竜は蝶を追う その声で

竜は蝶を追う その声で

竜は蝶を追う

その声で

 ぼんやり竜軌を見ていると、突然、彼が美羽を振り向いた。
「どうしてここにいる。―――――――転んだのか。蘭はどうした」
 そこまで言って、両手が塞がった美羽が、意思を伝える手段を持たないことに気付く。
 この雨と湿気では、紙は布のようにふやけ、例え文字を書けてもインクが滲むだろう。
 竜軌はタオルで一眼レフを拭くと、斜め掛けしていたカーキ色のカメラバッグに手早く片付け、そこここに生じ始めた水溜りを踏み鳴らしながら美羽に駆け寄った。
 美羽は閉じていた傘と籠バッグを、竜軌に突き出すように渡した。
 竜軌は傘を差し、怪訝な顔で籠バッグの中を見た。
「………昼飯か?」
 美羽は頷いた。
「お前が作ったのか」
 また頷く。
 キッチンを借り、駆出しの料理研究家でもある荒太のアドバイスを貰いながら、お弁当を作ったのだ。意外なことに真白は、料理だけは苦手なのだと小さな声で美羽に告白した。
 世話になっている家の人間へのささやかな礼。
 おかしなことではない筈だ。
 おかしなことではない筈だ。
 美羽は自分に言い聞かせながら、ここまで足を運んだ。しかしこの天気では弁当どころではないだろう。服も濡れて汚れた。美羽はみじめな気分になり、胸中で責任を竜軌に転嫁しようとした。
 身構えるように立つ美羽を見る、黒い瞳が和んだ。
 湯に落ちた氷が溶けるように。
 同じ黒でも表情があることに気付く。
 先程、カメラを拭いたタオルが美羽の頭や肩などに押し付けられる。
 タオルを仕舞うと竜軌は手を伸ばし、美羽の額に濡れて張り付いていた髪を彼女の耳にかけた。
 美羽はされるままにしていた。大きな手は優しくて、振り払う気にはなれなかった。
 正直に言うなら、振り払うのはとても勿体無い気がした。
「―――――美羽」
 目を合わせて名を呼ばれるのも初めてだった。
「声が出るようになったら、最初に俺の名を呼べ」
 これは束縛だろうか。
 誓言を強いる言葉はあくまで命令口調で。
 けれどその実、青年は厳かな表情で美羽に乞うていた。
 バラバラバラバラと傘を叩く雨音が響く。
 まろやかな雨の膜の中に、青年と少女は佇んでいた。

半分

 竜軌は自分の斜め横を歩く少女をちらりと見遣る。
 白と黒の切り替えの入った透け感のあるブラウスに、タイトなデニムスカートを穿いた足は長い。
 すらりとした長身に涼しげなシアンの、ヒールの高いサンダルを履いているので、十八には思えないくらい大人びて見える。暑そうに掻き上げた髪の下から見えるうなじに、通行人の男が目敏く視線を走らせる。それに対して苛立つような表情になるあたり、自覚が乏しい訳でもないらしい。結構なことだ。
 いつもの靴屋からの帰り道。下町の商店街からは色々な食べ物の匂いが流れて来る。こうした匂い、雑多な気配が、竜軌は嫌いではない。生へと向かう活力を感じるのは快い。
 たい焼きを手に、談笑しながら女子中学生たちが通り過ぎる。夕ご飯に響くから半分こしようよー、と喋るセーラー服の彼女たちを見る美羽の目に、羨望の色がよぎる。
 誰に遠慮せず買い食いする自由。
 当然のように帰りを待つ、自分だけの家。
 美羽の手には持たされなかったものだ。
 蝉の声が響く。
「おい、美羽」
 少女が顔を上げる。名を呼ばれることにも馴染んだ。
「何か喰うか」
 美羽の顔が輝くのを見て、現金な女だと思う。
「何が良い?」
〝チーズコロッケ。揚げたての〟
 ミーンミーンと蝉の鳴き声がうるさい中、竜軌は沈黙した。

嘘吐き

 商店街の小さな惣菜屋で、チーズコロッケが揚がるまで二十分かかると言われた。
 それを聞き、店を出ようとした竜軌のシャツの裾を掴んで美羽が引き止め、二人は店内に置かれた長椅子の、こぢんまりした紺色の座布団の上に座った。三枚置かれた座布団の、真ん中を開けて両端に座る男女を、店の人間が不思議そうに見ていた。それでもコンパクトな長椅子に対して竜軌の身体が大きいので、いつもより二人の距離は近い。
「狭っ苦しい。しかもこのくそ暑い日に。そんなにチーズコロッケが好きなのか」
 二十分待てるほど。
 美羽が強く頷く。髪がふわりと波打つ。
 竜軌はもう何も言わなかった。
 揚がったチーズコロッケをはふはふと美羽が食べる横で、竜軌はそれにガブリと喰らいつく。一口で楕円形の二分の一が消えた。歯型の残る、半分残ったコロッケを、美羽に押し遣る。
 両手が塞がり筆談出来ない美羽は、顔に疑問符を浮かべた。
「晩飯に響く。残りはお前が喰え」
 美羽は目を大きくしたあと、コロッケを見て、竜軌の顔を見た。
(ハンバーガー十個くらい食べても平気な癖に)

実直と検索

〝あなたの顔、問題だと思うわ〟
 朝食を胡蝶の間に運んだ佐野雪人(さのゆきひと)、こと前生名・森蘭丸成利(もりらんまるなりとし)は美羽の書いた文字を読んで、はあ、と何とも言えない相槌を打った。蘇芳色のテーブルに食事の載った盆を置く。
「問題と申されますと?」
〝無駄に美形で悪目立ちし過ぎ〟
 蘭は困ったように眉をひそめる。顔に難癖をつけられた真面目な青年は、対応に頭を悩ませた。無駄に美形、と言われるのは初めてだ。しかしそう言えば竜軌にも、お前の顔は何とかならんのか、とこぼされたことはあった。
 何ともならない、と謝るしかない。
「あいすみません。なにぶん、親よりの遺伝ですので」
〝せめて私に付き添ってくれる時は、眼鏡くらいかけて〟
「視力は左右共に2・0なのですが」
〝伊達眼鏡よ。苦肉の策だけど〟
 蘭は畏まりましたと答えながら、御方様はやはり難しいと思った。

 弟二人と共に邸内に部屋を貰っている蘭は、パソコン画面に見入っていた。
「兄上。目を悪くしたのか?」
「坊丸(ぼうまる)。違う。御方様が目立つことを厭われてな。眼鏡をかけるよう申し付けられた」
 クク、と残る少年が笑う。
「兄上は、お顔が派手でおられるゆえ。したが中身は仕事人間。女泣かせよな」
「――――――力丸(りきまる)。お前はその弟だと忘れるな」
「いっそ髭でも生やしたらと言いたいが、兄上に似合わんことは目にみえているな」
「御方様も顔をしかめられよう」
 弟たちが笑い合う。
 自分同様、本能寺で討ち死にした二人の軽口を聞き流しながら、蘭はマウスをクリックして妥当と思われる商品を検索し続けた。

手の中

 真白と荒太は美羽の部屋に近い、続き部屋を使っていた。
 夫婦なのだから一間で良いだろうと言った荒太に、それでは色々と不便があるから、と真白が希望を通した。そこは譲歩した荒太も、夜は妻の部屋に押しかけた。
 一組しかない布団に寝そべる夫を、真白は困った顔で見下ろした。
 名前を呼べば、手首を掴んで引き寄せられる。
「………他所のお宅でこういうのは、」
「日本旅館だよ、ここはむしろ」
 荒太が真白の首筋に唇をつけようとした時、襖を叩く音がした。真白が荒太をグイと押し退ける。声をかけずに襖を叩く必要のある人物は、今この邸には一人しかいない。
「――――――美羽さん」
 襖を開けると、廊下にパジャマ姿の美羽が立っていた。
 早く家に帰りたい、と荒太は思った。
 そして浴衣姿の竜軌はさすがに困惑した。
 怖い夢を見て一人が辛いそうなのでよろしくお願いしますね先輩、と言って真白が美羽を連れて来たのだ。
(真白、あいつ。たまに天然と非常識の合わせ技を繰り出しやがる)
 それなりに危機感はあるらしく、美羽は竜軌から距離を取った部屋の隅に立っている。
 警戒を表わすように、両の拳は前に構えられている。竜軌は掛布団を放ってやった。
「それでも被ってろ。で?夢が何だと?」
〝昔、の〟
 竜軌はちらりとそれを読む。
〝お父さんが〟
「―――――――もう良い。書くな」
 傷が美羽を縛る。
 傷が帰蝶を縛ったように。
「それで、お前は俺にどうして欲しい」
〝真白さんは?〟
「…いない。良いか。お前の正面には俺しかいない」
〝あなたは私のこと必要じゃないわ〟
 莫迦を言うなと怒鳴りつける寸前で、竜軌は口を閉じた。
 掛布団の小山から差し出されたそのメモ帳を睨むこと数秒、その小山に近付き、ひょいと抱え上げると胡坐をかいた膝に置いた。ジタバタと暴れた布の塊は、膝に置かれると大人しくなった。
「俺の意思を勝手に決めつけたお前の意見は聴かん。ほとぼりが冷めるまでそこでじっとしてろ。それが最善だと俺が決めた」
 竜軌は布団ごと、美羽をくるんだ。
 多分、彼女はかなり暑いだろう。蒸して息苦しいかもしれない。
 構うものかと布を抱く。
(天邪鬼同士だ。俺たちは。互いに言葉が足りておらん。言葉を超えねば触れ合いもない)

 冷房で部屋は冷え切っている筈なのに、竜軌は暑かった。
 膝に抱え込んだ人間入りの布の塊のせいだ。人の体温は熱い。だが竜軌は、これは美羽ではなく女でもなく人でもない、ただの嵩張る座布団だ、と自分に言い聞かせた。そしてその嵩張る座布団を、後生大事に抱え続けた。
 数分耐えていると、塊から強張りが取れた。クニャリともたれて来る。意識を失った人間は重量が増す。
 布団を剥いでみると、そこにはあどけない寝顔があった。
(やってられるか)
 彼女を抱え上げ、真白の部屋に突き返しに行くと、真白が眠そうに目をこすりながらのたまう。
「新庄先輩、意気地なしですね」
「後先を考えると訂正しろ」
「欲求に負けるのを恐れて、過去の悪夢に苦しむ彼女をあなたが突き放してはいけないんです。解らないんですか。あなたは、そんなに物の解らない男ですか」
 それは静かな一喝だった。
「―――――――そんな風に、お前を守り育てた門倉剣護に俺は負けているのか」
 真白は微笑んだ。
「私の兄様ですよ?勝てるのは荒太君くらいです」

(さて。そのあたりはどうにも微妙な案配だが)
 竜軌は自分の布団に寝かせた美羽の手を握っていた。汗でべたつくかと思ったが、そうでもない。掌はさらりとして意外に気持ち好い。
 手を握ってやると、彼女の寝顔は安らいだ。
 いつもそうであれば良いのにと思う。
「なあ」
 長い睫や綺麗な唇を見ながら呼びかける。
「お前、泣くなよ。悪い夢は、全部忘れろ。俺を思い出さなくても良い。美羽。お前にとって力になる記憶だけ、抱いて生きろ。笑って、舞え。俺はそれが見たい」
 玻璃細工の蝶が壊れずに空を舞う姿を見届けたら、竜軌もまた飛び立つつもりだ。
 その時、蝶が何を選ぶかは解らない。

竜は蝶を追う その声で

竜は蝶を追う その声で

雨の中、カメラを構えていた竜軌は美羽に気付いた。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-04-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted