竜は蝶を追う 箱庭

竜は蝶を追う 箱庭

竜は蝶を追う 箱庭

箱庭

 その女性は少女のようにおっとり微笑み、美羽を出迎えた。
「美羽さん、ようこそ。いらっしゃい」
 一見、無地にも見える、縞柄の江戸小紋。色は目に涼しい淡い水色だ。
 スワトウ刺繍の施された銀白色の帯に海のような青い帯締めを合わせ、透明でいかにも繊細なガラス細工の帯留めで帯の中心を押さえている。
 竜軌の母、新庄文子(しんじょうふみこ)に、一度ゆっくりお話でも、と言うお誘いを受けたのは昨夜だった。お誘いは今で言えば手紙、平安の昔には文と呼ばれるものだった。香の焚き染められた和紙には細い金箔が漉き込まれ、流麗な草書体は美羽には読みこなせなかった。また、その文は、紅色の酔芙蓉の花が咲く枝に結ばれていた。それを見た美羽は現代という時を一瞬忘れた。
 美羽は、真白と竜軌にどう対応すべきか尋ねた。
 真白はさっと和紙に目を通すと、お茶するくらいのことだろうから、そう構えることはないと美羽に言った。そして返事は早いほうが良いと代筆を申し出てくれた。竜軌も、母は箱入りで意地悪の方法すら知らんから怖がることはない、と告げた。但し、父親である新庄孝彰が接触しようとしたら必ず俺に知らせろ、と忠告を受けた。
「お紅茶、飲まれる?」
 美羽は頷いた。文子が左手をす、と挙げると、部屋に控えていた家政婦が心得たように頷き、部屋を出た。
 文子に招かれた部屋は、邸の二階にあった。彼女のプライベートルームなのだろうか。畳の敷かれた和室はやはり広く、冷房が心地好く効いている。ガラス窓の手前に、螺鈿細工の脚の長い小テーブルが置かれ、二脚、優美な椅子がある。
「どうぞ、お掛けになって」
 文子に促され、美羽は椅子に座った。
 にこやかな彼女の顔は気品があり、日焼けを知らぬかのように白い。
 顔に刻まれた皺は文子の温厚な性質を際立たせているように見える。顔立ちは余り竜軌に似ていない。
「あら、わたくしったら。お好きなお紅茶の葉っぱを訊いていなかったわ」
〝茶葉は、どれでも大丈夫です〟
 ホッとしたように文子が笑う。
「そう、ありがとう」
 やがて運ばれて来た紅茶は良い香りがして、とても美味しかった。
 ぽつり、ぽつり、と交わす会話は和やかで、美羽の緊張も次第にほぐれた。
「本当はね」
 文子はガラス窓の外を見ながら言った。
「本当はわたくし、あなたと養子縁組したかったの」

 竜軌が入って良いかと襖の向こうで言った。
 美羽はチリン、と鉦を鳴らした。
「どうだった、昼間は」
 怖がることはないと言いながら、それなりに心配してくれていたらしい。
「育ちが良過ぎて無神経になる場合もあるからな」
 新庄文子は実家が京都にあり、代々宮家の血筋を引く令嬢とのことだった。
(正真正銘のお姫様)
〝あなたのお母さんは優しい人ね〟
「世の厳しさを知らん人間だ」
 竜軌は美羽の言葉に単純な肯定を示さなかった。
〝お着物、作りましょうって言われたわ〟
 竜軌が笑う。
「そんなところだろう。誂えさせれば良い。見目の良い娘が近くにいてはしゃいでいるんだ。真白も母には気に入られている。二人してたまに茶を点てたり、花を活けたり。ままごとだな、あれは」
〝私はそんなことできない〟
「解っている。あの人も無茶は言わん。他に何かあったか?」
 美羽は迷ったが、迷う顔を晒したところで竜軌に訊かれた。
「何があった」
〝本当は、養子縁組したかったって。私のような娘がいたら嬉しいって〟
 黒い目が続きを促す。
〝けど、お父さんに反対されたって〟
 竜軌は何度か頷いた。意外でもない、と言う顔だった。
「気にするな。それぞれの価値観がかけ離れた夫婦だからな。母はとにかく情で動く。父は理性と冷徹と打算で動くが、情を全く解しない人間でもない。相手の人格は正確に測れる男だ」
 美羽が物言いたげに自分を見る目に気付く。
「何だ」
〝寂しかった?子供のころとか。今まで〟
「それはない。だがお前がいれば色々と違っただろうな」

開花前

 こちら京都からいらした呉服商さん、と着物を着た男性を紹介され、美羽は面食らった。
 祖母の代からお世話になってるのよ、と笑顔で言う文子に、男性は、いいえ、こちらがお世話になってるんどす、と訂正した。
「それにしても竜軌さんまでいらしてくれるなんて、嬉しいわ。ついでにあなたも誂えていただく?」
 にこやかに文子が息子に尋ねる。
「そうですね。まずは、美羽のものを決めてから」
 あら嬉しい、と文子は言った。彼女ははしゃいだ声で続けた。
「紬の単衣、絣の銘仙、芭蕉布や紅型なんかも似合いそうね。美羽さんは、はっきり整ったお顔立ちですもの。揃えられるかしら?」
「それは、もちろん」 
 呉服商の男が請け負う。
 芭蕉布や紅型は沖縄の物ではないのか、と危ぶむ美羽に竜軌が話しかける。
「母の個人受注のようなものだからな」
 美羽は慌てて紙に書きつける。
〝お着物、一枚だけで結構です〟
「あら、それじゃわたくしがつまらないわ」
「気兼ねしてるんです。解ってやってください」
 竜軌が取り成す。
「それに、俺が彼女の為に誂えさせるぶんも、取っておいてもらわなくては」
「そう、そうね。そういうことなら仕方ないわ。やはりこうした物は、殿方にいただくのが一番よろしいわね。では母は、美羽さんには一枚だけを差し上げましょう。そうとなれば選りすぐりますからね、美羽さん」
〝はい。ありがとうございます〟
 小首を傾げて優しい声で宣言され、美羽にはそれ以外、返答の仕様が無かった。

「不機嫌だな、美羽」
 美羽の自室に戻ると、竜軌が笑いを含んだ声で言った。
〝着物なんていらない。何枚も持ってたって宝の持ち腐れだわ。お金持ちの道楽にはつきあってられない!あなたのお母さんは優しい人だけれど、もっと他にすることはないの!?〟
 殴り書きをざっと目で読んだ竜軌の笑みに苦さが混じる。
「まあ、そう言うな。着物ははまれば面白い。良い暇潰しにもなる。真白に着付けを習うと良い。お前は割と、気に入ると思うがな。着たところを俺にも見せろ。上等な着物を着たお前を見たい」
〝竜軌はずるい〟
「何がだ?」
 言いながら彼はにやにやと笑う。
 竜軌は自分の言葉が美羽に及ぼす影響を理解している。

あなたの目

 竜軌の撮る写真は、甘さがなくて優しい。
 烏がごみを漁る。それを油断ない目で見る痩せこけて汚れた猫。
 そんな、およそ〝美しい〟と呼べない光景さえ、彼の写真を見ると納得させられる。
 ただそこにある命の刹那。
 突き放すようで包み込むようで。
 竜軌が写した写真をたくさん、自分の周囲に並べてそれらの真ん中に座ると、竜軌の視点に包まれているようで安心する。気持ちが和み、喜びが湧く。
「美羽。良いか」
 竜軌の声に、鉦を鳴らして応じる。
「…またお前は、子供みたいなことを」
 呆れたように言われるが、美羽は笑う。
〝竜軌の写真、好きだもの〟
「ふうん。俺とどっちが?」
 美羽は誤魔化すようにそっぽを向く。
「自分の写真に妬くというのも、莫迦げているな」
 ぱらぱら、と竜軌が、美羽の周りに円を描く写真を数枚、取って落とす。
〝竜軌、人は撮らないの?〟
「余り興味がなくてな。お前なら撮っても良い。面白いかもしれん」
 ぶんぶん、と首を激しく横に振る美羽の後ろに竜軌が回る。
 言葉も無く背後から抱き締められて、息が止まるかと思う。

シーソー

 硬直してしまった美羽に、これでは当分手が出せない、と竜軌は思う。
 抱きすくめて、後ろから首に顔を埋めると戸惑うように身じろぎするが、構わずにそのまま黒髪を匂う。
 美羽が停止の声を上げる術も持たないのを良いことにつけ込む。
「美羽」
 耳元で低く呼ぶ。
 美羽はどんどん縮こまって行く。
 これでは苛めているようだと思い、渋々、腕を放す。
 すると美羽は勢いよく振り向く。
 懸命な視線で竜軌の首に飛びついて来る。
 おい、態度を統一しろ、と竜軌は頭の中で突っ込む。
「……お前は解らん」
 それでも、腕に飛び込んだ蝶を離すことはない。
「着物が出来たと言っていた。明日、一緒に行くか」
 美羽は抱きついたまま、コクンと頷いた。

貴婦人

 白の御召縮緬には、黒の濃淡で白鷺と水草が描かれていた。
 こぎん刺しの帯に赤紫の帯締め、銀細工に翡翠の小さな粒が三つほど乗った帯留めが光る。こぎん刺しにも赤紫が入っている。
 文子の身の回りの世話をする家政婦が、美羽の着付けをしてくれた。
 仕上がりを見た文子は、ほうと溜め息を吐き、満面の笑みだった。
「嬉しいこと。よくお似合いだわ、美羽さん。少し大人っぽ過ぎたかしらと心配もしたのだけれど、素敵に着こなしてるわ。とっても綺麗。でも簪を忘れていたわね。せっかく艶のある長い黒髪なのに。帯留めに合わせて翡翠のものを見繕っておきましょう。ねえ、竜軌さん。あなたからも褒めて差し上げて?殿方の称賛は女性をより輝かせるものよ」
 美羽は心許無い顔つきで竜軌を見た。
「そうですね。色合いも雰囲気も、美羽によく映えている。さすがのお見立てですね、母さん」
 その言葉が本心からなら良いけれど、と美羽は思う。竜軌は、母親の前では借りて来た猫を演じることに決めているらしい。
「そうでしょう?そうでしょうとも」
 文子は得意げだ。そこでパンと両手を合わせる。
「そうだわ。来週、園遊会があるでしょう。美羽さんにも出ていただくのはどうかしら?」
 良いことを思いついた、という声で提案した文子に対して、竜軌の顔はやや硬くなった。
「――――――それはどうかと。声の出ない彼女には負担でしょう」
「事情をお話して、あなたがきちんとエスコートして差し上げればよろしいのよ。美羽さんは素敵なお嬢さんだわ。紹介してあげれば皆さん、きっと見惚れるに違いないんですから」
「それでは俺が美羽を独占出来ません」
 茶化すような台詞で、竜軌が風向きを変えようと試みる。
「いけませんよ、竜軌さん。あなたの選んだ方だと認めていただく為にも、そのような我が儘を言っては」
「父さんは納得しないでしょう」
「そちらはもちろん、わたくしがあの人を説得します」
 文子の意思は硬いようだ。表情には出ないが、美羽には、内心、眉をしかめているであろう竜軌の顔が目に見えるようだった。

竜は蝶を追う 箱庭

竜は蝶を追う 箱庭

竜軌の母、新庄文子に美羽は招かれた。

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更新日
登録日
2015-04-29

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