障をきたす可能性があるので、ここまでにすることにした。あとは、徐々に慣らしていくしかなかった。
「はー、はー、はー」
ただ手を握られただけで、息切れと冷や汗を流していた。実際、僕も冷や汗をかいていた。
「頑張ったね」
僕はそれを見て、労いの言葉を口にした。
「ここまでの覚悟があれば、争奪戦までには軽度になると思うよ」
あまり自信はなかったが、ここは敢えて気休めを言っておいた。
「無理させたから、今日は一人で帰ってもいいよ」
若菜の状態を見て、個人的にそう判断した。
「い、いえ、一緒に・・帰ります」
しかし、若菜は自分から申し出てきた。この言葉から、これを克服したいという気持ちが伝わってきた。
「わかった」
その思いに配慮して、一緒に帰ることにした。
若菜と一緒に公園を出て、街灯の下を並んで歩いた。
「どうだった?」
若菜も沈黙を嫌っているので、僕から話しかけた。
「そ、そう・・ですね。まだ・・手が震えています」
若菜はそう言って、握られた手を見つめた。
「そう。ところで、なんで男性恐怖症になったの?」
もう会って3日目なので、ここで聞くことは自然だと思った。
「え、えっと・・・」
「まあ、言えないなら言わなくていいよ」
若菜に迷いが見られたので、即座に言い繕っておいた。
「あ、いえ、言います」
「じゃあ、聞こうかな・・・あ、でも、簡略化してね」
あまり長い話だと、今の話し方では最後まで聞けない気がした。
「あ、はい」
これには若菜も気づいたようで頷いてくれた。
「げ、原因は・・・父親です」
若菜が言葉を振り絞って、原因である人物を口にした。
「あ、そう」
これにはどう返していいかわからなかった。
「父親の、その、ぼ、暴力を・・・」
言葉にしていく内、思い出しているようで体も声も震えだした。
「もう、いいよ」
それを見て、僕は言葉を遮った。
「え、でも・・・」
僕が止めた意味がわからなかったのか、困惑した声を上げた。
「こんな所でそんな言動されたら、注目されてしまうよ」
傍から見たら、僕がいじめているようにしか見えなかった。
「あ、そう・・ですね」
「男性恐怖症になった経緯は、もう話さなくていいよ」
二つの単語でここまで深刻になるなら、それ以上聞くのは危険な気がした。
「そ、そう・・ですか」
「じゃあ、もうこれからのことを考えようか」
ここは気を取り直すように切り出した。
「そ、そう・・ですね」
それに若菜も合わせてくれた。
「と、その前に」
僕は、大通りに知り合いがいないかを確認した。高級住宅を出る前に、クラスメイトとの鉢合わせだけは避けたかった。
「今日は大丈夫みたいだね」
待機していた若菜の方を向いて、来るよう手招きした。
「そこまで・・警戒する必要・・あるんですか?」
若菜がたどたどしく聞いてきた。
「これは最小限の警戒だよ」
「は、はぁ~」
「で、これからの方針としては、若菜ができる限界をしてね」
横断歩道を渡りながら、気軽に注文をつけた。
「えっ!」
「今日はきっかけをつくったから、あとは自分でどこまで許容するかだけだよ」
正直な話、僕のすることはここで終わっていた。
「そ、そんな!」
自分が突き放されたと思ったのか、泣きそうな声を上げた。
「大丈夫、争奪戦までは僕が相手だから」
「あ、そうなんですか」
これにはホッとしたような声で平静に戻った。
「感情的になると、言葉が滑らかになるね」
「え、あ、すいません」
責められたと思ったのか、若菜が謝ってきた。
「若菜って、感情的になるのはどういう時?」
自分ができることが見えた気がしたので、若菜に聞いてみた。
「どういう・・意味ですか?」
「話す時は感情的にさせようかと思ってね。褒めるのと罵倒どっちがいい?」
「・・・どっちも嫌です」
「なんで?」
まさか断れるとは思わなかったので、理由を聞いてみた。
「どっちも・・感情的に・・なれません」
「なるほど」
これほど明確な答えはなかった。
そんなやり取りしてると、分かれ道に差し掛かったので、若菜が立ち止った。
「じゃ、じゃあ・・さ、さようなら」
若菜は、顔を合わさず会釈した。
「うん。じゃあね」
それに僕は気軽に応えた。
若菜を見送ってから、トランシーバーを買いに教えてもらった家電店へ向かった。
売り場には、トランシーバーが数多くあった。どうせお金の使い道もないので、一番高いものを買っておいた。
その帰り道、後ろから声を掛けられた。
「今、帰り?」
振り向くと、そこには久米が立っていた。
「そうだけど」
「武活も長引いてるから大変ね」
どうやら、武活帰りだと思ったようだ。
「うん。大変なんだよ」
この勘違いを利用して愚痴ってみた。
「・・・篠沢って、普通に話せばまともなんだね」
久米が僕を見て、そんなことを口にした。
「まあ、初対面での印象がお互い悪かったからね」
「それもそうね」
それには久米も納得した。
「学校帰り?」
見ればわかることだったが、話を切り替えたかったので、前置きとして聞いておいた。
「まあね。実行委員の会議が終わったから、帰るところ」
「そう」
久米が実行委員なのは初めて知ったが、特に興味もなかったので軽く流しておいた。
しばらく歩いていると、後ろから久米もついてきた。どうやら、同じ帰り道のようだ。このまま久米を引き連れたくなかったので、遠回りを覚悟して中道に入った。
「帰り道が被るわね~」
久米がそう言いながら、後ろからついてきた。道を変えるのが早計だった。近くの店に入ろうとも考えたが、中道だったこともあり、店が全然見当たらなかった。引き返すのも不自然だったので、足早に久米を引き離すことにした。
「ねぇ」
しかし、その前に話しかけられてしまった。
「ん、何?」
無視も考えたが、振り返って返事をした。
「篠沢って、ノゾミンが好きなの?」
久米は、僕に視線を向けず聞いてきた。
「それはどういう意味合い?」
あまり気軽に答えるのは危険だと判断して、主旨を聞いておいた。
「恋愛の意味よ」
僕の質問に素っ気なく答えた。
「わからないとしか言えないね」
恋愛感情がわからない僕には答えようがなかった。
「そう。ノゾミンも報われないね」
どう解釈したかは知らないが、久米が前宮に同情していた。
「じゃあね」
久米はそう言って、脇道に逸れて帰っていった。
それを見届けてから、来た道を引き返した。
いつもより遅く帰宅すると、母親がリビングから顔を出した。
『今日、バイトはないの?』
『今日は休みだよ』
僕は靴を脱いで、リビングに入った。
『一応、買ってきたから』
『それは有り難いね。もう周波数は聞き飽きてたところなのよ』
母親が疲れた顔で愚痴をこぼした。
『大丈夫?』
『うん。理解できない言語に気疲れしてる』
『それ、僕も通った道だよ』
『大変だったんだね』
『母さんも頑張って』
ここは母親と同調するのではなく、鼓舞することにした。
『まあ、やってはみるけど・・・』
そう云うと、何か言いたそうに僕を見た。
『手伝ってくれる?』
『勿論だよ』
僕がそう答えると、子供のような満面の笑顔になった。
『じゃあ、まず送受信機の構造を知ろっか』
『その前に、タンパク質くれない?』
正直、先に自然治癒を高めたかった。
『今日も?』
『争奪戦までそうなると思う』
『筋肉事態を硬い物質にしたら?』
『そんなことしたら、組手の時にバレるんじゃない?』
さすがに受ける時に違和感が出てしまう気がした。
『その周りを脂肪で固めたらバレないって』
『なるほど』
これには大いに参考になる助言だった。
『私たちの筋肉は、常に破壊と再生繰り返しだから、鍛えてもすぐ戻っちゃうんだよね~。正直、体を鍛える意味ないんだけどね』
クラの人は男女で筋力差があるようだが、ナルではその差は皆無に等しかった。
『でも、闘い方は学ぶものがあるよ』
『まあ、そうかもね』
母親が軽く流しながら、トランシーバーを箱から取り出した。
『これを機に、ハルキも少し成長してみる?』
トランシーバーを手に取って、顔を僕の方に向けた。
『成長?』
『ふふっ、体内の生成速度を上げるのよ』
母親の笑みには嫌な予感しかしなかった。
『・・・えっと、断ります』
『別に、苦しいとか痛いとかはないわよ』
『じゃあ、何するの?』
『クラの人が筋肉を鍛えるのと同じように、生成を体内で繰り返すのよ』
『反復練習するってこと?』
『うん。それで治癒や体内生成が無意識で早くなるから』
『・・・わかった。できるだけ意識してやって見るよ』
今後のことを考えても、自分には必要なことなので鍛えることにした。
『ところで、なんで二つあるの?』
母親が二つのトランシーバーを持って、不思議そうに僕を見た。
『二つないと意味ないからだよ』
『ふ~ん。そうなんだ~』
母親は、トランシーバーを指で軽く叩き始めた。どうやら、中の構造を調べているようだ。
『ちょっと着替えてくる』
その間に着替えることにした。
『あ、うん』
母親の返事を聞いてから、リビングを出た。
自分の部屋に入ると、自然と脱力した。正直、生成は苦手なので、四六時中しないと成長は見込めない気がした。
「面倒だな~」
僕は愚痴をこぼしながら、着替えを始めた。
ナル∪クラⅡ