竜は蝶を追う 対岸
変調をきたした美羽の前に、最も出逢ってはならない男が現れる――――――――。
竜は蝶を追う 対岸
対岸
信長は火縄銃を操るのが巧みだった。
銃を扱い慣れてから、的を撃ち損じた信長の姿は荒太の記憶に無い。
茶色くて細長く、しなやかに美しいが重い火器が音高く鳴ると、的は木端微塵になった。
彼の本性には狩人に近しいものがある。
狙いを定められたら逃れるのは極めて困難。
荒太はそう考えていた。
「やばいかもなあ」
戦国の世ならいざ知らず、現代では殺人は立派な罪だ。
「何が?荒太君」
「うん。何でもないよ、真白さん」
美羽は久しぶりに靴屋に向かっていた。
何だか最近、竜軌や真白たちの間に流れる空気が硬い気がする。
蘭に同意を求めるが、さあそうでしょうかと返された。
(私一人、仲間外れにされてるみたい)
気分転換をしたくなったのだ。
いつも渡る踏切の向こうには男が一人立っている。
四十代くらいだろうか、にこやかに美羽を見ている。
半袖シャツにグレーのスラックス、手には革の鞄。
鞄を持つ手は大きく、すらりと白い。
陽は天にありて
電車が男の姿を隠した。
蘭がすいと前に動くと、硬い声を電車の走行音に負けぬよう発する。
「美羽様。私の後ろを動かれぬようお願い致します」
背後の美羽が頷くのを、気配で把握したようだった。
電車が通り過ぎ、黄揚羽蝶のような黒と黄の遮断桿が上がる。
踏切を渡り歩み寄って来た男は美羽に声をかけたがっている面持ちだったが、それより早く蘭が美羽を背後に遣っていたので、結果として蘭に挨拶することになった。
「お早うございます」
「失礼だがあなたは?」
素早く蘭は言葉を返した。閃く刃物のような彼の声を、美羽は初めて聴いた。
「先の新庄孝彰氏主催の園遊会に招かれていた者です。央南大学文学部史学科教授の、朝林秀比呂と申します」
好戦的とも言える蘭の問いに、秀比呂は丁寧且つ温和に答えた。
「そうですか。彼女に何か御用が?」
「失声症を患ってらっしゃると伺いまして。私の友人にも同じ症状に苦しみ、近年それを克服した人間がおりましたので。私の知る彼の話が、何かの助けになればと思ったのです」
滑らかな口上だった。予め用意したテキストを読み上げるような。
「随分、ご親切な方だ。それでわざわざ待ち伏せを?」
秀比呂は照れたように頭を掻く。
「すみません、度が過ぎたお人好しだとよく言われます」
「そのようですね。ご厚意は有り難いが、彼女は既に専門医に掛かり、順調に回復傾向にあります。医師によれば声が出るようになる日も遠くないとか。そういうことですので、あなたのお話も必要ありません」
蘭の口調は飽くまで刃のままだった。美貌はまるで氷の華だ。
無論、美羽は専門医になど掛かっていない。
秀比呂は気分を害した様子も見せず、そうですか、それは出過ぎた申し出をしました、と述べるとゆっくり歩み去った。
彼は話の間中、一貫して美羽の姿を垣間見る隙を窺っていたが、蘭の身体がそれを阻んだ。秀比呂の背中が見えなくなるまで、蘭は厳しい顔つきを緩めなかった。
カンカンという音と共に、遮断桿が再び降りて来る。
「…美羽様。大事ございませんか」
振り向いて尋ねると、美羽の顔は蒼白だった。
〝蘭。あの人は何者なの。知ってるんでしょう〟
蘭は明快に事実を答えた。
「竜軌様の敵です」
逢魔があと
美羽の顔色を見た蘭は、引き返すべきと判断した。
「美羽様。戻りましょう。本日は邸内で過ごされたがよろしいかと。竜軌様も心配なさいます」
美羽の心に渦巻くのは、強い不快感と恐怖だった。
実に無害そうな、多くの人が見れば好感を抱くであろう秀比呂の姿、声、そして遠目にも見えた白い手が、美羽に奇怪なモンスター以上のおぞましさを感じさせた。
蝉の声はこんなに大きかっただろうかと美羽は思う。
頭が割れそうだ。うるさい。気分が悪い。
吐き気が込み上げる。
「美羽様っ」
うずくまった美羽の背に手を添えようとした蘭に、静止を命じる声がかかる。
「触るな、蘭。俺が連れて帰る」
「上様」
「――――――美羽」
竜軌だ、と知覚し安堵の念が微かに湧くものの、顔を上げることが出来ない。
「おい、吐きたいなら吐け」
その声を契機に、美羽の口から吐瀉物が溢れ出た。
背中をさするのは竜軌の大きな手だ。
胃の中身を全て出し切ったころには、すえたような匂いが美羽と竜軌を取り巻いていた。
美羽は肩で息をしていた。
「…全部出したか」
竜軌の露骨な問いに何とか頷く。いつの間にか消えていた蘭が差し出した、ペットボトルの水を口に含むと口中を漱ぎ、路上に出した。それから何口か水を飲み込む。竜軌の黒い革靴にかかった吐瀉物を見て、自己嫌悪に目元を歪める。しかしそれに浸る間もなく、竜軌に抱え上げられた。汚れた地面が急に遠くなる。
「落ちたら怪我するから暴れるなよ。蘭、後始末」
「承知しております」
「悪いな」
逆鱗
ぐったりと胸にもたれる美羽を抱える竜軌の顔は平静だった。
衆目はかなり集めていたが、彼は全く意に介さなかった。
竜軌は秀比呂と蘭の遣り取りを陰から傍観していた。
園遊会で怜が耳にした彼の台詞を聴き、朝林秀比呂を斎藤義龍と確認してから、いずれ必ず美羽にも近付くに違いないと考えていた。
予測は当たった。
(執着を忘れるようであれば捨て置いても良かったが)
未だ彼は、蝶に妄執している。
瞼を閉ざした美羽の青い顔を見る。
本来なら大人しく抱き上げられることを良しとする性分ではない。
手を差し伸べれば舐めなるなと言わんばかりの意気込みで払いのけ、自分の足で歩こうとする女だ。
(それがどうだ。この見るも無残な有り様は)
誇り高い蝶の矜持を傷つけ、損なう者。
性懲りもなく、踏みにじろうとする者。
黒い目が天を向いた。
その言葉を
胡蝶の間に運び込まれた美羽を見て驚いた真白は、急いで押入れから布団を出して寝床を整えた。
横になっても美羽の息はまだ荒い。
「もう少し落ち着いたら、シャワーで汗を流したほうが良いかも」
真白の助言に、竜軌が頷く。
「先輩。美羽さんの傍にいてあげてくださいね。何かさっぱりするような飲み物、持って来ます」
竜軌は再び頷いた。
「ああ、頼む。真白」
(竜軌)
美羽の視線に、竜軌が応じる。
「何だ。どうしたい」
美羽のバッグに入っていたメモ帳とペンを取り出して美羽に渡す。
〝靴を汚してごめんなさい〟
靴屋の店主にオーダーメイドで作らせた革靴を、竜軌は特に気に入って履いていた。
「そんなことで謝るな」
〝何かに怒ってる?〟
「そうだ。だがお前は関係ない」
〝見え透いた嘘〟
「……………」
〝最近ずっと、何かに怒ってた〟
「…顔には出ていない筈だがな」
〝わかるわよ〟
美羽の唇が笑みの形になる。
額に竜軌が手を置くと、目を細める。
「お前を守ってやる。美羽。俺を信じられるか」
〝信じる。竜軌〟
扇風
主のいない部屋に置かれた、古風な木製金庫を荒太は見た。
それに似合いの古い、頑丈そうな錠前も。
だが彼はその金庫を素通りし、押入れに向かった。
戸を開け、押入れの布団の重なりを探ると、冷たい塊が手に当たる。
無表情にそれを引き抜く。
「いつからコソ泥に転向した?」
驚きもせず振り返ると竜軌が立っていた。
「…銃刀法違反よりは、マシやないですかね」
荒太の手にあるのはシグザウエルP230。
スイス製の自動拳銃だ。
「お前は金庫を探ると思ったのだがな」
「俺好み過ぎる。阿波のからくり錠やなんて、いかにもや」
「気前よく演出し過ぎたか」
「せやな」
「それを元の場所に戻せ、荒太」
荒太の首元には長い槍の先が光っている。
漆黒の柄に螺鈿の装飾。竜軌の得物である神器・六王(りくおう)。
「あんたがこれを使わん言うなら」
「出来ん約束だな。使わん物を誰が仕入れる?」
「飛空(ひくう)、ここや!」
竜軌の台詞の後半に被せて、荒太は自らの神器・飛空を呼んだ。
腰刀の姿が現れると鞘を払い、同時に槍を薙ぐ。
神つ力のぶつかり合いに空気が振動する。
両者、次の刃を繰り出そうとしたその時、静かな声が響いた。
「雪華(せっか)」
竜は蝶を追う 対岸