竜は蝶を追う 目の前に、
竜は蝶を追う 目の前に、
目の前に、
「あんた、相変わらずサドやなあ。濃姫もどちらか言うたらSやさかい、ぶつかればこじれるんは目に見えてんのに」
呆れた口調で荒太が言った。彼が関西弁を喋るのは、竜軌の耳にも懐かしい。
「好きな子苛めにはちいと年が行き過ぎやないですか?」
「口が滑った」
「はあ、口が。手も、素早い動きで」
「手も滑った」
「はあ、手も」
茶々を入れてから荒太は吐息をこぼし、赤い手形のついた竜軌の左頬を眺める。
日頃、尊大な態度で通している人間が痛い目に遭うのは、気楽な第三者としては愉快と言えないこともないが。
「…そない嬉しかったですか」
目の前に、焦がれた人が立っている。
その喜び。
(求めた年月が長いほど、か―――――)
荒太にも覚えのある感情だ。
しかし美羽には通じていないだろう。そこが難だ。
「とりあえず、フォローしたらどないですか?その左拳の中にある、香り袋でも渡して。んー、ええ匂いや。最上級の伽羅やな。蘭奢待(らんじゃたい)ほどやないやろけど、金持ちはさすがにちゃうわ」
「お前は目端も鼻も利き過ぎて、たまにぶった切りたくなる」
ぎらりと竜軌に睨めつけられて、冷たい月のように荒太が薄く笑う。
「そらおもろい。出来るもんなら、御随意に?にしても真白さんたち、どこ行ったんやろなあ」
雄弁
広い家の給湯室に美羽は駆け込んだ。家の中を走り回れるという事実が信じられない。
本当は庭に、外に出たがったが、どこが出口か解らなかったのだ。
流しと給湯器の横のコンロに薬缶が置かれ、揃いの艶のある湯呑み茶碗が食器かごに並んでいる。
明るい色目の、木調のテーブルの上にはポット。
馴染んだ施設の感覚を思い出して、少し気持ちが落ち着いた。
だが配置されている水屋箪笥は施設のそれとは物が違う。美羽の目にも判る。
引き戸の種類も一つではなく、光沢のある、重々しい年代物に見える。
材は欅とか、檜だろうか。よく判らない。
「美羽さん」
追いついた真白は息を切らし、困惑していた。
この人を困らせたくはないのにと美羽は思う。
「さっきのは、新庄先輩が悪いわ。あの一発で許してあげて。本当は彼、あなたに逢えてすごく嬉しいのよ。自分の手の届く場所に、あなたがいてくれて」
〝嘘!〟
美羽はメモ帳を突き出した。唇も同時に突き出ている。
「本当」
間髪入れず、真白は真剣な眼差しで答えた。
彼女の目は竜軌のような漆黒ではなく、もっと印象の柔らかい、綺麗な焦げ茶色だった。
真白は声以上に、目で言葉を紡いでいた。
こんな通じ方もあるのだ。
「…極端な言い方をするけど、許してね。例えば、あなたが亡くなったとして。そのことを世界で一番悲しむのは、新庄夫妻でも私でも、施設の人たちでもない。新庄先輩よ。きっと嘆く余り、自暴自棄になるでしょうね」
真白の目に浮かぶ哀れみを、美羽は信じられない思いで見た。
〝嘘〟
それではまるで、愛妻を亡くした夫のようだ。
「本当。私は、そのことを知っている」
真白は揺るがぬ目で言い切った。その目の紡ぐ真実を、美羽は見て取った。
だがそれはまだ彼女にとって、実感から程遠い真実だった。
混乱した頭で目を上げると、給湯室の入口に竜軌が立っていた。
揺り籠
大きな手をずいと差し出され、美羽は驚いた。
仰ぎ見た竜軌の顔は静かだ。
ついさっき自分を平手打ちした女に、どうして平静な態度が取れるのだろう。
大人、だからだろうか。それにしてもさっきの言動はひどかった。
しかしまだ彼の左頬は赤い。容赦せずに打ったことを、少し後悔した。
美羽が手を凝視するばかりで固まっていると、竜軌は伸べた手を引っ込め踵を返した。
他にどうしようもなく彼の背中を追い、真白と共に先程の部屋に戻った。
優しげに整った顔立ちの男性はまだ部屋にいて、美羽に成瀬荒太と名乗った。さりげなく洒落ていて且つ清潔感のある身なりは、荒くれ者のような竜軌とはかなり印象が違う。
真白の夫と聞いてお似合いだと思い、実際そう紙に書くと嬉しそうににこりと笑う。
竜軌とは正反対な柔らかい態度だった。
きっと真白は大事にされて幸福で、だから人にも優しく出来るのだと思い、羨ましかった。 彼は真白と一緒に当分は邸内に留まり美羽を補佐すると告げると、夫婦揃って部屋から退出した。お仕事とか大丈夫なのかしら、と美羽は思った。
あとには竜軌と美羽だけが残り、十畳はありそうな部屋に首がすうすうするような肌寒さを感じた。音は聴こえないが冷房が効いているのだろう、初夏と思えない涼やかさだ。同時に、温もりがないと感じた。人と人が生活する上で自然と生み出されるような温かさが。
蝶と花が描かれた立派な襖。どっしりとした蘇芳色の木の机にテーブル。真新しそうな桐箪笥が置かれていて、壁は珪藻土かもしれない。ドレッサーではなく、艶やかな鏡台が高貴な姫君のように鎮座している。桜皮の、樺細工ではないだろうか。この家ではもう驚くことではないが、高級品だ。今は赤い布が掛かっている。布には金色の蝶が舞っていた。
中学生のころ、ドレッサーが欲しいと我が儘を言って、周囲を困らせたことを思い出す。
ノートパソコンにテレビまで完備され、ガラスの入った障子戸には簾が掛かっている。
小さな床の間には、鮮やかな杜若が黒い焼き物の花器に活けてある。
「お前の部屋だ」
気後れする美羽の気持ちを定まらせるように竜軌が言った。
〝落ち着かないわ、こんな部屋。もっと小さな部屋が良い〟
「我が儘を言うな。もう決まったことだ」
美羽は俯く。長い、波打つ黒髪もその動きに沿って揺れた。
黒髪を追う竜軌の目を、メモにペンを走らせる美羽は見ていなかった。
〝どうして私がここにいるのか、解らない〟
美羽が投げたのは根本的な問いだった。
「…それを望む人間がいるからだ」
〝あなたも?〟
「そうだな」
竜軌は机上に何かを置くと、部屋を出て行った。
物言う伽羅
夜になると、派手な美貌の青年が食事を運んで来た。
蘭と呼ぶように言われたが、男性の名前にしては変わっていると美羽は思った。
〝家族で食事しないの?〟
そう尋ねると、ここはそういう家ではない、と言う返答だった。
何もかもが美羽には違和感だらけだ。
自分にかしづくような青年の態度も、家庭の匂いが微塵もない家も。
竜軌が机の上に残して行った香り袋も。
蘭にその理由を尋ねても、明確な返答は得られなかった。
味気ない夕食後、真白が部屋に来てくれた時は嬉しかった。
「慣れないでしょう、この家。変だものね」
あっさり、真白は言ってのけた。
「……本当は私、あなたにはもっと温かい家庭で過ごして欲しかった。こんなに裕福でなくて良いから」
彼女に、赤に金糸の刺繍入りの香り袋を見せると、目元を和ませた。
香り袋を手に乗せ、目を閉じて香りを嗅いでから言う。
「伽羅ね。それも相当、上質な物だわ」
〝どうして、竜軌はこれを私に?〟
竜軌、と書く時、少し迷ったが、あの男、や、あいつ、ではいけないだろうと思い、そのままの名前を書いた。やはり大層な名前だと思いながら。
「…男性が女性にそんな贈り物をする理由は一つだわ」
〝解らないわ〟
「本当に解らない?美羽さん」
〝解るから解らないわ〟
言い得て妙だと思い、真白は笑いを洩らした。
「そうね。大事なことは直接言わないとね。あなたを、この胡蝶の間に置く理由も」
〝理由って?〟
「いずれそれも、新庄先輩が語るでしょう。…多分」
語尾には若干の自信の無さが滲んでいた。
伽羅の芳しい香りは、美羽の胸に靄のようなものを生じさせた。
(あの人、一体、何がしたいの)
ことごとく
竜軌は浴衣を着て布団の上に転がっていた。
(どうにも扱いあぐねるな)
手元に置けば安らぐもの、と考えていた存在だが、逆に気持ちが落ち着かない。
そこが、美羽の帰蝶たる所以とも言えた。
(難しいのだ、あの女は。昔から俺を煩わせる)
美羽は竜軌より七歳年下だが、既に大人の女性の貫禄はある。
声が出なくて幸いだったようにも思う。
美羽が自分の名を呼び、空気を震わせたなら。
抑えていたものが堰を切って溢れるだろう。
溢れたら、その先は。
「…………」
二度、三度、掛布団を蹴り飛ばす。
逢えば優しくするつもりだった。
柔らかい何かでくるんで安心させ、笑わせたいと思っていた。
(だと言うのに)
この落差は何だ。
自分でも想定外の行動しかとれずに、苛立ちは募る一方だ。
「…美羽」
呟いた途端、部屋の襖が開き、竜軌はギョッとして跳ね起きた。
部屋着姿の美羽が目を丸くして立っている。
パジャマではない、と咄嗟に確認する。
嗤う
竜軌は唖然として、我に返るまで言葉が出なかった。
「――――――――何をしている、お前」
〝これ、返す〟
美羽の掌には香り袋が乗っている。
「その為に来たのか、お前は。莫迦か、頭が足りんのか」
美羽はムッとした顔になる。
〝好みの香りじゃないから〟
この女、と竜軌は思った。
あらゆる悪口雑言を掻き集めて、その綺麗な髪の上から乱暴に降らせてやりたい。
本当に思考能力に欠いているのではないか。それとも常識知らずか。
今の状況が香りがどうこうと取沙汰する場面にしか見えないのなら、本物の莫迦だ。
「そういう問題ではない。夜、男の部屋にのこのこと入るな!」
竜軌の上げた鋭い叱声に、美羽がビクリと身を竦めた。
それでも突っ張るように香り袋を、紫檀の小さな台に置いて立ち去ろうとする。
置く瞬間、脇にあった円筒形の和紙が張られたランプを物珍しげに一瞥した。
「待て」
殊更、勝気で通そうとする顔が振り返る。
「…なら、何の香りが好みだ」
美羽は束の間考えてから紙に書いた。
〝キンモクセイ〟
美羽が襖の向こうに姿を消してから、竜軌は目を閉じてこめかみを押さえた。
一頻り美羽の軽挙に内心で悪態を吐いてから、思い出す。
児童養護施設・ひまわりの庭には、金木犀の樹があった。
(帰りたいのか、あいつは?―――与えてやりたいと思うのは、ただの俺の独り相撲か?)
だとすればこんな滑稽な話もないな、と竜軌は嗤った。
竜は蝶を追う 目の前に、