あのころ
あらすじ
1974年。ヨーロッパ放浪のたびから帰国して
復学、結婚、入信、失明、子育てなどなど。
お前は覚えていないだろうが
大変だったあのころの物語です。
帰国
1974年(昭和49年)元旦広島。去年の秋、ヨーロッパ3年のたびを終えて帰国し結婚。
それからお前が生まれるまでの2年間を振り返ってみた。
何やかやと年末までは忙しく東京と広島を往復し年の暮れにやっと京都でアパートを探した。
幸い農学部のグランド北側の田中春菜町に安いアパートを見つけた。
学生や夫婦者も住んでいる2階建ての文化住宅だ。トイレは共同でかなり古くはあるが
大学には近い。風呂屋が近くにあって同棲がブームのころだかぐや姫の赤提灯や、
神田川の世界そのままだった。
20世帯ほどで玄関に大家さん家族が住んでいてとても面倒見のいいご夫婦だった。
2階の一人暮らしの佐竹のおばあちゃんと文学部の吉岡千恵とはすぐに知り合いになった。
少したくわえがあったのでこの1年、妻は免許私はひたすら3年分の単位を
この2年で取るべく猛勉強をはじめた。
正月
正月、克英を交えて久しぶりの賑わい。克英はこの義兄夫婦の一人息子で
私とは2つ下。東京の私大に在学中でS学会の学生部員だ。
君子姉さんは家族を早くに亡くしてここの義兄が引き取った。
私より7つ年上だ。3人は兄弟のように育った。
私が高校卒業までの5年間、毎朝早くにおきて弁当を作ってくれた。
私は京都へ。克英は東京へ。久しぶりに全員会えると思っていたが、
君子姉さんは迎賓館、義兄が料理長をやっててそこで君子姉さんも働いていた、
そこでスキャンダルを起こしてどこかへ駆け落ちしたらしい。
とてもいい姉さんだったのに。人のうわさは聞いてはいるが
向こうから来ることはないと義姉さんは言う。
「克英、そういう人を救うために信心があるんじゃないのか?」
「そのとおり。数多くの宿命に泣く人々を救済できる力ある宗教はこれしかない!」
「ならばお前が出向いていって折伏すればいい」
「兄貴がそういうのなら、まず兄貴自から信心を始めてみるべきじゃないか」
「ふむ」
S学会
というわけで京都に戻るとすぐに私はS学会に入会することにした。
ところが当時学会は指導者I先生の日中国交回復提言や新政党の
躍進やなんやかんやでいろんな妨害が入り、
組織かく乱のテロリストや右翼がスパイとしていくらか偽装入会して
きていたのだ。そのため3ヶ月間の入会準備期間が設けられていて、ちゃん
と勤行をし座談会に出て教学を学び折伏をする人しか入会できなかった。
全共闘崩れも相当いたようだ。世はしらけムードが蔓延していて、
マイホーム小市民的幸福を望むしかない時代になっていた。
あの学園紛争の熱気はどこへ行ったのだろうか?
御本尊が来た
早々とご仏壇だけ用意して勤行を始めた。
いろんな人々が出入りしてきて地区の総B長、大B長。
婦人部、学内の学生部、地域の学生部。女子部。
連日さまざまな会合に参加した。
間違って女子部の会合に出たこともあった。
早々と勤行を憶えて座談会に出席し教学を学んだ。
言われたとおりに素直に実践した。とにかく楽しかった。
ヒッピーたちを座談会につれてきたりもした。
「行解すでに勤めぬれば三障四魔紛然と競い起こる」と経文にある。
1ヶ月たった頃先輩に食って掛かった。
「何もおきませんが正しく実践できてないのでしょうか?」
「ふむ」
「古いホースに水を流すとたまっていた汚れがどっと出る。この信心を始めると
過去の宿業がどっと出るって言わはりましたよね?」
2月に入ってひょっとした拍子にキミちゃんの鼓膜を破ってしまった。
救急車で病院へ。ひょっとしたらこれか?と題目を唱えた。しかし
「鼓膜はすぐにふさがりますから大丈夫ですよ」とのこと。
それでも三障四魔が起こり始めたと半ば喜び、
さらに勤行、唱題、活動、教学にと入れ込んだ。
そしてついに3月10日、やっと我が家に御本尊が来た。
勉強三昧
大学に復学届けを出し4回生に編入。学園紛争で1回生の単位もほとんど
取れていなかったからこの2年で4年分の単位を全部とって卒業するぞと決意した。
妻は運転免許にチャレンジしている。幸いヨーロッパで蓄えた100万円あったので
この1年は勉強に専念できる。4月に入りカリキュラムを目一杯登録した。
英語、ドイツ語、専門書、語学だけで9科目。外国語大学並みだ。体育は間違って
2年分を登録し皆勤したが1年分しか単位はくれなかった。どうしても単位をくれない化学は
卒業間近に教官に直接頼み込みに行って単位をもらった。
モーレツにお題目をあげてがむしゃらに勉強をした。授業が楽しくて楽しくて
語学はすべて前期で全期の予習を完了していた。ある英文学の教官は
始め30人ほどの学生がいたが期末には常連3人だけになって、
「この3人の方は期末テストは免除します」と宣言されたがそでもテストを受けた。
授業や実験がほんとに楽しくて一生のうちに一番充実した2年間になったと思う。
新入生歓迎会
御本尊が安置されて実践に拍車がかかり
「三障四魔は?」と、ついにそれが起こった!
新入生が増え学内も地域もグループで活動を開始した。
その矢先である。忘れもしない4月10日。
学内での新入生歓迎会がある日だった。
出掛けに車がパンクして(ホンダN360)前ボンネット内
のスペアタイヤと交換しパンク修理に出して会場に向かった。
大広間に100人ほどか。河合グループ、大田、仲小路、戸塚。
大先輩がしゃべっている。戸沢、戸谷、松本などなど。
河合グループは末席で一升瓶を片手にどんぶり酒。
果ては飯に酒をぶっ掛けて酒茶漬。もうだめ。
舞台で歌舞伎の真似をしたところまでは憶えているが、
その後ろれつが回らなくなって・・・・・・。
気がつけば柱の脇でただ一人眠っていた。座布団を掛けられて。
ふと目を覚ます。だれもいない。ここはどこだ?
そうか学内の飲み会だった。酔いつぶれてしまったのか。
当時はどういうわけか飲み始めるとどんどんとピッチが上がって、
ほろ酔いから急に凶暴になり何が不満なのかものすごいエネルギーで
暴力を振るった。シャッターをこじ開けたり看板を力ずくではずしたり、
車庫から鍵の着いた車を乗り出したこともあった。
今考えると実に恐ろしい、これが宿業というものなのか?
そしてついに起こるべき事件が起きた!
事故る!
起き上がろうとすると頭がズキンとして視点が定まらない。
立ち上がろうとするが立ち上がれない。
必死に壁を伝いながら下へ降りた。
大広間はきれいに片付けられていて自分のところだけが
さびしく座布団が掛けられていた。誰もいない。
一人ぼっちのわびしさだけが身にしみた。同志は?
とにかく帰らなければ無意識に車の鍵をまさぐり玄関を出て
よろめきながら夜の道を車のところまでやっとの思いでたどり着いた。
鍵を挿しドアを開け運転席に座る。とにかく帰らなければ。
泥酔状態である。まどろみつつ瞬時覚醒してはキーを差し込む。
帰らなければ、とにかく帰らなければ。キーを回しエンジンがかかる。
ライトをつける。いつの間にか車は動き出し、ふらふらと危なげに
人気のない狭い道を走り始める。
何度も電信柱にぶつかりそうになる。
『あれっ、また同じところに戻ってきてしまった。くそ!』
そう思ってアクセルを強く踏み込んだ瞬間。
『グシャッ!』
強烈な衝撃が顔面に走った。
めがねが吹っ飛んだのかぼんやりとしか見えない。
何とか動かそうとキーをまわす。手に生ぬるい液体の感触。
両手ですくってみる。
『これはまずい。なんとか外に出よう』
運転席側のドアは開かない。助手席側に身をよじって
ドアを開けた瞬間、遠くで人声が聞こえた。
「事故や!ぶつかっとるぞー!」
その声を聞くと同時に私は気を失った。
転重軽受
当時井上陽水のアフロヘアがはやっていて私はアフロに
ポケットのたくさんついたサファリジャケット。
そのポケットにも血があふれていたそうだ。
後で聞くと、できたばかりの鉄筋コンクリート電柱直径30cmが
根元からちょうど30cmずれていたそうだ。相当の衝撃である。
ぶつかった瞬間フロントガラスを顔面が突き破り電柱に激突、
その衝撃が右目に集中し顔面を破壊せずに助かったとのことだ。
鼻骨も折れていて多量の鼻血が出たということらしい。
あと1cmでもずれていたらもう助からなかっただろうとのこと。
とにかく助かったのだ。転重軽受(重きを転じて軽く受く)=
過去の宿業を信心することによって早く軽く断ち切ることができる。
そう仏教では教える。ついに出た三障四魔!!!!
宿命転換
『行解すでに勤めぬれば三障四魔紛然として競い起こる』
第六天の魔王が笑っている。信心やめよと脅している。
勤行始めてちょうど100日目。まさに経文どおり大難がおきた。
ほんとの戦いはこのときに始まった。多くはこの時退転すると思ったらしい。
ところが私は笑みを浮かべていたのだ。さぞ不気味だっただろう。
「ほんまやこの信心!これで宿業がひとつ切れた!」
かわいそうなのは妻と娘だ。いや増して不安だっただろうと思う。
妻はこの時妊娠2ヶ月だったのだから。
私の宿命との戦いはこのときに開始された。と同時に
私の人生と使命が決まったのだ。
ぶーん
遠くでお題目の声が聞こえる。どうもそれは手術室の電源の音だったようだ。
私は間違いなくお題目の音で目が覚めた。
『ブーン』
誰かがどこかで私のためにお題目を上げてくれている。
『ブーン』
間違いないお題目の音だ。目を開けようとするが明かりだけで何も見えない。
はっきりと声が聞こえた。
「あ、めざめたぞ!」
「ほんとだ。護符護符」
「飲み込めるか?」
「大丈夫だ」
「足が震えている。酔い覚めだなこれは」
「ははは。よかったよかった」
「よう助かった」
「使命があるんじゃ」
笑い声が響いて私も微笑もうとしたが、
顔がひきつって笑えない。
痛みはないがあちこち麻痺している。
麻酔のせいか頭が朦朧としている。
「こいつ笑っとるぞ」
「もう大丈夫や」
また笑い声が響いた。
魔は天界に棲む
別室では戸沢常任幹事に克英と戸谷部長、河合G長がきつく説教されていた。
「君たちの監督不行き届きがこの事故を招いたんだ。わかるね?」
「申し訳ありません」
「魔は天界に棲むというではありませんか。折伏、新入会と新入生が多くて
皆有頂天になってた時ですから、こうして松林君の身の上に、
大六天の魔の手が集中したのです」
「はい・・・」
「妙とは蘇生の義です。これからは松林君の蘇生のドラマがすべての人に
感動を与えるはずです。しっかりと見守っていてあげてください!」
「はい!」
みんなが大きな声で返事するのが聞こえた。
蘇生
これも後で聞いた話だが、この根元救急病院には
この夜あと二人が担ぎ込まれ一人はダンプカーに両足を轢かれ
もう一人はアリーナで転倒した男子大学生だった。
ダンプのおじさんは両足を切断。そして転倒大学生は翌日亡くなった。
運命とは不思議だ。私は生き残った。一生掛けて何をすればいいのか
しっかりと分かり始めていた。
私の手術はすぐに始まった。これまた不思議なことに眼科専門の
第二日赤の友人が根元病院に来ていてその医師による応急手術。
家族が呼ばれ「右目を摘出しないと左目も失明します」
ということで翌日第二日赤で摘出手術が行われた。
笑み
母、スミエ姉さん、兄貴、克英、。妻と娘にまことに申し訳なく思いつつ、
『私の宿業はひとつ断ち切れた。今に見ていろ必ず反撃するから。
時間はかかるだろうが実証の人生を送ると決めた。これからも
種々の難は起こる。この信心と決めた以上は死ぬまで全うする』
と一人心でお題目をあげ続けた。血だらけのサファリジャケットと
アフロヘアーを何箇所かゴムで結んでとんがり頭の血のりの髪。
なんとも異様な姿で車椅子に乗り第二日赤へ移動した。
目隠し状態で何にも見えない。明るさだけは確認できる。
風も空気も人の声も何もかもが新鮮に感じた。
小鳥のさえずり、車の騒音。町の雑踏。すべてが毛穴から染み渡る。
鼓膜から直接脳細胞を刺激する。生きてるってことはこのことか?
大きな宿命の殻がひとつばっさりと剥げ落ちた。ふてぶてしく笑みが浮かぶ。
よし頑張るぞ!のべつ暇なく心の中でお題目をあげ続けた。
手術
摘出手術はいとも簡単だった。コロンと右眼球が容器に放られる。
部分麻酔で左目は近眼だが視力は回復している。へしゃげた眼球は
無様な肉片だった。顔面にはガラスの破片が大小いたるところにめいり
こんでいる。めぼしいものを取り除いてもまだかなりが残っているらしい。
鼻骨は折れてひん曲がり右目から額に切り傷。右目から鼻上唇にかけてひどい裂傷。
60針根元病院で縫合された。何とかつながるだろうと件の眼科医は言っていた。
なんとか?上唇は完全に裂けていたのだ。
「これから抜糸した後もかなりのガラス片が膿とともに出てきますから
こまめに毎日取り除いていきましょう」
「どのくらいで完治しますか?」
「ま、努力しだいですが3ヶ月はかかると思います」
「今月末に大事な国際部の集会があるんですが」
「リハビリしだいで早ければ通院できるかもしれませんが」
『3ヶ月も入院できるか。国際部の集会まであと2週間!やるぞ!』
それからの毎日は題目三昧になった。いつ全盲になってもいいように、
方便品と寿量品(長行も)を丸暗記するのだ。時間があればとにかく題目。
病院の屋上で毎日朝から晩まで唱題し続けた。看護婦さんが、
「松林さんはいつ来てもいませんね」
「ええ、リハビリのためにあちこち歩き回ってます」
「この間眠ってると思ったら奥さんだったわよ」
このころ実はつわりがきつかったのだ。気疲れとつわりで
眠くてしょうがなかったそうだ。お前ももう参加してたんだよな。
退院
毎日顔面の膿からガラス片が出てくる。ピンセットで一つ一つ取り除く。
唇を抜糸してからもガラス片は毎日いくつも出てきた。
勤行しながら唱題しながら体操しながら10日がたった。
上唇は少し段差はできたが何とかくっついたみたいだ。
すこぶる元気で腹が減る。青山さんが一日おきにギョーザを
届けてくれた。女子部の坪井さんが6.30学生部へのメッセージ
を録音して届けてくれる。目が見えないからと御書の転重軽受の
法門も録音してきてくれる。地区の皆さんからも花束が届く。
早く退院することがみんなの期待にこたえることだ!
日ごとに目に見えて元気になり、ついに、
14日目に退院。その足で妻に付き添われて大阪の
国際部の大会に出席した。
予定日
その後いろんな会合で体験発表をする。眼帯をしたまま、
「医者は3ヶ月と言いましたが、わずか2週間で退院しました!」
これは事実なのだ。題目をあげにあげきって。もりもり食べて。
ものすごい生命力で実際に2週間で退院したのだ!
片目で体育の卓球をしたり、週9科目の外国語を一度もかけずに
出席した。さらに夜はECC学院で英会話。まるで外大だ。
そのうち妻の妊娠が際立ってきて、二階のおばあちゃんも皆
男の子だと言うので仏壇の横の壁に金吾と札に書いて
1万遍ずつ貼っていった。無事安産男の子を祈りつつ。
予定日は12月下旬。にもかかわらず私はクリスマスイブの日に
吉川宅でECCのクラスパーティーで徹夜。
臨月の妻にはまたまた不安を与えてしまった。
予定日が来ても生まれる気配はなく、とうとう年を越した。
『ひょっとしたらこれは、女の子かもしれない?』
そう思って元旦、長い唱題のあとに金吾の札を全部はがした。
誕生
産気づいて入院、3日後の1月6日。生まれた女の子だ。
初めての子だ、涙が出た。
『すまん。男の子とばかり思っていた。出てきにくかったよな。
ほんとにすまん。この際どうでもいいからとにかく健やかに育ってくれ』
東京からおばあちゃんが来てくれていて、朝は一緒に勤行をしたりしていた。
とにかく無事生まれてよかった。ところがお乳が出ない。
お母さんは出産、相当懲りたようだ。もう子供は要らないというし。
困ったな。ここから次の悩みが始まった。
春菜町にすんでいたから春菜がいいか?いやいやいろいろ考えて、
あまりお勉強はできなくていいから賢い子に。人の心の痛みがわかる
いいこに。どんな苦難も乗り越える活力ある子に。
うさぎ
人を幸せにできる聡明な子にという訳で、祈りをこめて、仏の悟り
仏知見から知見(ともみ)と名づけることにした。
しるみしるみと言われていたそうだが、すまない。
○お前はもう忘れたかもしれないが
福の川の家で座談会があってお母さんと二人羽織をしてくれたことがあった。
お母さんが余興でこんなことをするなんて、すごく内心驚いた!
○お前はもう忘れたかもしれないが
岡崎動物園に行った折、なかなか人の前に出れなくて、おかあさんが、
「割と臆病なのよ、この子」
と言ったことを憶えている。その時、
「そうかな?」と思った。
○お前はもう忘れたかもしれないが
ウサギが飼いたくて、飼ってたよな。
福の川では飼えなかった。すまん。
便座にはまった話、しっかり憶えてます。
小学校にお前を訪ねて行った。
教室に入ったら先生に追い出されました。
何をしゃべったかは憶えていません。
あのころお母さんは一番大変だったと思います!
イルカ
○お前はもう忘れたかもしれないが
原宿でワゴンセール、11月の三連休。
お前と母さんに久しぶりに会ったよな。
忘れはしない、千葉の柏に皆さんで引越ししたころだよね。
ハンバーグを買ってきてくれた。
中村あゆみにはまってるとか、
獣医になりたいとか言ってたよね。
○お前は忘れたかもしれないが
幕張の千葉博覧会にママが来た。柏の家に寄ったよな。
「とてもいい子に育ってる。安心して」
うれしかったね。
「とても肌が白いの、うらやましいくらいだわ」
高校生のころか?イルカが好きで沖縄の大学を受けるとか。
○お前はもう忘れたかもしれないが
銀座の三越で食事したよね。出版社のころかな?
イルカのことを書いた本を手渡されたね。
全部ちゃんと読みましたよ。
○お前はもう忘れたかもしれないが
2004年7月。都議選で松葉町のマンションを訪ねていきました。
これで”夏の日”という短編ができました。とにかく暑かったですね。
ご主人にも尚人にも亮太にも会えました。
もう思い残すことはありません。
幸せそうで何よりうれしかったです。
えっ?バリ島?亮太が・・・?
操さんからいろいろ聞きました。
その戦いだな。毎日祈ってます。
一生かけてのんびり行こうぜ。
私は中国です!必ず拠点を作ります!
衆生所遊楽、苦楽ともに思い合わせてお題目。
人生をじっくり味わいましょう!
頑張れ!知見!
-完-
あのころ