緊張の糸

緊張の糸

はまかわ ゆう

緊張の糸

 静寂の中に私は立った。多くの人が私のこと、もしくは、私の目の前に置かれた真っ黒なピアノに視線が注がれる。ぴんっと、張り詰めた空気っていうのは、こういうもののことを言うのだと思う、そう私は感じていた。少しでも音を出せば、目に見えるようにたるんでしまう糸の上に私が立っているような感覚。

 それなのに、カツカツっといった私の靴の音だけは、その場によく馴染むようで、自然に溶け込んでいった。糸はちゃんと張り詰めたまま。


 この曲を完璧に弾くために、どれだけの時間を費やしたのだろう。どれだけ同じ事を繰り返してきただろう。だから、私はその練習と同じことをするだけでいいんだ。そうすれば、あの練習の時と同じように、私は一瞬の狂いもなくこの曲を弾くことができる。

 それなのに、今私の手は小刻みに震えていた。そして、私の体を少し揺さぶるくらい心臓が高鳴っていた。

 ステージの上から見る観客席には、ほんのりと人の気配を感じるだけでほとんどそれぞれの人の顔を認識することはできない。こちらに向けられた多すぎる照明のせいだと思う。その明るい目隠しのせいで私からは確認ができないのに、席からは容易に見えてしまうことが少し腑に落ちない。当たり前過ぎる事情に文句を言ったってしょうがない、そんなことを考えていると、そう思った自分に少し笑えた。


 ピアノの前に置かれた椅子に腰を下ろす。本当に、私の周りにはいくつものテンションがかかった糸がたくさんあるように思えた。それくらい、今、この場に、存在している空気全てがそんな緊張の中にいるような気がして、私の心臓はより一層高鳴りを覚えて、小刻みに震え続ける手は、もう感覚だって鈍っているよう。

”いつも通りにやればいいだけだ”

私は自分にそう言った。”いつも通り”。だけどそんな言葉は何の役にもたたない。いくら、いつも通りに、何度も弾いたその曲を弾こうとしても、あまりにも今の環境が違い過ぎる。たくさんの人がいたり、ステージの上だったり、眩しすぎる照明があてられていたり……。
それらももちろん違うのだけれど、何よりも私を取り囲む空気の違いに私は耐えることができない。いつも通りなんて、何の役にもたたない言葉だ、そのようにしか思えなかった。

 お父さんとお母さんは今日見に来てくれているのだろうか。昨日、あれだけ喧嘩していた二人だから、もしかしたらどちらか一方は来ていないかもしれない。そういえば、昨日の喧嘩の理由はなんだったのだろう。

まあ、喧嘩なんて当たり前のようにしているから、今となっては別に理由なんて気になりはしないのだけれど、二人揃って来てくれていたら嬉しい。二人が来てくれていたら、私は少しだけ勇気をもらえるんじゃないかって、そんな気がしていた。いずれにしても二人が離婚することに変わりはないのだから。



「まなみ、ごめんね」

今日の朝、お母さんは私にそう言ってから、少しだけ涙を流した。

「お父さんとお母さんは別れることになったの」

いずれそうなるんじゃないかって思ってた。私はそう言い返そうと思ったけれど、なんだかそれを言うと目の前の現実受け止めてしまったようで、とてもじゃないけど言葉にすることなんてできなかった。

「うん」

私はそれだけ言って、今日この場まで歩いてきた。日常にどんな波が立とうと、ピアノの発表会の日時はなんら変わることなんてないから。


 そういえば、その言葉を聞いた時の空気に、今のこの場の空気は似ている。ぴんっと張り詰めた空気。今日の朝も私はそんな空間の中にいて、そして高鳴る心臓を無視することはできなかったんだ。お父さんとお母さんがいれば、勇気をもらえるなんてことはないかもしれない。違う、私は今、たった一人だった。もちろん壇上でも一人だし、私の心もまるでひとりぼっちだった。



 大きく息を吸い込んで、私が一人だという現実を受け止めると、急に手の震えはおさまった。大きく音をたてていた心臓は徐々にペースを落として、私の体にとって適度なペースを保ちながら鼓動を続けた。
”私は一人だ”
そして、お父さんとお母さんが別れる現実を受け止めると、一粒だけ涙がこぼれた。


 鍵盤の上に手を置いて、私は何度も練習したその曲を弾き始める。糸が張り詰めたままのその空気の中に、溶け込むようにして大きく鳴り響いた。それはとても自然だったんだ。


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緊張の糸

緊張の糸

切れそうで切れない。 ぴんっと張り詰めた糸の中で私は生きている。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-05

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