竜は蝶を追う 客席にて

竜は蝶を追う 客席にて

竜軌と孝彰、父子の対話から読み取られたものは―――――――――。

竜は蝶を追う 客席にて

客席にて

 怜は親子の遣り取りの一部始終を見ていた。
 恐らくこの園遊会を訪れた他の客たちの耳目も同様に、彼らに向いていただろう。
 竜軌が孝彰の言葉の何に怒りを感じたのか、怜は理解していた。
 オレンジジュースの入ったグラスに口をつけながら、話し相手に意識を戻す。
 肩書は大学教授。その割に若い。日本中世史を学ぶ怜と分野を同じくする。
「別荘の売り込みですか」
「ええ。研究室宛てに広告が。しかしそんな大層なもの、持てる訳がないのですよ。国立の大学教授が、一体どれだけ給金を得ていると誤解されているのだか」
「学究の徒と財は、一部を除き縁遠いものですからね」
「その通りです、江藤君。我々の財は金銭ではなく、知識です。飽くなき探求心です。しかしこの園遊会には、来て良かった」
「何か得られるものが?」
 爽やかな風貌の教授は笑った。
「ずっと捜していた蝶を見つけました。とても美しいのですよ」
 好感が持てる筈の笑顔、何かの比喩であろう詩的な言葉。
 だが怜はなぜかその時、悪寒を感じた。


 言葉通り、竜軌は孝彰との会話の後、美羽の手を引いて胡蝶の間に戻った。
〝どうして怒っているの、竜軌〟
 メモ帳とペンを手にした美羽は、やっと尋ねることが出来た。
 荒ぶる虎のような光が、彼の目にはあった。
「解らんのか。親父はお前にさっさと引っ込めと言ったんだ。一人でな。俺の隣に立つお前を、来てる奴らの目から、印象から、外したがっていたんだ。あの狸め」
 指摘を受けてから、美羽は孝彰の意図に傷ついた。
 家族の情愛までを期待していた訳ではなかったが、除外されようとした事実を知れば、やはり堪えるものはある。
「美羽」
 呼ばれて顔を上げる。
「忘れるな。お前は美しい」

暗雲、厭悪の原初

 あとを追うように戻った真白の手を借り、着物から麻のサラリとしたワンピースに着替えた美羽は気が緩んだ。
 そして気が緩むと、一気に疲労を感じた。
 自分で思っていた以上に神経を張り詰め、消耗していたのだ。
 それを自覚すると眠気に襲われた。
 押入れから掛布団を出してそれにくるまり、畳に直に寝た。
 窓際に胡坐をかく竜軌の背中を見ながらうとうとと微睡む。
 当たり前のように居座ってくれるのが嬉しい。
(…でもお父さんと揉めないかしら)
 孝彰の顔を思い浮かべると、ちくりと胸が痛む。
 痛むとそれを打ち消すような竜軌の強い声が、脳裏に響く。
〝お前は美しい〟
 怒ったような声で、ずっと昔も、自分にそう言ってくれた人がいた。
(誰だった……?)

 夢の中で、美羽は違う名前で呼ばれていた。
〝そなたは私の愛しい蝶だ〟
 狂おしく、そう囁く相手が、美羽は怖くて怖くて堪らなかった。
 けれどどこにも逃げ場は無かった。
 誰も助けてはくれない。
 武人とは思えない、すらりと白いその手が、美羽に伸びる。
 
 それは美羽を侵略しばらばらにした。
 美羽は虚ろに転がり自分は破壊されたのだと思った。
 世界を呪うしか術が無かった。

 飛び起きた美羽の背は、汗で濡れていた。額にも首にも汗をかいている。
 竜軌はまだ部屋にいて、驚いた顔で美羽を見た。
「どうした」
 彼が近寄り、伸ばす手を美羽は見た。
 白くもなく、すらりともしていない。
 けれど美羽は恐怖の名残りに怯え、思い切りそれを振り払った。
 竜軌は傷ついた顔は見せない。
 ただ眉をひそめて、美羽を見ている。
 その顔が誰かの顔に重なる。
〝お前は美しい〟
 言葉を飾らない、率直な。
 強くて孤高で。
(あなたは私がいなくても平気なんだろうと思ってた)
 自分の思考の意味が美羽自身にも解らない。

空を舞おうと竜が呼ぶ

 再び眠りに落ちた美羽を、竜軌は見ていた。
 振り払われた右手を見る。
 こんなことが昔もあった。
 まだ帰蝶が、心に固い鎧を纏っていたころ。
 婚礼の夜、帰蝶は信長を拒絶した。
 政略結婚で嫁いだ女が夫を拒む。
 それはあってはならないことだった。
 そんな覚悟もなく来た、甘やかされた娘なのかと呆れた。
 やがてその事情を知り、信長は帰蝶の拒絶を許した。
 信長と帰蝶が夫婦の契りを交わすに至るまで、数年の歳月を要した。
 傷ごと引っくるめて、信長は帰蝶を包んだ。

 美羽が目を覚ますと、既に夕方だった。簾の向こうから暖色が滲んでいる。
 竜軌の背中は変わらず窓際にあり、美羽はホッとした。
 もぞもぞと布団ごと彼に近付いて行くと、竜軌がその気配に振り向いた。
「美羽」
 立ち上がり、彼のほうから歩いて来てくれる。
 着替えが面倒だったのか、まだ令息然とした格好だ。
(王子様みたいだけど、竜軌の性格には似合わない)
 丸くなって寝たまま、彼の身体に子供のようにくっつく。
 少しずつ恐怖が解けてゆく。
 美羽は震える息を吐いた。
 竜軌は黙ってそのまま座っていてくれた。
 そろりと手を出せば当然のように握ってくれる。
 ガサガサしてゴツゴツして、少しも滑らかでない無骨な手に安堵する。
「美羽。お前、旅は好きか」
 不意の質問に考え込む。
 うんと昔、家族で行った旅行がどんなものだったか、余り思い出したくない。
「遠からず、俺は日本を出る。日本を出て世界を巡る」
 いかにも竜軌らしい、と美羽は思った。悲しみと共に。この美しくて奔放な生き物が、小さな島国に納まり切らず外界に出て行くというのは、とても理に適ったことだと感じる。きっと素敵な写真をたくさん撮るのだ。日本でそれを見ることは可能だろうか。頼めば竜軌は写真を送ってくれるだろうか。それとも面倒だと断られるだろうか。
「お前も来い」
 思いがけない言葉に美羽が見上げた先には、黒い瞳があった。
「嫌か?」
 首を横に振る。
「俺がいてやる。お前は振り返らず先だけ見てろ」
 これを蝶は蜜と思うだろうか。
 竜は考える。

課題

 真白と一緒にお風呂に入っていると、今日はお疲れ様、と労われた。
 ありがとうございます、と唇を大きくゆっくり動かすと真白は首を横に振り、実は私も園遊会に出てみたかったのよ、と答えた。それは違う、と美羽は思いながら、この優しい女性に感謝した。
「美羽さん、何か良いことがあった?」
 訊かれて少し迷い、しかし結局、頷く。
「顔が明るいもの」
 美羽は湯船から出ると、鏡に指を滑らせた。
 文字を書く端から鏡面を雫が垂れ落ちる。
〝竜軌が、一緒に外国を回ろうって〟
 そう書くと、気恥ずかしい思いで真白を見た。
「――――――そう。新庄先輩が。良かったわ」
 真白は本当に良かったと思い、そろそろ引き上げ時かもしれないと考えた。

 胡蝶の間を訪れた竜軌の浴衣姿を見て、美羽は首を傾げた。
〝どうしたの?〟
「今日はここで寝る」
 次の言葉を書くまで一拍の間が開いた。
〝どうして?何を言ってるの?〟
「必要性を感じたからだ」
 どういう理屈だと美羽は呆れた。まるで説明になっていない。
〝意味が解らないわ。出て行ってよ〟
「嫌だ」
 頑なな態度と一方的な言い分にむっとする。
〝なら私が出て行く〟
 それを実行しようとしたら手首を掴まれた。
「何もせんから一晩、泊めろ!」
 声は懇願の響きを帯びていた。
 しかし美羽は美羽で、竜軌がいたら眠れない、と胸中で悲鳴を上げていた。

竜は蝶を追う 客席にて

竜は蝶を追う 客席にて

竜軌と孝彰、父子の対話から読み取られたものは――――――――。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted