ベナレスからの手紙

あらすじ

3年のヨーロッパからインドへの放浪の旅から帰国した若林に1通の手紙が届いていた。3年前出発直後に幼馴染の柴山杏子が急死したという知らせだった。ちょうど3回忌で旧友と再会する。そこで明かされた真実とは?

帰国

若林治は3年ぶりの帰国だった。見た目には黒く日焼けしただけの
同じ日本人のはずなのに、感覚はまるで異邦人だった。

羽田について広島方面行の新幹線に乗り込むまで間、東京の
ビジネスマンの歩調に強烈な違和感を覚えた。

なぜそんなに急ぐ?黙々と足早に突き進む日本ビジネス軍団の
行く先は大きな崖っぷちのようにに思えた。

肌寒い初冬の風、学園紛争の終末を見た70年の秋口に日本を飛び出して
ヨーロッパ、中近東、インドとまわりやっとの思いで帰国したのだ。

京都へは寄らずに直接広島へと向かった。久しぶりだ。広島駅から
岩国行きの普通に乗り換えると、広島弁が懐かしい。

宮島口と言う駅で降りる。日本三景の一つ安芸の宮島の対岸である。
瀬戸内の穏やかな冬の海、夕暮れ時のか弱い日差しの中に海の匂い。

牡蠣殻の山と牡蠣打ちの音。国道沿いを西へと歩く。大きな別荘や
保養所が見えてきてチチヤス牧場へ右折する手前に我が家がある。

小さい料亭である。両親はすでになく歳の離れたお人よしの義兄夫婦
が後をついで、治と二つ下の息子と暮らしている。

急死?

久しぶりの歓談の後、義姉が1枚の封筒を持ってきた。
70年12月の消印だ。差出人は児玉尚也。

小学校時代のまとめ役で同窓会の幹事をやっている
小児科の医者だ。すぐに封を開けてみる。

同級生の柴山杏子が急死した。葬儀は云々と書いてあった。
柴山杏子と言えば、控えめではあるがテニスは県大会に
出るほどの腕だった。あの杏子が?病気で急死とは?

7年ぶりに児玉に電話した。
「ああ、急性の白血病で入院して3か月。葬式には広島に
いる川合、土本、山田と宮本さん、増田さん、折出さん。
よく見ると美人だったよな柴山」

「で?」
「親父さんに『若林さんは?』て聞かれて、
『あいつ海外行ってて3年は帰ってきません』と答えたら、
『3回忌にはぜひお会いしたい』と言うんだ」

「3回忌?」
「ちょうどこの20日が3回忌だ」
「ああ、もちろん行くよ」
「わかった。みんなにも伝えとくよ」

児玉たちとは小学校の4年の時から一緒で杏子もその一人だった。
各学期ごとに学級委員を投票で決めた。1学期は優等生の福田と
美人の大辻さん。2学期は美男子高祖と増田お嬢様。3学期が
若林と柴山さんだった。柴山さんは無口で控えめだが成績は優秀。

そうしたある日、でしゃばりの宮本さんから付文をもらったことがある。
開けてみると「若林君は柴山さんのことが好きですか?」と書いてあった。
なんだこれと言って返事もしなかった。

幼馴染

こんなこともあった。ホームルームの時に黒板の前に立って
何かの評決をとるときだったと思う。柴山さんは後ろで黒板に
賛成1反対1と正の字を書いていく。若林が一つ一つ読み上げ
ていくのだが、一つ聞き取りにくくて柴山さんが「え?」と
言って耳に手を当てて顔をよせて聞いてきた。

振り返ると彼女の耳元に触れた。「賛成一」と大きくつぶやくと
誰かが「ようっ!」と言ったとたん冷やかしの拍手になった。
二人は顔を真っ赤にして評決を続けたことを思い出す。

またある日クラス費で画用紙を買った帰りに近くだからと彼女の
家の前を通った。ちょうど親父さんが表に立っていて、お店には
柴山洋装店と書かれていた。仕立て屋さんだったと思う。

「おー、学級委員の若林治君か?」
「あ、はい」
側で柴山杏子が恥ずかしそうにふたりの会話を聞いている。

「大きくなったらなんになるんだ。若林君?」
「京都の大学の工学部に入ってロケットの博士になります!」
大きな声でこう言ったのを今でもはっきりと覚えている。
大声で笑ったニコニコ顔のあのおやじさんか・・・・・。

包が浦

あのころはまだ広場がたくさんあって。BB弾やペンシルロケット。鉄ごま、ぱっちん
等でよく遊んでいた。隣町とのけんかで落とし穴をよく掘ったが、今思えばがれきや
溶けたガラス瓶などいくらでも出てきた。近くに半分崩れたままの大きな教会があって
そのがれきのなかは格好の隠れ家だった。ある日ウィーン少年合唱団がやってきて
びっくりしたこともある。

その後中高一貫教育の私立高に高祖と若林と高瀬が受かって福田は落ちた。それでも
彼は高校の時編入してきた。男子校で広島一の進学校だ。6年分を5年でやりあげて
高3では志望校別に徹底受験勉強だった。その中中三の夏休み児玉が音頭をとって
同窓会、宮島の包みが浦に海水浴に行った。柴山杏子ももちろん来ていた。

女どものまばゆいばかりの健康美に男たちはたじたじとなった。ずっと気には
なっていたがとてもしゃべれる状況でも雰囲気でもない。視線を送ることさえ
はばかられる、そんな感じ。女どもは女どもで団子になってはしゃいでいる。
なんとも無性に腹立たしい夏の思い出であった。

高2の秋

高2の秋、柴山杏子がテニスで県大会を優勝したことが新聞に出ていた。
もう我慢できない、何とかして会いたい。ほとぼりが冷めたころを
見計らって電話をかけてみた。少し緊張する。

「若林と申しますが」
「えー、若林君!」
直接杏子が出た。相当驚いているようだった。

「新聞見ました。優勝おめでとう」
「どうもありがとう」
「ちょっと用事があって電話しました」
「なんでしょうか?」
「香山書院の日本史を1年の時とっていませんでしたか?」
「ええ、とってましたけど」

若林は前もって調べておいたのだ。今その教科書が手に入りにくかった。
「その教科書未だお持ちでしたらぜひ譲っていただきたいんですが」
「ええ、かまいませんよ。ちょっと汚れてますけど。でもどうやって届けましょう」
「時間と場所を指定してください。急で済みませんが、必ず取りに伺います」

「そうですね、明後日の5時に八丁堀の電停で」
「わかりました。明後日の5時に八丁堀の電停で待ってます。よろしく
おねがいします(ガチャ)」

治は胸ドキドキの冷や汗で大きく深呼吸をした。

千羽鶴

胸ドキドキと言えば、小学校6年の夏休み前に小学校に映画の撮影隊が来た。
確か千羽鶴と言う映画だったと思う。佐々木貞子さんと言う被ばく少女を
主人公にした反戦映画だった。これを機に原爆の子の像の募金が始まり像が
建った。この像は自分たちが建てたんだという自負が今でもある。

その撮影のエキストラを選ぶときに2つのシーンがあった。一つは幟町中学校
での全学集会の場面。もう一つは彼女の母校幟町小学校での朝の登校の場面。
集会の方は全校あげて大はしゃぎ。ところが登校の場面には何度も緊張が走った。

午前中に校門脇にレールが敷かれ大型の撮影器具類がセットされ移動を繰り返す。
校門を入ったところで演技がありエキストラ数十人がその後方を登校するという
場面である。注意事項があった。

「絶対にカメラの方を見ないように、普通に歩いてください!」
何度か歩いてリハーサル終了。いよいよ本番だ。「本番!」の声とともに全体に
緊張が走る。「よーい、スタート!」カチンコが鳴った。

そして思わず緊張のあまり治はカメラの方をちらりと向いてしまったのだ。
しまったと思った瞬間、「はい。OK!」と大声がした。この時ほど冷や汗が
出て胸がどきどきしたことはなかった。杏子への初めての電話の後でこの時の
胸の動悸を思い出した。後日この映画を見に行って鮮やかな自分の顔に驚いた!

失意

さて当日、八丁堀の電停は混雑していた。5時を少し回って電車の
前方出口から降りてきた柴山杏子は、手に持った教科書を治に手渡
すとすぐまた電車に乗り込んだ。

「少し汚れてますけど」
「いや、どうもありがとう」

電車はすぐ発車して暗くなりかけた軌道を遠ざかっていく。手に教科書
を持ったままその後ろ姿を追い続けた。それが今遺品になったのだ。

京都での1期校の受験に失敗して治は京都の予備校に入った。高瀬との
男の約束で何年浪人しても入ると誓ったからだ。他は一校も受けなかった。
福田は東大高祖は上智高瀬は東工大。京都組は関西医大の児玉工繊の菅波
学芸大の柴山杏子同女の柴田さんそして浪人の若林。

春に1度京都組で集まったが若林は元気がなかった。まともに杏子の顔が
見られない。来年こそはと思いつつ皆から遠ざかっていった。厳しい冬が
来て予備校ではトップクラスで合格90%以上だったのに翌年900点中
8点差不合格になった。この国立1期校は点数を後日出身校に送付するのだ。

広島に帰って進路指導の教官と確認した。数学が悪いという。何と100点
満点中15点しかないという。嘘だ!全問回答して自信があったのに絶対に
これは何かの間違いだ。しかしこれを覆す手立てはなかった。とてつもなく
大きなものが心の中でガラガラと崩れ落ちた。

唖然としたまま治は、重い足取りで2期校の学芸大を受けた。

再会

合格した後予備校で一緒だった2浪の松田と学芸大の裏門の
向かいの古い民家に下宿してともに農学部を目指すことにした。

学芸大では英語の授業だけ出てあとは松田と図書館で受験勉強
の毎日が始まった。その図書館でとうとう杏子に出くわしたのだ。

驚いた杏子の声を制して治は立ち上がると外に出た。旧京都師団
兵舎跡地の学園はなだらかな起伏があって緑多く初夏のまばゆい光が
、それを口実に治は視線をそらして杏子に告げた。

「残念ながらまた不合格だった。来年最後の望みをかけて農学部を
受験するよ。この1年此の学園で頑張るので、よろしく」

夏休みも終わり学園祭の季節も過ぎて肌寒くなってきたころテニス
コートで杏子を見かけた。彼女がテニスをするのを見るのは初めてだ。
午後の淡い日差しの中で杏子の姿態は健康そのものだった。

禁忌なものを眺めるように、周りを見回し、誰もいないことを確認して
少しずつフェンスに近づいて行った。美しい、涙が出るほど美しい、
しばし見とれ、気づかれそうな気配を察してその場をそっと立ち去った。

数週間後の寒い日治は郵便局に願書を出しに行った。ここでまた偶然
杏子に出くわしたのだ。もう受験も間近だ。いずれにせよ来年は海外へ
旅に出る。ひょっとしたら帰ってこないかもしれない。これが最後か?

聞くと下宿先は桃山南口と言う。桃山御陵を越えていけば1時間の道のりだ。
ゆっくりと歩きながら、がむしゃらに一人でしゃべり続けていたようだ。
何を話したかははっきりとは思い出せない。

しびれ

夕暮れ迫る桃山御陵の坂道をゆっくりと上り、ただ一方的に話しながら
下って行った。とうとう彼女の下宿の前に着いたが、まだ治はしゃべっ
ていた。下宿のおばさんが出てきて二人を興味ありげにながめ、

「どうぞ中に入ってお部屋でお話しなさい。お茶持って行ってあげるから」

と言われて、初めてわれに返って2階の彼女の部屋に上がらせてもらった。
清潔な美しい部屋だった。お茶が出て、

「どうぞ、ごゆっくり」
と笑みながらおばさんが降りて行ったあと、そうもいかない。
正座したまま足がしびれてきた。彼女の話はわずかだったがよく覚えている。

1つは健康そうに見えるけど内臓疾患を抱えていること。もう一つは来年
教職をとって卒業したら母校の幟町小学校に赴任したいということだった。

足のしびれが極限に達してきた。このままいけば立てなくなる。あの時と
同じだ。小学校6年の冬、和室で教師と生徒代表との緊急会議があった。
運動場を野球とサッカーが重なると全くほかの遊びができないので運動場
の使用をどうするかの議題だったと思う。

当時は1学年7クラスもあって5年生6年生の学級委員だけで28名もいた。
とにかく子供の数が多く必然的にグラウンドは狭くなるのだ。足を崩せばい
いのに我慢していた。一度無理に発言して何とか腰を浮かせ座りなおしたが
後は地獄だった。

とうとう会議終了後に立てなくて副学級委員の柴山杏子に助けてもらったこと
がある。その時は他の級友がいなくて冷やかされずに済んだ。その二の舞に
なるのは何としても避けたい。頃合いを見て素早く立ち上がり別れを告げた。
思えばこれが最後の別れになったのだ。

バイト三昧

三月、ついに農学部に松田ともども合格した。ところが家の事情
があって二十歳になったことだし自活してくれと連絡があった。
はじめからそのつもりだったので親元にはいろいろとお世話に
なりましたと礼を述べてアルバイト三昧に入った。

大学の寮にも入れて学費も安く奨学金とアルバイトで、頑張れば
この1年で旅費は貯まる。さあ海外放浪の旅に出るぞ!そう決めて
朝昼晩とアルバイトに精を出した。

杏子の方も教育実習や卒論やらで忙しく広島と京都を行ったり来たり、
なかなか電話での連絡も取れず手紙を一度出したきりでその歳もくれた。

年が明けると寮問題がこじれて学園紛争が起きた。東京に発した紛争の
嵐が関西でも発火したのだ。大学はバリケード封鎖され授業は一切中止
された。教授陣のつるし上げ団体交渉が連日続き色とりどりのヘルメット
軍団が押し寄せ大学は閉鎖状態が続いた。

治はこれ幸いにとアルバイトに明け暮れあっという間に1年が過ぎた。
年末に杏子へ手紙を出して翌年夏の終わりにヨーロッパへ旅立った。
その年の暮れに杏子は死んだ。22歳の若さだった。なぜ?

三回忌1

三回忌の命日当日には児玉と宮本さんしか来れなかった。
児玉は親父の小児科を継ぐべく研修見習いと称して広島の
実家にいた。宮本さんは早々と結婚してもう若奥さんだ。
他は皆都合が悪く来れないという。12月の平日のしかも
昼間だから仕方がないかと諦めつつ幟町の寺へ向かう。

電停で待ち合わせをして大通りを右折すると閑静な住宅街に入る。
児玉が先を歩き後を若林と宮本さんが並んで歩いた。しばらく
無言だったが、いきなり宮本さんが若林に語り掛けてきた。

「杏子は若林君が大好きだったのよ」
若林は突然のことで驚いた。
「うそだよ。そんなこと一度も聞いたことないよ」

「ほんとよ。小学校6年の時みな誰が好きって言いっこした時、
あの無口な杏子が最初に若林君って言ったのよ」
窺うように宮本は治の顔を見る。

「嘘だよそんなの、本人から1度も聞いたことないよ」
治はちょっとむきになった。それをたしなめるように宮本は、

「あたりまえでしょ。本人を前にしてそんなこと言えるわけがないでしょ。
それでその時私もびっくりしたから、なんで?若林君のどこがいいのって
意地悪く聞いたの。そしたら、死んだおにいさんにそっくりだからって
いうのよ、はっきりと」

「へー、初めて聞いたな。杏子に兄貴がいたんだ」
先を行ってた児玉も遅い二人の足取りに戻ってきて会話に加わった。
「そう、一つ上のお兄さんだったらしいんだけど、ずっと入院してて
その前の年に亡くしてるのよね彼女」

三回忌2

「そう言えば兄妹みたいだったよなお前ら」
児玉が茶々を入れる。
「そんなことないよ」

治は一瞬ふさぎ込んだ。宮本がすかさず、
「ねえ、覚えてる?私が若林君に手紙渡したこと?」
わざとらしく明かるげに覗き込む。

「忘れたよそんなこと」
治は不機嫌に答えた。
「柴山さんのこと好きですかって書いて渡したじゃない、
おぼえてない?」

「おぼえてない!」
治はきっぱりと否定した。
「彼女返事がなくて落ち込んでたわよ」

「知らないよそんなこと。だって好きとか嫌いとかわからないよ小学生じゃ」
治はむきになった。ここぞとばかり宮本は食い下がる。
真剣なまなざしで、立ち止まり、

「じゃあ、今はどうなの?」
じっと治を見つめる宮本。思わず治も児玉も立ち止った。

「いや、それは・・・。それこそ妹みたいで。何というか
嫌いじゃないし。ちょっと太めだけど、どちらかというと、
好きだったかも」

3人はまたゆっくりと歩きだした。勝ち誇ったかのように宮本は、
「ほら見てごらん。はっきりと言ってほしかったのよ彼女。
その一言で幸せに死ねたのに。男ってホント鈍感なんだから」

三回忌3

治はここでまたすぐ歩みを止めた。そのまま行こう
とする宮本の前に立ち、

「ちょっとまってくれ。それじゃまるでこの俺が、
丸っきりの悪者みたいじゃないか?」

「そうよ、女の気持ちもわからない、無神経で
わがままなあなたが彼女を不幸にしたのよ」

「そりゃあひどいよ。どうしてそういうことがわかるんだよ。
かってに決めつけると、俺だっておこるよ」

宮本は黙ってゆっくりと歩きだした。治と児玉もそれに続く。

「私の勝手な決めつけじゃないわ。杏子が入院したとき、お父様から
何度も若林君の居所わかりませんか?連絡つきませんか?って尋ねら
れたの。あなたの実家にも2度電話したわ。夏の終わりに海外へ飛び
出したっきり一度も手紙も来てません、全く連絡つきません、ていう
返事だったわ。ねえ児玉君」

「ああそうだったよな。杏子はそんなに若林に会いたがっていたのか」
「そうよ。ほんとに会いたがっていたのよ」

どうも分が悪い降参した方がよさそうだと治は、
「わかった。どうも俺が悪かったような気がしてきた。それでなにかな、
杏子は何を言おうとしたのだろうか?」

「若林君。あなたってホントに馬鹿ね。言うんじゃなくて言って欲し
かったのよ。たった一言」
「ひとこと?」
「そうよ、好きだって」

「え、そんなこと」
治は気を取り直し、
「そんなことならいくらだって言えるよ。好きだ、好きだ、好きだ。ほら」

「そうじゃなくて、心を込めて、一言でよかったのよ」
「よくわからないなあ」
「だから男は鈍感ていうのよ」

向こうに寺が見えてきた。児玉がこっちだと先導する。境内の入り口で
線香と仏花、手桶に水をくんで墓石へと向かう。奥まった一隅に三基の
小さな墓石が建っていた。治は真新しい墓石を見て、

「この新しいの違うみたいだ?」
児玉が線香に火をつけながら、
「その新しいのは去年亡くなったお母さんのだ。真ん中が杏子の墓、
こちらが杏子のお兄さんの墓だろうな」

仏花を差しながら宮本が、
「そうよ、今はもうお父さんおひとり。お店は閉めておひとりで・・」

あの流川町の洋装店がよみがえってきた。そうか、あの時は息子を亡く
したばかりで、お父さんと杏子の気持ちが今少し分かりかけてきた。

さぞかし相当落胆していただろう父の心、跡取り息子の死、それを何とか
元気づけようと杏子なりに努力した。あの時の大声で笑った親父さんの顔
は今でもはっきりと覚えている。

墓石に水をかけ3人は静かに祈った。

「こんにちわ」
3人の後ろで小さく男の人の声がした。3人同時に振り返り揃って、
「こんにちわ」

この12年間で3人の家族を亡くした初老の男は長めの白髪に
うつろな瞳、心持猫背で12年前のあの時とは別人のようだった。

「よく来てくれました。あなたが若林治君でしょう」
老人は治の前に歩み寄ると手に持った包みを差し出した。

「これを渡さないかんかったのです。娘の形見ではありますが
この日記帳と手紙だけはあなたに渡します。受け取ってください」
その包みはずしりと重かった。

「娘は小学校5年生の頃から日記をつけ始めました。ちょうど息子が
亡くなってからのことだと思います。日記はほとんど毎日、死の直前
まで書かれています。私も娘が死んでから何回となく読み返しました。
特にあなたに関する記述のところには赤い糸紐が目印になっています。

12年間のの日記ですが後半かなりあなたのことが増えてきています。
急性骨髄性白血病が発症してからの3か月間は狂おしいまでにあなた
のことがつづられています。私もあとわずかの命ですからこの日記を
持ってても仕様がありません。どうか必ず一読なさって、用が亡くなれば
焼却してください。よろしくお願いします」

と言って深々と頭を下げる。治は厳粛な気持ちになって神妙に答えた。
「はいかしこまりました。必ず最後までじっくりと読ませていただきます」
それを聞いて老人は初めて笑みを浮かべた。

3人の墓にもう一度線香を立てて4人で祈った。冥福を祈る。冥福って
何だ?柴山杏子の追憶が次から次へと巡る。健康そのものだったのに。

今にも消え入りそうな真冬の日差しの中で杏子の墓石が治に何かを語り
かけてくるように思えた。墓石に杏子の顔が浮かんで笑みを残してふっ
と消えた。『来てくれたのね、ありがとう』耳元でそう聞こえた気がした。

ベナレスからの手紙ー1

皆と別れて家に着いてから重い包みを開けてみた。キャンパスノート
が20冊手紙が6通。その一つは海外からの航空便で70年の12月
にインドから杏子宛てに出したものだ。思わず手にして広げてみた。

古くて水にぬれて乾かしたようにごわごわになっている。インドで買
った質の悪いボールペンの字が読みにくいが何とか読める。

「杏子さんお元気ですか?僕は今インドのベナレス(こちらではヴァラナシ
と言いますが)と言うガンジス河の中流にあるヒンズー教の聖地にいます。
ヒンズーの人々は毎日朝早くからガートと呼ばれる河に入り込む階段の所で
深くとうとうと流れるガンガ(母なるガンジス河)に沐浴をし祈りを捧げて
います。12月でも30度を超え蒸し暑い毎日です。

昨日この河を上る観光ボートに乗って見ました。深い深緑色を帯びた流れは
非常にゆっくりでどこまでも奥深く見えました。ボートから見える岸辺は
ガートの階段がどこまでも岸沿いに続いていて、典型的なインド風の建物
が峻厳なベナレスの街並みを形作っています。ところどころガートが途切れた
ところがあり、そこは白い砂地でそのまま水辺になっています。

何か所も木組みの上に死者を白い布に包んで荼毘に付していて、中にはとても
小さいものもあります。淡い煙が曇天の空に何本も上がっていました。一度近
くで見ていたことがありますが必ず一度聖なるガンガにじっくりと浸してから
火を付けるので白い灰になるまで相当時間がかかります。その間荼毘の周りで
家族は祈り続けるのです。

白い砂地に見えたのは2000年以上に及ぶ死者の灰の集積だったようです。
家族は灰を沖に出てガンガに流します。ボートから流れに手を入れてすくっ
てみました。白い粉が確かに手のひらに残ります。きっとこの深いとうとう
と流れるガンガの底は、無数の骨と白い灰とで幾層も重なっていることでし
ょう。

ベナレスの町は全国から死者が担ぎ込まれてきます。白い布に包まれて、
色とりどりの花に飾られて家族総出で担いできます。実はベナレスには
死を待つ人々の館があちこちにあります。死を悟った老人や不治の病の人
たちが家族の者何人かと数年一緒に暮らすのです。

ある晩裏通りに迷い込んだことがあります。バザールでシタールとシルク
のお店を見た後迷い込んだのです。何かの祭りの夜でした。

ベナレスからの手紙ー2

京都の地蔵盆とよく似た子供たちの祭りです。テントの中にヒンズー
の神を祭ってその前にござを敷いて子供たちで遊ぶのです。じっと見
とれていたら僕の脇にとても美しい少女が立っていました。黒髪で
とても瞳が大きくびっくりしました。杏子さんにそっくりでした。

皆と遊ばないの?と目で示したら、アチャとか言って可愛く首をかし
げるのです。お母さんらしき人が出てきました。インドサリーの良く
似合う若いお母さんです。中に入れと手招きしています。少女は
僕の手を急につかんで引っ張りました。お母さんもにっこり笑って
アチャと首をかしげています。

ナマステと言って中には入るとベッドにおじいさんが横たわってい
ました。枕もとでおばあさんが編み物をしています。ナマステと
あいさつしたらにっこり笑ってナマステと言ってくれました。

あまり調度品もなく閑散とした部屋に大きなテーブルが一つあって
少女が椅子に座れと合図します。座ると同じように横にちょこんと
腰かけて何かが出てくるのを嬉しそうに待っています。やはり、
チャイ(ミルクティー)とお菓子が出てきました。

お茶の時間だったのです。お母さんの話ではもうこの1年ベナレス
にいるそうです。お父さんは遠くの町で働いていて月に1度は
ベナレスに来るそうです。お金はかからないからこの先何年でも
おじいさんが亡くなるまでここにいるそうです。ごく当然のように
本人も家族もそれが一番幸せなのだと言ってました。

ガンガには不思議に人の心を癒す魅力があります。ヒマラヤから
大自然の懐に抱かれて母なるガンガでは安らかに死を迎えること
ができる、ベナレスはそんな聖地でした。ヨーロッパから中近東
インドと一気に南下してもうお金が無くなりました。北欧で1年
働いてあと北米周りで帰ります。その頃には学園紛争も落ち着い
ていることでしょう。

可愛らしい杏子先生が目に浮かびます。頑張ってください。

1970年12月7日          インド ベナレスにて

柴山杏子様                 若林 治     」

あの後大変だった。長距離バスと国際列車を乗り継いでやっとの思いで
ミュンヘンに着いた。再びアルバイト三昧。北欧で買ったばかりの車が
すぐつぶれてみたり。不法就労でつかまりかけたり。チュニジア娘に
追いかけられたりしてあっという間に2年が過ぎて結局北米には行けずに
格安チケットでかろうじて帰国できた。この間はめまぐるしくて杏子
どころか日本のことも全く心になかった。

杏子への手紙1

柴山杏子宛ての手紙が後2通あった。その一つは69年12月のものだ。
これは覚えている。日本を出ると決めた前の年の暮れに出したものだ。

「杏子さんお元気ですか?来年はもう小学校の先生ですね頑張ってください。
僕は年明けて3月に休学届けを出し欧米、中近東、インドを旅してきます。
自分にかけている何か、心と精神のバックボーンになる何かを見つけに一度
しかない人生、思い切って行ってきます。

ひょっとしたら帰ってこないかもしれません。どっかの村に住み着いて仙人
のようになってるかも、想像してみるとおかしいですね。中近東ではいまだに
戦争中の国が多くとても危険です。地雷を踏んだらさようなら!飛行機もよく
落ちるそうでテロの危険もあります。それでも一度しかない人生、絶対にいろんな国々を見てみたい。親元にも話をして水杯みずさかずきで出発することになりました(これはオーバーです)。

今年は年の初めから寮問題がこじれて寮費不払い闘争に入りました。僕たちの
寮は社青同解放派と言う青ヘルが牛耳っています。風呂も食堂も閉鎖されて殺伐
としています。今ではめったに帰りません。ではどうしているかと言うと、

祇園宮川町に喜楽荘と言う昔の花街の女郎屋が昔のまま残っていて、そこの
二階の一部屋に住んでいます。部屋には何もなく廊下の向こうに押入れが
あって布団は外から敷くわけですが僕は寝袋で寝ていました。枕もとに小さな開
き戸があって一階の帳場につながっています。

当時は朝早くからレストラン。夕方から木屋町のクラブ。真夜中に夜警。その間
従業員の送迎ととてもハードで見かねたクラブのママさんが紹介してくれたのが
喜楽荘だったのです。

杏子への手紙2

あるとき新聞で大学が色とりどりのヘルメットでびっしりと
取り囲まれている写真を見て、一度現場を見に行きました。
教養部はバリケードストライキとやらで正門は厳重に机や椅子
で封鎖され大きな赤い旗を持った白ヘルが見張りで立っていました。

何とか入れないものかと知恵を絞り吉田寮の裏から教養部のグランド
に忍び込みました。夕暮れのうす暗がりに紛れてD号館の方に行くと
全く人の気配がありません。教室の中をそっと覗いてみました。なんと、
木製の机は全部防石用の盾につくりかえられ整然と並べてありました。

正門バリケードからA号館にかけてはかがり火が見え人の声が聞こえ
ます。急に怖くなって大急ぎで戻りました。これから中近東を旅するのに
こんなことではいけないなと深く反省しました。とにかく行ってきます!

必ず旅先から便りします。おげんきで!

1969年12月7日                  若林 治

柴山杏子様                             」

あのころはもうはっきり言って心は海外に飛んでいた。1日も早く旅立ち
たくて、あとはもうどうでもよかった気がする。自分の奥底での自信のなさを
何とか海外経験を経ることによって人生への確信をつかみたかったのだと思う。

横浜から船でナホトカまで行ってシベリア鉄道でハバロフスク。イリュージン
のジェット機でモスクワまで飛んであとストックホルムからヨーロッパの旅が
始まった。ずっと南下してイスタンブール、インドへとあっという間の3か月
でベナレスから杏子に手紙を出したのだ。

ベナレスにはほぼ1か月いた。ボーとして色々とものを考えるには最も適した
聖地だった。お金も残り少なくなり身も心もすっきりとしてドイツへもどった。

杏子への手紙3

もう1通、柴山杏子宛てに出した手紙があった。
農学部に入学した年の暮れに出したものだ。短いものだった。

「杏子さんお元気ですか?去年の年の暮れには下宿先まで押しかけて
一方的に喋り捲ってほんとにすみませんでした。相当受験直前の
ストレスとプレシャーで気が狂っていたんだと思います。

男には変なプライドがあってそれが達成されないと、極度の
ストレスでノイローゼになります。暴力をふるったり、自殺未遂を
したり、ほんとに発狂したり。その一歩手前だった気がします。
言い訳がましいですがほんとにすみませんでした。

入学後親許との約束通りこれからは自活していくことになりました。
とにかくはアルバイト三昧に入ってお金をためて海外放浪の旅に
出ようと思っています。何かを見つけに3年間旅に出ます。幸い
休学は3年まで、その間授業料はいりません。

何かを見つけてたくましくなってから復学しようと思っています。
これから教育実習で幟町小学校ですね、頑張ってください。
また落ち着いたら便りします。

1968年12月7日             若林 治

柴山杏子様                          」


入学と同時に松田が演劇やろうと誘いに来て「風波」と言う演劇集団
に入った。他の大学からも参加してて総勢20数名、大道具の係りに
なって大忙し、バイトと演劇でほとんど授業には出れなかった。

柴山杏子宛ての3通は間違いなく治が出したものだったが後の3通は
別の大型封筒に入っていて、出してみるとすべて宛名は若林治様に
なっていて3通とも切手が貼ってあるのに消印がなかった。

差出人は柴山杏子が2通で後の1通は父親らしき柴山清三郎と
連名になっていた。日付を見ると連名が1970年12月30日。
後の2通が1969年12月30日と1968年12月16日だった。

杏子からの手紙1

68年12月は今読んだ治の手紙のすぐ後だ、
まずはこれから読むことにした。

「若林君、遅くなりましたが念願の合格おめでとうございます。
去年の暮、桃山御陵の坂道を歩きながら若林君は一所懸命に
話してましたよ。よく覚えています。1期校に合格しないと
私と会話する資格がないとか、必ず日本を飛び出して世界を見
て回るんだとか、一度しかない人生だとか、自分の使命は何なのか
とか、とても難しそうなお話を何度も繰り返しておられました。

私はどう答えていいかわからず、相づちを打つのが精いっぱいで
した。小学校の時からの明るい人気者の若林君のイメージとは
ずいぶん違って見えました。それでも再度受験なさると聞いて
男の人はいいなって思いました。

部屋に上がっていただいて急に黙ってしまわれたので困りました。
何か気に障るようなことを言ったとしたら許してください。あの時
卒業したらどうするのと聞かれて、来年教職をとってできれば幟町
小学校の先生になりたいと答えた時、若林君は『それはいいね。そ
れは絶対いいよ』と言ってくれました。

そのあと『君のテニスは天使のようだ、涙が出るほど美しい』と言
われたの憶えてますか?やはりあの時の若林君の精神状態は異常で
したよ。私も何とか激励しようと思い続けていたんだけど、つい
吹き出してしまいましたごめんなさい。そのことかな?

私の家系は皆肝臓が悪いのと言う話をした時には何度もうなづいて、
心配をかけたんじゃないかとごめんなさい。だけどどうしてもわか
らないことがあります。人と人との触れ合いの中で資格と言うこと
です。若林君が資格がないと言われたときから私自身の資格とは何
だろうと考えるようになりました。

目に余る人間としての資格の無い人たちもいます。ああわからない。
とても忙しそうですね。私もこの数か月来春まではとても忙しく落
ち着きません。母の体調が悪く入退院を繰り返しているので1日で
も多く広島にいようと思います。私も落ち着いたらまたお便りします。    
                            早々
1968年12月16日             

若林治様                     柴山杏子 」

杏子の日記1

やはりあの後すぐに返事を書いていてくれたのだ。なぜ出さ
なかったのだろう?そうだ日記を見ればわかるはずだ。それに
してもあの時の治は完全に自失していた。会う資格がないなんて
なぜ言ったんだろう?相当追いつめられていたんだろうな。

謝るのはこっちの方だ。テニスしているところをそっと見つめて
いたこともばれてしまった。何とも恥ずかしいことだ。それに、
あれだけ会いたがっていた杏子と、合格と同時にすぐ会いに行く
でもなくバイトと劇団に忙殺されて、今更幼馴染でもあるまいと
どこかで杏子を避けていたのかもしれない。

キャンパスノート20冊はずしりと重い。1冊目はもうボロボロ
で懐かしい灰色に黒帯の大学ノートだ。たどたどしい字で昭和
31年12月30日~昭和32年12月31日と表紙に書いてある。
茶色がかって4隅はほころび破れている。

表紙をめくって1ページ目、昭和31年12月30日(火)くもり、
とても寒い一日と書いてあって大きな字で次のような内容だった。

「きょうの夕方にげんばく病院でにいちゃんが死にました。夏休み
にお父さんとお母さんとお兄ちゃんとみんなで宮島に行きました。
みせんにのぼったり、もみじだにで楽しく遊んだりしてたのに、

またすぐ入院してきょう死にました。おとといものすごくきれいな
目をして、せなかがあついんよの、といってきょう死にました」

2冊目のノートの中ほどに赤い糸が挟んであった。治に関係がある
箇所だと親父さんが挟んでくれた糸だ。確かに後半増えている。
「若林君はとてもおもしろい人気者。兄ちゃんそっくりでだいすき」

いくつかの赤い糸を次々とめくってみたが、みな無邪気で他愛のない
ものだった。それにしてもよく細かく見られていたものだと感心する。

杏子の日記2

親父さんとの出会いも詳しく書いてあった。3冊目の冒頭は
6年生の春、あの付文事件のことで数ページにわたっていた。
思わず口を滑らせて顔中真っ赤になったこと。だけどとても
うれしかったこと、最初に言わなければ誰かに先に言われて
しまったらどうしようと思ったことなど。

付文はやはり宮本のでしゃばりだった。そのあとのホーム
ルームの時のことも、映画の撮影の時のことも、ずっと治の
事を気にしていたのだ。それにしてもなんと鈍感なことか、
男の子は皆そんなものだと思うのだが。

中学に入るとテニスのことばかりで赤い糸はなくなった。
数冊目の赤い糸は中三の夏、やはり包みが浦の海水浴の時だ。
今はテニスが一番好き、若林君はどんどん遠くへ行ってしまう
みたいと書いてあった。

次の赤い糸は何といっても教科書を借りた時だ。彼女も相当
びっくりしたみたいだ。突然の電話で顔がほてって何と答えたか
憶えていないほどだと書いてある。大急ぎで教科書を探したこと、
書き込みを消してきれいにしたこと、一期校は広大にして二期校
を京都学大に決めたことが躍るような字で書いてあった。

あの日の夕方母親と検診に行く日だったということを忘れていて
大慌てだったこと、私も京都へ行きたいかもとも書いてあった。
次の赤い糸は京都行きが決まった日だった。卒業したら幟町小学校の
先生になること、京都では家庭教師をして夏休みにもバイトをして
少しでも両親を助けなければとも。若林君に会えるかもとか。

すぐ次の赤い糸が京都での同窓会の日だ。すごく楽しみにしてたのに
若林君は元気がなかった、住所を知らせたのに手紙も電話も来ないとも。

杏子の日記3

しばらく赤い糸は途切れて、彼女に好意を寄せる先輩が現れた。
ハンサムなプレイボーイだが、あるときデートに誘われてそれを
断ったら、それが相当相手を傷つけたらしくて、数日後部室で、

「君は広島だって、原爆は大丈夫なの?」と聞かれて、
「ひょっとして、そうかも?」と冗談のつもりで答えたら、それっ
きり近づかなくなった。この時若林君に会いたいと書いてあった。

翌春になって、連絡ないしどうしたのかなと思いつつ、新聞に名前
も出てないし、今年も若林君かわいそうと思いながら、次の赤い糸
は図書館での再会の時だった。まさか何なの?うれしいのか悲しい
のか?この時彼女はほんとに驚いたのだ。

治は何回となく杏子をキャンパスで見かけたが間違いなくあのころ
は避けていた。今の自分には会う資格がないと心底そう思っていた
のだ。その後テニスコートの日から桃山御陵の夕べへと続く。桃山
御陵の晩、杏子は日記の後半に怒りを込めてこうつづっていた。

「資格って何でしょう?人と人との触れ合いの中で資格って何なの
ですか。人を好きになったり愛したり、あるいは愛されたりするのに
資格がいるのですか?私に会う資格がないとおっしゃるのは若林さん
自身のプライドとの戦いなのでしょうね。

時にはすごく馬鹿げた些細なことでも、その人にしてみれば大きな
大きな心のとげなのでしょうね。時が来れば、あるいは状況が好転
すればとげは跡形もなくなって嘘のように消えるかもしれません。

最近、私は心の中の小さなとげに気づかされました。それは今まで
考えたくもなかった原爆の後遺症です。ここのところ父も母も元気。
だけど定期健診で間違いなく白血球値が低下してきている。兄は
生まれた時から白血球が少なく病気がちで早くに死んだ。

食事と運動で生命力と体力をつければ大丈夫と医者は言うが。小さな
とげならそのうち自然に消えていく。悪いとげなら、もしかして毒を
持った悪いとげなら必ず私を食いつぶしてしまう。

この悪いとげをもった人間には人を愛する資格も、人に愛される資格
も全く無いのでしょうか?いつか若林さんに聞いてみよう」

杏子の日記4

次の赤い糸は翌3月だった。杏子は広島にいて新聞で合格者の中に
若林の名前を見つけた。うれしかった。必ず連絡があるはずだ。
ところが何かと忙しいらしく何の連絡もない。もう忘れたのかしら。

その年の暮れにやっとの手紙が来た。その返事を書いていながら杏子
はその手紙を投函していない。なぜだ?次の赤い糸は12月だった。

「今日郵便受けを開けてみると私宛の手紙が入っていた。若林さん
からの手紙だ。ほんとに久しぶり。すぐに開封し読んでみると、
去年の暮れの桃山御陵のことが書いてあった。よく覚えているあの時
のことは。若林さんも覚えていてくれたんだ。さあ返事を書こう。
私のとげのこともしっかりと書かなくちゃ」

「なかなか思うように書けない。とげのことを書こうとすると何と
無く怖くなって体が震えてくる。この1年私も母も小康状態が続い
ている。医者が大丈夫と言ってくれているから大丈夫なのだと
何度も自分に言い聞かせる」

「とげのことを書くのは止めることにした」

「やっと書き上げた。あれもこれもと思ったけれどこのくらいに
しておこう。1週間もかかってしまった。明日の朝もう一度読み
直してから投函しよう」

「朝広島の父から電話。お母さんが倒れたから至急帰ってきて
くれとのこと。入院先は広島原爆病院。大急ぎで広島に帰る。
若林さんへの手紙を机の上に置きっぱなしにしてきてしまった」

なるほど、そのあとドタバタとして出せなかったのか。お母さん
の入院は3か月に及び、その間母の看病と父の世話とで期末試験に
数日京都に戻ったきりで手紙どころではなかったのだ。

治の方は学園紛争が始まり朝昼晩とアルバイトに没頭する。杏子は
母の退院の後看病疲れで倒れ1か月入院する。このころから赤い糸
が増えてきた。

「今日やっと母が退院。久しぶりに家族3人我が家で眠る。明け方
背骨に激震が走る。体中がほてって熱い。夕方には耐えきれずに
倒れてしまった。倒れるときに若林さん助けてと叫んだそうだ。
はずかしい。」

杏子の日記5

「貧血だけですからすぐ退院できますよと言われた。だけどもう私
にはわかっている。身体が今までとは違う反応をしているのが
微妙に十分本能的に感知している。若林さん助けて!ほんとのとげが
とうとう抜き差しならないところに来てしまった。

若林さんに、告白できなかった小さなとげのこと。もう助からない。
わたしには人を愛する資格も愛される資格も無いのかしら。
教えてください若林さん。今すぐ飛んできてほしい」

案の定、検査で入院は長引いた。

「悲観的になってはいけないと温和な中年の担当医師は、私の眼を
じっと見つめて力強く言ってくれた。この晩、夢を見ました。若い
医師が私の手を取ってこう言うのです。悲観的になってはいけない、
君は必ず助かる、もうすぐ元気になって退院できるから頑張るんだ!
その医師はなんと若林さんでした」

それでも1か月足らずで杏子は退院した。梅雨時に1度、秋口に1度
背骨に激震が走ったが何とか耐えて薬を飲み落ち着くと、必ずその夜
に医師の若林が夢の中に現れて励ましてくれたそうだ。

その頃治はというと、大学はバリケード封鎖でアルバイト三昧の寝袋
生活で連絡の取りようもなかった。杏子は卒論を書き終え、幟町小学校
への赴任も決まった年の暮れ、若林からの2通目の手紙を受け取った。
日記には、

「12月になるとひょっとしたらと思っていたところへ若林さんからの
手紙が届いていました。やはり海外へ行くという内容。ゲバ棒ふるって
なくてよかった。必ず手紙が来ると信じていたのが当たったことが1番
うれしい。さあ返事を書かなくちゃ」

ところがその返事も受け取っていない。2通目の封筒を開けてみた。
日付は12月30日、1度消してある。返事は書かれていたのだ。

杏子からの手紙2

「若林さんほんとにお久しぶりです。元気いっぱいで旅立つ姿が目
に浮かびます。ゲバ棒ふるって捕まってるんじゃないかと心配して
たんですよ。私は希望通り来春幟町小学校へ赴任することが決まり
ました。母の具合も時々悪くなるので両親と暮らします。

前のお手紙の時、返事は書いたんですが母が急に倒れてすぐ実家に
帰ってしまって出せずじまいでごめんなさい。寮の方は紛争でごた
ごたしてるみたいですし、そのうち旅立ってしまわれるし、男の人
って皆このように掴まえ所がないのでしょうか?それとも若林さん
は特別なのでしょうか1度しかない人生と2度も書かれていました。

世界を駆け巡るのが若林さんの納得のいく人生ならば、地道に両親
と暮らすのも私の大切な人生だと思います。どうかどの地に行かれ
ても広島に杏子先生がいることを忘れないでください。地雷なんか
踏まないで元気で帰ってきてくださいね。       早々

1969年12月15日             
若林治様               柴山杏子       」

「追伸
とても言いにくいことですが思い切って言います。実は今年の春、
母の3か月に及ぶ入院の看病疲れでしょうか、母の退院と入れ替
わるように私が1か月入院しました。どうも私も原爆症のようです。
12月16日                        」

「追伸
もし私が原爆症だとしたら、私には人を愛する資格があるでしょうか?
桃山御陵の夜に若林さんは、今の僕には君と会う資格がないと言われ
ました。憶えておられますか?だけどもう資格はおありのようです。
状況とともに消え去っていくとげのような気がします。

私の小さなとげは今はっきりと私の心と体の上にその姿を顕そうとして
います。毒を持ったこのとげは日ごとに急成長して私を破壊しつくす
ことでしょう。このような私でも人に愛される資格がありますか?
人を愛する資格がありますか?教えてください。
12月17日                          」

「追伸
昨夜発作が起きました。突然背骨に衝撃が走ります。体中が痛くて
熱くてもがき苦しみます。薬を飲めばすぐ治まるのですが頭がもう
ろうとして身体が深い海の底に沈んでいくようです。

その時いつも白衣を着た青年医師の若林さんが夢の中で励まして
くださるんです。『杏子!頑張れ!杏子!頑張れ!』と言って。
こんな私に人を愛する資格はあるでしょうか?教えてください。
若林様。
12月30日                          」

杏子の日記6

この日の日記にはもう手紙は出さないことに決めたと書いてあった。
若林さんは返事を期待していない。今は住所不定。3年間も旅に出
るなんてもってのほかだわ。さっさと忘れて私も頑張ろう、と
決意が語られていた。

その後の日記は最後の真新しいノートになっていた。杏子は心機一転
新生活の戦いを開始したのだ。そして夏の終わりに若林治は日本を
旅立った。猛烈な残暑が続き新学期が始まる。9月の半ばに杏子先生
は教室で倒れそのまま入院、原爆病院へ転送された。

それからのことは後日詳しく日記に書かれているはずだ。何も知ら
ない治は12月7日にベナレスから手紙を出した。あの手紙は間に
合ったのだろうか?治はふと不吉な思いがした。

この年の日本の夏は猛暑だった。秋口とはいえその日も30度を超す
残暑の中で杏子先生は倒れた。やはり若林の名を叫んだそうだ。

「3日前に私はまた倒れた。この9か月間発作は起きなかったのに。
この病気にはどうしても勝てないのか。この夏の暑さのせいか、身体
の中で毒のとげと生きる命とが闘っている。またとげにやられたのだ。

発作は突然に来る。背骨にいきなり衝撃が走る。とても立ってはいら
れない。ほんとに痛くて熱くて苦しい。意識と神経ははっきりして
いるからまさに地獄の苦しみだ。また若林さんて叫んだらしい。
恥ずかしいったらありゃしない。

衝撃が強すぎると耐えられずに気絶して倒れてしまう。それでも
意識が戻るときには必ず若林さんが医者になって私の手を握りしめ
励ましていてくれている。頑張れ杏子!生きるんだ杏子!って。
ほんとにうれしくて元気が出る」

「今日原爆病院へ転院になった。また今回も長引きそうだ。あの苦
しい検査が続くのかと思うと気が重くなる。早く学校に戻らないと。
子どもたちはどうしているのかな。まだ面会は無理かな」

「検査が前の時より厳しい。医師の対応も微妙に違う。もうだめかも」

「1日に1度背骨に小さな衝撃が走る。節々が痛く体がだるくて眠い。
痛くて夜中に目が覚めた。子供たちから千羽鶴、とてもうれしい」

杏子の日記7

「父の表情がさえない。何か私に隠している。母はだませても
私はだませない。父は何かを知っている」

「今までの発作が薄められて、その分毎日起きるようになったみたい。
今日も若林さんの夢を見た」

「痛い痛いとても背骨が痛い。助けて若林さん!何も悪いことして
いないのに。何も悪いことしていないのに。ほんとに痛い」

このころからモルヒネの回数が増え杏子の思考は正常でなくなってきた。
文字も殴り書き。痛さをこらえて書き続けたのだ。

「私は絶対若林さんのことが好き。退院したら結婚してほしい。早く
帰ってきて、プロポーズしてあげるから」

「痛い痛い体中が痛い。神様なんているのかしら、神様?だけど私には
若林さんがいる。花嫁衣装はウエディング、高島田どちらも似合うわよ
美人だし。絶対いい奥さんになるから早く帰ってきて!痛い痛いとても
痛い。若林さん、助けて!」

「今朝は夢の中で若林先生に起こされたわ。とても楽。痛みが少ないの。注射
のせいかな。いやいや若林先生のせいだわ。毎日夢に出てきてくださいね」

「今日は家族でピクニックに行ってる夢を見ました。小学生の子供が二人で
4人家族ですよ。もちろん二人は幟町小学校の5年生。昔の儘の二人なんですよ」

「痛い痛い、夜中も眠れません。体中が痛くてどうしようもありません。今若林
さんはどのあたりを旅しているんですか?まさか地雷を踏んだりしていないで
しょうね。お便りください、手紙で必ずと約束されました、もうすぐ12月です」

「痛い痛いほんとに痛い。体中の骨が酸に侵されているみたいです。何とかして
若林先生!もうとても苦しい。手を動かすのも痛いのです。お薬もあまり効かなく
なりました。気が狂いそうです」

「父も母も目にいっぱい涙をためて見守ってくれています。私はいつも必死で
笑顔を作っています。もうこの痛みには耐えられません。父母が帰ると私は
思いっきり叫びます。若林さん、たすけてーっ!」

「とげの毒が体中をまわっています。生きる命がもう負けそうです。若林さん
の力を信じています。時々ふと我に返って痛みが全く無い時があります。必死で
手紙を書きましょう。私が愛した人は若林治君!大好き。私の専属医師なんですよ。

ベッドにひざまずき両手で私の手をしっかり握ってこう言ってくださるの。
『頑張れ杏子!お前は私の妻だ、一生離さない!』かっこいい若林君!
賛成の方手を挙げてください!学級委員の若林君大好きです!わたしを
お嫁さんにしてください。おねがいします」

最後の日記

「助けて若林さん!もう体中が痛くて眠れません。寝返りさえも打てません。
手足をちょっと動かすのも大変です。悲壮な目つきで書いています。12月に
入りました。きっと手紙が来ます。絶対来ます。私は直感でわかるのです。
エイッと指を鳴らすとポストに手紙が入って輝いているんですよ」

「手紙はまだでしょうか?間違って京都に送ったのでは?それはありえませぬ」

「もうだめ!私死ぬ!手紙未だ?必ず来る!絶対来る!父にかみつきました」

「もうだめ!何が何だかわからない!手紙来てるはずよ!お父さん見てきて!」

「今日は父の大きな声で目が覚めた。いつが夜で昼なのかわからない。若林さん
からの手紙が来てたぞーっ!だって。大きな声で恥ずかしい。インドからの航空
便やっと来ましたね。それだけで涙がいっぱいたまってなかなか読めませんでした。

父が何度も繰り返して読んでくれました。ガンジス河が目の前に広がり私の枕元で
若林さんが手紙を読んでくれています。杏子さんお元気ですか。僕は今インドの
ベナレスにいます。ガンガには不思議に人の心を癒す魅力があります。(もう覚えて
しまいました)ヒマラヤから大自然の懐に抱かれて母なるガンガではやすらかに

死を迎えることができる。死んだら私の体も灰になってガンジス河の底深く沈んで
いくようです。白い布に包まれた私の亡骸は少し重たそうですきれいな花いっぱい
に飾られて前を父が後ろを若林さんが担いでいます。

太くて重い私の亡骸にはなかなか火がつかずに父は困っています。やっと火が付き
母と3人で私が真っ白な灰になるまで祈り続けていてくれました。ありがとう若林
さん。告白します。私の人生で心の底から愛した人は若林治さんあなた一人でした」

日記はここで終わっていた。治は心の奥底からふつふつと自責の念がこみあげてきて
涙が次から次へとあふれ出てきた。

『ごめんよ杏子!資格なんているものか!ほんとに気が付かなくてすまなかった』

最後の封筒(最終回)

涙も拭かずに治は最後の封筒を手にした。
杏子の父親の字で次のように書かれていた。

「若林治さん、杏子はもう字が書けなくなりました。血液のガンと骨のガン
とが体全体に転移して入院の時医者は1ヶ月と宣告しましたが本人にはよう
告げませんでした。杏子は若林さんからの手紙を信じて3か月間生き通して
くれました。

手紙を受け取った後幸い脳と神経が先に侵されて痛みは和らぎました。
柔和な笑みがよみがえり1日の大半は意識不明で眠っているみたいでした。
意識が戻ると何度も繰り返しあなたの手紙を読んであげました。

時々ふと目を覚まして若林さんの名を呼びました。手にはしっかりとあなた
の手紙を握りしめて七日後に娘は笑みを浮かべて亡くなりました。本当に
ありがとうございました。

私も家内も直接被爆はしておりませんが直後に広島入りして二人で親戚を
探し回り、そのまま流川に住み着きました。二次被曝と言うことで健康には
十分気を付けていたのですが、残念です。

もしこの手紙と日記を見る機会がありましたら、そのあとで娘の墓を
そっと参ってやってください。よろしくお願いいたします。

1970年12月20日
                     杏子の父 柴山清三郎    
若林治様                               」

封筒の中にお寺の地図も入っていた。時のたつのも忘れ一睡もせずに夜が明けた。
早めにそっと家を出る。広電宮島から幟町へと向かった。

若林治は再びきのうの杏子の墓の前に立った。とめどなく涙があふれ出てくる。
線香に火をつけて仏花を差し厳粛に手を合わせた。

「今なら言える。心の底から言える。お前が好きだった」

治は長い祈りの後、ゆっくりと立ち上がって墓石に水をかけていった。
手桶の水が亡くなるとまた水を汲みに行ってまたゆっくりと水をかける。
墓石にやさしく語りかけながら流れる涙をぬぐおうともせずに、治は
何度もそれを繰り返した。

寒い冬空の淡い光の中で一人の老人が木陰からずっとそれを眺めつづけていた。

                        ーーーーーーー完ーーーーー

ベナレスからの手紙

ベナレスからの手紙

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-16


  1. あらすじ
  2. 帰国
  3. 急死?
  4. 幼馴染
  5. 包が浦
  6. 高2の秋
  7. 千羽鶴
  8. 失意
  9. 再会
  10. しびれ
  11. バイト三昧
  12. 三回忌1
  13. 三回忌2
  14. 三回忌3
  15. ベナレスからの手紙ー1
  16. ベナレスからの手紙ー2
  17. 杏子への手紙1
  18. 杏子への手紙2
  19. 杏子への手紙3
  20. 杏子からの手紙1
  21. 杏子の日記1
  22. 杏子の日記2
  23. 杏子の日記3
  24. 杏子の日記4
  25. 杏子の日記5
  26. 杏子からの手紙2
  27. 杏子の日記6
  28. 杏子の日記7
  29. 最後の日記
  30. 最後の封筒(最終回)