竜は蝶を追う 夢だった

竜は蝶を追う 夢だった

裏切られたのだと美羽は思った。

竜は蝶を追う 夢だった

夢だった

 美羽は夢を見ていた。
 幸せな夢だった。
 乱暴で、強引で、傲慢で、優しい人を愛していた。
 愛された。
 梅が咲けば梅を見に。
 桜が咲けば桜を見に。
 月が綺麗だと濡れ縁に招いたり。
 豪奢な打掛を纏えと手に持たせる。
 金糸銀糸の入った打掛は重くて。
 嬉しくはあったけれど、あなたがいれば別に良いのにと思った。
 守ってやると言った言葉が、傷つき、疲弊していた心に慈雨のように優しく沁みた。
 紅の玻璃なんか要らない。
 そう言うと、つまらなそうな顔をした。
 子供みたいで可笑しくて、何だか可愛いと思ってしまった。
 燃え盛る炎に包まれた時も。
 あなたといられて良かったと思った。
 あなたが一人で逝ってしまわないで、良かったと思った。
(紅蓮の中で…)
 美羽は夢から覚めた。
 布団に竜軌の姿が無い。途端に不安になる。夢の幸福感も吹き飛んだ。
(どこ)
 メモ帳とペン、金の鉦を持って胡蝶の間を出た。
 竜軌の部屋に辿り着き、襖の前で鉦を鳴らそうとした時。
「―――――帰蝶を守れなかった。美羽だけは何をしてでも、」
 竜軌の声はそこで途切れた。
 素早く襖を開けたのは荒太だった。美羽を見た顔がしかめられる。
 聴かれてはならないことを聴かれた。表情がそう物語っている。
(きちょう)
 荒太を押し退けて浴衣姿の竜軌が出て来る。
「美羽」
 竜軌の顔を見上げる。
(私は〝きちょう〟の身代わりだった)
 今までの竜軌の声、眼差し、温もりも優しさも全て、自分に向けられたものではなかった。
(私のことを、好きじゃなかった)

 美羽が閃かせた手を、竜軌は避けなかった。
 バシッと激しい音が響く。同時に鉦が落ちてコトン、リン、と鳴った。
 竜軌の表情は揺らがず、双眸から涙を流す美羽を見つめていた。
 身を翻そうとする美羽を、荒太が肩を掴んで止める。
「あかん、美羽さん!今は外に出るんやないっ」
 美羽は荒太の頬も打った。
(真白さん。真白さんの優しさも、嘘だったの?)
 蘭が守ろうとしたのも。
 皆、〝美羽〟ではなくて〝きちょう〟を見ていたのだ。
「お前は俺を信じると言った」
 その声に竜軌を見る。
「別の名を呼んだ程度で、揺らぐ信頼だったのか」
 竜軌の顔には静かな怒りと憤りがあった。
 美羽は震える手で文字を書いた。
〝だましてたくせに〟
「騙してない」
〝ほかのひとをすきだった〟
 書きながら涙が紙にこぼれ落ちた。文字が滲む。
「他の女じゃない。―――――――お前以外の女に、誰がここまでするかっ!!」
 ダン、と廊下の壁に美羽の身体を押しつけると、竜軌は唇を荒く重ねて来た。
(いや。裏切った。嘘吐き)
 竜軌の唇を思い切り噛んでも彼は一向に怯まなかった。
 鉄の錆びたような液体が美羽の口にも入り込んでくる。
 互いに血の味を舌に感じながら、二人の攻防は続いた。
 やがて美羽が鎮まると、竜軌は顔を離した。
 強い光を目に宿して唇から真紅を滴らせる竜軌は、狩りを終えた獣のようだった。
 こんな時でも彼を綺麗だと感じてしまう自分が、美羽は口惜しくてならない。
 獣が心を寄せたのは、自分ではないのに。
 荒太が慎重に口を開く。
「…美羽さん。〝きちょう〟は、あんたの昔の名前や。憶えてへんやろけど。この七面倒臭い男が惚れたんは、今も昔もあんたしかおらん。新庄を懐かしいて、思うたことあるやろ?どっかで会うたような気がしたこと、ある筈や」
 美羽は何を信じれば良いのか解らなくなった。
 竜軌も荒太も、嘘を言っているようには見えない。
 そして荒太の指摘には確かに、思い当たることがある。

傷から流れる

「どうしたの――――――?」
 真白の柔らかい声が、そこに介入した。
 美羽と同じくパジャマ姿の彼女は、肩に薄手のカーディガンを羽織っている。
(真白さん)
 荒太が真白の前に立つ。美羽を警戒する眼差しだった。
「俺はともかく、真白さんを打つな。あんたを許せんようになる」
「何を。荒太君、何を言ってるの。……美羽さん?なぜ泣いてるの。口に、血が。怪我をしたの?」
 焦げ茶色の瞳は心底、美羽を心配していた。
 その優しさが今の美羽には耐えられなかった。
「真白。今晩は胡蝶の間で美羽と一緒に寝ろ」
 美羽と同じように口を赤く染めた竜軌を見て、眉をひそめた真白が言う。
「…それは新庄先輩の役目でしょう」
「信頼されていない」
 自嘲の笑いと共に紡がれた声音は傷ついた色を帯びていた。
 その場にいる三人が目を見張る。
 竜軌は口元を歪めて笑みを浮かべていた。唇から血を流しながら、心に受けた傷も同様の有り様ではないかと見る者に連想させた。
 強靭で気位の高い男が、傍目から見て明らかなほどに傷ついている。
 美羽は自分の犯した過ちに気付いた。
 偽りを口にした人間がこんな顔をする筈がない。ましてや竜軌が。
(―――――竜軌)
 罪悪感が美羽の胸の奥から込み上げた。
 しなやかで強く、美しい獣を自分が傷つけた。
 俺を信じられるかと、美羽に問うた唇から血が流れている。
(私が竜軌を撃ったんだわ。猟銃で)
 美羽は竜軌に歩み寄り、両頬を挟むと彼の傷を舐めた。
 泣きながら、竜軌の流す血を舐め取った。
 竜軌はうずくまる手負いの獣のようだった。

幸多かれと

 とても強いということと、傷つかないということは違う。
 泣きもすれば笑いもする人間をどうして誤解してしまうのか。
(ごめんね。竜軌。ごめんね)
 美羽は泣きながら竜軌の唇を舐め続けた。
 やがて傷を負った唇が動く。
「…美羽。もう良い」
 声はそよぐ風のように和らいでいた。
 美羽は竜軌の手を握り、引っ張った。
 優しい声が尋ねる。
「部屋に行って良いのか?」
 美羽が何度も頷くと、そうか、と言って笑った。

 布団で横に寝る竜軌の唇をずっと撫でているとその指を掴まれ、くすぐったそうな声で言われる。
「やめろ、抑えられなくなる」
 怒りをだろうかと思い目を見ると竜軌は笑う。
「莫迦、違う。そうじゃない。そんな顔をするな」
 もう怒っていない。傷ついていない。
 笑っている。
 良かった、と美羽は思った。竜軌が傷つくのはとても悲しくて怖くて、疑念から生じた自分の傷などちっぽけなものに感じた。
「…帰蝶の、昔のお前のことは、明日にでも話してやる」
 竜軌は律儀にそう約束する。
 それはもうどうでも良いことにも思えたが、美羽は頷いた。
 美羽は自分の心を持て余していた。
 どうすれば良いのだろう。竜軌のことがとても愛しい。
 どこか暖かいところで彼が幸せに笑っていてくれたら、美羽もそれを見るだけで幸せになれる気がする。自分の幸せの指針が、いつの間にか竜軌の手に移っている。竜軌のことなら何でもかんでも優しく包み込んでしまいたい。
 離れたら息も出来なくなりそうで、自分は少しおかしくなったのかもしれない。
 この竜になら襲われても良いとさえ思う。

聴こえない夜

 美羽の意識は再び、夢の流れにたゆたう。
 ふわり、ふわりと夢に舞う。
 ああ、あそこだ。あの人のところに行きたい。
 そう思い、羽をはためかす。
 低い声が帰蝶、と呼んだ。
 帰蝶、お前は美しい。
 竜軌によく似た人がそう言った。

 美羽が眠りに落ちるまで、竜軌はずっと彼女を眺めていた。
 美羽の傷ついた眼差しは、不信の眼差しは、涙は、堪えた。
 怒りと憤りと、悲しみが湧いた。美羽の拒絶に竜軌の胸は抉られた。
 しかしそれを悟った蝶は自ら竜軌に近付き、泣きながら目で詫びた。
 声が聴こえなくても彼女の謝罪の念は深く伝わった。
 唇を必死で舐め続ける美羽が愛しかった。
 余りに愛しくて、傷の痛みも甘く溶けた。
 悟られぬように欲情を堪えた。
(抱きたい)
 同じ布団に寝ながらそれが出来ないというのは、中々に地獄だ。
(美羽)
 黒髪を掻き上げて深くくちづけて身体の全部に触れて。
 喘ぐ蝶の声を聴けたら。
 だが美羽は竜軌を信用し切って寝ている。
 肌に触れれば、忌まわしい義龍の過去を思い出させるかもしれない。
「美羽。お前を愛している」
 触れる代わりに、眠る女に愛を告げた。

竜は蝶を追う 夢だった

竜は蝶を追う 夢だった

部屋から洩れ聴こえた竜軌の台詞に、美羽は衝撃を受ける。

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-07-13

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