ミルクを垂らしたような足跡を

 一杯のコーヒーを完全に真っ白にするために、どれだけのミルクが必要なのだろうか。僕は手元のカップに入ったホットミルクを見つめてふと思った。窓から見えるのは、すっかりブラックコーヒーに浸されてしまったような夜空だ。
 いやそもそも、いくらでもミルクを持っているなんていう前提からして間違っているし、そこにあるコーヒーが一杯だけとも限らない。どれだけの時間をかけたら、あの吸い込まれるような黒を僕の色にすることが出来るのだろうか。
 僕はミルクに口をつけ――、飲むのをやめた。すっかりぬるくなってしまっていて、こんなものを飲む気にはなれない。もう一度温めることにしよう。今夜はよく冷える。

 初めて出会った時からそうだった。彼女の髪は艶のある黒塗りの陶器のようだったし、瞳は星の輝きを秘めた夜空のようだった。けれども、今とあの時とではまるで違うのだ。彼女の髪も瞳もあの時のままの色だけれども、それでも決定的に違う。ある時僕はその事実に気がついてしまったのだ。
 去年、高3の夏、彼女とカフェに行った時のことだ。彼女は店員にブラックコーヒー1つと頼んだ。驚いた僕は注文するのも忘れて彼女に言った。
「ブラックコーヒーなんて飲むのか」
「最近よく飲むの。あなたは今日もミルク?」
 数ヶ月ぶりに会う彼女からは、少しばかり煙草の匂いがした。
「まさか、私は吸わないわよ」
 彼女はそれ以上何も言わなかった。あるアーティストが歌っていた。あの娘の吸う煙草の残り香とにがいコーヒーとの相性がいいのだと。
 運ばれてきたミルクは白すぎるほどに白くて、コーヒーは黒すぎるほどに黒かった。彼女は飲み慣れているかのようにコーヒーを飲んでいた。僕はちびちびとミルクを飲んだ。
「身長、もう伸びないんじゃない?」
 そんなことは、まだ分からないではないか。僕は反論した。希望を持っていたいのだと。
 どうして僕が嫌いなミルクを飲んでまで身長を伸ばしたいのか、君は考えもしないんだろう。そこまで言う勇気は持てなかったけれども。

 ぽっと出の男に、彼女を取られてはたまらない。そんな風に思っていた。彼女と会える機会は段々と減っていったが、僕は断られると分かっていても彼女を頻繁に誘っていた。これで気付いてくれないかと、そして彼女が、本当はあなたのことを、だなんて言ってくれることを期待していたのだ。だから僕はミルクを飲み続けた。けれども、身長は止まったままだ。
 ある日、買い物を自分への言い訳にして彼女が通っていたという小学校の前を通った。彼女が過ごしてきた環境を知りたかったのだ。けれども、それは知らなくていいことだった。
 少年と少女が二人、楽しげに会話しながら下校していく景色を見て、当然のように彼女にもああいう過去があったのだろうという推測が、真っ白な紙に垂れてその色を拡げていく墨汁のような無遠慮さで、僕の心に染み込んできたのだ。
 幼稚園児の頃から彼女のことを知っていた。それが僕の強みだとすら思っていた。他の男が知らないことを僕は知っていると。だけどそれが何になるというのだろう。他の人間は他の人間で、それぞれ僕の知らないことを知っている。
 通ってきた学校も、習い事も、暮らしている家も違うのだ。僕の知らないところで僕の知らない人と彼女は語らっている。どう手を尽くそうと彼女の全てを知ることは出来ない。

 僕も晴れて大学生になって、今日は身体測定の日だった。結果を見たら、身長がちょうど0.7センチ伸びていた。これで彼女と身長が並んだのだ。
 身長が違えば見える景色が違う。隣に並んでいても見える景色が違うということが、僕にはちょっとした悲劇のように思えていた。
 彼女に身長を追い越されてからずっと、この数字を出すために苦手な牛乳を飲んできた。だがこれで牛乳を飲む理由はなくなったわけだ。僕は温めなおしたホットミルクを見つめた。
 長い葛藤があった。色々なことを思い出した。そしてついに、僕はミルクを口に運んだ。
 確かに、いくらミルクを足しても、コーヒーをミルクにすることは出来ない。だけど、ミルクが一滴でも入ればそれはブラックコーヒーではなくなるのだ。
 カップが空になった時には、体があたたまって、心地の良い眠気が僕の背中にもたれかかってきた。
 今日はもう寝ることにしよう。寝る子は育つというのだから。
 歯を磨き、電気を消して布団に潜り込んだ。なんでか、今日はよく眠れそうな気がする。
 雲が割れて、真っ暗だった夜空に月が光を落としていく。月は太陽光でを反射して光っているという。太陽は隠れていても光り続け、裏側に広がる夜空をも照らすのだ。
 そう。光り続けていれば、いつかは君に。

ミルクを垂らしたような足跡を

初掲載です。牛乳嫌いです('ω')✌

ミルクを垂らしたような足跡を

一杯のコーヒーを完全に真っ白にするために、どれだけのミルクが必要なのだろうか。君を僕の色にしてしまいたい。 ちょっとした掌編です。

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更新日
登録日
2015-04-12

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