虐める光

虐める光


「いらっしゃーい」

まだ朝の六時だというのに、この喫茶店は既に店を開けている。……普段喫茶店なんて僕は行かないけれど、その日はそんな時間から店を開けているここを見てなんの躊躇もなくそのドアを開けた。

「こちらモーニングになりますねー」
年老いた女性は、僕の座ったテーブルにメニューを差し出した。A4サイズのそのメニューの中央にトーストが二枚乗ったお皿の写真が大きく写されていて、モーニングメニューはその一つしかなかった。だから、僕は選択肢のないそのメニューを指差して

「これを一つ」
そう言うと、女性は笑顔を返して

「かしこまりました」

と言って席を離れていった。



 家の近くにこんな喫茶店があるなんて知らなかった。いつも通る道を一本入った場所にあるからなのかもしれないけれど、気にもしていなければ、前を通ったとしても、ここの存在なんて覚えていないんじゃないかと思う。

店内には僕よりも大分歳が上に見える男性が3人いたけれど、その場はとても静かだった。新聞を読んだり、ただぼーっと宙を眺めているだけで、皆言葉を発する事を忘れてしまっているみたいだ。

 窓から入り込んでくる朝日は眩しく、僕の事を虐めるように照らしてくる。そしてなぜだか少し悲しくなったりもする。その明かりに照らされている自分が生きている事を実感したりもしている。

 僕は、自分が今生きているなんて事すっかり忘れていた。生きている事が当たり前過ぎて、今生きているという現実を考えもしなかったし、考えるという発想さえ浮かんでこなかったんだ。

この世界を生きている人は、皆生きている事を実感しているのだろうか?……皆ではないと思うのは、この世から自殺がなくならないそれが証明しているんじゃないだろうか。もし、そんな実感があったら、自殺なんて恐ろしい事僕にはできない。

 ごく少量の音の音楽がながれているけれど、それはあまりにも小さい音で、その一つ一つを拾い上げる事ができない。だけど、きっとこれはジャズ音楽なのではないかと思う。ジャズなんて僕にはよく分からないのだけれど、雰囲気がジャズのそれと似ているような気がする。もちろん、全然分かっていない上で言うのだからあてになる事じゃない。

きっと、ここにいる誰もがそんな音楽を聴いてやしないのだと思うけど、この場にその音楽がないと考えると、それはそれでなんだか寂しい気もした。だからそのジャズ音楽は、たとえ誰が聴いていないとしても、その存在意義があるのではないかと思った。


 ……僕もそういう人間になれていたら、あんな事を考えもしなかったんじゃないかって思う。だから僕みたいに自分の存在意義を見つけられていない人は、何かしらが欠けていたり、変にプライドが高かったり、努力もせず傲慢に生きている人間なのではないかと思う。この世界に数多いる人の中に溶け込んでいく事はそんなに難しい事じゃないのに、自分自身でそれを拒否し、そして独りになった自分を哀れんで悲しみの中に落ちて行く。それなのに、その怒りの矛先は数多いるまわりの人間達に向けられていくんだ。

 笑えてきた。自分はなんて身勝手な人間だったのだろう。今こうして、自分を見つめ直してみると、自分がどれだけ勝手に生きてきたのかという事が痛い程に分かる。そしてまた惨めな気持ちにもなる。そんな人間だから、結局何も成し遂げられなかったのだ。
 


 ……。今日だってそうだ。


「はい、お待たせしましたー」

年老いた女性は僕の席に、トーストが二枚乗ったお皿を運んだ。そして、コーヒーの入ったカップもその横に並べた。

「ごゆっくりどうぞ」

女性はそれだけを言って、席を離れていく。

 パンに添えられていたマーガリンを塗って食べると、パンのほんのりとした甘みが口の中に広がる。

「馬鹿だよなあ」

ふと、口をついたその言葉にまた笑えてきてしまう。 



 朝日が僕を虐めるように差してくるのは、間違いじゃない。だけどその光はただ虐めるためだけに僕を照らしているのではないと思う。それは希望……、こんな事を言うとなんだかクサい感じになるけれど、その時の僕には間違いなくその光が希望なのだと感じたのだ。

 今日、この喫茶店に来てよかった。ここに来なければ朝日を浴びる事も、甘いトーストを齧る事もできなかったのだから。そして生きている事を実感する事もできないままだったのかもしれない。


 昨日、あの場所から飛び降りる事を諦めた僕に、まだ手を差し伸べてくれるこの世界は優しいのかもしれない。そんな風に思いながら、パンをもう一口齧った。


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虐める光

虐める光

差し込んできた朝日に、僕は目を瞑り心を少し痛ませた。

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-29

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