竜は蝶を追う 善かれと
美羽は竜軌に眠れないと訴えた。
竜は蝶を追う 善かれと
善かれと
美羽が前生を思い出しつつある可能性を、竜軌は考えていた。
怯えた顔で自分の手を振り払った美羽。
誇り高い蝶の傷ついた顔。過去の再現のようだった。
園遊会が何かのきっかけになってしまったのかもしれない。
今度はそちらの悪夢にうなされるのではないか。
それを危惧した竜軌は、胡蝶の間に押しかけた。
真夜中に一人飛び起きて、美羽が泣くかと思うと忍びなかった。
布団に横になった美羽は、部屋の隅に転がる竜軌をちらちら見ている。
蘇芳色のテーブルに置かれた丸い時計がコチコチコチと鳴る。
もう深夜になるだろうに、美羽の目は冴えて一向に眠くならない。
片や、竜軌は健やかな寝息を立て眠っていた。
美羽は布団から起き出した。
つん、と浴衣の袖を引かれ、竜軌が目覚める。
「――――――嫌な夢か?」
美羽は首を横に振った。
〝眠れない〟
「だからどうした。俺は子守唄など歌わんぞ」
〝眠れないの〟
美羽は再び、書いた。
「……どうしろと言うんだ」
竜軌が頭をがりがり掻きながら尋ねる。
〝隣に寝てよ〟
視力が急激に低下した人間のように目を細め、極めて小さな、米粒の列のような言葉を何とか読み取ったあと、竜軌は美羽の正気を疑った。この女はやはり変なのかもしれないと思う。
「出来るか、莫迦。俺は男だぞ。それとも誘っているのか。なら応じてやる」
〝ちがう、だって、星君は昔、そうしてくれた〟
様々な感情が竜軌の中を駆け巡り、彼は美羽の細い首を締めたくなった。
「俺は星でもなければ今は昔でもなければここはひまわりでもない」
一息にそう言い放つと、美羽は唇を噛んだ。
一人より二人、二人より一人
意見が通らないと悔しげに唇を噛む。
それは帰蝶も時折、見せた仕草だった。
(こいつ、妙なところが変わってないな……)
喜ぶところか呆れるところか。
竜軌の内心をあからさまにするなら、彼は大いに呆れ返っていた。
顔が微かに赤いところを見ると、美羽も自分の言動の非常識さや、招き得る危険性などは承知しているのだろう。
(煩わせる女だ。この女はいつも、俺を煩わせる)
「……お前は俺が横に寝て、普通に眠れるのか」
美羽は些か自信無さげに頷いてから、言葉を書く。
〝ダメなら部屋から出て行って〟
「何なんだ、その極端な二択は」
美羽を一人で苦しませたくない。泣くのであれば傍にいてやりたい。
例え真白であってもその役割を譲りたくはない。
乱暴な物言いの裏でそう願うのが竜軌の弱味だ。
その弱味を手放せない以上、選択肢は一つだった。
(――――――二十五の男が十八の女に添い寝だと?)
改めて、非常識さに頭痛がする思いだった。
そして竜軌が横に並んだ途端、美羽はスコン、と眠りに落ちた。
昼間の疲れも出たのか、すうすうと寝ている。
ちょっと待てこの女、と思ったのは竜軌だ。
莫迦莫迦しくなり布団から出ようとすると、ぱちりと目を覚ます。
浴衣の袖を掴み、どこへ行くのかと目で訴える。
数回それを繰り返し、精神的疲労から、竜軌も美羽の隣で眠ることに辛くも成功した。
結果として夢すらも見ない眠りを提供されたのは竜軌のほうだった。
夏の日
「お疲れですか、上様」
「見ての通りだ」
蘭は竜軌の部屋で、子供のように彼に拘束されている美羽を見た。
彼女の顔には逃亡を幾度も試みた末、それを諦めた人間の表情がある。
紫檀の台の横に脚を広げて座る竜軌の腕が、後ろから美羽の腰にしっかりと回っている。
「御方様を放されてはいかがですか」
蘭の美徳の一つには、竜軌と同じく率直という点がある。
美羽が何度も強く頷き、蘭の言葉を支持する。
(上様とか御方様ってのがすごく意味不明だけどっ。蘭は時代劇マニアかしら)
とにかく自分を助けて欲しいと美羽は切実に願った。
顔の前で波打つ黒髪をうるさそうに避け、竜軌は飄々と言った。
「これが昨晩、俺を放さなかった。だから俺もこれを放せなくなったのだ。仕方あるまい」
「そうでありましたか」
蘭が首肯する。
蘭の美徳には、生真面目、素直、も数えられる。
美羽の顔に、そうでありましたかじゃないわよ、このボケっ!と言う叫びが浮かぶ。
自分の現状は昨晩の仕返し、所謂、竜軌の意地悪に違いないと美羽は確信していた。
それは半分事実で、半分は誤解だった。
美羽の温もりが放せなくなった、と言うのも実情そのままであった。
但し竜軌が大変あっけらかんとそれを言うので、美羽の信用を得られていない。
美羽が竜軌の身体をどんなに押し遣ろうとしても、まるで岸壁のように竜軌は揺らがない。歴然とした腕力の差に美羽は地団太踏む思いをさせられた。この莫迦力、と本気で何度も思った。他にも声が出せたら言いたい悪口がたくさん美羽の頭に浮かんだ。
そして心身ともに疲れて根負けし、竜軌に身を預ける現在に至る。
(熱いし、暑いし、熱いわ)
意趣返しを果たした竜軌は満足した。
疲れ切った美羽が腕の中ですやすや寝入る顔には、尚、満足した。
白い手は闇に招く
美羽は蝶になって逃げていた。
羽を懸命に動かす。
はたはたと、ひらひらと、死に物狂いで。
しかし逃げても逃げても、白い手が追って来る。
すらりと大きく、白く、滑らかな手が。
狩ろうとしているのだ。
昆虫標本を固定するように虫ピンで美羽を捕らえて。
その果てには暗澹たる闇が迫る。
〝帰蝶。私の愛しい蝶〟
〝私の愛しい〟
〝私の〟
いやだいやだいやだやめてやめてやめて。
「美羽っ」
呼びかけられて、ハッと目が覚めた。
パニック状態に陥った美羽は、とにかく滅茶苦茶に暴れた。
だがそのほとんどは竜軌の腕で封じられる。
「美羽、美羽!落ち着けっ。俺を見ろ!!」
両手首を掴む、相手の顔を見る。
真っ黒い瞳。
(竜軌)
それだけが全てであるかのように、美羽は渾身の力で竜軌に抱きついた。
その日から美羽は、竜軌がいなければ眠れなくなった。
静かな火
竜軌の部屋に集う面々は、それぞれ思案顔だった。
「そもそもどうして今頃、そんな昔の傷を思い出したのかしら」
「園遊会の日から様子はおかしかった」
真白の疑問に竜軌も気付いた点を挙げる。
「これは最悪の場合やけど……」
園遊会に出なかった荒太が推測を述べる。
「斎藤義龍の生まれ変わりと接触したとか」
荒太と真白は帰蝶の傷を知る。
怜が考え深げな顔で口を開く。
「園遊会の日、妙な人物に会ったことは会ったが」
竜軌は怜にも帰蝶の事情を明かした。
「どんな」
荒太の問いに答える。
「俺と同じ日本史の中世を研究している央南(おうなん)大学の教授。彼はずっと捜していた蝶を見つけたと言っていた。園遊会に来た甲斐があったと笑ってね。新庄は彼に気付かなかったか?」
「いや。そいつの詳しい素性は解るか」
「これが名刺だ」
「ふん、見込まれたな」
名刺を怜から受け取った竜軌は、それを平淡な目で見た。
平淡過ぎる目だった。
大事を前にした信長は、いつもこんな風だったと真白は思う。
猛々しく怒りを露わにするより怖い、静やかなる覇者の眼差し。
微弱
ひたりと張りつく肌の熱がもう馴染んでしまった。
黒く長くうねる髪も、ずっと焦がれていたものではあるが。
(この状況は不本意だな)
しかし、美羽に身体を寄せられ嬉しくないことはない。餓えていた温もりだ。
ただ力加減が難しかった。
掌に乗る蝶は、指を折り畳めば脆く潰れてしまう。
熱情にブレーキをかけ、ただ柔らかく包まなければならない。
至難の業だ。
美羽と一つ布団に横たわり、竜軌は努力の夜を積み重ねていた。
顎の下に頭を寄せられれば髪を撫でてやる。
不安な目が泳いでいれば大丈夫だと言い聞かせる。
(この俺が。宮沢賢治じゃあるまいし)
そう言えばなぜうちには宮沢賢治の全集などあったのだろう。
埒も無い方向に考えが行く。
(親父の主義に沿うとは思えんが)
「…美羽」
上向く唇を予告なく奪う。蝶の唇は甘い。甘くてとめどなく欲しくなる。
嫌がらないので、何度か戯れるように唇をかすめる。
「…お前、嫌なら抵抗しろよ」
美羽は首を横に振る。大丈夫、ということらしい。
予想より平気そうだ。
(だが俺のほうが平気ではなくなる)
最後に一口、と唇を吸うと、美羽の身体を緩く抱いた。
大事な蝶から悪夢が遠ざかるように。
〝先輩。斎藤義龍の生まれ変わりを見つけたらどうするんですか〟
真白の問いかけが蘇る。
蝶の羽を引き裂き、粉々に砕いた男を。
(見つけたら?)
そんなこと、決まっている。
こんにちはさようなら
大学構内、文学部棟三階の薄暗い廊下を歩いていた怜は、正面に立った人物を見ても驚かなかった。僅かに目を細める。
「やあ、江藤君。先日はどうも」
蝶を見つけたと言った大学教授・朝林秀比呂(あさばやしひでひろ)は、やはり爽やかに笑った。
古い上に採光に劣る建物の中、場違いな爽やかさだった。この男性の発する奇妙な違和感を、怜は自分の中で形容しあぐねていた。
何かが常人とはずれている。鋭敏な彼の感覚はそう告げていた。
そうした自分の内実を、綺麗に覆い隠した笑顔で応じる。そこに驚きの表情を加味するのを忘れない。
「朝林教授。こんにちは。どうしてうちの大学に?」
「ここの知り合いに用事があってね。丁度良かった、君とはまた話したいと思っていたんだ。時間があればお茶でもと言いたいところだが…」
そう言って秀比呂は、怜の隣に立つ赤い髪の青年を見た。
「じゃあ、僕はここで」
青年は秀比呂の視線の意味を察し、朗らかに言うと怜に手を振った。
「すまないね」
「いえ」
怜は形の良い唇に、薄い笑みを刻んだ。
燃えるような赤い髪の青年・渡辺定行(わたなべさだゆき)は、廊下の突き当たりまで歩くと笑みを消した。
四階に続く階段の壁に、腕組みしてもたれる竜軌を見上げる。
「――――――信長。君の予想通り、接触して来たみたいだね」
「それで?どうだ、あの男は。お前なら前生が明確に判るだろう」
降って来る黒い眼光に、神の眷属、花守(はなもり)と称される青年は薄青い目を細める。
「こういうサービスはあんまり気が進まないんだけど」
「神族がせこいことを言うな。結論を言え」
「やれやれ、困った時の神頼みか。間違いないよ、信長。彼の前生は斎藤義龍だ。でもそれを知って、君はどうするの?」
冷えた笑みが竜軌の口元に浮かぶのを見て、訊かなかったほうが良かったかな、と定行は呟いた。
竜は蝶を追う 善かれと