竜は蝶を追う 欠片も残さず

竜は蝶を追う 欠片も残さず

文子の提案に乗り、美羽は園遊会に出ることを決意する。

竜は蝶を追う 欠片も残さず

欠片も残さず

「面倒なことになったな」
 洋服に着替えた美羽を部屋まで送るなり、開口一番、竜軌が言った。ドスン、と畳に腰を下ろし、脚を投げ出す。
〝堅苦しいパーティーなんて、私は嫌よ〟
「解ってる。今度の園遊会は政財界、学界関係者も集まる。まさに〝堅苦しいパーティー〟だ。くだらん。俺はここに帰っている以上、顔を出さないと親父がうるさいが、お前は仮病を使え」
 竜軌が脚を投げ出す横に座っていた美羽は数秒、静止する。
〝竜軌は、出るの?〟
「止むを得ん。鬱陶しく飾り立てられて令息じみた振る舞いを求められる。阿呆のようににこにこ笑って舞台で演じねばならん。まんま、道化だがな。…どうした?」
 竜軌の言葉は、美羽に生きて来た世界の違いを感じさせた。
 互いの間にある距離を。
 園遊会にはきっと良家の令嬢も参加して、竜軌は彼女たちにそつなく振る舞うのだ。
 他の女性に竜軌の、笑顔でない笑顔が向けられる。
 特別、自分に心を開いてくれる孤高の獣が、そんな風にして世俗に甘んじる。
 悔しいと思った。
 竜軌にはもっと自由な空気が似合う。人間の住まう矮小な世界より、野生の息吹が感じられる大地や自然のほうが、彼ははるかに楽に、しなやかに生きられるだろう。それだけの強さもある。
(竜軌は綺麗な、とても綺麗な生き物なのに)
 作り物の笑顔でも、美羽は譲りたくなかった。
 黒い輝きは自分だけのものだ。
 輝きが曇らないよう、汚されないよう、傍について自分が見張り、見守りたい。
〝私、園遊会に出るわ〟
 美羽の感情の揺れ動きを知らない竜軌が眉根を寄せ、訝しむ顔になる。
「やめておけ。不愉快な思いをするかもしれんぞ」
〝竜軌が一緒にいてくれるでしょう?〟
「……お前がどうしても出ると言うならそのつもりだが」
〝さっきのお着物でも、私、他の女の子たちに負ける?〟
 これを読んだ竜軌が勝ち気に笑い、自信に満ちた声で請け負った。
「それはない」

籠に入らない

 園遊会の話を聴いた真白は、自分も出席すると言った。
 やっと柔らかく笑うようになった蝶を、厳しい風から庇ってやりたかった。
 しかし夫は大いに異を唱えた。
「絶対、ダメ」
「美羽さんを一人に出来ないわ」
「その為に新庄がいるんだろう。最近は美羽さんもあいつを頼ってる。良い傾向だ。真白さんがそこまでするのは出しゃばりだよ」
「……でも」
「絶対、ダメ」
 荒太の懸念事項は偏に、愛する白い花に虫がたかることだった。
「荒太君も一緒に出てくれたら…」
「来週の土曜日だろ?仕事が入ってるんだよ。真白さんについててやれない。だから絶対、ダメ」
「じゃあ、剣護に来てもらうとか」
「ぜえっったい、ダメ!!」
 があっと吠えるように荒太が叫ぶ。真白は目を瞑って耳を塞ぎ、暴風のような声を遣り過ごしたあと、代替案をそろりと提示した。
「…次郎兄(じろうあに)でもダメ?」
 焦げ茶の瞳が荒太を窺う。
 前生における真白の次兄・江藤怜(えとうりょう)の容貌を思い浮かべて、荒太は考えた。
 真白が園遊会への出席を譲らない場合は、そのあたりで妥協するしかない。
 荒太が顔を覆って嘆く。
「あああもう。真白さんに勝てない自分が憎い。そして真白さんも憎いって言いたいけど、心底愛してる」
「私は優しい旦那様がいて幸せです」
「…………あんまり見映えしない服、着て」
 荒太は小声で、せめてもと妻に譲れないリクエストをした。

舞台の袖

 これは真白さんに、という言伝と着物の入った畳紙が真白の部屋に届けられ、荒太のリクエストは叶わないものとなった。
 園遊会の日は晴天だった。
 真白に着付けしてもらった美羽を、竜軌が迎えに来た。
 ワックスかムースを使ったのだろう、長めの黒髪は一筋の乱れもなく整えられ、いつもの赤いエクステも外している。
 黒い麻のジャケットを羽織り、品の良い光沢のある黒のスラックスを穿いている。
 銀とグレーの中間のようなネクタイは絹だろう。
 真っ黒な髪と目が、いつもとは異なる日本美を感じさせる。
(――――令息)
 そのままだわ、と美羽は思った。
 しかし中身はどこまでも竜軌だった。
 にやりと笑う。
「見惚れたか」
 美羽は図星と悟られまいと、紙に文字を書きつけた。
〝キザな格好よね。ホストみたい〟
 くす、と笑ったのは、竜軌の後ろに真白と並んで立つ青年だった。
「お前、可愛くないぞ」
 不平を言う竜軌の前に、その青年は進み出た。
「いや、的を射た表現だったと思うよ。どうも初めまして。俺は真白のエスコート役に呼ばれた、江藤怜です。成瀬とは同じ大学の四年なんだ。よろしく」
 会釈しながら、綺麗な男の人だわ、と美羽は思う。蘭のように華やかな美貌とはまた違う端整な顔立ちは、どこか真白に似ている。血縁だろうか。
 柔らかな印象を与えるライトグリーンのジャケットに、同じ色のスラックス。首には濃紺のネクタイを締めている。
〝初めまして。よろしくお願いします〟
 秀麗な顔が、心得ているように微笑んだ。

芝居

 日が燦々と照る下、松がちらほらと植わる広い芝草の庭に装った人々が集っていた。
 老若男女の共通点は、身に纏う衣服の上質であることだった。
 多くの女性は日傘を手にしていた。美羽も庭に出る直前、文子付きの家政婦が来て、レースの縁取りのある日傘を持たされた。
 揃いも揃って着飾った客人たちを見て、ドレスコードに材質は絹か麻という決まりでもあるのかしら、と美羽は思った。
 受け答えは全部俺がやるからお前はくっついてろ、と竜軌に言われた通り、美羽は日傘を差して彼の隣について回った。
 しかしそれはそれで好奇の目に晒されることが間も無く判った。
 何しろ竜軌は堂々と、美羽の手を握って歩いたのだ。
 竜軌に話しかける人間は皆、美羽の顔立ちや着物にかこつけて、彼女の素性を知りたがった。さりげない視線には、少女を値踏みする冷たさが少なからず感じられた。竜軌の隣に立つからには、美羽も毅然とした態度を貫くつもりだった。自分が失態を演じれば、竜軌までが見損なわれる。
 竜軌は中身の無い会話の遣り取りに慣れていた。
 そして美羽への賞賛は素直に受け容れた。
「美しいお嬢さんですね」
 そう言われれば美羽の手を握ったまま、てらいのない笑顔で、僕もそう思います、と答えた。こちらの女性を紹介していただけるかしら?と老婦人に請われれば、僕の婚約者です、と臆面もなく言ってのけるので、美羽は目を白黒させどんな顔をするべきか悩んだ。
 中には美羽の存在を無視して、果敢に竜軌に話しかける令嬢もいた。
 ライトピンクのワンピースが可憐な令嬢は、明らかに竜軌に見惚れていた。
 竜軌は彼女の熱心な話に耳を傾けながら、唐突に尋ねる。
「ところであなたは、里見源九郎氏の『資本主義にピリオドを』と言う本を読まれたことはおありですか?」
「え、いいえ。記憶にございませんわ」
「お薦めしますよ。僕らのような立場の人間こそが読むべき名著です」
 竜軌がにっこり笑う。
 令嬢はそうなんですか、と答えるとそそくさと立ち去った。
「―――――今の話は嘘だ。そんな本は無い」
 竜軌は美羽にだけ聴こえるようこっそり耳打ちした。
 美羽は令嬢に悪いと思いながらも、ついくすりと笑ってしまった。
 長いテーブルに掛けられた白い布。
 銀食器、重ねられた白い皿。
 サンドウィッチや、小さくて色鮮やかで贅沢な食材を乗せたカナッペなどが広い余白の中に並ぶ。
 銀の小匙が添えられたカクテルグラスに入った黒い粒の山を、美羽は初めてキャビアと知る。
 食べるかと竜軌に訊かれたが、首を横に振った。緊張と固く締められた帯のせいで食欲を感じないのだ。
 真白は紺地に浮き出る水面のような模様が浮かぶ訪問着に、白い帯、同じく紺の帯締めに一対の鯉が彫り込まれた水晶の帯留めを着けている。長い髪を美羽と同じように結い上げているので、日傘の下に見える白い首が涼しげで眩しい。
 五行歌の詠み手として本も出版している真白は、思いがけず人に囲まれていた。荒太や怜と同い年だが事情により休学していた彼女はまだ大学二年生で、キャンパスでも〝女流歌人〟とあだ名されていた。
 怜はマイペースに芝の上に佇む風情で、真白と美羽の双方に目を配っている。
 時折、話しかけて来る女性にはやんわり相手をしていた。

諳んじる

 ざわり、と人の波が揺れたように美羽は感じた。
 音と言うよりは気配が鳴ったと。
 目の前に立つのは品の良い、壮年の紳士だった。
 新庄孝彰。
 竜軌の父。
 やはり親子だ。竜軌と顔立ちが似ていると改めて思う。
 竜軌の顔から荒さを削ぎ落し、年月の重みを加えると孝彰の顔になりそうだ。
 竜軌は微笑んだ。完璧な微笑だった。
「こんにちは、父さん」
「やあ、竜軌。こんにちは、美羽さん」
「良い日和で何よりですね」
「そうだな。美羽さん、見違えるね。文子が自慢していただけのことはある」
 美羽は謝意を表して頭を下げる。
 竜軌と孝彰の会話は、親子のそれとは思えない。何て他人行儀なんだろうと美羽は思う。
 二人芝居を見ているようだ。それぞれが納得ずくで、役割を演じている。
「家で不自由は無いかな。竜軌は君に無理を言ったりはしていないだろうか」
 美羽は首を横に振って答える。
 孝彰の目が細まる。
「そうかね。では園遊会を楽しんで。疲れたら早めに退出して構わない」
 美羽はまた小さく会釈したが、竜軌の身体からピリ、と放電されるものを感じた。
「その時は僕も下がらせてもらいますよ」
 和やかなまま、孝彰の目が息子に向かう。
「お前は自分の務めを果たさなければならないよ」
「美羽同伴であれば果たしましょう」
「お前の我が儘を彼女に強いるのは感心しないな。それに婚約者などという軽率な言葉は、美羽さんを困らせるだろう」
「この我が儘の為に生きて来ました」
 竜軌は気負いなく告げた。
 孝彰と美羽の目が同時に大きくなる。
「…では好きにしなさい」
「お言葉に甘えます」

竜は蝶を追う 欠片も残さず

竜は蝶を追う 欠片も残さず

文子の提案に乗り、美羽は園遊会に出ることを決意する。

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更新日
登録日
2015-05-16

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