竜は蝶を追う 言霊
竜は蝶を追う 言霊
言霊
意地が悪かっただろうか。
思惑はともかく、せっかくくれた香り袋を突き返すような真似をした。
そのことには怒られなかったけれど。
〝男の部屋にのこのこと入るな!〟
養護施設では、余りプライバシーが保たれなかった。
年少も年長も男女も、比較的、近しく育つ。それも善し悪しではあった。
確かに仲の良かった男友達に、自分は男女の垣根に無頓着だと言われたことがある。
苦笑混じりに注意された。
竜軌が咎めたのも、自分の行為を非常識と呆れてのことだろう。
それより。
(どうして呼んだの)
蘭を見つけて案内してもらった部屋の襖を開ける直前。
〝美羽〟
そう聴こえた。
(どうして?)
財力にも体格にも恵まれている。頭の回転も速そうだ。今はぶらぶらと遊んでいるように見えるが、多分、世間に出れば切れる男と称賛されるタイプ。
あの容姿ならば女性にも不自由しないろう。
成瀬荒太とはまた異なるが、野性味がありながら整った顔立ちだ。
身に沁みついているのだろう育ちの良さが、一見、ぞんざいな挙措からも窺える。
本人がどう思っていようとあれは、王侯の類だ。美羽には空の星のようなものだ。
―――――――その星が自分の名を呼んだ。密やかに。呟きを落とした。
〝男性が女性にそんな贈り物をする理由は一つだわ〟
けれど、それがなぜ自分なのだろう。
ろくに会話を重ねてもいない。ひっぱたいたし、意味の解らない贈り物はつっぱねた。
あの星が。
黒いようにも赤いようにも輝く星が、どこでいつ、美羽を見出したのか。
あんな声で呼ばれては知りたくもなる。
暖流
白い猫を膝に乗せてパイプ椅子に座り、美羽はその日も靴屋の主人の話に耳を傾けていた。打ちつけた板で入口を狭められた、日の入りにくい店内には早い季節から蚊が出るらしく、美羽の足元には蚊取り線香が置かれている。
「最近はだいぶん左の視力も回復してさ。両目の視界のバランスも取れるようになったもんよ。やっぱりね、視界がはっきりしてるとしてないとでは人間、そりゃ違うよ。心持ちがね」
口髭を生やした店主は温厚な口調で、作業の手が空き、気が向いた時に美羽に話しかける。そしてそれは一旦始まると、立て板に水と言った調子だ。
「しかしさ、りゅうちゃんが女の子の世話焼くなんざ、おりゃたまげたよ。そら、美羽ちゃんは美人さんだし、ちょいと気が強いが良い子だ。だけどりゅうちゃんも難しい子だからねえ。でもあんた偉いよ。その年で親亡くしててさ?声も出せないのに、りゅうちゃんとこ引き取られるまでは、食品加工場で働こうって考えてたんだろ?っかあ~~、健気。健気だよ。うん。りゅうちゃん、ひねてるけど女の子見る目はあったんだねえ」
今日はまたよく喋るなあ、と美羽が思っていると、奥から店主の妻まで出て来た。手に持つコーヒーカップとソーサーは、恐らく美羽の為の物だ。インスタントコーヒーの粉と砂糖をドサッと豪快にカップに入れると、ポットからお湯を注ぎ、どうぞと出される。
頭を下げて受け取り、一口飲む。薄くて甘い。
真白が淹れてくれるペーパードリップ式のコーヒーも美味しいが、ここで出されるコーヒーも美羽は好きだ。
「それで美羽ちゃんはやっぱり、りゅうちゃんのお嫁さんになるの?」
前置きも無くあっけらかんと訊かれるので、笑いそうになりながら首を横に振る。
「あらー、残念だわあ。良い顧客さんが増えると思ったのに。美羽ちゃん、皮のヒールが似合いそうなのにねえ」
痩せて小柄な妻は、そう残念でもなさそうにからからと笑う。
この店は居心地が良い。
広大な和風邸宅よりずっと美羽の気性に合う。
真白や荒太はまだ大学生で、美羽に付き合う時間も多くは取れないと竜軌から説明を受けた時は気持ちが沈んだ。本来ならもっと通学に便の良い自宅に住まう彼らを邸に滞在させ、ここから通学させるだけでも無理をさせているのだとの実情を聴けば、それ以上は何も言えない。だが、気分を紛らわす家事さえさせてもらえずに広い部屋で一人、長い日中何をして過ごせば良いのだ。
美羽の内心の困惑を見越したように、だから暇な時はこの店に行け、と言って竜軌が美羽を連れて来たのがこの靴屋だった。
行きは蘭が送ってくれる。そして夕暮れ前になると。
「おう、りゅうちゃん」
のそっ、と身を屈めて竜軌が入って来る。入口が低いのでそうしなければ通れないのだ。トン、と白猫がタイミングを計ったように美羽の膝から降りた。竜軌のジーンズに身体を摺り寄せるが彼は相手にしない。
竜軌はいつも、帰るぞ、とだけ言う。名も呼ばず、手を差し伸べたりもしない。
しかし今では美羽も普通に笑って、素っ気無い言葉に頷くようになった。
与える砂糖、貰う塩
「将来設計の目途はついたか」
帰り道、電車の踏切のところで竜軌が不意に訊いた。
カンカンカン、と音が鳴り、黒と黄の縞模様が降りて来る。
〝そんな簡単につくものじゃないわよ〟
竜軌の横顔が同意するように微かに笑った。
目の前を電車が通り過ぎて行く。
資金援助はしてやるから好きなように生きると良い、と竜軌に言い渡された時、美羽は自分でも驚くことにショックを受けた。突き放されたようで悲しいと感じる自分に戸惑った。結局はこの世界で、自分の存在に懸命に執着してくれる人間などいないのだ。自分は竜軌に何を期待していたのだろう。
(私を待つ家族がいるなんて夢、信じていた訳でもないのに)
けれどそんな心境はおくびにも出さなかった。プライドの高さは、美羽が持つ数少ない財産だ。誰が相手であれ、誇りだけは譲り渡すつもりはない。
(私は傷つかない)
踏切を渡り終えて竜軌が続けた。
「あの靴屋の親父はな、あれで十年間イギリスで修業した、今では数少ない本物の手縫いの靴職人だ。お前の参考にもなるだろう」
そういう思惑もあったのか、と言われてから悟る。
そして下町界隈を通り家に帰り着くまで、竜軌が無作為に見せかけて慎重に美羽を気遣いながら歩いていることも、最近になって気付いた。
言動や外見からは意外だが、あんな邸宅に育てば紳士的な配慮も身につくのだろうか。
(あ、また)
通り過ぎざま、女子高生が竜軌をこっそり携帯で撮っていた。
竜軌は、ざっくりした黒いTシャツにジーンズというありふれた服装が見映えする人種だ。加えて威風堂々とした空気を纏っていれば、道を歩くだけで注目を浴びる。
他人の目を自覚しながら見事にそれを無視出来るのは、慣れからだろうか。
王侯、という言葉をまたもや思い浮かべる。
日暮れ前、オレンジ色に染まる下町を少女は俯いて歩く。
(私は傷つかない)
一人ではないのに、なぜか独りぼっちの気分で。
泡
真白がクスクスと笑うので、美羽は身体を洗う手を止めて浴槽を振り向いた。
名前の通り、雪のように白い肌の真白が、湯の熱にほんのり上気して笑う様は、同性でも思わず見惚れてしまう。
〝何?〟
メモ帳の代わりに、湯気で曇った鏡に書く。
「さっきの新庄先輩の顔、面白かったわ」
美羽は基本的に人と一緒に入浴するのは好きではないが、真白とたまに風呂でお喋りしたりするのは楽しかった。邸に二つある大きな浴室の内、大理石の浴槽を主に二人は使っていた。今日も美羽が真白と浴室に向かい長い廊下を歩いていたところ、竜軌と荒太に出くわした。
今からお風呂なの、と真白が告げると、男二人は形容し難い表情になった。
更に、羨ましいですか先輩、と尋ねた真白に、竜軌は珍しく表情に不快を露わにした。
「私、新庄先輩に嫉妬されてしまったみたいね」
言いながら尚、湯煙の中で真白は笑い続ける。
美羽の目には、荒太が自分に向けた視線も、いつもより冷たく感じられた。
パシャン、と広い湯船を泳ぐように真白が動く。長い焦げ茶色が湯にたゆたう。
(腰、細い…。柳腰って言うのかしら。…人魚姫みたい)
けれど真白は泡にはならない。
(泡になって消えるのは、きっと私)
身体にお湯をかけながら排水溝に向かう幾つもの白い泡を見る。
「悲しいことを考えないでね、美羽さん」
焦げ茶の髪の人魚が、自分のほうが辛いように微笑みながら語りかける。
「あなたはきっと、幸せになれるわ。だから望むように生きてね。手伝うから」
人魚の声は優しく響いた。
美羽は涙を誤魔化す為にお湯で顔を洗った。
蝶の一歩
鏡台に向って赤い布を払い、自分の顔を見る。
真白のように清楚な面立ちはそこにはない。
たおやかな美しさも。
どちらかと言えば鋭利な、きつい気性が如実に表れた顔。
自分でも優しくなさそうだと思う。
フェミニストとは程遠い竜軌だが、真白には最初から気を許しているように見えた。
彼女には夫がいるが、もしかしたら竜軌は、自分を口実に真白と関わりを持ちたがっているのだろうかと疑ったこともある。
(なれるものなら。真白さんのような女性に、私もなりたかった)
無い物ねだりだということは、よく承知していた。
その日、竜軌は森林公園にいるだろうと教えられた。
雨が降りそうだったので、念の為に傘を二本、借りて家を出た。
一人で行きたくて蘭の同行の申し出は断った。
竜軌に渡したい物があり、籠バッグを抱え、バスに揺られて公園に向かった。
停留所に降りたころには、もう、雫が数滴、美羽の頭を打ったので傘を差した。雨の日は筆談しにくくなるので、なるべく外出を避けていたが、今日は出かけたかった。
やがて本格的な降りになった。
途中、濡れた丸太の階段で滑って転んだ。黄緑のチュニックも茶色のズボンも汚れてしまった。
森林の中を歩いて二十分くらい経った時、ようやく竜軌を見つけた。
彼は黒いカメラを、猟銃のように濡れた樹木に向けて構えていた。集中しているのか美羽に気付かない。雨に打たれるのもお構いなし、という様子だ。
(竜軌)
しっかりした顎のラインから雫が落ちる。
獲物に狙いを定めた野生動物のように綺麗だった。
竜は蝶を追う 言霊