パンが食べたい

パンが食べたい

パンが食べたい

 空腹は、知らずのうちにやってきたりして、それでもって私を苦しめたりして。

 まあ、そんな事はどうでもいいか。とにかく私は今とてもパンが食べたいんだ。だけれど、うちの近くにはパン屋なんてない。それどころか、この家の近くにはお店がないんだ。というか、人が住んでる家だって一番近いところまで歩いて十分もかかるから、結局うちの近くにはなんにもないという事になるのかもしれない。

 家の近くにあるものは木、そして木、また木。木ばっかりなのではなくて、木しかないのだ。

「おかあさん、パンが食べたい~」

私はとりあえず母にすがる。

「パン?ないわよ、そんなの」

「う~ん」

こうなる事は分かっていた。母にすがる前に私はこの家中パンを探してみたのだ。だけれど、やっぱりそれはなかったのだけれど、もしかしたら母がどこかに隠しているパンがあるのかもしれないという小さな希望を持ってみたのだ。

 結局、なかった。それにもし隠していたとしても、それを私に分け与えてくれる程、優しい人じゃないだろう。

 パンがうちにないという事が分かっても、私はパンを諦められずにいて、できるだけパンの事を考えないようにすればする程、私の頭の中にはパンが充満していく。だからもっと考えるのをやめようとしてみたら、それと比例するように私のパンへの欲求は高まっていく。

「んん~……」

私はそれが少しでも紛れるように声を出してみるけれど、もちろんそんなものが私の欲求を満たしてくれる訳ない。一応試してみたけれど、それが本当に意味のない事だと分かると、それはそれでまた辛いのだ。

「それくらい我慢しなさいよ、まったくさっきから気になってしょうがない」

私はパンを我慢するために、今度はただ意味もなく家の中を歩き回っていた。もちろんこれだってほとんど意味を成さないだろうって事は分かっていたけれど、それだって歩いてしまうんだからしょうがないんだ。そりゃ母からしたら、ただ無言であたりをうろつかれたら気になるだろうな、とは思ったものの、やっぱり私はそれを止められずにいるから、もうどうしようもないんだ。

 私は足を止めた。

「あら、止まった」

そんな私を見て母は言った。

「止まったよ」

私は母に言い返す。「でも、やっぱりパンが食べたい」と付け足した。

「明日になったら買ってきてあげるわよ。もう遅いんだから今日は寝なさいよ」

「う~ん......」

パンが食べたいという欲求と同じくらい、ここで食べることを諦めて寝るって行為もなんだか腑に落ちなかった。自分が負けたみたいな感覚......そんな下らないプライドじゃない。私の頭がパンを欲しているのに、体がそれを裏切ってしまう、なんていうか自分を自分から切り離してしまうような気持ち悪い感覚に陥ったのだ。

「なんだか、気持ち悪いのよ」

私がそう言うと、「気のせいよ」と母に冷たくあしらわれた。



 しょうがなく私は布団の中に入る。これは本当にしょうがない事だ。だって近くにはパン屋、いや、お店がなーんにもないんだ。どうしろって言うんだ。

 渋々潜った布団は、冬の空気を含んで十分に冷たくなっていて、私は太ももの間に手を入れて摩擦を起こしてなんとか暖を取っていた。

  それでもやっぱりパンが食べたい。

  どうしようもないこの気持ちをどこに向ければいいのだろう。太ももの間は暖かいけど、体は全然暖かくならない。パンを食べたいという気持ちは一向に収まる気配がない。

  時計は十二時をまわった。外は当たり前のように暗くて、周りにお店なんてないせいで、私の家はそんな真っ暗闇の中に寂しく存在している。

「あー!」
大声を出してみた。ほんの少しだけ気持ちが安らいだ気がしたけど、パンを食べたい欲求は残ったまま。

  だから思いっきり目を瞑ってみて、もう体が勝手に眠りの中に入っていってくれないかって願ってみるけど、そういう時に限ってどうもうまくいかない。

  きっと私は、今何よりもパンを食べるという使命を全うしたいのだと思う。もし私がパンを食べる事で、この世界が終わるとしても、私はパンを食べるかもしれない。それくらいに大事な事のように思えた。

  今まで経験してきた大事な事も、今のこの気持ちに比べれば大した事なんかじゃなかったと思える。そう、それくらいなのだ。この絶対潤う事のないような渇きは、それ程に私を苦しめるし、私を捕まえて離そうとしない。

「まだ起きてるの?」

母の声がドア越しに聞こえる。そう言われて時計を見ると、いつの間にか一時をまわっていた。

「パン食べたい」

ドアの向こうに聞こえるくらいの声で言う。

「まだ言ってるの」

「だって食べたいんだもん」

ドア越しの会話。すぐに切れてしまいそうに儚かった。

「とにかく今日は食べられないわよ」

「うん、わかってる」

「じゃあ、もう寝なさい」

「うん、寝るって」

「じゃあ、おやすみ」

「おやすみ」



  それからの事はあまり覚えていない。というか、母との会話だって曖昧で、もしかしたら夢だったのかもしれないとさえ思うくらい。

 それに目が覚めて、朝の光を浴びた時には、私がパンをすごく食べたかったという気持ちだってどこかにいってしまっていた。

「ねえ、昨日私パンが食べたいって言ってたよね?」

私は起きて早々に母に聞いた。

「ずっと言ってたわよ。すごくしつこかったんだから」

「……そうだよね」

昨日抱えていたあの気持ちは間違いなく本当だったのだろうけど、今となってはその記憶だってずっと曖昧。

「なんだったんだろ……」

白い息と一緒に私の言葉が洩れる。

「今日ね、パン作ろうかと思って」

母は私にそんな事を言う。

「パン?」

「そう、ずっと使ってないホームベーカリーがあるから」

「なんでパンなの?」

「あんたが昨日あんなに言ってたから、なんかお母さんまで食べたくなってきたのよ」

それが昨日だったらよかったのにと思ったけれど、私が昨日そう思っていなかったら、今日パンを作る事もなかったのだろう。

「今日の夜はパンを食べれるわよ。よかったわね」

「うん……」

もうずっと曖昧な気持ちのまま、私は今日パンを食べるんだ。パンに失礼かな、なんてどうでもいい事を考えながら、今日の夜を想像してみる。


 ほら、また少しパンが食べたくなってきたような気がする。



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パンが食べたい

パンが食べたい

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-18

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