竜は蝶を追う 二歩、三歩
竜は蝶を追う 二歩、三歩
二歩、三歩
朝、美羽はいつものように、自室で目が覚めた。
昨夜、怖い夢を見た。
久しぶりに、昔の、事件の夢を。
真白に甘えたけれど、気がつくと竜軌の部屋にいた。
夢現に、彼の優しい声を聴いた気がする。思い出せば泣けてくるような、自分の幸を祈る言葉。花びらのように、無償の優しさが降って来た。
「美羽様。今日も靴屋に行かれますか?」
細くて濃い、紺のフレームの眼鏡をかけた蘭が、朝食の食器を引きながら訊いて来る。
美羽はふるり、と首を横に振った。
〝竜軌は、どこ?〟
その文字を濃紺の奥の目が追い、驚きの感情を宿した。
「撮影に?」
〝ついて行ってはいけない?邪魔はしないから〟
竜軌は、別段、意外そうな顔をしなかった。彼は大抵の物事には動じない。
「弁当を二人分、用意出来るか」
〝できる〟
「水筒。それから日傘か帽子を用意しろ」
熱中症を警戒しているのだ。
〝わかったわ〟
竜軌は口角を釣り上げると、美羽の頭に手を置いた。
四歩
〝この間は何を撮ってたの?〟
「百合の木だ。北米東部原産の落葉高木。あの公園の木は花が遅咲きで、今頃咲く」
〝どんな花?〟
竜軌の表情が柔らかくなる。
「黄色と黄緑の中間くらいの、チューリップみたいな花だ」
バスの中で、竜軌は色々と説明してくれた。
どうしていつも運転手付きの家の車に乗らないのかは尋ねなかった。
竜軌は撮影現場まで、自分の足で向かいたいのだろう。バスに揺られて。
「弁当の中身は何だ?」
〝筑前煮と卵焼きとお握り。…だけ〟
「品数はそれで良いが、俺は量を喰うぞ」
〝お握り、たくさんあるわ〟
竜軌が満足そうに笑んだ。
美羽は澄ましていたが、嬉しかった。真白に借りた麦藁帽を、深く被り直した。
森林公園前のバス停に着くと、竜軌が思い出したように、美羽に虫除けスプレーをかけた。かなり念入りだった。藪蚊が多いのだそうだ。
「前に何箇所か刺されたが、まだ赤い」
公園を歩きながら、竜軌が右腕を見せる。
固く引き締まった腕には、確かに赤い斑点が幾つかあった。
美羽は自分の腕と見比べる。太さが全然違う。
「痕が残る場合もあるからな。お前は気をつけろ」
竜軌の忠告に深く頷いた。
先日来た時は気付かなかったが、百合の木は背が高く、大きな葉を持つ樹だった。
そして竜軌が話したように、確かに点々と黄色っぽい花が開いている。
大きい花だわ、と思う。
美羽にカメラバッグを預けると、竜軌は早速、カメラを構えて撮影を始めた。
蝉の声は降るように聞こえるが、木立に囲まれているからか、空気は街中より涼しい。
美羽は竜軌の姿を見ていた。
四歩と半で待っていた
竜軌の撮影の区切りが良い時を待ち、二人でお弁当を食べた。
機嫌が良いな、と美羽は思う。
今日の竜軌はよく喋り、たまに笑う。
釣られたように美羽も笑う。笑い声は、出せないけれど。
こんな女の相手は退屈ではないだろうか、と不安にもなる。
竜軌は自分よりずっと大人の男性で、世知に長けて見える。
高校までの勉強しか修めていない美羽と違い、世の多くを知っているだろう。
かと思えば、竜軌は大学には行かなかったと言う。
理由は訊いても教えてくれなかった。探し物があったから、とだけ答えた。
それは何だろうと考え込もうとすると、右頬を引っ張られた。
詮索するなと言うことらしい。
人には言い辛い事情もある。
美羽は素直に頷いた。
「美羽。怖いことがあれば俺のところに来い」
唐突な台詞に瞬きする。
竜軌がそんな言葉をかける相手が、自分で良いのだろうか。
〝真白さんは?〟
「あれは俺が守る必要のない女だ。俺より強い上に誰やら彼やらがいる」
〝どうしてあなたは私を守るの〟
「それくらい自分で考えろ」
ざ、ざあ、と風が吹く。
緑が揺れる。
百合の木の、大きな葉と花が揺れる。
〝竜軌は私が好きなの?〟
葉陰が二人の頭上で躍る。
「ああ。好きだ」
胡蝶の夢
覚束なかった足元が急にしっかりとして、また揺らいだ。そんな気分だった。
どうして、と訊きかけてやめる。
こういうことに理由を求めるのは、何か違う。
だからいつから?と尋ねた。
「ずっと昔からだ。だがお前はそれを知らなくて良い」
こんな人が自分を選んで、自分に優しくしようとする。
見るからに難しそうで、しかし魅力的なこの男性を、自分の何が捕らえたのだろう。
竜軌の頬に手を伸ばす。触れても嫌がられない。
野生の虎が馴れたらこんな感覚だろうか。
竜軌は目を閉じて、美羽の手に委ねている。
こうして見ると、睫が長い。
目を閉じた穏やかな顔は普段とは異なる空気を湛え、聖人像のようだ。
静謐な空気。
肩に軽くつく程度に伸びた真っ黒な髪が風に揺れる。
半身を伸ばせば、唇に唇が届く距離。
この先の行動に戸惑う美羽を、竜軌の影がゆっくり覆う。
降りて来る唇に、今度は美羽が目を閉じた。
ついばむようにそれが触れた。
帰りのバスでも、竜軌は美羽の問いに何でも答えてくれた。
竜軌は優しかった。
怖い夢を見たら頼っても良いの、と訊く美羽に竜軌は頷いた。
良いよ、と。
良いよ、おいで、と言ってくれた。
夢の胡蝶か
竜軌は竜軌で、美羽の話を知りたがった。
胡蝶の間に足を運んで、子供のように美羽の物語をねだった。
その中でも、傷口には触れまいとする気遣いは感じられた。
美羽が宝物の入った銀色の缶を開けて見せると、興味深そうにそれを覗き込む。
こんな物を、と嘲笑ったりはせず、真面目な顔で見入る。
そして首をひねり、女子供の好む物はよく解らんと言う。
竜軌は子供のころ、よく蓑虫の蓑を引っ剥がしていたと語った。
彼らしい話のような気もしたが、蓑虫には気の毒だと美羽は思った。
衣服と家を兼ねた蓑を奪われ、寒かっただろう。
その思いが美羽の顔に出ていたのか、今はもうしていない、と竜軌はつけ加えた。
それから、施設で親しかった星君の話をすると、急に不機嫌になった。
膝枕をしろと言い張るので、なぜそうなるんだろうと思いながらもしてあげると、機嫌は直った。やはり美羽は、虎の頭を膝に乗せている心境だった。
時々、じゃれるように髪の毛を軽く引っ張られた。
将来の目途は?と訊くので、解らないけど、と言葉を濁す。
もう一度、追及された時は観念して、竜軌と離れたくないと正直に言った。
竜軌は星のようで虎のようでブラックダイヤのようだった。
輝きに魅了されれば、もう逃げられない。
では離れなければ良い、とあっさり言われた。
「お前がそう言うのなら、俺はお前を離さない」
起き上がった竜軌に抱き締められる。
こんな大事な時に声が出ない。
美羽はそのことが悲しかった。
思わず涙をこぼすと、ますます強く抱き締められた。
(竜軌。離さないで。離さないで)
約束したように名前を呼んで、私も好きだと告げたいのに。
世界の軸
チリン、と澄んだ音が鳴り、竜軌は美羽の訪れを知る。
「美羽。入れ」
襖を開けた美羽の手には、いつものメモ帳とペン、それから小さな金の鉦があった。
人の部屋に入る時、また、自室で入室を促したい時、その鉦を鳴らすようにと言って竜軌が手渡した。
白い麻のパジャマを着た美羽は、銀の縫い取りのある大判のショールを身体に巻いている。胡蝶の間に置いた桐箪笥の中の衣服は、全て自由に使うよう言ってあった。
彼女の顔を見れば、まただ、と判る。
竜軌が腕を広げると、飛び込んで来た。
押し殺すような嗚咽が微かに聴こえる。
こんな音しか、彼女はまだ出せない。
〝お父さんはどうして、〟
続きを書こうとする美羽の手を、竜軌は上から押さえた。
「心を病んだ人間は、身近な者を壊そうとする衝動に走る時がある。大抵は、弱者を」
そんなのひどい、と美羽の唇が動いた。喉から、ひゅううと風のような音が鳴った。
「ああ」
美羽は憎しみの矛先に迷い、惑っていた。
(お父さんもお母さんも、優しい人たちだった)
愛し合って結婚したのだと、照れたように笑いながら、幼い美羽に語ったこともある。
愛し合って。
けれどその結末は。
(お父さんは、苦しんで苦しんで、壊れて、壊した)
人間の弱さは、かくも恐ろしいものか。
弱さを生む根源は世の醜悪さだろうか。
踏みとどまれる人間と、そうでない人間の違いは何だろう。
美羽が竜軌にしがみつくと、力強い腕が背中に回る。
美羽の知る中で、竜軌ほど強い人間はいない。
昂然と顔を上げる竜軌の強さは、美羽を安心させる。
彼が壊れる時が来るならば、それはきっと美羽の世界も崩壊する時だ。
定義を
〝竜軌の手は大きくてゴツゴツしてる〟
その文字を読んだ竜軌は、そうだなと言った。
それから、目の前に座る美羽の頭にこつんと自分の頭をぶつけた。
美羽の鼓動が早まる。
身を引こうとすると後頭部を柔らかく押さえられた。
顔が近い、と思う。
通った鼻筋が目の前にある。
竜軌はそれだけで満足した顔で微笑んでいる。
大きくて、力のある大人の男の人が、こんな些細なことで寛いだ顔を見せる。
美羽を優しい目で見て、優しい声で語りかける。
〝私、あなたに何かしてあげられる?〟
竜軌は口元を緩めた。
「渇きを癒した。美羽。お前が潤してくれた」
〝何もしてないわ〟
「俺の前で生きている」
〝それくらいのこと〟
黒い双眸は美羽を真剣に見つめた。
「奇跡とは、往々にしてそういうものだ」
ただ目の前で、生きているだけ。
竜は蝶を追う 二歩、三歩